分厚い生地の袋の口をきつく縛る作業をようやっと終えて、神楽・プリギエーラは大きな息を吐き、額の汗を拭った。 ヴォロスの大地は、今日も豊かで色鮮やかだ。 照りつける太陽は熱の針と言ってよく、この地方は、もうすでに夏の気配を孕み始めている。「神楽殿、こちらは終わったぞ」 ゲールハルト・ブルグヴィンケルが意気揚々といった様子で片手を上げる。 彼の腕には、特大といっていい、分厚い袋が抱えられている。神楽が先ほどまで作業に没頭していたのとまったく同じ袋だ。重量で言えば五十キロを超えるはずだが、物理攻撃を何よりも得意とする魔女には、特別骨の折れる重さではないらしい。「こっちもだ。今回も、活きのいいやつが採れたな」「ああ。これもまた、たいそう美味であるに違いない」 穀物を入れるに適した袋を前に、“活きがいい”とはどういうことなのか突っ込めるスキルを持ったものはこの場にいない。 不意に、ゲールハルトが何をしたわけでもないのに袋がぶるぶる震え、中から「しゃげええええええ」という不吉な声が聞こえたような気がするが、きっと気のせいだろう。気のせいに違いない。「……それはいったい何だ? スキャンしても、よく判らない」 一衛が小首を傾げてみせた。 袋の材質や形状からして、穀物を入れるためのものであるのは確かだ。 しかし、一衛の問いに対して、返ったのは穀物という食材の持つ和やかさとは縁遠い、どうにもおどろおどろしい文言だった。「喪血ノ王(もちのおう)だ」「もちの……なんだ、それは」「正確に言うと、喪血ノ王・羅倶那禄(らぐなろく)だが」「……?」 やはり判らなかったらしく、一衛の首が盛大に傾く。 故郷においては全知に近い夢守も、異世界においては理解の及ばぬことばかりである。しかし、知らぬことを知る喜びや楽しさを、一衛は満喫しているようだった。「竜涯郷で古龍たちが出してくれた『アレ』よりは判りやすいと思うぞ」「で、あるな」 ゲールハルトが重々しく頷く。「さて、では撤収するとしよう。火城殿も、首を長くして我らの帰りを待っておられるに違いないゆえ」「火城は確か、安全で美味な糯米とやらを探してきてほしいと言っていた気がするが、それは安全なのか……?」「ロストナンバー的には安全だ。たぶん」「うむ、間違いない。たぶん」 『たぶん』に込められた丸投げ感に、やはり首を傾げつつも、次のロストレイル発車まであまり時間がないのもあって、一衛はそれ以上特に何も言わず、ふたりに並んで帰途に就いた。途中、現地の農家に分けてもらった野菜や他の穀類など、大きな荷物を、三人の中ではもっとも小柄に見える一衛が軽々と担ぎ、ロストレイルまで運ぶ。 いつまで見ていても飽きることのない、色彩に満ちた世界を歩きつつ、他愛ない会話に花を咲かせる。三人とも、身辺が落ち着いているため、のんき極まりない。「しかし、月日の経つのはあっという間だな」 ワールズエンドステーションの発見から、しばらく経ってのことである。 その間に、各世界へ再帰属したものも、旅を続ける選択をしたものも数多くいる。未だ発見されぬ故郷を求め、ワールズエンドステーションに望みを託し続けるものも少なくはない。 人々が、それぞれの道を選び、歩きはじめる中で、三人は、旅を続ける――今しばらく0世界にとどまる――選択をしたのだった。今回の旅も、赤眼の世界司書に依頼を受けてのものである。「神楽は、故郷へは戻らないのか」「気が向けば戻るつもりではいるが、いつ『気が向く』かは未定だ」「お前のところの世界では、巫子の存在が必要不可欠なのでは?」「巫子は私だけではないし、そもそも私ひとりいなくて滅ぶような世界なら、そのまま放っておいたほうがいい。世界に縛られて生きるのはごめんだ」「――なるほど。ゲールハルトは?」「戻りたいのはやまやまだが、まだ見つかっておらぬでな。0世界での生活も楽しいゆえ、気長に待つつもりでいる。一衛殿は、どうなのだ」 覚醒してもっとも日が浅い一衛である。 所属世界そのものは見失われていないうえ、そもそもの覚醒理由が本体である黒羊の意思によるものであるから、一衛に『戻らなくては』という意識は薄いようだ。「プールガートーリウムが、しばらく好きにすればいい、というから」「きみたちの『しばらく』は、かなり気長な話になりそうだな」 神楽がかすかに笑う。 黒の夢守は朴訥に頷き、「異世界旅行は楽しい。楽しいというのを、私は覚醒してたくさん知った。たくさん知ることは、シャンヴァラーラに還った私を、更なるよい方向に変えてくれるだろうから」 ずいぶん自然な様子で、唇の端に笑みを浮かべてみせた。 違いない、と、品のいい、彫りの深い面に理知的な微笑を浮かべ、ゲールハルトが空を仰ぐ。「彼らは今、どうしておられるかな」「ふむ」 神楽は肩をすくめた。 『彼ら』が誰を指すのかは、三人三様だ。 しかし、三人の想い、感情は、ほとんど一致していると言っていい。「皆、それぞれ、好きなようにやっているんじゃないか。彼らの望む世界で、望むように」「そうだな、そうあることを、祈る。彼らが、ただ、幸いとともにあるように」 ゲールハルトが深く頷き、一衛は、空の向こう側にあるあまたの世界を見晴るかすかのように、じっと遠くを見つめた。======<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆するシナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。======
1.いつも通りの大騒動 in 彩音茶房『エル・エウレカ』 Ⅰ: ワールズエンド・ステーションの発見と、ロストレイル13号の帰還から数年が経っていた。 鰍は、ロストレイル13号に乗り込んだ面子、かの地の何たるかを最初に確認した人々のうちのひとりである。 ワールズエンド・ステーションによる世界群の検索が可能となって以降、自分の故郷を見つけ、帰ってゆくロストナンバーの数は少しずつ増えている。同じレベルで覚醒し0世界へやってくるものが存在するため、ターミナルが唐突に閑散となることはなかったが、見知った顔が少しずつ減ってゆく、変わってゆくのもまた事実だ。 とはいえ、鰍自身には特に変化があるわけでもない。 彼はずっと、歪と真遠歌と旅を続けている。 ツーリストである義弟と義息を、周囲から生暖かく見つめられるレベルで溺愛している鰍は、彼らがどこかへ再帰属するようなら自分も、と思っているのだが、双方、そぶりも見せないため、現状の維持が続いているのだった。 鰍自身、このまま、歪と真遠歌とともに、いつまでも、どこまでも旅をつづけ、皆の旅路を見つめ続けることが出来れば、とも思っている。 「で、なんだって? 美味いもの大会をやるから来いって?」 今日も今日とて、鰍は、目に入れても痛くないほど溺愛している義息、真遠歌とともに、『エル・エウレカ』への道を歩いていた。 「はい。何でも、とても貴重な食材が手に入ったとかで、いっしょに料理をしていっしょに食べよう、と誘われました」 真遠歌が神楽から聞いたというその文言には、若干の引っ掛かりというか、奇妙な不吉さを感じるのだが――人、それを経験則という――、しかし真遠歌が楽しそうなのだから仕方がない。 「真遠歌、楽しみか」 「はい。皆でおいしいものをつくって食べることは楽しいし、幸せですね」 朴訥な返答に、やっぱりウチの子は世界で一番可愛い、などと通常運転でデレデレになりつつ、鰍はのんびりと道を歩く。 ――すぐに、聞き慣れた咆哮が聴こえてきて、立ちすくむことになるにせよ。 ヒイラギは、赤眼の世界司書、贖ノ森火城のもとを、ちょっとした相談のために訪れていた。 自分とロウ ユエは、出身世界が発見され次第帰還する予定である。 しかしながら、故郷の情勢は非常に厳しく、また、何度言い聞かせても我が身を省みず無茶をする主人がいるもので、万が一の時、世界図書館に助力要請を出したいと思っているのだ。 そのための方法を相談したのが火城で、以降、最善の方法を模索するべく話し合いを続けている。 とはいえ、友人知人を危険にさらしたくないユエには内緒なので、それは常に、菓子を購入するための訪問の『ついで』の世間話のように交わされることが大半である。 そんなこんなで、今日も『エル・エウレカ』を訪れていたヒイラギである。 季節の果物をつかった新作のタルトが出たという話を聴き、主人のお茶の時間にぜひ、と思ったのもあった。 ――が。 「ええと……ここは『エル・エウレカ』ですよね。つでにいうと0世界ですよね。俺の知らない間に、原初の息吹が色濃く残る密林に踏み込んだわけではないですよね……」 しゃげえええええええ、という恐ろしい咆哮が聴こえてくる。あまりの声に、地面がびりびりと震えている。 いやしかしこれは何かの間違いで、あの声は気のいい旅人が料理に感激して発したものかもしれないし、と、希望的観測のもと、店内へと踏み込む。なにせ外せない用事もあるため、入らないわけにもいかないのだ。 しかし、中庭を通って進み、店の裏通りを目にしてヒイラギは棒立ちになった。 「あれ……もしかして、俺って間が悪い、ですか……?」 視線の先では、淡い桃色の髪をした青年が膝から崩れ落ちているのが見える。頭に角のある少年が、「これを倒せばおいしいお餅が食べられますから」と一生懸命慰めているようだ。 「いや、うん、まあ……気持ちは、判りますよね」 しゃしゃしゃしゃしゃ、しゃげええええええええ。 咆哮とともに漂ってくる、蒸された穀類のよい香り。 チラと視線をやれば、つやつやとした、テリも水分含有量も見事な糯米が、いったい何がどうなってそうなったのかと思わずテンパるくらいの意味不明さで合体し、巨大な怪物となっているのが見えた。 身の丈は五メートルを超えるだろうか。 さらに、微妙にヒト型っぽいのが不気味さを誘う、蒸し糯米の塊『喪血ノ王』には、おっそろしく鋭利な牙が生えそろった巨大な口がついており、人間ひとりくらいなら簡単に呑みこまれてしまいそうだ。 「な、何ごと……」 波乱万丈な人生を送ってきている自覚のあるヒイラギも、さすがにこれは初めての体験である。 「奇声を発する植物や穀物は、野生種と交雑してしまったものを、耕作地で時おり見かけたものですが、火を通してもなお屈せず、咆哮を上げ、これほどまでに猛り狂うものなど俺たちの世界にも……なかなか……」 桃髪の青年が悲壮な表情で杵を手にする姿を見るに、あれを餅にするのが今回のミッションのようだ。これを終えなければ自分の用事がすませないことを考えると、死ぬ気で挑むしかなさそうだ。 食品相手に、この表現を使う必要性に駆られる0世界には驚嘆せざるを得ない。 蓮見沢 理比古はというと、上機嫌だった。 紆余曲折を経て巡り会うことのできた半身たる青年と、その庇護者を家に招き、暮らし始めた矢先のことである。 背丈は自分より大きいのに、時々「幸せすぎて怖くなる」といった様子を見せるようになった彼を、脇目もふらずに愛しながら過ごしている。何十年もの間、探し続けていた存在と出会うことが出来たのみならず、彼の無垢な笑顔を間近に見つめながら暮らせる日々の、なんと貴く幸せであることか。 おかげで、再帰属などはまだ彼の中では遠く、旅人たちとの0世界での触れ合いを尊重する日々が続いている。 という背景から、いつも以上に上機嫌な理比古であるが、そのうえ、 「わあ、これがうわさに聞く喪血ノ王かあ……すごいね」 以前から人づてに聞いていた、おそろしく強いがおそろしく美味だという糯米を見ることが出来て、むしろ感動している。 「いや……えっ、糯米? 搗くと美味くなる? いや、搗きあがる前に喰われたら……だってあの口だぞ。えっ、何はともあれ気合でがんばれ? あ、うん、だよな……」 理比古のしのび、という名の秘書でありボディガードであり、実質的には彼の世話役というかオカン役でもあるという虚空は、お茶がしたいからと引っ張って来られた先でこの事態に遭遇したらしく、若干遠い目をしている。さもありなん。 しかし、しのびの胸中など知らぬげに、ものごとにこだわらない――こだわりがなさすぎだという噂もある――ご主人様は、 「皆で餅つきとか、いいよね。いい思い出になるし、おいしいものが食べられるなんて、素敵だよ」 そこだけ聞けばただのほのぼのとした餅つきイベントと受け取られること間違いなしの言葉を口にして、笑っている。 「いや、すべての障害というか危険を文言から排除したらそうなるのかもしれねぇけど、なんかこう、その『楽しい思い出』になるまでにあまたの艱難辛苦がだな……」 「そりゃあ、おいしいお餅にありつくためには、命のひとつやふたつ、賭けなきゃ。この苦難の道の向こう側に、栄光の餅料理が待ち受けているんだよ」 「餅つきっていつのまにそんなシビアなサバイバルゲームになったんだっけ!?」 目を剥く虚空。理比古はどこまで本気なのか判らない――徹頭徹尾本気という噂もある――調子で、自分に合いそうな杵を選んでいる。 そこへやってきたのは、強化兵士コンビだった。 「喪血ノ王・羅倶那禄だってさ。……うん、不吉しか感じねぇ」 アキ・ニエメラがむしろ清々しいといった表情で言えば、相棒のハルカ・ロータスは小首をかしげた。 「らぐなろく?」 「神さまたちが一堂に会して戦う、世界の終焉みてぇな時のことだよ」 アキの説明に、虚空が盛大な溜息をついた。 「なんで、餅つきで世界が終わるんだよ……なんの黄昏なんだよ……」 「言うな、突っ込みだしたら終わりだ。心が折れんぞ」 すでにちょっと疲れ始めている『蓮見沢家のオカン』の肩をアキが叩く。 しかし、ここへきてしまった時点で、ツッコミに安住の地などないのだ。 「虚空、あのお餅、ロバートさんや、家の皆にも食べさせてあげたくない?」 「いやまあ、そこは否定しねぇけど。匂いだけでこれだからな、相当うまいぞあれは」 「んじゃ、頑張ろうか。俺、安倍川もちとぜんざいと和風パフェがいいなー」 いそいそと杵を手にする理比古を見て、虚空が不吉を覚えたのは、おそらく杞憂ではあるまい。 「ハルカ、前回と同じで行くぞ」 「了解」 経験者の強化兵士コンビは、自分の役割を確認しつつ、臨戦態勢に入るのみである。 ルンは、自分は死んで神さまの国に来たのだと今でも思っている。 だから、自分は、神さまの役に立たねばならないのだ、と。 薄れて砕けて、また死ぬまで、ルンはここの住人である。 それゆえ、難しいことは「ん~、判らん」で済ませてしまえるため、ストレスとは無縁である。恐らく、依頼や何らかの戦いで負けて殺されるまで、彼女は生きることだろう。 ――という背景とは関係なく、ルンはご機嫌で杵を振り回していた。 「聞いた! 今日は、餅の日! どつく任せろ、ルン得意!」 1t越えのバッファローをも素手で殴り殺す膂力を盛大に発揮するべく、ルンは恐ろしい勢いで飛び出してゆく。 「え……あれッ、えっ、今日ってこういう日だっけ……!?」 音成 梓は、レシピのことで相談があって『エル・エウレカ』を訪れていた。 0世界で開こうともくろんでいる喫茶店の準備は着々と進行中である。 今日は、趣味として続けている料理のレシピのほか、喫茶店のメニューに関する相談にも乗ってもらおうと思い、火城に会いにやってきたのだった。 しかし。 しゃげえええええええ。 そんな梓の目の前で、喪血ノ王が咆哮する。 見覚えのある、恐怖の餅の姿に、 「ど、どういうことなの……」 気の毒に、梓は涙目でがくぶるしている。 杵を手にした人々が店から出てくるのが見えた。 原始的な出で立ちの娘が、弾丸のように突っ込んで行く。 見慣れた顔もちらほらとあって、梓はごくりと喉を鳴らした。 「あの餅がおいしいことは知ってる……あれをお出ししたら、お客さん、喜ぶだろうな……」 人の歓びは自分の喜び。 美味しいものを提供するために、死力を尽くす必要があるというのなら、頑張るしかない。 「よ、よし、行くぞ……!」 トラベルギアである銀盆を取り出す。 手は今にもお盆を取り落しそうだし、脚に至っては痙攣ですかと突っ込まれそうなくらい震えていたが、その震えすぎの脚は見ないことにして、梓もまた戦列に加わるのである。 Ⅱ: 鰍は、実に三度目の邂逅に思わず肩を落とした。 「あれか、この店俺にとっての疫病神か何かか」 『家族』のふたりが自分のもとを離れるまでは、と思いつつ、そんな兆しがかけらほどもないため「このままでも楽しいからいい」と思い直した辺りでの出来事である。 「逆に考えるんだ。実は概念的根源的レベルできみが災厄を運んでいる、だから君が『エル・エウレカ』を訪れる時、事件は起きるのだ……と」 「哲学的に罪をなすりつけるのやめろよ!? だったらなんで俺までいっしょに巻き込まれるんだよ、もう少し制御させろよ!」 「なるほど、そこをコントロールできないのがかじかじさんらしさ、ってことかな」 「だから俺のせいって方向でまとめようとすんの、やめようぜ!? あと文字数!」 傍らの神楽と理比古が言葉をそろえてくるので鰍は思わず目を剥いた。 そろそろ被害者の会辺りを立ち上げても許されるレベルで巻き込まれている自分が諸悪の根源にされるとかなにそれどんないじめ。というか神楽に関してはお前が言うなと肩を掴んで揺さぶりたい。 ここは愉快犯ばっかりかと頭を抱えたい気持ちになったが、 「ふふ、楽しそうですね。皆でお餅をついて、美味しく食べましょう」 やる気満々の真遠歌が素手のまま飛び出して行ったので、 「ちょッ、真遠歌!」 大慌てで自分も駆け出す。 自分より強い鬼の子に心配など無用と知っているが、それでこその親馬鹿、それでこその鰍である。 「俺が囮になる、真遠歌はあいつを頼む!」 「はい、どうぞお気をつけて」 「大丈夫だって。それに、何かあっても助けに来てくれるだろ?」 「……もちろんです」 微笑みを浮かべる真遠歌が可愛すぎてその場で悶絶死ののち転生しそうなくらいの通常運転ぶりを発揮する鰍だが、こちらに気づいた喪血ノ王がすさまじい咆哮を上げたので臨戦態勢を取った。 「鎖は効かない、どころか自爆行為。ってことは、逃げに徹するのみ!」 前回前々回の喪血ノ王と、今回の喪血ノ王、羅倶那禄は、種族こそ同じだが品種としては違うモノである。……そのはずだ。 しかし、遺伝子のレベルで刻まれた何かでも存在するのか、鰍を認識するや、喪血ノ王はわき目もふらず、猛烈な勢いで彼へ突進した。 身の丈五メートルにもなる糯米の塊というのはけっこうな視覚的インパクトがあり、鰍は全力で逃げの態勢に入る。正直、飲み込まれるのも踏みつぶされるのも遠慮したい。――したいのだが、なぜか喪血ノ王は鰍しか目に入っていないとでも言うように、執拗に彼の背を追い続ける。 「何で俺ばっかり!?」 「喪血ノ王を引き寄せるフェロモンでも出てるんじゃねぇの?」 「もてもてだね、かじかじさん」 餅つきがしやすいように、と杵を水に濡らしている主従が交互に言い、全力でダッシュしつつ鰍は裏拳を放つ。 「茶々入れてる暇があったらあんたらも働こうぜ!」 喚いた鰍の背に、異様な角度で伸びた喪血ノ王の『手』が届くより、 「……行くぞ、ハルカ」 「了解。糯米の粒々がなくなるまで、だったよな」 ふたりの強化兵士が立ちはだかるほうが早かった。 アキは杵を念動で強化している。 ハルカの周囲には、九本の杵が浮かび、くるくると回っている。 「美味い餅になってくれよ、っと……!」 気合とともにアキが踏み込み、鞭のようにしなる『手』を躱しながら喪血ノ王の横腹辺りに杵を叩きつける。しゃげえ、と咆哮した喪血ノ王がアキを捕らえようと腕を振り回すが、それらはハルカがリズミカルに打ち付ける九本の杵によって阻まれる。さらに、十本目の杵を手にしたハルカが、見かけによらぬ怪力で喪血ノ王を搗きはじめた。 十数回、表面がひしゃげる強さで杵を叩きつけたあと、水気がなくなって粘り始めた杵を洗うため一時撤退するふたりの横から、真遠歌とルンが突っ込んで行く。 ルンは対喪血ノ王用に強化された杵を持ち、真遠歌は素手だ。 対喪血ノ王用強化杵は、ターミナルにも少なくなく存在する、あまりの怪力ゆえに通常の得物や道具を壊してしまうロストナンバーにも対応できる、非常に頑丈だが扱いやすい代物である。 驚くべき怪力のルンも、これならば力の入れ過ぎで破壊することなく餅を搗くことが出来るだろう。 「ルン、もち、つくる! 熱々のもちつくる! 早くもちになれ!」 足を止め、力いっぱい踏み込みつつ、手の動きが見えないほど早い、渾身の力のこもった連打を喰らわせる。杵は残像さえ伴って喪血ノ王へと吸い込まれ、その身体をひしゃげさせた。その撃ち込みの数、実に数十回。 しかし、それだけ搗くと、杵には餅が付着し、動かしにくくなる。 