炎が燃え盛る。 高く高く、目も眩むほどの、鮮やかな陰影を纏って。 朱の花に埋もれ、うずくまる娘を、揺らめく光が照らしている。 前には花、背後には炎。進む事も引く事も叶わぬ朱の絨毯を前に、男はただ茫と立ち尽くしている。 ふたつの朱に囲まれて、彼らに逃げる道など無かった。「すず」 名を呼ぶ声にも、娘は濡れた目で首を横に振る。 もう、退くことなどできないのだと、思い詰めたその瞳が語っている。「こうしなければ、各務さまはここに居てくださらないのでしょう」 わたしの心に。 凛と澄んだ瞳からこぼれ落ちる一滴は、大路で輝く柳燈よりも鮮やかに光を放つ。燃え盛る炎の色を跳ね返して。「昨日の言葉の所為か」 男の言葉に、ぴくり、と娘の肩が跳ねた。自らを抱き締めるように腕をまわして、より小さくうずくまる。「友を連れてくる、と」「……わたしは、各務さまでなければならないのに」 娘の高い、引き絞るような声に、男は己の軽率を恥じ――しかし、意を決して一歩、彼女へと迫る。踏み拉かれた朱が、くしゃりと軽い音を立てた。その小さな響きも呑み込んで、炎が燃える。「引き渡すと思ったのか。私が、お前を? そうじゃない、彼はお前の――」「――なれば」 強い語気で否定しようとした男を、静かな声が遮った。 娘は儚い雪のような笑みをその唇に刷いて、消え入りそうな透明な言葉を紡ぐ。 そう、言うてくださるのでしたら。「どうか、わたしとともに」 噫。 燃える。 燃えていく。 炎の鳥が、ささやかな心違えをはらんだまま。 ◇「燃えるよ」 開口一番にそう言い放って、虎猫の世界司書は伸ばしていた背を丸め導きの書へと目を落とした。「燃えるんだ。南の朱雀が」 そしてまた、意味の通らない言葉を口にする。「朱昏の東の大陸――《皇国》の首都に当たる街・真都の南に、大きな公娼街があるんだけど」 朱金の前肢を延ばし、玩具にじゃれつく猫のようにゆったりと、書の上に開かれた朱昏の地図の上に肉球を乗せた。短く飛び出した猫の爪が、東西を分かつ大河から東に延びる傍流のひとつを指し示している。「川の中州に設置された、ガラス張りの大きなドーム状の街だ。名前は《朱雀縞原(すざくしまばら)》」 そして、旅人たちは最初の予言の意味を理解する。「……その街が燃える、と?」「そういうことだ。最初から言っているだろう?」 余りに淡々と首を傾げる猫に対し、もっと解りやすく言ってくれ、と、旅人たちのみならず隣で作業に従じる世界司書仲間も思ったかもしれない。 呆れ混じりの視線を飄々と受け流して、灯緒は黄金の瞳を集まった面々へと向ける。「真都では今、幾つも事件が併発しているらしい。恐らくはそれらに関連する予言の筈だ。その全ての元凶が同じかどうかは解らないけれど、調べてきてくれないかな」 詳しくは、真都の六角さんを訪ねるといい。 いつもの言葉で締めくくって、虎猫はもたげていた顎を導きの書へと乗せた。 ◇「相変わらず、どこから情報を仕入れてくるやら」 例によって前触れもなく、朱塗りの尖塔を抱いた建物――真都守護軍第六小隊兵舎を訪れたロストナンバーたちを、天沢蓮二郎中尉は快く迎え入れた。臙脂色の軍帽の下、苦笑に似た緩やかな表情を作る。「先日の東雲宮での寒河江大臣殺害の件、そして寺院連続放火事件――穐原卿一家惨殺の件もこれに関連するんだったか――と、この街は騒動続きだ。君たちの手助けがなければ恐慌に陥っていただろう」 微かに肩を笑みで揺らしながら、中尉は机の向こう側に回り込み、旅人たちに向き合う。「存じているかとは思うが、此の街は我々、真都守護軍によって守られている」 机の上に開かれたままの街の地図には、五角を刻むように朱墨で丸が五点記されていた。「この五カ所がそれぞれ小隊の駐屯地の位置だ」 北の第一小隊から順に、時計周りに配置されている。南西の第四小隊の隣にぽつんと小さく穿たれた朱はこの第六小隊兵舎だ。「最初に殺されたのは、第五小隊が管轄する地区に住んでいる、主婦だ。近所へ出かけた帰り、何者かに後頭部を殴られ殺された」 無造作に放り出された骸の傍には血で濡れ、てらてらと光を放つ凶器が捨てられていたと云う。「次の日、全く違う区画で違う死体が発見された」 第一小隊の管轄区で、若い娘が毒殺されているのが発見された。 その次の日には第二小隊の管轄区で、幼い少年が麻縄で首を絞められ死亡している。 その次の日には老年の男性が、橋から転落し溺れて死んだ。こちらは二番目の事件とほど近い場所だ。「それぞれの事件を起こした犯人は既に捕まっている」 そう言って、天沢が開いてみせた手元の帳面には、これまでの被害者と加害者の名が記されていた。 根来幸恵 ― 中町昭平 灰原雪乃 ― 宮田政信 比良坂清太 ― 青島妙 無都重喜 ― 能登志津子 解決しているのなら自分たちが乗り出すまでもないのでは――そう云おうとしたロストナンバーを首を振る事で制し、天沢は表情を一層引き締めた。「手口も標的も一貫性がない。たしかに、一見しただけでは関連のない事件のように思えるだろう」 だが、と臙脂色の軍帽の下から、鋭い視線が旅人達を見据えた。長年培ってきた退魔軍人の経験が、肺の底から込み上げる怖気にも似た予感を見逃してはならぬと訴える。「私には、これらの事件が全く無関係とは思えないのだ」 そして、これだけでは終わらないだろう、と。 何か、途方もない陰謀とも悪意とも付かない何かが、彼の都を覆い尽くしている。それを、世界司書も、第六小隊も顕著に感じ取っていた。「この件に関して不審な点は三つ」 ロストナンバーの目の前で、天沢は三つ指を立ててみせる。「まず、逮捕された犯人は皆、死亡していると言う事」 取り調べ中に突然がくがくと身を震わせたかと思えば、突如身体が発火してそのまま炭になってしまったと言う。冬の乾いた気候の中で、無論取調室内に火種など存在しない。現場近くで取り押さえたその瞬間に燃え上がった者も居り、警察や軍に歪んだ執行人がいると言うわけでもなさそうだった。 御蔭で被害者と面識がなく、素行にも問題のなかった彼らに何の動機が合ってこのような凶行に至ったのかは判らないままだ。「次が、事件現場には必ず“或る物”が遺されていた事だ」 そう思わせぶりに口にして、天沢は取り出した桐の箱を机の上に置いた。柔らかな敷物の詰められた箱の中には、反物が三巻、銅鏡と勾玉がひとつずつ収められている。「これが何なのかは、恐らく君たちならば判るだろう。……問題は、その数だ」 ロストナンバー達の目が訝しげに眇められ、天沢は微かに笑んだ。「――ひとつ、多いだろう?」 残されていた品は五、起きた事件は四。数が一致しないのだ。 軍人の武骨な手が、銅鏡を拾い上げる。罅割れて尚輝く鏡面を裏替えせば、そこには高く打ち寄せる波の図柄が描かれていた。「この銅鏡は、先日寒河江大臣が死亡した、東雲宮の宝物殿入り口付近に落ちていた」「つまり、その事件もこの件に関係している、と?」「そう考えて構わないだろう」 旅人の一人の言葉に、頷きを返す。大臣の命を奪った老婆――茜ノ上の乳母、出海(いずみ)も、大臣の死亡前後のアリバイについて故意に虚偽の証言をした物部護彦(もののべもりひこ)大佐も、依然として行方は知れぬままだ。彼の件は未だ終わっていないと言う事だろう。「そして、最後の一点だが」 そうして最後に軍帽を深く被り直し、天沢はふと言葉を低くした。「事件の起きた直後、四つの現場全てで同じ人物が目撃されている」 机の上にそっと差し出したのは、短髪の男を映したモノクロの写真だった。真面目そうな、何処か思い詰めた眼差しが正面を捉えている。「桂木真之(かつらぎさねゆき)。軍の研究所に所属している男だ」 示されたその名に、心当たりのある者はいただろうか。「目撃証言を受け桂木殿の足取りを追った所、数日前から行方を眩ませていることが判った」 無論、第六小隊の方でもその行方を追ってはいるが、未だ消息を掴むまでには至っていない。 