新体制のもと大小様々な変革をもたらしたターミナルには、もはやかつてのどろりとした《停滞》と《諦観》の気配は見当たらない。 まるで長い夢からようやく目覚めたかのようだ。 はじめは緩やかに、けれど一度動き出してしまえば後はもう止まらない。 月日の移ろいと共に、人も場所も文化も意識も、ありとあらゆるものがいつもどこかでめまぐるしく変化し続けている。 そして。 不可思議な流れの中に置かれたターミナルの、とある古書店街の先にある薔薇園の東屋には今、ヴァン・A・ルルーとヘンリー・ベイフルック、ふたりの姿があった。 彼らの囲む白いテーブルの上には香り豊かな紅茶とクリスタル・パレス謹製の焼き菓子が置かれ、ガラスのチェス盤上ではガラスのポーンやナイトが優雅かつ熾烈な戦いを繰り広げている。「北極星帰還の知らせはもう?」「ええ。つい先程アリッサ館長から司書たちへ伝達がありましたので」「楽しみだね、彼らがどんな冒険をしてきたのか聞ける。エディがどんなカオでこのターミナルに降り立つのかも楽しみだよ」「嬉しそうですね、ヘンリーさん」「久しぶりに会える親友の、驚く顔が見たいんだよ」 ふふ、と笑みをこぼして、ヘンリーは紅茶を一口。「それに、13号の帰還によって文字通り“世界“も広がるだろう? 血が騒ぐなぁ」「……そういえば、エドマンド前館長が戻られたら議会の席を譲られるとか?」 ルルーのその言葉には、にっこりと、無邪気で茶目っ気たっぷりの少年のような笑顔を浮かべた。「アリッサには、“パパばっかりずるい”って叱られちゃったよ」「おや。では、また旅に?」 ルルーの手がルークに伸びる。「僕は僕のできる“最大限のこと”をしたいだけなんだ」「なるほど」「ヴァンくんは変わらず?」「ええ、変わらずここに。私の元へ近況を知らせる手紙を送ってくださる方もいらっしゃいますし、時折司書室まで茶飲み話に来てくださる方もいらっしゃいますから」「嬉しいね」「ええ」 ヘンリーの手がポーンを取る。「僕も手紙を書くよ。今度はもっともっとたくさん……あ、チェック」「ありがとうございます。ふむ……これは……」 チェス盤の上ではルルーのキングが窮地に立たされる。 しかし、その勝負は彼らを見つけた者たちによってあらぬ方向へと変じることとなるのだが、ソレはまた別のお話。======<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆するシナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。======
◆純粋で曇りのない日々 その日、世界図書館に青服警官の青年がひとりやってきた。 好奇心と誠実さの両方を閃かせた眼差しで、彼はぐるりと図書館のエントランスホールを眺めていく。 そして、ひとりの司書に目を止めた。 「失礼します! 実はこれ、111才で他界した曾祖母のものなのですが……」 そうして差し出されたのは、美しい外装をした十年日記帳だった。 表紙のブラウンレザーには金の箔押しが施され、アンティークキーのモチーフが革紐ベルトの先で揺れている。 中を見てもいいのだろうかと問う司書の視線に、彼は頷く。 『キャラじゃないのは分かってるけど、ついに100歳の大台に乗ったので日記をつけてみる』 書き出しはそんな一文からだった。 『*月*日 ****年 誕生日に孫達が遊びに来てくれた 庭で玄孫とかけっこをした 私が勝った、まだまだ負けない!』 『*月*日 ****年 夫が逝去 今までお疲れ様 あなたがいてくれたから、私は私でいられた気がする 思えばこの人のプロポーズを受けた時はターミナルを巻き込んだ大騒動になった 懐かしい どうしたんだよ、一やん。悪いものでも喰ったのか!? そんな言葉を掛けられたような気がするけど、今となってはツッコミもできない 大切な人と一緒にずっとずっと過ごせた幸せを、私はうんとかみしめる』 基本的に2~3行の短い記述が多い中で、その日は狭い枠の中いっぱいに夫への想いが綴られている。 どれほど大切な存在だったのかが伝わってくる。 そして、別れの時間を彼女は悲観するのではなく、やわらかく静かに感謝を込めて受け止めていた。 それが少し意外なようにも、けれどいかにも彼女らしいようにも思える。 『*月*日 ****年 勤めていた警察署に意見を求められた いま、管内を騒がせている連続絞殺魔の捜査が行き詰まっているのだとか 退職してずいぶん経つのに、こうして会いに来てもらえるのがすごく嬉しい』 『*月*日 ****年 資料を見ながら、ふと、シュレディンガーの閉じ箱を思い出した たくさんの思考実験をいろんな人と繰り返した 可能性の追求、そして美学の追求。アレは虚構だけど発想の転換方法は学べた気がする だけどやっぱり私は現場の人間 安楽椅子探偵には向いてないので今度調査に同行しよう』 『*月*日 ****年 何気なく荷物の整理をしていたら、思いがけないものを発見した まさかこの衣装が出てくるとは思わなかった 秘密のビーチで初お披露目、二度目はブルーインブルー 金髪野郎は、ヘンリーさんと今もリゾートカンパニーを続けているのかな ターミナルを立つ日、優さん経由で受け取った金貨は悔しいけど宝物だ』 『*月*日 ****年 病院に行ったら認知症の疑いがあるといわれた 忘れるのは嫌だな 日記つけててよかった』 その後日記の余白部分には、ターミナルや彼女の故郷についての出来事が思い出されるままに書き付けられていくようになった。 できるだけ時系列を意識しているようだが、中でも学生組として括られた友人たちとの探検記録が特に賑やかで楽しそうな印象を受けた。 ターミナルでは祭りやイベントも多い。いまはもうやっていないイベントも、彼女の日記から知ることができた。 そんな想い出の中に、いつしか『探偵』の文字がいくつも目に付くようになる。 インヤンガイの螺旋飯店で行われたミステリナイト、黄昏のチェンバーでの仮想裁判、少女探偵との絶海の孤島でのひと時――そして、ある男が作り上げる一連の虚構舞台。 途中から、彼女が関心を持つ騒動、事件の質が変化しているように思うのは、読み手側の勝手な受け取り方だろうか。 『*月*日 ****年 今日は、はじめてあなたと出会った日だ 鉄格子の向こうから、手を広げて歓迎してくれた姿を覚えている あなたがくれた招待状はいまもちゃんとしまってあるんだから』 『*月*日 ****年 もうすぐ111歳の誕生日 この日記ももうすぐ終わり 玄孫にかけっこしようと言ったら叱られた まだまだ負ける気はしてないんだけど 今年のプレゼントが楽しみ』 『*月*日 ****年 散歩中にロストレイルが空を走るのを見た 何だか久々だ 誰かを迎えに来たのかもしれない どうか、“あなた”にとってステキな出会いでありますように “あなた”にとってステキな旅路となりますように』 『*月*日 ****年 いざ日記をつけようとして、今日は言葉が出てこない 思い出せないことが増えてきた 忘れたことすら忘れてしまったことも、たぶん増えている ただ、それでも幸せだなって思えている自分がいてビックリ』 『あの世界に行かなければ、私はきっと忘れる恐怖と忘れられる恐怖に潰れていた でも私は潰れずに今日も生きている あなたにした約束を、私は今日も繰り返し思い出す』 『私は忘れない 私が会った人達を 私はいつだってひとりじゃなかった事を 私は決して忘れない あなたのことを忘れない……絶対絶対、忘れない』 『牢獄の中から、舞台の上から、チャイ=ブレの腹の底から、あなたは常に私に問いかけ、私は常に応えてきた気がします 目の前には、優しくて美しくて温かくて泣けてくるくらい愛おしい世界が広がってるんです 絶望ですべてを閉ざしてしまうのはもったいなさ過ぎです だって、あなたが諦めてしまった世界は、こんなにもステキなんだから だからあなたを、私の誘いに乗ってみれば良かったって、うんと悔しがらせてやるんです』 『私は、とてもとてもとても、幸せです』 十年日記帳のラストページにひっそりと書き残されたメッセージ、それは誰に向けたものなのか。 100才を超えた女性の手記ではなく、蘇るのは在りし日の眩しい少女の姿だ。 「ああ、実にヒメさんらしい……一一一さんらしいですね」 「曾祖母は大往生でした。親族一同に囲まれて」 「そうでしたか」 「自分はこれを読み、そしてこの場所に来ることができました……良かったら、これを世界図書館の蔵書にして貰えませんか。曾祖母もきっとソレを望んでいますから」 青服警官の青年は、晴れやかで真っ直ぐな、輝く笑顔でそう告げた。 そこに司書は、かつてヒーローを目指し、見事にヒーローとなり得た16才の正義感あふれる少女の面影を見る。 ◆メアリベルの詩 「ごきげんよう、ミスタ・ルルー」 きゅるりと愛らしい笑みを浮かべ、手には小さなプレゼントボックスを持って、メアリベルはルルーの執務室へやってくる。 「こんにちは、メアリベルさん。おひさしぶりですね。ずいぶんと長く旅に出ていらっしゃいましたね」 「ええ、とってもとっても楽しく過ごしてきたわ。でもね、今日はそのお話をしに来たんじゃないのよ?」 うふふと笑いながら、軽やかにダンスのステップを踏む。 くるりとターンを決めれば、ふわりと真っ赤な髪も踊る。 「ミスタ、お暇だったら、メアリとデートしましょ?」 「ちょうど報告書を提出し終えたところです。私で良ければよろこんで」 そうして真っ赤なクマのぬいぐるみは、少女をエスコートするためにそっと手を差し出した。 古書店街は時折店や人が入れ替わりながらも、長い長い長い時間を今日もまた同じように重ね続ける。 そこを抜けていけば、美しい薔薇の庭園が待っている。 今日のお茶会の場所はそこだ。 「ねえ、ミスタ。今度はメアリにどんな本をおすすめしてくれるのかしら? ぜんぶぜーんぶ読み切ってしまったの」 「そうですねぇ……壱番世界の古典は既に読破なさっていますし」 「ミスタが最初にメアリに選んでくれたのは、“緋色の囁き”と“僧正殺人事件”だったわ。もうどちらの作家の新作も読めないのは残念ね」 「再読というのもまた赴きある楽しみ方ではあるのですけどね」 「メアリはいつでも新鮮な楽しみを求めているの。それにね、ミスタに教えてあげたい本だって見つけるのがうまくなったのよ?」 「おや、それは楽しみです」 そういってふたり一緒に店を渡っていく。 店の中央に、天井まで小さな本棚を積み上げ、巨大な螺旋の塔を築いている本屋では、欲しい一冊を見つけ出しても、それを引き出すのに高度なテクニックが要求された。 別の店では、壁という壁すべてが本棚としてくり抜かれており、視界には本以外の何も映らないような有様だった。 その中で、ひたりとルルーの動きが止まる。 「そうでした、メアリベルさん。ひとつ、オススメをいたしましょう。壱番世界ではないところから、一冊」 「それってなぁに?」 「メアリベルさんが旅をなさっている間に生まれた作品――『かつてあったといわれる大陸を舞台に、活躍した探偵の物語』というのですが」 「初めて聞いたわ」 「つい最近生まれたばかりなんですよ。