そのことに気づいたルンは、数十発を叩きつけたところで跳躍して離れ、杵を水に突っ込んで洗った。 「美味しいもの、つくる、たいへん」 以降、連打する、杵を洗う、また連打するを延々と繰り返してゆく。 真遠歌は、もとの世界へ帰ることよりも家族といることを選んだ。 0世界には、自分を愛し、大切にしてくれる人たちがいるから、今はとても幸せだ。それゆえに、あえて故郷を探そうとも思っていない。 この先、さまざまな背景を持つ人々と出会い、いろいろな世界へと赴き、あれやこれやの事件が起きるだろうと考えるとわくわくする。たとえ、何があっても家族はずっと家族なのだと信じている。 だから、0世界を、ターミナルを選んだことを後悔はしていないし、これからもすることはないだろう。 「真遠歌、無理はするなよ!」 義父、鰍からの声に頷く。 ルンが杵を洗うために離れた瞬間、真遠歌は突っ込む。 彼は杵を持っていない。 というのも、真遠歌は喪血ノ王を相手にすることそのものに慣れ始めていたのだ。そのため、あえて素手で、正面からこねに行ってみようと思い立ったのである。 真正面から挑んだ真遠歌を、喪血ノ王は当然ながら飲み込もうとした。 恐ろしげな牙の並ぶ――ちなみにその牙がいったい何で出来ているかは判然としない――口ががばあっと開き、真遠歌を一飲みにしようとする。 「真遠歌!」 「真遠歌さん!」 鰍と、顔見知りである理比古から警告の声が飛んだ。 しかし、真遠歌は穏やかに微笑んで、喪血ノ王の腹めがけて突っ込んだ。そして、熱々の喪血ノ王を両腕で担ぎ上げ、 「よいしょ、っと」 どこかあどけなくすらある掛け声とともに、その大きな身体をひっくり返してしまった。見かけによらぬ膂力を持つ、鬼の子たる真遠歌だからこそ出来る芸当である。 「さすが真遠歌! すっげぇな!」 鰍が盛大に拍手を贈る中、ひっくり返された喪血ノ王はじたばたともがいている。意外な弱点であるが、この魔法生物兵器的な穀物は、自ら起き上がるということは苦手であるらしい。 「まあ、普通は思わねぇよな、あのサイズの糯米の塊を引っ繰り返そうなんて」 「そもそもそれが実践できる人間はそうそういないと思う」 強化兵士ふたりも感嘆することしきりである。 じたばたと蠢く喪血ノ王を、杵を手にした面々が四方八方から打ち据える。ぺったんぺったん、どっすんどっすんという、ここだけは和やかな、普通の餅つき風景であるかのような音が響いた。 「しかし、ラグナロクってなんかロクでもねぇイメージしかないよな……絶対最終兵器みたいなの持ってるだろ……」 そんな中、アキはなんとなく不吉なものを感じて警戒している。 「神々の黄昏かあ……そもそも北欧神話は全体的にものがなしいし、殺伐とした土壌を感じるけどね。あの時代に生きた人たちは、その神話を通して何を見ていたんだろうね」 さまざまなことがらに造詣の深い理比古が、餅つきに勤しみつつそんなことを言えば、合いの手のように水を撒きながら、虚空も相槌を打つ。 「あの辺りは環境的な意味でも厳しかったんだろうなあとは思うよ。環境の厳しい地域の宗教は、人間がまとまるためって意味で厳しい教義の場合が多……アヤ、危ねぇ!」 言葉が半ばで途切れたのは、唐突に膨張した喪血ノ王が、触手めいた『腕』を無数に伸ばして周囲の人々を捕らえようとしたからだ。 というか、運悪く至近距離で――何せ彼のトラベルギアはお盆なので、至近距離からしか攻撃が出来ない――餅を搗いていた梓と、少し離れた場所にいたはずなのに「これがデフォっすから」とばかりに伸ばされた『腕』に巻きつかれ、問答無用で引き寄せられた鰍は、すでに半分くらいとっ捕まったも同然である。 「ぎゃーッ!?」 「っていうかなんで俺!? もっと近場に、捕まえやすそうなの、いたよね!?」 さらに、間一髪で主人を庇った虚空も、ほかほかの餅触手に絡め取られ、引き寄せられている。 「あっつッ!?」 喪血ノ王はというと、触手の『腕』で搗き手を牽制しつつ、ゆっくりとうねるように――見ていると若干気味が悪い――身を起こし、例の、きしむような咆哮を響かせた。 ぞろぞろと牙の生えそろった口が、大きく開かれると同時に、餅触手は捕らえた三人を持ち上げた。そして、獲物を口へ運ぶ。 当然、獲物たちは大騒ぎである。 「喰われてたまるかあああああああ!」 必死の形相の梓が、喪血ノ王の口周辺にしがみつく。そこへ、半分くらい飲み込まれた鰍が下半身にしがみつき、道連れにしようともくろむ地獄絵図が展開されている。 「なにこれすっごいねばねばする! っていうか伸びる! 掴んでる意味が行方不明! そして熱い!」 どうにか踏ん張ろうと、普段ののんびりした様子からは想像もつかないようなガッツを発揮する梓だが、なにぶんつかまる場所がつかまった先から伸びるため力の入れどころがいっさいなく、更にいうなら口の奥へ押し込まれつつある鰍が必死でしがみつくため、彼の身体も徐々に沈んでゆくのだ。 「ちょっ、なに引っ張ってんですか鰍さん! そこは『俺のことはいいからお前は生き延びろ』って手を放すのが美談ってもんでしょ!」 「馬鹿言え、俺だけ二回も三回も飲み込まれるなんて不幸、絶対に認めるか! おまえも来いよ、餅の深淵に……!」 「カッコいいようでいてまったくカッコよくない、餅の深淵! というよりすぐ近くに底がある気がして仕方ない! 喰われるならひとりで喰われてください俺は逃げ延びます骨は拾って供養してあげますから!」 「やなこった! 逃がさねぇ……お前も不幸になれ……!」 醜くも間抜けな足の引っ張り合いを繰り広げるふたりを助け出そうと、周囲の面子が苦戦しているのが見える。一気に膨張した喪血ノ王は、身の丈はそのままに、横幅が数倍にまで膨らんでいて、ふたりのところまで杵が届かないのだ。おまけに、特殊能力は効きづらいときている。 そして、さらに、獲物ふたつがなかなか咽喉(?)を滑り落ちて行かないことに業を煮やしたか、餅触手がもうひとつの獲物を強引に突っ込んできて、必然的にふたりは口の奥へ押し込まれる。 もうひとつの獲物とは、当然、虚空のことである。 「ちょっ……待っ……!?」 「ぎゃああああ、落ちる落ちる、飲み込まれる! 虚空さんあんた最年長者なんだからもうちょっと踏ん張ろうぜ!?」 「えっそこだけ年長者とか言われても!? いやこの場合悪いのは俺なのか……うん、ごめん……!?」 餅触手にぐいぐい押されて、男三人、もろともに口の中へと転がり落ちる。 熱いわねばねばするわ狭いわで散々である。 「あつつつつつッ! すっごい熱いコレ! っていうか俺たちどうなるの、このまま餅に消化されて餅になるの!?」 「やめてくれ、すごいもん想像しちまったってか、そんな餅真遠歌には食わせらんねぇ……!」 「判断基準がそこっていうのが鰍さんらしいけど、突っ込むところは間違ってるからね、それ!」 喪血ノ王の腹の中でもごもご動きつつ、外から聞いていると「なんか、放っておいても大丈夫なんじゃ……」という気持ちになりかねない、ある意味のんきな会話を繰り広げるふたりである。 それでも、真遠歌やルン、アキとハルカが三人を救出すべく、外側から衝撃を与えるなどを試みる中、相変わらず泰然自若の蓮見沢家当主は、のんびりと喪血ノ王へ――正確には、その内部のしのびへ――話しかけている。 「虚空、大丈夫? 熱そうだけど」 「そりゃ当然熱いよ、蒸かしたての糯米だからなこれ!」 「でも、餅の中から餅が食べられるとか稀有な経験のような気もするから、試してみるのはどうかな」 「お前ならたぶん本気でやるだろうけど俺は遠慮する! とりあえず早いとこ助けようぜ、そろそろ泣けてきた!」 まったく悪びれず、あさって方向の提案をする理比古に、虚空の声が疲労を孕む。半面、鰍はやけに堂々としていた。 「まあ、そう心配すんな、すぐに助けてもらえるから」 「……何でそんな自信たっぷりなんだよ」 「そりゃあれだ、真遠歌が俺を助けに来てくれないなんてこと、あるはずがないからさ」 「親馬鹿だな」 「あんただってご主人馬鹿じゃん」 「なるほど、うまいこというなぁ」 「だろ」 「ふたりとも、意気投合するのはいいけどまず外に出てからにしよう!?」 ついついほっこりするふたりに、梓の盛大な突っ込みが入った辺りで、外側に動きがあった。 「遅くなってすみません、今助けます!」 思い切り喪血ノ王と組み合い、楽しげに拳を叩きつけ続けていた真遠歌の声だ。彼は夢中で喪血ノ王を叩いていたので、鰍が呑みこまれたことに気づくのが遅れたのである。 「うん、ありがとう真遠歌。大丈夫だ、お前も気をつけてな」 餅内部の鰍がデレデレになっていることは明白で、理比古が仲よし親子っていいねなどとほのぼのと拍手する中、 「……届かないなら、届かせるまで」 真遠歌は拳を握り、目にもとまらぬ勢いで打ち付け始めた。 「ルン、手伝うぞ!」 ルンがそれに倣い、平面に対して均一に杵を叩きつければ、餅は少しずつ伸ばされ、平らになってゆく。面積が伸びるということは、厚さは減るということだ。アキやハルカも加わり、均一化が進められて――衝撃が届くらしく、内部からは時々悲鳴が上がった――餅が徐々に伸びて行くにつれ、内部に取り込まれた三人の姿、かたちが、うっすらと見え始めていた。 「どなたか、一番薄い場所から切り開いて、助けてあげてください!」 餅が伸縮し、戻ろうとするのを防ぎつつ、真遠歌が呼ばわる。 と、そこで現れたのが、たいへん残念な助っ人そのいちである。 「飲み込まれた? あの白いものに? ――それは、一大事だ」 現れたのは、先ほどまで店内で作業の手伝いをしていたらしい一衛だった。 覚醒して数年が経ち、有機生物の何たるか、生態の何たるかについての理解が進みつつある黒の夢守だが、餅つきに関する情報は実感として備わっていない。 そのため、 「離れていろ――微塵に刻む」 夢守周辺に浮かび上がった、楔型をした漆黒の刃、【賢者の鋼】は、明らかに対象を殲滅するための凶悪さを宿してきらりと煌めいた。殺る気満々である。――ただし、本来なら「殺す気か」などと突っ込むであろう対象は、喪血ノ王の腹に入っているため、 「一衛、やりすぎには注意してね。三人が細切れになっちゃったら、ちょっと困るから」 理比古がおっとりとたしなめる程度で済まされるのだった。 「ちょっとどころじゃなく困るからな、それ!」 とはいえ、さすがに聞こえていたらしく、喪血ノ王の中からは当然、クレームがついたが。 「判った。対象を喪血ノ王に限定、範囲を設定。救出活動を開始する」 演算の完了とともに、無数の楔が打ち出される。それはエネルギーの波をまといながら喪血ノ王へと殺到し、白くうねる餅の塊を次々に斬り裂いてゆく。餅は、わずか一瞬で賽の目に刻まれ、宙を舞った。 「あああああ危ねぇッ!?」 餅の熱気でほどよく赤くなった虚空と、 「うう……しばらくの間はお餅がトラウマになりそう……」 いつものウェイター服に餅をこびりつかせた梓が半泣きで転がり出てきたあと、相当奥のほうに押し込まれていたおかげで餅に絡め取られ、身動きできなくなっていた鰍を、真遠歌がその怪力で抱え上げ、強引に餅を引き千切って救出した。 「餅は怖いもの。梓覚えた」 疲労困憊の体で遠い目をする梓を後目に、 「よし、畳み掛けるぞ!」 アキが言うと、ハルカは頷き、杵を構えた。 そう、喪血ノ王はしょせん糯米であり餅なので、斬り裂いたところですぐにくっついてしまうのだ。つまるところ、戦いは続行中である。 「ま、まあ、だいぶ餅に近づいてきたみたいだし、あとちょっと、か……?」 救出され、ぐったりしながらも様子を伺う鰍を、真遠歌が背後に庇う。 ――喪血ノ王は、呻き、唸り、咆哮しながら、その巨体をくねらせ、少しずつもとの塊へと戻りつつある。 「……下がっていてください、父さんはわたしが護ります。傷つけさせはしません、絶対に」 真遠歌が宣言すると、 「真遠歌、立派になって……! あっやばい、感動のあまり泣けてきた」 当然のように、涙ぐむ鰍を生暖かい視線が見守る、わりといつも通りの事態が展開される次第となる。 「真遠歌がそんだけがんばってんのに、俺だけ休んでるわけにはいかねぇ。行くぞ、真遠歌!」 感動のあまり力が湧いてきたのか(※通常運転)、杵を拾い上げた鰍が喪血ノ王へと突っ込んで行く。 「あっ、待ってください、父さん!」 真遠歌も、慌ててそのあとを追った。 「……懐かしいな。それほど前のことでもないのに、すごく懐かしい」 ハルカ・ロータスは、少ししんみりしながら喪血ノ王と対峙していた。 彼が、相棒のアキとともに、無印の喪血ノ王と戦ってから、まだ数年ほどしか経っていない。しかし、別れの気配をひしひしと感じるターミナルにおいて、懐かしい思い出は、奇妙な感慨を伴って、ハルカに迫るのだった。 念動で頭上に浮かべた九本と、自分が手にした一本、計十本の杵での、千手観音方式とでも呼ぶべきやり方で突っ込みつつ、 「効率的な能力の使い方、か……」 ハルカもまた、故郷へ帰還するときのことを考えている。 覚醒してから今まで、非常に燃費の悪い自分の能力を補助し、支えてくれていたトラベルギアは、再帰属すれば使えなくなる。しかし、ESP能力はこれからも必要だ、特に、彼らの望む『世界』をつくるには。 そのためハルカは、強大ではあるが自分を削るという厄介な側面を持つ能力の、言うなれば軽量化に勤しんでいるのだった。 「なんか、いい方法、見つかりそうか?」 とん、と跳んで喪血ノ王の攻撃を避け、傍らへ寄った相棒が言うのへ、少し笑ってみせる。 「糸口は、掴みつつある、かな」 体力、持久力をつける取り組みは進めている。 それは、特別難しいことではない。要するに、よく食べてよく寝て、よく運動するというだけのことだ。 なにせハルカの世話の全般を受け持つアキは凝り性で、しかもハルカの食生活をはじめとした日常の営みに対して、並々ならぬ情熱を持っている。覚醒してから自覚したという世話焼き属性に加えて、とてつもなく器用なうえ、家事全般が大好き、ハルカの健康管理がすでに趣味の一環という母親っぷりである。 これで、心身が健やかにならないはずがない。 そのためハルカは、自分の下地がどんどん頑健に、強靭になってゆくのを、実感を伴って理解している。 「糸口?」 「そう。今まで、出力を上げすぎてたんじゃないかなって。出力は小さく、発現は大きく出来れば、負担は減らせる」 「なるほど、そうかもしれねぇな」 具体的には、例えば瞬間移動の場合、以前までのハルカは『その場の空間ごと』跳んでいた節があった。それを、『自分と、自分が設定した対象だけ』跳ぶようにすることで、負担を軽くできないか、という理論である。 念動や発火能力もしかり。 そしてそれは、彼らがここ最近に受けた依頼などで証明されつつあった。 「……もうそろそろ、帰り路が判る、そんな気がする」 「俺もだ」 「0世界もターミナルも、ロストナンバーのみんなも、好きだけど」 「俺たちは、やるべきことと、つくりたい未来を見つけた。――そうだな?」 「うん、アキ。だから……今の時間を楽しみながら、この光景を目に焼きつけておこうって、思うんだ」 覚醒という、長い長い休み時間をもらった。 その中で、ハルカは、考えるということ、望むということ、自分の意志で行動するということを学んだ。 覚醒した当初、戦闘の依頼と勘違いして受けたブルーインブルーへの旅行で、『くつろぐ』ことが判らず突っ立っていた、心のない操り人形のような強化兵士はもういない。 「行こう、アキ。あれを餅にしたら、喜ぶ人がたくさんいる」 「そうだな」 今やすっかり自由になった強化兵士たちは、杵を手に、再度の攻撃を仕掛ける。 最初から餅しか見ていないルン、親子連携にときめきまくりの鰍と真遠歌、真正面から突っ込んで行く理比古に気が気ではない虚空という凸凹主従も、最後の仕上げとばかりに杵を揮っている。 そこへ、がったんばったんどたんごとんなどという派手な音が響き、 「すみません、通してくださいすみません!」 盛大に引っ繰り返った声とともに店内から走り出してきたのは、火城に相談があると言ってきていたヒイラギだった。 「どうしたんですか、何かあっ……えッ」 振り返った梓が絶句する。 他の面子も思わず息を飲んだり鼻水を噴いたりもらい泣きをこらえたりした。 なぜなら、ヒイラギは、ひらっひらでふりっふりの、リボンとレェスとフリルによって飾られた、魔女ッ娘衣装に身を包んでいたからだ。 ピンクや赤を基調とした暖色系のそれは、仕立てもよく、色鮮やかさ美麗さの中に上品さもあって、たいそう美しい。――着るものが、柔和そうな雰囲気を漂わせているとはいえ、どこからどうみても男性にしか見えない、ヒイラギでさえなければ。 「いや、似合っているぞ」 「気休めはよしてください」 人間の美的感覚からは遠い一衛がフォローめいた言葉を発するが、案の定、当人に亜音速で却下された。 証言1:店内ではゲールハルトが掃除に精を出していた 証言2:ヒイラギの、ユエへの想いに感動して身を震わせるさまが目撃されている 証言3:今日もビームは絶好調 ――ということで、魔女ッ娘ヒラリーたんの爆誕となった次第である。 「ふふ……そうですか、そうだったんですね……」 ヒイラギの眼は猛烈に遠くを見ている。 「今いくと、何となく、貴重で思い出深い体験するかもしれない、と口籠られたのは、これですか……いやいや、そこは全力で教えてくださいよ、ユエ様ーッ!」 かと思うと、唐突にあさっての方向へと叫び、 「いやあ、ははは、か、身体の線が出すぎですね、これでは視覚への暴力です。いや、参った参った」 いつもクールなヒイラギさんが、バチャバチャと目を泳がせながらやけに早口で言うさまに、被害者友の会の面子が思わず目頭を押さえる。 「それにほら、布地は薄いし裾も短すぎるしで、これでは武器や薬を隠せません。困りますよね。ああ、でもこのリボンと髪留めは暗器として使えるでしょうか。うん、それはいい案ですね」 いったい誰に言い聞かせているのか、冷静なようでいて冷静ではないいくつかの独語のあと、魔女ッ娘ヒラリーたんはトラベルギアを手に喪血ノ王と向き合う。ちなみにこのトラベルギア、使用すると七色の光と星とハートが散る。 「と、とりあえず、餅が搗きあがらないと帰ることすら出来ないようなので、まずは喪血ノ王成敗に助太刀させていただきます! 死なばもろとも!」 最後の文言が若干おかしいが、今のヒイラギ的には、これほどしっくりくるものもなかろうと推測され――おそらく今の状況を主に目撃されたら世界樹の天辺から飛び降りる――、被害者たちはふたたびもらい泣きしそうになったという。 ともあれ、餅つきの何たるかをあまり理解していない黒の夢守を含めた住人が、四方八方から攻め立て、搗きまくった結果、喪血ノ王の表面はすっかり滑らかになり、まるで絹のような美しい光沢を見せ始めていた。 完成まで、あと少しといったところだろうか。 「よし、とどめだ。ホリさん、頼む!」 鰍が言うと、彼の肩の上へと駆け上がったフォックスフォームのセクタンが、最大出力で炎を出現させ、喪血ノ王へと撃ち放った。 「あ、なるほど。ヒンメル、お前も手伝え!」 虚空が促せば、彼のセクタンもホリさんに倣った。 じりじりと炎に焦がされて、餅がいい具合に膨らんでゆく。 その辺りで、ようやく、喪血ノ王は動きを止めた。 完全な餅になり、力という力が抜けて、ゆっくりと崩れ落ちていく純白の餅を慌てて掬い上げ、全員で厨房へと運ぶ。 美味しいもち料理にありつくまで、もう、それほど時間はかからないだろう。 Ⅲ: 梓は、何とも言えない表情で餅料理をつくっていた。 ホワイトソースに白味噌を混ぜ、ネギやきのこ、金時人参を加えて、たっぷりのチーズとともに焼いた餅グラタンや、薄く伸ばした餅にトマトソースを塗り、薄切りにした野菜やソーセージ、ベーコン、サラミを載せ、やはりたっぷりのチーズとともにこんがり焼いた餅ピザなどをつくりつつ、時々遠くを見ている。 「ついさっき俺を食べた餅を食べるって、なんというか、複雑な気分……」 「ああ、何というか、哲学的だよな、ある意味」 虚空は虚空で、餅にやられて身体のあちこちを火傷したため、湿布だのガーゼだのを貼られた出で立ちで、これまた餅料理に精を出している。 「虚空さん、それ何ですか?」 「これか? 揚げ餅の吸い物仕立て、鴨の照り煮添えだ」 「うわ、うまそう」 「梓の、そっちのは?」 「これ? 豚ばら肉とれんこんの炊いたのに、焼き餅を添えてみたんですけど。ちょっと煮たら味が染みてよさそうですよね」 「そりゃ、うまくないはずがねぇってなもんだな。聞いたんだが、あんた、0世界に店を出す予定なんだって?」 