「御免下さいよーう」 気の抜けた聲を伴い帳場から座敷に面を出したのは、雀斑顔の頓狂な世界司書、ガラ。「ガラさん、御苦労様です」 槐は相変わらず珍奇な仕草で身をくねらせる女の影に隠れる様にして俯く娘――菊絵に細めた眼差しを遣り、僅か瞼を閉じてから、二人の来訪者に着座を勧めた。「――では。揃った処で本題に移りましょうか」「我我の立場上、龍王の要請には応じなくてはなりません。併し、無策で応じれば、確実に大きな災いを招きます。レタルチャペの事ですから、此方が宝珠の欠片を凡て揃えた事は既に察知しているでしょう。彼女の目的が自身の復活と穐原家――引いては西国の滅亡にある以上、金の宝珠の理力と菊絵さんの“匂い”に気付けば、況してそれが憎き穐原家の御膝元にあるのなら、必ず姿を見せる筈だ」 完全な復活を遂げる為には、菊絵と金の宝珠が不可欠故。「其処で――金の宝珠を二つに分かれた状態の侭、西国に運ぶと云うのは如何でしょうか」 別別のロストレイルを用いて一方は『勾玉を宿す菊絵』を、一方は『勾玉を持つ槐』を乗せて、それぞれに数名の護衛を伴い間を置いて現地入りする。到着後、菊絵は龍王に従い穐原城に入城、槐は城下にて待機する。「穐原城の内外には招かれざる者を跳ね除ける結界が、幾重にも張り巡らされていると聞き及びます。更に、城内にはレタルチャペの祟りを恐れた将軍家が国中から集めた武芸者や術者が、多数控えているそうです」 即ち穐原城は西国で最も安全な場所である。此処に菊絵と勾玉の一方を預け、もう一方を所持する槐が城外で迎え撃つ。謂わば二重の囮である。 問題は復活を果たしていないレタルチャペカムイを如何に打倒するかだが――槐は「方法はあります」と面を上げた。「今迄、彼女は幾度と無く皆さんに撃退されて来ましたが、決して滅びる事はありませんでした。理由は彼女が仮初の肉体に当てていた環境由来の依代にあるのでは無いかと、僕は見ています」 それ等は一様に無生物を媒介に作られており、容易に憑依出来る反面、レタルチャペカムイの思念との掬び付きは弱かったと云うのが槐の見立てだ。故に撃退は比較的容易であり乍ら、故に思念を討つには至らなかった。「此処で少し、話が前後しますが――五十年前、レタルチャペには物理的な攻撃手段も有効でした。身も心も宿主たるソヤと、つまり人間とひとつになっていた為です。ならば――此度も全く同じ状況を仕立て上げれば善い」「ちょっと待って下さいよう!」 ガラが彼女にしては鋭く口を挟む。「さっきから黙って聞いてれば……それってつまり、レタルチャペを誰かに取り憑かせて、あの、その、」「ええ、殺すのです」「そんな遣り方!」「いけませんか」「え、んじゅ……?」「レタルチャペを止める最も確実な方法です。彼女が鎮まれば西国の民が脅かされる事も、菊絵さんが運命に翻弄される事も無くなります。世界図書館とて同じ事。皆さんは、元を辿れば僕等が――否、僕が撒いた火種を、命懸けで消して廻っています。併し、此処で事を終えればもう無用な危険を冒さずに済む――其の凡てが暗愚な男一人の血で贖えるのですよ。代償としては安過ぎる程だ」「いい加減にして下さいよう! そんなのガラでも思いつく一番簡単な遣り方じゃない! 大体、取り憑かせるって誰に……――まさか、男一人って!」「済みません、ガラさん。ですが……始めからこうするべきだったのです」「――そのために私を利用するの? おかあさんみたいに」「貴女さえ其の気なら、ね」「……………………」 ※ ※ ※ 螺旋特急ロストレイル<朱昏>行き車中にて。「…………」 終は、果て無く茫洋とし乍ら、それでいて澱みの淵の如く息苦しいディラックの空を、独り車窓から眺めていた。外に三名の同行者が居る筈だが、到着迄は思い思いに過ごしたいのか、皆車中に散っている。終とて歓談に興じる気にはなれなかったから、いっそ好都合かも知れない。 ――策、か。 槐が示したそれは、少なくとも終にとり歓迎すべき物では無かった。彼は五十年前と同じ状況を作り、其処に自らを投じようとしている。違いが在るとするなら、嘗てはソヤを城内に送り込み当時の将軍を討とうと考えていたが、今は菊絵を城内に遣って現在の将軍を守ろうとしている点だ。 ――……? 若しかしてこれは親から子へ引き継がれた、呪いと同然なのか。 穐原煌耀から照澄へ。ソヤないしレタルチャペから菊絵へ。奇妙な程膳立てられた一連の符号に対し、不吉な物を感じずにはいられない。