ロストナンバーの方がご自身の世界に生み出された、文字通りその世界で初の『探偵小説』でもあります」 手紙を受け取ったのだと、彼は嬉しそうに笑った。 薔薇の庭園は、今日もうっとりとするような色彩であふれている。 甘い香りは誇らしげで、久しぶりのメアリベルの帰還、そしてルルーとのデートを祝福してくれている気がした。 華やかな香りで満ちた庭園の四阿で、彼が次々とティーセットが並べていくさまを、うんと楽しげに見つめる。 お茶の準備はルルーがしてくれる。 けれどお茶菓子はメアリベルが用意した。 小さなガラスの匣から取り出したのは、真っ赤なドライフルーツに、真っ赤なパート・ド・フリュイ、それから真っ赤なショコラだ。 「ねえミスタ? 北極星号が帰還してから、いったい何年経ったのかしら、ね? 100年? 200年? それとも千年かしら?」 ロストナンバーの時間は止まっている。 100年も200年も300年も、気づけば過ぎゆく日々の向こう側だ。 「ミスタはずっと変わらない。メアリもずっと変わらない。でもみんな変わってしまったわ」 メアリベルが知っている人々は、あの頃にターミナルにいた人々は、次々と変化していった。 永遠にいなくなってしまった人がいて、もうこの場所には帰ってこない人もいて、そうして昨日と同じ今日、今日と同じ明日、永遠に繰り返される円環から抜け出す人もいて。 それぞれの選択を、メアリベルもルルーも、見送るばかりだ。 「ねえ、ミスタは寂しくはないのかしら?」 黒い硬質な瞳を覗き込む。 「寂しい、ですか?」 硬質な瞳は鏡のように、メアリベルの顔を映し出す。 「もしそうならメアリが今すぐ殺してあげる。この手斧で首を刎ねて、ね」 「おや、両手両足をちょん切るのではないのですね」 「ベッドの下に出しっ放しにするのはだらしなくってお行儀が良くないわ。それに、40回滅多刺しも今日の気分じゃないの」 「なるほど。女王陛下はご自身の趣向にこだわるようですね」 にっこりとルルーが笑う。 「冗談よ」 うふふ、と楽しそうにメアリベルは微笑む。 「ミスタとダンスができなくなってしまったら、このターミナルがとってもとっても退屈になるわ」 退屈は大嫌いなのと笑って告げて、それにね、と笑って続ける。 「メアリはマザーグースの申し子だもの。いろんな世界を旅して回ってマザーグースを広めるの」 忘れ去られる恐怖だけがメアリベルを縛っていた。 血塗られた狂気へと駆り立てる、ふくれあがって内側から破裂しかけていた不安感。 けれど、もうメアリベルは怖れない。 「ひとりぼっちの子が寂しくないように、唄がしるべになるように、メアリは唄を広めていくの。ソレがお仕事、“メアリベル”が生まれ落ちた意味なのよ?」 それがメアリベルがメアリベルで居続けられる、《忘却の呪縛》から唯一魂を解放してくれる魔法だ。 「ねえ、ミスタ・ルルー。いつかの赤の城の舞踏会のように、メアリとダンスをしましょ?」 「よろこんで」 あの日と同じように、小さな少女が差し出す小さな白い手を、真っ赤なクマは拒まない。 「今日の唄は“オールド・キング・コール”で」 メアリベルの声に応え、薔薇園の四阿を取り囲みバイオリン弾きの楽隊が降ってわいたようにずらりと揃う。 くるくるくるくる、ダンスは続く。 くるくるくるくる、少女とクマの可愛らしいステップが続く。 「今日も明日も明後日も、メアリがメアリである限り永遠にマザーグースは生き続けるの」 ◆罪と罰 「ようこそ、正志さん」 「ルルーさんのお宅にはじめて伺ったときの衝撃、まだ覚えています」 ハイバックチェアに姿勢良く腰掛けていた岩髭正志は、わずかに気恥ずかしげな様子で微笑んだ。 壱番世界のヴィクトリア朝を模したティーサロンには、凝ったガラス戸の飾り棚と繊細なティーセットたちがよく似合う。 この私邸の主は、目の前で紅茶を淹れてくれているルルーだ。 モフモフ司書枠に入っている真っ赤なクマであるところの彼の背中には、何故かファスナーの金具が覗いている。 アレを引きさげたら、中は一体どうなっているのか。 抑えきれない衝動のままに4人で《ターミナル・知的好奇心を満たす会》を結成し、その謎に挑んだ末に掴んだのが、この場所での『真相』だった。 「謎は解くためにそこに在る、と言いますから」 ふわりと笑みを含んだ台詞ともに、ルルーは正志のカップに香りの良い紅茶を注ぐ。 「ありがとうございます」 正志は落ち着いた色合いに視線を落とす。 「あの……あのっ」 それから思い切ったように顔を上げ、問いかける。 「お茶請けとしてはどうかとも思うのですが、ルルーさん、ひとつ話を聞いてもらえないでしょうか……?」 「なんでしょう?」 「この間、ちょっとした依頼で訪れた場所での話なんです」 そうしてゆっくりと記憶を辿る。 その日、僕はとある山村で起きた《見えない子猫》の誘拐事件を解決したところでした。 続けて依頼された案件は隣村だったので、すぐにそちらへ向かうことができたら良かったのですが、途中で猛吹雪に見舞われてしまいまして。 右も左も分からない、道がどこかも分からない、どこに向かえばどこに辿り着けるのかも分からない、ゼロ視界のホワイトアウトです。 完全に身動きの取れなくなった僕は、幸いにもあるお屋敷に身を寄せさせて頂けることになりました。 「あの……本当にすみません」 「いや、どうぞゆっくりしていってください」 「こうしてお客様を迎えることができて嬉しいんですのよ?」 おだやかな笑みを浮かべる壮年のご夫婦は、何故か兄妹のようなよく似た印象を受けました。 「ああ、紹介が遅れたね。うちの息子たちだ」 「……どうも」 「岩髭さんって、探偵で書生さんなんですよね? 子猫の事件、聞きましたよ」 続けて紹介されたのは、言葉少なな長男と人なつこい笑顔の次男――ふたりは鏡に映したように見事な線対称を描く双子のご兄弟でした。 「私の父……この子らにとっては祖父になるんですがね、父は上の書斎で本に埋もれているでしょう」 きっとあなたの話を聞きたがる。 そう当主さんは微笑んでくれました。 余所者である自分、本来ならば迎え入れる必要のない自分に対して、彼らはとても親切にしてくれたんです。 広い屋敷でした。図面を見せて頂いたのですが、両端に尖塔をもったフォルムは、完全な左右対称で、しかも中二階などもあり、非常に入り組んだ作りをしていたのです。 内装もどうやら左右対称だったようで、自分が一体どこを向いて歩いているのか分からなくなる有様でした。 視覚の奇妙さが際立っていたように思います。 「この屋敷はすべてがふたつでひとつなんです」 僕が迷子にならないように、不自由しないように、という気遣いのつもりだったのでしょうか。どこに行くにもなにをするにも、必ず誰かが声を掛け、付き添ってくれました。 寡黙な長男ですら、僕を見つけると黙って傍についていました。 書物が好きだという次男さんとはかなり長い時間、前当主さんと共に書斎にこもって本の話をしました。 奇妙なことに気づいたのは、二日目の晩でした。 ここには使用人がひとりもいなかったのです。全員につい先日暇を出したという話でした。 けれど三度の食事はきちんと作られ食堂に並べられていましたし、部屋の掃除もされていました。かといって知っている家族の誰かがやっている様子でもありません。 誰かがいるはずなんです。 なのに目にすることができない。 紹介される様子もない。 不思議に思った次の朝、僕は食堂で前当主さんが死んでいるのを発見してしまいました。 喉を掻きむしり、苦悶の表情で息絶えた彼の死因は……拙いながらも僕の所見では《溺死》だったのです。 それからは、一晩にひとり。 僕がその屋敷で迎えた7日目の朝には、もう紹介された家人の誰ひとり残ってはいませんでした。 それでも食堂に食事の用意はなされ、部屋も掃除され、新しい洗濯物が干されていたのです。 僕のためだけに用意されていたその食卓を前にして、切なさと痛ましさがどうしようもなく湧き上がってきました。 「結局、当主とその妻、息子二人、前当主、合わせて5人が亡くなりました」 7日目の朝、ようやく閉ざされた雪の世界から解放されたが、近隣の住民たちは揃って怯えた表情を浮かべ、早くこの土地を去るようにと自分に進言したのだった。 「あの地では、祟りだという事になっているでしょう。あの屋敷は罪深いことをして土地神を怒らせてしまったのだと」 「まるでそうではないかのような口ぶりですね」 「……少なくとも僕自身は殺人だと思っています」 「なにかに気づかれたんですね? そして、どうやら犯人がどなたなのか分かっている」 「……僕は……次々と死者が出る中で、僕は……見えない仔猫の誘拐事件とこれは繋がっているんだと気づきました……」 正志の視線は、再び手の中のティーカップに落とされる。 「犯人は……僕に食事を用意してくれ、掃除をしてくれ、着るものを用意してくれたひと……あの家のただひとりの生き残り、末娘さん、でした」 でも、と正志は告げる。 「でも、告発しませんでした……できませんでした」 彼女があの家からずっと受けていた酷い仕打ちを、存在することすら認められずにずっと過ごしてきた事実を、聞いてしまったせいかもしれない。 あるいは、医術をかじっている自分には、彼女がもう長くないとわかってしまったせいかもしれない。 「……ただ、僕の推理があっているかよりも、一人残された彼女がただ静かにあの家で最期を迎えられるのならそれがいいのではないかと」 「それが正志さんの選択なのですね」 コクリ、と小さく正志は頷く。 「なんだか僕ひとりの胸にしまっておくのはつらくて……すみませんお茶時にこんな話。でも、話せるような人、ルルーさんぐらいしか思い浮かばなくて」 「正志さん」 「はい」 「謎があるならば、ソレを解き明かしたいと望んでしまうのが探偵です……ですが、解き明かした謎を他者に向けて詳らかにするか否かは……それぞれではないでしょうか?」 おだやかな声で、そして彼は告げる。 「彼らを殺した本当の犯人は、彼らを祟り者と決めつけ、捜査することすらせずにいる町の方々かもしれませんよ」 「え?」 「こうは、考えられませんか? 憎んでいたのなら、いらないとしているのなら、彼らは末娘を殺してしまっても良かったのです。自分たちの安全のために。なのにそれをしなかったのは何故なのでしょう?」 ルルーの黒い瞳がじっと正志を見つめる。 その瞳をじっと見つめ返す。 「正志さんの訪れた村では、もしかすると片割れがいないことを不吉とされたのではありませんか? 双子で生まれることが当然で、そうでなければ……」 「あ」 「彼らの犯した罪はおそらく、村の言い伝えに倣い、本来生まれてすぐに殺さなければいけなかった末娘を、迷信深い村人の目から隠し続けたこと……」 「でも、彼女に片割れはいなかった……だけど、彼女は確かにあそこにいて……・」 そこでようやく、ずっと胸に引っかかっていた最後の謎が解けた気がした。 雪で閉ざされた館の中、抵抗らしい抵抗もなく、彼らは亡くなっていた。 本来なら疑心暗鬼になったっておかしくない、異分子である自分を犯人だと決めつけ糾弾してもいい、なのに彼らは……受け入れたのだ。 胸の奥が痛みで疼く。 すれ違ってしまった、救いの見えない《真実》の痛みに、正志はギュッと目を閉じる。 