「あ、そうなんですよ。機会があったら食べに来てくださいね」 「もちろんだ」 言いつつ、虚空は、ご主人様のリクエストであるところのぜんざいをこしらえている。梓も虚空も、とにかく手際がいい。もっとも効率的な方法で食材を処理し、火を使い、仕上げるすべに長けているのは、長年料理に携わってきたものの特徴と言えた。 そのころ、虚空のご主人様はというと、真遠歌と鰍とともに、七輪の番をしていた。炭の、火力の様子を見つつ、納豆を練っている。傍らでは真遠歌が、すさまじい勢いで大根おろしをつくっているし、鰍は網の上の餅をちょうどいいタイミングで引っ繰り返す作業に従事している。 「真遠歌さん、そっちどう?」 「よい具合にすりおろせそうです。父さん、お餅はどうですか」 「おー、そろそろいいんじゃねぇの? 真遠歌、お前どういう食べ方がいい?」 「ええと、チヂミというものがおいしいと聞いたので、それと、お好み焼きと、あと、餅巾着というのが食べてみたいです。難しいですか?」 「いや、大丈夫だ。あっちの料理人に頼めば何とかなる」 「だね。梓さんだっけ、すごく手際がいいよね。彼が0世界にお店を開いたら、ぜひ食べに行きたいなー」 「焼けたぜ、ほら」 七輪の上でぷくっと膨らんだ餅を、鰍が寄越す。 真遠歌は、大根おろしに醤油を入れたもので餅を和え、理比古は葱をたっぷり入れた納豆で餅を包み込む。鰍は、「シンプルなのもうまいぜ」と、醤油を塗った餅に海苔を巻き、真遠歌へと差し出した。 その間に、凝った料理担当の面々が、ちょっと芸術的ですらある餅料理の数々を仕上げ、テーブルへと運んでいる。 大まかに出揃ったところで、皆で「いただきます」となった。 ルンは旺盛な食欲を発揮し、次々と餅にかぶりついている。 焼いた餅に醤油をつけたもの、きな粉をまぶした安倍川、海苔を巻いた磯部、チーズとソーセージを巻いて揚げたものなど、片端から試しては上機嫌だ。 「うまい、餅うまい。これ、ターミナルで育ててほしい。ルン、毎日やりたい。駄目か?」 「却下だ」 喪血ノ王をターミナルの農園で育ててみないかと提案し、火城から、一撃のもとに却下されている辺りも、通常運転と言えた。 「お疲れ、料理人さんたち。いっぱい食べてね。あ、一衛も食べようよ、おいしいよ?」 理比古は、皆に料理が行き渡るよう気を配ったり、食べることにはまだ慣れていない黒の夢守の世話を焼いたりしながら、自分も餅を堪能している。 「虚空、ぜんざいに栗の甘露煮、入れて」 「言うと思って入れたよ」 「虚空、追加のお餅焼いて、次は砂糖醤油がいいな」 「言うと思って焼いたよ」 「虚空、あと力うどんが食べたい」 「言うと思って以下略。お前ほんとよく喰うよな……あの質量はお前のどこに入っていくんだろうなあ……」 以下、エンドレスである。 その傍らでは、まだ魔女ッ娘化が解けないヒイラギが、三角座りで、魂を飛ばしつつも餅を食べている。 「何というか、うん、やたらと美味しいのが余計にやるせない……ですよね……」 当然、被害者の面々は、同情のあまり涙をこらえる次第である。 そんな中、真遠歌は終始笑顔だった。 「お餅、とてもおいしいですね、父さん。この、チヂミというものは、初めて食べましたが、歯ごたえが好きです」 「そうか、ならよかった。ほら、こっちのおろしイクラ和えも美味いぞ」 「はい、いただきます。今日は、がんばった甲斐がありました。お腹が空いて、みんなでおいしいものをいただけて、とても嬉しいです」 目元は面で覆われているが、鬼の子が豊かな表情を見せていることは判る。 「そっかー、だよな、楽しかったよなー」 そんな真遠歌が可愛くて仕方ない鰍は、先ほどの騒動というか、自分が受けた被害のことなどすでにすっかり忘れた体で、デレデレになりながら餅料理に舌鼓を打っている。 「うん、うまい。これ誰がつくったんだ?」 何かの貝類が入った塩味の汁に焼いた餅を沈めたものをひと口食べ、鰍が周囲を見渡すと、アキが「俺俺」と手を挙げた。 「そういやあんたも好きなんだっけ、料理。みんな上手だよなあ……ってか、これ、なに?」 「いちご煮っつーてな、鮑とウニを贅沢にうしお汁にしたってぇ、郷土料理だ。そいつに焼いた餅を入れたら、そりゃうまかろうってこったな」 「まあなぁ。餅の役者がいいもんな。真遠歌、お前も食うか? うまいぞ?」 「はい、いただきます。お餅は、お汁に入っていると、馴染みがあって懐かしい感じがしますね。――ああ、これはとても、おいしいです。お兄さんにも食べさせてあげたい」 うしお汁をひと口啜り、真遠歌が笑顔になる。 その笑顔があんまり無垢だったもので、鰍は、 「うん……なんつーか、真遠歌が幸せならもう何でもいいやって思えてくるよな……」 我が子可愛さに、今までの苦労を、それはもう思い切りよく、すべて水に流すのだった。 ――結論で言えば、親馬鹿フルスロットル、というところに落ち着くだろうか。 皆の食欲が一段落したところで、アキは、ひと口大に切って揚げた餅にきな粉と黒蜜をかけ、デザートとして饗した。 いちご煮の雑煮が好評だったのもあって、アキは上機嫌である。 「ハルカ、梓がみたらし餅つくってくれたぜ、食えよ」 「うん、ありがとう。やっぱり、喪血ノ王の餅は美味しいな。こういうの、食べるって楽しいんだって判らせてくれるから、偉大だ」 ついでに言うと、すでに呼吸より自然に、ハルカの世話も焼いている。 その辺りも一段落して、梓とレシピについてあれこれ話し合っていた火城が、皆に熱々のほうじ茶を淹れてくれた。 茶を啜り、ほっこり息をつくと、 「あんたたちは、故郷が見つかったらすぐ?」 皮をむいたりんごを饗しつつ、火城が問うたので、頷く。 「やることが、山積みでさ」 ハルカも、朴訥に頷いた。 「時々、もうそろそろお別れなんだなあって、しんみりする」 「そうだな。俺たちのほかにも、旅立つ奴らはいて、お互い再帰属したらもう会えなくなるからな」 それは、多くのロストナンバーが感じているだろうことでもあった。 郷愁と、還れることへの喜び、別れへの寂しさ、そのすべてが彼らにはあって、時おり、足を止めさせる。 しかし、時間は、運命は流れ始めたのだ。 それぞれが、それぞれに、自分の意志と想いに従って、歩きはじめなくてはならない。 「そうか、寂しくなるな」 「うん……だけど俺、0世界や、ロストナンバーのみんなのお陰でいろんなことを知ったから。いろんなことに目覚めたし、気づけたから。さよならは寂しいけど、ここにいっぱい、詰まってるから、恐れずに旅立てる。――アキも、いるし」 胸を差し、なすべきことへの決意を載せ、ハルカが言う。 アキは微笑んで、ハルカの肩を叩いた。 それから、一同を見渡す。 「旅を続けるやつらも、少なくねぇんだよな。まだまだ先の話だけど、いい世界にしていこうって思ってるから、よかったら遊びに来てくれよ」 周囲からは、笑顔とうなずきが返った。 「うん、遊びに行くよ。ふたりがつくろうとしている未来が素敵なものだって、信じてる」 「そうだな、見聞を広めるって意味じゃ、悪くないかも。な、真遠歌」 「はい。お兄さんもいっしょに、行きましょうね」 温かな返答に、強化兵士たちが微笑む。 これから先の、続いてゆく――築かれてゆく未来を髣髴とさせる、静かな時間が流れてゆく。 ――ちなみに、魔女化が解けるのに三日を要した魔女ッ娘ヒラリーたんことヒイラギは、その間、「ユエさまに見られたら私は死にます」と悲壮な顔で『エル・エウレカ』の従業員用控室に引きこもったそうな。 2.未来、それぞれに 戦争は、もはや個人の力では不可避という切羽詰まった状況となっていた。 ロストレイル13号が0世界のターミナルに帰還し、ロストナンバーたちの故郷探しが活性化した数年後のことである。 フォッカーの故郷は、彼が覚醒する以前から、軍事国家への道を歩みつつあった。 もともと、フォッカーの故郷の人々は、勤勉で生真面目な国民性を持っていた。そこへ、カリスマあふれる指導者が出現したことにより、軍部の台頭が顕著となったのだ。 そもそも、かの国は、先の大戦で敗北を喫して以降、国の再興を切望していた。 指導者は、貧しさから脱するためには戦争しかないと説いた。 祖国の栄光を、尊厳を取り戻すため――豊かさを手にするため、今こそ立ち上がる時、と。 人々は熱狂した。 そして、熱に浮かされたように、戦争への道を突き進んだのだ。 同時に、もとから根強かった黒猫への差別がさらに深まり、フォッカーをはじめとした黒猫たちにとっては、さらに住みにくい国となっていた。 「それでもおいらの生まれたところにゃ。大事な家族がいる、帰る場所にゃ」 軍靴の音が日ごと大きくなるある日、フォッカーは故郷へと帰還した。 もはや彼の生存を諦めていた家族は――そう、日ごろから仲の悪かった弟ですら――フォッカーの帰還を喜んだ。貧しい農民の一家は、それでもとっておきのブドウ酒ととっておきのご馳走で、お互いの無事と健康を喜んだ。宴と語らいは、同じ黒猫である近所の人々も交えて夜遅くまで続いたという。 しかし、喜びばかりの帰還ではなかった。 その一週間後には、祖国が隣国への侵攻を開始。 周辺国家が非難声明を発表し、対抗宣言を出す中、フォッカーたちの村にも、戦時のものものしい空気が充満し始めたのである。 (壱番世界のような、世界全域を巻き込んだ戦争が始まるのかにゃ。いっぱいいっぱい、人が死ぬのかにゃ) 自分の世界が、壱番世界とよく似た歴史を辿っていることを知ったとき、フォッカーは悩んだものだ。 しかし、神のごとき力を持つロストナンバーたちの、深い介入――それこそ、世界そのものをつくり変えてしまうような――を恐れ、世界図書館への支援の要請をすることはなかった。 自分の世界のことは、自分たちで。 ――たとえ、そのために、祖国が大打撃を受けるにしても。 しかし、それは異世界を見たがゆえに認知の上がったフォッカーの弁である。彼の家族や友人、祖国の人々は、そうは思わないかもしれない。何より、祖国の大半、特に黒猫ではない人々は、自国の勝利を疑ってはいないのだ。 (だけど、たぶん、そうはならないのにゃ) ロストナンバーとして異世界中を旅した経験を活かして、フォッカーは自分なりに今回の戦争について調べた。その結果、自国と同盟国が、壱番世界の第二次世界大戦同様、徐々に不利な状況へと陥ってゆくであろうことが見えてきたのである。 (戦争には勝てないにゃ……きっと、敵も味方も関係なく、たくさんの人が死ぬのにゃ) しかし、差別の対称である黒猫のフォッカーが何を言ったところで、耳を傾ける人々がいるとも思えない。 (戦争を止めることはできないにゃ。誰にも、どうすることもできないにゃ) フォッカーは悩んだ末、ひとつの結論をくだす。 この戦争が進めば、おそらく、黒猫という種族への差別や偏見は激しさを増すだろう。壱番世界では、その迫害の結果、ひとつの種族が、実に四百万人も虐殺されたという。 ――それだけは防がなければならない。 フォッカーは、同じ飛行機乗り仲間の伝手をたどり、家族や親しい人々を、説得の末、戦禍の及ばない、遠い海外へと逃がした。黒猫への差別、迫害は、何も今に――祖国に限ったことではないが、この戦争が終われば、少しはましになるだろうという希望的観測もある。 しかし、別れを惜しむ母を、弟妹を、近所の友人たちを送り出したのちも、フォッカー自身は祖国に、家に残った。 同胞を――国から出ることをよしとしなかった黒猫たちを、飛行機乗り仲間を置いては逃げられず、また、父の遺した畑を放っておくことも出来なかったのだ。 (黒猫を虐殺なんかさせないのにゃ。おいらは黒猫を護るのにゃ) 壱番世界の歴史で見た、凄惨な虐殺を避けるため、ほぼ同じ道をたどっている歴史が攻めて少しでも変わるよう祈って、フォッカーは空軍へと志願した。黒猫である自分が、戦争の役に立てば、同胞への扱いも変わるのではないか、という思いからである。 黒猫とはいえ、飛行機乗りとしてのフォッカーの腕は高く評価されており、彼はすぐ最前線へと配置された。 戦場の空気は独特だ。 そこには生と死が同居し、そしてそれらは軽々と垣根を超える。 わずかな訓練ののち、フォッカーはすぐ実戦へ投入された。かつての戦争嫌いから、まるで人が変わったように、また何かに追い立てられているかのように。フォッカーはパイロットとして、多くの戦闘機を撃墜していった。 かつての冒険飛行家が、エースパイロットと呼ばれるようになり、黒猫でありながら尊敬を集めるようになるまで、それほど時間はかからなかった。 * 黒猫のエースパイロットの出撃を、人々は歓声と敬意を持って見送った。風にあおられる森林のごとくに振られる国旗を視界の隅に見つつ、フォッカーは滑るようななめらかさで空へと飛びあがる。愛機は光を反射しながら、静かに空を舞った。 その日も、空は快晴だった。 始まって三年が経過した戦争は、フォッカーが異世界で見た歴史と同じく、世界全土を巻き込んだ大戦となっている。 祖国も同盟国も、敵対国も、この戦争の結果、何が得られるのか判らない。 大地からの資源を惜しみなく――無意味に、無制限に投入し、浪費しながら、人々はひたすらに戦い、殺し合いを続ける。最後まで立っていることが出来た勝者の手に、いったい何が残るのか、もう、誰にも判らない。 そのくらい、戦いは泥沼化しつつあった。 それでも、パイロットたちは空を飛び続けるしかないのだ。 ――しかし、最期はやってくる。 生き残りのパイロットたちが証言したところによると、フォッカー部隊長の駆る愛機は、いつも通り、淡々と敵機を撃墜していた。 黒煙を上げて墜落してゆく機体の向こう側に、敵機に追われる僚機の姿を見つけた瞬間、フォッカー機の動きがおかしくなった。 そして、敵機に追い回される僚機を庇い、双方の間に割り込むように突っ込んだ結果、フォッカー機は大量の弾丸を受けることになったのだ。 機体は炎と黒煙を上げ、爆発を起こし、ばらばらになって燃えながら落下していった。その後、帰還した仲間のパイロットたちによって、フォッカー機の撃墜が伝えられ、彼は戦死者の列に加わることとなった。 あとで聞いたところによると、追われていたパイロットは、フォッカーの幼馴染であったという。 世界の歴史を変えようと、我が身を惜しまず行動した彼の、その甲斐があったかどうかは判らない。しかし、黒猫たちへの迫害は、祖国に献身的に尽くしたエースパイロット・フォッカーの殉職もあって和らいだ。 戦争の流れ、結末も、壱番世界とは違うものになったらしい。 * * * うつくしい夕暮れのことである。 バルタサール・アンスランは、妻とともに、作業に精を出していた。 冬に備えて薪を蓄え、乾燥させた肉や野菜を貯蓄し、温かな衣類や寝具を準備する。冬は雪に閉ざされるこの辺りの、ごくごく普通の備えである。 「ねえ、あなた」 干し終えた山菜を束にして括り、貯蔵庫へと運び込みながら、 「テオドールはどうしているのかしら」 ふと、妻がそう言った。 バルタサールはそうだな、と頷く。 バルタサールが見たという鋼の竜を探すために旅立った愛息が、ある時を境に消息を絶ってから数年が経つ。生真面目な息子が、便りも寄越さないのは珍しく、ふたりは彼の安否を気遣い続けていた。 しかし、なぜか死んだとも思えず、彼らは希望を棄てないまま、息子の帰りを辛抱強く待っている。 「無事でいる。それだけは判る」 「私もよ。心配はしていないの……だけど、会えないことは、寂しいわね」 乾燥させた豆や果物を袋に詰め、干し肉、干し魚をひとまとめにして棚に積み上げる。瓶に詰めて煮沸した大量のトマトも、貯蔵庫の一角に収まった。 バルタサールは、ちょうどいいかたちに整えた薪をまとめて縛り、次々と積み上げてゆく。 不意に、 「見て!」 妻が指さすまま、見上げれば、そこには眩く煌めく竜の姿があった。 夕日に照らされた鋼の竜が、優美な肢体を輝かせ、空を滑ってゆく。 「……美しいわね」 妻がバルタサールに寄り添い、バルタサールは彼女の肩を抱いた。 「テオドールといっしょに見たかったな」 「そうね……あの子がいないことをなおさら思い知らされるわ。無事に帰って来てくれることを祈るばかりね」 その願いは、すぐに叶えられることとなった。 * 二ヶ月が経ったころ、テオドールからアンスラン夫妻へと便りが届いた。 手紙には、長年連絡を絶った謝罪と、研究資料の整理などで手続きをしているため現在身動きが取れないこと、その手続きが済み次第帰郷する旨がしたためられていた。 ふたりが喜びに抱き合ったのは言う間でもない。 それ以降、近況報告の手紙や、竜の足跡に関する資料などが届くようになる。 * テオドール・アンスランが帰郷し、帰宅したのは、長い冬も終わり、春もそろそろ終わりに差し掛かろうかという、温かい日のことだった。 「ただいま、父さん母さん」 アンスラン夫妻が竜を見てから半年が経過、テオドールが旅立ち、覚醒してから、実に五年が経過していた。 「テオドール!」 母は満面の、歓喜の笑みとともに飛び出してきてテオドールを抱きしめた。 脚を悪くしている父は、その後ろからゆっくりと歩いてきて、テオドールの肩を強く叩く。 「心配かけてごめん。でも……元気そうで安心した」 「そういうお前も、つつがなくやっていたようだ。お前のことだ、実を言うと、あまり心配はしていなかったが……無事戻って来てくれて、よかった」 その後、母の淹れてくれたお茶で一服しつつ、尽きぬ話に花を咲かせ、それが一段落したところで、ふと思い出したようにバルタサールが言った。 「そういえば、半年ほど前だったか、母さんといっしょに竜を見た。相変わらず、不思議と力強い姿だった」 父のその言葉に、テオドールはつい、彼をまじまじと見つめた。 出現時期から換算して、己をこの世界まで運んできたロストレイルであろうことは明白だ。 「あの、すぐあとだったかしらね、あなたから便りが来たのは。だから、私たち、あの竜を幸運の使者だと思っているのよ」 焼きたてのベリーパイを切り分けながら母が笑う。 湯気を立てるパイを懐かしく受け取りながら、テオドールは父の数奇な運命に思いを馳せる。 (長い長い旅になった……だけど、戻ってきた) 覚醒した当初の、帰還のあてすらなかった長旅から、まさしく戻ったばかりの自分が乗るロストレイルを、まさか父が目撃しているとは。 そして、二度も竜を目撃しながら覚醒することなく、その実在を証明するため、多くの困難に直面しながらも屈せず前へと進み続けた、父の強靭さには頭が下がる思いだった。 そして、その強靭さがテオドールを波乱万丈な旅へといざない、彼を強くしてくれたのだと思えば、更に感慨深い。 「父さん、俺も竜を見たんだ」 ゆえに、万感の思いを込め、テオドールは告げる。 「竜は実在した。俺はそれに触れた……うつくしい竜だった」 言葉とともに差し出した手を、バルトサールが取る。 無言で手を握り合う親子の眼差しには、共感と歓びとが、ただただ揺蕩っているのだった。 * * * 迦楼羅王は、今日も異世界を放浪していた。 今回、訪れているのは、ヴォロスに似た、自然と緑が豊かな、精霊や『視えざる者たち』の力に満ちた世界だった。 ロストナンバーになって何年が経ったのか、迦楼羅王自身、もう覚えていない。数える必要もない、とも思っている。 長い長い時間を旅人として過ごしてきた彼だが、元来、不老不死なので特別な感慨もないのだ。 「……豊かな世界だ。喜びと祝福にあふれるかのようだな」 ここは、神々や造物主といった“力あるモノ”たちの力が未だ色濃く残る世界のようだ。ただ歩き、空を飛ぶだけで四肢に力が漲ってくるここは、迦楼羅王のような存在にとっては過ごしやすい環境である。 「これだから、異世界の旅はやめられん」 死とは無縁であるがゆえに、迦楼羅王はさまざまな世界を渡り歩くことを心底楽しんでいた。彼にとっては、故郷の世界というくびきから解き放たれ、ロストナンバーになったことはむしろ好都合だったのである。 武神ゆえ、戦場や戦闘を好むものの、理不尽な理由で力を揮ったことはない。 ある時は、闇黒の神を奉ずる邪鬼の一党に虐げられた人間たちを救うため、彼らを助けて戦い、闇の一族を地下世界へと追いやった。 ある時は、己こそを至高と断じる傲慢な光の神に支配された世界で、生け贄に選ばれた少女を護るため、命すら賭けて悔いないと誓う人々の想いに心動かされ、天の軍団と全力での潰し合いを演じた。 ある時は、暗闇に沈んだ世界で、もはや滅亡しか残されていない人々の、哀しい花火のごとき最後の戦いに加わり、双方の最期を看取った。 