北の大地は新たに生まれたカムイ(神)達の仮宿。みだりに侵してはならぬ。 神夷の人人はこの決め事を頑なに守り続け、彼等に寄り添って暮らして来た。 だが、例外もある。 神夷独自の生業のひとつに、カムイとアイヌ(人)との仲介役を務める巫者――所謂シャーマンに相当する役目がある。 然るべき天分に恵まれたる者は、生まれたばかりのカムイ達の世話をする為、生涯に一度だけ、北へと赴く。この時、世話が気に入ればカムイは巫者の身に宿り、カムイを連れ帰った巫者は其の力を借りて民の暮らし等に役立てる。 この行は、雪が降る少し前の時期に執り行われるのが通例だ。 毎年秋になると神夷各地の里里から巫者となる者――多くは女性――が集い、護衛を連れてカムイ達の仮宿を目指すのである。「でね、今年も何人かが北に向ったみたいなんですけど――そこで宝珠の欠片が悪い事してるみたいなの」 ガラは「朱昏の世界計たる宝珠の欠片、其の最後のひとつが見付かった」と云う触れ込みで、図書館ホールに人を喚び集めるなり、即座に説明を始めた。 この世界司書が朱昏に纏わる案件で骨董品屋『白騙』に移動しないのは、実は初めての事である。理由を問えば「槐が一寸忙しそうだったから」との事だった。それに、考えてみれば槐や灯緒といった朱昏に精通した者達でさえ神夷の事情には明るくないと云うから、この雀斑女単独でも一応は仕事になるのかも識れない。「その、カムイのお世話をしに出かけた人達はどんどんどんどん北上して、本当に地の果てまで往っちゃうんです。でも――」 神夷北部近海及び沿岸部では、現在大変な事が起こっていると、ガラは云った。 偶さか朱い流氷の浮かぶ海に落ちた宝珠の欠片は、或るモノと一体化した。 それは永い間、同じ海に暮す生物――時には自身より巨大な――を必要に応じて捕食するだけの、些か獰猛ではあるものの害悪とする程の存在では無かった。 だが――各地の欠片に纏わる事件と共鳴したのか、生来の獰猛さが欠片に増幅されたのかは不明だが――近年では無作為に周辺海域の生物を食い散らかす様になり、獲物が減ったとみたか、遂には行動範囲を海上へと広げたのである。「見た目はマッパの女の人の腕が袖っぽいような羽っぽいような感じで、すごく綺麗なんだって」 それは天使――否、天女とでも喚ぶべき美しい姿をしており、胸の内が鼓動する様に朱い光が見え隠れすると謂う。常に優雅な笑みを湛え、羽の生えた様な手を靡かせて、生者が在ると見るや否や、其の前に舞い降りて――「――食べちゃうの」 ガラは凍てついた笑顔で、云った。 天女は水中はおろか宙をも自在に漂い、生きとし生けるもの総てを見境無く獲物と見做して襲い掛かる食欲の権化である。故に現在では沿岸部の草木は枯れて失われ、鳥獣も蟲も姿を消し、見るも無惨に荒れ果てているらしい。 そして、其の飽くなき食欲の矛先はカムイ――即ち神に対しても向けられる。 曲りなりにも神ならば応戦くらいしないのかと聴衆から聲が上がれば、ガラはそれを聞き取り、「もちろん闘う神様もいますよう」と拗ねた様に応える。「けど全然歯が立たないの。未だ生まれたばっかりだから、あんまり強くないっていうのもあるかもですけど……」 幼くとも神が抗えぬ程の脅威たる理由は、天女の如き捕食者の能力に起因する。「なんかね、自分にそっくりな幻を九十九個も作って自由に動かせるんだって」 幻影の媒介は朱で出来た流氷の破片で、ひとつひとつが朱く光り、本体と同等の理力を宿す為、如何なる感知力や機器を用いても見分ける事は極めて難しい。「あ、幻は幻だけど真ん中の氷は本物だから、体当たりされたら痛いです」 そんなモノが九十九――本体を含めれば都合百体、飛び回る。幻影の媒介を叩けば其の一体は消えるが、流氷が無くならない限り無尽蔵に供給され続ける。 そして獲物が幻影に惑わされていると、本体も素知らぬ顔で近付き自身の羽で気紛れに対象を切り裂いたりもしつつ、隙あらば海中に引き摺り込む等して――捕食するのだ。「はっきり云ってずる賢いから。こっちから裏をかくつもりならよっぽどじゃないと、ですね。それと、はっきりとは判んないんですけど……もしかすると、もっと強い力を持ってるかも知れないです。気をつけて下さいよう」 尚、戦場は海に浮ぶ流氷の上となる。聴衆の一人が陸地に誘い出せないのかと訊ねれば、ガラは「んー、色々厳しいと想いますよう」と答えた。「今云った通り、天女さんは頭いいです。お話はできないみたいですけど」 加えて残忍で気紛れで、捕食を楽しんでいる様にも見得ると謂う。まるで報告書等から伝え聞くレタルチャペカムイの性質そのものだ。「それに野生の勘って云うの? そういうのも働くみたい。