そうして、噛みしめるようにゆっくりと、ひとつの答えを口にした。 「……彼らはみな、本当は彼女を……愛していた……」 ◆竜神と永遠と覚悟 相沢優は、久しぶりのターミナルに思わず目を細める。 年単位で0世界を離れたのは今回が初めてだ。 変わらない内容で変わっていく、ソレがいまの0世界だ。 ずっと暮らしていれば気づかない、離れていたからこそ見える変化を楽しむこともできるだろう。 それに、目に入れても痛くないほど大切な友人――しだりが、2年ぶりにここへ帰ってきているというのも優の足取りを軽くする。 だから、トラベラーズノートを介して今日は三人でお茶会をしようと、しだりと、そしてアコル・エツケート・サルマに提案したのだ。 場所は、ターミナルの一角、薔薇だけで作り上げられた迷路にした。 自分にとって思い入れのある、大切な場所。 あの日と同じように、自分の背丈すら易々と越えた生け垣と、色鮮やかに咲き誇る薔薇のアーチの入り口が出迎えてくれる。 庭園に続く鉄柵は、今日も大きく開かれていた。 だが待ち合わせはここではない。迷路の中にある広場なのだ。 約束の時間までに、ふたりは無事辿り着けるだろうか。 そんなことを考えながら、優は大きなバスケットを抱えて、最初の一歩を踏み出した。 「ほっほっほ、薔薇園での茶会の誘いとはまた優雅じゃな。そのうえ茶会の場所は迷路の中というのがのぅ」 「優、おまたせ」 白と黄色の甘い名を冠した薔薇の迷宮、その中心には、淡く甘いピンクの薔薇で囲まれた広場が作られている。 そこにふたりは、穏やかな笑顔を浮かべる友人の姿を認める。 「アコルさん、しだり、ようこそ」 優に案内されるまま、席に着く。 白いアンティークテーブルの上に広げられているのは、ティーセットにリンゴのパイ、それから焼きたてのスコーンに手製のコンフィチュールだ。 ソレが、この薔薇園では一層輝きを放っている。 しばし他愛のない会話を交わしていく中で、ふとアコルがその話題を口にした。 「久しいといえば、そうじゃ。しだりは故郷に帰ったんじゃったか。まだ帰属はせんのかの?」 「……帰属はする……ただ、まだ先の話」 そういって、しだりは優に視線を向ける。 優が壱番世界へ帰属し、天寿を全うする姿を見届けた後に元世界に戻る予定だったのだ。 大切な友人の大切な最期の時を見届けることが、長い時間を生きる種族としての、そして時を止めている自身にとっての区切りのつもりだった。 だが、優は旅を続けるという。 ならば自分は新たな区切りを決め直さなければならない。 それがどれほど先のもので、どのような形になるのかは分からないが、実はひとつだけ決めていることがある。 「アコル」 「ん、なんじゃね?」 「しだりが元の世界に戻る時、一緒に来てくれる?」 コトンと小さく、首を傾げて問いかける。 「……ほう? ワシがお主の世界に?」 驚いたように目を丸くしてから、アコルは三日月のように目を細めた。 「むほほ、物好きじゃな」 「……しだりのいる世界なら、人も神も住みやすいと思う……そして、アコルの知恵と経験をしだりに分けて欲しい」 その表情は限りなく無に近いのだが、瞳には真摯な光が宿る。 しだりは軽口を叩かない。社交辞令もいわない。言葉はすべて心からのもの。嘘偽りのないものだと、信じられる。 「こんな老いぼれ誰も誘わぬじゃろうし、ずーっと落とし子退治の手伝いでもしようかと思っておったが」 幼さの残る無垢な双眸がまっすぐに、けれどどこか冷ややかに自分を見つめる。 「それに、アコルは放っておくと怠けるよね」 「む、怠けるとは失礼じゃな。これでも頑張っておるんじゃよー? まだまだ若い者には負けんわい」 そんなふたりのやりとりに、優がぷくく…っと肩を震わせて小さく笑う。 「それはそうとして、じゃな」 うぉっほん…とわざとらしく咳払いをしてから、アコルはちらりと上目遣いでしだりを伺う。 「……カワイコちゃんはお主の世界にどれぐらいおるんじゃ?」 「……可愛い子がどれほどいるかは分らない。しだり、里以外はほとんど知らないから……でも、アコルが気になるなら、色々な場所に訪れて探してみてもいいかもしれないね」 「それは楽しみじゃわい」 どこまでも真面目に返してくれる彼に、アコルは豪快な笑いと約束で返した。 そうして、まだ肩を震わせる青年へ、同じ問いを投げかけるのだ。 「して、優はどうするのじゃ? 壱番世界への帰属かのう? それとも気になる世界を見つけたのか?」 優の表情が、漫才を楽しむ観客のひとりから、決意を持ったロストナンバーのものに変わる。 「俺は、旅を続けますよ、アコルさん。俺の使命を果たすために」 彼のために、空いたティーカップへ紅茶のおかわりを注ぎながら、優は自身の決意を改めて言葉にする。 「そうか、優はロストナンバーをこのまま続けるのじゃな」 「優……本当に旅人を続けるの?」 改めて、しだりは問いかける。 「いまはまだ、知り合いとの時間のずれは誤魔化せる……でも、それも保ってあと数年……10年20年と経っていけば、優はもう……はじめから優を知る人には、家族にも友達にも、会えなくなる……」 壱番世界を憂うなら、自分に見届ける役を任せてくれてもいいのだと、言葉にして伝える。 優は、一瞬泣き笑いのような表情を作った。 けれど、その瞳に揺らぎはない。 「俺は、ロストナンバーになった時、その運命を受け入れた時、決めたんだ……何があっても壱番世界は護るって」 チャイ=ブレはきっと例外を作らない。 「それに俺は……綾と壱番世界を天秤に掛けて、壱番世界を選んだ……俺は壱番世界を護る、絶対に」 あの日、ひとりの少女が自分に向けて残してくれた言葉は、いまも胸の中心に置かれている。 ――これから何が起きても、ユウがそれを乗り越えられて……ユウの願いが叶いますように 頬に触れ、目を閉じ、額同士をつけて、交わした言葉、交わした願い。 互いに互いの道を譲れなかった、自分の選択を相手に委ねることができなかった、あの日訪れた別れの時が、優の決意を固くするのだ。 「だから……壱番世界を救うまでは、どんなことがあっても再帰属は出来ないんだ。肉親との別れも友との別れも、時間のずれもすべて覚悟しているよ」 「チャイ=ブレがいなくなったとして、壱番世界が落とし子の脅威から離れるわけではない。その壱番世界を護る決意はつまり、未来永劫ずっと続くことを理解しておるんじゃな?」 「はい」 「不老ということは、そうでない身の者が思うよりもずっと辛く、苦しい、そして永く続く物じゃ。……お主は、その覚悟はあるかのぉ? と口で言っても中々ぱっと思いつかぬじゃろうなぁ」 「アコルさん」 本当は、考えていないわけではないのだ。 どれほどの覚悟をしたとしても、じぶんはまだロストナンバーになって数年しか経ていない。 これからの長い年月、10年、20年と過ぎていき、やがて肉親や友との《永遠の別れ》を迎えたとき、ひとりふたりと自分を知っている壱番世界の大切な人たちがいなくなっていったとき、自分は揺るがずにいられるのか。 見送るという試練に、あるいは例え生きていたとしても二度と会ってはならないほどの《年齢差》の壁が立ちはだかった時に、耐えられず崩れてしまう時が本当に来ないと言いきれるのか。 わからない。 それでも、決意を覆すことはない。 もしここでソレができるのなら、とっくの昔――あの日に、自分は彼女のためにブルーインブルーへ向かい、友に帰属の道を選んでいただろう。 「優……」 「ん?」 「しだりは、いつも優に幸せでいて欲しい……命に限りがあるのなら、その幸せとともに生きて欲しい」 優の決意は揺らがない。 けれど、でも。 「有難う、しだり」 大切な友の想いに、優は腕を伸ばし、その華奢な身体をきつく抱き締める。 「……しだり、アコルさん……この広場に咲く薔薇……アンジェリーク・ロマンチカの花言葉を知っていますか?」 花言葉は――『愛』『温かい心』、そして『君のみが知る』だ。 茶会の帰り、しだりはアコルを見上げ、問う。 「ヒトは限られた時間を与えられている……限られた時間の中で生きることを知っている種族は、《永遠》の《普遍》に耐える心が弱いと、思う……」 ファミリーは200年の時を生きていると聞く。 しかし彼らにはおそらく、家族や大切な人が身近にいるという精神的な支え、あるいは既に大切なものを永遠に失ったがゆえの覚悟と意義とが存在しているように思えるのだ。 過ぎてしまえば一瞬――しかし、そう思えるのはごく一部ではないだろうか。 他者との時間軸がずれていく不安、本来あるべき姿から掛け離れていく苦悩から、心が壊れてしまったモノたちをしだりは知っている。 「……優は、耐えられるかな?」 耐えてほしいと願う、けれど耐えられないかも知れない可能性を否定できない。 優の強さを、その決意を、信じ切れずにいる自分に、わずかだが惑う。 「なあに、大丈夫じゃろう……孤独は心を弱くするが、頼れるものがあると知ってさえいれば案外どうにかなるもんじゃ」 優にもいずれ伝えてやろう。 そう言って、亀の甲より年の功という壱番世界の言葉を最近コンダクターから教えてもらったのだと、アコルはやはり豪快に笑った。 優は、しだりとアコルに別れを告げた後、彼から受けた依頼の報告書を提出する為に、そして借りた本をかえす為にルルーの執務室を訪ねる。 「こんにちは、ヴァンさん」 「おや、こんにちは、優さん。ちょうど良いところへ」 彼は変わらずそこに居る。 まるで自分はここへ来ることを予見していたかのように、紅茶の準備をして、温かく迎えてくれる。 思えば、彼はいつもそこに居続けてくれていた気がした。 普遍であるということを、日常の連続であるところの日々を、彼は静かに示してくれつづけていた。 「どうなさいました?」 問いかける彼へと優は両手を伸ばし、そのままきつく抱き締めた。 カールモヘアの毛並みに顔を埋めれば、あらゆる感情がやわらかく包み込まれ、安らぎに変わる。 深呼吸をひとつ。 涙が一瞬にじんだが、すぐに消えた。 そして優は、勢いよく顔を上げて、ルルーを抱き締めたまま笑った。 「ヴァンさんから借りた小説、とても楽しかったです!」 ◆本の揺り籠 「開店、おめでとうございます」 ルルーが祝いの品として持ってきてくれたのは、先日ヴォロスの依頼でロストナンバーたちに仕入れてもらった貴重な茶葉だった。 壱番世界産とモフトピア産を比較的ひいきにしている彼には珍しい選択だ。 「ありがとうございます」 ヴィヴァーシュ・ソレイユは、ゆったりと微笑み、自身の店の最初の客となったルルーを歓迎する。 店の名は《本の揺り籠》――商売をする気がないのか、プレートはごく小さく、よほど注意深くなければ気づけないようなさりげなさだ。 しかし一歩踏み込めば、その蔵書の多さ、そして本にかける愛情深さと店名の意味を存分に肌で感じることができた。 天井まで届く意匠を凝らした濃い蜜色の書棚が迷宮のように立ち並ぶ。 ジャンルごとに収められた背表紙の配列と色彩も美しく、さながら上質でこだわりの強い蒸留酒のような独特の味わいを作り出している。 本棚の間にはゆったりとした空間が用意され、そこにはあえてひとつひとつ距離を置いたアンティークの安楽椅子と、紅茶を嗜むためのテーブルがセットで配置されている。 