ある時は、純粋であるがゆえに残酷な天使の一族が、神の意に沿わぬという理由だけで滅ぼそうとしていた『普通の』人間たちの嘆きを聴き、彼らが安全な地域まで撤退する戦いに力を貸した。 戦場は迦楼羅王を高揚させる。 しかし、人間として生きた記憶を持つ彼には、弱き者を見捨てることができない。愛した記憶、愛された記憶が、彼をただ好戦的なだけの高慢な武神に留めておくことを許さないのだ。 人間は脆い。 弱くて、ずるくて、あっという間にいなくなる。 しかし迦楼羅王は、そんな人間だからこそ愛しいのだと知っている。 迦楼羅王の戦う理念、信念とは、そういったものだった。 異世界を旅していると、遥かな昔から自分が従ってきたその信念と向き合う機会が増える。それは、悪くない気分だった。 (それに……) 深紅の翼を羽ばたかせ、迦楼羅王は空へと舞いあがる。 どこを進んでも美しい世界なら、空から一望できればさらに美しかろうと思ったのだ。 (もしも、異世界群のどこかに、『彼』の故郷があるのなら) もうひとつ、迦楼羅王が旅を続けるのには理由があった。 それは、彼が迦楼羅王という存在になる前、とある世界に人間として生まれ、生きたころのことだ。 その時の『彼』には大切なものがたくさんあった。 平凡で無力な人間ではあったけれど、『彼』は全力で周りを愛したし、周りもまた、『彼』を愛してくれた。 その記憶は、かけらほども損なわれることなく今の迦楼羅王に受け継がれており、それゆえに、内心では、かつて愛した人のいる世界を見つけ、今でもまだ『彼』を愛していること、その後の、人間としての人生は幸せであったことを伝えたいとも思っているのだった。 (逢うことは叶わないのなら、せめてあの人の故郷をひと目見るだけでも。それが、いつになるかは判らない。それでいい……時間なら、無限にある) もの思いに耽りながら空を飛んでいた迦楼羅王は、周囲の空気が変わったことに気づかずにいた。 そこが、普通の人間ならば入り込むことも出来ない、“高殿の貴人”などと呼ばれる神々の住まう天上の領域だとは気付かぬまま、迦楼羅王はなおも進んでゆく。 ――おや、これは、珍しい御仁の姿を見たものだ。 迦楼羅王の耳を、ひどく懐かしい声が打つまで、それほどの時間はかからない。 * * * 「妖婦を捕らえろ!」 「引きずり出して八つ裂きにしろ!」 淵(エン)の国の象徴とも呼ばれた、麗しき白亜の王城は、いまや天をも焦がしかねない火によって取り巻かれ、崩れ落ちる時を待っていた。 城下では、殺気立った人々が、赤々と燃える松明を手に、あちこちを走り回り、何ごとかを声高に伝え合う。 妓紹は、薄暗い藪の影に隠れながら、小さく息を吐いた。 (かようなことを、あと何度繰り返せばよいのか……) 夜更けの天は、城を焦がす炎のために、昼のような明るさだ。 (この呪わしき宿命は、いつになれば終わるのか) ワールズエンド・ステーションの発見から百数十年後、故郷が発見され、妓紹は再帰属した。 そして大国・淵の王の妃となり、王を魅了し堕落させ、暴君へと変えて、淵を滅ぼそうとしている。 正確には、滅ぼそうとした、が正しい。 愛する妃の求めるまま、贅沢な品を次から次へとそろえるため、王は民を絞り上げた。圧政に耐えかねた民衆は、軍とともに蜂起し、王権に拒絶の意志を叩きつけたのだ。――そう、妓紹の思惑の通り。 傾いてゆく国を憂い、賢君であった王の堕落を嘆いた将軍が主導し、起こした軍の反乱は、王の近衛、私兵をも味方に取り込み、あっという間に王と妃を追い詰めた。 王やわずかな従者とは、先ほどまでいっしょに逃げていたはずだったが、襲撃の混乱ではぐれ、散り散りになっていた。もうすでに捕らえられたものも、少なくはないだろう。 「寶司(ホウジ)殿……」 彼女がつぶやいた名は、夫である王のものではなかった。 妓紹は、自ら堕落させ破滅への道を辿らせたとはいえ、王にも愛着を持っている。妓紹の力に抗えず、崩れるように堕ちはしたものの、王は誠心誠意といって間違いのない熱心さで妓紹を愛したし、最後まで彼女と往くことを望んだ。 しかし、 「……数奇なものよ」 軍の反乱を主導した将軍は、妓紹がまだ人間であったころ、小国の姫であったときに喪った恋人の生まれかわりだったのだ。 ひと目見て彼だと判った。 しかし、原初の創造神、人類のつくりてである女神・女禍によって、「かつて愛した男の生まれ変わりに再び愛されない限り、未来永劫国を滅ぼし続けなければならない」という呪いをかけられている妓紹には、どうすることも出来なかった。 国など滅ぼしたくはない。 しかし、すべての運命が、彼女を傾国の毒婦へと駆り立てる。 いつも、気づけば、ひとつの国を終わらせ、追われている。 「王は捕らえられ、処刑されたぞ。お覚悟召されよ、麗姑(レイコ)妃」 数名の配下とともに、彼女の前に立ちはだかったのは、寶司将軍その人だった。 妓紹は顔をゆがめる。 (もう、どうしようもない) もう一度逢いたかった。 抱きしめて、抱き締められ、愛をささやきたかった。 しかし、それが叶う状況でないことは、妓紹が特別聡くなくとも判る。 「下賤の身が、賢しらに」 ゆえに、彼女は、毒々しく笑うのだ。 「そなたらごときの手にかかってやるのは業腹じゃが、仕方あるまい」 わざと神経を逆なでするような悪態をついてみせれば、将軍の背後に控える兵士たちが殺気立つ。 将軍は溜息をつき、腰の剣を抜いた。 「あなたを生かしておいては、民に示しがつかぬゆえ」 鋭く光る刃が妓紹へ向けて振りかぶられる。 それでいい、と妓紹は思った。 愛することも愛されることも許されないのなら、いっそその手で、と。 一条の剣閃が、己が身体へと吸い込まれてゆくのを、妓紹はむしろ穏やかな眼差しで見つめていた。 * 「ここは……」 気づけば、人里離れた山の奥だった。 簡素な庵の一角に、妓紹は寝かされていた。 「目が覚めたか」 起き上がったところで声がかかる。 そちらを見やって妓紹は息を飲んだ。 「……!?」 板の間に腰かけ、縄を編んでいたのは、寶司将軍に間違いなかった。 「そなた、」 「ああ、何も言わなくていい。すべて判っている……芙蓉」 今度こそ驚愕が席巻し、妓紹は目を見開いて沈黙するしかなかった。 それは、妓紹が狐の妖怪に転ずる前、小国の姫君として穏やかな生を営んでいたころの名前だったのだ。 「ん、驚かせたか、すまない」 聞けば、実を言うと、寶司はとある術者から予言を受けていたのだそうだ。彼は、術者の力によって、妓紹との過去を見ていた。すべてを知っていたのだ。そして、このままには出来ないと、術者の力を借り、妓紹を仮死状態にしたうえで連れ出したのだった。 稀代の毒婦・麗姑の骸は、術者が幻覚で木切れから仕立てあげ、それは「妖怪の復活を防ぐ」名目ですぐ火葬に処され、灰は粉々に砕かれて川へ撒かれたという。 妓紹には、それらの説明を黙って聞いたのち、 「寶司、殿……」 小さな声で名を呼ぶのが精いっぱいだった。 「長く待たせて、すまなかった」 武骨な腕が差し伸べられ、妓紹を抱きしめる。 一度、男の手によって死んだこと、そして再び愛されたことによって呪いは解かれた。そのことが、魂のレベルで感じ取れ、妓紹は安堵と歓喜の涙を流したのだった。 以降、妓紹は、かつての名、芙蓉を名乗り、寶司と、小さくも幸せな家庭を築いた。 そして、有限の身である彼を看取ったあとは山に篭り、神農に師事して、人々を病から救う仙女となったという。 * * * ロウ ユエが出身世界に再帰属してから二十年が経っていた。 「相変わらずのようだ。生体データ的にも大きな変化が見受けられない」 傍らの側近、ヒイラギに目をやりつつ、一衛が目を細めてみせる。 この二十年でさらに人間臭さを身に着けた黒の夢守へと、ユエは肩をすくめ、笑った。 国主の間などという格好のよい名こそついているが、実際のところはほんの少し豪奢な応接間といったところだ。国が興って数年、まだまだ足りないことだらけで、物資や労働力を割けない部分も多々ある。 「どうも、加齢が止まったらしい。異能者としてはよくあることだし、活動年齢が伸びるのはありがたいことなんだが……」 「だが?」 「もう少し老けたほうが、貫禄が出た」 「……なるほど」 一衛と同じロストレイルに乗ってやってきたロストナンバーたちは、めいめいに、ユエを国主にいただくこの国が興った際、自分が手伝い、また力を入れもした部門について担当者に尋ねることで忙しい。 「そういえば、国の名前は? 前は、決まっていなかっただろう」 「実はまだ完全には決まっていない。そらに抱かれた国、という意味で天擁(テンヨウ)にしようかと思っている」 「建国者であるユエさまの名から取って、月穹(ゲッキュウ)にしてはという案も出たのですが、当人から壮絶なクレームがつきましてね」 「当たり前だ」 ユエは溜息をついた。 「自分の名前がついた国なんて、背中が痒くなる」 「……とまあ、こういうわけです」 「なるほど」 ユエの持つ異能を使い、夜都から土地を切り取った。 そこは、もともと、夜都によって滅ぼされたユエの出身国だった土地だ。奪い返すついでに、周辺部も切り取ったので、国土は前より少し、増えた。 その土地をもとに興した国の国主に収まって、どうにか五年が過ぎたところである。 ヒイラギは当然のように傍らにいる。 養い子たちは国の基盤となって働いてくれている。ときおり、手製の菓子を持っていくと照れるのが、いくつになっても可愛いと思う。 ロストナンバーたちとは、継続的な交流が維持されている。 * 故郷へ戻った直後だっただろうか、生存者捜索の際、新たな仲間を迎え入れることになったのは。 襲撃を受けたとき――そう、ユエが覚醒する原因となったあの時だ――、散り散りばらばらになった生き残りたちとも再会することが出来たし、養い子も数名生存しているのを確認することが出来た。 「本当に大丈夫なんですか、ユエさま」 ヒイラギは何度も尋ね、何度も食い下がった。 国土を切り取るための異能を発動させるべく、準備を重ねていた時のことだ。 「大丈夫だ、何とかなる」 ユエは一貫してその答えを続けた。 それが、「自分はもはや、己が生存に望みをかけてはいないが、遺された者たちが力を合わせてやっていけば国の舵取りなど問題なく行える、大丈夫だ」という意味であることは伏せたままで。 覚醒しさまざまな経験を経たおかげで改善されたとはいえ、やはりユエにとって異能を使うことは負担である。 ワールズエンド・ステーションの力で故郷の場所が判った。13号が彼とヒイラギを連れ帰ってくれた。一衛をはじめとした何人かのロストナンバーが、彼の故郷の厳しい状況を知り、助力を申し出てくれた。 それらはユエや、この世界に生きる人間たちにとって、とても幸運なことだった。 これ以上、ユエの帰還が遅れれば、人間の数はさらに減り、文明を再建しさらに維持してゆくことは不可能になっていただろう。 つまるところ、『それ』を行うのは今しかなかったのだ。 しかし、医療施設や器具など期待も出来ない状況で、万全であっても人並より下という己の体力に鑑みて、ユエは、領土を奪取するための異能を使ったあと、自分は死ぬだろうと覚悟を決めていた。 自分の力、環境、肉体的負担など、さまざまな方面からシミュレートしてみても、異能使用後自分が生存する未来を思い描くことは難しかった。 しかし、ユエの持つ強大な力は、国土という、人類が生きてゆくための基盤を得たあとも、外圧からここを護るという意味で必要だ。 そのためユエは、自分の意識が残っているうちに、己の異能を、養い子へ強制的に継承させる心づもりでいた。 自分が死ぬのは仕方がない、しかし、と。 ――そして、その日がやってくる。 * 積もる話は、最終的には『そこ』へと行きつく。 「あの時は本当にたいへんだったな」 一衛のしみじみした言葉を耳にして、ヒイラギが苦虫を噛み潰したような顔をする。 「一ヶ月の昏睡ですからね。しかも、あなたや、治癒系の能力に長けたロストナンバーの力をもってしても、ですから」 「ユエ、ヒイラギには何度礼を言っても足りないな。彼が救援要請を出していなければ、今頃お前は生きていない」 「そうだな……とはいえ、」 「もともとそのつもりだった、なんて言ったら逆さに吊るして振り回しますよ、ユエさま」 「おまえそれは仮にも国主に対する扱いじゃ……」 「土地だけぽんと寄越して無責任に死のうとしたお馬鹿さんの言うことなんて知りません」 昏睡から目覚めたユエを待っていたのは、養い子たちの感極まった号泣と、彼がやろうとしていたことを知ったヒイラギの鬼のような説教だった。当然、自分が全面的に悪いことを理解しているユエに反論のできようはずもなく、ベッドから降りられるようになるまでは、ほぼ毎日、ヒイラギの小言を聴き続ける羽目になったのである。 「まあ、何にせよ、ずいぶん落ち着いてきたようで、よかった。今日は祭をやるんだろう?」 「ん、ああ。お陰さまで、そこそこ安定したものだから、この辺りで一度、大々的にやろうかと。出店が出るし、歌や踊りの出し物もある。皆も、よければ楽しんで行ってくれ」 ユエは、ロストナンバーたちの訪問に対して好意的な姿勢を崩さない。 助けてもらったこともあるが、何より、ロストナンバーとしての数年間は、ユエにとっての得難い糧となったからだ。0世界やターミナルと縁をつなぎ続けることができるなら、こんなに嬉しいことはない、とも思っている。 「さて、俺は視察にかこつけて抜け出そうと思うんだが、誰かいっしょに行くか?」 「ユエさま建前の中に本音が駄々漏れです」 「大丈夫だ、変装するからたぶんばれない」 「大丈夫とか大丈夫じゃないとか、そういう問題じゃないですよね、それ」 すっかり苦労性がデフォルト化しているヒイラギは溜息をつくが、ユエを止めるつもりはないらしい。 「たまにはいいんじゃないですか。あなたもここのところ働きづめでしたし。少し、羽を伸ばしてきてください」 「ものわかりのいい優秀な側近を持って俺は幸せだよ」 ヒイラギに感謝しつつ街へと出かける。 人類を脅かす人外の姿はここにはない。 しかし、凶暴な動物や、捕食型ないしは有毒の植物があちこちに生息しているため、決して安全とも言い切れないのが現状だ。 「……ずいぶん出来上がってきた」 一衛の言葉に頷き、 「まあ、安全確保が容易い旧都を本拠地に基盤づくりを始めたからな、もともと基礎はあったんだが」 ユエはあちこちを案内してまわる。 途中、祭に沸くまちの真ん中を通り、屋台を覗くのも忘れない。 彼らは、壱番世界でいうところの中華風文化を持っている。城郭や内城、住居など、そのカラーが見て取れる。 とはいえ、あちこちに修理途中の家屋があるし、耕作地や居住区はまだまだ開発中だ。他国からの生存者を積極的に受け入れているのもあって、出来上がりつつあるまちは建築様式もさまざまである。 「異文化の融合した多様性は、おそらくこの国を強靭にするだろう。多様性がつくりだすバランスを、俺は貴びたいと思う」 希望を取り戻した人々が活気を持って行き来する街は、決して豪華でも洗練されてもいないが、命と営みの匂いがして、うつくしい。そして、それらを見つめるユエの眼は、どこまでも、限りなくやさしいのだった。 課題はある。 夜都との戦いが終わったわけでもない。 しかし、彼らはひとつの帰着を見た。 「何かあったら呼んでくれ、必要なら、いつでも駆けつける」 「……ありがとう、頼りにしている」 まちは、国は、未来は、これから更に築き上げられてゆくだろう。 3.むねのおく、ひかる おうおう、おうおうと暗闇が哭く。 軋むよう、唸るよう、身をよじるかのように。 「……」 シンイェは無言で、足下の惨状を見下ろしている。 阮 緋の武骨な手が、シンイェの、艶めく宵闇のごとき鬣を撫でた。 ロストレイルの窓越しに、黒々とした影たちの、最期の足掻きが見える。 「……どうしてやることもできぬ」 ぽつりとつぶやく。 鬣を撫でる緋の手が、いたわりを含んで優しくなる。 緋は、闇に満ちた世界に唖然としているようだったが、 「そなたも、争いの世界に身を置いていたのだな」 その声には、感慨が滲んでもいた。 相棒、朋友であるシンイェの、生きてきた世界と思えばこその感慨だろう。 ワールズエンド・ステーションよりもたらされた情報により、シンイェの故郷が発見されたのは少し前のことだ。 再帰属など、とくに望んではいないシンイェだが、緋に付き添いを頼み、ロストレイルの車上から故郷を臨むこととなった。 ――そこは、滅びかけていた。 光を喰らう影たちの、弱肉強食の世界。 過去には潤沢にあった光が、徐々に量を減らしはじめてからは、決して生きやすい世界ではなかった故郷である。 大地も天蓋も、わずかな光を求めて掻き毟り、掘り起こしたのだろう、影たちによってすでに崩されていた。 「もう、それほど遠くはあるまい」 そこには光などひと筋も見当たらず、昏く澱み、混沌としていた。 もはや、それが闇なのか影なのか、世界なのか空間なのかも判らない。ロストレイルの放つ光に気づき、車体を目指して立ち上がる影もあるが、それは届くことなく、崩れて消えた。 「……世界計は、もうじき因果律の果てへと帰る旅を始めるのだろう」 おうおう、おうおうと影たちが哭く。 ロストレイルの煌めきが、なによりまぶしく……そう、うまそうに見えるのだろう。世界の境目にとどまり、世界の終焉を見下ろすロストレイルへと、いくつもいくつも影が伸び、やはり同じように、触れることも出来ぬまま崩れて消えてゆく。 「もう少し、ここにいても構わぬか」 「無論だ。――焼きつけよう、そなたの故郷の、最期の色彩を」 影たちの、声なき慟哭が耳をつんざく。 ざらざら、がらがらと世界が崩れてゆく、そんな幻影すら視えた。 それでもふたりは、滅びゆく世界をじっと見つめ続ける。 せめてもの手向けのように。 * 高禮歴七十二年、大陸の半数以上を手中に収め、名実ともに大陸最大最強の国家としての名をほしいままにしつつあった高瑚は、未だ降らぬ南方の国々へと、遠征を開始していた。 南方には七つの国があったが、長く続く戦乱の内に数や姿を変え、うちひとつ珊月(サンゲツ)は高瑚との同盟を受け入れ、もうひとつの橘穣(キツジョウ)は配下に降ることを決めている。残るひとつ、南方では最大の、他に四つあった国々を飲み込んで巨大化した赤嘉(セッカ)が、高瑚にとっての降すべき相手なのだった。 赤嘉は好戦的な国で、放置すれば珊月と橘穣が侵略を受けることは確実だった。 同盟国を護るため、そして南方最大の国家を降し大陸の統一と乱世の終結を成し遂げるために、高瑚は南征を決めたのである。 国を挙げての南征だが、慣れぬ熱帯の気候と、初めて目にする南の軍勢に苦戦させられている様子だった。 赤嘉では、象や駝鳥、犀に鰐まで戦獣として調教し、戦場へと投入している。 馬たちは健気に従いつつも慣れぬ気候に苦しみ、また、巨大で凶暴な獣を前に戸惑いを隠せぬ様子だった。使役者に操られた象が一頭、まっすぐに突っ込んでくるだけで、高瑚は多大な苦戦を強いられた。 珊月と橘穣からの支援を受け、どうにか態勢を立て直しつつ、少しずつ相手を削ってゆく、忍耐の求められる戦いが繰り広げられている。 「ふむ。膠着状態、といったところか」 緋とシンイェは崖の上にいた。 眼下には、戦い続ける両軍の姿がある。 立ちのぼる戦意、殺意で、ただでさえ皮膚を苛む熱気が、陽炎のごとくにたわんで見える。 「おまえの国のほうが、どうやら押されているようだ」 「仕方なかろう、あの、南方の獣は少々荷が重い」 高瑚の騎馬軍は、赤嘉の軍勢に苦戦している様子だった。 ここで押し切られれば、南方の同盟国にも戦禍が飛び火しかねない、まさに正念場である。 「征くのか、友よ」 シンイェの、問いというより確認のようなそれに、緋は晴れやかな笑みを見せた。 すらりと剣を引き抜き、シンイェの背へ飛び乗る。 「国の窮地に馳せ参ずる、これほどまでに心躍る戦いがあろうか?」 緋がそう言うと同時に、シンイェは高らかにいなないた。 大きな跳躍とともに崖を駆け下り、戦地へと飛び込む。 戦局は、赤嘉に有利な状況で佳境を迎えていた。 喊声が大地を震わせる。渦巻く熱気にシンイェがいななく。 戦地の、ちょうど真ん中へと飛び込んだ緋は、青龍偃月刀を揮い、手近な場所にいた将のひとりを斬り倒した。がかっ、とシンイェの蹄が大地を抉るように蹴り、跳躍した先で、派手な頭飾りをつけた将をもうひとり。返す刃でさらにひとり。 あっという間に、三人の将が、血煙とともに地面へと沈んだ。 唐突に現れたその人物の、あまりにも鮮やかな手際に、空気が止まる。身体全体を包み込むような熱気が、一瞬、遠のくような錯覚を誰もが覚えた。 