だが、だとしたらそれこそ――見てみたくはある。例えば魂が母、魄を娘とする様な明確な線引きを、終は見出すことが出来ない。実感が伴わないのだ。故、金の宝珠を完成させ、両者を一とした際に、何が起こるのか。何れ―― ――変化は勝手に訪れる。本人が望もうと望むまいと。 玖郎や龍王が主張する循環の内に在らなくてはならないのならば、必ず。併し、渦中に在るいちいちを慮らぬ思索は、危うい物では無かったか。誰かが云った。 ――確かソヤの言葉だ。 『謀にばかり腐心しては、いつか大切なものさえ盤上の駒と成り果てる』。では、槐にとって大切なのは何だ。ソヤか。レタルチャペか。菊絵か。然も無くば――己の心か。友人となった今も、骨董品屋の胸中を推し図るには至らない。彼は未だ、己に縛られているのだろうか。 ――俺は……如何だ。 己の考えに縛られていないと云い得るのか。彼等は、如何なのだろう。 玖郎が云う神としての摂理。 それは絶対的で口を挟んで如何なる物では無いと判る類の。 沼淵に感じる人の摂理。 槐にも見られる理性的な心算であり乍ら、ともすれば感情に根ざした、勝手な。 玖郎は正すと云っていた。沼淵は――殺そうとするのだろうか。凍て蝶の娘を介した龍王の言葉を思えば、結局はそれも正す行為に相当するのだろう。神の側に立とうと人の側に立とうと、双方の利害はこの場合同じなのだから。 ――正すとか正さないとか……狂いすらも、摂理の内だろう。 捨て置けば善いとは云わないが、そも、摂理とはそういった物では無いのか。 ――そう、摂理だ。 終がターミナルを出奔してレタルチャペと行動を共にした期間はほんの僅かだが、にも係らず其の間に得た情報は殊の外多く、それを受けて考えるべき事は更に多い。だからこそそれら事象の本質を、顛末を、摂理を見定めたいと想った。 誰かと反目したい訳では無い。けれども納得しなくては進めない。仮令それが道理の区別も付かぬ子供染みた理屈と識っていても。だから、如何なる結末が待っていようと、この渦の中心――レタルチャペの心が、昏い淵に瀕した侭――救いが無い侭、終わらせるのだけは厭だった。彼女を、救いたかった。「でなければ、頭上の数字に何の意味がある」 でなくては、彼女と云う摂理は負の因子を堆積させた侭だ。 永久に――。 ※ ※ ※ 滅ぼすばかりで滅ぼされぬものは危うい。何故なら、均衡を欠くからだ。理に綻びが生ずれば罅を為し、其処から凡て割れて崩れゆく。天地が変異し、棲まう生命は死に絶える。それは人が、国がと云った枠組には収まらぬ。森羅万象の一切は無関係では居られぬ故。併し、それは僅かな切欠で容易に起こる。例えば――人の心持ちひとつでさえ、災禍の源足り得るのだ。 ――時にひとのこころは領分を越え、理を損じるまでの結果をまねく。 只生きるには過分な欲と、止め処無く溢れ、突き進む――玖郎には凡そ共感し得ぬ――人の情。彼等は同族を殺める為、神の力さえ用いる。其の様な群れに理の一端――金の宝珠を委ねる等、在り得ざる事だ。嘗て戦を憂いて豊葦原を分った者の沙汰とは想えぬ。龍王も又、人に非ずと云う事なのか。ならば。 ――もしやひとのこころをはかるは不得手か。おれとおなじに。 そうも思う。叶うなら一度話してみたくもあるが――さて置き、彼の女妖は、懼らく龍王とも玖郎とも違う。レタルチャペ――白虎は、白虎であり乍ら白虎では無い。其の意識は寧ろ人の側に在る様に感じられた。 ――あれはまるでソヤとやらの魄と、同化したかのごとく映る。 玖郎の知る魄は、単純な肉体に繋がる為だけの物では無い。否、なまじ肉に通ずればこそ、死して尚現世に留まる、陰の霊――重く、昏く、沈む心其の物。そして仮に見立て通りならば、ソヤの魄が今も白虎とひとつならば、即ち。 ――よもや宿主は、魂天に帰して魄地に還らず――半端に留め置かれた存在なのか。 あれの所業が目に余ればこその穿った見方やも識れぬが。それでも循環の――流れの澱みを、正さねばなるまい。そして事は最早西方守護者のみに留まらぬ。「…………」 白虎と繋がりを持った終と沼淵。二人の在り様は、等しく繋がりを持つ玖郎の眼に危うく映る。 終は、人か妖かは未だ判然とせぬものの、其の意識は――何処かレタルチャペにも通ずる――人に似た物に見得る。それで居て胡乱な印象に違わず或る種定まり無く、それで居て頑なだ。 一方沼淵はと云えば、計算高く堅実に立ち廻るかと思いきや、何故か余りにも保身を省みぬ行動が目立つ。いっそ自ら危機に甘んじる事を好んでいる傾向すら窺える。