だから君達みたいな強そうな人達が近付いたら、少しでも自分に有利な場所を選ぶと想うの。それに、」 理由は外にもある。「最初に話した神夷の人達ね。多分戦ってる最中には君達と合流しちゃいます」 其の際、陸を戦場にしていると彼らが巻き込まれる可能性が高まる。故に苦しくとも出来るだけそれは避けて欲しいのだと、ガラは申し訳無さそうに云った。「…………あのね。実は、予言よりも早く、ガラにこの事を教えてくれた人がいるんです」 導きの書をばふっと閉じて、雀斑女は皆に向き直る。「雪深終――知ってますよね」 それは先日朱昏で行方を晦ました旅人の名前だ。彼が何を想って姿を消したのかは善く判っていない。あのレタルチャペカムイを庇い立てしたとの報告もあるが――ともあれ、取り敢えず生きてはいるらしい。 今回の事を知らせたのが終なら、彼も神夷の何処かに居るのだろうか。「それは判んないけど。でも、終がエアメールをくれなかったら予言が遅くなって、ガラが皆に聲を掛ける頃には神夷の人達死んじゃってたかも。でもでも、今ならぎりぎり間に合います。欠片も大事だけど……折角だから全部うまい事お願いしますよう」 神夷の人達から終の事が聞けるかも知れないからと、ガラは掬んだ。 ※ ※ ※ 木も疎らなだだっ広い地平。北へ向う程大地を覆う草は色褪せ、日の光を浴びて尚生気に翳りが窺える。誰も居ない。獣や鳥、カムイの姿も、何も。 イメラ達が言葉を交わさなければ、冷たい風が哭くばかりだ。 それは冬が近付いている所為なのか、何か別の理由があるのか、イメラには判らなかった。只、彼が護るべき双子の娘達――巫者も、此処に至る迄に世話をするべきカムイと一度も出会わなかった事が不安な様で、次第に口数が減って来ていた。矢張り、何らかの異変が起きているのだろうか。「ヤムス。ウニ。……疲れてないか」「ありがとう」「まだ平気だから」 時折イメラが気遣い聲を掛けても、同じ顔をした娘達は揃って弱音を吐かない。併し、明らかに困憊――と云うより、憔悴している。姉のヤムスは未だ愛想笑いを浮かべるゆとりがある分未だしも、妹のウニに至っては何かに脅えている様にさえ見得た。里を出たばかりの頃は二人とも明るく、此の旅を、カムイと触れ合う事を楽しみにしていたのに。 イメラはそんな二人が痛ましかったが、掛ける言葉が見付からず「無理はするな」とか「疲れたら直ぐ云ってくれ」とか当り障りの無い事しか云えなかった。 彼女達の護衛は、イメラの外にも二人居り、それぞれ一行の前と後ろについて絶えず周囲に気を配っている。二人ともイメラより十歳は上の狩人だが、此方は出発当初から揃って寡黙だった。まるで愛想が無いと云うのとも違うが、必要最低限の事を除き自ら進んで口を開く事は稀だ。 時折無言で目配せし合っているのを見掛けると、イメラは少し居心地が悪くなった。「イメラ」 と想ったら突然聲を掛けられ、イメラは飛び上がらんばかりに驚いた。「あっ、ど――……どうした」 後ろの護衛が名を呼ぶ時小声だったので、それに倣い囁き返す。「何かあったら双子を連れて逃げるんだ。いいな」「そんな。それはどう云う――」「止まれ」 イメラが訊ね返そうとした矢先、今度は前の護衛が一同を制止した。「何かあったのですか」「潮風が吹いているわ。もう直ぐ海だと想うのだけど」 娘達が続け様に問う。男は口を開きかけて暫し黙り、やがて言葉を選ぶ様に云った。「承知している。が、お前達も気付いている筈だ。生き物の気配がしない事を。――あれを見てみろ」 彼が指し示した先では、痩せ乍らも健気に大地を覆っていた草草が、或る地点を境に黒褐色に変じて死に絶えていた。最早、土との見分けがつかない程だ。「――!」「あ、そんな、酷い……!」 ウニがわなわなと震えてヤムスに縋りつく。ヤムスも眼を見開いていた。 善く見ると、向う側に生えている木木も悉くが襤褸襤褸に抉れて葉はおろか枝さえ失い、地面から突き立った歪な針の様な姿と為って仕舞っている。 総員の認識を確かめたのか、護衛の男は又口を開いた。「何か悪い事が起きている。俺達はそれを確かめる。お前達は此処に居ろ」「俺も行く!」「駄目だ。お前は残ってヤムスとウニを護れ」 イメラは即座に名乗り出たが直ちに却下された。「併し!」「往くぞ」「噫」 食い下がる若造を無視して、前衛の男は後衛の男を促す。「頼んだぞ」 後ろの男がイメラを追い越す際に、ぼそりと云った。「……っ!」 彼等が死を覚悟している事は若いイメラにも十分過ぎる程判った。 だから、二人を見送ることしか出来なかった。==!注意!==========このシナリオは、シナリオ『【瓊命分儀】よたもみぢ』と同じ時系列の出来事を扱っております。そのため、同シナリオにご参加の、以下のみなさんは参加できません。ご了承ください。舞原 絵奈(csss4616)、坂上 健(czzp3547)、ほのか(cetr4711)、華月(cade5246)================