「あ……あれは……」 ざわざわと周囲がざわめく。 ざわめきはすぐに伝播してゆき、それは戦場を席巻した。 「まさか」 その将の姿を、高瑚の、古参のみならずすべての兵が知っていた。 味方の裏切りに遭い、行方をくらましてより十二年が経過していたにも関わらず、その偉丈夫はいささかも衰えを見せておらず、また、外見に何の変りもなかった。 しかし、だからこそ、誰もが彼を彼と認識することが出来た。 東西南北、大陸の隅々にまで名の鳴り響く、西国の猛将――誇り高き騎馬民族の長、『珂沙の白虎』。珂沙が高瑚により滅んだのちは、高瑚の王、武雷韻に膝を折り、彼の片腕として勇名を馳せた武人、阮 緋その人である。 ざわざわ、ざわざわと兵が、諸将がざわめく。 そんな中、彼の主と軍師だけは冷静だった。 影のごとき漆黒の――雄々しくたくましい馬に乗り、ついに阮亮道は帰還を果たしたのである。 緋は唇に猛々しい笑みを浮かべた。 ちらと流した視線の先、王もまた愉快そうに笑っている。 緋は偃月刀を高々と掲げた。 「皆、我に続け! 勝利は目前ぞ!」 彼が高らかに呼ばわったわずかの間、沈黙が落ち、次の瞬間には轟くかのような喊声が上がった。『珂沙の白虎』の帰還に士気の上がった高瑚軍は、大地を震わせる鬨の声とともに赤嘉へと突進してゆく。 高瑚兵の、戦意に輝く双眸が、敵の唐突な変貌に戸惑う赤嘉兵を射抜く。 高瑚軍の誰もが、もはや勝利を疑ってはいなかった。 「今こそ高瑚の力を見せる時!」 高瑚軍の喊声が大地を席巻する。濁流のごとく押し寄せる高瑚軍に、赤嘉兵は目に見えて崩れた。 その勢いのまま赤嘉を圧倒し、南征を成功に導いた功労者が誰であるのか、高瑚のものたちは理解していることだろう。 「我が君」 いっそあっけないほどの唐突さで戦局はひっくり返された。 高瑚の兵士が、赤嘉の軍を徐々に押してゆき、最後には、赤嘉の王と雷韻、赤嘉の将軍と緋の一騎打ちが行われた。雷韻と緋の得物が、相手のそれを高らかに打ち据え、弾き飛ばして、それぞれ象と犀から転落させると、彼らは負けを認め、高瑚に降ることを了承した。 そうして、やはりあっけないほどあっさりと戦は終わった。 渦巻く熱気が徐々に引いてゆき、静けさと夜の闇が辺りを包み込もうというころ、戦の後始末がようやく一段落した辺りで、緋は雷韻のもとへと帰参することが出来た。 死者の骸を弔う仕事の手伝いを終えた緋が、陣営へと――ここも明日には引き払われるだろう――戻ると、王は軍師や側近たちと何ごとかの相談をしている最中だった。 しかし、彼の呼びかけに気を利かせた者たちがさっと周囲を開けたので、緋は愛馬から降り、跪いて拱手することが出来たのである。 「阮亮道、ただ今帰参しました」 「よくぞ戻った、緋胡来」 生死不明、誰ひとりとして彼の行方を知らず、死亡説も逃亡説も流れた中、何ごともなかったかのように――まるで当然の約束ごとのように帰還した緋を、王もまた当然のように、天地開闢の理だとでも言うかのように受け入れる。 「待っていたぞ」 実に、十二年ぶりの再会だった。 王の言葉尻ににじんだ感慨を察することが出来ぬほど、緋は鈍くない。 「私も、待ちました。殿、あなたはお変わりない」 「しわと白髪は増えたがな」 愉快そうに笑う雷韻は、緋の失踪から十二年が経過したことを考えると、すでに五十路間近のはずだ。しかし、彼の肉体や魂から、眩いほどの強靭さは失われていない。それどころか、年を取ることで増した円熟味、巧みさしたたかさが、雷韻をますます輝かせているようにすら見えた。 悪戯っぽい黒銀の眼は、今もなお、少年のごとく闊達な、明るい光に満ちている。 「たいへんお待たせをしてしまいましたが、緋胡来、約束通り戻って参りましたぞ」 「うむ、その節は面倒をかけたな」 鷹揚に頷く雷韻、微笑みを浮かべる緋。 しかし、その会話の含む真実が理解出来るのは、主従のほかには、軍師くらいのものだっただろう。 理不尽に、あまりにも唐突に友であり配下でもある男を失った――と思い込んだ――ことで疑心暗鬼と悲嘆に囚われ、暴君と化しかけていた雷韻を、竜涯郷のいかなる不思議の力ゆえか、魂だけいっとき戻り、立ち直らせたのが緋だったのだ。 「長かったが、苦痛ではなかったな。緋、そなたの帰還、疑ってはおらなんだゆえ」 「私もです、殿。ここへ戻らぬ己など、端から想像すらしていなかった」 王が立ち上がり、緋のもとへ歩み寄る。促され、立ち上がれば、彼の肩を雷韻が叩いた。緋は再び笑み、頷き、王の拳に己のそれをぶつける。自然、笑い声が漏れ、ふたりはしばらく、歓喜と感慨の入り混じった笑いを響かせ続けた。 「それで、緋胡来、その馬は?」 しばらくののち、笑いを収めた雷韻が、シンイェを見上げ、目を細める。 シンイェは、雷韻の性質を見極めるつもりなのか、もう少しただの馬のふりをする心算のようだった。 「見事な馬だ。四肢の隅々にまで力が漲っているかのような」 友を褒められて嬉しくないはずがない。 緋は頷き、シンイェのたくましい首筋を撫でた。 「長い旅の中、出会った相棒です」 「そうか……佳き友を得たのだな」 シンイェを見上げる雷韻の眼は、すでに往年の友を見るそれだ。 ――こうして、長い長い旅がようやく終わる。 乱世の夜明けも、また。 * 再会から、また、時間が経った。 人間の月日に換算すれば、およそ十年といったところか。 そのころには、大陸の四分の三が高瑚のものとなり、残り四分の一も高瑚と同盟を結ぶ国のものとなり、大陸はほぼ統一された。 乱世が一端の決着を見、残党への対応も済めば、やってくるのは平和と、賑やかな活気と、当たり前の日常である。それらを積み重ねたのち、高瑚はやがて、肥大化による暴走を防ぐ目的で信の置ける将や官に領地を割譲し、高瑚を頭領国としながら、それぞれが小ぢんまりと収める道を選ぶ。 十年経った今でも、太平の世を厭うかのごとくに賊のたぐいが湧き、覇権を競った乱世を――弱い人間から死んでいく惨い時代を――再び望む声を聴きもする。 しかしそれらは、大半の、平和と繁栄を望む人々の手によって防がれた。平和は、力強い守り手たちによって、今日も護られ続けている。 シンイェはそれらを、緋のもとで見ていた。 表面的には馬のふりをしながら、緋や親しい者たち――彼の主である雷韻にも、同僚である軍師にも、シンイェがただの馬ではないことはすぐにばれた――の前では知性ある『馬に似た』生き物として振る舞い、親交を深めた。 十年という時間は、シンイェにとって長いのか短いのか、自分でも判らない。 彼の故郷、暗闇に飲み込まれかけたかの世界では、時間の概念など無意味だったからだ。 しかし、シンイェは、己の変化を敏感に感じ取っていた。 以前ならば、今もなお武門の要として忙しく働く緋の乗騎として、ともにあちこちの防衛点や戦地へと――といっても、その大半は、緋が出ていくまでもない雑魚ばかりだったが――赴き、戦功の一角を担ったものだった。 それが、最近では、日がな、陽光の降り注ぐ庭で、まどろんでいることが多くなったのだ。 (おれは誇りを欲している。生きざまを己に示すことを欲している) (だが……おれには己の死が見えない) (ここで生き続ける限り、闇の中、自我を失い朽ち果てる恐怖からは遠い) (死を死として受容しながら戦いを恐れず、死よりも己が誇りのために剣を取り、死に様を示す彼らの前で、おれは己が誇りを本物と謳うことができるのか) (恐怖に勝る強い覚悟、誇り、情、そんなもので恐れを克服し、凛と立つ、彼らの前で) 尽きることのない光のもと、そんなことを、つらつらと考えたものだった。 惑う心情など周囲に見せぬまま、そこから更に十年が経ったころ。 シンイェは、ついに己が死期を悟った。 そのころには、高瑚の王雷韻も老齢と後継者育成を理由に――といっても、周囲の若造が振り回される程度には頑健な老王だが――王位を退いていた。雷韻が王として相応しくないと判断すればいつでも剣を向けると公言していた緋も、将軍職を辞し、雷韻とともに、後進の育成と、もはや乱世の混乱からは遠い世界を旅してまわることに残りの時間を費やしていた。 「シンイェ、いったいどうしたのだ」 そのころにはもう、シンイェは、人を乗せることはなくなっていた。 正確に言うと、人を乗せるだけの余力がなくなっていたのだ。 躰が鈍く強張る。 変化がうまくいかない。 (きっと、近く、己は崩れるだろう) ヒトともその他の生命とも違う、しかし確かな別れの時を、シンイェは感じ取っていた。 緋も雷韻も、シンイェの様子がおかしいことは理解していて、王城の、もっとも日当たりのいい庭でまどろむシンイェの様子を、頻繁に伺いに来るようになっている。 「何が、だ?」 特別なこととも思えず、彼らを煩わせたいわけでもなく、しらばっくれようとしたのだが、彼らにはお見通しだった。 「俺が気づかぬとでも思ったか。それに、見ろ、尾のほうが」 「……知っていたか」 「どれだけの時間、ともに在ったと思っている。往くなら往くでせめて、見送らせろ」 哀惜と悼みの色を緋の双眸に見てとり、 「……おまえも年を取ったな」 「生きているのだから、当然だ」 「だが、おまえは変わらない」 「心のありようなど、そんなものだ」 いつもどおりの、他愛ない言葉を口にする。 そののち、 「己は死なない気がしていたのだが、何、どうということもない」 そう、笑い声を漏らした。 笑ったとたん、尾が付け根から折れて崩れ、消えた。 「シンイェ」 「気にするな、そういう理だ」 いったん始まったそれは、もう、止めようもない。 鬣が、脚が、背が、腹が、シンイェをかたちづくる影が、崩れ、砕けて、消えてゆく。太陽の光が、それを照らしている。 「わるくない、きぶんだ」 陽光の中、ぼろぼろに乾いて崩れていく己の中に、おそれも悔いもない。 シンイェは、それを、誇りに思った。 「緋」 「……なんだ」 「たのしかった」 その直後、口が崩れた。 唇を引き結ぶ緋に、眼だけで――そこだけは最後まで明るい黄金の色をしていた――笑んでみせる。雷韻が緋になにごとか囁き、緋は頷く。 雷韻が、眩いほどに赤い花をシンイェに捧げると、緋は手にした瓶を逆さにした。独特の、馥郁とした香気を持つ液体が、崩れゆくシンイェに手向けられる。 「佳い旅を、友よ」 緋の、その声を最後に耳が崩れ、眼が崩れて、そして、何もかもが安らかな漆黒の中へと呑みこまれた。 シンイェは、それを穏やかな心持ちで受け止め、受け入れたのち、すべてを手放す。 ――光があふれる庭には、もう、影でできた黒い馬の姿は、ない。 * * * 一二 千志と古城 蒔也が、元の世界を見つけ帰還し、再帰属したあと、まず行ったのは、蒔也を通じて彼の養父である大組織の首領・古城重左と接触することだった。 蒔也が、千志と行動を共にしようと思ったら、彼にも賞金稼ぎの資格が必要になってくる。しかし、賞金稼ぎの元締めが蒔也の義父である以上、まずは古城重左に蒔也の出奔を納得させなければならなかった。 それゆえ、蒔也は、『縄張りの一部』と『飼い犬一匹』を買い取るよう、千志に提案したのである。 粘り強い交渉の末――というほど苦労もせず、古城重左は千志の申し出をあっさり了承した。千志の提示した金額が、相場をかなり上回っていたのは事実だが、 「……そう落ち込むな」 蒔也にとっては、やはり、少々ショックであったらしい。 肩を落とし、時々溜息までつく蒔也に苦笑しつつ、ふたりは買い取った場所を見て回っていた。 縄張りなどと言いつつ、この辺りは廃墟ばかりで人の姿もほとんど見かけない。 要するに、物件としてはいわゆる外れなのだ。 その、特に利益を生むでもない外れ物件を、破格の値で買い取ってくれたのだ、飼い犬の一匹くらい、喜んでつけようというものだ。 ――無論、古城重左のほうで、数年ぶりに戻った義息の目に、何か、このまま手元に置いておけば危険を招きかねないという予感めいた光を見たのかもしれなかったが。 ともあれ、千志の理想は、一応のとっかかりを得た。 「しっかし、何もねぇところだな。廃墟じゃん、これ」 そこは、住民がいなくなり廃墟化した集落だった。 大半が一般的な家屋の姿をしているが、中には小規模なビルやアパートもある。事務所を髣髴とさせる建物もある。 整備には時間がかかりそうだが、 「何もないからこそ、望むものをつくっていける」 「そういうもんか」 「そういうものだ。それに」 「うん?」 「……土がある」 「土?」 「木や草や、花や野菜を育てられる。緑はいいぞ、人の心をやわらかくする」 「そういうもんか。ま、俺は別に、なんでもいいよ」 蒔也は、細かい部分には無頓着だ。 彼は、千志とともに歩く未来を選択したのだから、千志が「そう」するのだと言えばそれでいいと思う、というだけのことなのだ。蒔也の、ある種の育ちのよさ、世間知らずとも言えるそれに、千志は微苦笑する。 それから、 「そういえば、苗字、どうするんだ?」 『まち』の構造をメモしながら、問いかけると、蒔也は眼を瞬いた。 「古城から替えるのか?」 古城重左から『売られた』時点で、蒔也はもはや彼の息子ではない。 この先、ぶつかり合うことがあれば、古城重左は、容赦なく彼を潰しにかかることだろう。 その辺りを加味しての、千志の問いに、 「え、あー……うーん……」 蒔也は悩んだ。 ロストレイル13号がワールズエンド・ステーション目指して出発する前、ちょっとした戦いのあと、「いっしょに来ないか」と千志が蒔也を誘った時に見せたのと同じくらいの逡巡だった。 しかし、ややあって、蒔也は言葉を絞り出す。 「お父さんの苗字を名乗りたい、かな」 「なんて名前なんだ?」 「火神幹人」 名を挙げると、千志の動きが一瞬、停まった。 それは、この世界の人間なら、間違いなく誰もが知っているであろう名前だった。 「火神……まさか、あの?」 「うん」 「史上最悪の犯罪者にして、賞金稼ぎ制度がつくられるきっかけとなった人物……だったか」 「……うん」 火神幹人は、社会に多大な恐怖と悪影響を及ぼした極悪テロリストである。少なくとも、世間一般ではそう認知されているし、彼の行いを正当化し、庇うすべはない。たいていの場合において、火神幹人の名前を出すだけで、相手は嫌な顔をする。そのくらいのことをしでかした男だ。 「びっくりした?」 「ああ」 「だから、千志にも、一度も話したことがなかったんだ」 「それでも――か」 「うん」 頷く蒔也の決意と、希望は強い。 「俺、今でもお父さんのこと、大好きなんだ」 邪気のないそれに苦笑し、 「お前、でも、嫌な顔、しねぇのな」 蒔也の言葉に、千志は肩をすくめる。 「お前が、この先嫌な思いをする可能性を覚悟してまで名乗りたいと思う苗字だ。それが実父のものなのだとしたら、その男は、お前にとって、悪い父親じゃなかったんだろう」 几帳面な手つきで、図面に線を引きながら、何でもないことのように千志は言う。 「その、ひとり息子を大切にした、父親としての彼に敬意を払うくらいなら、俺にもできる。それに……きっと、大切な思い出と名前は、これからのお前を支える力になるだろうとも思うから」 「なんだろ、ここんとこのお前って、ほんと腹立つくらい落ち着いてるよな……」 頬を膨らませたあと、蒔也は少し、真面目な顔になった。 「ほんとは、さ」 「ああ?」 「ちょっと、怖いんだよ」 「そうか」 「お父さんがいた世界が消えて、親父のいた世界を棄てて、今度はどんな世界を見ることになるのか……って。いきなり覚醒して、異世界に放り出された時でさえ、別に怖いなんて思わなかったのに」 「心配ない」 「お前ほんとなんなんだよその余裕っぷり」 「違う。俺だって不安だ」 「ほんとかよ?」 「でも」 「うん?」 「お前が、いるだろ」 「何それ、どんだけタラシなのお前……信じらんねぇ……」 天然だとか世間知らずだとか言われる蒔也をして、かく言わしめる千志である。絶望から始まって、苦悩の泥海をのた打ち回り、這いずりながらも進むうち見つけた光明が、千志を大きく、深く、強くしたのかもしれなかった。 「タラシ? なんのことだ? ――ああ、ここはなかなかいいな」 小首を傾げつつ、千志は図面に線を引く。 言われて見上げれば、そこは、彼らの『縄張り』の真ん中辺り、太陽の光が均一に降り注ぐ、小ぢんまりとした庭のある民家だった。屋根は落ち、壁は崩れ、扉など外れて姿が見えないが、日々を営む場としては、相応しいように思われた。 「まちをつくる、だっけ?」 「ああ。異能者が、迫害など気にすることなく、静かに、平和に暮らせる場所だ。これからつくっていく『まち』を、少しずつ大きくしてゆくことが出来れば、きっと、理想に近づいていける」 「……先は長そうだけどな」 「時間がかかるのは仕方ない。とにかく、何よりもまず必要なのは『人』だ。根気強く、仲間を集めていこう」 「ひとり目はもう買い取り済みだし?」 「そういうことだ」 たくさんの人間が、他の集団や力に依存することなく、自分たちだけで静かに生きていこうと思ったら、大量の資金や物資はもちろんのこと、この場所のありかたに賛同する仲間が要る。 生活費を稼ぐもの、幼い仲間を育て、生活の基盤となるこの場所を守るもの、そして『まち』そのものを保ち、整えるものなど、人間はどれだけいても足りない。 そして、千志が追い求める理想、異能者たちが差別に苦しむことなく、自分という存在を肯定し、誰かを想ったり想われたりしながら暮らすことのできるこの『まち』を、気に食わないと思うものが現れたとき、己が力を持って立ち、ここを護る仲間が必要になるだろう。 「蒔也、お前が賛同してくれたということは、志を同じくしてくれる仲間が、探せば必ずいるということの証明であるように、俺は思うんだ」 「なるほどな。ま、やることも問題も山積みだ、さくさくやろうぜ、さくさく」 蒔也のいうとおり、やるべきことはたくさんある。 ぶつかる壁も、決して低くはないだろう。 しかし、千志の気分は不思議と昂揚していた。 肚の底から湧き上がる希望、歓喜を伴ったそれによって、気力があとからあとからあふれだしてくるような感覚を覚える。 「で、最初に何をつくるんだ? 記念すべき第一歩ってやつだな」 「ああ。まずは……『家』が要るだろう。俺と、おまえと、これから集める『仲間』のための、な。――帰る場所、ってやつだ」 蒔也へ笑ってみせ、千志はジャケットの胸ポケットから一枚の写真を取り出した。 「ん? なになに? あ、梓じゃん。こっちは、火城だっけ? えーと、あとは、『エル・エウレカ』の従業員? だっけ?」 「以前、依頼をいっしょに受けたやつらもいる」 故郷の場所が判明し、最後のロストレイルに乗る前の日、千志は『エル・エウレカ』を訪れ、写真を撮っていたのだった。 「思い出に?」 「ああ。この写真を見るたびに、俺は励まされるだろうな。皆、応援してくれていると、知っているから。たくさん助けてもらったし、いろんな経験をさせてもらった」 「あー、なんかそれ、判るわ。覚醒しなかったら、こんなことにはなってねぇもんな。あいつらから、いろんなものをもらって、受け取って、今の、ちょっとだけ別の世界に踏み込んでみようって思える俺が出来上がったんだろう、ってさ」 それ、新しくつくる『家』に、額縁に入れて飾ればいいんじゃね? などと言いつつ、蒔也は、実父の言葉を思い出していた。 (……幸福になりなさい、蒔也。私とは違う存在になりなさい) 実を言うと、その意味は、いまだによく判らない。 蒔也にとっては、父と同じく、壊すことそのものが幸福で、いつかは自分も壊れてなくなることが望みだったからだ。 しかし今や、その望みは正しく過去形へと転じつつある。 蒔也の傍らには、千志がいる。 蒔也は今、千志についていけば、父の言葉の意味も、そのうち判るような気がしているのだ。彼ならばきっと、どれだけ自分が迷子になっても正しい方向に導いてくれるだろう、と、半ば盲目めいた確信すら抱いているのだ。 「しかし……まちをつくる、ね。俺は壊しかたしか知らねぇんだから、おまえがちゃんとお手本見せろよ?」 挑むような蒔也の言葉に、千志はしばし、眼を瞬かせ、そののち、 「……任せろ」 にやりと笑って、彼の肩を強く、叩いたのだった。 * 千志のまちづくりが始まって、数年が経った。 異能者たちが迫害に怯えず、苦しまず、静かに暮らせるように、という思いからつくりはじめられたまちは、この数年でずいぶん大きくなった。 住まうものも百人を超え、縄張りも、彼らが『帰る場所を護る』ため全力で働き、稼いできた金銭で、少しずつ買い取りを進めている。 