「ゼロは図書館の資料で読んだのです」 西国の遥か北方では朱が朱い雪として降り積り、朱い氷となるそうなのです。 そして其処には霊峰の神々を崇める『神夷』という人達が住むのだと。 図書館で朱昏の記録を当っても神夷に関する詳しい記述は無いのです。 此の話に興味を覚えた方、ゼロと御一緒して頂けませんか?「なのですー」「だって」「いいんじゃないかな」「灯緒は詳しいですか?」「大体きみと同じくらいだ」「じゃ、今日は白騙ですね」「集まったら起こしてくれ」「はいですよう」 身振り手振りの仕草も幼い真白な少女の誘いを隅っこの卓で窺い乍ら、雀斑顔と斑猫は己の職務を鬼面の主にほぼ丸投げする方向で、毎度の通りに合意した。 ――朱昏。 ――神夷。 その語を耳にし、真っ先に席を立ったのは鉛の兵隊ならぬ隻腕の軍人。背筋を伸ばし床をコツコツ鳴らす様は見目より幾分か大きく思えるが――ー小男はやがて少女の前に到り、帽子のつばを僅かに下げておどけ気味に云った。「今、神夷と?」「うんとね、初めましてなのです。確かに云ったのです」「唯の好奇と親近――否、最早そればかりとも云えんが」 識りたい事がある。軍人は複雑な心境を言葉足らずに滲ませて、呟いた。「ロストナンバーには『好奇心は大切』だそうなのです」「ならば尚更であります。同行しても宜しいですかな?」「是非御一緒しましょうなのですー。…………」 少女は唯でさえ大きな瞳をぱっちり開いて、じーっと小男の三白眼を見詰める。 軍人は目を瞬かせた後、片眉をつり上げた。「某が何か?」「何かでフリフリの服に身を固めたお姿を拝見した覚えがあるようなないような気がするのですが、」「懼らく夢でも視たのでありましょう」「なのですー」 夢現の境を和やかに笑う二人。「とりこんでいるならば間をあらためるが」「フリフリが如何かしたか?」 其処へ訪れたるは、矢張り夢現ともつかぬ者達だ。「これは玖郎殿。それに」 軍人が互い違いの聲に振り向けば、見知った験者の装に袴姿の若者が並ぶ。「雪深さん玖郎さん、いらっしゃいなのですー」 少女の迎え言葉に、軍人と、終と喚ばれた若者が共通の知人と思しき鳥妖を向いた後――特に応えも無かった故か――今度は互いの顔を物珍しげに見た。「ゆきみ……雪深、終殿か」「貴方は?」「きっとヌマブチさんなのですー」 すかさず少女がひょいと手を示し、未だ聴いても居ない筈の名を口にする。「そうか……。名前はよく」「某も名前だけはよく」 男達は、如何やら合点がいったらしい。 二人の挨拶を兼ねた目配せを経て、玖郎の外は思い思いの席に着く。 そして少女の言葉を皮切りに、四人は向わんとする土地について話し始める。「えっとね、お二方の朱昏でのご活躍はゼロも報告書で拝見しているのです」「云われる程の事も無い、が……」「では神夷にも赴いた事が?」「しかり。だが先は極一面をさらったにすぎぬゆえ」「噫。人里には触れなかった」「朱昏に明るいお二人がご一緒してくださるのは心強いのですー」「ゼロが往くと云うなら、是非」「そこにすまうものたちの生態をさらにしることがかなうならば」 事ある事、誰彼問わず神夷の名を唱え、各々の思惑の一端に触れる。 中でも鳥妖のそれが独特だったのは、人ならざる価値観を思えば無理からぬ事。「――神夷へ往くのか」 彼らと等しく興が乗る者が耳聡く聴き付けるも、また然り。 仮令鍛え抜かれた巨漢が突然卓上に影を落そうとも、決して驚くに値しない。「十三殿」「暫くだ。……視た顔ばかりだな」 セカンドディアスポラ以降、此の場の誰より早く神夷の名を識った熊の如き退魔師は、一同に眼を向け、空席を確かめてから視線を発起人の少女の目に留めた。「其の話、興味がある。俺の分の切符も頼めるか?」「歓迎なのです。皆で一緒に、神夷の文化を学びに往きましょうなのですー」「学びに、か。無論それもある。が――」 先の軍人に通ずる意味有りげな間、其の意を気取ったか取り違えたかは判らぬが、少女はぱちくりと瞬き、男達は唯、口を噤む。「…………」 他の席からの会話が随分遠くに感じられる、何処か重苦しい沈黙が訪れた。 此処へ名乗りを上げるのは余程の豪胆者か、彼我の距離を量るに不得手な者か。「自分も参加を希望したい」 或いは――似た者同士なのかも識れない。「初にお目にかかる」 涼しげな聲の主の頭髪は少女に、様相は鳥妖に、造作は軍人に、表情は半妖に、膂力は退魔師に何処か重なる。尤も此の場の者が最後のひとつを多少なりと識る機を得るのは、未だ先の話となろうが。「初めましてなのです。ゼロはゼロなのです」「碧でいい」 麗人の物云いは無機質だったが、少女の名乗りに応える時のみ些か熱を帯びた。 曰く、0世界に来て日は浅いものの、取り立ててする事も無い侭無為に日々を過ごす事に、些か危機感を覚えたらしい。「なまりがきてしまいそうでな。――よく調査には赴いていた。良ければ」「調査行に慣れた方がご一緒していただけるとは、有難いのですー」「灯緒、お昼寝に行く時間ですよう」「……。…………ん」 その後、軍人が視界の隅にのそりと起きた大猫を認めうぎゃあ等と悲鳴を店内に木霊させ窓硝子を震わせたりもしたが、それはそれ。 司書達の案内の元、旅人達は骨董品屋へ移動する。 ※ ※ ※ ※ ※「なのですー」「御話は良く判りました」 一同を前に、白騙の主――漆黒の半鬼は人の方の眼を僅か瞑目する。「終さんと玖郎さん、それに十三さんは特に御承知かと思いますが、神夷と西国の関係は、今を以って決して好ましいものとは云えません」 嘗て、西北統一を掲げた西国が征夷軍を以って神夷の地への侵攻を何度も試みた。 将兵の数で遥かに勝る征夷軍は、併し地の利を活かした神夷の巧みな戦術に苦戦を強いられ、互いに一進一退の攻防を繰り返していた。 処が五十年前、ある出来事を切欠に征夷軍は解散。望まぬ戦に疲弊していた神夷も剣を取る意味を失い、いつしか西北は暗黙の内に相互不可侵と相成った。 例外的に西国北端の村落と神夷南端の里とで交易――と云っても互いの農作物と狩猟物を時折交換する程度の――を細々と続けている様だが、あくまで限られた個人の遣り取りに過ぎず、国交と喚べるものではない。「一方、近年では融和の道を模索する動きもみられる様です。灯緒さんに由ると、西国側が幾度か神夷へ遣使を送り、関係改善に努めているのだとか」「些か虫の好い話ではありますな」「確かに。