新たなロストメモリーを生み出す儀式が行われる。 その裏で、もうひとつの作戦がひそやかに敢行されようとしていた。「みなさんにお願いしたいのは『流転機関』を入手することです」 作戦の目的を、レディ・カリスは告げた。「『流転機関』はチャイ=ブレが生み出す生体部品で、これによりロストレイルに大きな推進力をもたらすことができます。かつてロストレイル0号にとりつけられ、それによって前館長エドマンドは『因果律の外の路線』へ送り込まれました。……もっとも、その流転機関はチャイ=ブレが世界樹との戦いで大きな打撃を受けたことで作動を停止したと推測されています。ですから0号は現在、ディラックの空を漂流状態にあるはずです」 そういうことであるらしい。 顔を見合わせるロストナンバーたちに、カリスは続けた。「今、新たな『流転機関』を入手すれば、それをもってロストレイル13号を発進させることが可能です。0号を救助することももちろん、そのまま『ワールズエンドステーション』へたどりつくこともできるでしょう」 『ワールズエンドステーション』とは。 世界群の中心とされる世界。 理論上、その存在が想定されていながら、誰もたどりつくことのできなかった場所だ。 そこからなら、すべての世界へ到達可能とされるため、ロストナンバーが故郷の世界を発見するのに大きく寄与することだろう。「ここで問題があります。かつて『流転機関』は儀式によりチャイ=ブレから賜ることができました。ですが、その儀式を行えるダイアナ卿のいない今、同じ方法は使えないのです。そのため、みなさんは『チャイ=ブレの体内を探索する』ことで、流転機関を発見していただきます」 それが今回の作戦でロストナンバーたちに課せられる使命なのであった。「これが可能なのはロストメモリーを生み出す儀式が行われる今のタイミングだけです。儀式を行う一方で、儀式が終わるまでのあいだに事を終える必要があります。チャイ=ブレがロストメモリーの記憶を吸収している隙に行うということです」 流転機関は世界計の一部のような機械めいた形状だが、別のなにかに擬態していることもあるという。だが、「見れば必ずそれとわかる」らしいので、ありかに到達できればそれで入手は可能だ。 ただし……チャイ=ブレの体内はそれ自体が複雑な構造の迷宮と化している。 そのうえ、寄生ないし共生している小型のワームに遭遇する可能性もあれば、チャイ=ブレの自身の「抗体」により異物とみなされた侵入者が撃退される可能性もあるのだ。 また、吸収した情報が露出して、チェンバーのような別空間になっている箇所もあるという。 ある程度、深部まで探索を進めなければ目的は達成できないが、踏込みすぎると危険度は跳ね上がる。「広大な体内を効率よく探索するため、少人数のチームを複数編成します。ここから先は、担当の司書から説明を聞くようにして下さい。大変、危険な任務となりますが……よろしくお願いします」「では、僕がお願いする探索区域について説明します」 鳴海は珍しくPC用の眼鏡をかけたまま、手元のバインダーを見下ろした。いつもの気弱そうな笑顔は眼鏡に遮られてよく見えない。よほど緊張しているのだろう、いつもの一人称ではなく、プライベートな時の『僕』のままだ。「海に面した洞窟を想像して頂くとわかりやすいかと思うんですが、皆さんに入って頂くのは半分ほどを消化液のようなものに満たされた空間です」「げ」「消化液?」「やばいじゃん」「周囲の壁はうねる筋肉層、消化液は満ち引きしますが、空間を全て満たすほどにはなりません。一定量が溜まると、底の方にある穴から吸い出されていくようです」「えーと、それで、そのどこを探せばいいの?」 もっともと言えばもっともな質問に、鳴海はぴくりと顔を上げる。