「朱昏への再帰属に失敗したのか」 或る旅人の詰問を背に受け、骨董品屋は茶支度の手をぴたりと止めた。 朱昏の北、神夷の地の調査へと赴いた旅人達の前に、あの女妖が再び現れた。「――ええ」 そして短くも深い息を吐いてから、ぽつりと云った。「話を、しましょうか」 五十年前。 セカンドディアスポラ以前、世界図書館と朱昏に隔たりが無かった頃の事。 おりしも征夷軍が神夷の地を併合せしめんと侵攻していた頃の事。 或る世界司書が、恐るべき予言を齎した。「この侭戦が激化すれば、やがて朱昏の摂理を歪める事象が生ずる」 歪んだ摂理は世界の自浄作用を弱め、ディラックの落とし子を易く招き、引いては近隣の平行世界に迄悪影響を及ぼしかねない。 事態を重くみた世界図書館は、朱昏の西方にロストナンバーを派遣した。戦の渦中に潜む『摂理を歪め得る』事象の正体を突き止め、取り除く為だった。「それは、強大な力の発現、或いはその行使者であると、考えられました」 ヴォロスに於ける暴走する竜刻然り、何らかの超常的な力が働いて世界を傷つけるのだろう、と。況して、西国は戦時中。常から理力(当時、未だ世界図書館では『朱』の呼称で統一されていなかった)の満ちる朱昏の事、理力同士のぶつかり合いとも云える戦ならば、充分に在り得る。 ロストナンバー達は調査の末、戦場に立つ、神夷の巫女に行き当たった。 その身に『神』即ち超人的な力を宿した、一騎当千の存在。 これを歪の一因と見立てた旅人達は、行き詰った。 何故なら、無闇に止めさせる訳にはいかなかったからだ。 戦の発端は西国が掲げる西北統一にあり、征夷軍の侵略が止まぬ限り、巫者達と神夷の民は戦い続けねばならない。では西国元首の平西将軍穐原家に休戦を嘆願するか。さもなくば神夷に加担し征夷軍と切り結ぶのか。いっその事、土地を明け渡すよう神夷に降伏勧告してみるか――。 そんな折、導きの書が新たな予言を齎した。何と、巫者のひとりが西国領内に迷い込んでいると云うのだ。それも、あろう事か将軍のお膝元、花京の都で、である。兎に角接触を、と槐達は現地へ急行した。「それが彼女達との出会いでした」 巫者は着崩れた着物もそのまま、夢遊病者の如く呆けた顔で都を徘徊している処を、槐達に保護された。巫者はソヤと名乗った。 聞けば、彼女は己が身に宿す『神』の気紛れに付き合っている内に都へ来てしまったのだと語った。そして、その『神』こそが件の女妖こと後に邪神とされる白虎神――レタルチャペカムイである。 この時、彼女達は、譬えば城攻め等をして侵略者たる穐原家に対し積年の恨みを晴らす事も出来た。遣り様によっては戦を終わらせる事さえ可能だった。 だが、ソヤはそれを望まず、唯「帰りたい」と云った。槐達はふたりを神夷の地迄送る事にした。「道々で、彼女達とは本当に様々な事を話して、親睦を深め合いました」 ソヤを介して神夷との友好的な接触が図れるのではと、皆淡い期待を擁いた。 併し、ソヤと白虎神を伴って境界の森へ足を踏み入れたロストナンバーを、彼女の同胞は歓迎しなかった。ソヤと白虎神が行方を晦ましたのを見計らったかのように、征夷軍の武将が突如発現した恐るべき『術』に因って、只でさえ数的に不利な神夷の軍勢は甚大な被害を蒙ったのだ。その為か、彼らの中には槐達を西国の間者と決めつけ、斬りかかる者さえも居た。 それにしても、槐達は征夷軍が為したと云う術に、徒ならぬものを感じずにはいられなかった。 『神』の力と強力な『術』――その衝突。 征夷軍は明日にも再び境界の森を攻めて来ると云う。 予言が示す時が、直ぐ其処迄迫りつつあるように思われた。 決戦に際し、ロストナンバー達は、征夷軍の『術』を止めるべく、また神夷の被害を抑えるべく、暗躍を試みたが、徒労に終わった。 『術』は発動し、止めに向かった者達共々、神夷軍は壊滅した。「僕は、せめて一人でも多く生存者を助け出そうと走りました。――その時」 突如、戦場に巨大な白虎が出現した。 それは征夷軍の兵を蹴散らし、喰い殺して廻った。また、何もされて居ない者達も苦しみ出しては次々と狂い死んだ。果敢に挑んだ侍は、如何なる刃も獣の身を断つ処か傷ひとつ負わせられぬとみるや、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。 白虎はやがて征夷軍の術者達を殺めて、何かを咥えると何方かへと走り去った。 去り際、槐の前で少しの間立ち止まったが、互いに言葉を交わす事は無かった。 ソヤの姿も、何処にも見当たらなかった。 征夷軍と神夷の世代を跨いだ戦は、両陣営の敗北を以って幕を閉じた。 程無く、西国の各地にて、妖しき老婆の唄聲を耳にした者が狂い死ぬと云う怪異が起きた。同時に謎の獣に因る虐殺事件が相次いだ。 何れ、彼の白虎の仕業であった。 平西将軍は征夷軍の生き残りと瞑赫寺の法力僧、更には神夷に迄協力を仰ぎ、討伐隊を組織した。ロストナンバー達も協力する運びとなった。 白虎神を、廃鉱となった岩窟に誘い込み、行動を制限すると同時に、法力僧が念じて力を弱め、その隙に総出で討ち取るか、悪くても岩窟に封じ込めると云う作戦が考案された。 神出鬼没の白虎神を如何に誘き出すかが問題視されたが、槐が自らを囮とするよう提案した。「役に立てそうな事が他に無かった事もあるのですが……あの戦場を去る時、彼女は僕に何か伝えたかったのではないかと。そう、思えたのです」 他に良案も出ず、果たしてそれは実行され、功を奏した。 槐が岩窟にて待ち構えていると、ソヤの姿を借りた白虎が姿を見せた。 直ちに四方から読経が唱和され、同時に潜伏していた討伐隊が一斉に押し寄せて白虎を囲み、吾先にと刃を向けた。 