そこへ射し込む穏やかな光は、本を傷めない間接照明だ。 どこまでも所蔵される書物たちのために、そして本の愛好家のために、趣向と贅とを凝らしながらも細やかな配慮で満ちている。 「すばらしいですね」 「読書をするための静かな空間を提供できればと、そう思っています」 壮麗な美貌に、静かで穏やかな笑みが浮かぶ。 「あれから10年……いえ、20年でしょうか」 「はじめに第十三書庫室をご案内してから、もうずいぶんと経ちますね」 「そう……あの時の書庫で見た光景を、私は生涯忘れません」 書物から解き放たれた幻影は、いまもヴィヴァーシュの魂の一番深いところを貫いて存在し続ける。 知識を求めること、その意味を魂が選んだ瞬間でもあった。 「本がそこに留め置いてくれるのは、きっと、知識だけではないのでしょう」 ヴィヴァーシュは、指先をそっと本の背に這わせる。 「……私はかつて、深い絶望から覚醒し、そして見知らぬ場所に放り出されました」 遠い日をなぞるような眼差しで、語る想い。 「そうして、外へ意識を向けると知らないことを知り、知的欲求が自分にもあるのだと実感出来たりしました……かつての自分では考えられないような、世界の広がりを教えていただいたりも」 それは、奇跡なのだ。 魂を引き裂く絶望の淵で得たものではあったが、それでも、与えられ、託された《奇跡の時間》なのだ。 「兄がくれた時間、兄が過ごすはずだった時間を、大切にしていきたいと思います。満たされた時間を過ごすことは、兄も喜んでくれる気がするので」 「素晴らしいことだと思いますよ」 「ありがとうございます」 「ここで過ごす時間は特別なものとなるでしょうね」 ルルーは愛おしげに書物たちへと視線を送る。 「そういえば、あの後に、ルルーさんとお話ししたんでしたね。いつか所蔵する本たちのために、彼らに似合う場所を作りたいと」 収集癖がヒドイという自覚はないのだが、それでも本は本を呼ぶもの。 いつか、己の居住区すらも侵して、愛おしい彼らはどこまでも増殖していくのだ。 そのたびに新たな書庫を用意していったが、もしも帰属して自分がこのターミナルから居なくなってしまったら、せっかく自分のもとへと集ってくれた本達の行き場がなくなってしまう、かもしれない。 クチさせるためにこの子たちを手元に引き寄せたわけではないというのに、ソレではあまりに書に対して無責任すぎるというものだろう。 そんな心配をなくするための場所、保険が、この《揺り籠》なのだ。 「いつか、この場所を利用する方の誰かが、管理人になってくれると良いと願っているんです」 「その願いは間違いなく聞き届けられるでしょう」 ルルーはまるで予言者然とした口調で、そっと微笑んだ。 そして、 「良かった……お祝いの品をもうひとつお渡しできるかもしれません」 そう言って、導きの書を掲げて見せた。 「ブルーインブルーのとある遺跡で、石で作られた非常に美しい本がいくつか発見されたようです。しかし、ソレを回収するには海魔を少々退けなければなりませんが」 行かれますか、と問う黒い瞳が茶目っ気たっぷりに細められた。 ◆野に白い花が降りてくるように ブルーインブルーの、白亜の通りを抜けた先に佇むその館を《書店》だと知るモノは、もしかするとロストナンバーの中では宮ノ下杏子だけかもしれない。 「ようこそ」 そういって杏子を迎えてくれる彼は、初めて出会った時と変わらず貴族然とした美しい佇まいで微笑む。 「杏子が来てくれるのを楽しみに待っていたよ」 「その節は大変お世話になりました。あと、運命の出会いを果たしたあの子のこと大切に大切にしてます。と言うか、ここに連れてきています!」 いって、杏子は大きな斜めがけカバンから、ひと抱えはありそうな大判の本を取り出した。 暗赤色のベルベット地に金糸で細やかな刺繍が施されている、ソレは見事な一冊だ。 あの時、これは《旅人の本》なのだと店主は言っていた。 「端から端まですべて、一文字も逃さず読み終えて、読み返して、それでもいつも新しい発見があるんです!」 可能な限り光を与え、様々な経験をさせてあげたくて、許されるときにはこの美しい本をカバンに携えて冒険へ出かけているのだ。 「よかった。君ならきっと、その子の真価を感覚で理解してくれると思っていたんだ」 嬉しそうに彼は笑う。 優雅で無邪気な笑顔に、杏子の心がふわりと温かくなった。 「さあ、立ち話はここまでにしよう。案内したい部屋があるんだ」 無駄のないしなやかな動きで、店主は杏子をエントランスホールから中央階段、その無効に続く渡り廊下へエスコートしていく。 7番目の扉の前で、彼は立ち止まった。 ドアノブに手を掛けたまま、肩越しに微笑んだ。 「どうしても君に見てもらいたくてこの部屋を用意したんだと言ったら、信じてくれるかい?」 「あ、あたしのためにですか!?」 「これまでとはちょっとだけ趣向を変えている、かもしれないな」 そうして、杏子の目の前で扉は開かれた。 「……っ!」 慌てて口元を両手で押さえなかったら、歓喜の声が館中に響きわたっていたかもしれない。 視界いっぱいに、赤、白、薄紅といった花々があふれていた。 「すごい……」 かすみ草を思わせる小花が星のように散りばめられ、カトレアや薔薇、牡丹、芍薬に似た大輪が、ガーベラなどとともにテーブルや椅子、カーテンとなって空間を飾り立てる。 そうして演出されているのは、7冊で虹の色彩を完成させるシリーズ小説だった。 「す、すごいです」 もちろん、このブルーインブルーにおいて本物の植物を用意することは困難を極める。 そこにあるのはすべてツクリモノだ。 だが、それゆえに永遠に朽ちることのない美しさを誇っていた。 書物のための空間。 すべてはこの虹色の本のために存在する空間。 「魔法使いのミステリー、きっと君なら気に入るだろうと思っているんだよ」 杏子は、引き寄せられるように赤い表紙を手に取った。 肌に吸い付くような心地よい布と石を砕いて作ったのだという紙のなめらかで冷たい手触りの絶妙さ、そしてレタリング文字で飾られた書き出しに心奪われる。 ――ねえ? あなたは、フラワーマジックの奇跡を信じるかしら? 「さあ、そこへ座って。今日は特別に、ここでお茶もしよう」 「あ、あ、ありがとうございます!」 香りのない、まるで幻影のような花の世界で、杏子は店主と他愛のない話をはじめる。 長く《停滞》の中にあったはずのターミナルに、大きな変革が起きている。 ナラゴニアとの邂逅、ワールズエンドステーションへ向かう航路の発見、ターミナル新法の立案、エドマンド館長と北極星号の帰還――さまざまなものが。 けれど、杏子自身のスタンスが変わることはなかった。 ただ、ターミナルでの時は止まっていても、ロストナンバーたちの生物としての時間は止まっていても、外の世界と人々には《時》が流れているのだ。 そういう意味では、永遠に変わらないものなど何もないのだろう。 一番そばにいてくれた、けれど一番会いたいのに会うことのできなかった祖父が《帰らぬ人》となった――そのことを知ったのはほんの数日前だった。 祖父は帰ってこない。 紛争地帯で囚われの身となった祖父の帰りを待ち続けるという《日常》が、唐突に終わってしまったのだ。 心のどこかで続くと思っていた《当たり前の日々》が断ち切られ、杏子の心の糸もふつりと途切れてしまった。 この感情をどう扱えばいいのか分からないままに、傍目には《これまでと同じ日常》を過ごしながら、今日自分はここに来たのだ。 「杏子は心から本を、そして文字たちを愛しているんだね」 優しい瞳、やわらかな声、似ても似つかないはずなのに、なぜかその瞬間、店主に祖父の姿を見た。 「あたしは本が読みたいんです。もっともっと、何百冊でも何万冊でも。だから、本のある世界なら、どこででも生きていけると思うんです」 壱番世界に帰属する『理由』がなくなってしまった。 そういえば、ロストナンバーに覚醒したとき、真理数とともに幼い頃からの夢だった『図書館司書』の夢も一緒に失ってしまったのだと思い出す。 生まれ育った町の小さな市立図書館に、司書補として迎えられたばかりだったのだ。なのに、世界から放逐されてしまった。 けれど、その夢をもう一度、今度は別のカタチで叶えることができるかもしれない。 迷路のように入り組んだ謎を解き明かすフラワーマジックの奇跡、この物語に描かれた魔女のように、自分にも―― 愛おしげに、杏子は虹色に並べられた表紙を優しく撫でていく。 「いつかこの子たちを身請けしたいんですが、待っていていただけますか?」 「もちろん」 そう言って店主は、懐から可愛らしいカードを1枚取り出すと、万年筆でさらさらとそこに文字を連ねていく。 「あ、あの?」 そしてソレをぴしりと半分にちぎったかと思うと、一方を赤い本にはさみ、もう一方を杏子へと差し出した。 「これを君に。身請けしてくれるその日まで、この子たちはここで君を待ち続ける。約束だよ」 「あ、あ、……ありがとうございます!」 椿の花を模ったカードには、流れるような美しい直筆の文字が連なっていた。 ◆ギダと仕立て屋の夢 それは、当代仕立て屋ダンジャ・グイニの活動283年目での出来事。 期を悟り、仕立てた《後針》は、自分と同じ姿をしていながら、中身は正反対に大人しく静かな性格だった。 「あんたはなんでソレをするんだい? 意味を考えたかい? ソレをした先に起こることは? 思考は巡らせなくちゃいけない、視野は広げなくちゃいけない、冷静に判断していかなきゃいけない、だがその判断材料はどうやって集めたモノか考えはしたかい?」 「……ごめん、なさい……」 「なあに、謝る必要はないのさ。やってないならやればいい、分からないなら分かるまで身体に覚えさせるのさね」 「……身体に……?」 「繰り返し問いかけな。自分にだよ? 本当にこれがベストなのかってね」 「はい」 ダンジャの旅は、贖罪の旅だ。 折れることも諦めることも壊れることも縋ることも許されない、果てしなく繰り返される過酷な旅路となる。 その中で生き抜く術、知恵を、ダンジャはひとつ残らず授けてゆく。 乾いた大地が雨を吸い込むように、《後針》は教えを着々と自分のモノへしていった。 それでも、彼女は惑い、苦しむ。 そんな折、ダンジャは、かつて旅したい世界の冒険譚とそこで起きた様々な出来事を、脚色せず有りのまま、然し懐かしく愛しく思いながら、語って聞かせるのだ。 「いろんなモノを見てきたよ。綺麗なモノも醜いモノも、そりゃあたくさん。……そういや、黒羊に喰われた《記憶》もあったんだっけね」 「黒羊……?」 首を傾げた彼女のために、ダンジャはロストレイル襲撃事件の一部始終を、漆黒の時計塔が支配する館での戦いを語って聞かせた。 この世界には存在しない、けれどこの世界の外には確かに存在している、あの場所での出来事は、後針の心を捉えたようだった。 そして、気づけば5年の月日が流れていた。 「さあ、これでしまいだ。後はあんたに託したよ」 ソレは瞬きよりも短く、けれど永遠のように長く貴重な時間となっていた。 俯くことの多かった後針が、いま、真っ直ぐに自分を見つめる。 「……母さん」 たった一言、けれどすべての想いが込められた後針の言葉が耳に届いたその瞬間、遠い遠い遠い場所で時計塔の鐘の音が聞こえた気がした。 