眼鏡の奥からいつもに増して神経質な、不安そうな目が見返した。「……消化液の中です」「は?」「ちょ、待った」 何、胃袋の中で溶かされてこいってこと?「厳密には」 一瞬泣きそうな顔になった鳴海は慌ててぐいと唇を引き締め、いやいやながらと言いたげにことばを吐き出した。「そのどこか、です。けれど、空間の上の方は通過していく際に探すこともできますが、底の方となると限られた方にお願いするしかありません、から」「あー、つまり、こういうことだね?」 俺達は、その空間に入り込んだら、周囲をざあっと見渡す。で、『流転機関』がなかったら、今度は消化液の中に潜って、『流転機関』がないか確かめる。「けれど、そこに満たされているのは消化液、だから、何か対策を練っておかないと、『流転機関』を見つける前に溶かされちゃうってこと?」 空と海を制する必要があるな、と呟いた一人に、うねる壁に必死に取りついて進むのもありってことだよね、と別の一人が突っ込んだ。「注意して欲しいのは」 ごくん、と鳴海が唾を呑んだ。「消化液の海の中には、入り込んだものを包み込んで沈ませるような……巨大なくらげ、みたいなものがいるかも知れません。もしそれに捕まってしまったり、消化液の中で身動き取れなくなると、そのまま底の穴から吸い出されて」「吸い出されて?」「消化液に満ちた通路の中をぐるぐると運ばれることになります」「おいおい」「でその先は?」「その先は…」 鳴海が吐き戻しそうな顔になってバインダーを抱え込む。「溶かしたものを蓄える伸縮性のある幾つもの袋に詰め込まれるか、と。だから絶対どうか、底まで引き込まれないで下さい」「……あーっと、何だな、それって」 荒れ狂う酸の海に出かけてって、ダイオウイカみたいな奴をかいくぐり、地下水流にも巻き込まれずに、沈んでいるお宝を見つけて無事にぶんどって来い、ってことだよな?「は、い!」「あのなあ、鳴海」 お前もたいがい無茶言うよなあ。 苦笑しながら手を差し出す面々に、鳴海は半泣きの顔でチケットを渡していった。 赤黒い壁がところどころを粘液に鈍く光らせながら蠢いている。壁は滑らかではない。ごつごつとした岩場に見えるところもあれば、尖った鮮紅色の水晶が突き出ているような場所もある。共通しているのは、時折ごぞりと動くそれにしがみつくのは至難の技だということだ。 壁を洗うのはだぶん、だぶん、と重苦しい音を響かせてぶつかり這い上がる黄金色の液体だ。波頭は眩く光を放ち、飛散する飛沫は金の粒、崩れ落ちて渦を巻けば、流れは目眩がするような輝きに満ち、底深くにある奇妙な黒々とした物体を隠してしまう。 何かが、肉色の壁を素早く這ったように見えた。 だが、次の瞬間、まるで意志あるもののように打ち寄せ跳ね上がった波が攫い、あっという間に黄金色の海へ沈めた。何かが身もがき周囲に泡が立つ。きらきらと煌めく芳醇な酒を思わせる液体に包まれ、見る見る黒く縮み小さくなるものは、やがてすぐに跡形もなくなった。 だぶんだぶんだぶん。 黄金の波は肉の壁にすがりつく。 飢えた願いを満たしてくれるものを求めて。======!注意!イベントシナリオ群「チャイ=ブレ決死圏」およびパーティシナリオ「ロストメモリー、記憶献上の儀」は同じ時系列の出来事を扱っています。同一キャラクターによる複数シナリオへのエントリー・ご参加はご遠慮下さい。また、特別ルールをよくご確認下さい。このシナリオでは参加キャラクターの死亡が発生することがあります。※このシナリオでルイス・エルトダウンとその関係者との遭遇は起こりません。======