法力僧の念仏は灼たかであったらしく幾人かの刃が通じたものの、直後に白虎が耳を劈かんばかりの咆哮を発し――先の戦で征夷軍が行使した『術』に酷似していた――侍や僧の多くは一瞬で屍の山と化した。 これに巻き込まれ、身を屈めていた槐の元に、白虎が歩み寄った。 ※ 白虎は槐を押し倒して、云った。最早この身にソヤの魂は存在しない、と。 そして――、『わたしは穐原をころす。わたしはいくさをくりかえすこの国をめっする。わたしは、――わたしはおまえといっしょがいい』 永くソヤと共に在る事でその心に感化されたか、元より槐を慕うものか。「……それが御前の望みか、レタルチャペ」『わたしとともに来い、チクペニ』 槐にとって、その申し出は蟲惑的で甘美な響きを持つものだった。 ※「彼女と逢う日迄、何度も自分に云い聞かせました。討たねば西国が滅びるのだと。けれど迷いは消える処か――正直に云います。僕はソヤに惹かれていた。その姿を遺したレタルチャペに殺意を擁く事等……出来そうにありませんでした。仮令ソヤの魂が既に失われて居たのだとしても」 そうして槐が逡巡している間に、彼女の背に斬りかかる者が在った。 西国きっての剣豪、眞竹強右衛門である。 続いて、岩窟の外に控えていた瞑赫寺の和尚が経を唱え始めた。 二人共、討伐隊の中では群を抜いた実力者だった。 更に、ロストナンバー達も眞竹に続き、此方へ向かって居た。 傷付いていた白虎は強力な経文に戒められた。完全に動きを止められた訳では無かったが、それでも。譬えば――槐が彼女を、只擁き留めてさえいれば、討伐は成功に終わっていたかも知れない。だが。 だが、あろう事か、槐は白虎を押し退けて、身を呈した。 眞竹は鬼面を真っ二つに断った直後、即座に白虎へ一太刀を浴びせたが、反撃を受けて弾き飛ばされ、深手を負った。更に後続のロストナンバーが、傷付く槐を見て猛り狂った白虎に殺された。 手練れを欠いた現状を踏まえ、生存者は撤退を開始した。白虎は尚も追い縋り、阻んだ者達を幾人も屠ったが、外へと連れ出された槐に今一歩で届くと云う処で、岩窟の入り口が塞がれた。 和尚と神夷の民が協力して施した、封印だった。 鬼面の片割れは、白虎の元に留まったまま、戻る事は無かった。 総てが終わった後、槐達を待っていたのは、朱昏からの放逐だった。 龍王は云った。 ロストナンバーの介入が、朱昏の理を乱したのだと。 そして釈明する暇も与えず、雷光を以って追い立て、激しい怒りを示した。 皆が慌ててロストレイルに駆け込む最中、槐は逃げ遅れて、龍王の怒りをその身に受けた。 一命は取り留めたものの、決して癒えぬ傷が、脚に遺った。「その時は何の事だか、判りませんでした。僕一人が彼女を庇い立てした責を問われるのなら兎も角、世界図書館そのものと袂を別つ程の失態が、果たして吾々にあったのだろうか、と。ですが、今なら凡そ見当が付きます。龍王は――」「次、出ました!」 骨董調度を揺らさんばかりに、ガラが『白騙』へ駆け込んで来た。 西国は北西の外れ。沿岸部の、荒れ果てた山岳地帯。 其処に、古くから鉱脈を頂く村があった。「鉱脈? それは真逆……!」「でも、今は枯れてて誰も住んでなくて。あ、お化けなら住んで――……へ?」「…………」 血相を変えた常ならざる様子の槐と皆を些か気の毒に思える程きょろきょろ見比べた後、挙動不審者は空気でも読んだか咳払いをしてから、地理情報に触れた。 そうして要領を得ぬ説明より要領を再構築した槐は、何処か諦め気味に云った。「間違いありません」 嘗て、討伐隊が白虎神を封じた岩窟と、その麓の村。 どうやらそれが、今回赴くべき処であると云う事を。「?? あの?」「……いえ。済みませんでした。どうぞ続けて下さい」 口をへの字にして左右に首を傾げる世界司書に、槐は先を促す。「はいです。んっと、そうそう。お化けいっぱいの村なんだけど」 そのお化けとやら――懼らく霊魂の類い――が廃村と化した原因なのか、然も無ければ村が打ち捨てられた後、何方より流れ着いたか迷い込んだか。 何れにせよ、村が只の村であれば斯様な事態には為り得まい。「……欠片、ですね」「ですよう。それも一個あるだけだったのが、今は三つ」「つまり、外から持ち込まれたと」 一体誰が、何の為に。「えと。菊絵が来てるから」「菊絵さんなら旅客登録をしに、先程図書館へ出かけましたが」「じゃなくて村に……あれ?」 世界司書と骨董品屋は視線を交わす。 そもそも、過去二度にわたり旅人達の前に姿を見せた幼い菊絵と、先日保護された菊絵とでは、年恰好が符合しない。 尚、導きの書に示された菊絵は前者、童のほうだと云う。「とにかく? ちっちゃい菊絵がニ個持ってます。それと元から村にある一個。……でね。できたら、どっちもすぐ回収して欲しいんだけど、その。ちょっとややこしい事になってて」 ガラは三本指をにょきにょきと開閉する。 大きな問題となり得る予言は、次の三つ。 ひとつ目。廃村及び周辺の山岳部には、薄い朱が漂っている事。 少し前、有志の旅人によって調査された、東国の朱溜りとも喚ぶべき森。それを髣髴とさせる環境にあるらしい。併し、濃度は朱溜りはおろか朱霧ほども無く、心身が衰弱しているのでもなければ、人体への影響は少ないものとみられる。 とは云え、到る処に朱が漂う以上、何が起きても不思議は無い。 ふたつ目。レタルチャペカムイが村に顕現し、徘徊している事。 今の処、彼女はロストナンバーを敵とは見做していないようだが、危険な存在である事は最早周知の事実。更に、目的は不明だが彼女も幼い菊絵を追っている。 遭遇した場合の事を考えておかなくてはならないだろう。 そして、みっつ目。幼い菊絵の肉体は、欠片の力で保たれている事。 理由は判らないが、あの童は『そういう仕組み』で歩き回っているらしい。 欠片は常に携えている三味線と共に在る。