此度も同様なのだろう。 共に知己と思えばこそ慮りもする。更に白虎を正すとなれば骨が折れよう。併し、内情こそ判らぬが、彼等には彼等なりの想いがあって臨んでいる点は理解出来る。又、想い――情を無碍に扱えば、人は暴走し時に狂いもする事も。何れの善し悪し等量れはせぬし、故、秤に掛けもせぬが。 ――ならば、おれの為すべきは。 人の狂うを避ける為、人ならざる者なりに最良の方法を見極め、事に当る。 それは玖郎なりの――情なのかも知れなかった。 いつしか車窓の眼下には今はすっかり馴染んだ、龍が如き大地が窺えた。 ※ ※ ※ 車内放送が<穐原平野>への到着が間も無い事を告げる。花京に最も近く、人目につかぬ開けた場所の様だ。 沼淵はキャビンで揺られ乍ら、故郷で前線に運ばれた際にも感じた独特の重苦しさを覚え、水底より還った者が陸の空気に身を慣らす様に、静かに少しずつ、それを己に染み込ませていった。と云っても、恐れは無い。常より感情の起伏に乏しい性質故、身の危険に対して取り乱す事は基本的に無いのだ。 ともあれ、何事にも例外はある。程無く対峙するであろう此度の“敵”――レタルチャペカムイこそは沼淵を恐怖に貶めた、当に例外だった。常人ならば忌避するだろうが、無感動である事に対し或る種の劣等感を抱えている者に取り――仮令それが恐怖であれ――己に『本能的な情動』を齎す相手は好奇の対象足り得る。故、真都にて初めて邂逅して以来、沼淵は彼女の事を独特の興味深い存在としてみていた。其の意味を見出そうと思いもした。 だが――如何に非業の経緯を経たのだとしても、過去の因縁とも怨みとも一切無関係な――沼淵が常日頃救うべきと考えている――民を虐殺し喰い散らかす彼奴の所業を看過は出来ない。あまつさえ、あの女は自らの非道を差し置いて―― ――あなた、鬼ね。 次いで蘇るのは耳膜にこびり付いた哄笑。 貴様に云われたくは無い――強い嫌悪感を伴う反発心が芽生えたのはあの時か。度し難かった。人たらんと努め、振る舞って来た凡てに泥を塗られたのだ。 朱昏の民。一握の矜持。何れ差し引く迄も無く――今や沼淵に取り、レタルチャペカムイは排除すべき“敵”以外の何者でも無い。数多の命――と、一握の矜持――の為に多少の犠牲を払わねばならぬのなら何であれ利用し、必要とあらば切り捨てるのみ――。「――む」 隣の車両から漆黒の鬼面が顔を覗かせ、此方に気付くと幽かに非対称な歩みで近付いて来た。後には終と玖郎が連なる。玖郎はいつも通りだが、終は思い詰めた様な難しい面持ちをしていた。何か、あったのか。「御寛ぎの処申し訳ありませんが、悪い知らせです」 沼淵が問うより先に槐が応えた。「……御聞かせ願おうか」「ガラさんから連絡がありまして……レタルチャペは城内と城外の双方に必ず姿を見せるとの予言が、つい先程、導きの書に齎されたそうです。そして、前者は穐原照澄の殺害を、後者は穐原城自体――懼らくは石垣に埋められた人柱の怨念――を媒介とした、呪殺を目論んでいる、とも」 二箇所、同時に現れると云う事か。彼の女妖の事、其の程度の離れ業はやってのけたとて今更驚くに値しない。それよりも槐だ。自身の策に訪れた不測の事態だと云うのに至って平然としているのが気に懸かる。まるで――、「こうなる事を見越して居たのではありませんかな、貴殿は」 ヌマブチは三白眼のみ鬼面に向けて、確かめる。そも、当初の予定通り城外でレタルチャペを迎え撃つと云うのなら、此方にこそ多くの戦力を割くべきだ。だが、事前の打ち合わせに拠れば頭数は城内の護衛に当る班が勝る。「……何れにせよ、為すべき事に違いはありませんよ」 槐は聲にも面にも一切の揺らぎ無く、只それだけ云った。「つくづく勝手な男だ。では呪殺とやらの規模は?」「花京全域です」 終が渋い顔をしているのも其の所為か――あの化け猫は尚も虐殺を目論んでいると云うのに、御優しい事だ。「それを防ぐ手立ては」「城外の五箇所に配された石碑――嘗て瞑赫寺の和尚が施した、人柱の鎮魂と結界の要点を兼ねた物だと聞いていますが――レタルチャペがそれ等に気付いていると仮定して、凡て破壊される前に止めれば善いだけです」「簡単に云ってくれる」「今迄を思えば殊更難しくは無いでしょう。少なくとも――沼淵さん。貴方ならね」 槐は『白騙』で客を迎える際の、柔和な様で。「……ふん」「ですが、たった一度で上手くいくとも限りません。其の時は――」 そして未だ表情を固める終を振り返り、尚も表情の窺えぬ玖郎を見遣り。「――後の事は、宜しく御願いします」 ロストレイルは、停車していた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>雪深 終(cdwh7983)玖郎(cfmr9797)ヌマブチ(cwem1401)槐(cevw6154)=========