その海は餓えている。 自らの内側を繰り返し喰い続けても飽き足らぬほど、新たな情報を求め、新たな世界の情報に餓え続けている。 背中に背負ったトラベルギアから思い切り放水した直後、川原 撫子は薄黄色をした波打つ水面にほんの少しだけ指先を浸けてみる。 「っっ!」 じゅ、と不気味な音が響いて、まるで指先から這い上がり手から全てを呑み込もうとするように伸び上がる黄金の波から、顔をしかめて慌てて体ごと引いた。 「撫子、無茶をするな」 「ごめんなさいぃ、私これ以上先に進めないみたいですぅ☆ 時間もないし分散して探した方が良いと思いますぅ☆」 穏やかに声をかけてくれたアマリリス・リーゼンブルグを涙目で振り向く。左手小指の先は薄く焦げたようになって気のせいか煙が立ちのぼっているように見える。じんじんと広がる痛みは高熱の火傷の痛み、抱えていたクラゲタンをぎゅっと抱き締めて、肉色の壁を見上げた。 クラゲタンだから消化液の中でも呼吸は出来る。でも消化されるのは変わらないから、落ちたらとても痛いに決まっている。全身の皮膚が溶かされて皮を剥いた人体模型のようになった自分を想像したら鳥肌が立つ。 血の気が引いたのを強がって、唇を尖らせる。 「強水流を長くぶち当てればそこだけでも薄まってくれないでしょぉかぁ…駄目ですぅ?」 きっと駄目だろう、薄まってくれても、すぐに押し寄せる濃度の高い消化液の波が、撫子をすぐに包み込むだろう。 「医務室で皮膚移植してもらえるでしょぉかぁ…いやーん鳥肌ですぅ」 想像するとますます怖くなる。 「空を飛べないの私だけなんてぇ…みんなズルいですぅ☆」 「撫子、強がるな」 アマリリスが小さく溜め息をついた。周囲を見回し、翼の魔力を利用し、ユーウォン、撫子、そして自分の身体の周りに結界を施す。万全とは言えないが、しばらくは保ってくれるはずだ。同時に、魔力で作った光を、それぞれに同行させることにする。 「も少し気楽にさ、見物とかもしない?」 「ユーウォン」 窘めるようなアマリリスの声に、ひょい、と肩を竦めてみせる。 「だってさ、ここ、チャイ=ブレの体内だろ、すごいや」 依頼があった時からわくわくしていた。命の危険と天秤にかけても、見に行く価値はありそうだと思って手を上げたけど、皆真剣な顔をしてここまで来るのにも言葉数少なくぐんぐん進んできた。正直おっかない。 「流転機関が、見れば分かるって、どういうことだろ?」 「どんな形かわからないが、きっと特異なものなのだろう」 アマリリスが冷静に周囲を観察しながら頷く。 「今目にしているようなものとは明らかに違う異質な感じのするもの、見た瞬間に、『世界の枠を外れている』と感じるようなもの…」 「まあ、おれは、こんな場所の探索には向いてる。飛べて、自在に潜れて、水面から飛び立てるからね」 ふわっと身体を浮かせてみせた。アマリリスの結界の感覚は淡いが、それとプラスして、体表を丈夫にして粘液を分泌しておけば、当初考えていたより長く深く潜れるかも知れない。 「さっさと始めるね。発見できたらギアの中に放り込むよ。探索の後、被っちゃった消化液は水で洗って貰えると有難いんだけど」 「ラジャ☆」 しょげていた撫子が嬉しそうに敬礼してみせるのを背中に、酸の海へ飛び出していく。 もしクラゲが襲ってきたら、申し訳ないが仲間に頑張ってもらおう。とにもかくにも探索と発見、そして帰還! 見つけたものを外まで無事にお届けしよう。 「…自己消化を避ける仕組みがあるはずだよ、多分」 ちらっと周囲の壁を見やる。いざとなったら、柔らかそうなところをひっぺがして被って逃げよう。 「今回はセツを多く作っておこう。多く失くしそうだ」 光る本に被せられた古びたマント姿のエータは、空中に浮いたまま次々と不可思議色の小さな不定形物体を周囲に浮かばせる。 「チャイ=ブレの持つ情報はとても良いけど、今回は早く終わらないとね。