もし、失えば――。「ガラにはどうしていいのか判んないです。でも、」 欠片は、元々朱昏の世界計の欠片である事が、先の一件で判明している。過去、それを手にした者の悉くが超常の力を宿し、一様に災禍を招いた点を踏まえれば、矢張り一個人が所有する事を認めるべきではないのだろう。 そして修復して正当な在処へ返還すると云う世界図書館の方針に、変更は無い。「だから、なんとか――」「ただいま」 ガラの言葉を遮ったのは、菊絵の控え目な聲だった。「……」「…………」「……え?」 皆、菊絵を一斉に見ていた。「御帰りなさい」「え? あ、うん」 優しく応える槐に慌てて頷く菊絵から、くるんと首を皆のほうに戻して。「なんとかうまい事お願いしますよう」 ガラは適当に掬んだ。 ※ ※ ※ つよくりきんだうみかぜは、あれてあばれたなみをよぶ。 もまれたみずとすなときを、うるさいぐらいにたたきつけ。 よせてはかえし、かえしてよせて。 ふれたものみなのみこんで、いっしょくたにしてもみしだく。 そのせとぎわでおさなごが、どこかものうげにしゃみひいて。 はまべにのこしたあしあとを、みえぬまなこでふりむけば。 とおく、うしろでけものがわらう。わがこのきょうりにありながら。「まだこんなところにいたの」 わがこのむくろを――あざわらう。==!注意!==========このシナリオは、以下の企画シナリオと同じ時系列の出来事を扱っております。同一のキャラクターによる当該シナリオへの複数参加(抽選エントリー含む)は、ご遠慮ください。・【瓊命分儀】いんくんし================
浜辺に輪をかけて痛烈な迄の強風が男の身を叩く。 軍服がばたばたと国旗の如く波打ち、思わず帽子を押えた。 だが、岩肌の崖の淵に立つ女の着崩した着物も長い黒髪も、微動だにしない。 『あらご機嫌よう。お久しぶりね』 女は徐に振り向き、男に流し目を送る。 聲を張り上げても居ないのに、不思議と挨拶は明瞭に認識出来た。 「御機嫌よう、霊峰以来でありますかな」 男は持ち前の聲量で応え、それは風に負けぬ響きで届いた。 崖下で打ち付ける波の轟音が、両者の間を広げんと高鳴る。 女は一歩進み出る。男も又、彼女に倣い実際の距離を狭め合う。 『ふふ……それで。今日はどんなご用の向きかしら』 「何、以前御助け戴いた礼をして居なかった事を思い出しまして」 男はとぼけた事を云って、更に前進する。 女はくすりと妖しく喉を鳴らして、猫を思わせる笑顔をみせた。 ※ ※ ※ 往けど留まれど眼を凝らせど。朱。 僅か二度、此の地を踏む迄に、幾度其の名を耳にした。 人を狂わせるとも魔性を強めるともされる理力は、幸いにして此の探索者を取り込みも拒みも狂わせる事もしなかった。 ――今の処は、だが。 碧は壁伝いに延々と歩き続け乍ら、絶えず思索と、其の名と同じ色の眼を忙しなく、それで居て此の上無く冷静に巡らせ続けた。 己とは真逆の鮮烈な色彩は不規則な濃淡を以て宙を染めて、薄めて、波を描いて――其の様がほんの少し、水底に似て居る気がした。 靴底と篭手越しの感触が、此の魔窟が一応は物理法則の範疇に収まる場なのだと識らせてくれたし、更に、碧の背に生えた透けた翅と見紛う骨格も、廃鉱内部の湿湿した冷気を正確且つ精密に感じ取っては居たのだが。 だからこそ、碧は視覚に一層の意識を集めた。 偏に朱昏の世界計、其の欠片が廃鉱に在ると睨んでの単独行である。 仮に的外れだとしても、 ――何か在る筈だ、必ず。 何しろ此処は嘗て朱昏に係った旅人達の終点にして、現在の旅人達にとっては懼らく、始まりと目すべき場所なのだから。 とは云え、廃鉱内に足を踏み入れて以来、何も起きぬ――。 お……おお…………。 否。前方から騒騒と人人が鬩ぎ合う聲がする。 そして剣戟の調べ、木霊する悲鳴と――聞覚えの在る哄笑。 ――妙だな。 真実聲や物音の主が居るのなら、疾うに気付いて然るべきだ。 だが、確かに奥から音は鳴る。已然気配は伴わぬが、進む度、それは近付きつつある。此の先に、何が居る? それとも、朱が碧を惑わして居るのか。 刹那、碧は身を硬くした。 憤怒と冷え切った恐怖が入り乱れた蒸気と形容するより無い何かが、背面から彼女と重なったからだ。それは碧の身体を突き抜け、碧い双眸に映った。 覚悟ォッ! 奇声を上げて奥へ奥へと駆ける男を眼で追えば、似た風体の者達が思い思いに構え、或は斬り懸かる。或は崩れ落ち、或は弾き飛ばされる。 彼等が囲むのは――あの女だろうか。 併し、侍達同様気配も無ければ、彼の女妖が顕現せしめた生命自体を否定するが如き危機感も無く、何れ既に存在し得ぬ者達だと碧は直感した。 ――霊……違う、思念。そう、残留思念。ならば畏れる事は無い。 碧は嘗ての戦場へと、歩を進めた。 打ち寄せて砕けた荒波に、両断された男の影が明滅して溶けた。 実無き者を実として斬った技の主は、編み笠の小柄な男。亡霊が完全に霧散する頃、彼は既に波打ち際から退いて次なる標的へと駆け出していた。 元より足場に左右されぬ身のこなしは、砂地に在って尚、恰も雀の如く軽やかに飛び廻っては斬り、閃いては跳ねて、次次哀れな霊を討つ。 視る者が視れば嬉嬉と戯る小鳥其の物なのかも識れぬが、当の剣客――雀が真実喜色を体現して居るか否かを確かめんとする物好き等稀であろう。 少なくともヌマブチにそんな気は皆目無い。 況して、 「ヒャッハッハッハッハア!」 実に実に愉快げに暴れ廻る等、縁遠き事。 ジャック・ハートは宙に浮かび、稲光を一帯に撒き散らして、雀が討ち漏らした霊達を追い廻し、貫いた。大味に視得るが、眼を焼く程に眩い電撃が同道者達に当たる事は無く、避けてすら居た。 