自分が神夷の民なら問答無用で追い返すだろう」 諍事に敏き軍属達が尤もな所感に、鬼面の店主は頷く。「仰る通りです。事実、これ迄何ら成果をあげる事は出来ていない」 神夷の人々にとって西国は侵略者の代名詞とも云える。それが停戦後五十年間何の沙汰も無く、今更急に手を取り合おうと云われたとて、容易に頷ける筈も無い。「かの地は、おれの目にはなかなか棲み心地のよさそうな土地としてうつったが、きびしい寒さゆえ、かならずしもひとに馴染みはすまい。そうまでしてふれねばならぬものか……。政はわからぬ」「単なる和睦だけが目的では無いのかも識れん」 首を傾げる鳥妖に、退魔師は額面の奥に潜む意図を推し量る。月並みな謀略の類いか、或いは繋がりを持たねばならぬ余程の事情があるのか。何れにせよ、「併し、なら俺達も警戒されはしないか」 続いた半妖の危惧は懼らく的を射ているであろう事を、鬼面は認めた。「――となると、先ずは『此方が西国の使者では無い事』、それに『敵意の無い事』を証明しなくてはならないでしょう。方法は皆さんに御任せしますよ」 里の者との心的な隔たりを緩和する事が出来れば、円滑な調査が可能となる。「僕の識る限り――と云っても、又聞きですが」 鬼面の主の話では、神夷の人々は主に狩猟と採取で日々を営んでいると云う。 彼らは大いなる自然を尊び、鳥獣や自分達が使う道具に神霊が宿ると考えて、絶えず畏敬とある種の崇拝の念を擁き乍ら暮しているのだ。「そうした土地柄、一般的な朱昏人よりも霊的な物事や妖に通じている方が多い、とも聴いています。ですから、皆さんの術や力を濫りに行使すると……たとえば警戒されてしまうと云う事も、考えられます。一概には云えませんけれど」 念の為、頭の片隅に置いておいて欲しいのだと、鬼面は掬んだ。「処で――ゼロさんと終さんに御願いがあるのですが」「はいなのです」「ん」「これを」「?」 店主はふたりの前に、白と紺の不思議な紋様に染まる布をさっと広げる。 その真ん中には、鞘に納まり乍ら肉厚な刃が窺える小刀が眠る様に佇んでいた。 鞘も柄も木造で着彩は無く、併し磨き抜かれ丸みを帯びた面を、格子とも鱗ともつかぬ模様に優美な花柄が重なる様、刻まれ、丹念に彫り込まれている。「無事神夷の里に辿り着いたら、どなたか――そうですね。なるべく年長の方に、渡して頂けないでしょうか」「二度目のおつかいなのです?」「只、渡すだけでいい、のか……?」「ええ。勿論難しい様でしたら」「いや」 如何なる意図か、続く店主の言を半妖は遮り、俯き加減に聲を絞り出した。「俺の……そういう態度も、流石に思う処が出来てきてはいる、為に」 それを視た少女がぱちぱち瞬いて、「うんとね」と禍々しい鬼面を見上げる。「雪深さんもゼロも大丈夫なのです。お任せ下さいなのですー」 鬼面は小刀を包み直し、対照的なふたりへ差し出すと、口元を柔かく緩めた。「……宜しくお願いします」「それと、ヌマブチさん、玖郎さん、十三さん」 次に何故彼らが名を喚ばれたのか――少なくとも当人達には判っているのだろう。誰もが身じろがず、油断無く、白髪の半鬼の聲に耳を傾ける。「『彼女』が真都、つまり東国に姿を顕した以上、其の行動範囲は朱昏全土とみるべきかと思います。そして、既に御伝えした様に、神夷は彼女と縁の深い土地でもある」「つまり、此度の調査行にて再び相見える可能性――否、危険があると?」 軍人の鋭い眼に、店主はゆっくりと頭を振る。「判りません。只、貴方がたは既に……出遭ってしまっている」「ならば、」 其の者の性に金氣を見出した、木氣の怪の本能故か。 鳥妖が、彼にしては幾分昂った調子で店主の危惧の先を見立てた。「かの女妖かその眷属が近くに在れば、こちらの氣をけどられるやもしれぬ」「有り得ん話では無いな」 退魔師もこれに頷き、厳しい面持ちとなる。「下手を打てば里に禍を喚込む事になる、か」 立ち廻りひとつとっても気を引き締めて掛からねばなるまい。「ふむ、適宜気を付けねばなりませんな。――それはそれと念の為訊いておきたいのでありますが……あれと貴殿の関係は?」 軍人から鬼面への徐な問いに、誰もが――特に半妖が眼を見張った。「御話すべき、とは思いますが……」「…………」 鬼面の店主は言葉を濁し、先ず何事か云いたげな半妖の顔を確かめ、続いて縁側で丸くなる大猫に視線を送る。対する大猫の方は一瞬片目のみ開いたが、特に何を云うでもなく、再び寝息をたて始めた。「…………」「???」 二者の遣り取りに気付き乍ら、雀斑顔は埒外なのか首を左右に傾げるばかり。 店主は構わず、軍人の三白眼に視線を戻し、口を開く。「この件に関しては、僕の一方的な見解より、先に第三者――たとえば神夷の方々――の聲を聴かれた方が宜しいかと思います。其の上で気になった事があれば、必ずや御答えすると……約束しましょう」 そうして軍人のみならず、皆の方へ細めた眼を向けた。「最後に。碧さん、でしたね」「如何にも」 鬼面の奥と麗人の瞳が合う。「御聴きの通り少々立て込んでいますが、神夷の里が未踏の領域であると云う点では、皆さんも同じです」「ああ」「一方で、今回が初の朱昏探訪となる碧さんの目線でしか視得ない事も、あるかも識れません。……聴けば、調査活動には慣れてらっしゃるとか」「……」 いつの間に、誰に聴いたのやら。麗人は内心驚き、またやや呆れて口を鎖す。 店に到着してから少女がその事に触れた様子は無かった。 となると、縁側で眠りこけている猫か、店に到着するなり喰い乍らおかしな柄の書物を適当に捲っているだけの女――共に慣れているのか誰も指摘しない――の仕業であろうか。 或いは駅舎から移動する前、予め連絡を入れておいたのかも識れないが――。「……? ガラがどうかしました?」「………………?」 併し、ふたり共手際の良い手合いには全く以って視得ない。 麗人は頬膨らませた女と心地好くまどろむ猫から視線を外し、鬼面を見据える。「――最善は尽くす。期待に応えられるかは判らないが」 毅然とした双眸に対し気安い笑みを浮かべて、店主は穏やかに云った。「好い報告、御待ちしていますよ」「あのう」 店主の聲に繋げる様に、雀斑女が目深に被った帽子をついと上げる。埃ひとつさえ落ち着き払っていた座敷の空気が幽かに浮いたのを麗人は見逃さなかった。 少女がふわりと立ち上がり、卓に手をついて身を乗り出す。「何か起こるのです?」「何か起こるんですう」 雀斑女は何故か観念した様な顔を傾げて語り出した。 