『あんたはなんでソレをするんだい? ソレをやる意味を考えているのかい? 自分で考えたと思っているその行為は、ただ他人の知識を丸ごと流用しただけじゃないのかい?』 『分かろうとしないから分からないのさ。あんたが手にしているのは、“分からない”で済まされるモノじゃぁないんだよ』 『難しいかも知れないけど、思いあがっちゃダメだ。自分の為にしかならない』 『赦されたいと思い、行動するうちは、ソレはまだ本当の意味で贖罪とはならないんだよ。本当の贖罪ってのは』 彼女の声が、蘇る。 自分の中から失われてしまった、羊飼いのブラックシープどもが喰った大切な《前針》との記憶が、蘇る。 「なんだ、あたしゃ、忘れていたのに彼女とそっくり同じ言葉をあんたに伝えていたんだねぇ」 血は争えない、なんて表現を使ってみればしっくりも来るだろうか。 やはり《母子》なのだ。 前針は、感情表現という概念を永遠に忘れてしまったのだと言われて納得できてしまうほど、彫刻のように表情の変わらない人だった。 いかなる時もその口元が綻ぶことはなく、凛とした佇まいを崩さなかった。 厳しさが際立っていた。 たった2年という歳月の中で、一度も彼女が分かった顔を見たことがなかった。 けれど、でも、 あの日、自分の頬に触れてくれた手は確かに温かかったのだ。 哀しく優しい眼差しで、最後の最後、彼女は自分に微笑みかけてくれたのだ―― そして、たったいま理解する。 目の前にいるのは《己》だが、紛れもなく後針を《娘》のように思っていた。 先代のダンジャ、《母》のように。 「母さん……」 「最期に、言っておかなきゃいけないねぇ」 ダンジャの身体はいまや、糸のように解け、光の粒子へと変じている。 存在が消えていく。 消滅するその中で、泣き出しそうな表情を浮かべる《娘》に向けて、言葉を紡ぐ。 「どんな力があっても忘れちゃいけない。《人間》は己の上でも下でもないんだ。そして、あたしだって《人間》なんだよ」 諭すように、自分の得た真理を彼女へと差し出した。 「難しいかも知れないけど、でも、あんたなら大丈夫だ。なにしろ――」 ――なにしろ、あんたは私の自慢の娘だから そして、ダンジャ・グイニは消えた。 《ダンジャ・グイニ》は生き続け、歩き続ける。 「さあて、いつかギダの終わりが来たら橋でも紡いで、もし残っていたら、0世界へまた行こうかねぇ」 再帰属したモノが再びロストナンバーになることはない。 けれど、自分の場合はどうなるのだろう。 なにが起こるか分からないのが、この《世界》ではないか。 もしもこの願いが叶ったなら、もしも再び0世界に行くことができたのなら、今度は、かつて博士団から不老不死と特殊能力の「種」を貰う前、その頃にやっていたような、小さな仕立て屋を始めよう―― ◆樹の上に腰掛けて 村崎神無は、涙で以て《その日》を迎えていた。 神無はユリエスを待っていた。 一番近くで彼を迎えた。 だが、ふたりは互いの胸のうちを語るには、華々しい宴の日々となったこの場所ではあまりに難しいモノとなってしまったのだ。 《世界園丁》ユリエスの帰還が、ナラゴニアに、そこに棲まう人々に、再び行くべき道標を指し示した。 失意と混乱で惑っていた人々は、瞬く間に、まるで長い悪夢から目覚めたかのように、かつての活気と明るさを取り戻していく。 比例して、数多の責務が押し寄せても来た。 祭りの最中、時折視界のはしに映るユリエスの姿に無言のまま想いを向け、そうしてまた、忙殺されていく。 叶うなら、傍にいきたい。 その胸に飛び込みたい。 けれどいまの彼は《世界園丁》――ナラゴニアにおいて、彼は神にも等しい存在となったのだ。 彼は自分に『待っていてください』と言ってくれたが、こんなにも血に塗れ、罪の穢れを背負う自分が果たして彼の傍にいていいのだろうか。 彼はいいと言ってくれる、けれど、ナラゴニアの人々がソレを許せるのだろうか。 分からない。 ただ、迷いはしても、もう自身の《殻》に閉じこもったりはしていない。 大切な友人たちが自分の背を押してくれたから、もう逃げ込んだりはしない。 自分の心に嘘偽りもない。 けれど、それでもまだ惑いはある。 こんな自分が彼の傍にいること、それは本当に許されることなのだろうか。 そんなことを考えていると、目が合った気がした。 一瞬結ばれた視線。 ――今夜、あの庭園で会おう 数多の人々に囲まれ、祝いと祈りと感謝の言葉を掛けられ続ける中、遠く隔たった場所からユリエスの唇がそっと声にならないメッセージを送ってくれた。 夜の帳が降りた庭園は、祭りの余韻を受けて、そこかしこに設置されたランプの灯を受けて揺らいでいる。 ひとつだけ置かれているテーブルセットにも、幻想的な光は落ちていた。 現実感が遠く、まるで夢の中にいるようで。 そして、静かにひとり腰掛けるユリエスの姿は、まさしく神の啓示を携えた厳かな一幅の宗教画のようだった。 「……」 久しぶりだった。 こうして、彼と2人きりで話すことができる時間。 誰の目もない、誰もいない、ふたりの間に誰もいない、時間。 伝えたいことがたくさんあった。 聞きたいことがたくさんあった。 けれど、いざとなると足が震え、握りしめた拳も震え、鼓動は驚くほど速くなり、喉が引きつれて、眩暈すら起こしかけている。 勧められた椅子に座ることもできず、そばに近づくこともできず、ただ立ち尽くすことしかできない。 「……神無」 彼が自分に気づく。 「ユリ…エス……」 名を呼ぶのが精一杯だった。 あなたが園丁になってもそばにいたい、力になりたい。 だって私はあなたのものだから。 でも、私に何かできるの? そばにいてもいいの? もしそれが許されるなら―― 言葉にならないままに、想いだけがあふれてゆく。 「神無」 彼はそっと立ち上がり、ゆっくりとした足取りで自分の傍までやってくる。 「待っていてくれて、ありがとう……君と再び会えた幸せに感謝したい」 伸ばされた手が、神無の頬に触れる。 彼の包み込むような温かさは、胸の中に巣喰う暗く冷たい不安の氷を溶かしていった。 そして溶けた氷は安堵の涙となって、神無の双眸からこぼれ落ちる。 「……ユリエス、おかえりなさい」 彼の胸に顔を埋め、ありったけの想いを込めて、ただひとつの願いを口にする。 そして村崎神無は、ナラゴニアで《世界園丁》ユリエスの片腕となった。 自身ができること――侍従団の活動に力を貸したり、ユリエスの個人的な話し相手になったりと、例えソレが傍から見ればごくささやかなモノに映ったとしても、行うことに惑いはない。 愛する人の傍にいられる。 愛する人と共に歩める。 その幸福を噛みしめながら、存在し続けるのだ。 かつて、背にした罪を償うために生き続ける、どれほど辛くとも死に逃げることは許さないと、幸せを自ら遠ざけて刀を振るった彼女の《孤独な闇》もまた、時とともにほんの少しだけそのカタチを変えた。 ある日、ふとユリエスは言った。 「君は……自身を縛る鎖を、自ら断ち切ったようだ」 神無はいまも手錠を嵌めている。 しかしそれは片方にだけだ。 両手をつなぐ鎖は断たれ、片割は大切な親友にあげたのだ。 手錠は神無の罪の象徴、神無の魂を縛る償いの枷だった――しかし、 「私の罪は消えないけど、一人で背負い込む必要はない…今はそう思えるの」 そっと、笑う。 笑うことができる。 『罰を望むよりも、どうしたら哀しいヒトを幸せにできるかを考えた方が、ずっとずっと良いと思うのです』 純白の少女から贈られた言葉もまた、胸にある。 例え神に等しい存在になろうとも、いま目の前にいる彼は、自分の愛したユリエスと個人だ。 「ユリエス……私は私の命ある限り、ずっとあなたのそばにいる」 そうして神無は、やわらかく穏やかな笑みを向けた。 ◆少女たちは、恋をする ターミナル随一の百貨店ハローズは、今日も壮麗にして優美、そして賑やかで優雅で好奇心を刺激する楽しげな雰囲気であふれていた。 ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは眩しそうに手庇を作ってデパートを見上げてから、一足先にロストメモリーとなった親友サシャ・エルガシャへ視線を向ける。 「忙しい時期だというのに、今日は付き合ってもらってすまぬのぅ」 「えぇっ、全然謝る必要なんてないんだよ? ジュリエッタちゃんの大事な大事な開店準備のお買い物だよ? それって最優先事項でしょ?」 そうして、仕立て屋となった彼女は、太陽のようにきらめく明るい笑顔で告げる。 「ジュリエッタちゃんの夢が遂に叶うんだね。おめでとう!」 「……うむ」 そうなのだ。かねてより念願だったイタリア料理喫茶店の夢がついに現実化する。しかも、オープンはもう間近に迫っているのだ。 北極星号の帰還から既に50年。 ロストナンバーとしての活動を休止し、ひたすら壱番世界で修行をしていた日々すらも遠く懐かしく蘇る。 その後も、世界司書から出される依頼をこなす傍らで、料理の腕を磨くこと、新作メニューのアイデアを出していくことを怠らなかった。 大切な人へ作る料理、大切な人が作る料理にも、愛情のスパイスとともに多くのヒントと情熱が込められてきた。 「いよいよなのじゃな」 感慨深げにもう一度、ジュリエッタはハローズを見上げる。 今日、ここで得るものが、自分の店のカタチとなるのだ。 「それじゃあ、出発じゃ」 「うん!」 少女たちは手に手を取って、動き出す。 「それで、ジュリエッタちゃんの中のイメージを聞かせてもらえるかな?」 「内装は派手にはせぬが、客人がほっと落ち着けるような、『植物の文様』を取り入れたものにする予定じゃ。せっかくじゃからジキタリスの鉢植えは置いておきたいところじゃが……」 イングリッシュ・ガーデンには欠かせないソレの花言葉は、隠しきれない恋、この胸の熱い想い――恋愛小説も手掛けるジュリエッタにとっては、様々な意味で魅力的だ。 「そっか。だったら、テーブルクロスの色をもう少し抑えて、質感はこっちの……うん、この組み合わせの方が……」 何度も何度も、スケッチブックにアイデアを書き出した。 何度も何度も、スクラップブックを作っていった。 それでも、ひとりで考えていると限界を感じる。 イメージの羽根を羽ばたかせ、空想の世界に旅立とうとしても、時には鳥籠から出られないような、そんな感覚に陥ることもあった。 だからだろう。 英国メイドとしての細やかな視点と、プロの仕立て屋ならではの目線での飾りつけや布地のセンス、サシャが合わせ持つ《感性》はどちらも新鮮で、気付かされることも多い。 新鮮な驚きが心地よい刺激となって、次々と新たなアイデアが浮かんでくる。 いや、ソレはなにも、今日のような買い物の時だけではないのだ。 小説を書くときにも、あるいは何気ない日常の中でも、多くの発見が彼女といることでもたらされてきた。 自分はこんなにも彼女に助けられているのだと、しみじみと感じる。 「サシャ殿」 「ん? どうしたの、ジュリエッタちゃん?」 肩越しに振り返る、彼女の存在がひどく愛おしい。 「……いや、そろそろアフタヌーンティの時間ではないかのう? どうじゃ、屋上庭園に行ってみるというのは?」 「ステキ!」 