「テメェら巫者の護衛だナ……」 「なっ」 「――!」 直前迄何も――樹も草も湿度すらも――失われた場所に突如顕れた黒衣の存在に、二人の男は身構えた。 「何者だ」 一人が油断無く訊ねる。黒衣――ジャック・ハートが指をすうと立て、一筋の稲妻を落として解とした。 「この惨状は貴様の仕業か!」 「違ェヨ」 状況を考えれば当然とも云える反応を、ジャックは手で制す。 「逆サ。俺様はそれを止めに来た」 怒鳴った方が勇み足を踏み止まる。油断の無い方の男が「どういう事だ」と真意を訊ねれば、ジャックは「こっから戻れ」と彼にしては素っ気無く云った。 「戻って俺らと“アイツ”の戦が終わるまでヤムスとウニを護ってろ」 流石に双子巫女の名前迄出されて驚いたのだろう、二人は視線を交わし、一方が又訊ねる。 「きさ……貴方は一体」 「なァに、概ね人間サ。ちょいとばかり芸が多いだけのナ」 「アイヌ――人はカンナカムイの様に雷を落としたりはしない」 「ンな事はどうだっていい、今重要なのはお前らが近づいたおかげで俺らはアイツに気が付いたって事ヨ。それに、お前らじゃアイツに歯が立たねェって事ダ」 ジャックは男達に背を向け、もう一度「戻れ」と云い放つ。 「…………そうか、聞いた事がある。貴方は、」 「こっから先は俺らの仕事だ。終わったらまた会おうゼ」 「待て、未だ話が――」 「アバヨ」 止めようとする聲に振り向きもせず、ジャックは片手を上げて――消えた。 ※ ※ ※ 平地も山も崖も足早に過ぎ去る秋に追いていかれまいとばかり乾き、荒み切っていた。ヌマブチの様な五感のみしか持ち合わせぬ者でさえ、命の応えが何処にも感じられないのは一目で理解出来る。そして地平の向うでは、大地の切れ目の其の先の水面には、最早疎ましい程見慣れた朱色に染まる不透明の流氷が犇めき合っていた。遠目にも処処が綻びて隆起し、起伏に富んでいるのが判る。 「戦場として好ましい地形ではありませんな」 あの辺りに此度の標的たる欠片の宿主が生息しているのだとして――世界司書の言葉に従い其の侭足場とするには些か難がある様に想えた。 「そうだろうと思ってさ」 軍服の空虚な左の袖が風にはためく。其の先で笑みを零したのは洒落たなりの女が裁縫でも締め括る様に、何処から通じているのか兎に角妙に長い糸の先を摘んだ手をすいと引く。ふつりと切れた音が風に連れ去られる。 「足場仕立てといたよ。急拵えだけど、あすこを直に走り回るよりはマシな筈さね」 女がひらりと案内の様に海を手で示す。岸から海上に日の光を浴びて煌く線が幾重にも張り巡らされていた。一見して糸の無い場所でも、繋がれた範囲ならば問題無く歩けるらしい。外にも既に幾つか結界を仕立てており、其の内のひとつはヌマブチに施されている。有事の際に彼を護るモノだという。 「忝い」 ヌマブチは憂いがひとつ失せた安堵と魔法とも呼ぶべき異能への羨望――其の間を取った無味で簡素な礼を述べた。それから、右肩に纏めて掛けたワイヤーを確かめる。其の先は同じく右肩に掛けられた銛に繋がっており、更に首からゴーグル迄提げていた。女――ダンジャ・グイニは自分より背の低い強面の男の装備を認めるなり、「何だいそりゃ」とおどけた仕草で眼鏡の縁を持ち上げる。 「この寒いのに素潜り漁でもやろうってのかい?」 「某は潜らんが……まあ似た様な物だ」 「へえ、見上げた根性だ。ババアも見習わないとね――」 「――此度の標的は無難に考えればセルキー伝説もある大喰らい、海の豹と書いてアザラシが適当でございましょうか」 ダンジャが云い終えぬ内、後ろから淡白の合間に妙な起伏で上下する抑揚の語りが流暢で慇懃に発せられた。二人が振り向けば――山高帽の英国紳士が整った目鼻立ち乍らもヌマブチにも負けない仏頂面で小首を傾げている。愛想を振り撒いているのか、意見を伺っているのか。 「アザラシだって?」 「然しここは北の海の流氷域に於いて、翼足を羽ばたかせ身の内に朱きものを内包する獰猛な海中生物と来れば――」 紳士――ラグレスは意外な意見や其の態度に面食らうダンジャを半ば無視する形で自ら直前に挙げた候補を即座に取り下げ、ステッキの先を海に向ける。 「――クリオネにございますね」 「ダンジャ殿」 「ああ、ちゃんと判ってる」 ヌマブチとダンジャはラグレスの仕草を即座に理解し振り向く。 朱い流氷の裂け目。此処からでは筋にしか視得ぬが、隙間から晩秋だと云うのに新芽の如くふっくらとした何かが身を覗かせている。