「和尚!」 「何事か」 只息を切らし書簡を差し出す弟子の不勉強に呆れつつも取り敢えず受け取った和尚は、開くなり目元を皺くちゃにして、深刻な聲で訊ねた。 「何方がこの文を?」 「は――雁が、」 「雁か。成る程、外道の手口よな」 「物の怪の仕業に御座いますか!?」 「如何にも。だが――将軍家の墨付とあらば無碍にも出来まいて」 尚も和尚は文書を目で追い、重々しく息を吐いた。 「は……?」 「読んでみよ」 雲水は手渡された文を、経でも学ぶ様に音読する。 「く……『狂うた西方守護者の災厄を防ぎ諫めんが為、助力を請う。汝らを含むひとの命が、国が惜しくば応じよ。境内でよい、可及的高所へ居れ』……?」 「然り。至急皆を集めよ」 「は、はい!」 雲水を見送った和尚は、独り、遠く渦巻く空に向かい聳え立つ天守を見上げ、実に嘆かわしげに首を振った。 「虎が還るか――」 ※ 穐原城城下、花京の路上にて。 「先に云って置く」 沼淵は軍帽のつば越しに冷徹な紅の瞳を向けて、云い放った。 「誰かが憑依されたならば、自分は邪神を殺す為に迷わず引金を引こう。故に、某が憑依された場合は迷わず某を――殺せ」 軍刀の如き鋭さで耳に突き刺さる言葉。相手が終なればこそ。 「最良、ならば」 「外に確実な方法があるとでも?」 凍氣を繰る半妖の応えに生温い物を禁じ得なかったか、沼淵は直ちに訊き返す。だが、そんな物ある筈が無い。だから終は正直に答えた。己の意を添えて。 「…………未だ判らない。だが、殺すのは最後の手だ」 「何……?」 終は数多の死線を潜り抜け、故手段としての抹殺を辞さぬ男に負けじと、きつい目を向ける。沼淵も三白眼で応じ、二人は雑踏の中で暫し膠着した。 ――其れで何が残る。 『救い』とは凡そ程遠い。仮令其の方法が未だ見えずとも終は退かなかった。 やがて―― 「――全く」 先に折れたのは沼淵だった。 「貴殿と云い、どいつもこいつも人を殺人鬼のように云ってくれる」 否定する材料が無い以上致し方無い話だが――と、彼はつばを下げて肩を竦め、 「これでも努力する心算なのだがね」 直前迄の剣呑さは感じられず、些か芝居がかった調子で溜息を吐く。 「努力? 貴方がか」 「そうだとも。折角人間らしくなる努力をしているというのに」 「…………?」 終は目の前の男の作られた態度にさえ、言葉通りの真意を垣間見、故に違和感を覚えた。らしくも何も彼の行動理念は、摂理は、まるで――其の物なのに。 「……死人は少ない方が善い――筈なのだから」 白白しい人道論が虚しく響いて、喧騒の中へ消えた。外の主張より不鮮明なのは、沼淵自身が誰より白白しく想っている所為なのかも識れない。 だから、終は何も云わなかった。 一方、穐原城前にて。 堆い塀の上――其の一点に色もとりどり種種雑多な翼が群れ、集う。或る種信じ難い光景を目の当りにする者は手近に居らず。只独り、自らが呼び集めし京中の鳥達のはためきに囲まれた、一際大きな咳褐色の両翼を帯し験者が「忝い」と、誰へか礼を述べるのみ。 「後で馳走する」 数多の嘴は験者――玖郎――の短い約束に対し異口同音に高い聲で喜色を示すと、直ぐに思い思いの方へ羽ばたき、瞬く間に散り散りとなって姿を消した。 「――玖郎さん」 徐に城の扉から漆黒の半鬼が、三名の坊主に付き添われて顔を覘かせる。玖郎は応え代わりに自身も緩めに羽ばたき、彼等の前へ降り立った。 「此方も許可が下りました。城内に控える僧侶は凡て城外の守りを固めよとの御達しです。それと――」 槐が言葉を区切り、振り向くと、合図とばかり僧達は玖郎の脇を抜け、更に伴って来た城仕えの者達に何やら指示を出していた。 「篝火を熾す事になりました」 「焔を法力の焦点とするか」 「御推察の通りです」 「そうか」 玖郎は抑揚の無い相槌を返すと共に、未だ緊迫した様を見せぬ優男の面を窺った。併せ思索を巡らせしは、彼と浅からぬ縁を持つ白虎の事に外ならぬ。 ――慕う男もろとも死に至らしめれば、更に白虎が怨恨を募らせる危惧がある。 玖郎は白虎の内面をひととして捉えている。