たった今導きの書に顕れた予言に因れば、霊峰コンルカムイの朱氷の一部が解けて麓に流れ出し、西国と神夷の境界にある森に怪異を引き起こしているらしい。「なんかね、ワーっと集まってるみたい。クマが」 ※ ※ ※ ※ ※ 腐葉土に積もる朱い雪は深く、冬枯れの森を駆ける若者を邪魔してばかり。 張り詰めた空気には白い息が好く弾んだ。 彼のものも、彼が追う、黒い獣のものも、等しく。「戻れプリカンダカムイ! そっちへ行っては駄目だ!」 若者の制止が通ずる様子も無く、獣は巨体をものともせぬ身軽さで珠の様に弾み乍ら、茂る林間を、深き雪上を、朱塵を巻き上げ突き進む。「くそ、この侭じゃシャモの領域に入ってしまう!」 この侭引き離されてなるものか――若者が歯噛みした矢先。 枝を叩き折る音が真横から聴こえた。然も一度や二度では無い。 ばきっと木が弾ける。『それ』は障害物を悉く無視して彼と併走しているのだ。 似た様な音は、後ろから、周囲から、幾つも幾つも鳴った。「――!」 真逆と想い、息苦しいのも忘れて方々へ首を廻す。 両側に、後続に、何頭もの黒い影が弾んでいる――囲まれている! そして前方の獣は、いつしか此方を向き、壁の如く立ちはだかっていた。「プリカンダカムイ……!」 若者は腰から山刀を抜き放ち、射抜く様に『それ』を視た。だが――、「……違う、お前は、」 黒獣の眼に朱い輝きが宿る迄は想定内。 問題は、その背に、肩に、脇に、胴に腰に股に、四肢と同じ物が、生えた事。 『それ』は涎と吐息と唸聲を上げる。鼻筋を醜悪に歪める。「モシリシンナイサム!?」 森に木霊する若者の驚聲に、熊が群がり、木々の狭間から鎌首を擡げた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>シーアールシー ゼロ(czzf6499)ヌマブチ(cwem1401)玖郎(cfmr9797)雪深 終(cdwh7983)百田 十三(cnxf4836)碧(cyab3196)=========
三頭の熊が飛び掛る。其処に獲物の姿は無く、図らずも三つ巴の首相撲をする破目になった群れに――咄嗟に跳んだ若者が頭上の枝に掴まった折の揺動で――どさ、ばさっと樹氷が落ちて朱粉を撒き散らした。熊達は憤怒を上へ向けるも、 「おおおおおお!」 その時既に若者は首相撲の外へ、異形の大熊の脳天目掛け宙を舞っていた。異形は存外冷静に、併し威勢良く四本の上腕でこれを薙ぎ払い、若者は振り下ろした山刀ごと弾かれた。肩口を抉られて手近な樹に背中を叩きつけられ、唯一の武器は敵の傍に、彼自身は積雪の薄い根元に落ちる。 「ッ、…………!」 苦痛に顔を歪め乍らも尚迫り来る脅威を睨む。だが其処に居たのは、 「!?」 黒影ならぬ真白い童の、後姿。 若者はつい頭を振る。先程迄そんなものは無かった。居なかった! 三度瞬いてもそれは消えない。突然顕れた、懼らくは娘。 白いのは着衣のみならず長く伸び放題の髪も、肌もだ。朱雪に映える。 ふと、童がちらりと若者を視た。愛らしい横顔に備わっていたのは銀の眼。 そして無行の姿勢でちょこんと立つ彼女の向こう、大柄過ぎる魔物が朱雪を撒き上げて襲い掛かる。雲が覆い被さるように。 「逃げろ!」 悲痛な叫びも空しく醜悪なる顎門は儚げな少女の小さな顔を、細い首を、纏めて噛みついた。思わず眼を細めた若者の視界で、けれど血飛沫があがる事も無ければ、生臭さが鼻腔を刺激する事も無かった。 白い童は、為すがまま。なのに、異形が幾ら強く噛み締めても、豪腕を叩き落しても、彼女の肌は裂けず、骨も砕けた様子は無い。傷付かない。 「レタルカムイ?」 白い神――若者の呟きは、娘に聴こえたかどうか。だが判断する暇は無かった。何処からとも無く響く翼の音と雪上にも係らず小気味良く駆ける足音が共に此方へ迫る。次の瞬間、二つの事が同時に起きた。 「わっ!?」 異形の元へ新たな白影、或いは銀影が迫り来るや否や、若者の襟首が引っ張り上げられて。見る間も高くなる視界、眼下では黒影が白影の撓るような脚に蹴飛ばされて、鞠のように跳ね飛ばされる。噛み付かれていた小さな白影も放り出されるが、此方はやや細長い白影――矢張り女性――が宙で掴んで、ふわりと地に降ろされた。 「おおきい熊だな」 若者が既に樹上と同じ高みに至る頃、直ぐ上から抑揚の無い聲がした。 「そしていささか多すぎる。一体でもみなの腹を満たせように」 聲の主――翼を持つ男が小首を傾げる鳥の如き所作を、若者は刮目した。 「レラ、カムイ……」 「雹王招来急急如律令、熊どもの四肢を凍らせ足止めせよ……行け!」 十三が放った札から氷像の如き豹が飛び出し、咆哮混じりの吐息で次々と熊を凍らせていく。数頭が雪豹を抉ろうと兇爪を振るうも、その身に触れた途端前脚から凍てついて慄く不覚をみせていた。だが、 「来たのです」 逃れた二頭が、ゼロと碧の元へ突進する。 麗人は少女を護らんと構えるも、低温が凍氣を孕んだのに気付き踏み込むのを辞した。それを為す者は獣達の背後より手を翳し、柔らかな雪を蝕むように凍てつかせている。ゆっくりにも視得たそれは、併し直ちに対象の後足を朱い氷で掬び、気付けば下半身総てを捉えていた。 「匙加減がし難いな……朱の所為か」 怒りを顕わに牙を剥く獣達の傍で、終が息を吐く。 「雪深さん有難うなのですー」 「恩に着る」 ゼロと碧は謝辞を述べ、更に碧は最前吹っ飛ばした異形の元へ追撃を仕掛けるべく長い外套を靡かせる。終も彼女に続くのを認め、ヌマブチが二人へ、ひいては総員へ、乾き張り詰めた場にやけに通る聲を高らかと響かせた。 「好し、今の内に殲滅を――」 「殺すな! モシリシンナイサム……其処の大きい奴以外は駄目だ!」 軍人に負けず劣らず大きく天より木霊する聲が、これを遮る。 ヌマブチが見上げれば、玖郎に攫われた若者が身振りを伴い必死に訴えていた。 「他の熊は悪くない!」 「――だそうなのですー」 ゼロがひょいと片手を上げて、皆がそれを合図にまた動き出した。 (止むを得まい。後顧の憂いは断っておきたかったが) 此の後神夷の里に行く気なら、取り敢えずは従うべきか。他の者はそのつもりのようだ。ならばと、ヌマブチは軍帽を目深にし、戦況を見守った。 「雪解けのたび斯様な事態がおこるならば、そなえもあろう。それとも」 これは稀有なのか。 