この海に最早生命は居ないと聞く。ならば見目に何であれ顕れたモノの正体はひとつしか無い。 「これは確信に非ず希求なり謂わばイチオシ」 まるで緊張感の無いラグレスの語りは尚も続いているが、ヌマブチとダンジャは捨て置いて我先にと走り出した。ジャックが未だ戻っていないが、あれを陸に近づけたくない手前、手を拱いている訳にもいかない。 二人の後ろをバケツで水を撒いたような音が追って来る。懼らくはラグレスだが如何なる走法を用いれば斯様な擬音を奏でられるのか、確かめる気にはなれなかった。 距離が詰まれば姿形も目鼻立ちも判る。朱氷から今まさに生まれたかの様な、美しい裸体の女。 「何だい、若い娘がはしたないねえ」 「同感であります」 鰭とも袖ともつかぬ襞を備えた両の腕を広げ、深呼吸でもしているのか大きく身を逸らせて艶かしい腹を露わとする。そして伸ばし放題のあたら長い黒髪が生えた頭――其の顔、目鼻立ちは。 ――矢張り。 あの女妖と瓜二つだ。何か深い繋がりがあるのか、存在として影響を色濃く受け継いでるのか、ヌマブチに確かめる手立ては無いが。 「誰かに似てるのかい」 ダンジャにぶっきらぼうに気遣われて、我に返る。 ――真逆眼を奪われていたのか。某が? 「然程深い仲でも無い」 「何よりだ」 彼女はそれ以上聞かない。察しているのかも知れなかった。 少なくとも殺傷に躊躇する間柄では無い――筈だ。刹那ヌマブチの中に沸き起こった得体の知れぬ情動は得体の知れぬまま、何処かへ沈んで見えなくなった。 足場の結界に踏み込み、仮初の舞台に二人は登る。 「そら、おっ始まるよ」 ダンジャが顎で示した先では宿主が既に宙へと上り、懼らく海中と変わらぬ所作で漂い、ひらひらと手足を棚引かせている。其の周囲では錐を穿ち回されたのと同様に流氷が削れ深さを益し、飛散した氷から彼女と寸分違わぬ姿の存在が生み出されていく。それらは実に楽しげに舞い乱れて、既に本体と幻影の判別等つかぬ状態となる。 そしていつしか二人を追う水が土を叩く音は止んでいた。何故ならば――、 「ラグレス殿」 ヌマブチ達の眼下に犇めき合う流氷の上を邁進する英国紳士が居たからだ。 「お前さんまさか、」 「――壱番世界は北海道なる島の海域に棲息するそれをテレヴィジョンで拝見した折は無い心臓が高鳴り申した」 先程の話の続きだろうか。ラグレスはついと帽子のつばを下げて、併し面はやや上方に漂う美しい怪物の側を見上げて口を動かし続ける。百体もの同じ顔は皆――奇妙な闖入者を見ていた。哂っている。活きの良い獲物を認めた歓喜か。 「まこと世は生(き)の儘に想像を絶する興味深き生物がそこかしこ」 誰へ向けてのものか掌を前へ差し伸べる紳士に――怪物達が一斉に躍りかかり一体が彼に突撃する。 「それらの絶滅を阻止せんが為にも尽力致しましょうぞ」 ラグレスは又ステッキの先を手向かう群に向けて、避けるでも無く真正面から当たるに任せた。胸から上が殴られた餅の様に潰れて拉げ、其処に次次幻影が襲い掛かり、いちいち原型に戻ろうとするラグレスを叩き、削り、貫き引き裂く。双方に何ら消耗の認められぬ珍奇な攻防の最中、「御覧の様に」と何処から出した物かも判然とせぬラグレスの聲が懼らく舞台上の二人に投げ掛けられた。 「攻撃は受けて立ちます文字通りの意味で。囮がおれば皆様の策も捗り相手の手筋も知れましょう、何より運良く本体の獲物となればつぶさに至近且つ稀有な角度より観察が適う」 ダンジャが「成る程ねえ」と口元を歪め、妖糸を両手に引いて構えた。 「色男が身体張ってるんだ、此処は女を見せないとバチが当たるってもんさ」 彼女の前に五体程の化け物が迫るもダンジャは自らも駆け寄り一方の手を引き、もう一方は彼女達に放り――すかさず指を鳴らす――五体の腹部から朱い砕氷が爆散する。 「そうは思わないかい?」 その問いが向けられたのは消え失せた幻影でも新たに迫る群でも無く、 「違ェ無ェ!」 突如無尽に空間を貫く雷撃――ダンジャとヌマブチを討たんとした妖女の群体に悉く放たれたそれ――の主、ジャックに対してだった。 「サァ踊ろうゼ、クリオネちゃん……ヒャハハハハァ!」 幻影の約半数は宙の舞台へ、残りは氷上のラグレスへ向かう。今しがた相当数消されたばかりなのに次の瞬間には新たに生成されているのだろう、少なくともヌマブチの視界に於いて数的印象は変わらない。だが役者は揃った。 ――後は機を待つのみ。 あらゆる意味で。 ※ ※ ※ 糸を引く、数多の女が掛かり一息にぱちんと結界を解除して炸裂させれば宝石にも似た朱い氷が粉々に粉砕されて、血も出ないのにいつも視界は朱に彩られていた。ダンジャは慌てないし動じる事も無い。