だが、何も解らない訳ではないと、軍帽の下の瞳が小さく煌めいた。「研究所の人間が言うには、桂木殿はここ一年の間、月に一度朱雀縞原を訪れているらしい。――恐らくは、今月も現れるのではないかと踏んでいる」 その日付が、明日なのだと。 桂木に接触し、捕えるなり情報を引き出すには最も都合がいいだろう、と天沢は言う。「……私から渡せる情報はこれくらいだ」 ――どうか、この國を護るため、力を貸してくれ、と。 臙脂色の軍帽を脱いで、実直な軍人は頭を下げる。 ◇ ひたひたと、雫が落ちる音が響いている。 ゆるゆると、灯りの少ない空間で、人影がひとつ揺れていた。 半円形の木枠が、きりきりと細やかな音を立てて巡る。二つ、角度を変えて交叉するそれらは、天の道を模して廻り続ける。 北に黒、西に白、南に朱、東に青――円く描かれた陣の四方に四色の光が浮かび上がり、中央――天の軌道の内側に飾られた剣の柄で、金の小さな光が煌めいた。 部屋の入口付近に佇む男の前に一つ、その向かい側にもう一つ、水を張った甕が室内の少ない光を集めて輝いた。 凪いだ水面に一点、波紋が浮かび上がって、澄んだ水は鏡へと姿を変える。 白と朱の霞の花を抱き朱の光の下を歩く、男の姿が映る。 何処かの石垣の下に身を隠し、荒く肩を上下させる老婆の姿が映る。 円窓の傍で息を吐く幼い面立ちの遊女が、凛とした眼差しの美しい娘が、臙脂色の軍装を着た男が、次々に映し出されて、男は酷薄な瞳を歪めて微かに笑んだ。「……」 ふと、その表情が瞬間的に凍り付く。 男の見守る前で、ぎりり、いびつな音を立てて、動き続ける木枠が軋んだ。東と南に配された、朱と青の光が大きく揺れている。 自然な流れで回る天の道が、何か強い力で以って矯正されようとしている。 男の隣で寝そべるように侍っていた、朱の獣が地響きの声で唸りながら立ち上がる。四色の四肢が地面を掴む。濡れたその毛並みを撫でて落ち着かせながら、じっと男は視線を逸らさない。 引き絞られた黒い瞳孔が、刹那朱い光を燈す。「――それが、王の理か」 吐き棄てるように落とされたその言葉を、聴き届けた者はいなかった。
「ひとつ、いいかい?」 手分けして情報を得る為、二人の旅人はそれぞれに目的の場所へと向かって兵舎を去った。後に残された三人の内、褐色肌に金の髪の、年を重ねた樹木の様なしなやかさを備えた女が臙脂色の軍装を呼び止める。振り返って視線を合わせる天沢に、ダンジャ・グイニは肩を竦めて笑う。 「そんなに畏まらないでおくれよ。あたしは訊きたい話があるだけさね」 「私の知っている事は全て話したが」 期待には答えられないだろう、と眉を下げ、それでも彼女の期待に答えるべく、使いこまれた手帳の紙面を開き眼を落とす。隙もないほど書き込まれた文字が、対峙するダンジャの元からも見て取れた。律儀で、職務に真面目な男だ。 「いいや? あんたなら知ってるはずさ。二番目に死んだ娘が居たね?」 「ああ。灰原雪乃か」 「その死因になった毒はどんなものだい?」 天沢は僅かに首を傾げながら手帳を捲る。しばらくして、手袋に覆われた指が動きを留めた。眼鏡の奥の紫の瞳と、紅の鋭い眼光が、その指先をじと見つめていた。 「ああ……確かに報告されていた。河豚に含まれる毒のようだ。申し訳ない、毒の種類など些細な物かと思っていたが」 「普段ならそうかもしれないね。だが、この事件では重要な情報さ」 「若し、ダンジャ殿」 声を掛けられ、ふとダンジャは口を噤んで視線をずらした。天沢とよく似た、しかし色彩の全く違う軍装の、背の低い男が鋭い紅眼を此方へ向けている。 ダンジャの視線を発言の了承と取り、ヌマブチは引き結んでいた唇を再び紐解いた。 「この不連続な殺人事件について、貴殿には何やら考えがあるのでありましょうか?」 「不連続殺人事件、か」 からからと笑い声を上げて、ダンジャは天沢の広げた地図へと近付くと、穿たれた五つの点を順に指差していった。 「最初の事件、凶器がてらてらと光った、って事は金属の何かだろう? で、次が河豚――魚の毒。それに麻……植物の縄だ」 「……先程から、凶器の『素材』を気にしているようだが」 「そうさね。大事なのは動機でも死因でもない、凶器さ」 其れとだけ言い残すと、表情を変える事なく思考に耽るヌマブチを置いて、ダンジャはしなやかな素振りで部屋から姿を消した。 「さて、貴殿は何処へ向かうつもりだ?」 臙脂色の軍帽の下から、和らいだ眼差しがヌマブチを見る。自らに許可の出せる場所なら紹介状を出そうと、机の上の朱墨を筆に含ませた。 「そうですな……では、まず、被害者の遺体を安置している場所へお願いしたく」 「了解した」 ◇ 外した手錠の重みが右手に掛かる。じゃらりと鉄の環が冷たく擦れる。 村崎神無は黄金の瞳を閉じて、霧の籠る生温い大気にその身を融かし込ませた。駆け回る警官や、軍部の人間達の声が遠くの事のように感じる。 瞳を開けば、そこには変わる事のない現実が広がっていた。 左胸を細く長い木の杭に貫かれ、瞳を閉じた娘が血だまりの中横たわっている。 土御門佐代という名の、士族の娘だそうだ。 「……間に合わなかった、の?」 込み上げる無力感。 神無と同じ年頃の娘だ。死に顔を見ているだけでも、美しく、器量の良さが窺える。 周辺を幽鬼のように彷徨っていた犯人も既に逮捕され、現場近くに連行されていると言う。また突然燃え上がってもらっては困ると、水の入った桶を抱えた警官も待機していた。 犯人に話を聞きたい、と言えば、簡単に通してもらう事が出来た。六角の繋ぎが入っているのだろう。 警官に両脇を掴まれた、痩身の青年が彼女の前にふらふらとした足取りで現れた。 「名前は?」 「紀藤義嗣。この付近に住む学生のようです」 男ではなく、彼を捉える警官が応えた。それを聞きながら、神無は男の様子を観察する。 濁った色の瞳は忙しなく左右に揺れている――否、痙攣している。正気の者の動きとは思えない。案の定、何と声を掛けても、いらえは返らなかった。 「一カ月前ふらっと姿を消して、数日前帰って来た時にはもうこんな有様だったと、知り合いからの証言があります」 「そう……確かに、何かに取り憑かれているみたい、な――!」 悪寒。 男の纏う気が膨張した――ように、彼女の眼には見えた。 眼を瞠る彼女の前で、ソレは朱色の鳥に似た何かを象る。翼のように背中が膨らむ。 「退いて!」 トラベルギアを己が手に呼び出して、神無は一歩で男の懐に潜り込む。 今一度強く柄を握り締めて、鋼の刃を引き抜いた。 退魔の力を持った一閃は、男と魔との繋がりだけを鮮やかに断ち切った。 刹那、ぶわり、と大気が膨れ上がる。圧迫されるように重い衝撃を真正面から喰らい、神無は思わずバックステップを踏んで身を退いた。風がめちゃくちゃに吹きつける。生温い大気が彼女の髪を濡らし掻き混ぜる。 ぐたり、と力が抜けて項垂れた男とは対照的に、膨れ上がった朱の妖気が容を取り始める。切り裂かれた風が甲高い咆哮のように響き渡り、猛々しい嘴と雄々しい翼を広げた、其れは猛禽の姿をしていた。 刀を再び鞘に納める。 身を低くし、神無はただその産声を聴いていた。 ◇ 煉瓦の積まれた、石壁に包まれた廊下はひやりとして冷たい。何処からともなく薄い朱霧が忍び込んで、空間を静かに染めていた。 ヌマブチは軍靴の音を響かせて、広い地下を歩いていく。 「朱霧を研究する施設とは、またきな臭い……いえ、興味深い場所ですな。これも六角殿の?」 「然様。管轄は第零小隊――否、真都守護軍本隊ですが、その研究の成果を我々も利用させてもらっております」 ヌマブチの隣を歩く、背の高い若い軍人が礼儀を忘れぬ固い口調で答えた。天沢の部下に当たる男で、第六小隊に所属する准尉なのだと云う。臙脂色の軍装の襟許で、逆五芒の星が煌めいてヌマブチの紅眼を射る。 「天沢隊長の操る符も、此方で生成された朱霧の墨を用いていまして」 「成程。