チャイ=ブレの持ってる情報よりもワールズエンドステーションから知れるコトの方が多いだろうし、他のヒトの命も懸かってるから」 セツは消化液の中でどの程度機能し、どの程度保持できるのか。アマリリスの結界は翼を著しく消耗するのは情報収集済みだ。自分のセツ一つ一つにまで要求することはしない。 密かにセツが残ったら置いて帰ろうと思っている。チャイ=ブレの中と外で通信ができるのか試してみたい。話せなくなってしまうと悪いから、一個は持っておくつもりだが、残してきたセツにチャイ=ブレが干渉してきても、自分に影響があるだけだから大丈夫だろう。 「ワタシがするコトは流転機関を見つけること、だね。空中に浮かぶことはできるしセツも溶けるまで探し続けられるけど、拾ったり悪いモノを消したりするようなコトはワタシにはできないと思う」 ユーウォンの飛び去った方向とは別方向に浮かび上がり、次々とセツを消化液の中へ突入させていった。たちまち入ってくる膨大な情報量に魅了される。 「スバラシイ」 この消化液は、単なる液体ではなく、ここに飛び込む様々なものの情報まで溶け込ませて保持しているようだ。脈絡のない、関連のない、しかも虚ではない情報が次々セツから流れ込んでくる。 だが、『流転機関』とわかるような情報はまだ全く流れ込まない。 もし見つかったら。 セツの力は弱いから運ぶのは難しいよね。トラベルギアはシンに近くないといけないから、流転機関まで届くかわからない。できるコトは、セツからヒトや流転機関の視覚情報を出して悪いモノを本物から遠くする、悪いモノが来たり良いモノがあったり情報を知れたりしないか周りを調べる、消化液の外の悪いモノはトラベルギアで消せれば消す、かな? セツの一つが、消化液の上を飛んでいたユーウォンが、水流やクラゲの存在を見極めながら水底へ向かって一撃離脱を繰り返すのを感知する。 通常ではあり得ない消化液の出入りに引き寄せられたのだろう、セツの真横を巨大な半透明のものが大きく揺れながら、飛び込んできたユーウォンに近づいていく。ユーウォンはまだ近づかない。 クラゲ状態のこの生物は、いわゆる不消化の情報の塊だ。消化液に一体化するまで溶かされ切っていない、呑み込まれかけた情報が、最後の足掻きのように元の形を取り戻そうとして渦巻きながら、形を残した情報に襲い掛かっている。 セツからユーウォンの情報の一部を放った。撫子やアマリリス、ジャックの情報の一部を加工し、無防備に消化液の海を漂うかのように周囲に分散させる。 よく見ると、掌ほどの細かな不消化情報塊は無数にあり、それらがエータの放った情報に飛びかかり絡まり合って底へ沈めようとしていく。 水流の中を身を翻し、底に呑み込まれそうになった寸前で、ユーウォンが水面へと駆け上がっていく。追いかけてきたクラゲには、鞄に入っていた何かを超高温にしてぶつけた。確か吐剤と言っていた気がする。 ぐちゃり、と崩れた情報群が、叩きつけられて海の中の壁に張りつく。呼応するように海が大きく激しく揺れて、エータのセツが幾つか、あっという間に溶かされた。 「フウム」 エータはセツを消化液の流れる方、より奥へと動かしていく。時間が限られているなら、できるだけ早く深く状態を探らなくてはならない。さっきからじりじりと消化液の量が増えてきている。もうすぐ、奥へと吸い込まれるのかも知れない。 「危なくないトコロは他のヒトも探すよね。……吸い込まれた袋の中も探しておかないといけないかな?」 ひょっとすると、『流転機関』は、一番最奥の袋の中にあるのではないか。 エータはセツを沈める速度を上げる。セツの周囲に無数の泡が、セツを溶かし侵食していきつつ流れ去っていく。 「ジャック」 「…」 アマリリスの声に背中を向けてジャック・ハートは透視・精神感応常時全開状態で探り続けている。