斯くして亡霊は瞬く間に蒸散し、後に遺るは薄い朱色に包まれて尚色褪せた砂浜と、波を乱暴に運ぶ下世話な風に吹き曝された旅人三名のみとなった。 「此処には居ない様でありますな」 ヌマブチは三白眼を足元に向け、砂地の濡れた側と乾いた側の境界を凝視した。処処波に食まれて失せては居るものの、彼らの無骨なそれとは異なる幼子の小さな足跡が、只管一方向へと続く。其れを何処迄も眼で追う、と――、 「……! オイ!」 ジャックが不審を聲に出した。雀が傘を下げた。理由は明白だった。 ヌマブチは其の先に視得たモノの元へ――たった今、懼らく三人の目に映った、横たわる娘の処へ足早に近付く。外の者もそれに続く。だが、 「あン? 如何なってンだ、何も居無ぇじゃねぇかヨ」 逸早く飛んで現場へ着いたジャックが、落胆混じりに気の抜けた顔をした。 雀は僅か首を傾げて居る。思案中なのかも識れない。 「消えた……?」 或は、『現在』の此の地に起きた情景では無かったのか。 「けどヨ、今の面ァ間違い無く『あの菊絵』とそっくりだったゼ」 それはヌマブチも遠目乍ら確かめられた。 付け加えるなら娘はずぶ濡れで、打ち上げられたばかりの土座衛門にも視得た。 それは兎も角、彼等は三者共、幼い菊絵との面識こそ無いが、此処に来る前『白騙』で菊絵の顔を視て居る。歳恰好こそ違うものの、何れレタルチャペカムイ――厳密にはソヤと云う名の女――の面影が認められる。 ――レタルチャペカムイ、か。 女妖を思い出すと、ヌマブチは名状し難い独特の感情が沸き起こる。 恐怖とは即ち危急より身を護る為の、生きる意志の裏返しだ。 それは亡くしたと感じて久しいモノを視付ける手懸りとなり得るのか――。 「――俺ァもう一辺村の方当ってみるゼ」 ジャックの言葉が唐突に耳に入り、ヌマブチは僅かな沈思から浮上した。 ――埒も無い。 年甲斐も無い自分探し等後廻しだ。今は一刻も早く菊絵を、欠片を確保せねば。 「では某は屋敷を覘くとしようか」 ヌマブチがそう云うと、雀が幽かに面を上げて軍人に視線を寄越した。 同道の意思表示なのだろうか。 ジャックも口数の少な過ぎる仲間の意志を諒解したのかして居ないのか、「ンじゃ、ヤバい事ンなったら呼べや」と哂い、又宙へ己を浮かべた。 「どぉせ俺ァ戦闘バカだからヨ、ヒャハハハハ!」 賑やか過ぎる男はゲラゲラと波音にも負けぬ木霊を遺して、飛び去った。 ヌマブチも直ぐ歩き出し、雀も矢張り無言の侭、後に続いた。 ※ ※ ※ 此処で、骨董品屋『白騙』にて世界司書が強引に話し終えた処迄遡る。 ヌマブチは切符を配ろうとして居たガラの元を過ぎて、槐の前に立った。 「有情結構。人らしい美しい感情だ」 やたら通る聲は一同の注目を集め、俄かに鎮まる中、槐は只相手を視た。 「だが其の末に無辜の民へ齎される害について思索を巡らせた事はおありか」 何も応えぬ白髪鬼に、ヌマブチは尚も畳み掛ける。 「其の害への対策は当然考えて居るのだろうな?」 皆が経過を見守る中、暫しの間を空けて、漸く槐が口を開いた。 「僕如きが策を弄した処で如何成る物でも在りません」 ヌマブチは暫し槐を(懼らくは)睨んで居たが、やがて振り返ると、 「今此の事態こそが、貴殿等の半端が招いた物と識れ!」 と云い捨て、実はずっとまごまごして居たガラの手元から切符を引き抜いた。 併し、真っ先に店を出ようとして居た強面の軍人の背に、 「沼淵さんは、」 鬼面の店主は、妙な事を尋ねたのだ。 「猫がどんな時に啼くのか御存知ですか」 「……? 何の話だ」 「――いいえ。忘れて下さい」 軍人は少しの間立ち止まって居たが、直ぐ「ふん」と鼻を鳴らして出て往った。 其の、少し後。 「あんたはどがァしたい」 灰燕は茶菓子でも選ばせる調子で、菊絵に何事かを委ねんとして居た。 「あ……の」 答え倦ねてか俯いて指先を弄ぶ菊絵を、灰燕は大人しく待つ。 「ん?」 「『あの子』のいうとおりにしてあげて。……あ、下さい」 灰燕は「ええじゃろ」と云うなり、踵を返して、 「――おォ、ほうじゃ」 何事を思い至ったものか、半身を向けて再度娘の方を向いた。 「あんたが死んだんは何時の事じゃ。邪神とやらが穴に放られる前か、後か」 「……え? あ、あと。多分、後です」 菊絵はおどおどと答えて、三味線を抱える様に身を縮めた。 「ほうか。ほうじゃろな」 灰燕は今度こそ用は済んだとばかり、さっさと店を後にした。 ※ ※ ※ 灰燕は煙管を咥えた侭、腐りかけた襤褸神社の境内を往く。 社は後部が土砂に埋没し、祀神の名も無ければ狛犬や獅子等の姿も見当らぬ。 境内の中央には、彫り込まれた模様が潰れて只の不規則な傷と為り果てた、これ又得体の識れぬ祭壇――の、残骸が無造作に転がって居た。 「なンもかも胡散臭いのォ」 来たばかりの頃は、宮司やら巫女やら村人やらの有象無象が哭き喚いて喧しかったが、凡て彼の半身たる鳥妖の白焔が焼き尽くしたので、直ぐに鎮まった。 如何やら此処は、以前蜂姫と鬩ぎ合った折、鳥妖――白待歌が幻視した、何某かの儀式の舞台であるらしかった。 又、風が吹き、紅い羽織が朱混じりの宙を舞う。 磯の香りと木々の匂いと共に、血の臭いと瘴気が流れ、灰燕の鼻をついた。 やだ……やぁだ! 我儘云わないで。大丈夫、怖くないわ。 鞘の鯉口から、主に注意を喚起する様に白焔が洩れた。 「判っとる」 灰燕はそれでも鷹揚に佇み、気だるい眼で周囲を見廻す。 何時しか空には幾重にも雲が堆積し、朝焼けとも夕暮れともつかぬ色に染まり、神社の真上で渦巻いて居た。雑木林は騒がしく揺れて、境内に在る朽ちた筈の鳥居、社、祭壇の凡ては、原型と思しき姿で在るべき正位置に在った。 更に祭壇と社の狭間には簡素乍ら台座が備えられ、其の上には、陰陽の合わさった一個の珠が鎮座して、朱い光を鈍く湛えて居る。 