貴殿もそうなのでありますか」 自然と口を突いて出た問いは、ヌマブチ自身の趣向から発せられたものだ。魔法と化学は似て非なるものとは言え、天沢の用いる結界術は興味深いのだ。 「私には隊長ほどの力はありません。アレを扱うのにも、向き不向きがあるそうで」 素質、と言い変えてもいいのだろう。そう言う意味ではヌマブチのよく知る『魔法兵』と同じのようだ。 「……天賦の才とは、残酷なものでありますな」 「実に」 しみじみと、深く息を吐き出しながら呟いたヌマブチの言葉に、准尉は微苦笑を浮かべながら頷いた。 やがて、二人の歩く先に、大きな鉄の扉が姿を見せる。 「此処が?」 ヌマブチの問い掛けに准尉は首肯で答え、持っていた錆色の鍵を鍵穴に押し込んだ。甲高く、不快な音が響いて、重厚な扉は容易く押し開かれる。 「通常、遺体は病院に安置されるものでありましょう。それがこんな場所に――という事は、やはり」 「お察しの通り、我々第六小隊が此方へ依頼しました。――遺体に、少々不可解な点が遺されていた為に」 褪せた血の匂いが、錆ついて鼻孔を突く。二人が歩くごと、風に煽られてゆらゆらと灯りが揺れる。主の居ない診察台が虚しく横たわる。纏う雰囲気そのものに空々しいほどの冷たさを感じ取り、ヌマブチは軍帽の下で表情を顰めた。 ぞっとしない空間だ。研究所や霊安室というよりは、拷問部屋、と呼んだ方がしっくりくるだろう。 「品は貴殿も御覧になった通り、我が隊にて保存してあります」 立ち止まったヌマブチを置いて、准尉が壁際へと近付く。壁に取り付けられた取っ手を掴み、力を入れて引き出した。この部屋には不釣り合いなほど、白く清潔な布を被せられた長い台がその奥から姿を見せた。台の上に載せられた膨らみはヒトの身体だろう。准尉の視線に促され、ヌマブチもまた足を向ける。 白布を捲った奥からは、血の気の抜けた女性の白い貌が覗いた。頭頂部の陥没した死に顔を前にしても顔色一つ変える事無く、ヌマブチは紅眼を煌めかせて観察する。 「……視るからに、足りませんな」 「此れが一番判り易いかと」 その鼻が、削ぎ落とされたように欠けていたのだ。 頷き、准尉は更に布を捲って女の手を持ち上げる。見れば両親指もまた同じように欠けていた。 「此の調子で、大腸、肺も欠けていました」 「成程。他の遺体は、別の部位が?」 察しの良い言葉に、准尉は再度頷く。 「眼、耳、小指、胆――死体から幾つかの部位が欠けていた。寒河江大臣を除く四人の被害者に共通する特徴です」 司法解剖が終わったのはつい先程の事で、天沢の耳には届かなかった情報だ。 ――かつて、東雲宮で天帝の寵姫が殺された事件があった。 そして、それを蘇生させようとした女が居た。結局その目論見は叶わなず、寵姫の遺体は朱の浸食により宝剣へと姿を変えたと言う。ならば、この遺体の欠損も? 「忝い。もう、充分であります」 「お気になさらず」 暫し考え込んだ後、ヌマブチは遺体から身を離して手短に礼を告げた。准尉も鷹揚と頷き、遺体を元の場所へと戻した後で、ふと部屋の隅に咲いていた花壇の中の花を幾本か摘んだ。それもまた研究の成果なのだろうかと問おうとしたヌマブチへ先んじて、准尉は深く頭を下げる。 「では、私はこれにて」 「――各務准尉。どちらへ?」 冷えた空気の中、よく響く声が男の背中を捉えた。足を止め、若い軍人は振り返る。 「“妻”を、迎えに」 朱色の花束に埋もれ、男は静かに、しかし幸せそうに笑っていた。 ◇ 主の居ない邸はひと気がなく、うっそりと朱い大気の中に凝っているように見える。ダンジャは切り揃えた金の髪を掻き上げて、太陽を覆い隠す分厚い雲を振り仰いだ。この都は曇天すらも朱いのか。 霧の中に隠れるような、ひっそりと佇む屋敷だった。 赤煉瓦の壁には蔦が這い、上ゲ下ゲ硝子戸にまで侵食している。 物部護彦。出自も家柄も判らないながら若くして出世の道を進む男は、真都の西の外れにただ一人で暮らしていた。 来る者を拒むよう頑なに閉ざされた門扉を物ともせず、ダンジャは空間に縫い付けたファスナーを開いてその隙間に身を滑らせる。仕立て屋である彼女の持つ異能の一つだ。門扉の向こうへと転移した女はそのまま、目当てとする屋敷の扉をも容易く開いて中へ忍び込む。 「邪魔するよ」 虚ろな邸内に響き渡る、彼女の声を聴いた者はいない。 ◇ ――先程槐さんにお話を聞いてみましたが、『東国については、僕よりも灯緒さんの方が詳しいでしょう』とおっしゃっていたのです。どういう意味なのです? ――どうもなにも、そのままだよ。槐は西国と北西地方によく顔を出していたから、あの辺りに詳しい。対照的に、おれはロストナンバー時代、東国への帰属を考えた事もある。今年の年越し特別便で、きみに託した朱色の鱗、覚えているかな。 ――やけに大きくて、固くて、神秘的ないろだったのです。 ――だろうね。だって、それは――。 トラベラーズノートに浮かび上がった流麗な文字に、ゼロは珍しくも目を丸くした。 ◇ 刀の柄に手をかける。右手首からぶら下がる手錠の先が柄に触れ、じゃらりと高い音を立てた。しかしそれに頓着する事もなく、猫めいたしなやかな動きで神無は高く跳び上がる。長い足を撓らせて獣の首を打ち据えようとすれば、それはふらりと形を変えて大気に融けた。 「――!」 眼を瞠る神無の前で再び容を取った妖魔へ、霧か、と言葉にならないほどの声で呟く。 朱の霧に充ちたこの國で生まれた妖魔は、身体までもが霧で出来ているらしい。他の妖魔はどうかは神無には判らぬが、少なくともこの敵には物理的な攻撃は通用しないだろう。退魔師としての勘から即座にソレを悟り、手の中の刀を握り直した。 蹴りが効かぬならば、斬るまで。 刃に己の力を乗せる。愚直にも此方へとまっすぐに飛び込んでくる妖魔を、神無は静かな佇まいで迎え入れた。 大きく開かれたあぎと。ぞろりと鋭い朱色の牙が並ぶ――否、此れはヒトの血の色だ。 金の眼を見開いて、刹那、暗澹と沈んだ娘の表情に激昂の色が奔る。 斜め下に構えた刀を、渾身の力で引き抜いた。 一閃。容易く斬り裂かれる、霧の猛禽。容を留める事すら出来ず、ソレはまさしく霧散して大気に融けようと――する、刹那。 ひゅぼっ、不格好な音が上がる。 湿った空気を取り込んで、唐突に顕れた焔は宙を舐めた。 眼を瞠り、一歩二歩と足を退いた神無の眼前で、焔は勢いを増していく。猛禽だった朱を取り込んで、轟々と燃え盛る。我に返った警官が桶の中の水を振り撒いても、弱まる兆しは見られなかった。 「何……?」 畏怖にも似た思いを抱えて、神無は突如現れた焔に茫と魅入った。 この焔に、悪しき力は感じない。 どこか清廉とした、浄めの火の静けさだけを覚えるのだ。こんなにも鮮やかに燃えているのに。悪しき者を焼いているからか、と茫然と考える。神無自身の揮う刃が、鮮烈に閃くように。 事件の犯人たちに、動機も繋がりもなかったと言う。役割を遂行すれば自ずから発火して命を断つよう、何者かに呪で操られていたのかと神無は思っていた。 だが、あの輝きを目にした今なら解る。 あれは呪縛や瞋恚、憎悪などの歪んだ力で生み出されたモノではない。 何かを“護る”ための、力強い意志を感じた。 ◇ 東雲宮はその日、密やかな霧に覆われていた。 「お久しぶりなのです、茜ノ上さん」 「よくぞ参られました」 自ら従者も伴わず応対に現れた女に、シーアールシー ゼロは深々とお辞儀を送った。 「沙霧ノ君さんは、お元気なのです?」 「……あれは最早、ただの器妖です。ゆえに壮健も何もありましょうや」 溜息と共に言葉を返し、しかし盲目の女は薄く穏やかな笑みを刷く。 「して、本日は何用で此方へ?」 先日の事件の縁から、鋭い棘を纏う花のような女もゼロには心を許しているようだった。かける声と、言葉が何処となく柔らかい。 「この國の歴史を紐解きに来たのです。資料庫などがあれば見せてほしいのです」 快く頷いた女は身を翻し、自らゼロを招いた。 