チャイ=ブレ突入時から自分の周囲には球体のサイコシールドを張って周囲の影響を遮断してきた。 考え続けているのはエンドアのこと、エンドアのことだけだ。 (俺の氏族をエンドアの人間を、どうやったらブルーインブルーへ連れていける?) エンドアはまだ壊れそうにない。ミュータントのジャック達は公式には存在しない。煉獄のようなあの星に誰も助けにやって来ない。 (例えブルーインブルーの人間を犠牲にしても、どんな手段を使っても、仲間を救いたいと思って何が悪い) 戦闘中に消えた彼は、既に名誉あるネームドではなく、薄汚いネームレス扱いなのだろう。それでも、ジャックというネームドの務めを果たしたいと強く願う。 (俺たちの能力を制限されず、消滅の危機もなく、エンドアの人間だけをブルーインブルーに移動させる手段はないのか。せめて消滅させず移動させる手段はないのか) それが、例え世界図書館に敵対することであっても、どんな犠牲を払っても、仲間を助けられるならジャックは何でもするつもりだ。 (情報を得る) 振り向けば、ユーウォンはどこか遊園地の遊びじみた無邪気さで、何度も突入離脱を繰り返し、エータは海上を飛びながら不定形物体を次々と投下し、撫子は覚悟を決めた顔で岸からじりじりとフリークライミングの要領でうねる壁にしがみつき、這い昇っている。どうやら逃走経路を捜し出しておこうというつもりのようだ。時々岩場めいたところによじ上り、ごうん、と肉壁を殴りつけてみているが、手強く弾き返され、一度はその反発で弾き飛ばされ消化液の海に落ちそうになって、必死にしがみついていた。 『ここ仮想胃ですよねえ…別に穴開けても平気なんじゃないでしょぉかぁ☆胃壁の中に手がかりが埋まってるかもしれませんしぃ、胃壁破って隣の臓器に出た方が脱出速そうな気がしますぅ☆』 必死に考え、壁に触れ、尖った赤い鉱石を掴んでひきむしろうとし、果たせず次の手がかり求めて昇っていく。 『とにかく、脱出方法は考えておかなくちゃぁ☆』 だって、ユーウォンさんもエータさんもジャックさんも限界ぶっちぎりで自分の興味を優先しそうですしぃ。 『…せぇーの☆』 行き詰まって、隣の壁へ飛ぶ。掴み損ねて危うく落ちかけ、かろうじて片腕一本でぶら下がる。 『…きゃー!?』 駄々漏れの思考と感情、必死に『流転機関』と脱出路を考える小さな頭、この状況に全く役立たない能力で応じたのが苛立たしくうざったい。誰かと共にとか、願いを込めてとか、そういうまっすぐで眩い感覚が、今のジャックにはただただ息苦しい。 今にも下方へ叩きつけられてしまいそうな撫子を冷淡に眺めながら、それでも、同行者及び肉壁以外の生命反応が近づいたら、即座に雷撃か竜巻で殺すつもりはあった。 周囲の壁を調査し続ける。肉色の見かけとは反対に、周囲の存在は極めて整理された情報群だ。ところどころに異世界と思われる大きな集合した情報が埋もれており、それが見かけとしては鉱物や結晶になっていると知れる。分析してみれば、小さな鉱物一つに異世界の構築情報がまるまる含まれており、意識上で再構成すると、今まで見たこともない世界の光景が浮かぶ。 「…ちっ」 だがどれもこれも図鑑のようなものだ。珍しく奇異で不可思議な様相を呈していても、そこかに整合性があり一つの統一性がある情報で、世界の境界を越えていくような特殊な情報ではない。 こんなものではだめだ、使えない。鉱物化しているなら、アポートし持ち帰ることが容易いと踏んだが、そこまで甘くはないようだ。 となると、やっぱりこの中か。 エータのセツが次々に解析しエータに注ぎ込んでいる情報は、肉壁より遥かに未整理で絡み合い混じり合っている。