そして、この鳥妖が知るひとの心は死で終焉を迎えるとは限らぬ。其れは石垣の贄の怨念からも知れる事。 「弥縫策にとどまり禍根を残すは避けたい」 玖郎の率直な所感だった。彼に取り白虎の心を如何に拾うか示されぬ槐の策は、不完全なのだ。なればこそ詳らかにして憂いを断ちたいと考えるは道理。 「白虎の意識を断てば、分たれ怨嗟の魂魄に染まりし金珠も正すが叶うのか。 浄化の仔細を示されぬ儘では、当初の謀の良否が判じ得ぬ。 「……さて、菊絵さん次第と云った処でしょうか」 僕はそれ程心配していませんけれど――槐はそう云って、遂に微笑さえ見せた。 「極短い期間ではありましたが、あの娘は皆さんと接する事で『神の娘』でも『名も無き死者』でも無い、『菊絵』と云う名の、生きた心を宿す様になった。そして、彼女は外ならぬソヤの娘です。如何にレタルチャペの魂と云えど、思念が抜け出した儘、生きた心の宿主たる協力な巫者を完全に掌握する事等、出来はしません」 確かに、聞く処に拠らば、ソヤの身が白虎と成り果てたのは其の心が死した為。想えば直接の原因は其の事変ではある――だが、 「如何に強き巫者の血を引こうとも、ひとの童女ぞ。大妖に剋ちせしめるとは到底想えぬが」 玖郎の当然とも云える疑義に、併し槐は尚も危うき言を示す。 「一時――此処を凌げれば善い。勿論、皆さんの御協力あってこそです」 「縦しんば凌いだとて、其の後は如何する。将軍がすべを心得ているのか」 「確かに穐原家ならば心得てはいる筈ですが――其の手間も省けそうですよ」 槐は意味ありげに鳥妖を見て、其れから既に粗組み上げられている櫓に目を遣った。玖郎は其の意を即座に理解し――尚、不安の払拭には到らなかった。 「……何れ危うい話だ」 「御尤もです。併し、態態菊絵さんをレタルチャペに差し出すよりは遥かに安全だ。……そうは想いませんか」 「おまえがあれの慕情に応えるが、しずめなだむ捷径とも思うが」 風神の聲に呼ばれた様に冷たい戯風が吹く。半鬼の肩に乗る梟らしき者が幽かに首を窄め、暫し弄ばれた白髪の狭間より窺えた主の眼は伏せられている。 「……そう――なのでしょうね」 只、風に言の葉を乗せて。 「大事あらば終とて黙っては――」 玖郎は偶さか向いた正門に二人の知己の姿を認め、埒も無い科白を呑み込んだ。 ※ ※ ※ 穐原城は湖を背に構え、残りの内周三方に堀が設けられている。外周の三方は正門を備えし土塀が囲っており――今、其の土塀の上には玖郎が配した僧達が控えていた。高所なれば白虎に狙われ難かろうとの算段だ。 聞けば、この場のみならず花京中の僧がこの穐原城の側を向き、待ち構えているとの事だ。玖郎自身も高所の何方かに身を潜め、様子を窺っている。 件の石碑は堀の四隅にそれぞれ在る外、湖の上に残る一つ。 沼淵、槐、終はと云えば、今は正門から城の正面扉へ向かう、堀に掛かる橋の前で燃え盛る篝火の傍に陣取っていた。門は敢えて開け放たれてある。下手に鎖して外から不意を突かれるよりは、といった処か。 それにしても寒かった。傍らの火が酷く在り難い。酒が欲しい処だ――禁じて尚度々脳裏を過る嗜好への淡い憧憬は、併し。 ――来るぞ、備えよ。 風に運ばれた玖郎の幾許か緊迫した報せと。 幾度も肌に、心に、脳髄に、直に感じた悪寒と恐怖と。 ――ふ、ふ、ふ。……あら。あらあら。 癇に障る笑聲に因って、掻き消された――。 ――存じた殿方ばかり。ひょっとして私を待っていてくれたのかしら? 「白白しい事をのたまう」 来る前から承知の上であろう事実を囀り喉を鳴らせば、乾き張り詰めた空気に不快な湿り気が充満する。ややもすると呼気すら覚束無く程の、狂おしい静けさを伴う死の気配。同行者達を見ずとも厳かに戦ぎ身構えているのが伝わって来た。 だが――何処だ。姿が視得ない。 ――ふふ、うれしい。 篝火よりも遥か刺激の強い瘴気が沼淵を襲う刹那。 『けれど駄目よ。だって――』 「――!」 それは眼前に顕れた。 実体でも無い癖にあたら長い黒髪を風に靡かせ。死蝋染みた透ける面に恍惚とした微笑を浮べ。漆黒の鬼面片手に、楚々と歩み。けれど沼淵と終の傍へ到れど、黄金の眼が見据えるは、二人の肩越しに在る男。 『――ねえ? チクペニ。あなたがいるのだもの』 「レタルチャペ……」 チクペニと呼ばれた鬼は呻く様に女の名を口にし、自らも進み出たが――それを半妖が手で制した。女妖が立ち止まる。 『なあに?』 「愛しい男に憑いたとて本望か」 終はレタルチャペに毅然とした意を向ける。 