噂を聞きつけて家族で移住してくるもの、家族を喪った痛手を負って流れてくるもの、「そんな平穏はまやかしだ」などと斜に構えて確かめに来たものなど、『まち』に触れて彼らの理念に納得した人々、境遇を同じくする仲間がいる安心感、歓びに惹かれた人々などが、少しずつ少しずつ数を増やし、『まち』を大きくしてゆく。 あのとき、『帰る家』として最初につくられた家は、今、談笑し、語り合い、憩い、静かに安らぐ場所として、いつでも誰かがやってきて、誰かが来るのを待っている。 千志は、積極的に仕事を請け負い、金銭を稼ぐとともに、自暴自棄を起こして罪を犯した異能者の身柄引き受け人にもなって、異能を持つがゆえの哀しみを、少しでも和らげることに全力を尽くしていた。また、能力を持たない人々と異能者との軋轢を減らすべく、心ある人々との交流を積極的に試み、少しずつ、一般人の賛同者、協力者をも増やし始めている。 蒔也はというと、新しくつくられた『家』と仲間たちが寄り添って暮らす『家族』に強い愛着を抱いたようで、『まち』を護る仕事のリーダーとなり、日々、パトロールに勤しんでいる。 『まち』に移り住んだ、何組もの夫婦から生まれた子どもたちは、彼を、正義の味方の蒔也お兄ちゃんなどと呼び、よく懐いているようだった。 壊すことで快楽を得ていた蒔也が、小さな子どもたちを壊さないよう腐心しつつも、まんざらでもない表情を浮かべるようになるなどと、いったい誰が想像し得ただろうか。 ――その日も、千志は仕事に精を出していた。 依頼主は能力を持たない一般人だったが、千志にやくざな仕事をさせようとはせず、地道な作業を必要とする、古い蔵の整理整頓を依頼した。荒事以外で雇われることは千志にとっても珍しく、勉強家で読書家の彼は、何百年も前の美術品や骨董品、書物が次々と出てくるその蔵の整理整頓を、心底楽しんでやっつけたものだった。 「まあ、なにせ、横山さんの紹介だったから」 『まち』の賛同者の名を挙げ、依頼主は笑った。 千志の完璧な仕事にいたく満足した様子で、賃金を二割増しにすると同時に、似たような仕事があったら声をかける、と約束してくれたのだった。 少しずつ少しずつ広がってゆく『生きる場所』に、何とも言えぬ感慨を抱きつつ『まち』へ戻れば、つい最近、異能者の両親を事故でなくし、行き場を失って流れ着いたという幼い少女が、千志を出迎えてくれた。 「お帰りなさい、かずしおにいちゃん」 「ああ、ただいま」 「おしごと、おつかれさま」 「ありがとう。土産にケーキを買ってきたから、あとで、皆で食おうな」 はじめ、なかなか馴染めなかった様子の少女は、彼女を溺愛し構いたおす蒔也という存在のおかげもあって、徐々にではあるが『まち』の皆に心を開きつつあるようだ。 「ねえ、おにいちゃん」 少女の、水晶玉のように透き通った眼差しが千志を見上げる。 「どうした」 彼女は、しばしば遠くを見る目をする少女だった。 人の背後を、見つめていることの多い少女だが、その理由を、今まで彼女自身が語らなかったため、なぜなのかは判らない。 「あのね、ハジメちゃんって知ってる?」 「……いや、ああ、それは。なぜ、……?」 うまく切り返そうとして、あまりの唐突さゆえに失敗した。 「ハジメちゃんがね、言うのよ。おにいちゃんにつたえてほしい、って」 千志はその日、少女の持つ異能が何なのか、知ったのだった。 「その、ハジメちゃんはどこにいるんだ?」 「おにいちゃんのうしろよ。もう、ずっと、ずいぶんながいことそこにいる、っていっているわ」 そのあと、彼女が口にした『ハジメちゃん』の容姿の特徴は、ここでは千志以外知り得ない、すでに喪われた『彼』そのもので、自嘲に、唇の端が苦笑のかたちを刻む。 「裏切り者、ってか? きっと、ひどく恨んで、憎んでいるんだろうな」 「うらぎりもの? それは、なあに? わたし、それは、わからない。ハジメちゃんはね、わらっているのよ。とってもすてきなえがおなのよ」 思わず固まる千志の前で、少女は、とても楽しそうに笑った。 「それでね、ありがとう、って、いっているの。もうだいじょうぶ、って」 わかる? と小首を傾げられ、千志は、ああ、とか、うう、とか、そういう、呻き声のようなものを漏らすだけで精いっぱいだった。 振り向いていても、そこには誰もいない。 当然だ、千志には、その能力はないのだから。 もしかしたら、それは、本当のところ、幼馴染のなにかではなく、願望のあまり千志が生み出した、感情の残滓なのかもしれなかった。 しかし、千志は、 「……そいつに伝えてくれ。こちらこそありがとう、すまなかった、って」 今、少女の言葉を信じてもいいと、不甲斐ない己をわずかながら許してやってもいいと、思い始めてもいるのだった。 「おっ、千志、お帰り! なになに、都子、お出迎えか? エライなぁ!」 巡回を終え、蒔也が戻ってくる。 少女の姿を目にして相好を崩し、自分の半分くらいしか背丈のない彼女を軽々と抱き上げた。 少女が楽しげに笑い、声を聴きつけた人々が出てくる。 人々の顔にも、親しげな笑みがある。 ――ああ、夢は叶いつつあるのだ。 そう思った瞬間、深い感慨と歓喜が込み上げて、千志は手を伸ばし、少女の頭をかき混ぜていた。 「もう、ぐちゃぐちゃになっちゃうじゃない」 抗議の声を上げる彼女に笑みを向ける。 少女もまた笑っている。 ――営みは続いてゆくだろう。 そして、少しずつ、世界は交わってゆくだろう。 今はただ、それを護り抜くだけだ、陽光の降り注ぐ『まち』を見つめ、千志はそう、静かに誓うのだ。 4.循環都市顛末記 ―五行長、帰還す― ロストレイル13号がワールズエンド・ステーションより戻った六年後、青燐・黄燐・黒燐・赤燐・白燐及び、紫雲 霞月と黒藤 虚月は故郷へと帰還した。 その四年前、ロストレイルの帰還から数えて二年後には、六名に先立って灰色狼の秋保 陽南が帰還している。小心者の彼女ゆえ、自分が中央都の長たる黄燐を差し置いて再帰属することに恐縮していたが――ちなみにこの時、彼女は、自分と同じく覚醒したのは黄燐だけだと思っている――。 再帰属が済むや、五行長たちはすぐさま、それぞれの都へと帰還した。 彼らの覚醒から十年近い月日が経って、ようやく、五都最大の謎とされた“五行長同時期失踪事件”は幕を下ろすのである。 「予測はしていましたが……これは、なかなか難儀な仕事になりそうですねぇ」 東都へ戻った青燐は、他の長たちの例に漏れず、復帰するや否やさっそく木行魔法陣安定のための事業に取り掛かった。 「ふむ、他の五行長たちも、手早くやっているようです」 世界の安定のため、五行は滞りなく循環し続けなくてはならない。 そしてそれは、それぞれの色を名に負う『燐』たちが取り組むべき、最優先事業でもあるのだ。『燐』の天魔化、それによる大災厄という事態を避けるためにも、世界の均衡は早々に保たれねばならない。 当然ながら、それは猛烈な忙しさを生んだ。 なにせ、相当な時間が空いてしまったのだ。その間、溜まりに溜まった仕事を片付け、乱れてこんがらがった要素を解きほぐして、それからようやく木行魔法陣に取り掛かれるという事態だった。 どたばた、というのが相応しい多忙ぶりで、青燐の時間は流れてゆく。 「はい、なんです? 白燐から文? はあ……『金行魔法陣とはこんなに力を吸うものだったか?』ですか。いや、私に言われてもねぇ……」 * 黄燐は大きな欠伸とともに起き上がった。 「ああ、よく寝た。いや、もっと寝たいけど、そうも言っていられないし……」 毎日毎日おそろしく疲れる日々が続いている。 それには、間違いなくここが中央都であることが影響していた。 すべての力が巡りゆくここでは、それらのぶつかり合いが大きく、そのことが黄燐を疲労困憊させるのである。 「まあ、そう考えたら、身体が大きくなったのは好都合なのかも。小さな身体のままじゃ、体力が追いつかないものね」 黄燐が独語する通り、彼女はすでに、年端のゆかぬ少女の姿をしてはいない。今の黄燐は、年のころで言えば十七、八歳といった、すらりと背の高い、しなやかな四肢の、正真正銘の美少女へと成長している。 背が伸び、筋肉量が増えたおかげでこの程度で済んでいるが、もしもあの幼い姿のままだったとしたら、一日や二日の睡眠では体力を回復することができなかったかもしれない。 「え、ああ、手紙? お師匠様から? ああ……お忙しいのね、判るわ。混乱しているのはどこも同じね、大きな事件や暴走がなかったのだけが不幸中の幸いだわ」 どたばたしているのは東都も同じようだ。 黄燐が成長したのは、このどたばたのさなかであるから、悪いことばかりでもないのだろうが、 「それにしたって、早いところ魔法陣を復帰させて、のんびりお茶をする時間くらい、取りたいものだわ」 もうそろそろ落ち着いてほしいと願っても罰は当たるまい、などと、異世界を旅して得た知識と言葉で、平穏な日常の到来を祈る黄燐である。 ――もちろん、この世界において、土行の頂点たる黄燐に天罰を降せる存在がいるかどうかは疑問だが。 * 黒燐は、ほとんど軟禁状態での生活を強いられていた。 「はああ……遊びに行きたい。執務室に閉じこもって仕事三昧なんて不健全すぎる。身体がなまっちゃう……」 ぶつぶつこぼしつつも、手は休めない。 と、いうよりも、休めていられる状況ではない。 他の五行長もそうだが、北都には黒燐にしか出来ない仕事が山のようにある。失踪していた間、誰にも決済できずに溜め込まれたそれらを手早く片づけつつ、水行魔法陣を安定させるための事業も可及的速やかに推し進めねばならない、それが今の黒燐なのである。 「まあでもそれどころじゃないしね……って、うん、やっぱり違和感……」 首をかしげる黒燐は、もう童子の姿をしていない。 彼は今、二十歳になろうかという年頃の、凛々しい青年へと転じていた。 「まさか、シャンヴァラーラで見たあれが本当になるなんてなあ」 この世界へ帰還、帰属の直後に起きたのが、身体の成長だった。 幼い姿でずっと暮らしてきたのもあって、自分の声が低くなってしまったことや、視線の位置が違うことなど、ことごとく違和感を覚えるのが黒燐の日課となっている。 「え、手紙? へえ、黄燐から? なになに、えーと、うーん、ナイスバディになったのよ、って言われてもなあ……」 手をせっせと動かしつつ、首をかしげる黒燐だった。 * 赤燐はようやく夫と再会することが出来た。 自分が留守にしている間、年を重ねた夫・朱鷺が、四十代になっていたことには驚いたものの、まず彼女がやるべきことは火行魔法陣を安定させることである。 本来、赤燐になるはずのなかった敷城透香が五行長の座に即位した理由のひとつが、先代の天魔化とそれに伴う大破壊、いわゆる『南都の悲劇』である。それらを二度と引き起こさないためにも、火行魔法陣は速やかに、正しく整えられなくてはならないのだ。 とはいえ、幸い、彼女の祈りや熱意に応じるかのように、魔法陣安定事業は順調である。 このまま行けば、特に問題なく調整は済むだろう。 そうなれば、先代の天魔化で南都が被った被害に対する復興事業もはじめられることだろう。 「魔法陣が不安定なまま、南都民の安全を疎かにしたまま復興は始められない、と思っていたけれど、そろそろ、よさそうね」 文化や建物の再建、芸術の推進、特色や特産品に対する啓蒙及び宣伝など、やるべきことは無尽蔵と言っていいくらいある。 「あら、黒燐からの文? 何かしら。……あらあら、閉じ込められすぎて息がつまりそう、ですって。そんなこと言わず、もう少し頑張ってほしいわね」 おばさんも早く家に帰って朱鷺とゆっくりしたいから、気持ちは判るんだけど。 そんなことをつぶやきつつ、赤燐は仕事に精を出すのだった。 * 白燐もまた魔法陣の安定に力を尽くしていた。 「覚醒している間に、なまったか。それとも、感覚が少し、変わったのかな」 青燐には、陣の安定のために必要な力が莫大過ぎて少々戸惑うこと、以前もこんなものだったか疑問に思っていることを書いて送った。 「まあ……どちらにしても、もう少しだ」 魔法陣が安定すれば、五行長の仕事もずいぶん楽になるはずだ。 何より、世界の平穏が一歩近づく。 「ん? ああ、赤燐からの文か。……そうか、あちらの復興も順調なんだな。それは、喜ばしいことだ。西都も少しずつやっていくとしよう」 そのために、こつこつと努力を重ねる白燐である。 * * * 帰還後、紫雲霞月がまず行ったことは、妻の弓泉へと教師の役職を譲ることだった。周囲は最初、止めたが、霞月は、清々しく、未練など欠片も持たずにそれをやってのけた。 霞月はいまだに、自分のその判断を最善と信じている。 なにせ、霞月が不在の間、弓泉は彼の代行を務めてくれていたようなのだ。それは、欲目を抜きにしても立派なものだったし、何より妻も教え子たちもすでに馴染んでいたから、あえてそれをひっくり返すような真似をする必要がなかったのだ。 弓泉はもはや、世間的に見ても、押しも押されぬ書画魔術の大家だった。 霞月は安心して妻の仕事を見ていることが出来たし、書画魔術のなんたるかを理解しているぶん、助手に徹することも容易かった。 夫婦で協力し合い、子どもたちや教え子たちに書画魔術を教えることは、穏やかな歓びを霞月にもたらすのだった。 * 反対に、黒藤虚月は、周囲からの勧めもあって孤児院の院長に復帰していた。 孤児院は、今は亡き愛夫との思い出が詰まっているといって過言ではない場所である。 夫は昼人であったので、夢人である虚月とずっと時間をともにすることはできなかったが、子どもたちと孤児院という、ふたつの宝物を彼女に遺して行ってくれた。 それゆえ、虚月の、孤児院への愛着には、なみなみならぬものがあるのである。 帰属ののち、取るものもとりあえず孤児院へと戻った虚月は、自分が失踪する依然と変わらず、整然と――しかし、愛と情、知性を持って――運営されている孤児院の姿を見て、胸をなでおろしたものだった。 愛夫・実時との間に生まれた半昼人半夢人の子どもたちと孫たち、今までも決して庇護されるばかりではなかった孤児院の子どもたちが、虚月の帰る場所でもあるそこを、立派に護っていてくれたのである。 彼らの手腕は見事なもので、それゆえ、院長として復帰するには少々気後れした。しかし、皆がどうしてもと望み、強く推したため、虚月は照れながらも孤児院の長へと復帰し、すぐに働き始めたのだった。 「あの子たちは強いのう、実時」 仕事の合間、墓前へ花と菓子を手向けながら、虚月は笑う。 「教え、育てているようでいて、気づけば何か教わり、育てられておる」 彼女の言葉を夫が聴いていたとしたら、きっと彼は微笑んで、虚月を抱き締めたことだろう。 * * * 「青燐が失踪……?」 ロストレイルの帰還から通算で十一年後のことだった。 南都の火行魔法陣が安定してしばらく経ったころ、赤燐は、青燐の退位と新青燐の即位、そしてその失踪を聴くこととなった。 青燐の退位がこの時期だったのは、南都の魔法陣が安定するのを待っていてくれたからだろう。昔から、青燐は、何だかんだと言いながら南都のことも気にかけてくれていたから、自分の退位によって余計な乱れを負わせぬようにという配慮だろうと推測された。 「この退位が、彼なりの一区切りだということはよく判る。……けれど、失踪というのはどういうことなの……?」 しかしながら、火行である赤燐は、木行である青燐とは相性がよくないため、動きたくとも動けない。――否、逆によすぎると言うべきなのかもしれない。火行は木行より生ずるがゆえに、下手に木行に近づけば大きな被害を与えたり、与えられたりしかねないのである。 「……やきもきしても仕方ないわね、情報が入ってくるのを待ちましょう」 心配していないわけではない。 気がかりだし、おそらく彼の捜索に携わるであろう他の五行長たちや、長命者たちを手伝いたいという思いもある。 それでも、赤燐である彼女は、流れてくる噂話に耳を傾けるのみである。 * 天気のよい日の、東都の片隅、白河という家の、一族代々の墓が連なる場所である。 「そう……そういうことだったの」 そこには、黄燐と黒燐、そして紫雲夫妻及び虚月の姿があった。 彼らの眼は、一様に、とある墓石の前に寝そべる不思議な獣の姿を映している。 「これ、子夜の。じゃあ、やっぱり」 獣の、薄青の鬣に絡み付く、どこかで見たことのある髪紐と、滲むような想いを感じ取れる、揃いの組紐を目にして、黄燐が嘆息する。 ――青燐の座を後進へ譲り、絹崎清月へと戻ったのち、彼は唐突に姿をくらませた。 誰にも、何も告げることなく。 五行長や長命者たちは、覚醒し、0世界でもかかわりあったこともあり、それぞれにつながりがあるが、いかんせん、五つの都市は、物理的な距離が遠いため、噂が伝わるのにも時間を要する。 彼らが絹崎清月失踪を知り、連絡を取り合いながら捜索を開始するまで、実に半年以上の月日を必要としたのである。 丹念な捜索を続けても、清月の消息はようとして知れなかった。 そもそも、行動範囲の広くない人物であったため、一定の場所を捜索し尽くしてしまうと、次にどこへ手を広げればいいか、皆目見当もつかなかったのだ。 しかし、煩雑な仕事に追われていた黄燐が合流すると、事態は進展を見せた。 彼女には、心当たりがあったのである。 「……処理したの、あたしだったから」 嘆息めいたそれに、霞月と虚月が顔を見合わせた。 「どういうことじゃ。これが、あやつの転じた姿であることは明らかなようじゃが……何か、心当たりがあるのかえ」 虚月の問いに、黄燐は頷く。 「二年前……だったかしら。『誓約の紐』をね、渡したの」 それは、この世界における婚約指輪のようなものだ。 「……清月の、恋人がつくった、か」 「そう。ふたりの顛末を、知っている?」 首は横に振られる。 「恋人がいることは、知っていたけれど……まさか」 「ええ。亡くなったわ」 家族というものをつくれるかもしれない、そう思った矢先、最悪のかたちで最愛の人を失った青燐の、胸の奥に生じたであろう虚無ならば、わずかなりと理解できる。 「その、恋人の家にあったのよ。渡そうとして渡せず、仕舞ってあったんでしょうね。ずうっとずうっと預かっていて、あたしのほうでも、渡す機会を見失っていたの。だけど……ようやく一段落ついて、お師匠様に会う時間が取れたときにね、やっと渡すことが出来たのよ」 「その時、彼は?」 「お師匠様、『やっと泣けるのですね』って言ったわ。そしてその通りになった。だって、思わないじゃない、まさか自分の師が、弟子の前で泣き出すだなんて。そりゃあもう驚いて、慌てたわよ」 懐かしげに言い、黄燐は墓石へと歩み寄った。 「白河子夜。……お師匠様が、最後に帰って来たかったのが、彼女のもとなのね」 墓石に刻まれた名を読み上げ、持参した花を手向ける。 獣は、いわゆる麒麟に似た姿をしている。 「これ、聳孤っていうやつかなあ……それにしたって、木行の天人が転じるにはおかしいんだけど」 黒燐の独白に、獣が胡乱な目を向ける。 「あ、ちょ、僕黒燐だからね。ちょっと成長しちゃったけど、黒燐だから!」 慌てる黒燐の傍らで、黄燐はじっと獣を見つめ、 「……本当は、幸せになってほしかったのよ。もちろん、何もかもが巧く行くなんてことは、なかなかないのでしょうけど」 そして、獣の前にしゃがみこんだ。 「このお姿は、どういうことなのかしら。黒燐のいうとおり、あたしの中央都で祀る麒麟に似ているわね……聳孤というのは、体毛の青い麒麟という認識でいいのかしら?」 「うん。まあ、そうは言っても、何でこうなったのかはよく判らないんだけどねー。そういう事例もある、って記録こそ残ってるけど、実際に見るのは僕も初めてだし。僕の研究もまだまだだなあ。たぶん、天魔化したというので間違いないとは思うんだけど」 「やはりそうか。しかし、木行の天人が天魔化すれば、その形状は魚に似たモノになるはず。それに、天魔でありながら、コレには破壊しようという意志が感じられぬ」 「近所の人々に聞いたところによると、白河家をはじめ、この墓地を荒らしたり、害なしたりしようというものが現れると、途端に豹変して襲いかかってくるとのことだったよ。といっても、壊したり殺したりはせず、ただ追い払うだけらしいのだけどね」 霞月の言葉に、虚月がさもありなんと頷く。 「帰りたかったのじゃな……そして、護りたかったのか。さて、それは、叶ったのかえ」 虚月が手を伸ばしても、獣は恐れるでも、怒るでも、逃げるでもなく、彼女が頭や身体を撫でるに任せた。 「ふむ、さらさらじゃな。心安らぐ手触りじゃ」 虚月が破顔する。 黒燐は、「僕、黒燐だからね」と重ねて言いつつ、聳孤を撫でている。 「しかし、青燐が退位しちゃったから、僕が最長の長だなあ」 「そうね。