プロの顔から一転、無邪気にはしゃぐ彼女の笑顔に、ジュリエッタの心は更に明るくなる。 夢が叶う瞬間の、目前に迫った《変化》への、その何とも言えない漠然とした不安のわだかまりが、一気にどこかへはじけ飛ぶ。 ハローズの屋上庭園テラスの今月のテーマは、どうやら英国の黄金期ことヴィクトリア朝をモチーフとしたらしい。 その時代を生きた才あふれる画家たちの絵画が各席の壁際に飾られ、復活したゴシック様式の調度品が心地よい非現実感を作り出す。 「実は今小説のタネに困っておってのう…テーマは『勘違いから始まる恋』なのじゃが」 「うふふ、相変わらずジュリエッタちゃんの発想ってステキ」 キラキラとかつて共に王子様を夢見た親友は、うっとりとした眼差しで両手をお祈りのカタチに組んだ。 「あのね、以前読んだ本の中で《恋は勘違いと思い込みの産物だ》っていう一節があったんだ! ねえ、ある貴族の娘がね、自分の誕生パーティにある青年と出会うの。彼は親が選んだ婚約者だって聞くんだけど実は……!」 「おお! 婚約者だと思っていた相手、定められた運命の相手と思って出会った男が、実は別人だったりするのだな」 「そうなの、ソレでね、彼女は迷うのよ。自分が彼を好きになったのは、“婚約者”だと思ったからなのか、それとも、なんて」 「もちろん、本物の婚約者も出てくるのであろうな?」 「しかも、その人は『彼』とは対照的なんだけど、でもとびきりお金持ちで優しくてステキだったりするの!」 「ふむふむ、さすがはサシャ殿。ではさっそく書いてみようぞ」 おいしいケーキとおいしい紅茶、おいしいスコーンを間にはさみ、少女たちの会話は弾む。 そんなひとときを過ごしながら、ふと、ジュリエッタは思う。 「わたくしは、そなたの存在にどれだけ守られ、救われているのだろうな」 「え?」 「今日手伝ってくれること、改めて感謝するのじゃ」 改めて頭を下げる自分に、サシャは慌てたようにカオの前で両手と首をぶんぶん横に振った。 「そんなそんな、そんなっ」 そんな仕草すらも愛おしい。 幸福の光はいつでもその傍らにあるのだと、実感する。 「サシャ殿、本当に、本当に、……ありがとう」 ◆鳥籠の国に対して彼は言った… やあ、ルルーさん 貴方は相変わらず、司書室で紅茶を飲んでいるのかな? 鳥籠の悪夢に再帰属を果たして、それなりの時間が経ったように思う。 といっても、闇の中を漂ってるのが主なんだけれど。 それでも時々、自分の《本質》に従って鳥籠の中に干渉しているんだよ。 本質は何かって? もちろん、快楽殺人犯だよ。 ターミナルではできなかったからさ、帰属できた暁には思う存分にやろうと決めてたんだ。 少し前の話になるけど、神殿に12人ほど死体を並べてみた。 頸動脈の切り裂き加減、床と天井への血液の散り具合なんか、貴方に実物を披露したいくらいの出来だったんだ。 その瞬間はね、すごく満足だった。 でもね、好きなことをしているはずなのに、気づけば物足りなさを感じているんだよね。 なぜかって? 決まってるじゃない。 そう! ここには、快楽殺人者である自分を追い詰める《探偵》がいないんだもの! 自分は追い詰められてみたいんだ。 だれが殺したのか、なぜ殺したのか、どうやって殺したのか――不用意にその謎に挑めば、犯人の罠に嵌められ破滅する。 迂闊に踏み込めば、待っているのは落とし穴。 嵌まるのは追う者か、追われる者か。 そんな駆け引きを楽しみたいんだよ。 なのに、ソレが叶わない。 どんなに頑張っても、誰も挑んできてくれない。 そうだ、前に貴方と司書室で話したよね。 探偵と殺人者は表裏一体、そして惹かれ合うんだって話さ。 それって片方が存在していないと、もう片方も存在しないってことだよね。 もし存在できたとしても、ものすごく、こう……おかしくて歪なものになるんじゃないのかな? 仕方がないといえば、仕方のないことなんだけど。 故郷にはミステリが存在していない、つまりはミステリの概念も生まれていないんだもの。 殺人鬼を追いかける《探偵》も生まれないんだ。 ああ、鳥籠の国が意外と狭いっていうのも、一因ではあるのかな。 とにかく、探偵が欲しくってね。 だからさ、自分は考えたんだ。 ないのならば、種を蒔けばいいって。 探偵という概念が存在しないなら、ソレを自ら生み出してしまえばいい。 ふふふ。 恥ずかしながら、《かつてあったといわれる大陸を舞台に、活躍した探偵の物語》を書いたんだよ。 で、何となく馴染みそうな鳥籠の国を見つけて、そこの出版社に送りつけた。 で、もくろみ通り馴染んだらしくて、出版されて、本を読んだ他の人も同じように《探偵小説》を書くようになったんだよね。 しばらく、その鳥籠の国へ行くのが楽しみだったなぁ。 だって、0世界では出会えなかった小説も出てきたんだもの! 一ヶ所で満足なのかって言葉が聞こえてくる。 いいんだよ、最初は一ヶ所で。 鳥籠の国は、時に他の鳥籠の国とぶつかり、交流して、また離れていくんだ。 その時、一体なにが生まれると思う? その様も見たいから、最初は一カ所だけ。 どうかな、広がっていくかな。 どんなふうに広がっていくのかな。 そうすれば、自分の殺人も、そそるものになっていくかな。 次に《鳥籠の中で披露する殺人》は、もしかすると貴方の《導きの書》にも予言されるかもしれないね。 だとしたらすごく面白いのに。 そうだ、ひとつだけ予告しておこう。 今度の舞台は、クローズド・サークルにしようと思っているよ。 毒殺と見立て殺人はしない。ナンセンスだし、料理の味を変えるなんてもってのほかだからね。 でもそれ以外の趣向はうんと凝らすつもり。 貴方がロストナンバーを連れて、解決に来てくれたらいいのにね。 たまには司書も外に出るべきだよ。 そうだ、慰安旅行を鳥籠の国にしなよ。 いや、それとも年越し便の方がいいかな? いまもそういうことをしているなら、自分はそこにタイミングを合わせることにするからね。 それじゃあ、また。 そうだ。 この手紙を届けてくれる人に、あとでクリスタル・パレスのお菓子を代わりに渡してもらえるかな? 彼、あのお店のファンなんだよ。 ◆はじめに、それを捕まえなければ 「なんでおまえがそこに居る?」 驚愕と茫然自失、絶望と衝撃をない交ぜにした由良久秀の、その表情を存分に堪能してから、 「あんたのそのカオが見たくて」 だからここまで来たのだと、珊瑚色から白金に髪色を戻して久しいムジカ・アンジェロ――ターミナルにおける裁判官は、鉄格子越しに鮮やかな微笑を浮かべて告げた。 * ホワイトタワーに棲まう殺人鬼。 かつてここには――正確には再建される以前のこの特別独房たる《貴賓室》には、鉄仮面に素顔を覆われたひとりの男が捕われていた。 100年を超えて捕われながら、ターミナルに忘却された囚人だ。 一度は崩壊したその場所が再び機能を取り戻したのは、いつのことだったのか。 隠蔽され続けた殺人の咎はたったひとりの探偵によって白日の下に晒され、かくして、忘却されゆく新たな《終身刑の囚人》が貴賓室へと招き入れられたのだった。 どろりとした闇の中、由良の視界には壁しかない。 外に通じる窓、あるいは開閉することでわずかでも変化をもたらすだろう通路扉でさえも、由良の視野内には一切存在しないのだ。 闇が静寂を引き連れて蔓延り、ゆらりとしたランプの明かりだけがすべてとなった世界。 だから、退屈を紛らわそうと、かつてここにいた男と同じように、希望を述べてみた。 そうしたら、どうだ。 驚いたことに、この独房は囚人の要望に対してありえないほど寛大だったのだ。 気づけば床には、大量の本が積み上げられている。 それに山のようなタバコと、それから、壊れたカメラ・オブ・スキュラ。 ちなみに、散らばる鉛筆画はどれも、記憶に残る写真を思い出して写し取っていったものばかりだ。 記録的な正確さよりも、印象を優先させた。 海底に沈んだ音楽都市の劇場、あるいはシャンデリアの落ちた水浸しの劇場、あるいはシェイクスピア劇の舞台装置を施された円形劇場―― 劇場を描いたものだけで、数十枚に及ぶ。 そう、なぜか《縁》があったのだ。 思えばムジカとの《腐れ縁》もまた、廃墟の劇場を撮影場所としたことに端を発していたのではなかったか。 彼からのあの《依頼》がなければ、あの、朽ちた匣の中での不可解な《謎》を写真として提示しなければ、もしかすると自分の運命は大きく変わっていたかもしれない。 そうすれば、そこに積まれているモノたちが生み出されることもなかったのだろう。 「……」 白い原稿用紙には、ムジカを探偵、由良を語り手として、これまで遭遇した事件を順に書き綴っていた。 その数はすでに50を超えている。 皮肉なモノだ。 苛つきながら、由良はタバコに火をつける。 今となっては、日々の大半をこの小説とも言えない小説を書くことに費やし、そしてムジカを待つのだ。 そろそろ時間だろう。 窓のないこの部屋に時間の概念など不要だろうが、それでも分かるのだ。 遠くで鋼鉄の扉が開く。 こつんこつん、とまるで音楽家何かのようにリズミカルな靴音を響かせて、自分と同じカメラを携え、こちらへ向かってやってくる。 「ムジカ……」 「エイドリアン卿から手紙が届いた。そして写真も」 開口一番、告げられたその台詞を由良は無視できない。 「見せろ」 反射的に飛びついていた。 「もちろん。さて、その間おれはあんたの原稿を読ませてもらえるのかな?」 「……」 水中に沈むワニのように、由良はのそりと動いて、積み上げられた本を台代わりにしていた厚い原稿用紙の束を取り上げる。 「これだ」 そうして、鉄格子越しに彼へ手渡した。 交換条件のように、こちらの手にはエイドリアンからの手紙、そして卿が撮ったのだろう写真が渡る。 「……そうか。あの日のことを書いたんだ?」 「ソレが最後だからな」 「あの日、その場に居られなかった事が心残りだよ……報告書は読ませてもらったけど、本当に……」 ムジカ不在のままに進んでいった、あの事件――もしも彼がその場にいたとしたら、結末は変わっていたのだろうか。 無機質なこちらの視線をさらりと受け流しながら、ムジカは手元の原稿を読み進めていく。 「由良の罪を暴く役割を、まさか他人に取られるなんて」 ヒドイ話もあるものだ、と茶化して笑うその姿に、由良は苦虫を噛みつぶしたような表情を向けた。 「だから探偵は嫌いだ」 エイドリアン卿の近況を告げる手紙と美しいオーロラのひるがえる湖畔の風景は、しばしの間、自分の中から《あること》を遠ざけた。 その間も、ムジカは読み進めていく。 飄々とした彼の表情が、ある場面に差し掛かった瞬間、好奇心を刺激されたチェシャ猫のように変わった。 目を見開き、口元が引き上げられる。 やはり、彼は気づいたのだ。 報告書には記されていない事実、その証拠品の隠し場所を示唆する言葉に、ちゃんとムジカは反応した。 「なるほど……」 動向を意識しすぎてこちらの言動に不自然さが出てしまい、相手が警戒するのではないかとも懸念していたが、幸いそちらも回避できたらしい。 ペンは剣よりも強し――その昔、どこかの男が言った。 その言葉が真実かどうか、由良は試してみることにしたのだ。 ムジカ・アンジェロの死の報は、由良の元にも届けられた。 