其の瞬間を逃さぬ為、機を窺う為、常に一歩身を退いて全体を見る。 未だ五分も経っていないのに払った露の数はとうに百を超えた。雷鳴を轟かせ竜巻を招いて空を切り裂くジャック等はより多くの幻影を滅した事だろう。 「大雑把な性分でね」 自身の気性に相応しい状況。ダンジャにとって数の不利は不利たり得ない。相当大味に動いても的が勝手に来てくれる、当たってくれる。其の割に仕立て屋が糸を紡ぐ所作は素早くも丁寧で細やかだった。 ――とは云え。 「埒があかないねえ」 宿主本体を見極めて叩かぬ限り永遠に続く攻防。宿主自身は未だ誰も襲わない。確か悪賢いと聞いている。ならば彼女も又、機を見計らっているのかも知れない。 ――焦らすのも女の嗜みってかい? ダンジャとて根競べなら負ける気はしない。極端な話、何の準備も無くとも幾らでも焦らして持ち堪えられる。見る限りラグレスも凹まされるばかりで全く被害は無い様だし、何かに備えるヌマブチもなるべく敵の注意を引かぬようにしていたから、最低限の気遣いで十分だった。未だ余裕がある。だが――氷が打ち砕ける音と雷鳴の向うで舌打ちが聞こえた。 ――ジャック? 結界の舞台より更に高所を飛び回る異能者から持ち前の陽気さが見当らない。只管何かを探す様に周囲を見乍ら苛立ちを雷と為して幻影に当り散らしている様にすら見得た。故、彼に息を合わせるのは造作も無い。 ――しょうがないね。 だが上手くすれば一度に過半数の幻を始末出来る。ヌマブチもそれをこそ待ち構えている筈、幸い周囲に纏わりついていた幻は潰したばかり。今なら――ダンジャは視認が難しい程細い妖糸を両手から戦場全体へ螺旋状に放った。 「しつけェ女共だ!」 図らずも間髪入れずジャックが最大出力と思しき雷撃を招き、一帯に迸らせた。 ――今だ。 数十体の幻影が稲妻に貫かれる中、それを逃れた者共に何処かしらで触れている妖糸の結界を凡て――解除! 電流の高温で溶け蒸発する朱氷の隙間、其処等中で一斉に起きる炸裂と飛び散る破片、視界は悪くとも明らかに幻の群が薄まった瞬間、 「今だ!」 ヌマブチが先程のダンジャの胸中と同じ文言の短い合図をびりびりと震えが来る程の声量で叫ぶ――それは事前に取り決めた閃光手榴弾の合図――彼は既にゴーグルを装着している、ダンジャは咄嗟に眼鏡を結界で覆う、ジャックは目元を腕で隠す――一面が閃光に包まれて真っ白になった。流氷から染み出すように新たに生じた幻影にそれは通じなかったが、舞台へ迫りつつあった数体の内ひとつに影が出来ている――ダンジャがヌマブチを見た時には何処か鈍く突き刺さる音と、彼が銛を投げ付けた後の予備動作を同時に確かめる事となった。 脇腹を貫かれ苦悶の表情を浮かべた宿主は、踵を返し一目散に海中へと逃れた。 「待ちやがれェ!」 ジャックが球状の力場で身を包み、後を追う。いつの間にか元の形に戻っていたラグレスも又、帽子――と云っても実際は体組成の一部なのだが――を押さえて足から飛び降りた。そして懲りずに生まれた幻影群が彼等を追い駆ける。 海上が俄かに静けさを取り戻した。ヌマブチは宿主に穿たれた銛の繋がるワイヤーを肩と手で支えばらばらと解いていく。 「では海釣りと洒落込むとしようか」 「そりゃあ粋だ。どれ、あたしも付き合うとしようかね――おっと」 不意に結界の舞台がぐらりと傾いだ。其方を見ると、現在足場としている箇所だけでは無く、張り巡らせ展開した凡ての舞台が方々――部分解除もしていないのに穴だらけになっている。 「――そういう事かい」 「何か問題でも?」 ヌマブチが僅か怪訝そうに訊ねる。 「大した事じゃないよ。ま――なるようになるさね」 騒ぎ立てる程の事でも無い。只、結界の各所が喰われていただけ。 「それよりもさ、其の糸は鉄か何かじゃないのかい」 だとすると海中でジャックが放電すればヌマブチも焼け死ぬ事になるが。 「絶縁体であります」 「周到な事だ」 ※ ※ ※ 平時なれば陸同様殺風景なのだろう仄暗い海中を、今は無数の影が泳ぎ廻る。先頭を往く女より伸びた太い鋼の糸に沿って、誰もが一様に同じ方向へ導かれていた。ジャックと、大型の鮫程もある巨大なクリオネが追う。宿主は手負いの為かやや遅く、此の侭なら程無くジャックの射程圏内に納まるだろう――が、二人の上下から、最早見飽きた同じ顔をした天女の群が、妖艶な笑みを浮かべて近付いて来た。 「チッ!」 邪魔されてもメンドクセェ――ジャックは一時留まり、ラグレス・クリオネに思念を送る。 ――お前は奴を追ってろ、此処は俺様が蹴散らす。 水中の事、ジャックの電撃は射程外ですらラグレスを巻き込む可能性もあるが、海上での彼の様子を見る限り問題は無さそうだった。 