時折大きく海面を揺らがせて翻る巨大な塊が、ユーウォンを追い、エータのセツを呑み込んでいくが、それらはジャックにとって目新しい情報群であるだけで、世界を越える一助にもならない。 視界の端で撫子が何とか手がかりを掴み直して、身体を引きずり上げた。 『アマリリスさん、流転機関、ありましたぁ?』 不安そうな声にジャックは無言でサイコシールドの外側に空気の対流層を作り始める。渦巻く風が球体に舞う。肉壁がざわめき、水位がかなり上がってきている海面が波立ち始める。 見ている限りは煌めくシャンパンや芳醇なワインを思わせる黄金の海に、白い羽根を翻しながら、結界に包まれたアマリリスは静かに潜行していく。 来た時よりかなり上がってきている水位、さっき見た時には撫子は高めの岩場に移動していたから、そうそう呑み込まれることはないだろうが、上空を飛びつつ時折ざぶん、と飛び込むユーウォンも、海の深さが増すにつれて次第に底近くまでは降りられなくなってきている。 魔力で作った光に引き寄せられるのか、アマリリスを軽々と包み込むような大きさの半透明のクラゲが、格好の獲物と見たのか覆い被さってきたが、【彼岸花】の柄に括りつけた銀朱の鈴を鳴らして武器の強度と行動速度を上げた。容赦なく足を切り落とし、時に高速移動で避けて躱す。空中を飛行するより速度は落ちるが、クラゲは切り飛ばされるしりから消化液の中で溶け込み消えていく。 掴まれたかけたユーウォンを助け、アマリリスは自らもより深く潜り続ける。 黄金の海に辿りつくまでに、翼を一枚ずつ一定間隔で浮かして帰り道の道しるべとしていた。万が一の撤退には、出入り口付近の翼へ向かって魔法で集団転移を試みるつもりだ。 『流転機関』はまだ見つからない。周囲を見渡しても、それらしき影も、隠されていそうな窪みさえない。誰かから発見の連絡もない。 荒れ狂う海面よりも、海中は穏やかだと言う。身体にまとわりつき黄金の泡をたて続ける消化液は、触れれば地獄となるのだろうが、沈み続ける感覚は思考を研ぎすまさせる。 (ジャック) 振り向かなかった背中を思う。いつも嘲笑的で、時に攻撃的な男だが、基本女性に優しく振舞う男だったはず、なのに不安がる撫子を一顧だにしなかった。依頼に関しては真摯に振舞うことも多かったはずなのに、今回の彼はどことなく違う。 まるで全く依頼のことなど考えていないようだ。 「っ!」 思った瞬間、大きく視界が揺れて跳ね飛ばされる。いつの間にか真下から伸び上がっていた触手のような塊があった。己の未熟さに舌打ちしながら、鈴を鳴らして高速移動、だがその先で下から突き上げるような海流に押し上げられ、続いて一気に引き込まれる。 まるで巨大な海流が突然生まれたようだ、そう考えてはっとして水面を見上げた。かなり降下していたとは言え、思っていたよりうんと高く遠くにあるそれに、消化液の増加を察した。 となると、この水流は。 渦巻いている流れがぐるぐるとアマリリスを押し流しながら、下へ下へと吸い込んでいく。さながら竜巻の上層部に放り込まれたような感覚だ。魔法を発動、干渉して流れを緩める、その瞬間、ほぼ真下の空間に金色の泡を立てながら、がぼがぼと呑み込まれていくような音をたてる場所があった。 ひゅ、ひゅ、とすぐ側をエータのセツが速度を上げて渦に吸い込まれ消えていく。視界の端を掠めてオレンジ色の物体が近づく。ユーウォンだ。一撃離脱を繰り返していたはずが、海流に掴まったらしい。翼を羽ばたかせるも虚しく、一気に底の方へ吸い込まれていくのに、アマリリスは身を翻した。身体を縮め速度を上げて近づき、かろうじて相手を抱え、間近に迫った暗い開口部の近くの肉壁に剣を突き立てる。 「っっ!」「!!」 アマリリスとユーウォンの周囲に激しく黄金の泡が立った。互いの姿がよく見えない。