あなたはいつごろまで?」 「んー、あと五年くらい? まあ、まだ計画だけだけどね。後任を育てなきゃいけないし、戻るのだって準備が要るからね」 もう少し気長に頑張るよ、とつぶやく黒燐を見やりつつ、霞月もまた、手を伸ばし、獣を撫でた。 「……彼の視線の意味を、眼に宿る感情の意味を、今まさに知ったよ。理解できていれば、また変わったのだろうか……いや、詮ないことかな」 獣が、耳をぴくぴくと跳ねさせる。 もの静かな眼差しは、「気にすることはありませんよ」と語っているようでもあった。 「あたし、たまに顔を出して、お墓の掃除をすることにするわ。それから、お師匠様に中央都でのお話をするわね」 黄燐が近づき、手を伸ばすと、聳孤は顔を上げ、彼女にじゃれかかる様子を見せた。それは、どことなく、師弟がたわむれるような微笑ましさを伴っている。 虚月も、霞月も微笑んだ。 「ああ、それはよい。妾も時おり訪れるとしよう、なに、話し相手のひとりもいれば、退屈するまいよ」 「そうだね、私たちも時々様子を見に来るよ。――何せ、長い付き合いだから」 「僕も来ていい? 研究したいっていうのもあるけど、やっぱり気になるからさ」 めいめいに再訪を約束し、それぞれ、己が責務を果たすために帰ってゆく。 聳孤は、その背を、いつまでも見送っていたという。 こうして、破壊しない天魔、木行には見えない天魔は、今日も今日とて、愛しい娘の眠る地で、その守に勤しむのである。 * * * 秋保陽南が、西都を魔より守護する降魔掃討部隊のひとつ、辛三番隊隊長へと抜擢されたのは、ロストレイル13号がワールズエンド・ステーションより戻ってから通算で十三年目、彼女が再帰属して十一年後のことだった。 当然、小心な陽南は、諸先輩方、猛者のもろもろを差し置いてなぜ自分なのかと――むしろ何かの間違いではないのかと、上役に涙目で詰め寄ったものであるが、上役からは「昨今の危機管理能力と集団指揮能力が評価されて」という説明があり、任命儀式の日取りまで、あれよあれよという間に設定されてしまったのだった。 「いやッ、あの、そッ……えええ、三番隊の人たちも大歓迎? そ、そん……あわわ、あわわわわわ」 異世界の言葉で言えば、『盛大にテンパ』りながらも任命の儀に臨んだ彼女は、ひとりの、気になる人物を目にする。 彼女が守護のために働く西都の長、金行を司る白燐その人である。 都を守護する降魔掃討部隊隊長の任命の儀であるから、都市の頂点に立つ天人が出席していることは当然だ。 しかし、陽南が気にしたのは、その当然さではなかった。 「白燐さま……や、やっぱり、見覚えがある……!?」 覚醒当初の陽南は、降魔掃討部隊の下っ端であったので、金行長の尊顔など拝したことはなかった。せいぜい、遠くから伺う程度のものだ。 その『見覚え』は、この世界でのものではなかった。 「や、やっぱり、そうだ……0世界の、『たあみなる』という場所で……!」 まさか、覚醒していたのは自分と黄燐だけではなかったのか。 まさかまさか、他の五行長も皆、覚醒していたというのか。――戻ってみて耳にした、“五行長同時期失踪事件”という言葉から、だいたいの想像はつくものの、西都一のお偉いさんと空間を共有していたかもしれない、まったく自分のほうでは予測もしないうちに粗相をしていたかもしれない、そこまで考えたら、世界が回転した。 辛三番隊の新隊長、秋保陽南は、任命の儀で気絶するという、前代未聞の歴史を打ち立てることになったのである。 * 「……あいつ、大丈夫なのか」 自分を見るや否や棒切れのように気絶した灰色狼の娘を見下ろし、白燐は嘆息する。 引っ繰り返った彼女を、他の隊の隊長たち全員が取り囲み、何ごとかを囁き合っている。そのあと、妹であり十二番隊隊長でもある美智が、陽南を支えて立ち上がらせるのが見えた。 介抱の甲斐あって、すぐに息を吹き返した彼女は、自分が隊長たちに取り囲まれているのを知ってまたしても気絶しかけたようだったが、今度はどうにか持ちこたえた。 白燐は溜息と笑いの双方を堪えつつ、 「そうか、陽南もロストナンバーになっていた時期があったんだな」 黄燐の言葉を思い出していた。 「灰色狼の隊員、借りるわよ、だったか」 本来ならば、このような厳格にして厳正な儀式の場で気絶するなど、懲戒ものである。強大な降魔を相手取り、日々戦わねばならぬ掃討部隊の構成者、しかも隊長が、軟弱な精神の持ち主では困る。預かる隊を危機に陥らせることすらあるだろう。 しかしながら、今回の件は、さすがに、強く責めるのも気の毒というものだろう。 白燐は紙面に筆を滑らせる。 『此度の失態は不問に処す』、そうしたためたのち、隅に小さく『黄燐が迷惑をかけた』と書き添えたそれを側近に託し、白燐は儀式の場を後にした。 部屋を出る直前、振り返ったところ、白燐からの通達文を食い入るように見つめていた陽南が、膝から崩れ落ちていたような気がするが、目の錯覚だろう、おそらく。 * 時は、滔々と流れ、 「――長かったわ」 ロストレイル13号の帰還から通算で二十一年が経っていた。 赤燐が故郷へ帰還し、再帰属してから、十五年が経過した換算になる。 この年、ようやく、次代の赤燐となるに相応しい資格者が現れた。非常に力の安定した、優秀な人物で、試験では歴代最高得点の記録を打ち立てたという。 赤燐は、そもそも、赤燐になる予定ではなかった。 南都を救うため、護るためにはそうするしかなかったからこそ、赤燐の位をいただいただけなのだ。相応しい資格者が現れ、試験というかたちで問うても、何も問題が出ないなら、赤燐の座を譲るのは当然のことなのだ。 「やっと、ただの天人に戻れるのね」 彼女は、晴れやかに笑った。 五都それぞれの魔法陣が安定したのもあって、世界は平らかな状態が続いている。 新しい五行長たちの勤勉さもあって、おそらくこのまま、穏やかな日々が続いてゆくことだろう。それを思えば、『つなぎ』として即位し、勤め上げた時間のすべてが誇らしい。 「朱鷺に、何て言おうかしら」 支え続けてくれた夫の顔を想い浮かべつつ、元赤燐だった自称おばさんは――敷城透香といううつくしい名を持つ火行天人は、足早に帰途につくのだった。 5.【悪魔のための楽団】ペトルーシュカの行方 Ⅰ: 「氏家ミチルを死なせない方法はありませんか」 そう、ルサンチマンは問うた。 『彼』は眉を跳ね上げる。 「なぜ、それを訊く」 「なぜ……なぜ、でしょう。判りません、しかし」 ルサンチマンの答えは茫洋としているが、『彼』にとって面白くない事実であることは確かだ。 『彼』は従者を手招いた。 従順に従う彼女の顔面を鷲掴みにする。 ルサンチマンは抗いもしない。 「……無用なものが生まれたな」 瞬間、魔力のざわめきと、小さな破裂音。 * ふと気づくと、樹海にいた。 ロナルド・バロウズは眉をひそめ、周囲を見渡す。 「なんだ、何が……」 傍らにはルサンチマンがたたずんでいるが、彼女の様子もおかしかった。 「ルサンチマン?」 声をかけても反応がない。 (敵の仕業だ) 彼の中の、悪魔の欠片が言う。 誘い込まれた、と、焦燥を覗かせる。 「……ついに、始まるのか」 ロナルドは、幼馴染が書いた楽譜を握り締め、覚悟を決める。 「ふたりを救う。――見ていてくれ、ロズ」 * 有馬 春臣が駆け付けたとき、ミチルの姿は消えていた。 「遅かったか」 『欲望』が動いたことは、『理性』からすぐに有馬へと伝わった。 ――もともと、“その時”が近いことは判っていたのだ。 『欲望』が、その司るものの名前通り、己が欲望――否、それは飢餓に近い渇望であったかも知れない――を叶えるために、最後の手に打って出るだろうことは。 「あれにはあれの望みがあるのだろう。その望みそのものを否定することは、私には出来ない」 しかし、有馬にも譲れない思いがある。 「私の望みを――みゆきとの約束を果たす。何より、あの駄犬には言わねばならんことがある」 彼の中の『理性』は、運命が樹海の一角に集いつつあることを告げる。 ゆえに、彼もまた、進むのだ。 * 「そろそろ、ッスかね」 ミチルの中の悪魔が、欠片たちの接近を鋭敏に感じ取っている。 ――本当は、知っていたのだ、己の中に悪魔がいることを。 しかし、そのことを誰にも告げていない。 心配をかけたくなかったし、『欲望』を欺くためでもあった。 最後の戦い、などというほど恰好のいいものではないが、少なくともミチルたちがここで敗北することは、大切な人たちの危機を意味する。 「……いろいろ、アザッシタ」 脳裏を、家族や楽団員たち、従者、これまでに出会った人々の顔がよぎってゆく。たくさんの思い出がミチルの胸をあたため、また、締め付けもする。 そう、ミチルはもう、己が命には頓着するつもりがなかった。 護るため、償うために戦い、結果斃れることがあっても後悔しない、そう決めていたのだ。 そんな、悲壮な覚悟を固めているミチルだったが、 「なぁに今生の別れみてぇなこと言ってんだ、お頭! あんた、そんな弱気な人じゃあねぇだろう?」 サロス・エヴィニエスを筆頭とした【明の義翼】の面々は、まったく動じていない。 「……皆、ここは危険なんス」 本当は、ひとりで来る予定だったのだ、ミチルは。 【明の義翼】にも内緒で出てゆくつもりが、野生の獣ばりに鋭敏な――その辺りはミチルもいい勝負だが――感覚を持つサロスたちを出し抜くことは難しく、なし崩しに今に至る。 「危険だからこそ、だろうが」 「でも」 「――お頭、あんた覚悟を決めてるね。あんたみてぇな眼をしたやつを、俺たちは何人も見てきた。皆、誠実でまっすぐな、偉大なやつらだった。だが、もうこの世にゃいねぇやつらばっかりだ」 「サロスさん」 「あんたが何と言おうと俺たちはここにいるぜ。あんたを死なせるようなことになっちゃ、あんたの姫さんにも申し訳が立たねぇ」 サロスの言葉に、男たちが頷く。 ミチルは唇を引き結び、拳を強く握りしめた。 「……ッス」 * ロナルドとルサンチマンは絆を結んだ。 ロナルドは、俺が君を助けると誓った。 ルサンチマンはミチルを大切に思っていることに気づいた。それゆえに、主に抗おうと決めた。 ミチルは有馬に「優しいのは自分がみゆきの生まれ変わりだから」と言ってしまっている。 有馬は、大人の良識やプライドで必死に考えまいとしていたが、ミチルを愛しているかも知れないことに、薄々気づいていた。 ――人々の縁と想い、渇望が複雑に絡み合い、そして、最後の戦いが始まる。 Ⅱ: 戦いは唐突に始まった。 まっすぐに突っ込んできたルサンチマンが、悪魔の――ミチルのもとへ走ろうとした有馬と対峙する。 「退いてくれ、ルサンチマンくん。時間がないんだ」 しかし反応はない。 両手にひとつずつのジャマダハルを揮い、無言のまま斬りかかるルサンチマンを、有馬は瞬間移動で避ける。 (奇妙だ、有馬) 彼の中の『理性』が言う。 (彼女は、自我と感情を封じられている) 誰が、などと今さら問うまでもないだろう。 有馬は眉をひそめた。 食器を贈ったとき、たどたどしくも誠実に礼を言ったルサンチマンの姿が脳裏をよぎる。彼女が、胸になんの痛みも抱かぬ冷酷非情な悪魔の従者だとは、有馬は思わない。 そのルサンチマンが、悪魔を――その宿主であるミチルを、むざむざ危険に陥らせるとも思わないのに、 「目を覚ませ! 氏家くんを護りたいのではないのか!」 呼び声に、彼女が応えることもないのだった。 (私ではどうすることも出来ない。機会を伺え、有馬) 『理性』の言葉に頷き、有馬はルサンチマンと向き合った。瞬間移動を繰り返し、ルサンチマンの猛攻を躱しつつ、隙を伺う。 「ルサちゃんに何をした!」 そこへ、飛び込んできたのはミチルだった。 まさに弾丸のごとき、有馬先生をして「あれは同じ日本人なのか」と言わしめる速度で突っ込んできた彼女は、ジャマダハルを躱すや否や跳躍し、ルサンチマンの仮面に手をかけた。 瞬間、魔力の波動が周辺の空気をたわませる。 『欲望』がルサンチマンに施した封印に干渉しているのだ。 今や忠実な悪魔の――『欲望』のしもべであるルサンチマンは、主命に反するその干渉に抗ったが、それは、ミチルの中の悪魔によって抑え込まれた。 「役立たずが!」 雷鳴のごときその声は、いったい誰のものだったのか。 激しいそれに空間がたわむ。 皆、それに打ち据えられ、よろめいた。 うわんうわん、と、割れ鐘めいた残響が頭の中身を揺さぶる。 声の孕む力に叩きのめされ、ルサンチマンは倒れた。 「ルサちゃん……ッ!」 駆け寄ろうとしたミチルの前に『欲望』が立ち塞がる。 「僕は、きみに幸せになってほしい」 否、それはロナルドだった。 『欲望』の干渉を受けているせいか、様子がおかしい。 何が見えていて、何が見えていないのか、ミチルからは判らない。 しかし、 「ドクだって、きみのことを大事に思っている」 その言葉に、ミチルの胸は燃える。 「あいつを追い出すんだ……彼のためにも」 「違う!」 氏家は叫んでいた。 有馬は確かに、彼女に優しい。 しかしそれは、自分が『転生したみゆき』だからだ。 「自分じゃない!」 『駄目だ、氏家ミチル』 悪魔とミチルの意識がぶれた、その一瞬の隙をつき、浮上した『欲望』が悪魔に直接ダメージを与える。悪魔の苦痛がミチルにも伝わり、彼女は思わずよろめいた。 「おい、大丈夫なのか」 ロナルドは眉をひそめる。 ロナルドはミチルたちを助けたいのだ。傷つけたいわけではない。 (騙されるな、あれは演技だ。お前の同情を惹き、こちらを出し抜く機会を伺っている) しかし、ロナルドは気づいていない。 『欲望』が自分を欺いていること、味方のフリをしてロナルドを騙し続けていることを。 「悪魔を倒せば、ルサンチマンは戻るんだな」 (ああ) 悪魔の所業は許し難い。有馬とミチルを殺したのは彼なのかもしれない、とも思っている。 しかし、この時、ロナルドの中には小さな疑念が生じていた。 ――なぜ、『欲望』はルサンチマンを攻撃したのか? ロナルドは希望を棄てたくないと思っている。ミチルが己に宿る悪魔に気付いているなら殺さずにすむかもしれない、と。 有馬もまた、他の従者とは違うルサンチマンを仲間と見なしつつある。 『理性』の力があれば殺せるのかもしれないが、できればそんなことはしたくない。 同時に、錯綜した情報を整理し、自分たちを殺したのは『欲望』だとロナルドに伝えなくてはならないと切実に思っている。 『欲望』の攻撃を受け、ミチルは再度吹っ飛んだ。 樹海の端々から息を飲む気配が伝わってくるが、目くばせで抑える。まだ『その時』ではないのだ。 「……力を、貸してほしいッス」 ミチルもまた、ルサンチマンを大事に思っている。 そのために自分が出来ることをしなくてはならない、と。 それぞれがそれぞれを想う気持ち、絆。 自分よりも大切な『誰か』への切実な想い。 それらが交錯し、ほんのわずか、彼らに隙を生んだ瞬間のことだった。 「この時を待っていた!」 高らかな――哄笑にも似た声が、辺りに響き渡る。 いくつものことが、同時に起こった。 Ⅲ: 悪魔は、ミチルの中へ侵入した『欲望』に吸収された。 ロナルドと有馬を、鋭い闇の刃が貫く。即死は免れたものの、ふたりは血にまみれて大地へ沈む。 『理性』も『欲望』によって吸収され、ミチルの魂も奥深くへと閉じ込められた。 それらは、有馬やミチル、そして彼らの中にいる悪魔の隙をついた、ほんの一瞬の間に起きた。 今や主意識となった『欲望』は、ミチルの姿で哄笑を響かせ、倒れたふたりの男めがけてとどめの一撃を放つ。 (間に合わない、死ぬ) 有馬は、朦朧とする意識の中、『仕立て屋』にもらった糸巻を思い出した。 瞬間、【調律】が響き、有馬に余力が戻る。誰が、と思う暇すら惜しみ、有馬は願うのだ、ほんの少しだけ時間を戻す力を秘めた、不思議な糸巻に。 (聞き届けたよ) その声は、現実だったのか、それとも有馬の願望が抱いた幻想か。 同時に奇妙な浮遊感があって、気づけば攻撃を受ける直前まで時間が戻っている。記憶は保たれたままだ。 「ロナルド君!」 ロナルドはもはや理解している。 己が、『欲望』に欺かれていたことを。 悪魔を憎み切れない、疑いきれない心につけこまれ、『欲望』に都合のいいように動かされていたことを。 「面目ない、ドク」 詫びながら、ロナルドは今や氏家ミチルとなった『欲望』に精神干渉を仕掛け、攻撃を遅らせる。本体と『理性』を吸収し、力を増しているはずが、なぜか力はすんなりと通った。 「気に負うな。私が君でも、同じことをした」 共感の頷きとともに防御壁を張り、有馬は攻撃を防ぐ。 「……妙だ」 ロナルドと並び立ち、次に備えつつ有馬は首をかしげる。 「何が」 「思ったより、強くない」 「誰かが、干渉を?」 「ないとは言えないな」 短くやり取りをしつつ、『欲望』が放つ攻撃を弾き、防ぐ。 『欲望』は苛立った様子で次々と攻撃を繰り出したが、有馬とロナルドを傷つけることは出来ず、やがてその標的は倒れたままのルサンチマンへと移った。 「ルサンチマンくん!」 一度、二度と防御壁を張り、有馬がルサンチマンを護るが、攻撃は執拗だ。ロナルドが干渉で回復を試みるものの、未だ封印の一部は有効で、彼の思惑は阻害される。力を弾かれ、指先が痺れた。 ぴしり、防御壁がほころぶ。 「踊らない人形なら、要らない!」 『欲望』が断罪めいた高慢さで嗤う。 ――間に合わない! ルサンチマンは聞いていた。 (すまない) (ありがとう) 詫び、感謝するロナルドの内なる声を。 そして、己をかたちづくる、三人の音楽家たちの声も。 あなたはペトルーシュカじゃない どうしたい? 決めていいんだよ 心のままに進めばいいんだ 私たちは決めている――最初から あなたとともに、戦う ルサンチマンは、ロナルドが言った言葉を今でもはっきりと覚えている。 「君は君だ。紛れもなく君自身なんだ。君は自由だ。たとえ、三人の人間が素材だとしても、何も怖がらなくていい。――怖がるな」 それは彼女の心に光をともした。 「私は」 言葉がこぼれる。 その時、鋭く空を切る音とともに放たれた何かが飛来し、ルサンチマンの仮面を割った。地面へ突き立ったそれは、鋭い裁ち鋏の姿をしている。 「私たちは!」 ルサンチマンの眼が開かれる。 そこには、意志の光が戻りつつあった。 Ⅳ: 打ち合わされたトラベルギアが、殷々と響く音を奏で、有馬たちを包み込む。 音叉の音が鳴り響く。同時に、ロナルドと有馬の傷が癒え、疲労は溶けるようにほどけて消えた。【調律】、そう呼ばれる、不要なものを除き必要なものを引き寄せる力が、有馬たちに力を与える。 一瞬遅れて『欲望』が放った力は、何ものかのつくりだした防御壁に阻まれて消える。 「私は望んだ。私は行動する。私たちは、想える、行動できる!」 『欲望』の封印は今や完全に消滅していた。 そして、ルサンチマンに――否、望まれた“ルサちゃん”にロナルドの回復が届き、彼女は起き上がる。それとともに、『何もない部分』へ引っ張られるようにロナルドと有馬の姿が消え、次の瞬間にはルサンチマンの傍らへと移動している。彼らが転移されるのを確認すると同時にルサンチマンは『跳』んだ。間一髪で、『欲望』の攻撃が三人の足元を抉る。 「ルサンチマン」 ロナルドが呼ぶと、ルサンチマンは彼を見た。そして、ほんの少し、微笑んだのだ。 目を瞠るロナルドへ、胸を張り、 「私たちは、標本でも傀儡でもない」 きっぱりと言ってみせる。 ロナルドはにやりと笑ってルサンチマンの肩を叩いた。 「救うぞ、彼女を」 「言われるまでもありません。何か、策が?」 「君の【調律】は、どこまで招ける」 「『必要』であるならば、どこまでも」 「なら……求めてくれ。彼女のために」 言って、ロナルドはヴァイオリンを構える。それは、攻撃に使うためのものではなかった。 ルサンチマンがジャマダハルを打ち鳴らすと、音はまるで暗く静かな地底湖に滴る雫のように殷々と――滔々と流れ、深まってゆき、ある種の、不思議な空間をつくりだした。胸が鎮まるようなその音を聞きながら、ロナルドは弦に弓を当てる。 次の瞬間、音楽はあふれだした。 「!?」 今や悪魔の主意識となった『欲望』から驚愕の呼気が伝わってくる。 ロナルドは、『欲望』が何をもくろんでいたか知っている。 かれは本体たる悪魔を吸収し、ロナルドたちを殺してその記憶や魂を取り込み、自分自身が最高の音楽家になろうとしていたのだ。そもそも、『賭け』の発端は、悪魔の、音楽への執着、自分が音楽家になりたいという飢餓のごとき願望だった。粉々に砕けた悪魔から、『欲望』が分離したとして、かれが目指すものがなんなのか、かれの『欲望』とは結局どこへ帰結するものなのか、少し考えれば判ることだった。 