クリオネは了解したのか、全く速度を緩めずにジャックの横を通り過ぎて、見る間に遠く離れ、海水と透けた巨躯の区別が判然としなくなった。 「――!」 水流の乱れを感じ僅か交替する。直後、目の前を女が垂直に落下した。そして後ろ、右、上下、左と目まぐるしく彼女達は踊りを見せ付ける。態態直撃を避けてジャックを嘲っている様にも見えた。 ――たかが氷の分際で! 「しゃらクセェ!」 四肢を広げ殺意を念ずる、それを電流に換えて全身から解き放つ――一瞬で充分かも知れないが、ジャックはあからさまに過剰な量と時間を注ぎ続けた。付近に居た追っ手は無論、尚も水面より流れてくる朱氷どもも生まれた傍から電気で溶かされ、更に徐々に上昇した水温にも溶かされる様になった――。 其の、遥か水底にて。 ラグレス・クリオネは電流の余波を受け、其の衝撃で幾つかに分裂していた。と云っても肉体が損壊したのでは無く、強い力の走った部位をそれに任せて自ら分ったのだ。透明な肉質の貝はばらばらになるや否や、それぞれの肉片からわきわきと元の体積以上の半固形物が生え――欠損した部位を丸ごと再生成した。寸分違わぬ姿の者同士並存し、群を為す。 そうしてラグレス・クリオネ達は天の様な水底を漂う手負いの女を、彼女の幻影が先程行ったのと同じく上下から囲んで、纏わりついた。 『……っ!? …………!』 彼女の顔は笑顔の侭だったが、明らかに慌てて手足をばたつかせ、逃れようとする挙動が認められた。最早見えぬ同胞の姿にか、只単に囲まれる状況に不慣れなのか、擬態紳士にはとんと判らぬが。 此の侭いっそ呑み込んで仕舞おうか――併し未だ彼女の生態を確かめていない――此処は淑女に先を譲ろうと彼は思い直す。 「何しろかの捕食法は流氷の天使なる二つ名イメージの激しき裏切り具合が秀逸にて、是非に頭部全体を割り開き喰らい付かん様を生で拝見させたもう」 水中でも何ら差し障り無く早口で捲し立てつつ、併し彼等は羽や身をふわふわと彼女の艶かしい肢体を包み込む様に触れ続ける。其の意図は――後への布石だが――如何あれ見様によっては些か扇情的と受け取る事も出来た。女も其の気になったのだろうか――口端を吊り上げて、悩ましい眼差しを目の前のラグレスに近づけ、そして―― ――行き成り口から頭部がぷるんと剥け、中から無数の朱い触手が放射された。 「おお我が頭部を捕食せしめんと欲する其の姿こそまさに裏切りのバッカルコーンにて遂にまみえた感無量――」 見目には判らないが嬉しそうなラグレスの頭は瞬く間に吸い付かれ、丸ごと触手に包まれてしまった。触手は更に羽へ胴へとずるずる延びて往き、時折痙攣しては女の中へずぶずぶと這入っていく。瞬く間に半ば以上が女の口内へ埋り、尾の先に迄触手が絡みとぐろを巻く頃、それを祝福する様に――事実喜んでいたのだが――他のラグレス・クリオネは二人の周囲をくるくると舞い踊り、徐々に徐々に距離を広げて遠巻きになっていく。何故ならば、 「ヒャハハハハハ! なァに二人で楽しんでやがる!」 海中にくぐもって尚甲高く響く粗野な笑い声が近付きつつあったからだ。 「俺様も仲間に入れろヨ、ええオイ!?」 ジャックは球状の防護壁を纏った侭、雷光の如く水を貫く勢いで突撃して来た。ラグレス達は入れ違いに身を横たえた姿勢で海面へとひらひら、ふわふわ、くるくる上昇を続け――身を寄せ合う二人の元へ半ば体当たり気味に飛び込んでどちらへとも無く激しい放電を浴びせる。最早頭部が剥けて見る影も無い女は愛しいラグレスを尚飲み続け乍らも迸る電流の調子に合わせてがくがくと身を震わせ、捩れて―― 「あァン?」 獲物をほぼ全身呑み込んで俄か歪な姿となった途端、無数の触手がふわあと開花してジャックの方へ伸ばした。そして雷ごと彼を包む防護壁を更に上から包み込んで、痙攣を続けつつも其の凡てに対して、吸引を始めた。 「マサカ……喰ってやがンのか!?!」 ジャックはより強く念じて放電を高めようと試みる。だが既に最大出力の雷を行使しているのだ、これが通じぬとなれば――其の内防護壁にびきびきと亀裂が走った。触手が触れている箇所が薄くなって来ている。破られれば水圧が一気に襲い掛かるだろう。対して化け物が弱っている様子は、無い。 「クソがッ!」 ジャックは防護壁がばりばりと耳障りな音を立てた瞬間――姿を消した。 ※ ※ ※ 同じ頃。 「何だってんだい?」 ダンジャ達を取り囲みじゃれついていた幻影達が俄かに制止した。 「――おっと忘れるとこだったよ。歳は取りたくないねえ」 しなやかな指がぱちんと擦れ――硬質な爆音と飛び散る朱片が歓声と紙吹雪の如く舞台に広がり覆い被さる。併しこの時節にしては華やかな演出を前にしても、演者たる次の幻影達が登壇する事は無かった。