レラカムイ――風神――こと玖郎は程近い崖上へ若者を降ろし、仲間達とモシリシンナイサムなる異形との戦いを見守り乍ら、問う。 「群れで狩りをする熊などきいたことがない。ひと一人では割に合わなかろう」 「ああ、熊は母子以外で群れたりしない筈だ。俺も初めて見た」 「ならば、あれは朱によるものか。朱は感情に作用すると云うが、かれらはひとが憎いのか。あるいは、おまえが特に熊へ何某かを為す者なのか」 「違う! あいつに強いられているんだ!」 若者は即座に否定し、異形を指差す。 彼によれば、モシリシンナイサムとは『外の世界からの乱入者』を示すと云う。あれは、頻繁ではないが数十年~数百年置きに顕れ、様々な生き物の姿となって同属を操る。更に捨て置けば土地を腐らし人に仇なす存在との事だった。 また、以前の出現は五十年ほど昔に遡る、とも。 「矢張りファージか」 崖上の若者が大聲で捲し立てた一部始終を耳にした終が、ぽつりと云った。 朱に絆されファージに侵された哀れな獣は、手数に任せて幾度も豪腕を揮う。 「では他人行儀に振舞うまでもないな」 等しく異界より訪れたモノとしては――尤も、元より手心を加えるつもりなど、彼女には毛頭なかったが――碧は左前脚二本を細腕で強引に掴み止める。 尚も空いている腕で憎き獲物に兇爪を向ければ、其方は絹のような肌を裂く前に終の手でぴきぴきと根元から氷らされ、駄目押しに背面から噛み付いた雪豹に因って、増え過ぎた脚の大半を氷結せしめられた。 異形は憎しみも顕わに碧へ喰らい付かんと鰐の如く口を開けて首を突き出す。碧は左腕を差しだし、牙が皮膚を突き破っ筋をぶちぶちと抉るに任せ、一方で右拳を二度、三度と異形の腹へ喉へ叩き込み、都度穴を空ける。 異形の口からは碧のものとも自身のそれともつかぬ夥しい血液が殴られる度に噴出され、最早宛がわれているだけの顎毎、細腕は力任せに押し倒した。 紅に染まる朱雪に突っ伏した異形は妙な具合に首が曲り、事切れていた。 「何者だ?」 血を滴らせ乍ら此方へ近付く碧を、その向うで異形の遺骸が崩れ、朱墨と青墨の入り乱れたようなくすんだ雪を、そして傍らに佇む鳥妖を、白い少女とその仲間達を交互に見遣ってから、若者は誰へともなく訊ねた。 「ゼロはゼロなのです。ゼロ達は西国よりももっとずっと遠くから来たのです」 「雪深、終と云う。俺達は、その……届ける物があって」 「遠い処……届け物?」 「ゼロ」 「これなのです」 終が促し、ゼロは包みを取り出して、広げてみせた。 若者は繁々と眺めて、不思議そうに云った。 「チクペニの……メノコマキリ」 「……? なるべく年長の者に渡すようにと、」 「どなたかいらっしゃるのです? 出来れば色々とお話も伺いたいのですー」 「年寄りなら何人か居るが…………そうか」 彼の妙な様子に、ゼロと終は互いの顔をきょとんと見合わせる。 「何か、あるのか」 「いや。あんた……いや、あなた達は恩人だ。用があるなら俺のコタンに来てくれ。助けてくれた礼をしたいし、善きカムイの客なら皆歓迎する」 「そうしてやってくれ」 云うなり大掛かりな荷物を持ち上げる大男を、若者は不思議そうに見上げた。 「あなたは来ないのか?」 「百田十三だ。俺は外で待つ」 「何故だ?」 「残念乍ら、先程使った力は目につく。此の地の邪神を呼び込むかも識れん。俺が行く事で荒らされては叶わん」 「ふむ、では某も」 十三に続き、ヌマブチも徐に別行動の意を表明した。 ゼロは大きな目をぱちぱちさせて、軍人の顰め面を覗く。 「ヌマブチさんもなのです?」 「ファージの件と云い何かと懸念が多い。少し近辺を探ってみようかと」 「些か危険ではないか」 傷の塞がり具合を確かめていた碧が聲を掛けた。未踏地域の単独行、それも朱が其処等中にあって何が起こるかも判らぬ環境下となれば、案じて然るべきか。 「何、不都合があったら直ぐ連絡するさ」 心配無用でありますよ――ヌマブチはおどけ気味に応えてから、僅かの間、玖郎に目配せをした。微かに頷く玖郎の隣で、終が遠慮がちに口を開く。 「……気をつけた方がいい。春先は特に雪崩が起き易い」 終の言が意味する処をヌマブチは何処迄感じたか。 ヌマブチの腹づもりを果たして終が気取ったか。 「忠告痛み入る」 懼らく互いにとり何気ない応酬は、併し後に互いが鑑みるべき事案となる。 その後幾許かの遣り取りを経て、十三とヌマブチは仲間達の背を見送った。 若者――名をイメラと云った――としても思う処はあったようだが、特に追求するでも同行を強いるでもなく、二人の意志に任せる事にしたようだった。 唯ひとつ、コンルカムイにだけは近付くな――そう云い遺して。 ※ ※ ※ ※ ※ イメラは旅人を道行く同胞に紹介しがてら、広場と思しき場所へと案内した。中央には仮設された櫓を想起させる、けれど檻にも似た何かが設置されている。 「長老は余所のコタンに出掛けているそうだ。暫く戻らないだろうから、俺のフチ――祖母から話を聴けばいい」 「是非お願いするのです」 ゼロをはじめ全員が、先ずはこの提案に応じる事にした。 其処は冬枯れの森の中にひっそりと佇む、小さな人里だった。 朱雪の上に建つ家の数は疎らだが、どれもそれなりに大きく、屋根のみならず外壁部分まで萱等の干草に覆われているのが特徴的だ。確保されているなだらかな土地に田畑等は見当たらず、懼らく神夷の人々が暮す上で最低限の規模に留められているのであろう事が窺えた。 「時に『カムイ』とはなんだ」 ある時、玖郎がイメラに訊ねれば、次の様な答えが返って来た。 彼らは鳥獣、樹木や草花、器物、時には人等、この世に在る総てのモノに『それ』が宿ると考え、多く、人より優れた力を持つそれらに畏敬の念を込めて『カムイ』と喚ぶ。事前に骨董品屋に齎された話と概ね同じ内容だった。 一方で、イメラはこうも付け加えた。 「シャモは自分達の都合で神とか妖とか区別するらしいが、俺達からすれば皆カムイだ。一方的に良いとか悪いとか、決められるものじゃない」 まるで人や獣といった枠組みと同じ処にカムイが在るような云い方だった。 (ならば人同士の格差、階級もない、か) それは、碧をはじめ元の世界で人外とみなされた者がターミナルで暮すようになってから多少なりと感じるであろう事とも、何処か通ずる気がした。 そして此度、人に類する者は森に残り、カムイたる者は人里へ来た事になる。 奇しき巡り合わせだった。 「……それは」 通された家にて、炉辺でしわがれた瞼を刮目しているのは、他ならぬイメラの祖母。