然して迷う素振りも見せず、盲目の女が真っ直ぐに向かったのは、東雲宮の地下へと続く階段だった。静けさと、ひやりとした空気がゼロの頬を射る。広い庭園の端に唐突に現れた石造りの階段は、訪れる者を待ち受けるようにただぽかりと口を開いていた。 「……そなたも、何か」 振り返る事もなく、階段に足を踏み入れようとしていた茜ノ上が呟く。彼女の代わりにゼロが振り返れば、庭園の隅の植え込みが音を立てて揺れた。 カーキ色の軍装が、重い裾をはためかせる。 「茜ノ上殿ですな?」 おざなりに敬意を表してみせてから、ヌマブチは二人の元へと近付いた。彼の嫌う、猫のような隙のない動きで。 「数点、質問したい事がありましてな。どうかお答え頂きたい」 「妾に答えられる事であれば、何なりと」 茜ノ上はそのまま、ヌマブチをもいざなって階段を下り始める。二人のロストナンバーはその後を追って、石の造る暗闇の奥へと足を踏み入れた。 「以前、貴殿は反魂の術を試みたと聞いたが」 「如何にも」 「沙霧ノ君さんの話なのです」 長い地下通路の中、三つの靴音だけが反響する。 盲目の女に光は必要ない。灯りを持つのはゼロの役目だった。 「何故、その方法を存じていたのでありますか? 朱の力をその身に取り込む方法と言い、禁呪であれば貴殿のような立場の御方が――」 「神宝十種が持つ力は“反魂”」 詰問にも似て滑らかに問いを並べるヌマブチの言葉を、茜ノ上が端的に遮る。霧に侵食され、朱に染まったままの指先を翳して見せて、女は笑った。 「あれは今でこそ呪具との扱いを受けておりますが、本来は天より齎された紛う事無き神器。故にその用い方も、宝物殿の史書に記されております」 ゼロが首を傾げ、先の事件の際確認した所蔵品リストを思い返す。 「どうして、神器が今では呪具とされているのです?」 「反魂は禁忌の力である……と言うのもありますが、何よりも、それを天から齎した者の方に問題があります故」 「問題?」 「着いたらお話し致しましょう。全て」 「此方です」 暫し、無言の歩みを経て、茜ノ上は足を止めた。 地下道の突き当たりに在る扉を開けた先に、小さな石壁の空間が姿を見せた。部屋と呼ぶには粗末すぎる其処には、壁の四面を埋め尽くす書棚と、床を埋め尽くす織物だけが広がっている。 「素晴らしいのです」 知識欲、好奇心に目を輝かせるゼロに、茜ノ上は静かに説明を加えた。 「此処は國の物語を綴る部屋。かつて夢の中で神託を得たひとりの尼僧が、その生涯を賭して織り上げた世界の始まりの縮図」 彼らの足許に広がる、数多の場面を織り込んだ反物。 或いはこれが己の推測するものでは、とゼロは光零す銀の瞳を俯かせ、じ、と見入る。 「上に乗っても?」 「土足でなければ構いません。此れは所詮複製ですから」 許可を得て、ヌマブチは部屋の中へと足を踏み入れる。並ぶ書棚へと向かい、手の届く高さに在る一冊を試しに開いた。古代のものと思しき、一番世界の漢字によく似た文字が連なっている。 「――神代の昔、天から幾柱かの神が此の豊葦原に降り立ちました」 その背を追いながら、茜ノ上の静かな言葉が入口から響く。 「始めは河内の森に、空と大地の神・丹儀速日(ニギハヤヒ)が」 ゼロが向けた視線の先に、巨大な船を模した岩が大地へと降り注ぐ図が縫い止められていた。 天孫降臨の図はその後も幾つか続き、最後にようやく、朱色の龍と思われる神が海原を往く姿が見とめられた。 「我らが王たる海神・磐余日子(イワレビコ)は最後に、その妹――今でいう妻と共に降臨したとされております」 王は降り立ってすぐ、幾柱もの神が鼎立する豊葦原をひとつにすべく動き出した。殆どの神は戦う意思を見せず王の許に帰順したが、一柱だけ、王の統治を良しとせず、歯向った神が居た。 「丹儀速日は初めに降り立った神として、己が葦原を統べる者と言う自負があったのでしょう。しかし磐余日子の妹がその身を巨大な木蛇に変え、遠い南の海にて暴れる彼を戒め共に永久の眠りに就きました」 少女のように瑞々しく、老婆のように乾いた掌を広げ、女は床面に広がる反物を指し示した。若葉のような青の色彩を纏う蛇が、海の上にその身を覗かせている様が織り込まれている。 遠い南の海に広がる、眠りの島。 「……儀莱(にらい)の事なのです?」 「そう、云われております」 ゼロがかつて訪れた、死と生の綯い交ぜになったいびつな《理想郷》の名を挙げれば、茜ノ上は頷いて応えた。 「反逆を封じた磐余日子は地を統べ、血族に葦原の統治を任せました。その血は脈々と受け継がれ――今も尚、東の國を治めている」 自らを指し示すように、茜ノ上は己が胸に手を宛てる。 「丹儀速日の血族はその後、一地方に封ぜられたといいます」 「――それが、“物部”でありますか」 説明を遮るように、先回りして飛び込んできたヌマブチの言葉に、驚くでもなく茜ノ上は肯定した。 「御明察」 「先の事件の折、物部大佐――殿が、貴殿の事を“穢れた血”と吐き棄てたそうでありますな。故、神職か何かかと思ったのだが」 朱の侵蝕を受け、既にその神威を喪っては居るが、仮にも今上帝の妹、そして神の末裔たる女を正面から罵る事のできる人間など少ないだろう。余程、己の出自に誇りを抱いている者の振舞だ。 「あれは河内の末裔。人の姿をしてはおりますが、妾と同じくその身は霧に浸され変質しておりましょう」 言いながら、女は己の顔を覆うヴェールを摘み、頭の上へと持ち上げた。眼球の全てが朱に染まった瞳が、高貴な娘の美貌の中で異質に際立っている。 河内(かない)。先日他のロストナンバーが調査に向かったと言う、朱霧に鎖された魔の森が広がる一帯。真都の南東に位置する、立ち入りを禁じられた危険な地域だ。 「……神宝十種は、元はと言えば丹儀速日が降臨する際に齎したものと云われております。伝承では八種だったとも言われていますが」 「叛乱を起こした者に由来する神器だからこそ、呪具と扱われている訳でありますな」 「然様。故、物部ならばその扱いを充分心得て居りましょう。妾よりもずっと」 ◇ 邸の一番奥、主の寝室に続くらしい廊下を歩いていたダンジャはふと、壁に掛けられた絵画に見入った。 眼鏡の奥の紫の瞳が、静かに細められる。 “彷徨う枝”の眼が、何もないはずの空間に朱の歪みを視た。 「……隠すなら、もっと巧くやらないとねぇ」 唇に不敵な笑みを乗せる。 ベルトポーチから手早くリッパーを取り出して、その切っ先を歪みに宛てる。手際良く手首を動かしていけば、縫い目が断たれるように、容易く歪みは切り拓かれて行った。 朱の封印を切り裂いて、顕れた空間の裂け目にダンジャはその身を滑り込ませる。途端、噎せ返るような朱の瘴気が彼女と、空間を包み込んだ。 何かの実験施設のような不気味な場所だ。開けた空間の奥、壁の向こう側に大きな水槽が嵌め込まれているのが解る。 それは、巨大な、龍。――のように、視えた。 或いは肥大化した蜥蜴か、守宮か。爬虫類の乾いた鱗を備えた、細長い肢体の巨大な獣が其処に横たわっている。 「……これは……?」 近付いてみても、獣が起きる様子は見えない。 何体もの爬虫類の四肢をひとつずつ切り離して継ぎ合わせたようないびつな体躯。縫い合わせるならもっと綺麗なやり方が出来るだろうに、と仕立屋の眼で思わず感想を零した。 何本もの細い管に繋がれて、朱色の培養液に半ばまで浸された身体はまるで初めから生きてなどいないかのように、呼気一つ見せず丸くなって沈んでいる。 まるで、人間が手足を縮めて眠っているようだ、と。 巨大な肢体と長い尾を持ち、小さな鱗に覆われた姿ながら、ふと、彼女の眼にはそう視えた。 悪寒が背筋を走り抜けるのを感じながら、ダンジャは妖糸を手早く縫い合わせ、蜥蜴を覆う結界の檻を創り上げていた。 ◇ 「色々ありがとうございましたなのです」 最早用はないとばかりに立ち去ったヌマブチに続いて頭を下げ、地下室から去ろうとした間際、ふと開いたトラベラーズノートに記されていた文字がゼロの足を留めた。 