土砂は失せ、代わりに先程焼いて浄化した宮司だの巫女だの村人だのが祭壇を向いて整然と居並び、一心不乱に祈祷する。誰もが、何かに、脅え乍ら。 やだ! もういたいのやだあ! おまえから『悪いもの』を落とすだけ。痛いのなんてほんの少しの間だから。 やがて鳥居の外から、複雑な柄――魔除と思しき――がびっしり編み込まれた着物を着た女と、三味線を抱えた未だ十にも満たぬであろう童女が顕れた。 童女は女に引かれ乍らも必死に離れようと足掻いて居たが、一切力まぬ女の手から逃れる事は叶わず、如何に暴れようと女の歩調が乱される事は無い。 菊絵と――レタルチャペカムイか。 傍目にはだだを捏ねる娘と、それを宥める母の図だ。 ね。いい子だから。 やだやだやだやだやだ! ――うるさいッ! っ!? 母は娘を金色に光る眼でひと睨みする。 娘の涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔が凍りつく。 三味線をごとりと落とし、糸の切れた操り人形の如く母の手にぶら下がる。 「ほォ」 其の力に、灰燕は――此度同道した誰よりも――覚えが在った。 ……っ、っ? ……! ふ、ふ、いい子―― 唐突に、儀式の情景は消えた。 「…………」 元通りの腐った境内に静寂が戻る。矢張り神社は荒れ果て、土砂は崩れて居た。 灰燕は煙管から口を離し、傍に聳える山を見上げ、ふう、と紫煙を吐いた。 それは直ぐに風に流れて、消えて仕舞った。 一面に敷き詰められ、壁面に迄積み上げられた、夥しい、無数の、髑髏。 碧の視界を埋め尽くす、白い半球の群――だが、異様で不気味な此の部屋は、突き当りに有る人の形をしたモノに比べれば、驚くに値しない。 カムイの民の物と同じ奇妙な柄の衣服。赤味の認められぬ病的な肌。濡れ羽色の豊かな髪。紛れも無い、嘗て碧が北の氷窟で討ち滅ぼした、あの女だ。 だが、其の瞳は長く濃い睫毛にて伏せられ、細い身体も髑髏の座に崩れる様に、支えられる様に腰を下ろした侭、静止して居る。 ――屍蝋。 海と縁深き者にとって、それ自体は珍しく無い。水死体の多くは屡哀れな吾が身を蝋に変じた姿で生者の前に顕れる。尤も、大抵はぶくぶくと膨らんだり醜く崩れて仕舞う物で、原型を留めるケエスは皆無と云っても善い程である。 だが、コレは如何だ。 今にも眼を開けて動き出しそうな程瑞々しく、生前の美を完璧に留めて居る。 ――見事な物だ。 ソヤと云う女の躯か――碧は嘗ての戦で獅子奮迅の活躍をみせたと謂う女傑を前に、暫しの間瞑目し、それから改めて周囲を観察した。 ソヤと人の頭蓋の外は幾許か白骨が散らばるのみで、特に目ぼしい物は無い。 斯くも死体が犇き乍ら、且つ朱溜りの中に在って何も起きぬのは、何故だ。 ――只の地下墳墓の類に視得なくも無いが、 「む」 肋骨の翅が、幽かに揺れた。 後方。誰か――複数――二人。ゆっくり此方に向って来て居る。 碧は壁に身を添わせて、来た道を引き返しては窺い、窺っては息を潜めた。 『――そう。それで、』 ――奴だ。もう一人は? 何者だ。 碧は音も無く握り手を作り、機を窺う。視ずとも間と位置は判る。 『あの人はなんて云ったの?』 「槐は、」 ――……? 此の聲、何処かで。 『――待って』 ――気取られた。ならば、 碧は即座に奇襲を強襲に切り替え、拳を振りかぶって飛び出した。 元より力ずくの方が得意だ。 併し、驚きも慌てもせず笑みを崩さぬ女妖に狙いを定めた刹那、朱に靡く翅がもう一人の接近を感知して、碧の意識に幽かな逡巡を招く。 人を遥かに超越した海の戦士はそれでも速度を緩めず駆け続けたが、手甲より伸びた刃が敵に届く直前、薄紅色の花弁が幾つも散り、彼女の視界を遮った。 覚えの有る気配――覚えの有る花弁――覚えの有る――、 「済まん」 「おまえは、」 ――若者の顔――不器用な、謝罪の聲。 「ゆき、み……い――つ――――……」 碧は倒れ伏し、朧げな意識下の速度の異なる胡乱な世界で、其の名を喚んだ。 『あらあら』 ジャックは到着以来、其処彼処で過去の惨劇を幻視した。 視界確保の為と、透視能力に加え精神感応も開いて居る所為だろう――既に肉を喪って尚彷徨う者達の想念が手当り次第ジャックの中に這入って来る。 「……チッ」 ジャックは不快感に眉を顰め乍ら、荒廃した村落部を飛行巡廻した。 白虎神は如何だか識らないが、菊絵の方は徒歩で移動してそうな物だ。 浜辺の足跡は波にも風にも完全には解かされて居なかった。 未だ近くに居る筈。 ――白虎神が欠片を総取りってのだけは邪魔しねェとナ。 意識の表層に或る種の使命感を浮かべ、菊絵への同情を深層に包み晦ます。 或は以前の報告書に目を通して居たのか、そしてそれが誰か――たとえば彼が同種と見做す存在――に似て視得たか。定かでは無いが、兎に角ジャックは幼い菊絵の在り方に、怒りにも似た激情を擁いて居た様だった。 故に、真実ジャックが慮るのは欠片では無く、童女の身柄と云う事になる。 それを強く認識し、自覚して居るからこそ、ハートのジャックは使命に拘った。 にしても、 ――此の辺にゃ居ねェカ。 生者の影も意識も無い。ならば次は神社にでも往ってみるか。 屋敷に往ったヌマブチ達は、何か見付けたのだろうか。 ――あァ、そう云や確か。 ヌマブチが何かあればエアメールを寄越すと予め云って居たのを思い出す。 ジャックはトラベラーズノートを取り出し、刮目した。 ――ワレ菊絵ヲ発見セリ。 「ヒャッハッハッハッハ!」 次の瞬間、ジャックは屋敷の上空に居た。 眼下に望む庭先では、ヌマブチと雀が、 「あアン?」 切り結んで居た。 少し離れた木陰では、童女が其の様子を窺って居た。 ヌマブチは菊絵及び欠片を――其の目論見が何であれ――レタルチャペカムイの手に渡るのを食い止めるべきだと考えて居た。