「一となるのは二度と傍に在れないからこそ。……貴方もだ槐」 そして、槐にも。 「終さん」 「こんな事が何になる。そも、朱昏で死んだ旅人が循環に組み込まれるのか?」 「…………」 男の沈黙が真理を示す。槐の頭上には朱昏の真理が宿らぬ故。 「それとも天国に掬ぶ恋といかぬなら凡て失い――地獄の恋とでもする心算か!」 終はレタルチャペを見据えた儘、前後の男女に向け、らしからぬ大声を発した。 ――やれやれ。 沼淵は路上で終に話した事がまるで功を為していない事を識り、溜息を堪えるのに苦労せねばならなかった。この期に及んで未だ青臭く生温い考えの儘とは。 『――ふ、ふ、ふ、ふ』 暫しの沈黙を破ったのはレタルチャペ。次いで後方から槐が諭す口調で語った。 「少なくとも『此処迄』は……必要な事です。誰にとってもね」 「せめて再帰属してからにしたら如何なんだ」 「……だからこそ、ですよ。そう。これは謂わば――利害の一致です」 そうして最終的には食い下がる終の主張を寧ろ認める形で掬ぶ。 「……?」 『そういうことよ、坊や。わかったらおどきなさいな』 まるで槐と予め示し合わせていたかの如き言で女妖が駄目押しをする。けれど、それでも終は退こうとしなかった。 「断る!」 云うなり懐に手を入れ、抜き出したるは――沼淵も覚えのある拵えの小刀。だが先にレタルチャペの姿が古いフィルム映像の様にぶれて、幾つにもなり、 「しまっ――」 かと想えば次の瞬間には二人の後方に顕れた。終と沼淵は共に得物を番え、併し焦る終とは対照的に沼淵は鉄面皮を崩さず女妖の背に迫る。 「……」 故、沼淵は近付きつつも敵が何れの石碑へ向かうか遅れじと機を窺った。片や終は抜き身の小刀をレタルチャペに翳そうとするも、寸での処で又姿がぶれ、空を虚しく斬るに留まった。 そして終が空振りの予備動作から立ち直る間に。 女の一方は城のほうへ、もう一方は意中の男の顔に、そうっと鬼面を被せ。 槐はすっかり漆黒の鬼と化し。 顔から、頭部から、全身から、朱が燃え上がる様に噴出し。 仕上げとばかり、女は凶相の両頬をいとおしげに支えて――口づけした。 「――!」 朱が渦巻き、二人が視得なくなって。やがて収まった時、其処には。 一匹の大柄な白虎が朱い凍気を纏い、唸り聲を上げていた――。 『――どうして』 だが、直ぐに獰猛な牙を備えし顎からは、女妖の狼狽が漏れた。 「……?」 何があった。あの男の仕込みか? ――沼淵は怪訝に想いつつも膝を緩め低身長をより低く身構えて、研ぎ澄ます。 直ぐに城の外周より読経が始まり、巨獣は忌忌しげに咆哮した。次いで跳躍し――宙にて全く同じ五体に分身し、思い思いに堀に沿って駆けてゆく。 「拙い!」 ――西だ。 あわや惑わされかけた沼淵、それに終は迅く敵の動きを察知した玖郎の聲に従い、後を追う。程無く白虎が顎門を開き、ひとつめの石碑を、噛み砕く。 石垣一角に負の情念と思しき黒色を帯びた――触れただけで狂死しそうな瘴気が新たに起る。 だが未だ四つある――沼淵は黒白の大柄な背を目指す、白虎は更に移動しようとするも突如雷が落ちて出足が挫かれる、上空よりはためきが鳴る――玖郎の仕業だ。そして其の機を沼淵は逃さなかった。 「援護しろ!」 「……くっ」 後続の終を見向きもせず沼淵は既に銃剣ごと白虎に突進した。続き終が手を翳すと白虎が纏う凍気の一面と掬び凝固する。再度僅かな虚を突かれた獣に沼淵は突きを穿つ。次いで銃声が続け様に響き、白虎の悲鳴と共に血と朱と瘴気が、溢れ出した。更に読経がより高らかと響き渡り、白虎は苦しみ出す。 『ぐ、ウウ、』 「黙れ」 今一度沼淵は引き金を引いた。一切の容赦は不要だ。朱昏の、民の為ならば。 獣の腹を貫通した銃弾は後ろの石垣でちゅんと跳ね飛び在らぬ向きへ消える。白虎は衝撃に痙攣したが、併し、 『キサマァ!』 持ち上げていた上体で覆いかぶさる様に、両の爪を振り下ろす。即座に銃剣を引き抜いて退けば、帽子のつばが爆ぜて飛んだかと思えば左腕の袖がぼろりと削がれ――当たれば一溜りも無い凶爪を目の当りにし、今度は沼淵が虚を突かれた。虎は左手へ進路を取る、と見せ掛け、己が身ごと薙ぎ払う。 「なっ!?」 防ぎようも無い巨体に弾かれ沼淵は終を巻き込んで転倒した。他方白虎は黄金の眼に憎悪を宿し上空の――玖郎へ咆哮と共に片腕を振った。 「止めろ!」 「――!」 終の悲鳴と玖郎が羽ばたいたのは同時。