眼下を警戒してみても新たに生まれ出でる事も無く――。 「……厭に静かでありますな」 ヌマブチが怪訝な面持ちで海を見遣る。ダンジャの手を借り舞台に括り付けておいたワイヤーの揺動が止み、たるんだ。外されたのか、浮上して来ているのか。 けれど静寂と云うのとは異なる。何処からか地鳴りの様な響きがした。やがて、 ばりばりばり―― 流氷のひとつが谷向きに折れた。続き隣の島も、其の又隣も、立て続けに中央から裂けては折れ、浸水し、小さなものは沈み始めている。 ばきんっ。 一際大きな音が鳴った時、二人の前にジャックの姿が唐突に現れた。海中から瞬間移動して来たのだろう、ずぶ濡れて磯の香りを漂わせている。 「早かったね」 「何があった?」 決着がついたので無い事は彼の不愉快な顔からも明らかだ。併しジャックが二人に応える前に、今度は水面から何か不定形のモノがばしゃっと飛び出したかと思うと、ぺろんと引っ繰り返るようにして、十羽程の大鷲へと転じ、群ごと旅人達の元へ羽ばたいて向って来た。 「来やがるゼ……!」 ジャックが喘ぐ様に云った、其の時、大鷲の群が飛び立った海面に朱色の妖しい光が集まり始め、直後――夥しい水柱が上り――周囲の流氷が持ち上がる程の激しさでダンジャが仕立てた足場より高く、長い間吹き上がった。 海がうろたえた様に波打ち、流氷が驚きの余り転覆し、やがて水が引いた其処には、これまた朱い、過剰な程大きな貝殻を外套の如く背負った、あの女が居た。片手にはヌマブチの銛を携え、旅人達に艶かしい視線を送り。 「成る程納得ハダカカメガイがカメガイに進化とは新たな系譜の枝分かれ」 大鷲の一羽がラグレスの声で語散た。 「なんだい、ぴんぴんしてるじゃないか」 「それもその筈何しろ」 「彼女は海中戦にて電気と壁と私とを食し」 「滋養豊富が過剰気味」 ダンジャに別の三羽が応える。 「本当に埒があかんな」 「あきますとも、今これこの時以来」 「さっき何か仕掛けやがったカ?」 「如何にも――おやあ」 「併し乍らあちらもこちらの消化を始めた様子にてこれ」 「即ち人目を忍ぶ戦の幕開け」 「捕食者同士の密かなる決闘勝つか負けるか共倒れか」 「縺れて互いを飲み込み合う私と貴方は差し詰めシマヘビ。勝負の行方は――」 大鷲達が口口に互いの言葉を隙間無く繋いでべらべら語り、 「――皆様次第」 そう結ぶ。仔細不明乍ら、ラグレスは今も戦っている……らしい。 「ヘッ、なんだか判らねェが」 「ああ、見分けがつく分さっきよりよっぽど楽だ。畳み掛けるよ!」 ジャックとダンジャが併走する、女も此方へ滑空し片や二人の目の前に飛沫と巨大な流氷が急激に上昇して阻む、ジャックがこれを雷撃すれば砕けた無数の破片が懲りずに幻影と化し、併し先と異なり直線的に二人を襲う、ダンジャが指揮者の様な仕草をとり指を鳴らせば其の大半が微塵と成り果て――其の奥から女が迫る。 「惜しいね」 更にダンジャが腕を振るえば舞台同士がぐん――狭まり女を挟み込む。 「いっちまいナァ!」 空かさずジャックが鎌鼬を放つ、ぱっと女の腕が飛ぶ、どぶっと透けた薄紅の液が溢れ、次いでぱちんと弾く音、次いでばあんと爆ぜる音、足場を失してダンジャとヌマブチが落下するも、 「ジャック殿!」 「おォ!」 念動力で宙に留まり――併し爆発後に漂う女は背を向け殻に護られていた。 「中々どうしてしぶといじゃないのさ」 だが振り向いた彼女は俯き加減に身を捩り、腹を押さえている。 「いやはやこれは耳も目も矢張り単なる擬態にございましたか」 「他方朱なるエネルギーが欠片より根差し体組成を飛躍的に向上」 「消費後も経口摂取で朱を補うとは驚天動地の代謝機能」 大鷲達がそんな事を云った。あれの体内の事象なのか、或はその生態を読み解いているのか。云っている事は意図不明だが、兎も角ラグレスの仕掛けが彼女を弱らせているのは間違い無さそうだ。 ――ならばそろそろか。 ヌマブチは不慣れな空中遊泳も意に介さず、ゆっくりと仲間達の方へ移動した。 凡ては己が策略の為。併しそれは彼なりに西国を、朱昏を慮っての事。だがこの世界の民に対する情では無く、数多の人命を優先する事こそが己を人たらしめると信じるが故の、謂わば人でなしである己への危機感に過ぎぬ。だが、それを為さねば―― 『あなた、鬼ね』 今、仲間達と激しい戦いを繰り広げている化け物と同じ顔をした存在――レタルチャペカムイ。あの女妖の言葉がヌマブチの胸に刺さっていた。それは此度彼が用いた銛の様に抜け難い物らしい。 ――冗談ではない。 あの化け猫めが人を鬼呼ばわりするのなら、自分は意地でも人である事にしがみつかねばならぬ。