それが死者となった彼の残した唯一の願いだったのだと、そう告げられ、最初はひどく現実感の乏しい言葉だと感じた。 しかし、いつもの時間になっても彼はここに訪れなかった。 靴音を響かせて、皮肉めいた、けれど妙に無邪気な瞳で、小説の続きを催促してくる、そして探偵然とした笑みで批評をよこしてくる男の来訪はなかった。 当たり前だ。 自分が殺したのだから。 ムジカ・アンジェロは、《真実を隠す匣》に殺された。 正確には、《真実を隠す匣》に外観を似せた、開けた者に致死の毒を与える罠に掛かって、死んだのだ。 一片につき10cmにも満たない、鈍い銀の匣。 蓋に位置する面には意匠化された薔薇の彫刻が、そして底に位置する面にはローズマリーの彫刻が施された、《電気羊の欠伸》で得たもの。 準備は、自分がここへ収監される以前から進めていた。 その場で沸き起こった殺意故の衝動ではない。 念入りに相手のために用意した、ムジカにしか分からない、ムジカでなければ発動できない時限性の罠を仕掛けて、自分が殺した。 我慢ならないほどに外から自分を無自覚に支配してきた男の存在を、この世界から消し去ったのだ。 それも、ひどく迂遠な方法で。 直接、手を下せなかった理由を、あえて自身の中には探らない。 ムジカは来ない。 もう永遠に、ここへやってくることはない。 その事実がやがて、じわじわと不吉な予感を伴って自分にもうひとつの《現実》を思い知らせる。 なにもかもがもう、手遅れだったのだ―― * 「……なんでおまえがそこに居る?」 「あんたのそのカオが見たくて」 自身の死が報じられてからちょうど1年後の今日、ムジカはやってきた。 由良のカオを見るために。 「久しぶり。気分はどうだ?」 「……なぜ」 「あんたなら分かるだろ?」 死体はナレッジキューブ製のニセモノだ――そう種明かしをせずとも、この台詞だけで彼も分かるだろう。 苦悶の表情に歪む様がおかしい。 由良が自分を罠に嵌めようとしていたこと、小説をもとに誘導しようとしていたことなど、とうの昔に気づいていた。 もしかすると、ルルーも気づいていたかもしれない。 書き手である由良には黙っていたが、何度となくあの赤いクマ司書のもとへ彼の小説を持ち込んでは、批評をもらっていたのだから。 あの彼が気づかないはずがない。 そして、自分は彼の用意した罠にはまることにした。 別に、退屈していたわけではなかった。 ただ、どうしても己の内側から湧き上がる好奇心に抗うことができなかった、それだけのことだ。 由良は、自分の死を知って、どんなカオをするのか。 由良は自分を喪って、どんな変化をきたすのか。 一目見てみたいという好奇心、これは実行に移し、観測に値する実験ではないだろうか。 そしてソレが果たされた今日、心に満ちた充足感にどれほどの歓喜があふれているのか、はたして彼には分かるだろうか。 口元が自然と綻ぶのを自覚する。 「これからも毎日通いに来るよ。おまえはおれから逃れられない、永遠に」 これは呪詛、あるいは呪縛なのかもしれない。 未来永劫果てることのない、忘却することすらも許さない、彼と自分のための―― 「……なんで、あんたが外にいるんだ……」 「さあ、なんでだろうな?」 ◆晴れわたる空の下、彼は…… ヒトにはそれぞれ、他者には絶対に分からない価値観に基づいた『生き方』の選択肢があるのだろう。 そして、いくつもの約束とともに生きていくのだ。 ヴィンセント・コールは、自室で珈琲を手にすると、わずかばかりのブレイクタイムを取るために、新たに発掘した《有能にして有望なる作家》の原稿を一旦デスクに置いた。 そして、ふぅっと溜息をひとつ。 『ほら、ヴィンセント。君も一緒に紅茶でも飲もう? アップルパイも焼いてあるんだ』 彼の声が蘇る。 イェンス・カルヴィネン。 大切な友人であり、雇い主であり、父のようでもあった大切な人は、数十年の時を経た後、一足先に帰属した壱番世界で天寿を全うした。 思えばずいぶんと長く、彼と一緒にいた。 父親から引き継いだ秘書としての仕事は、ロストナンバーとなってからも変わりなく大切なものだった。 いつしか自分のすべてを彼に捧げていたように思う。 『……ヴィンセント、ふたりとも行ってしまったね』 『本当に最後まで相変わらずでしたね』 『……もっと豪華な食事にするべきだったかな』 『彼らは貴方の手料理を喜んだのでしょう? だったら、それでいいのでは?』 イェンスの料理の腕前は年々あがっていき、ついには高級レストランのシェフに並ぶまでになっていた。 しかも彼の料理は温かいのだ。口にすると、身体の中にほうっとしたぬくもりが広がった。 たぶん彼らも、外食をするよりイェンスの料理で食卓を囲むことを一番の幸せと思ったはずだ。 『さて、そろそろ引っ越しの時期ですね』 『外見を老化させるとは、0世界は本当になんでもアリだね』 『壱番世界で活動する以上は、必要な嗜みかと。ロバート卿からのアドバイスでもあります』 『ところでちょっとこれは老けすぎじゃないかな?』 『今更行っても遅いです。さあ、次に行く年はもう決めてあるんです。今度はフィンランドですよ』 一定の年齢を超えたら、やはり周囲は浮浪であることを不審に思い出す。 ソレをカムフラージュするために繰り返した引っ越しだったが、多忙な執筆スケジュールの合間で貴重な息抜きになっていたように思う。 『僕も帰属することにしたよ。』 『……そうですか。ではミスタ、覚醒初心者講習会の講師としての任はどなたに?』 『既に決めているよ。君もきっと納得するはずだ』 『では、これからは執筆行に専念を?』 『……君は変わらず僕のエージェントでいてくれるのかな?』 『……なぜそこでそういった質問と確認をされるのかが分かりませんね』 帰属するということは、トラベルギアやセクタンとも別れなければならないということだ。 ガウェインとグィネヴィアが、イェンスの傍からいなくなる。 大切な別れの儀式として、彼らは0世界を巡ったが、その時もヴィンセントは彼らの旅に同行していた。 そして彼が帰属してからは、ヴィンセントはあしげく彼の元に通っては、時折0世界での出来事、依頼を通じて出会った様々な出来事を語って聞かせた。 そのたびに、齢を重ねていったカオをやわらかく笑みにカタチにして、イェンスは相談に乗ってくれもした。 『男として、君にも意地を張ったかも知れない』 馬鹿げた事だが当時は余裕が無かったんだ、と消え入るような声で彼は告げた。 分かっている。 助けを求めて欲しかった、力になりたかった、頼ってほしかった、けれどソレを拒んでひとりで立ち直ろうとしていた彼の姿は、いまも痛みを伴って思い出される。 それでも彼を元気にできるのは自分しかいないと、そう信じて手を伸ばし続けていたことまで思い出す。 そして、0世界で新たな家族を彼から紹介されたとき、子供じみた独占欲と優越感が自分を襲ってきたのだ。 イェンスは、ヴィンセントに思いがけない自己発見をもたらしたのだ。 『ヴィンセント、すまなかった。その』 殴ってもらえるかと、そう彼が言い切る前に殴っていた。 『さ、最後まで聞こう?』 『一刻も早く殴ってほしそうだったので。私もどうぞ殴っ』 今度はこちらが言い終わらないうちに、向こうがこちらを殴り返してきた。 忘れていたが、自分よりも彼の方がずっと強いのだ。 待って、と言うより先に飛んできた拳が気持ちいいくらいにヒットした。 『待ったは聞かない』 まるで子供みたいに笑ってくるから、思わずこちらも笑ってしまう。 『これで、いままでのことはすべてチャラにしましょう』 『どこでそんな言葉を覚えてくるんだい?』 記憶がとりとめなくあふれ出る。 けれど、彼はいない。 「……貴方のいない世界で、私は今日も仕事していますよ」 0世界時代の写真を手にして、自身の内側から訴えてくる切ない淋しさを素直に認める。 彼に認められたかった、彼に必要とされたかった、彼が彼であり続けるための日常すべてを支えていたかった。 けれど、彼はもういない。 「ミスタ……」 他人行儀に呼んでみたところで、もう応えはないのだ。 彼とともに0世界に住んでいた幼い騎士も、大妖も、もう傍らにはいないのだ。 大切な家族の不在、分かっていたのに淋しさを拭えない。 この胸の奥深くには、《喪失の棘》が突き刺さっている。 彼が最愛の妻を失い、その前後の記憶も失い、あらゆる精神状態を崩してから――その少し後、言ったのだ。 必ず天寿を全うし自殺して天国に上がれない妻を天国から引き上げる、ソレが自分の最後の使命だ、と。 あの日、ソレは『誓い』となった。 もう間違えない。 僕は僕の心のすべてを打ち明け、晒し、そして君の想いとも向き合って、受け止めよう。 愛しているよ、僕の冬香―― イェンスの遺作となった小説の、その最後のページに、そっと書き込まれていた言葉は、妻に捧げた告白だった。 「必ずやり遂げて下さいよ。幸せにならなかったら、覚悟なさい」 イェンスはあの時、自分が贈った言葉に笑ったのだ。 と、その時。 如何なるチカラが介在したのか――それは、本来ならばあり得るはずのない現象だ。 ヴィンセントのトラベラーズノートに、不意に、短い文章が明滅しながらゆるやかに浮かび上がる。 『任務完了 いつか必ずまた会おう アプリコットパイをお楽しみに』 「あなたは……約束を果たされたんですね」 ヴィンセントはトラベラーズノートを抱き締めて、そっと涙をこぼした。 ◆迷宮の番人 北極星号の帰還は、所属世界を見失った迷子たち――ロストナンバーの故郷を見つける大いなる手掛かりを携えてのものだった。 ゲーヴィッツもまた、多少の時間を要しはしたが、ずっと気がかりであった己の故郷を見つけ出すことに成功した。 そうして差し出される《ロストナンバーとしての選択肢》――故郷への再帰属か、別世界への帰属か、あるいは記憶を捧げロストメモリーとなるか、それとも、なお旅人で居続けるのか。 多くの者たちが、過去と未来と現在の中でつながれた己と他者との関係性を見つめ、可能性とともに迷う。 しかし、ゲーヴィッツは迷わなかった。 迷わず、己の世界へと戻ることを選択した。 そもそも、ずっとずっと気がかりだったのだ。 迷宮の奥底には万物の病を癒す《泉》がある。しかし、そこを目指してやってくる冒険者たちが必ずしも挑戦するに足る人物であるとは限らない。 ソレを見極めるのも、管理者の仕事というものだろう。 「よかったなぁ」 ゲーヴィッツはほうっと安堵の笑みを浮かべ、懐かしい《世界》を見渡した。 幸い、自身がいない間も迷宮が大きく荒れることはなかったようだ。 「さあ、なにから手をつけようかぁ」 やるべきことは多い。 やりたいと思うことも多い。 手始めに、雪原を見回って行き倒れになりかけているものがいないかを確認することにした。 何しろ、中には経済的にも精神的にも追い詰められ、装備らしい装備すら持たずに挑むものがいたりするのだ。 迷宮に辿り着く前に、自分の命が果ててしまっては元も子もない。 いや、そもそも一面白銀で埋め尽くす雪原は、それだけで方向感覚を見失わせるモノなのだ。 いっそ、目印を作ってはどうだろうか。 立て看板、では逆に怪しまれるかもしれない。 以前ターミナルで教わったことがあるのだが、いっそ氷の彫刻を目印にするというのはどうだろうか。 