視線の先にあるのは、ゼロが広げた風呂敷の中に横たわる小刀だった。 イメラは祖母に紹介するなり、傷の手当てをしに出掛けていた。 「つかぬ事を訊ねますが、何処でこれを」 「槐と云う人から、預った」 「割れた鬼面をつけた白髪の男性なのですー」 「……そうか。その男は此方には」 「今お住まいの場所から動けないのです」 「故、俺達が頼まれて来た」 「そうか、そうですか」 真正面に座して向き合う少女と青年に対して、或いは己に対して。 老婆は何度も何度もゆっくりと頷き、そうかそうかと繰り返すばかりだ。 鳥妖と麗人は少し離れた処で思い思いに立ったまま、耳を欹てている。 「……その。この刀の由来を訊いて良いか」 終は遠慮がちに訥々と疑問を投げ掛けた。 「ゼロも訊きたいのですー」 ゼロも前のめり気味に云うと、老婆は俄かに口を閉ざし。 「オッコ(姉さん)……」 やがて懐かしそうに小刀へ呼び掛けて。 丸めていた背筋をぴんと張って、別人のように話し始めた。 「これは私の姉、ソヤのものです。……いいえ、あの男が『槐』を名乗っているのなら、『チクペニ』と――そう喚んであげた方が、良いのかしらねえ……」 槐に持たされた小刀(特に女物をメノコマキリと云う)は、巫者となる女性が、神が宿る樹を用いて拵える、特別なものだと云う。 巫者は小刀を媒介に神をおろし、人々の為にその力を借りる。 「五十年前、征夷軍に対抗する為に各地の巫者が駆り出されました。数で圧倒的に劣る私達は、カムイに縋るより他に……手立てが無かったのです」 そして老婆の姉、ソヤは、その一人だった。 巫者達――皆女性だった――は小刀に、時には己が身に直接神を喚んで留め、その常ならざる力を借りて征夷軍と渡り合い、両軍は拮抗した。 「そうして姉も連れて行かれました。子供の頃から心が強くて、一番良い樹――槐(チクペニ)のメノコマキリを携えていたから」 特にソヤは、自らの小刀をカムイランケタム、神授刀だと謂っていた。 果たして神授刀を携えたソヤの活躍は目覚しいものであったと云う。彼女は征夷軍の侍達から”蜂姫神”或いは”白虎神”と喚ばれ、恐れられた。それは彼女の戦いぶりと、その身に宿す神の顕現した姿に由来するものだった。 「でも、白虎神――レタルチャペカムイは気紛れで、度々姉を振り回したと聞いています。……私が姉に会いたくて里を飛び出した時も、カムイは姉の身体を借りて行方を晦ましていて。暫くしてからやっと、境界の森で見付かったのです。あの男と一緒に」 「…………」 言葉尻に滲む想いは怒気か。老婆は膝の上の拳を握り締め、震えている。 終は口を開きかけたが、結局は何も云えず黙り込んだ。 「彼は西国よりも遠い国から来たと云っていました。あなた方と同じように。此処には姉を送り届けに来たのだとも」 だが、当時、戦で殺気立っていた神夷の民は礼を云う処か、切っ先を向けて早々に追い返したと云う。そればかりか、ソヤが止めなければ殺されていたかも識れないと、老婆は深い息を吐いた。 「その後どうなったのです?」 促すゼロを見ず、俯いて尚も老婆は語る。 「再び戦場に立ったレタルチャペカムイが何かの弾みで狂って、戦どころでは無くなったとか。征夷軍と神夷が、その討伐に力を尽くしたとか。兎に角沢山の人が死んだ事は、人伝に聞いています。……姉は二度と戻りませんでした」 「では、刀は如何なる経緯で槐の手元に」 「それは……あの男がカムイの討伐に立ち会っていたか、何れにしても死ぬ間際のソヤと一緒に居たのだと、思います」 「…………」 終はまたも窮した。この老婆の話が真実だとして、掛けるべき言葉が見付からない。此処で槐を擁護するには彼の事を識らなさ過ぎるし、また年端もゆかぬ己が眼の前の年長者の過去に同情するのも違う気がしたからだ。 自ら進んで多くを語ってくれた事は嬉しいだけに、終は己を持て余して矢張り黙るしか無かった。 「その白虎神について訊きたい」 代わりに口火を切ったのは玖郎である。 「おれは東国で強大な妖と対峙した。共にいた連れ合いは白い獣のまぼろしをみたと云う。ここがあれのゆかりの地と聞いた」 「…………東国とは、大河の向こう岸の事ですね」 「しかり」 「実は、つい先日、レタルチャペカムイの気配を感じました。気の所為だと思いたかったけれど……間違いありません」 「地元の民ならばその由来や本性を、対処法を識りはしまいか」 「……」 黙する老婆に、玖郎は、あれが霧拵えの身体を為した事、金氣を央に据え他の氣も宿していた事を付け加える。 「天分の性であれを破ることは叶わぬ。護身の為にも識りたい」 老婆の回答は、奇妙なものだった。 「私も詳しい事は解らないのだけれど……」 数多の神が朱に端を発しているのに対し、白虎神は何方より出でたのか、ソヤにも他の誰にも判らなかったらしい。嘗てソヤが語った処に由れば、如何なる神にも似なかったとの事だ。唯、少なくとも当初、その性は紛う方無き金氣のそれであり、同時に獣そのものであったと云う。 「彼女は霧を依代に顕現していたと云いましたね。懼らく、あれは意識だけ移動して、行く先々にあるものを元に仮初の身体を拵えているのでしょう……」 霧の身体を雨で散らしたように、その都度の源が解れば、手立ては自ずと見えて来る筈だと、老婆は云った。逆に、今や総ての氣を宿す以上、五行に寄った対処は意味を為さないのかも識れない、とも。 「先程気配を感じたと、云ったな。あなたも巫者か」 今度は碧が訊ねる。 「ええ――と云っても、此の通りすっかり歳をとってしまったものだから。元よりカムイと意識を通わせる力も心も、ソヤには遠く及ばないけれど」 老婆は懐に忍ばせた小刀を僅かに覘かせて、初めて笑顔をみせた。 「態態姉の形見迄届けてくれて、有難う御座います。お陰で孫の命も救われましたし……お礼と云っては何ですが、今夜はうちに泊って行って下さい」 ※ ※ ※ ※ ※ 朱色の雪渓を飛び越えると、何処からかぎしりと耳に遺る厭な音がした。奈落の底も朱、見上げれば氷壁も朱、積もる雪も朱――時折視掛ける木立等を除き、此の山の何もかもが朱い。なまじ晴れ間をみせているだけに照り返しが目に少しきつかった。 ヌマブチは今、単独で霊峰コンルカムイを登っている。 イメラに釘を刺されたのにも係らず早速禁忌を侵したのは、偏にファージの発端となった解けた朱氷を確かめる為だ。