『茜ノ上から眼を離さないで』 この筆致は神無のものであろう。ゼロは僅かに首を傾げて、『何故なのです?』と返した。 『不連続殺人事件のからくりが判ったの。見立て殺人よ』 現場に残された品はそれぞれ、神宝十種のものと同じだった。 神宝十種と殺人との繋がりに気付いて、0世界の専門家に事態を説明して意見を乞えば、彼は『神宝十種は五行と陰陽を顕している』とだけ応えたという。譬えば、生玉と死返玉で火行の陰陽を示すように。 神無の言葉を継いで、ダンジャが文字を紡ぐ。 『現場に残された神宝十種に見立てた殺人とするなら、陰陽――男女が、五行に応じた場所で、五行に即した殺され方をするんだよ』 これまでに現れた品は六。 残りは四人だ。 『それなら』 『南――火行の朱雀縞原は男女二人の心中だろう? どちらもが被害者なのさ』 そうとだけ書き残したダンジャは南へと向かうつもりのようだった。ゼロは文字を浮かべたままのノートをぼんやりと見つめた後で、振り返って盲目の女を見上げる。 朱色のヴェールの奥で、龍の末裔たる女はゆるゆると首を傾げた。 「まだ、何か?」 ◇ 朱雀縞原に降り立って、ダンジャと神無の二人は人目につかぬようにすず――予言に現れた娘の居る屋形へと足を向けた。 娘の事情については、主人から少し聞き込みをするだけで簡単に知る事が出来た。そして、彼女に繋ぎを取って貰い、茶屋の一部屋で待つ。 「――すず、と申します」 開かれた襖の向こうで、一人の、少女と呼んでもよいほどに幼い娘が、深々と三つ指を突いた。 誰も足を踏み入れた事のない深雪のように白い袖。美しい一色の白から裾へと近付くにつれ、その色彩は紅へと移り変わっていく。 紅蝶の袖を纏った少女は、貌を上げるなり戸惑いに目を瞬かせた。 「……女の人?」 あどけなく首を傾げる娘に、二人は穏やかに笑い返した。 「騙してごめんなさい。何もしないから、話を聞かせて」 神無の静かな、しかし真っ直ぐな言葉に次の疑問を浮かべるのを止め、娘は首を傾げたまま頷く。その小さな掌の中に握られた燐寸を、二人は見とめていた。 「……あなたの、本当の名前は?」 海に沈む真珠のような、静謐な声が娘の心に沁み込んでいく。 「鈴里(すずり)」 「あなたには、お姉さんが居るわね?」 少女は大きく眼を見開いた。何故そんなことまで知っているのかと、あどけない瞳が驚愕を雄弁に訴えている。 「明日(あけび)さん。……あなたたち姉妹は、幼くしてこの街に売られたんだって聞いたわ」 「それが、何か――」 「すず、って言ったかね。ちょいとババアの話も聞いてくれるかい」 娘の傍に寄り添うように屈み込んで、ダンジャは極力穏やかに声をかけた。すずは微かに顔を上げ、神秘的な紫の瞳を見据える。 「あんたは、何が各務の幸せか、考えた事があるかい?」 少女が小さく頷いたのを見、褐色の肌に笑みを浮かべていい子だ、と語りかけた。 「きっと、彼も同じ事を考えてくれているはずさ。……生きてればいい事があるだとか、そんな事は云わないよ。あたしたちは神様じゃないんだ」 娘の生きてきた路を受け容れて、それでいてダンジャは真っ直ぐに、諭す為の言葉を探す。 「あんたが知らないか知ってるかは判らない。けどね、あんた達を利用しようとしている奴が居るんだ」 細い肩に置かれたダンジャの手が、拳を作り、強く握り締められて行くのを、幼い遊女はじっと見つめていた。首を傾げ、しかしその真摯な言葉を受け容れようと真っ直ぐに目を逸らさない。 「あたしは哀しくて悔しいよ。あんたの覚悟を穢されるようで」 悪人は他者の善意や覚悟をいとも容易く利用する。己が欲を充たす為、野望を果たす為に。――失望を繰り返しながら、それでも人を見捨てられずにいる“彷徨う枝”のひとふりは、唇を噛み締めた。 「あんたも、各務も、心ある人間だろう。苦界で必死に生きてきたあんたの、命がけの選択なんだ。それを勝手に利用しようだなんて、おふざけでないよ」 せめて、この少女と恋人の純粋な想いだけは何者にも穢させたくない、と切に願う。――彼女自身にも。 それは神無も同じ思いだったようで、沈鬱さを常に纏う彼女からは考えられないほどに真摯な、優しい瞳が遊女の貌を覗き込んだ。白い花を抱くその手を包み込むように握る。 「……あとは、各務さんからちゃんと話を聞いて。大丈夫、私たちが傍に居るから」 「鈴里。……今はまだ、死なないでおくれ」 真摯な言葉を正面から受け止めて、幼い娘は戸惑い、繊細な面を強張らせ、しかし確かに頷いた。 ◇ 「成程。妾が被害者になるのでは、と危惧しておられるのですね」 「なのです。できれば六角さんに保護を――」 「ですが、中央でもう一人女が殺されるのならば、妾などよりも余程適任が居りましょう」 引き結んだ唇を解いて、茜ノ上は言葉を紡いだ。慎重に、呪を唱えるようにゆるゆると。ゼロは首を傾げて、女の言葉を待つ。 「適任なのです?」 「然様。妾と同じく、この件に密接に関わりを持っている女が、もう一人」 そう言いながら、女は部屋を出た。石の壁を伝いながら廊下を歩いていく。 「女のひと……」 「そなたも逢うてはおりましょう」 盲目ながら、地下の部屋割を覚えているのか、壁に手を宛てて行く以外に歩行に困惑している様子は伺えない。 覚醒以降彼女が蓄えた、数多の知識がわんわんと反響を繰り返す。女。殺人事件。誰もが注意を置かなかった人物。 ふと、夕陽に染め上げられた、紅の土蔵の情景が重なった。 あの日、彼女の後ろに居た女。 「……出海さんの事、なのです?」 「あの事件の際、何故、ばあやが“燃えなかった”か。その理由を御存知ですか」 「燃えなかったと言えば、神無さんが出逢った犯人も燃えなかったのです」 男から滲み出ていた霧を断つ事で、魔との繋がりを断ち、結局はその魔だけが炎上したとの事だった。しかし、寒河江を殺したはずの出海は誰に祓いを受けたわけでもなく、何故焔の手を免れたのか、ゼロは静かに考える。 「あの焔の出所を、茜ノ上さんは御存知なのです?」 「ええ。あれは防衛機構のようなものですから」 首を傾げるゼロに、女はうっすらと微笑んだ。 「北に水行、西に金行、中央に土行、東に火行、南に木行。龍王の創った理はそのまま、地方を護る力と成っています。――何か、その地を脅かす重大な事態が起これば、自然と其れを排除するように動く」 ソレは傍目には、突然の怪異のように見えるだろう。 朱に浸され我を喪い、呪に操られて罪を犯した人間が燃やされたのも。 「……神無さんは朱の呪いだけを引き剥がしたから、防衛機構はそれを燃やしたと言うのです?」 「然様。そしてばあやにはそれが元々存在しなかった」 出海はただ、茜ノ上の代わりに罪を犯しただけだった。 ――では、何故彼は殺されねばならなかったのか。 「寒河江は自殺を謀った。宴の幕開けの為に、己の身を大地――土行に捧げようとした」 「それを止める為、茜ノ上さんは剣で寒河江さんを殺そうとしたのです?」 肯定。 沙霧ノ君の剣は、金と水の性質を持つ。間違っても土行には属さぬモノだ。 「自ら命を捧げたが故に、あれを逆賊と呼びました。輩の望む結末を止める為に妾と、ばあやは罪を重ねた」 それは或る意味では、この街に掛けられた防衛機構と似ているかもしれない。 云いながら、地下牢に繋がる扉を開く。 「“土行”は御心配なく。先程あなたの同胞に云われ、周辺を捜索しました故」 ――其処には既に、罪を犯した女が一人、“保護”されていた。 ◇ 彩り鮮やかに揺れる柳の灯の下で、ヌマブチは目を細め、眼前の背中に声をかけた。 「各務准尉」 「おや、沼淵軍曹。如何して此処へ」 偶然ですな、と先程別れたばかりの准尉は快活に笑って、ヌマブチの鋭い視線を受け止めた。紅の瞳を閃かせ、カーキ色の軍装の男はただ表情を険しくしたまま彼と、その隣に立つ男を待つ。 「そちらは」 「ああ、先程の研究所の者です。