目に視得ぬ邪で鋭い殺意から逃れんと彼は翻った、併しばさっと赤褐色の羽が紅葉の如く無惨に散り。 片翼を失った天の狗は、僅かな血液共々墜落した――。 「玖郎――!」 終が戦慄く最中、偶さか玖郎の後方に居た僧の内の二人が、突如首を押えて泡を噴き、転落した。 沼淵は尻餅と右肘を突いて発砲する、白虎の胴から血煙が昇り、時を同じくして仲間が討たれ更に意気を高めたものか、坊主の経が肌に伝わる程灼たかに波及した。 『ウガァっ!』 身を捩らせた白虎は刹那其の身が明滅し、変化が解けて――憑依者と依代が分かたれ、磁石が反発する様に別々の方へ跳ばされ。 「槐っ!」 終の悲鳴が木霊する中、槐は、水が流れる堀に、投げ出された――。 ※ 「くっ!」 終は堀に両手を伸ばし槐の手を掴んだ。酷く冷たい。 何時しか又鬼面は割れ、頭上には――真理数が瞬いている。 だがそれよりも、胴体に複数の裂傷と銃創痕を確かめ、焦燥を覚えた。 「――捨て置きなさい」 「嫌だ!」 何処かで聞いた科白を吐く愚かな男の言葉に等従わない。 定まり織り込み済だ等と終は認めない。だから離さない。 「僕は是で善い」 ――何れ助かりはしないのだから。 「是が貴方の望みだとでも云うのか!」 素知らぬ顔で真理数迄得て。今は終の望みを断とうとしている癖に。 「其の通りです。最後迄役目を果たせなかったのが、少し……残念ですけれど」 「其れは……?」 或は本来は彼女も連れて行こうと? 終の問いに槐は微笑み返してから、幽かな聲で何事か呟き――次の瞬間、 「――っ」 炸裂音と漆黒の礫が終を襲い。衝撃に圧され――水音が飛沫を上げて。 「……あ。あ? え、」 最早半妖の手は何者をも握っていない。 何が起きた。 「え」 胡乱だ。 只。 「えん、じゅ」 只、友人の望みは叶えたらしかった。 そうだ。 其れは確かな事象だ。 少なくとも。 「槐ーーッ!!!!」 又、直ぐ会えますよ、終さん。――きっとね。 ※ 『そん、な――』 終の絶叫の陰で、レタルチャペは忘我している様だ。其れが打ち身と翼の袂に走る激痛に耐えて身を起こしたばかりの玖郎が初めて目にした物だった。終も又、我を見失っている。玖郎にさえ後姿でも見て取れる程、小さく。 「……」 だが依代を失して尚、白虎は在る。然らば今為すべきは――玖郎は素早く己の肉体の異常を調べ、辛うじて四肢は動かせる事を確かめた。槐を亡くし終が放心した以上、未だ斃れる訳にはゆかぬ。仮令身ひとつではあれに勝れずとも。 耳を澄ます迄も無く読経は健在だ。終りでは無い。 『おのれ……おのれ貴様らァ!』 視ろ、手負いの虎が――其の本領をおれに。背筋が泡立つ。脳髄が危急を告げる。とは云え女妖は当初程の妖気も金氣も持ち得てはいない。 レタルチャペが怒りの矛先を真っ先に玖郎に向けた理由は明白だ。是迄――真都でも、コンルカムイでも、彼は邂逅の度レタルチャペの企てを悉く阻止してきた。 そして此度等は外道魔道が人道に訴え、京中の僧迄味方につけて邪魔をし、あまつさえ其の僧達の法力の所為で――少なくとも彼女の中では――槐は死んだ。 女の思念がぞろぞろと音を立てて玖郎へ近付く。一歩踏み出される度、死の足音が聞こえる。だが、 「――何処へ往く心算だ化猫」 其処に沼淵が立ちはだかった。 『邪魔しないで』 「何故貴様の指図を受けねばならん」 『なら“貴方で”その鳥を喰ってやる!』 まるで退かぬ沼淵は火に油を注ぐ。敢えて挑発している。懼らくあれが玖郎を依代とせず直に殺そうとした事を踏まえ――無為な損失を防ぐ為か。 「駄目だ!」 其処へ、今度は終が駆け寄り沼淵を横へ突き飛ばす。 ――機なり。 『なに!?』 玖郎は諸手を翳し可及的強力な風を放つ。豪と鳴る突風は倒れ伏した終と沼淵をもよろめかせ―ーレタルチャペの思念は霧散した。実際には距離を空けたに過ぎぬ事を、玖郎は気配で認識する。 「くっ――未だ判らんか貴様ァ!」 脅威が去るなり、沼淵は終の胸倉を掴み--花京中に轟くのでは無いかと云う――大声量で怒鳴りつけた。 「……」 対する終は些か眼を見開きはしたが、直ぐに睨み返す。 「玖郎殿の姿を見たか? 貴様が助けようとした男は如何なった。云ってみろ」 「…………っ」 「何より―ー見てみろ」 押し黙る終に、沼淵は逆手代わりに顎で転落し事切れた僧侶を示す。 「あれが五十年前の所業の末路だ。彼等だけでは無い、今日迄にあの女が殺した人々凡てだ。彼女が生き続ければ最も害を被るのは間違い無く朱昏の人々だ! 旅人の身勝手もいい加減にしろ!」 