此の点では外の者も賛成するか、少なくとも異は唱えぬ筈だ。 ヌマブチは菊絵を発見するなり、先ずは全員にエアメールで其の旨を識らせた。 次に菊絵の元へ近付き、彼女から三味線を奪い取ろうとした。 だが、其の隻腕は虚しく空を切った。 ヌマブチの三歩先には、菊絵を抱えた雀が身構えて居た。 枯葉に埋れた乾いた簀子を挟み、両者は睨み合う。 「邪魔をするな」 「…………」 雀は、菊絵に幾つか尋ねたい事があった。 故、殺気を気取った彼は咄嗟に飛び出し、阻止するに到った。 雀はヌマブチを見据えた侭童女を下すと後ろの木を指し示したが、直後、其の眼が見得ぬらしい事を想い出し、錆び割れた聲で只「下がれ」とだけ云った。 直後、ヌマブチが仕掛けた。 雀も柄に手を掛け、とんと前へ跳ぶ。 銃剣の刃が妖刀と重なり、滑った。剣戟の金切音は低いのは雀が受け流した為。 「女妖が其処の娘と接触すれば如何為るか、」 一歩退く雀にヌマブチは突きかかる。雀は更に一歩跳び退いて避ける。 「貴殿には判らんのか」 ヌマブチは切先で地を突き、慣性に任せ前方へ躍り出て足払いを繰り出す。 雀も黙した侭、前方へ跳んでかわしがてら胴に一閃し、 「ぬっ!」 辛くも凌いだヌマブチ目掛け、着地と共にもう一閃――鞘を放つ。 ヌマブチは屈んで避け、其の拍子に簀子を強く踏んでばんっと跳ね上げた。 「っ」 鞘の鐺が額の隅を掠め、軍帽が宙を舞う。 軍人が立ち上がる迄に剣客は、とん、とん、と後方へ跳ね菊絵の前で留まった。 顕わと為ったヌマブチの額に出血が認められた。 雀の編み笠は一箇所切れ目が出来た。 「飽く迄立ちはだかるか。ならば」 ヌマブチは今一度構え、呻く様に云った。 「…………」 実の処此の時、雀は諌めるべきか討つべきかと些か困って居たのであるが、何れにせよ何を如何語り掛けるべきか惑い、結局は無言で構えた。 両雄は再度睨み合い、ほぼ同時に地を蹴った、其の時――、 ――二人の間に閃光が落ちた。 「なァに遊んでやがンだ、ええオイ?」 じりじりと帯電した両腕を広げた男が、其処に立って居た。 「ジャック殿」 ヌマブチが銃剣を降ろし、雀も納刀する。 仲間達が戦意を失したとみたジャックは雀の後ろに控える娘の元へ往った。 木陰に隠れる様にして居た菊絵は想わぬ第三者の登場に、小首を傾げる。 「お前も自分の痛みが分かんねェクチか」 「え」 「独りで全部抱える必要ねェだろォがっ!」 「?」 顕れるなり激昂する男に、菊絵は視得ぬ眼を瞬いて、不思議そうに顔を上げた。 ヌマブチと雀も何が何だか判らず、つい互いの顔を窺って仕舞った。 「あっ」 菊絵が小さな悲鳴をあげる。 其の足元には――袖から落ちた右手が、雑草に紛れて転がって居た。 此の後精神感応を試みたジャックは、『菊絵の身体』に朱以外の何も遺されて居ない事を識り、同時に、犬か何かに似た意識を、三味線から感知した。 からぁんからぁんと下駄の音が、くぐもった独特の響きを奏でる。 風が吹き込む故か、単に穴倉だからか、或は――朱の所為か。 朱は時として人を鬼たらしめると謂う。ならば、鬼が触れたら如何なる。 ――如何もならんか。 唄でも唄う様な取り止めも無い思考に任せ、刀匠は散策がてらに鉱道を往く。 周囲を取り巻く白焔は、濃い朱とぶつかる度、ぱちっと大きな花を散らした。 若し刀匠が正気を喪う事があろうと、此の焔が何とかするだろう。 そも、正気とは何だと男は笑う。人たらんとする事か。 鬼と喚ばれる前、鉄と向き合う頃にはそんな物置き去った後だった様に想う。 人の条理が正気と云うなら、自分はとうに狂って居る。 故、仮に此の魔窟に自ら飛び込んで人を辞さんとする者が居たとしても、男に其の胸中は量り識れぬだろうし、又興味も無かった。 だが、如何なるのかは一寸観てみたい気もする。 只朱に侵され無様に狂死するのみか。其の者の覚悟が結実し、鬼と化すのか。 ――そがァ物好きが居ったら退屈せんのォ。 己の様な。 徐に焔が往く手の朱を焼き、灰燕の視界を広げた。 「どォした」 其の先に舶来の薄い羽織と細袴を履いた、妖精の如き姿の女が横たわって居る。 確か、碧と云う名の女だ。そう云えば真っ先に此の廃鉱に向って居たか。 其の細かろう手を納めた篭手が些か物珍しくはあったが、灰燕は取り合えず此の場で起きた事と、自分達の外に此処に居る何者かの事を意識した。 眠れる麗人の周囲には薄紅の、櫻の花弁が、幾つも散らばって居た。 覚えがある。 世界図書館の依頼で、幾度か行動を共にした。 そして此の冬の終り、早春の頃の戦。彼の魔獣の元で、櫻の花が散った。 ならば、此の先に居るのは――、 「用心せェ」 『御意』 灰燕は白焔を伴って、常より足早に、堂堂と歩き出した。 ぞんざいに湾曲した通路を、奥へ奥へと下駄の音も忍ばず大股に進んだ。 『まあ――』 果たして辿り着いた場所、されこうべに埋め尽くされた、妙に寒い部屋に――、 「……灰燕」 『千客万来だこと』 其の男、雪深終と、黒い面の欠片を持つ女。そして女と瓜二つの躯が居た。 躯の腹には赤黒い渦がとぐろを巻き、終と女は其の傍で灰燕に振り向く姿勢だ。 灰燕はばつが悪そうな終に一瞥をくれてから、直ぐに女を視た。 「あんたが骨董品屋の昔馴染みか」 『ええ……、前に逢ったでしょう? そっちの”お前”とは』 女は白待歌にゆらりと手を差し伸べて、妙な事を云った。 『あら、もう忘れたの。秋に私を”視た”じゃない?』 「……ほォ」 白待歌は白虎神と思しき女を幻視したと云って居た。 其の際に向うも此方を『視た』らしい。一筋縄では往かぬ手合いの様だ。 「――白待歌ァ!」 灰燕は白焔を吹き付ける風に乗せて嗾けた。終が「待て!」と叫び手を翳す。 熱風は朱く氷った水気に触れて弾けた。