我が隊との繋ぎを担ってくれている」 桂木、と端的に名乗った男は、穏和そうな目で微笑み頭を下げた。ヌマブチは表情一つ変えることなく、慇懃に礼を返す。 「某は調査の一環、と言った所でありましょうか。そういう貴殿らこそ、何の用でありますかな」 言葉尻に滲む棘。准尉はそれに気付かずとも、隣の桂木は顕著に感じ取ったようだ。凛と問い正すような目が、ヌマブチを窺う。 「私は先ほど申し上げた通り、妻に逢いに。彼は墓参りだそうです」 准尉は別れた時と同じ朱の花束を、桂木はまた種類の違う薄紅と白の花束を抱いていた。朱色の硝子のドームから降り注ぐ光が、桂木の抱く花を朱に染める。 「墓参り?」 首を傾げてヌマブチは桂木に目を向けた。 「かつて、ここで死んだ女性が居ました。厳密には墓ではありませんが……今日は、彼女の月命日ですから」 月に一度、この場所を訪れていると、天沢はそう言っていた。それはこの為かと一つ納得し、ヌマブチは顎を引く。情人の死を今も忘れられず、彼女との心中の場所に足を運んでいるのだろう。 ――噫、色街には腐るほどよくある話だが。 心中も、道連れも、沼淵誠司には理解できない結末だ。 「一方的な狂愛程身勝手なものはない――と、そうは思いませんか」 彼らに背を向けて、隻腕の軍人はそれとだけ言う。冷淡だが感慨を籠めた声が、事情を呑み込めぬ二人の心をざわめかせた。それ以上は何も答えず、ヌマブチは大路の人混みに融けるように足を進める。 「……彼女の闇を捨て置き、何も返そうとしなかった男もまた、愚かでありますが」 軍帽の奥に隠した紅の瞳には、苦々しい自嘲の色だけがあった。 ◇ 自らの身を徐々に巨大化させていきながら、ゼロは色街の座す傍流の河を渡っていた。両手に恭しく掲げ持つは朱の宝剣。 「沙霧ノ君さんのお力をお借りするのです」 朱色に凝る、宝玉のような光沢を持った其れは剣の姿をしているが、本質は霧――水行に属する。元となった娘自身の名と同じように。或いは娘の名を映したからこそ、霧の性を持つのか。 朱雀縞原を一掬いできるまでに巨大化したゼロは、その手の中に持っていたが故に彼女と同じように巨大化した沙霧ノ剣を中洲の隣へと突き立てた。大きく水面が揺らぐ。突き立った場所から水が溢れ返り、色街を覆う硝子に跳ね跳んで遮られた。 深い朱色の刀身に、一条の罅が入る。 それは見る間に広がって行き、蜘蛛の巣のような形を為した後、ぱきん、と娘の声のような軽やかな音を立てて刀身が砕かれた。朱の鋼が無数の破片になって散り、刹那細かな水の粒子――霧へと姿を変える。 まるで生きた蛇のように、それらは静かに水面の上を這った。 深い霧が、ドーム状の街へと沁み込んで行く。 其れと共に、一度巨大化を解いたゼロもまた街へと忍び込んだ。 ◇ 大路沿いに軒を構える茶店へ、臙脂色の軍装を着込んだ男――各務准尉は姿を見せた。 すずの後ろに控えるようにして待つ二人の女性に面喰らいながら、朱の花束を抱いたまま中へと足を踏み入れる。 「すず」 娘は男の声に顔を上げ、一度表情を輝かせようとして、しかしすぐに引き締めた。 「各務さま。……逢わせたい方、というのは」 臆病が故に引っ込みがちになる言葉を、なんとか奮い立たせて紡いでいく。 「ああ、此方へ連れてきている。何でもおまえに言いたい事があるらしい」 「いいたいこと」 かくり、と危うげな仕種で首を傾げ、男の言葉を鸚鵡返しに問いかける。 「淡雪太夫――おまえの姉上の、情人(こいびと)だった男だ。おまえの話をしたら、一目会って謝りたい、と聞かなかった」 聞き出してみれば、ソレはあまりにも呆気ない事実。 そんな説明と共に彼の後ろから姿を見せたのは、穏和な顔立ちのひとりの男だった。ヌマブチが見たという花束は、既に太夫の部屋に手向けしまったのか、持っていない。 「君が、鈴里か」 「……はい」 「済まなかった。君の姉上を、死なせてしまって。……私だけが生き残って、しまって」 深く、深く頭を下げる男に、すずはただ呆気に取られていた。握り合わせた両手が思わず、温度を失くす。 「私が彼におまえを譲り渡すと思ったのか?」 震える娘の手に、准尉の手が重なる。強く、二度と離さぬとでも言いたげに握り締められる掌。手渡される花束。白の花と、朱の花が混じり合い、淡い色彩で少女の胸を飾る。 「わたし、は……!」 花束を抱え泣き崩れた肩を抱いて支え、ダンジャは優しくなだめた。 「すず、しっかりと話をお聞き」 「……っ、各務さまにとって、わたしは一人の遊び女にすぎぬのかと」 「そんなはずがない。すず、私はおまえの身請けを考えて――」 刹那。 各務の明るい声を遮って、すずの手にしていた華が燃え上がった。 「――!」 「すず!」 甲高い悲鳴を上げ、少女が花束から手を離す。幸いにも服に燃え移る事はなかったらしく、胸の前を黒く焦がしながら蹈鞴を踏んだ娘の背を神無が慌てて支えた。 「大丈夫……?」 視界の先ではダンジャが、即座に妖素を用いて燃える花の周辺を結界で包み込んでいる。勢いよく燃え上がる朱色の炎が、しかし結界を越えられずにもがく。何とか延焼は防げそうだ。 「何見てるんだい、水を持ってくるんだよ!」 何事かと廊下で立ち止まった下男に鋭く声を掛ける。 かつての己ならば水を生成することも不可能ではなかった。あと一歩の無力さに歯噛みをしながら、炎を逃がさぬよう糸を繰る手に力を籠める。 「すず、怪我は――!?」 「胸のあたりを火傷しているわ。多分妖火の類ではないから、水が届いたら冷やしてあげて」 我に返りすずへと駆け寄った准尉へ彼女を託して、神無は立ち上がる。 店の外が、大路が、やけに騒がしい。何かが迫っている――確信は出来ないが、そんな予感だけが脳裏を駆け廻っている。 窓越しに見える柳燈の光が不穏に揺れたのを見、しなやかに大地を蹴って娘は駆け出した。 大路を覆い尽くすは朱の霧。 それがかつてこの街に囚われていた娘の成れの果てだと知る者は居ない。 男を包み込む女の身体の如き柔らかさで、霧は街を這う。何処か白く清廉な光を孕んだ霧の中では、悪しき者は白々とその身を暴かれるのみだろう。 大型の猫のような身のこなしで飛び出して、先ず目に付いたのは、光を孕んだ朱霧の中で蠢く黒だった。色彩こそは周囲と同じ朱を纏っているが、すぐにわかる。そこだけがまるで淀んでいるかのように見えるのだ。 滲みだした霧は、神無の見つめる前で一カ所に集い始める。 その動きにふと既視感を感じて、神無はトラベルギアを呼び出した。左手に鞘を、右手に柄を。退魔の力を籠めて握り締め、今一度人混みの中を駆け抜ける。 淀み、歪みながら、霧が容を変えていく。長い四肢と隆々たる体躯、太い尾を持つ獣に似た姿に。それと共に、朱の四肢が色彩を変じた。白、青、金、黒。五色の彩を備えた獣が、天を仰いで咆哮する。その喉元を目掛け、神無は肉薄すると鋭く抜刀した。 引き裂かれた霧が大気に散る。振り抜いた右腕に、手応えは全くない。 「――何……!?」 叫び声ひとつ上げず、霧は再び獣の容を取った。神無を嘲るように。――かつての報告書では、簡単に追い払う事が出来たと言うのに。何が彼の獣に力を与えているのか、黄金の瞳を細めて思考を巡らせる。 獣はしかしこの状況では不利と感じたのか、身を翻して再び霧に融ける。大気が温度を下げ、集う霧が少しずつ氷に、雪に変わろうとしている事に気付いたからか。國を想う姫の霧は獣の足先を氷に換えたが、その動きを止めるまでは至らなかった。 「逃がしゃしないよ!」 声と共に、神無の背後から鋭い何かが投擲される。妖力で出来たそれは、不定形の獣の氷の部分に確かに突き刺さった。それで充分だ、とダンジャは唇を曲げる。 光の霧の中、闇は何処かへと姿を消す。 「各務准尉」 ヌマブチのよく通る声が、戸惑う若き軍人の背を捉えた。すずを抱きしめたまま周囲を窺っていた彼は、背筋を正してヌマブチを振り返る。 「沼淵軍曹」 「その娘を連れて兵舎へ戻る事だ。