また、別行動を取る事で『彼女』を誘引できればと云う目論見も無くは無い。無論同行してあれの情報を収集するという選択肢もあったが、己の性質が人心掌握に不向きな事も踏まえ、それは玖郎へ委ねる事とした。 ほぼ同様の趣旨で森に残った十三は、今頃野営を支度している最中だろう。その間――出切れば天候が気紛れを起こす前に調査を終えたい処だ。 やがて、最早傾斜と呼ぶのも憚られる程急な面の一部が落ち窪み、その向こうに――例えば熊程の大きさならすっぽり入り込める程の――穴が、空いているのを見つけた。 (此処か) 滑落せぬよう氷壁の凹凸を確り掴み乍ら、用心深く穴へと伝う。 穴は洞窟と云う程深くも無ければ、古くも無さそうだった。或いは本当にあのファージに変異した熊は此処で冬眠していたのかも識れない。気泡というか、虫食いというか。小さな氷を火で炙れば丁度こんな穴が空きそうだ。 (人為的なものか? 併し旅団の暗躍はもう無い。一体誰が――) ぎし。 何処かでまたあの厭な音がする。厭な予感がした。足早に出口へと向かう。 (――下山するのが先か。十三殿の意見も、) 『――あら』 洞穴は出たばかりなのに。 高山なのに空気が悪い。 硬直。 防衛本能か。 ならばこれは恐怖か、否――想定済みだ。 首だけ回して横目で覗けば、 「……?」 ヌマブチの真後ろには、 「~~~~!!!!!」 巨大な真っ白い、 「寄るなあああアアアァァァァ!!」 猫(らしき獣)が、行儀良く鎮座していた。 ぎしっ、びき。ぎし、ぎしぎしぎしぎしぎしぎし――、 「……しまっ――」 山の遥か上方より朱色の波が瞬く間に押し寄せ。女も、獣も――ヌマブチも飲み込んだ。雪に巻き込まれる最中、あの音は根雪が罅割れる音だったのだと。そして止めを刺したのは己の聲量なのだと、ヌマブチは思い至った。 ※ ※ ※ ※ ※ 玖郎はその後、老婆に何やら鳥の事等を訊ねて以降何方へと飛び去った。 碧も、狩りの様子がみたいと出たきり、見掛けていない。 イメラと祖母は晩餐の支度をすると云うので、その間ゼロと終は里の中を見て廻る事にした。禁忌を侵さぬようにと念の為しきたりを訊ねもしたが、霊峰コンルカムイを侵してはならぬ事、(懼らくあらゆる意味で)濫りに傷つけたり壊してはいけない事等、先にイメラが語ったような内容ばかりだった。 旅人に対する里の者達の反応は――イメラが彼らを「善きカムイ」と紹介していた為か――何れも好意的で、子供らは物珍しげに集って後を着いて来たり、大人達は各々が担う日々の役割に忙しく従事する傍ら、誰もが気さくな態度で接してくれた。 手伝い等申し出てもみたが、直ぐ終の力を活かせそうな事柄は無かった。とは云え遠慮されている風でもなく、寧ろ何かあった時は宜しくとも云われた。 「コンルカムイ」 またある時、終はそう喚ばれた。 それもイメラが伝えたのか、或いは霊性を見抜いての事なのか。冬と春に通ずる者と、あの老婆に己の性質を伝えはしたが。 十か其処等の娘の聲は、酷く親しげに感じられた。 「コンルカムイ、こんにちは」 「……? あ、噫」 はじめは自分が聲を掛けられているとは想いもせず、終は困惑したものだ。 何しろ同名の山が眼の前に聳えているのだから。また、神だと云われた事に、言葉に出来ぬ不思議な印象を擁いて持て余しているのかも識れない。 持て余していると云えば、未だ終には訊きたい事があった。 槐の鬼面に纏わる話。 彼がなり切れなかった『鬼』とは、この場合何を指すのか。先程の話から、矢張り彼が邪神討伐に関与し、その折に悔いを遺していたと推測する事も出来る。 (その辺は当人に訊くか) 老婆から聴いた内容をその侭伝えれば、続きを話してくれそうな気もした。 「不味っ!」 「!?」 不意に広場の方から短い悲鳴が聴こえた。 そう云えば、いつの間にかゼロが居ない。真逆――。 「このお団子は不運を防ぐ呪物なのです」 「ならどうしてこんなに不味いんだ! この世のものと思えん――うっ」 「耐えるのです。ゲロ不味は厄の先払いなのですー」 口を押さえ痙攣する男に、ゼロは悪びれもせず尤もらしく胸を張った。 何故少女が謎団子を供するに到ったか。経緯はこうだ。 ゼロはまどろむ者として、神夷の睡眠習慣と夢に関する見解を調査すべく(その辺を歩いてる人を適当に呼び止めて)聞き込みを開始した。 男は噂のレタルカムイが可愛らしい少女であると識るや気を良くし、懇切丁寧に当該事項を教えてくれた。それに由ると、睡眠習慣は夜も朝も早く規則正しいもののようで、また夢見は吉凶を暗示する手段の一つとされている事が解った。 更に男は今朝は悪夢に魘されたので気になっていると告白した。 其処でゼロは不運に苛む男を慮り(?)、まあつまりそういう事である。 余談だが、謎団子が美味だった場合は吉兆らしい。 終が広場に着いたのは、その頃。 「此処に居たのか。……食わせたのか」 尚も悶絶する男をちらりとみて同情する終に、ゼロはえっへんと胸を張った。 「あ、ちょっと気になる事を小耳に挟んだのです」 「ん」 「此の処鳥や獣が騒がしいそうなのです。それで……うんとね、西国の人が来るようになったのは、『丁度その後』からだそうなのですー」 ゼロが指を咥えて思い出し乍ら語った話は、仕草に似合わず不穏なものだった。 「…………そう、か」 厭な気がした。 ※ ※ ※ ※ ※ 夕刻。 十三はテントの側で、ヌマブチと、偵察の為に放った火燕の帰還を待っていた。 コタンへ向かう者達との別れ際、イメラと交わした会話を思い出し乍ら。 ※ 「この歌を識らないか。確か――ぴりかぴりかたんとぅしりぴりかいんなんくるぴりかぬんけくすね――だったと思うが。神夷の童謡と聞いている。だから此処なら意味が分かると思った。聴きたいと思った」 「……? 俺は聴いた事無いな。意味は――」 イメラは訝しみ乍らも、聴いたばかりの歌を西国の言葉で再現してくれた。 ――きれいなきれいな きょうは良い日 良い子がいるよ ――その子は誰? その子は誰? 「シャモの言葉は得意じゃない」 謡い終えた後、イメラは照れたように顔を背けた。 「他にも……」 「どうしても聴きたければあなたも来ればいい」 若者は柄じゃないとでも云いたげに、やや語気を強める。 十三は暫し検討した後、矢張りこれを辞退した。 ※ 便宜上『神夷の童謡』としたものの、実際にはその様な記録は世界図書館には存在しない。