白と朱が交差し、幾つもの花の様に舞い散り、悉くは互いを打消し合って、後には湿った空気だけが遺った。 「待って、くれないか」 終が余裕の無い顔で、女を護る様に立ちはだかった。 「訳は」 「…………云い難い」 「ほうか」 追求する気は無い。後は――灰燕はやや顎を上げて、女に問うた。 「あんたはどがァする」 『私? ふふっ、ふふふふふ』 終よりも少し背の高い女は、若者の肩越しに一頻り哂ってから、 『おまえがこの子を邪魔しないのなら、どうもしないけれど』 と云って、其の直後にはがらがらと崩れ、忽ち粉々の朱い屑と成り果てた。 ここでは、ね。 来た道の方から聲がしたので、灰燕は何とは無しに上体を其方に向けた。 「……ふん。せせこましい女じゃ」 外に居る連中の処へ、或は菊絵の元へ往くつもりなのだろうか。 それはそれとして――灰燕は再び前を、終の側を向く。 半妖は既に背を向けて居た。彼の前には、躯と、先程より広がる渦が揺らぐ。 「――往くんか」 鬼は短く尋ねた。 「噫」 人とも鬼ともつかぬ者は短く答えた。 若者の姿が、一瞬。 伸ばした髪を結えた着流しの男のそれと重なり。 灰燕も終に背を向けた。 後ろで何が起きようと、それは与り識らぬ事。為るように成るのだろう。 斯くして、雪深終は姿を消した。 後で各各が識った事だが――如何やら先刻灰燕が視た情景の続きを、ヌマブチ、ジャック、それに雀は目にして居た。 三人が菊絵に誘われる侭神社に来て直ぐの事である。 女は死人の様に大人しい娘を胸に擁き、雀の眼前を過り祭壇へ向う。 剣客が女を示し「アレは母か」と問えば、擁かれた娘と同じ姿の、今はジャックに抱えられる瞽女は「菊絵の母」と、何処かずれた返答をした。 浜辺での幻視、ジャックの精神感応等からも類推出来る事だが、此の菊絵はターミナルに居る菊絵の躯に過ぎぬ様だ。そして躯を動かして居るのは、瞽女が持つ三味線――犬らしき妖、又は付喪神――であるらしい。 ならば視覚と云う概念が躯の側に無いのも道理。 此の解に最も面食らったのはジャックだったが――彼は感応力で擬似的に視覚を共有するつもりで居た――菊絵の保護に対する意志は揺るがなかった。 長過ぎる後ろ髪が石畳に垂れて広がり、するり、するり、石畳を撫でる。 人人の祈祷は徐々に聲高と成る。脅えて。震えて。 祭壇の前に立つ宮司が二人を迎え、黒い布で娘に目隠しをした。 母が祭壇に娘を寝かせると、祈祷の唱和は一層大きく響き、最高潮に達した。 「聴くに耐えんな」 「全くダ」 ヌマブチとジャックが揃って不快感を顕わにする。 耳触りな祈祷、厭がる娘に邪神と来れば碌な目的の儀式では無かろう。 母は目隠しの娘が横たわる祭壇をぐるりと廻り、台座の前へ立つ。 鋭い爪が伸びた掌を陰陽珠の上に掲げて。包む様に撫でる様に、手を置いた。 びきり。厭な音が走った。それは連なり、低く大きく深まって。 何かが、ばぁんと弾けた。蜂姫との戦いで雀が視た光景其の物だった。 台座から幾つもの光が朱色の尾を引いて林へ村へ、北へ東へ、空へ飛散した。 中でも一際大きな黒い欠片は、菊絵の小さな胸に突き刺さった。 台座を中芯に朱と瘴気が噴き出して境内から村全体に吹き荒んで包み込んで。 或る者は斃れ、或る者は狂乱して暴れ始めた。 ああァアはははっはぁはははははははははははっ! 母は、笑う。哂う。 数多の屍を生んで尚血みどろの殺し合いを繰り広げる者共の中。 無邪気に残忍に酷薄に心地好い顔で悦に浸り乍ら何時迄も面白可笑しく。 何かの弾みで祭壇が倒れ、投げ出された娘は、胸を抑え乍ら逃げ出す。 三味線を拾って、よたよたと鳥居を潜り――山の方へ。 そうして過去の情景は終った。白白しい沈黙が、暫し境内を支配した。 やがて、 「何故帰った」 長い長い間を置いて、雀が菊絵に問うた。 「わたすものが、あるから」 意想外の聲にヌマブチは怪訝な顔をする。 「渡す物? 誰にでありますか? 真逆吾吾に」 「そう」 「なっ」 菊絵の紡ぐたどたどしい言葉は、更に一同を驚かせる物だった。 「ずうっと前、あの欠片を鯉のあねさまからもらった人たち」 「そりゃオメェ」 ジャックが眼を見開いた。 「あなたも、あなたも、あなたも。あの人たちといっしょ。だから」 コレは真理に目覚めた者を識別して居る。 「おさむらいさまの塚と、都のおやしきにあった欠片。もってきたの」 「……そして吾吾が来るのを待って居た、と?」 「そう」 「実際助かるケドヨ。ナンデ此の村に来るって判った?」 「ここにもあるから」 欠片か。 「からだも、もうだめになるし」 落ちた手を三味線共共抱え、菊絵の躯は山と云うか崖の側を向いた。 其処に欠片があるのだろうか。 「では某は欠片の確保を優先するとしよう」 ヌマブチも同じ結論に達したのか、踵を返して山道へ向った。 其れを見送り乍ら、ジャックが躯を擁く手を力ませて、宥める様に云った。 「安心しろ、お前の仕事は俺達が引き継ぐ。……お前だって休んで良いンだ」 「……? ……うん」 躯はやはり不思議そうにしつつも、善意とみたか一応頷く。 一方雀は「仕事」と云われ、もうひとつ疑問を想い出した。 菊絵が過去に浄霊の行脚を続けて来た理由である。 「何故鎮める」 口に出た言葉は如何にも唐突だったが、躯は理解したらしかった。 「菊絵がむこうでさみしくならないように」 ソレは本来の菊絵の魂――つまり旅人が保護した菊絵の事か。 「でも、菊絵はいなくなったから、もう」 そんな事迄判るのか。 「あ」 ――……ああァっはははははははははははははっ。 「!」 「チィッ!」 つい先程耳にしたのと同じ哄笑が、山の方から木霊した。 ※ ※ ※ そして。 其処其処の礼節を以て感謝の意を述べた後、ヌマブチは徐に提案した。 