掴み合い、しがみつき合い、アマリリスは必死に魔法を放ち、鈴を鳴らした。海流に巻き込まれて呑み込まれそうな気配、覗き込む闇の中、遠くにエータのセツが幾度か明滅するように光り、すぐに消える。 『流転機関』は。 『流転機関』はどこだ。 翼がぼろぼろになってくる。どれほど力が必要か。剣を支える肉壁が波打ち、剣先を吐き出そうとするようにうねってぞっとする。この先は光の射さぬ消化液に満ちた袋、押し込まれれば果てしない流れの中で朽ち果てていくしかないだろう。 流れに持ち去られそうなユーウォンがしがみついてくる。抱えながら突き立てる剣に力を込める。ジャックのことだからアマリリスやユーウォンの状況が把握できていないとは思えない、だが、彼がやってくる気配は全くない。 魔法を放つ、叩きつける、繰り返し、何度も。 帰還しなくてはならないのだ、けれど腕に抱いたユーウォンの身体がもう支え切れない、このままでは二人とも呑み込まれる、それぐらいならいっそ。 苦渋の決断を胸に抱えた瞬間、激しい衝撃が周囲の渦を一瞬にして消し去った。 うっすらと開けたアマリリスの目に、サイコシールドと暴風に護られたジャックが消化液の海を吹き散らしながら降りてくるのが映る。 だが、同時に、その視線が窮地に陥った自分達を捉えていないこともわかった。 ジャックが降りてきたのはアマリリス達を助けに来たのではない、ただただ何かを捜し求めての降下、しかも今となっては消化液どころか、暴風でアマリリス達を引き裂きかねない状態なのに、それもまた視界に入っていないのだ。 それほど『流転機関』に執着するのか。それほど故郷へ戻りたいのか。 まるで決別の瞬間のように感じた一瞬、アマリリスはユーウォンとともに地上に浮かしていた翼めがけて転移する、ジャックを消化液の海に残して。 「う、わああっっ!」 アマリリスの腕に抱えられてユーウォンは衝撃の波の中をかいくぐって脱出する。 慎重に、でも頑張ってぎりぎりの線を見極めながら探索していた。難しかった。全く見つからないまま、もう少し、もう少しと飛び込んだ途端、深過ぎたことに気づいた。とにかく、生きて帰ることが一番、でも見つけることも諦めたくない、そういう願いを叩き壊すような壮絶な酸の海流、魔法を使い続けるアマリリスの翼がみるみるぼろぼろになっていくのを感じたが、どうにもできなかった。 地上に飛び出すと真っ青になった撫子が駆け寄ってくる。 「せせせめて無事に撤退しましょぉ撤退撤退ですぅ☆」 震える声で叫びながらユーウォンとアマリリスを力の限り洗ってくれる。 「見つからないね」 上空から戻ってきたエータが残念そうに唸った。 「これ以外のセツを全部失った」 奥まで吸い込まれたセツからの情報を得ようとしたが、コンマ数秒、いや一瞬にして溶かされ切ってしまったようだと言う。 「ジャックは?」 尋ねられてアマリリスはぎくしゃくと背後を振り返る。 大きくうねり弾ける消化液の海は、量こそ減っているものの、荒れ狂う勢いは増しているようだ。跳ね上がり壁を洗い砕け散るその海の中で、アマリリスは見ている。 闇に深く吸い込まれる穴のすぐ近くの肉壁、そこに何を見つけたのか、突進していくジャックの姿。 肉壁ごと取り込むような形でジャックがシールドを食い込ませていく、その瞬間、零れ落ち溢れ落ちるように肉壁がジャックの身体を取り囲んでいた。続いて黄金の泡がその全てを包み込み、崩れ落ちていったのだ、底知れぬ穴の彼方へと。 アマリリスは凍りついた顔で撫子、ユーウォン、エータを振り向いた。 「……撤退する」 『流転機関』は見つからなかった。 背中でばらり、と幾枚かの羽根が抜け落ちた。
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