何しろ、槐の言葉を信用するならば神夷は十三達にとり、未踏の地域なのだから。仮令異世界――壱番世界等――で似通った文化がみられたのだとしても、其処は朱昏の神夷ではないのだから。 十三は歌の意味を反芻し乍ら、それが確かめられただけでも良いと考えた。 ふと気が付けば、空の大部分が藍色に染まっていた。 ヌマブチが戻る気配はない。 「遅い……」 十三は腕組みを解いてトラベラーズノートを開く。連絡も未だ無い。 程無くして上空より火式が飛来し、火の尾で取り巻くように主の周囲を何度も廻る。やがて十三が術を解くと霧散し、代わりに視たモノが十三の意識に重なり。 「――ぬ」 火燕が木々の狭間に黒塊の群れを認めた。昼間の熊の群れだろうか。 だが、それらは身動ぎもみせず……と云うより、これは、 「……! 真逆!」 十三は、即ち先程ファージが居た場所へ急いで引き返した。 悉く首を失い果てた、憐れな熊の亡骸の元へ――。 ※ ※ ※ ※ ※ 薄暗い森の中、碧は年嵩の狩人の弓と矢筒が交差する背中を見ていた。 時折、自ら肩に担いだ獰猛な大鹿と見比べ乍ら。既に壮年に差し掛かっているであろう男は、背丈こそ低いが逞しい身体つきをしているのが挙動から窺える。 彼は狩りへと臨む際、己より大きく膂力も勝る対象との対峙に全く躊躇しなかった。些か無鉄砲な向きはあるものの、あのイメラと云う若者とてそうだ。 (何故其処まで出来る) 碧の輩は、そうはしなかったから。 「どうかしたか?」 徐に、男が振り向く。いつの間にか立ち止まっていたらしい。 「……おまえ達は強いな」 西国では身分を問わず朱の力を利用して暮していると聞く。併し碧が目にした神夷の民は、普通の武器のみで強大な敵に立ち向かう。 「へっ、カムイに云われてもな。そっちこそ大したもんだ」 男はくしゃっと笑い、狩りに於ける碧の立ち回りを褒め返した。 「カムイ、か。……吾々を受け入れる事に不安はないのか」 たとえば西国の間者かも識れないのに。 「それは無いな」 男は即座に否定した。一応碧は外套を羽織り羽を隠しているのだが、どうも此の地の者には容易に本質を見抜かれてしまうらしく、あまり用を成していなかった。尤もあれだけ暴れれば、並の人間とは見做されなさそうなものだ。 「この辺はな、云ってみればカムイの仮宿なんだ。俺達はその事を誇りに想ってるし――だから護ってきた。今迄も、これからも」 「成る程」 それで合点がゆく。その誇りこそが、彼らの強さの根幹を担うのだろう。 「だからカムイが訪ねて来たら泊めるのは当たり前の事だ。仮令余所から来たとしても、な」 「……」 眼下に二人の狩人を認め、梢に宿るは二羽の鳥。 狗鷲が不意に視線を落としたのを、向かいの大柄な梟が、仲間かと問うた。 「うむ」 狗鷲が頷けば、梟は水域に近しい者のようだと大鹿を担ぐ女の背に黒い瞳を向けて。それから話の腰を折ったと非礼を詫びた。 「大事ない。して、その変異とは」 狗鷲は直前迄話していた件の先を促す。 梟は応えた。山の神域をうろつく影があると。 「白虎の某か」 然り。御前が遭った異形とも拘わりが深い。 「神域にはなにがある。あれの目当ては」 水氣を宿す珠がある。此の世の理を司るもの。 「理……」 だが、故容易に手出しは出来ぬ。珠そのものと人の手で、幾重も護る壁がある。 側には寝ずの番もいる。 「女妖が手にわたればどうなる」 砕くか己が糧とする。 「くだく、とは」 西の国には金氣の珠。だが少し前、各地に散った。あれが砕いて理を歪めた。 ……処で、山が騒がしいようだ。谷底に、人と、あれが共に在る。連れ合いか。 「む」 狗鷲――玖郎は帳面を開き、識らぬ間に著された文面に目を通す。 ヌマブチの危機を示唆する十三からの書簡だった。 思わずコンルカムイをみた玖郎に、梟は急いだ方が良いと短い首を窄めた。 「かたじけない」 玖郎は枝先から飛び立つと同時に翼を広げ、先ずは里を目指した。 ※ ※ ※ ※ ※ 身体中軋む。特に間接が酷かった。暖が欲しかった。 それに背中越しの感触もごつごつしていて冷たく不快だ。何処か、寝床は――、 (違う!) ヌマブチはつい飛び起きて、直ぐ苦痛に顔を歪めた。 併し損傷は打ち身程度か。 無理に首を廻せば、其処は床も壁も天井も総てが朱色に滲む、不気味な部屋――否、上下から伸びた鍾乳石のような朱い氷柱と、一方から一方に通ずる深く薄暗い薄明るい穴。 「氷穴、か」 『お目覚め?』 「!」 妖艶な笑み。無闇に長い長い黒髪と、抜けるような肌。妙な紋様の着物を着崩して、首から提げるのは――大きな獣、熊か何かの、頭蓋。 手にはあの鬼面を携えて。眠たげな眼差しで、それはヌマブチをみた。 あの夜と同じように。 ひた、ひた、何処からとも無く女が顕れ、近付いて来る。 「貴様……!」 『あら。随分だわ。助けてあげたのに。ねえ?』 「何だと」 女が首筋から黒髪を掻き揚げると、またもいつの間にかその傍らに、先の獣が姿を見せた。猫、と云うよりは虎だろうか。白さも相俟って十三の使役する豹とも通ずるが、より大柄で、威圧感がある。 ヌマブチが以前幻視したそれとも似ているが、あれは更に大きかった。 『でも、嬉しいの』 「何がだ」 『せっかく珠をもらいに来たって云うのに、面倒な結界のせいで入れなかったのよ。それで腹いせにいたずらをしたら、またあなた達が来たんだもの』 矢張りあの悪趣味な獣はこの女の仕業のようだ。併し、ならば尚更符に落ちぬ。 「……どうやってあれを喚んだ」 『あなたはどうして大きな聲が出せるの? ……それと同じことよ』 この女妖はファージをも使役すると云うのだろうか。 『そんなことよりあの人はどこ?』 「寝惚けた事を」 あの人とは、懼らくあの鬼面の骨董品屋を指すのだろう。 ヌマブチの脳裏に描かれた男を視たかのように、女はにやあ、と笑う。 『うそおっしゃいな。間違いないわ、匂いがするんだから』 「あの人、あの人、か……」 『――なあに?』 ヌマブチが皮肉げに云うので、女は身を乗り出して厳しい面を覗き込む。 空気が焦燥感と死臭を孕んだ。感情の昂り故か女の身に朱いものが纏わり付く。 だが、ヌマブチは今更恐れなかった。 「あの男に捨てられでも?」 『 』 「――!」 むっとした空気が肌を撫でる。 それが痛みを伴うのと同時に軍人は飛び退く。全身が悲鳴をあげたがそれ処ではない。特に何をされた訳でも無いのに、この攻撃性はどうだ。