自分が今どこにいて、どこに向かって歩いているのか、その導があれば、冒険の難易度はグッと下がるはずだ。 早速そのアイデアを実行する。 合間に、近くを趣味で探索しているという魔導師から差し入れを受け取った。 彼の助言と協力も得て、せっかくだからとこの周辺や迷宮の地図を作製して配布したりもした。 気づけば迷宮までの道程はたいそう整備され、ピクニックロードみたいだと子供たちにも喜ばれた。 しかし、誰もが行き来しやすくなると、今度はゴミを処理しない不届き者が出てくるようになったのだ。 これは有り難くない変化である。 そういうマナー違反者は、根性曲りと分かればそうそうに叩き出すことに決める。 ゲーヴィッツの管理者としての試行錯誤は、それだけに留まらない。 近道を造ろうかと迷宮の壁をぶち抜いて一辺を崩壊させかけたり、面倒なので泉の水を汲んで来て入り口に溜めておこうか、いやいや時間が経ったら効果が無くなるかもしれないし、自分の手で汲む事に意義があるんじゃないかと暫し真剣に考えたり。 「おまえさんが、ここの管理者か」 ある日、自分の噂を聞きつけたのだという、別のフロストジャイアントがわざわざこの迷宮まで尋ねに来てくれた。 だが、ふくれあがったこの巨体を見上げる相手は、個人差では済まされないほど体格に大きな差があった。 「なんで、おまえさんはそんなにデカイんだ?」 「あなたこそ、なぜそんなに小さいままでいられるんですか?」 双方の頭の上に無数のクエスチョンマークが浮かぶことになったが、それもまた新たな出会いの物語へと続く。 いつしかゲーヴィッツは、自分よりもずっと小さなフロストジャイアントの仲間を友人としてもてなすことも楽しみのひとつに数えるようになっていた。 時折、心の底には美しい女性の姿が浮かぶ。 だが、ソレが誰なのかどうしても思い出すことができない。 ターミナルで出会ったわけではないのだ。依頼先で出会ったわけでもない。おそらくはこの世界で、覚醒する以前に出会った人物なのだろう。 彼女が心に浮かぶ度、胸の奥が疼く。 掻き毟りたくなるような痛みではないけれど、忘れないでと誰かに爪を立てて縋り付かれているような痛みだった。 そして、なぜかその傷みを、愛おしい、失いたくない、と思った。 この不可解な感覚に名前があることを、理由があることを、忘却してしまったゲーヴィッツは知らない。 彼の寿命が、帰属した後、どれほど先まで残されているのか、それは誰にも分からない。 ただ、彼がいる限り、迷宮の安全は保証され、そして泉に救いを求める者たちもまた救われ続けると言うことだけは確かだった。 ソレは、これまでと変わらない日常。 しかしふたつだけ、これまでとは違う点がある。 ひとつめは、迷宮とその周辺のことが記憶の大半を占めていた彼の胸の中に、別世界言った想い出が大切な宝物としてしまわれていると言うこと。 ふたつめは、 「……さあて、そろそろ出かけてこようかなぁ」 しばらく留守にします――そんな立て看板が迷宮の前に残される光景が見受けられるようになったこと、だ。 そして、雪原に柔らかな日差しが降り注ぐある日。 迷宮を訪れ、ゲーヴィッツの看板を見つけた少年は、ひとり、遠く薄氷色の空の向こうに走行する列車の姿を目撃するのだった―― ◆あるアンドロイドの記録 軍服をまとった少女がひとり、カンダータ軍の科学者に案内されるままに、その場所へと足を踏み入れる。 軍部のとある場所には、ひとつの《データ》が丁重かつ厳重に保管されている、と、かつて軍部に所属していた曾祖母から聞いていた。 記されているタイトルは《ジューン》――正式名称:JUNE-AN-P356型ver5――半永久型の小型融合炉を体内に持つ、愛らしい色彩を持ったメイド型アンドロイドの名だ。 『私は私を構成する技術を余すことなくカンダータのために役立てたいのです』 エプロンドレス姿の彼女は、己の機能が停止する最期の瞬間まで、自我を持ちながら、己をモノとして見定め、自己犠牲とヒトへの奉仕にすべての存在意義を捧げたのだという。 相手の称賛を含んだ言葉に耳を傾けながら、少女は、じっとデータが収められたデバイスを見つめていた。 ふいに、科学者が一冊の古い手帳をこちらに差し出してきた。 中を見てもらいたいという。 いったい誰が書いたモノだろうか。 首を傾げなら、そっとページを繰りていく。 《北極星号の帰還より》 *6年後 壱番世界のロンドンで出会った双子の妖精――リベラとエミリナが故郷への再帰属したのを確認したのち、帰属の徴候が現れていたカンダータへ向かう。 軍属になるまで、ムラタナ夫妻宅で乳母として過ごした。 出身世界ではスペースコロニーにて育児に従事していた経歴を持つ。己の本分を果たすことを心から喜んでいたようだった。 *83年後 稼働年限超過により、兼ねてからの予定どおり体内融合炉を停止する。 機能停止前に自分を分解して使用技術をカンダータの発展に役立てて欲しい、それが彼女からの最期の依頼となった。 愛らしいエプロンドレスのメイドは、その原型を驚くほど緻密で美しい《部品》へと姿を変える。 *95年後 JUNE-AN-P356型ver5における、使用技術の完全解析が終了。 カンダータで同型機大量生産が開始される。 《ジューン》が町のそこかしこで見られるようになった。 その片腕にはバングルが嵌められていることが確認できるだろうか。 いかなる摂理によるものか、オリジナルと同じ記憶を持たせた機体はロストナンバー化しないことが証明された。 *110年後 設計図を持ち込み、ギベオンでも同型機の生産が開始される。 異世界で発見された別機能を組み込んだ試作機の生産も同時に開始され、その性能は飛躍的に向上する。 *198年後 ギベオンが所有する対イグジスト兵器の試験運用のためイグジストウォーへ参戦。 しかし、参加した機体はすべて未帰還となる。 *250年後 対チャイ=ブレ戦へ参加。 手帳の記述はそこで止まっていた。 250年後に記された一文のあとには一体どんな言葉が続いていたのだろうか。 少女は手帳を閉じて、そして自身の瞼も閉じる。 耳朶に残るのは、かつて聞いた《初代ジューン》の音声だ。 『もうすぐ私の時間は止まる。 その前に、この言葉を残そうと思う。 私の耐用年数は120年――カンダータに再帰属した時、残り78年を切っていました。 耐用年数を過ぎれば、私の体内融合炉も電子頭脳も強制停止のロックがかかってしまう。 そうなれば、いかなる操作も受け付けない。 いかなるデータの活用も収集も分析もできなくなるのです。 カンダータにはまだ、私のような半永久型の小型融合炉の技術は存在していません。 なのに、私は彼らの技術向上に繋がる行為すら許されなくなってしまう。 私はモノです。 ヒトの役に立ちたい。 その強烈な欲求こそが私のすべてと言ってもいいのです。 セブンスゲートのように、再利用されることもなく無駄に墓場に葬られるなど耐えられない。 だから、軍に相談しました。 強制停止より前に私を機能停止させてほしいと。 それなら私の機能にロックはかからないはず。 私はヒトの役に立ちたい。 例えヒトカケの部品になろうとも、私はヒトの役に立ち続けたい。 オールハイル・カンダータ! いつかカンダータにも、私のようなアンドロイドが人と共存する日が来るかもしれない』 「あなたの描いた未来は、もうここにありますよ、ジューンさん」 少女はそっと微笑む。 彼女が首からさげる識別表の中で、ムラタナの名が光を反射してきらめいた。 ◆純白の帰還 純白の少女――今となっては彼女を視認することは難しい、シーアールシーゼロという存在のその不条理さは、世界の真理すらも内包するほどになっていた。 『君の願いは?』 あの日、目覚めた建築家ヘンリー・ベイフルックの微笑みに対し、ゼロは真顔で返した。 『全世界モフトピア計画なのです。もふもふは世界の宝なのです。夢とロマンと安寧がつまっているのです』 それまで漠然としていたゼロの『願い』が、無自覚の領域が意識の表層へと変換された瞬間でもあった。 それから彼女は求めた。 はじめは、巨大化して世界軍を軒並みプラス階層に押し上げる、という、おおざっぱだが彼女ならできるかもしれないという壮大な計画だった。 しかし、それはワールドエンドステーションで得た『解答』によって棄却される。 彼女が求めるのは安寧だ。 世界を傷つけ、揺るがすことは本意ではない。 だから、そこで得た知識を礎として、ゼロは遠大にして壮大、誰も思いつかず、おそらくは誰も実行には移せない『計画』の準備を開始した。 無限に広がる0世界を超えるための、無限の巨大化。 ディラックの空の端――《外側》に到達するための、巨大化。 周囲の世界繭を傷つけぬよう、常に無に等しいような増大率にして、傍目には刹那に無限倍の増大で巨大化しつづけながら、ゼロは進んだ。 ターミナルとワールドエンドステーションから離れる方向へ進むという、ソレが果たして可能なのかどうか、いかなる視点を以てしても客観的観測は不可能な時限で、彼女は彼女の《旅》を続けた。 しかし、彼女のこの挑戦を正確に語れるものはいない。 語るためには、あらゆる不条理を条理の及ぶ範囲まで落とし込んで言語化し、説明しなければならないのだから。 例えソレが可能になったとしても、今度はその理論を理解できるかという問題が発生する。 いや、おそらく説明など必要ないのだろう。 ゼロは己のできることで、己の願いを実現するために行動した。 ソレがすべてで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。 寂しくはないのかと、かつて誰かが問いかけた。 大切な友人たちと、永遠に会うことができなくなるかもしれない。 誰がどこにいて何をしているのか、つぶさに分かるというのに、そんな彼らの姿を見ていながら、彼らと話すことも、分かち合うことも、助けることも、一切ができなくなる。 完全なる孤独に心が壊れるのではないのか、と尋ねたものもいた。 けれど、ゼロはそっと首を横に振るのだ。 『ゼロはただ、まどろむだけなのです。それはかつていた世界と何も変わるものではないのです』 あれから、どれだけの時が流れたのか。 いつとも知れぬ未来で、唐突に、けれど正確にソレは起きた。 「触れた、のです?」 あらゆるものが意識化で感知できない存在となったゼロは、無限に広がるディラックの、あるはずのない果てにその指先を触れることに成功した。 《全世界群モフトピア計画》 今のゼロにとっては無限に小さなディラックの空、その中のゼロ世界の中の人と対話したくともわずかに声を出すだけでディラックの空が崩れ去るかもしれない。 だが、確かにゼロはいま、目的を果たすための完全なる手段を得たのだ。 はやる心を抑えつつ、友人たちと再会するためターミナルへ向かって、彼女は無限大の縮小化を開始する。 その日。 世界群には楽園化の兆候が現れ、あらゆる世界司書たちの《導きの書》には《シーアールシーゼロの帰還》が浮かび上がったのだったのだが。 それはまた別のお話―― END
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