敵が貴殿らを狙っているのは充分理解しただろう。天沢殿ならば、貴殿らを護る程度の力はある」 「そうさね、それが一番安全だ。あたしも結界を施してやるから、あんたたちは暫く南(ここ)には来ない事。いいね」 言うや否や、何もない空間に縦に針を走らせたダンジャが、縫いつけたファスナーを開いて見せる。その向こう側に広がるのは、色街ではなく、六角の尖塔を頂いた家屋の、白塗りの車寄。見慣れた真都守護軍第六小隊の兵舎が眼の前に現れて、各務はただ茫然とそれを見上げていた。 「この騒ぎだ。娘の一人や二人消えた所で、問題にはならないだろうよ」 その後戻って来てけじめを付けるか否かは彼らの問題だろう。今はただ、生きてほしい、とダンジャはそれだけを願う。 「それと、桂木殿」 「はい」 鋭い紅の眼差しを受けても、男は動じなかった。 「――何故、事件現場に姿を見せた?」 己が疑われると判っていて。 言外にそう滲ませた問い掛けに、男は唇を引き締め、言葉を探しているようだった。 必ず、事件の起きた“後”に現れた男。 「……止めたかった、のかい?」 ダンジャの優しい言葉に頷いて、桂木は己の掌を見下ろす。 「私の研究が、國を脅かすものだと知って――大佐の真意を知って、止めなければと思った。しかし、私一人の力ではどうにもできないほど、都は広い」 今日、ここへ現れたのも、二人を護る為だったと男は語る。 「せめて、次に誰が狙われるかが判れば――」 「判るさ」 惑いと無力に打ちひしがれる男の声を、やんわりと遮って請け負う。ここへ来て、ようやくダンジャには全てが見えた。ジグソーパズルの、最後の一つのピースがはまるような感覚。 「あんただよ、桂木真之」 唐突に指し示された男は、目を瞠る。 中央、土行によって殺されようとしていたのは寒河江と出海。 北、水行によって殺されたのは灰原と無都。 東、木行によって殺されたのは比良坂と土御門。 西、金行によって殺されたのは根来。 そして、南――火行によって殺されようとしていたのは、各務(かがみ)とすず。 「鏡と、鈴か」 「五行の相克に対応した名前を持った人物が、殺されてるんだよ」 そして残されたのは、木を冠する名を持った男のみ。 「それが……私だと」 「残念だが、他に該当する人物全てを保護し警戒している時間はない。貴殿は己の命を優先し、あとは兵舎に戻りがてら西地区――第五小隊にも繋ぎを取って頂きたい」 「……承知した」 説明に納得したのか、桂木はダンジャの造った切れ目を潜る。それを見送って、神無は瞬間、黄金の瞳に物憂げな色を浮かべた。 脳裏に焼き付く光景。 木杭に穿たれた娘の死体。 「……もう少し早く、この法則に気付けていれば、彼女も助かったのかしら」 「過去の話を蒸し返しちゃならない。あたしらには、まだ護らなきゃなんない人たちがたくさんいるんだから、さ」 ファスナーの向こう側に自らも身を潜らせながら、ダンジャは静かに言葉を置いた。神無もまた、気丈な眼差しで頷く。 ◇ ダンジャの刺した針には、彼女の操る妖糸が添え付けられていたらしい。自身の妖気をさながら糸のように手繰って、彼女は妖魔の痕跡を辿る。 広い川の水面を横切って、岸壁に造られた水道へとまっすぐに妖魔は逃げ込んでいた。 「水道――成程、火行の護る街で動くにはうってつけでありますな」 「龍王さんの司る朱は水行と相性がいいのです。その為かも知れないのです」 今更退く理由など何処にもなく、四人は絶壁の横腹に空いた大きな穴から水流を遡る。 地下道を登って行くにつれ、次第に水に朱の色が混じるようになる。 血の濁流にも似た水道にうすら寒いモノを感じながら、しかし糸を手繰る手を止める事はない。 そして、暫く無言で水を遡った先、唐突に開けた場所に出る。 其処に、男は居た。 壁に穿たれた穴から落ちてくるのは、水の形を残した膨大な量の朱。ごうごうと轟く瀧のような水流に鼓膜を支配され、しかし何処か静けさを残したまま、男はおもむろに振り返った。広い空間の中、四方に配置された四色の光が目を射る。赤茶けた色の髪。徽章を幾つもぶら下げた、高官の軍装。軍帽を被っていないその額に、小さな鱗が幾つも貼り付いているのが見て取れた。 警戒に気を張り詰める神無を残し、ゼロは一歩、気負う事もなく歩み出る。 「――物部護彦さんなのです?」 白い少女の愛らしい声に名を呼ばれ、男は片眉を持ち上げていらえの代わりと為した。鋭い視線を放つ、その瞳がぎらりと光を跳ね返す。 どこか光沢のある、レンズめいたその眼球。漆黒であるはずの瞳孔が時折、光の加減で赤く煌めく。この人工物のような瞳は何だというのか。猫に似た黄金の瞳を細め、神無はじっと男を見据える。 「何か」 物部は煩わしげに眉を顰め、神無の視線を返した。怜悧な面が一層鋭くなり、氷の彫像のように研ぎ澄まされる。 「……ここ数日、真都で起きている七つの殺人事件と、殺人未遂事件。犯人はあなたなの?」 「それが如何した」 凛とした挙動に、否定も誤魔化しも一切ない。 「私を止めるか? やってみせればいい」 「いいえ、ゼロにはまだ判らない事がたくさんあるのです。お話を聞かせてほしいのです」 「随分と悠長なことを言う娘だ」 能天気なゼロの言葉が気に障った風もなく、男は朱の瞳を細めて嗤う。どこか他を見下したような物言いと、世の全てを倦んだような表情が男の冷徹さを際立たせている。 それ以上は何を言うでもなく背を向けた男へ、ゼロは了承の意と取り、再び口を開いた。 「こんな事をする理由はやっぱり、龍王さんの分けた大陸を一つに戻す為なのです?」 「――世界を在るべき姿に戻すと言う意味であれば、そうなるな」 手袋に覆われた掌を、虚空へと翳す。宙を滑る四つの珠の内、金と青の光が強く輝いて、垂れる三枚の布に光景を映し出した。霧に覆われた煉瓦の街と、花咲き乱れる賑やかな町。東と西の姿を。 「この世は、元はひとつの国であった事は貴様らも存じていよう?」 まさか知らぬとは言わせぬ、と試すような朱の視線を受け、ゼロは頷いた。 「それを、彼の不届き者が断ち割ったのだ。彼奴は世を回す理を己の好きに造り変える。己が玉座を手にする為に」 淡々と、怒りを抑えて語る瞳には、静かな憎悪の色だけがあった。 「ゼロは北の地で鬼面の女妖さんと出逢ったのです。あなたと彼女とは仲間なのです?」 「仲間?」 ゼロの問い掛けを、鼻で笑う。 「あれは穐原を呪うモノ。私は皇を呪うモノ。同じにしてもらっては困る」 嘲るようないらえ。 朱色の双眸が、また、ぎらりと硝子めいて煌めいた。 「死体の傍に置かれていた神宝は模造品だな?」 模造品――と呼ぶのが正しいかは判らないが、あれらは骸の一部が変じた朱の残滓で出来ていた。儀式を行う際の証、或いは力の写せ身のようなものだろう。本物は今、彼らの眼の前に在る。 「これは元々我らのモノだ」 ヌマブチの問いに、男は素直に頷いた。 「十の死で理を塗り替える。そうして初めて國の護りに綻びが生まれる」 東に火行、南に木行。 かつて、丹儀速日を鎮める為にねじ曲げられた五行の循環の歪みが、男の朱水晶の瞳にはよく見える。それを糺す為に、強大な負の力で國を揺さぶったのだと男は云う。至極当然の事のように。 「十の命を神器に充たす。そうして初めて、禁忌の術は成り立つ」 四の宝珠と二の水鏡、三の比礼と一振りの剣。 広い空間にまるで陣でも描くように配されたそれらの幾つかは、既に不穏な光を燈している。 「そんなことはさせないわ」 十の死は、ロストナンバー達の奔走によって完璧を欠いた。物部の方もそれを理解していない訳ではなかったらしい。まったく異界の者とは忌々しい、とまるで楽しそうに笑う。 「見よ」 男が促したのは、彼女たちの入ってきた入口にほど近い場所に在る、大きな水甕だった。ゼロが常の好奇心で以ってその傍へと迫り、水面に顔を近づける。 小さく広がった波紋の後に、澄んだ水面は或る情景を映しだした。 花咲く南国の島。