「云われる迄も、」 「本当にそうか?」 一気に捲し立てる軍人に、若者がやっと遣り返すも、即座に遮られた。 「頭の数字の意味を考えたのか? 実は見知らぬ人間ならば何人死のうと無関心なんじゃないのか? 受け入れられ乍ら朱昏を滅ぼす心算では?」 「ならば、」 癇に障ったのか、終はぐっと顔を前に突き出し、云い放った。 「ならば貴方に取って朱昏の人々とは何だ!」 「貴様某の話を一つも、」 「彼女も摂理の――朱昏の一部だ」 「――!」 終の押し殺した一言に、沼淵の三白眼が丸く見開いた。帽子が無いので離れていても善く見える。少なくとも玖郎の識る限りに於いて、其れは椿事だ。 「貴方の云う通り、其の気なら玖郎も俺も……槐も」 其の一言に拠って、沼淵は襟を握り締めていた右手をだらりと放した。 ――槐失して尚、あれを救うか。 意想外に危うい事態となっている中、果たして叶うかは解らぬが。見れば沼淵からはあれ程放っていた怜悧な殺気が失せている。そして己では白虎は討てぬ。然らば――神授刀を継ぐ者に委ねるより外に仕方あるまい。 「む」 頭上より邪なる金氣を感じ、玖郎は見上げた。視界に気配其の物たる巨獣の姿を認めると同時に僧達の悲鳴が上がる。次いで耳障りな咀嚼音。白虎は屋根伝いに塀を駆け巡り手近な坊主を次々喰らい、屠り、瞬く間に――終の頭上へ。 「退け、」 警告と併せ玖郎は手甲より雷迅を放つ、宙へ舞う白虎を刹那の暇鋭利に絡め取る雷氣は併し留める事迄は適わぬ。終は「もう止めろ!」と叫ぶも避けるには遅い。玖郎は駆け出す。飛翔には及ばぬが迅く迅く――だが間に合わぬ。手を、 『ガアアアア!』 怒りに我を忘れた白虎の凶爪が振り下ろされた其の時、玖郎が伸ばした腕の先では、沼淵が―― 「何をするっ」 ――終を突き飛ばしていた。 丁度白虎に背後を向ける恰好で居残った沼淵は、右肩から背中に掛け、ざっくりとこそぎ落された。ひと目で深手と解る程の迸る血肉は辺りを染め上げ、玖郎が辿り着いた時には既に、血の海に倒れ伏した後だった。 「ぐ、あ……!」 「何故だ!」 傷が深すぎて助け起こす事も出来ず、終は嘆く。 「某に構ってる暇がっ、あるなら……早く、――彼奴を」 生半に急所が逸れた為か、未だ意識はある様だ。だがこの儘では長く無い。 『死ィねえエェェェェェエエエ!!』 息を尽く暇無く白虎が咆哮を“撃ち”、獣が纏う朱い凍氣が豪と広がる。忽ち一帯に地吹雪が起きる。地面が塀が石垣が凍りつく身を刻まんばかりの低温。 「――、」 玖郎は木氣を以て念じ、沼淵と己の周囲の気を断ち切りずらして氷雪を阻む。 終は独り、怯まず――神授刀を携えて。一歩、又一歩と、積雪に足跡を押す。 「レタルチャペ。俺の元へ来い」 押し殺した聲が吹雪と咆哮に霞む。それでも終は事も無げで。 「そして想いの丈を……解放すればいい」 虎の眼前に桜花を放ち――ほんの僅か、風が和らぎ。 舞の如き仕草で、彼女の腹を刺した。 『ッ―――ー!!!!』 白虎は仰け反り聲にならぬ悲鳴を上げる。傷口から、刀身から、妖気と金氣と情念とが吸い出され――凡てが終の中へ、余す事無く蓄積されていく気の流れを、玖郎は後方より見守った。 ※ 「く……!」 終の中に夥しい情報が駆け巡る。 凡ては感情を伴う記憶。 傷みと、悼み。 昏く、哀しみに満ちた、救い難い女の。 ――だが、何もかも一度は触れた事だ。 そう、あの追体験は最早、終の記憶の一部でもある。 ――だから、呑まれはしない。 終がそう確信した刹那。 徐に氷雪が散華の如くぱっと爆ぜて粉となり。 白虎が、解けて。後には手負いの雲水と――終の姿のみが残った。 次いで一帯を覆っていた凍氣迄もがびきびきと広範囲に渡って罅割れ。 朱い粒子が漂う地表に、白雪が、ひら、ひらと舞い降りた。 何時の間に降り出したのか、其れすら胡乱で――。 「…………」 空を見上げた。 槐は逝けたのだろうか。ソヤの元へ。 頬に触れた雪の様に浮んだ想いは、じわりと解けた。 「終」 何時の間にか玖郎と、彼に肩を借りた沼淵が傍に来ていた。 「彼奴は……如何なった」 激痛を堪え乍ら沼淵が問うても、終の中に未だ答えは無く。 只、首を振るしかなかった。 後に玖郎は燃え尽きた櫓の炭の中から、槐が持っていた筈の勾玉を拾い上げた。 邪気は完全に消え失せ、雪の様に優しく、澄んだ白色をしていた――。
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