当に息をするだけで人を殺せる存在ではないか。 (だが未だだ。今少し悪あがきをせねば) 「おっと泣所を突いてしまいましたかな? これは失礼」 芝居がかった所作でゆったりと歩き、女に背を向け、そっと懐のノートに指を捻じ込む。予め文書を認めておいた頁に大まかな現在地を加え、送る。 「今連絡しておいた。直ぐに駆けつける事でありましょう」 無論、槐ではなく、仲間達が。 『……』 「併し、敢えて云わせて貰うが――今更逢った処で相手にされないのでは? 貴殿は如何だか識らんが、随分昔の事だ。向うは既に」 『黙れっ!』 女の身から瘴気が、溢れた。首飾りの頭蓋が次々爆ぜる。 飛散した骨片のひとつががヌマブチの頬を切った。 『忘れるものか……忘れさせてなるものか! 此の私を! 此の面を! 此の躯を! あの日を! 仕打ちを! 辱めを! 未来永劫! 穐原の虫けらも! 小賢しい坊主共も! 祟ってやる弄んでやる蝕んでやる嬲ってやる! あいつ等。あいつ等が私をこんな風に! ……なのに、あの人は私を――』 「す」 捨てたのか。今一度云おうとしたが、聲はおろか呼気すら危うい。 この侭では――、 「火燕っ、あの女の喉笛を貫け!」 火に捲かれたモノが鋭く空を裂き、ヌマブチの眼の前で女に突進する。だが、 それは女に触れる前に飛び出した白獣に噛みつかれ、消し止められて塵と消えた。 「ならば雹王招来急急如律令! 先ずはその獣を凍らせろ! ――ヌマブチ、今の内に!」 高らかに二度響いた聲は、最早耳慣れた退魔師のそれ。ヌマブチは何故か瘴気が止んだのを見計らい、息を荒げ乍ら十三の側へと走る。 「恩に着る」 「此の侭洞の外へ! 直他の者達も来る筈だ」 ヌマブチは十三に云われる侭後退しようとして、つい足を止めた。 出口をみてぱあっと花咲く笑顔が視界を掠め、不覚にも目を奪われたからだ。 『――きてくれた』 女は、雹王はおろかヌマブチにも十三にも目もくれず、よたよたと走り出した。 その先に立っていたのは――――終だ。それに玖郎、碧が続いている。 『ほんとうにきてくれたの!』 泣き出しそうな乙女の聲、小走りに終を抱擁せんと広げた手は、併し。 『……なんだおまえ』 いつの間にか終の前に立っていたゼロに気付き、憎しげに歪む。 『邪魔しないで。邪魔しないで!』 女から、またあの瘴気が吹き出す。同時にゼロは二メートル程の姿に広がると、大の字に構えて終を庇った。その身が腐る事も傷付く事もなく。 『何故効かない! おまえは何者だ!』 「えっとね、初めまして。ゼロはゼロなのです」 レタルカムイがレタルチャペカムイの攻め手を凌ぎくるんと身を翻す。 次いで銃聲――碧の『最も有効な一撃』は突き出された女の掌から肩口迄を貫通し、撃ち砕いた。落ちた腕は内側が朱色で、綿菓子のような質感をみせる。 「こたびは雪か。ならば」 「噫」 いつしか併走し女との距離を縮めていた終と玖郎は、互いに手を翳す。 『何故拒むのっ』 先に仕掛けたのは終。女の周囲が凍てつき乾く。直後玖郎が抜き手を放てば稲光が走り、女に電撃が、次いで氷礫が見舞われた。体中穴が空き、白い衣装が朱い粉を吹いた。 「俺は……違う。槐は此処には来ない」 涙さえ流す女に、終は事実を突きつけるしかない。 『嘘!』 「そう、嘘でありますよ」 『嘘よ!』 ヌマブチが女の背後から銃剣を袈裟懸けに叩き落し、更に銃撃で足腰を砕く。 朱い飛沫が舞い散った。 「幻虎招来急急如律令、女を噛み砕け!」 白虎神の姿はいっそ憐れですらあったが、旅人達が手を緩めて良い事等此の場にひとつも無かった。十三が虎を放ち、その顔面に喰らい付く。 果たして女の顔の片面はまるっと失われ、併し噛み付いた幻虎もぼろぼろと崩れて消えた。だがその時には――、 「とどめだ」 半身に構えた碧が正面から駆け寄り――女の頭部を正拳で粉砕した。 頭を失った女は瞬く間に崩れて総てが朱雪となり果てた。 直後、碧の腕が急速に腐敗したものの、彼女は銃撃を繰り返して腐敗部分を削ぎ落として再生すると云う離れ業で、事無きを得たと云う。 ――どうし、て 夜半になって里へ戻った旅人達は、イメラの家で一連の出来事を話した。 「あれほど云ったのに、何故破った!?」 イメラはコンルカムイに足を踏み入れた事を咎めたが、結果的に一時とは云え白虎神を退ける事で神域が護られたのだと、老婆に窘められ、引き下がった。 また、神域と聞き、龍王との関連性を見出したゼロが伝承を問うた処、老婆から次のような答えが返って来た。 昔々カンナカムイ(龍神)が、東西南北にひとつずつ、四つの理を珠に籠めて配した。 カムイコタンから西東、果ては南のポクナモシリ(死者の国)へ、フレ(朱)が理をなぞって流れ、正しく巡る事で、此の世は安定するようになった。 「西の宝珠は平西将軍が代々管理しておりましたが、五十年前、戦の最中に失われたそうです。他の事は識らないけれど、不穏な気配は日々つのるばかり……」 そして此の北の地に水の宝珠が今も在る事は、先に玖郎が梟から聴いた通りだが、女妖がそれを狙っているとすれば、今後も警戒しなくてはならない。 「また沢山死ぬのかしら……」 老婆は酷く疲れた聲で、独り言のように云った。 そして、翌朝。旅人達は帰途についた。 見送りの為とイメラが境界の森迄同行していた。道中、皆無言なのは、昨夜の気まずさがあるからか。それとも吸った息も凍る程の寒さの所為か。 やがて、森の中程迄来ると、イメラが足を止めた。 「怒鳴ったりして、悪かった。あなた達は神域を侵した訳じゃない。善きカムイの側に、悪しきアイヌ(人)は居ない」 「だが善人とは限らんぞ」 ヌマブチが脱帽して茶化した。 「それは、そうだが……」 いちいち生真面目に口ごもる若者に、ゼロが嬉しそうに問うた。 「じゃあ、また来てもいいのです?」 「勿論だ。コタンの皆もあなた達の事を気に入っている。いつでも来てくれ」 「そうだな……何れまた」 和やかな会話に里でのひとときを想い出し、終も口元を綻ばせて。 雪融けのこの時季に来れて良かったと、心から想えた。 ※ ※ ※ ※ ※ だが、今。 『白騙』店内の空気は彼の地の寒気より尚、張り詰めていた。 「朱昏への再帰属に失敗したのか」 ヌマブチの詰問を背に受けた槐は、茶を支度する手をぴたりと止めた。 「――ええ」
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