鮮やかな青の合間に取り残された、眠りの国。 色とりどりの樹木と、花に囲まれた、小さな離れ小島の姿が水面に描き出される。 「儀莱なのです」 ゼロの断言を聞くまでもなく、見紛いようもなかった。 「都に入り込んでより、私は彼の神が収まるべき器を求め続けた。――しかし、そんな事をせずとも、初めから器は在ったのだ。遠き南の地に」 「それが、桂木殿の研究の内容でありますか」 「是。彼奴は己に与えられた役割を疎んじていたようだが……この研究の大切さが判らぬとは情けない」 だが、それも今となっては必要のない事。くつくつと笑いを零しながら、ひどく愉快そうに男はわらう。 「反吐の出る男だね。……あんたの家に隠されていた実験体なら、結界に閉じ込めて六角に回収を頼んであるよ」 「“あれ”さえ手に入れば、そのような中途半端なモノは必要がない」 「――人の命を弄んで、何がしたい!」 黄金の瞳を猫のように煌めかせ、神無が叫んだ。己の目論見の為に人の命を、覚悟を、愛情を、全てを利用するこの男は許し難い。正義感の強い娘は喉から激情を絞り出すように、怒りを真っ直ぐにぶつけた。 「決まっている」 振り返った男の貌は、能面めいて無機質に、人の情を欠いていた。 「我が一族の汚名を雪ぐ。我らが神を黄泉還らせる。彼の不逞者を退け、正しい世を――」 銃声が、轟く。 ◇ 背後から響いた音に、神無は思わず振り返った。 立ち上る硝煙、その奥に光る、紅の双眸。 「ヌマブチさん!」 「煩い口を黙らせただけであります」 拳銃を袂に戻し、紅の瞳を引き絞ってヌマブチは表情一つ変えずにそうのたまった。片腕では銃剣は扱い辛い、と念の為六角の兵舎から拝借してきたものだが、まさか使う機会が来るとは、といびつに唇を歪める。片腕での狙撃にはまだ慣れぬのか、狙いは外してしまった――男の額を狙ったはずだったのだが。 ふと、見下ろす男の死体が、がたりと音を立てた。 ひとりでに身じろぐ腕。 朱水晶で出来た瞳が、ぎろりとヌマブチの方を睨み付けた――気が、した。 「――矢張り、そうか」 眼前に広がる光景に、自嘲に唇を歪める。何処までも逃れられぬ定めだと言うのか。 胸を撃ち抜いただけのはずが、大きな音を立てて崩れた身体はいつしか四肢と胴体に分解されている。まるで支えを失くした絡繰人形のように無造作に打ち棄てられた骸が、不意にぐらりと起き上がった。 「っ!?」 神無が僅かに青褪めて、一歩、足を退いた。 きりきりと弦の引き絞られるような音を上げながら、組み立てられて行く四肢。針と螺子とバネと硝子によって、造りかえられていく生身の人間の身体。ヌマブチの開けた左胸の穴が、歯車のような音を立てて埋められていく。 人の容を取り戻した絡繰の、朱水晶の如き煌めきを落とす、硝子の双眸がぎらりと旅人たちを視た。 「私は、選ばれしモノ。この世界を治めるべき王の、正当なる後継者」 刀の柄を強く握り直し、神無が黄金の瞳を鋭く細める。 「どういう事……? これも《朱》の――」 「否、これは霧によるものではないだろう」 冷静にそう言ってのけ、ヌマブチは絡繰の音を立てる男の双眸を指し示した。硝子の、水晶の、宝珠の煌めきをした朱。 「――“世界計の欠片”だ」 両手を小さく打ち合わせたゼロもまた、頷いて見せた。 「なるほどなのです。やけに世界の構造に詳しかったのも、理に固執していたのも、そのためだったのです」 世界計の欠片は、その世界に相応しいものに形状が変化する事も有り得るのだと言う。つまりこの世界へと落ちてきて、機構の破片であったソレは朱色の硝子片のような何かの容を取ったのだ。 ――龍神が、東西南北にひとつずつ、四つの理を珠に籠めて配した。 つい先日訪れた北の山で、老婆がそんな伝承を口にした事を、ゼロは思い出していた。世界の理を象徴するのが珠であれば、世界計の破片が珠に似た形を作る事もおかしくはないのだろう。 ――不意に、水音が已む。 異変に顔を上げた四人の前で、流れ落ちていた筈の多量の朱が、細やかな霧へと瞬時に姿を変えた。 響く咆哮。 遠雷のような轟き。 一度大気を強く震わせて、耳鳴りの残る中、ソレは姿を顕した。 朱の霧を散らせながら、大きな二対の翼をはためかせて、異形の鳥妖がその姿を形作る。巨体に似合わぬ小さな貌は罅割れた鬼の面に覆われて、嘴のふくらみもなく、人の頭部が無理矢理接着されているようないびつさがあった。 霧は何処にでも忍び込める。 猛禽の巨体でありながら、地下に姿を顕す事も可能だ。 臨戦態勢をとるダンジャと神無の背後で、遠き国の軍人は紅の瞳を見開いた。 「玖郎殿……!?」 その、二対の翼に異形の戦友の姿を重ね視て、ヌマブチが上ずった声を上げる。面影を残すだけで、本質的には違うものだと理解していて尚、彼を思い起こさずにはいられない姿。 妖魔はいらえる事もなく、罅割れた蛇の面をぐるりと回した。何者かを探すように。 「どうしました、母上」 物部は――既に異形と成り果てた男は、朱水晶の瞳で愛おしそうに空を仰いだ。霧で出来た猛禽を。瞋恚に貌を歪ませる蛇の面を。 恭しく、まさに母が子にするような愛情を籠めた仕種で鳥妖が頭を垂れる。 「――いえ。此度の計画は失敗です。ですが成果もある。仕切り直しと行きましょう」 独り言のようにも見える言葉。それは確かに、男の前の鳥妖に向けられていた。 手袋を嵌めた手が、すい、と背後も見ずに招くように動いた。それに応えて、空間に配された十の品の内、朱と青の光を放つ二つの勾玉が高く浮かび上がって、男の掌の中へ収まった。 朱と青、陰と陽。勾玉を二つ組み合わせれば、完全な珠となる。 「此の宝珠と鳥船が在れば海の禁忌を越える事など容易い。我らが王を迎えに行くのです」 その言葉に、猛禽が小さく頷いた。 そして、天井――地面を突き破って、機構の鬼を乗せた鳥は高く、高く飛び上がって行く。誇らしげに二対の翼を広げて。 「待て!」 神無の声にも、応える事はなく。 開かれた穴から降り注ぐ夕陽だけが、彼らを照らしていた。 ◇ 赤と青の陰陽宝珠が飛び去って、遺された八の神器は唐突に鳴りを潜めてしまった。先程まで不穏な輝きを見せていたが、今は気味が悪いまでに静かだ。 「ゼロはひとつ、気になる事があるのです」 都の地下から、國を揺さぶろうとした天神の末裔はもういない。彼が何処へ飛び去ったかも定かではないまま、野望の残滓だけを残す儀式場に散る瓦礫の一つに腰かけて、ゼロは口を開いた。 「確かに“世界計の欠片”なら、世界を造り変えることは可能なのです」 彼の末裔は、遠く離れた《理想郷》――龍王がその渡航を禁じたはずの儀莱の様子までも観測できる機構を十の神器で創り上げた。 「でも、龍王さんが世界の理を弄ったのは世界計が砕かれるよりもずっと昔の事なのです。龍王さんが世界計の欠片を使用することは不可能なのです」 「道理でありますな」 長く共に行動してきた者の手で、美しい硝子の機構が砕かれるのを視ていたヌマブチが頷いて、翳りを落とした紅眼を深く被り直した軍帽の下に隠す。目の前で視ていたのに、誰よりも傍に居たのに止められなかった。彼を抉った機構の針の如く、胸を刺す鋭い痛みがあの日の光景と共に蘇る。 「では、龍王さんは何の力を使ったのか? ゼロは、其れを知るかもしれない方に聞いてみたのです」 ゼロの知る限りで“唯一”龍王と面識のある者。 灯台下暗し、とはこの事を云うのだろうか。――0世界から出られぬ者が、異世界の有力者と面識がないなどと、誰が決めたのだろう。 首を傾げる三人に向け、ゼロは己のトラベラーズノートを開いてみせた。静かに浮かび上がる文面。 『ゼロ、きみの察する通りだ。 ――朱昏の龍王は、“世界計”を所持している。』 それは、僅かの感傷と、驚嘆を含んだ賛辞。 猫の手によるとは思えない流麗な文字で、そう綴られていた。 <了>
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