「ひとつ雑談でもしようじゃないか、御婦人」 『いいでしょう。今は気分がいいから』 白虎神は、実に愉しそうに何度も首を傾げて、これを受諾した。 すかさずヌマブチは切り込む。 「何故あの娘を狙う」 『人聞きの悪い。私は欠片が欲しかっただけ』 「これは失礼。では何の為に?」 『そうやって藪から棒に訊いたって教えてあげないわ』 白虎神は、呆れた素振りで明後日を向く。中中に手強い。 「……質問を変えよう。貴殿は嘗て西国から何らかの術具を奪取したと聞き及んで居る。それは欠片――否、世界計ではありませんかな」 『……そう。あの人、話したの』 最早尋問に近い軍人の問い掛けを受けた女は眼を細め、又大きく開いた。 『確かに私は、あの忌忌しい征夷軍から金理の珠を奪った。理を掌る物――成る程、あなた達が”世界計”と喚ぶのも道理だわ。それを、穐原と来たらこれ見よがしにひけらかすんだもの。だから失くしたりするのよ』 「ならば征夷軍が発動した『術』とは何だ」 ヌマブチよりもずっと野暮で無粋な風がうねって二人を撫でた。 『……識りたい?』 「如何にも」 『ふうん』 白虎神は含みを持たせ、わざとらしくヌマブチに沿ってひたひたと廻る。 そして唐突に顔を向けると、云い放った。 『あなた、鬼ね』 「…………何?」 『鬼とは気がつくとなっているもの。そして、それを望まぬ者はそうなる前の自分を慌てて探すわ。一度鬼になってから人であろうとするなんて』 「某はそんな話をしに来たのでは」 『哀れだこと。ふふふ』 「…………!」 女は囀る様に喉を鳴らし、割れた鬼面の面に頬擦りした。 びぃんと太い弦が弾かれて、其の音は強風を散らした。 ヌマブチの眼の前で、白虎神の金眼の瞳孔が細長く収縮する。 振り向けば、其処にはジャック、雀、灰燕、碧と、菊絵の姿が在った。 『慎みなさいレタルセタ。それとも――』 威嚇するかの如き開かれた口からは鋭い牙が上下に窺えた。 『――犬神風情が盾突くか!』 ヌマブチは失くした左腕側から突き飛ばされ――はためいて居た袖と左胴の一部がぼろりと崩れて瞬く間に風に吹き飛ばされ――左袖口から白虎神の足元に転がるモノを認めた瞬間、其の侭崖から転落した。 「っ……!」 悲鳴を上げる暇も無かった。 直後、女の周囲に得体の識れぬ理力が生じ、それは菊絵の方へ向けられた。 「させるかァ!」 ジャックが相殺せしめんと幾つもの鎌鼬を放ち、続け様に雷光を叩き落す。 果たして理力は消し止められ、雷に焦げた地面から煙が昇った。 「菊絵がテメェと槐の娘だったとしても、だ。白虎神、絶対テメェの好きにゃさせねェ!」 ジャックが外の者より前に進み出て啖呵を切った、其の途端。 『戯けたことを』 ジャックの右腕と左足がぐるんとあらぬ向きに捻られ、もげて血が噴出す。 「……ッギャアアアアア!?」 『あの人と血を分けた娘があんなに穢らわしい筈ないでしょう? あの人の娘だったなら、瓊命分儀なんて廻りくどい真似をしなくてよかった!』 同時に、誰もが辺りが急激に暗くなったと錯覚した。実際は何の変化も無いのだが――続いて顔や手等剥きだした地肌が焼ける様な痛みを訴えた。空気が重く、湿り気を帯びて息苦しくなり、程無くそれは眩暈を伴った。 「”レタルチャペカムイ”!」 咄嗟に叫んだのは、灰燕だ。 其の聲――否、喚んだ”名”は人智を越えた霊威を秘めて居た。 俄かに空気が軽い。動きを止めた女は刀匠の意に従って居るのか、 『何かと思えば……坊主どもと同じか!』 併し白虎神は灰燕を凝視し、 「――っ」 灰燕が片膝を突いて硬直した。言霊を返したか、より上位の異能を撃ったのか。 『無粋ね。わかっているくせに』 女は拗ねた聲でそっぽを向けば、碧が其の前に迫り鋭利な抜き手を放つ。 「おまえの為に矜持を示さねばならぬ義理はない」 指先は女の右鎖骨に穿たれ、更に皹が入った処に刃が飛び出して刺さる。 鎖骨から右肩ががらがらと崩れ、右腕がごとりと落ちた。 『ふん』 意に介さぬ白虎神の死角――そんな物が存在するならの話だが――から行き成り雀が飛び出し、擦れ違い際、細く生白い首目掛け妖刀を閃かせた。刃は清かに首を断ち、それを落す事すら無く、振り抜かれ。雀は鞘の力で瞬時に後退した。 風が、止んだ。 女は左手を差し伸べ、其の掌に乗っていた欠片が朱く光り乍ら旅人達の側へゆっくりと飛来して、未だ噛み付かんばかりの表情で睨むジャックの前に落ちた。 「テメェ……ナンのつもりだ!」 『あとふたつですべて揃うはず。ひとつはずうっと北の果て。もうひとつは……さて、どこの世界に逃げたのやら』 女は託宣を告げる巫女の如き口調で、云った。 「異世界にあるとでも云うのか」 碧が風代わりの様な涼やかな聲で問えば女は哂い、身に刻まれた皹を広げた。 『ふふっ、そうね。もうおまえ達のそばに”居る”のではなくて?』 女の足元で、異物――先程ヌマブチの袖から落ちたモノ――が不穏に瞬く。 『早くみつけてちょうだいな。あの子と同じように……』 白虎神が云い終える間際、激しい轟音と炸裂音が撒き散らされた。 突如生じた爆発は崖を崩し、女の身体を、粉々に砕いた。 「菊絵のからだも、おとして」 躯は三味線を置き、右手は抱えた侭、誰へとも無く云った。 「ナニ云ってやがる! オマエは、」 「それでええんか?」 ジャックを制して灰燕が穏やかに確かめれば、こくんと頷く。 「菊絵はここでおちたの。だから」 「ほうか」 灰燕は三味から離れて歩けぬ躯を細工物を扱う手付きで抱え、崖淵で、離した。 ヌマブチは、浜辺から其の様を険しい面持ちで見上げて居た。 物云わぬ三味線は、欠片を二つ宿した侭、槐の元へ届けられた。
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