化け物に彼女の姿が重なり、如何しようも無く胸が悪くなった。 ――貴様の思い通りにはならん。 手始めに欠片の確保だ。世界図書館でも槐でも無く――。 ジャックが幻影を放電で残らず消し去った処で化け物が腹を押さえた。ダンジャが妖糸を放ち、頭上でぐるぐると廻すと彼女は縛られた様な格好で硬直した。心成しか怯えた様な不安定な偽りの笑み――何故某を見る。 まるであの女が命乞いをしている様だ。 ――要らぬものを見た。 ヌマブチは名状し難い感慨を振り払って彼等の傍へ忍び寄る。ぱん、と化け物の腹が爆ぜて体液が飛び散った。宿主が悶えるのに構わず、空いた穴からはにょろりと掌大の――クリオネが朱い光を伴って顔を除かせて、喋った。 「まさに未曾有の生体情報序でに欠片も没収と、実に僥倖充実の時」 ――ラグレス殿か。だがあの大きさならば。 ダンジャが指を鳴らすと、宿主――嘗てクリオネであった化け物の身が、折角仕立てた貝殻共々無数の破片と肉片と飛沫に弾け飛ぶ。 ――好機! ヌマブチは爆心地へ駆ける、ダンジャとジャックが目を見張るが意図が判らず阻みはしない。手を伸ばした――自由落下に身を委ねているクリオネを宝珠の欠片ごと引っ手繰る――が、刹那白黒の鳥影が彼の視界を掠め去り、 「何?」 ヌマブチの右手は何も掴みはしなかった。遺された羽音を振り向く迄も無い。ラグレスの分体が自らの「端末」を欠片ごと回収したのだ。 ヌマブチが図った欠片の横領は失敗に終わった。 ※ ※ ※ 「礼を云う」 「なあに、仕事だからね」 神夷の護衛の無骨な謝辞を、ダンジャは適当に受け流した。 天から与えられた役目を守る者、健気に果たそうとする者を守る事に理由は無い――なんて、想いはしても云ってやるような柄じゃない。一連の出来事の原因の一端を嘗ての旅人が担っているのだとしても、それは余り関係の無い事だ。況して贖罪等でも無く。 ふと、瓜二つの愛らしい娘達に目を遣った。見慣れぬ風体の異邦人達を前に人見知りしているのか、身を寄せ合って不思議そうな顔をしていた二人はダンジャの視線に気づき、一方――ヤムスが照れ隠しなのかウニの後ろに廻った。 「いい子達だ。――大事な役目なんだろう。帰りまで確り守っておくれ」 「……そうだな」 護衛の男はダンジャの言葉を殊更重く受け止めた様だった。 「ヤムスとウニが善きカムイに会えることを祈ってるゼ」 ジャックも二人の護衛にそれだけ云ってから、今度はイメラの方を見た。 「ところでヨ、終が今どうしてるか知らねェか」 「イツ……?」 「“コンルカムイ”でありますよ」 顔見知りのヌマブチが口添えすると、イメラは「コンルカムイか!」嬉しそうに笑い、併し直ぐ怪訝な面持ちとなった。 「先日迄俺の家に寝泊りして居たが……貴方達は何も聞いてないのか?」 今度はジャックとヌマブチが訝しい顔を見合わせる。 「では、今は何処に?」 「判らない。俺と同じ時に南へ発った。帰ったのだとばかり思っていたが」 「…………」 ヌマブチは眉根を寄せる。 実の処ヌマブチは欠片を首尾良く横領せしめる事が出来たら、終と接触して横流ししようと目論んでいた。又、若し会えぬ際には目の前の実直そうな若者に託そうか、とも。彼の女妖の企てには、此方が凡ての欠片を揃える事も織り込み済みらしい。ならば一箇所に集めるのは愚策、危ういと見るべきだろう。とは云え只の人間が世界計の欠片を手にする事が如何に危険か――イメラやコタンの者達に災禍を押し付ける事に、人命尊重との矛盾を禁じ得なかった。 「どうか、したのか?」 イメラは押し黙るヌマブチを気遣う。 「いや…………――済まない」 「? 何故謝る」 答えようも無い。ヌマブチ自身、謝罪の言葉が上辺なのか自らの本心なのか、良く判らなかった。況して利用しようとしていた当人になど。 だが、矢張り―― ※ ※ ※ 後日、骨董品屋『白騙』にて。 「――……彼奴の掌で良い様に転がされ続けるのは、些か癪であります故」 「成る程、御尤もです。実は――僕も彼等の話を聞いて、そう想っていた処でして」 ヌマブチに頷いてから、槐は客間の両端に離れて陣取る二人を示した。一人は赤褐色の翼と髪を供えた修験僧の出で立ち。もう一人は、行方を晦ませていた“コンルカムイ”その人である。何処か不機嫌そうに見えるのは気の所為か。 二人共頭上に0世界には不似合いな光――真理数が明滅しているのが少し気になったが、今は話の途中だ。ヌマブチは視線を鬼面に戻して、訊ねた。 「して、貴殿の策は?」 「……あまり良い方法では、ありませんけれど」 槐は目を伏せて、最後の語りを紡ぎ始めた――。
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