それは身勝手な、醜い私利私欲なのかもしれない。 しかし、その気持ちがロナルドには判ってしまう。こんなにも愛しながら――呼吸と同じくらい必要とし、求めながら手が届かない、能力、才能というもの。自分にはそれがなく、なによりも愛しているものを、自らの手ではつくりだすことが出来ないという羨望、渇望、絶望。 だからこそ、ロナルドには、『欲望』が攻撃を止めてしまった理由が判るのだ。 【調律】の音が響き渡ると同時に、すべての【悪魔のための楽団】メンバーは集った。幻影として、しかし確かに。彼らはめいめいに楽器を手にしている。そして、ルサンチマンのジャマダハルの音を合図に、音楽を奏で始めたのだ。 その音楽に、たとえいかなる理由があったとしても、悪魔が、その『欲望』が聴き入らないなどということがあるはずもなかった。 「ああ」 氏家ミチルの声で『欲望』が嘆息する。 その眼には、童子のように素直な歓喜と、隠し切れない羨望が瞬いている。 音楽は、虹のごとく極光のごとく、南国の砂浜に寄せては返す波、密林に降りる夜のとばり、孤高の峻嶺を染める曙光のごとくに、彼らの意識を包み込んだ。 そしてそれは、ミチルも例外ではなかった。 「有馬、今です!」 ルサンチマンが鋭く言う。 有馬は見た。 塞がれ、閉ざされていた【氏家ミチルの魂への道】が緩んだのを。 「気張りなよ、ドク」 ロナルドのからかうような応援に顔をしかめてみせながら、有馬は駆け出す。飛び込む。 瞬間、光る波が、彼を包み込む。 * そこには、ふたりの娘がいる。 みゆきはうずくまる少女を護るように凛と立ち、ミチルは泣いている。 「自分、殺してしまったんス。人を。姫を――有馬先生を探しに行った途中に。死にかけたとき、殺したくないと死にたくないがぶつかって、結局、エゴが勝ってしまったんス」 ずっと閉じ込めてきた罪の意識と想いが、ほろほろ、ほろほろと、涙といっしょに零れ落ちる。 「自分のせいッス。自分が弱かったから。先生が知る必要も、気に病む必要もないことッス。全部、自分がやったことだから。――罪を忘れるようなことはしないッス。全部、最期まで、持っていく」 けれど、と、ミチルはまた泣く。 「だけど、先生はお医者さんッス。人の命を助けたり、護ったりするのが先生の仕事ッス。どう考えたって、“医者”の先生には相応しくないッス……それに、先生の大事なみゆきを穢してしまったッス」 人の命を救う男に、人の命を奪った自分が恋することなど許されまい。こんなにも好きで、どうしようもなく好きで、今でも、彼を想うだけで、心の奥底に光が灯るような気持ちにさえなるとしても。 だから、自分はこのまま消えてしまうのが相応しい。 この気持ちを抱いたまま、何もなかったことにするのがいい。 「いい加減にしろ、この駄犬が!」 有馬は、それを一括した。 ミチルの身体が驚愕に跳ね上がり――小柄さに似合わず、三メートルは跳んだ――、それから、彼女は恐る恐るこちらを見る。 「あ……有馬先生? なんで、ここに!?」 有馬は、それには答えなかった。 「相応しいか否かは、私の決めることだ。違うか!」 魂は同じでも、ふたりはまったくの別人だ。 どうしてそんな簡単なことに気づかないのだろうか、この駄犬は。 呆れつつ、有馬は指をびしりと突きつける。ミチルはきょとんとした表情をし、それから、泣きそうな顔をした。 「でも、」 「貴様はいつでも口だけだ。いつでも、自分のことを後回しにする。――犬だ騎士だと自称するなら、主の言うことを聞いたらどうだ!」 そして、声のトーンを落とす。 それは労わるような、慈しむような調子だった。 「一度だけでいい、聞いてくれ」 「姫……もとい先生、いや姫」 「姫でも先生でも好きにしてくれ。いいか、一度しか言わないぞ」 つかつかと歩み寄り、ミチルの肩を掴む。 「私は、君が大切だ。みゆきの魂のいれものだからじゃない。君が、君だからだ」 だからこそ、罪をいっしょに背負いたいのだ。 だからこそ、今、この場において、自分の想いからも逃げず、認めるのだ。 そう、彼女を愛していると。 「いっしょに生きてくれ、ミチル」 手を伸ばし、引き寄せ、抱きしめる。 自分からはぐいぐい押すくせに、自分が押されることには弱いらしい野生系武闘派女子高生は、息を詰め、固まる。 「まったく……不器用な犬だな」 彼ら“ミディアン”が奉ずるは悪魔のみ。 しかし有馬は、この時ばかりは、世界中に存在する貴いなにもかもに、ミチルの幸せを祈った。 「――行って」 その時、みゆきが口を開いた。 彼女は微笑んで、ふたりを見つめている。 「大丈夫……全部、うまくいくから」 瞬間、ふたりの身体がふわりと浮かんだ。 「……みゆき」 彼女は、有馬へ微笑んでみせ、 「彼を、お願いしてもいい? あなたになら、出来るから」 ふたりを掬い上げるように、両手を空へと掲げた。 ミチルは、身体の奥底から力が湧き上がってくるのを感じつつ頷く。 「ありがとうッス」 みゆきが無邪気に、嬉しそうに笑う。 ロナルドの精神干渉が『欲望』に効いたのは、ミチルが内側から抑えていたからだ。 みゆきは、『欲望』にミチルが乗っ取られてからも、彼女の魂が潰されないよう守っていた。 有馬は、ミチルが人を殺した可能性を前から考えていた。傷つけたくなくて聞けなかったことを、後悔している。彼女は、有馬のために旅に出たのだ。ミチルが罪と背負うなら、責任は己にもある。 結局のところ、誰かが誰かを、誰もが誰かを想っている。 彼らはそれゆえに弱くなり、それゆえに強くもなり、――そして、最後の“運命の輪”が回り出す。 しかし、未来を悲観視するものは、ここにはいなかった。 Ⅴ: ミチルの双眸がくわっと開く。 野獣そのものの動きで跳び起きた彼女は、 「自分たちの仇と皆の怒りッス!」 怒声というより咆哮めいた声とともに『欲望』を――悪魔本体を自らの中から弾きだした。 ヒトと似た姿ではあるがヒトではない、黒い翼と角、縦に瞳孔の切れた赤い目、黒檀めいた肌を持つそれが、ミチルからにじむように――実に忌々しげに飛び出してきて、彼女から距離を取る。 「ウオオオオオオオオオオ!!」 唐突に上がった野太い雄叫びは、これまでの経過を、森に潜みながら、まさに固唾を飲んで見守っていた【明の義翼】のものである。 「さすがはお頭だぜぇ……悪魔との戦いに勝ったんだ!」 「お頭の雄姿……今、太陽よりも輝いてるぜ……!」 「あっやべえ、俺、感動のあまり泣けてきたわ」 「俺も俺も」 のんき極まりない義賊たちがやんやの喝采を送る中、有馬とミチルは現実へと帰還する。ルサンチマンが安堵めいた表情をかすかに浮かべ、ロナルドはぐっと親指を立てた。 「反撃ッス」 ミチルに、もう迷いはない。 大好きな人が、いっしょに生きてくれといったのだ。 みゆきもミチルも、有馬のことが大好きなのだ。ならば、他に、何か大切なことがあるだろうか? 「皆、悪魔を足止めしてほしいッス! 安全第一に、でも確実に! 優雅かつ妖艶に、蝶のように舞い、蜂のように刺すッス!」 「うわーそれ義賊の皆に言うべきことでもないような気がするんだけど気のせいかな……ってか、なんか変なビジュアルで想像しちゃいそうだからやめてよ! っていうか来た来た、脳内に来ちゃったからねコレ!? 僕の無駄な想像力に完敗!」 蝶のように舞い蜂のように刺すセクスィーな【明の義翼】面子を想像してしまったらしく、ロナルドは吐血寸前である。 「相変わらずにぎやかだなロナルドくんは」 「彼の動きの珍妙さは、時々、正確なデータを取りたくなるほどです」 「お褒めの言葉ありがとうね! うん、泣いてない!」 それぞれ、軽口が飛び出す。 ――皆が感じているのだ、ここが正念場だと。 同時に、畏れるものなど何もないと。 気を取り直したロナルドがヴァイオリンを構える。弦に載せられた弓が、高く澄んだ音を響かせれば、こしのある、どこか艶めいた三味線の音がそれに重なった。 ミチルは大きく息を吸う。 豊かで伸びやかな、澄んでうつくしい――同時に力強さもある歌声が、殴りつけるかのように強烈なエネルギーを孕み、ミチルから迸る。 音は絡まり合い、支え合い、お互いの音がお互いの音を増幅するエネルギーでもって、徐々に徐々に力を増してゆく。 きっと、音は届くだろう、主導権を奪われた悪魔にも。 「させるかッ!」 『欲望』が有馬たちへと襲いかかろうとするが、 「おっと、そうはさせねぇぜ!」 「ここを抜きたいんなら、俺たちを黙らせてから行くんだな!」 かれの攻撃は氏家ミチルファンクラブこと【明の義翼】の面子によって阻まれる。ルサンチマンも足止めに加わった。 その間にも、ヴァイオリンと三味線、歌声は、螺旋を描くかのように高まってゆき、ひとつの音楽をつくりだそうとしていた。 ロズ作曲、ヴァイオリン協奏曲。 ――それは、運命のうつくしい流れであり、予定調和であり、未来に抗った人々の、想いの結果でもあった。 「ああ……」 ヴァイオリンを奏でながら、ロナルドが小さな嘆息を落とす。 「そうだったのか。このために、楽譜は『旅』をしたのか。――そういうことだったんだな、ロズ……」 なぜか彼らを追うように世界を流れ、姿を現した友人の楽譜。有馬とミチルが編曲を手伝いもしたという、絆と想いのこもった楽譜だ。 その意味が、今、判った。 「なら、奏でよう。ロズ……きみの想いがこもった楽譜なら、なおさら」 音楽が渦を巻く。 演奏されているのは三つの楽器だけのはずなのに、今、この空間には、フルオーケストラより神々しく、重厚でエネルギッシュな音楽が満ち、たゆたっていた。 音楽が悪魔を包み込む。 この音の螺旋は、確かに今、悪魔のために奏でられた、かれだけの音楽だった。 「ああ……」 漏れた嘆息が、『欲望』のものなのか悪魔のものなのかは判らない。 しかし、それはかれを揺さぶり、打ち据え、――そして、ついには覚醒させる。悪魔に力が戻るのを、楽団員たちは言葉なく感じ取る。 悪魔は『欲望』をも掌握し、再び自分の中へと取り込んだ。『欲望』は消える瞬間、悔しげな表情をしたが、それはどこか満足げでもあった。 音楽が終息する。 同時に、悪魔の眼がきらりと光った。それは、『欲望』の持ちえる眼差しではなかった。 「……ふむ。面倒をかけたな」 その言葉で、彼らは、長い戦いが――いくつかの分岐を孕んだ運命という名の流れが、一応の帰結を見たことを知るのである。 「まったくだ。もう少し手綱をしっかり握りたまえ」 が、有馬先生などは忌々しげだ。思い切り迷惑をかけられたのだから当然ではあるのだが。 と、そこで、ここぞとばかりにロナルドが自己主張する。 「賭けは僕の勝ちだね。勝者は願いごとをかなえてもらえるんだよね?」 『賭け勝利者の願いごと』の前貸しを要求するロナルドに、悪魔が苦笑を漏らす。 「それで?」 「あんたの不正を告発しない代わりに、だ」 「……何のことかね」 「言いたくなきゃ、別にそれでもいいよ」 「聞くだけ聞こう」 「ひとつは、それぞれが望むかたちで皆を自由にすること! ふたつ目は、有馬と氏家とルサンチマンが、あんたの支配から離れても死なないようにすること。で、三つ目は」 「……贅沢なやつだ、三杯目までお代わりとは」 「人間は悪魔より貪欲なんだよ」 「なるほど、それで?」 「俺と同化しろ。気合で才能を残したまま!」 ロナルドが指を突きつけると、悪魔は目を見開いた。 ロナルドは、してやったりとばかりに笑った。 「いやあ、すごいね僕。音楽家になりたかった悪魔の願いを叶えちゃうんだもんね! 僕これもうどう考えても勝ってるでしょ、賭けにも。――褒めたたえるがいい!」 「自分で言っていたら世話はありません、ロナルド」 ルサンチマンのツッコミに、ロナルドは笑う。 人としての魂を失うから転生できなくなるし、天国に行くことも出来ない。しかし、この程度のペナルティならむしろ幸運だとすら思う。 「まったく……なんという反則行為だ」 言いつつも、悪魔は笑っている。 ふたりは歩み寄る。 双方、片手を差し出す。 「……ロナルド君」 有馬の、複雑な色合いを含んだ声に、ロナルドはへらりと笑った。 「別に、何も変わらないよ。僕は僕だ」 そうだろ? と視線だけで問えば、ルサンチマンは頷く。 「おっさんの悪魔か、悪魔のおっさんか……どっちを先に持ってくるかで、印象が変わるッスねぇ」 ついでに言うと、ミチルが言葉でロナルドを抉るのも変わらない。 「ミチルくん君ほんと……いやいや、泣いてないからね。おじさん強い子だから」 軽口を叩きつつ、呆れ顔の――しかし眼は笑っている――悪魔と手のひらを触れさせる。かすかに空気が震え、悪魔の姿が掻き消えると同時に、ロナルドの肌の色が変わる。双眸に赤が宿り、瞳孔は縦に切れた。 「なるほど、こういう感じかー。ミステリアスさが増してちょっとダンディになったんじゃないの、僕」 『ダンディはどうでもいいが、肝心の音楽はどうなのだ』 「ちょっとくらい浸らせてくれてもいいと思う……まあいいや、では、さっそく」 今や悪魔となったロナルドがヴァイオリンを構える。 やれやれとばかりに、しかしロナルドが変わらなかったことを安堵する体で有馬が三味線を手にした。ミチルは「おっさんはおっさんで変わらねッス」とロナルドを抉りつつ、満面の笑顔で息を吸う。 次の瞬間、あふれ出た音楽に、義賊たちは感動の涙を流しつつ拍手喝采を贈り、ルサンチマンは充足の笑みを浮かべて聞き入った。 彼らだけの即興コンサートが、樹海の片隅を楽園の彩へと変えてゆく。 * ダンジャ・グイニは、やれやれ、と大きく伸びをした。 「大団円、だね」 つぶやくと、巨木の枝から飛び降りる。踵を返し、歩き出す。 「そうだ、ミチルくんロナルドくん、君たちには言わなければならないことがあるぞ。いいか、今回のことには、もっと連絡を密に取り合って対処すればこじれずに済んだ案件も少なくない。『ほうれんそう』というだろう、ひとりで背負い込んで、自分だけで対処しようなどと――……」 以降、有馬の小言がくどくどと続く。 ミチルは、姫の小言萌えッスなどと、すっかり調子を取り戻しているようだ。ロナルドだけが彼女に気づいて、こちらを見たのが判ったが、ダンジャは振り返らず、手だけを掲げて振った。それで通じただろうとも思う。 彼女にとって、楽団の面々は弟妹のようなものだ。 何かしたかったが、出来ることは限られていた。 だから、まだるっこしいほど回りくどく、わずかな手助けを重ねてここまで来たのだ。 「発端は不正――だけど、それがあったからこそ、この最善へ至れたとも言える。――どっこいどっこいだね」 悪魔は、人間たちに契約を迫る。 ひとつの願いと引き換えに、楽団員となるように。 人間たちは運命に追い込まれ、悪魔の手を取るのだ。 ――しかし、時に悪魔は、巧みに立ち回り、その力を行使して、『契約せざるを得ない』状況をつくってもいた。有馬とロナルドは、以前からそのことを疑っていた。 「お人好しの勝利、でもあるのかもねぇ」 しかし、音楽への深い愛のため、ロナルドは悪魔を憎み切れなかったのだ。誰でも悪魔のようになりうる。その渇望を嗤うことは誰にも許されない、と。だからこそ、彼の中に『欲望』が宿ることになったのかもしれない。 「……一度は、手出しはしないと決めたけど」 ロナルドに時間を戻す糸巻を託し、ルサンチマンの仮面を割ったのはダンジャだ。防御の一部を手伝ったのも。 何かがしたかった。 その何かは、おそらく叶っているとも思う。 「さて……呑みにでも、行くかねぇ」 もう、何の心配も要らない。 彼らの絆は、これからも彼らをつなぎ、護り、温めるだろう。 それが判るから、ゆったりと歩くダンジャの唇は、穏やかな笑みに彩られている。 6.そして、日々はつづいてゆく ラス・アイシュメルは、ワールズエンド・ステーションが発見され、ロストレイル13号が情報を持ち帰り、ロストナンバーたちの故郷が少しずつ判明しても――そして、ロストナンバーたちの顔が少しずつ変わっていっても、彩音茶房『エル・エウレカ』の常連であり続けた。 「こんにちは、火城」 今日も今日とて、ラスは、異世界からの土産を手に、いつも通りの『エル・エウレカ』を訪れている。 「おや、いらっしゃい。今回はどこへ行っていたんだ?」 火城は、武人然とした強面に、穏やかな笑みを浮かべて彼を迎え入れた。 ラスが何も注文しなくても、まず、甘くて温かいホット・チョコレートに、薄く焼かれたさくさくのビスケットが饗される。子どもっぽい嗜好は何年経っても変わってはおらず、ラスは笑顔でそれを受け取る。 とろりとしたホット・チョコレートひと口啜り、大きく息を吐いた。 「うん、マイナス階層のほう。けっこう深いところまで行ったよ。世界中が戦っているようなところで、――あれ、もうあんまり長くないんじゃないかな、世界の寿命」 「ああ、それでそんな疲れた顔をしているのか。まあ、少しゆっくりしてくれ」 外面を整えることにかけては並ぶもののないラスも、火城の前では素が出る。というより、火城の前で外面を気にする必要がないことを学んだ、というほうが正しい。 贖ノ森火城という名の、顔だけ見ればいつ斬りつけてきてもおかしくないような厳しさを備えたこの男が、自分を決して裏切らないこと、そして彼が自分に向けてくれる温かな眼差しや言葉、気持ちに何の偽りもないことを、ラスは、そう長くはないが短くもない付き合いの中、実感を伴って理解するようになっている。 「シャンヴァラーラにも行って来たよ。帝国にも、『電気羊』にも。皇帝はアレ、不死身なの? 不老不死なの? 会いに行くたび元気になってる気がするし、若返ってるような気もする。観に行くたび、ロウの苦労性っぷりも上がってる気がする」 「さあ……至厳帝国皇帝と言えば、神の絶対的な庇護と愛を受ける身だ、老化が遅くなっていても、おかしくはないだろうが。帝国は落ち着いたか」 「落ち着いたっていうか、ますます繁栄してるっていうか? 『華望月』とも全面的に和解が成立して、今は貿易なんかも盛んなんだって。折衝役、っていうの? 『華望月』の大使には、ノブナガとマサムネって人がついたみたいだよ」 「なるほど。順調、ということだな」 「うん。どこの【箱庭】も、それぞれ、自分たちなりにやってるみたい。ただ、トコヨの棘の脅威は去ったけど、【箱庭】同士をくっつけることは考えてないみたいだね?」 「そのようだ。分かたれて五百有余年ともなれば、あのままで特に問題もないんだろう。そのほうが、諍いにもなりにくいのかもしれない」 「まあ、どんなに平和で穏やかな世界でも、ヒトに心がある限り、ちょっとした争いなんかはなくならないだろうからね。なんにせよ、ボクが見るぶんには、穏やかな感じだったよ」 ビスケットを齧りながらラスが言うと、火城は心持ち、ホッとした表情を見せた。もしかしたら、当人にはその自覚もないのかもしれないが。 「そうか、ありがとう」 「お礼を言われるようなこと、したつもりはないんだけど……」 ラスは小首をかしげてみせたが、贖ノ森火城の中に、影のように付き従い、残る、信ノ城ユキムラの魂が、それで少しでも安らぐのなら、本望だとも思うのだ。 「さて、引き続きご注文は? お客さん。よい報を聞かせてくれた礼だ、何かご馳走しよう」 「そうなんだ? ええと……じゃあ、季節の甘味プレートってやつがいいな」 ほどなくしてやってきた『季節の甘味プレート』では、しっとりしたガトー・オ・ショコラに甘さを控えめにしたふわふわの生クリーム、濃厚なカスタード・クリーム、滑らかなヴァニラ・アイスクリームが載せられていた。黒ゴマのチュイールと抹茶のラング・ド・シャ、ざくざくのビスコッティがアクセントとして配されていて、柑橘系の果物に、兎のかたちにカットされたりんご、食べやすい大きさにカットされたキウィフルーツやいちごがそれぞれに目を楽しませてくれる。 デザート版お子様ランチとでもいうべきそれに、ラスがたいそう喜んだのはいう間でもない。 「あー、なんだろ、ボクちょっと成長した?」 「何がだ?」 「いや、この、『甘さ控えめ』の美味しさ、判ってきた気がするから。濃いチョコレートのほろ苦さと、生クリームの滑らかさが、実はすごく合うんだって、判ってきたっていうか」 薫り高いガトー・オ・ショコラに生クリームを載せ、咀嚼するラスに、何度か目を瞬き、それから火城はやわらかく微笑んだ。 武骨な手を伸ばし、ラスの頭をわしゃわしゃっと掻き回す。 当然、スキンシップなどというものに不慣れなラスは戸惑い、焦り、赤くなる。 「ちょ、なに」 「いや、すまん、つい」 すまんと言いつつ、火城はどこか嬉しげだ。 「……なに?」 「ん? いや、ラスはどんどん成長しているんだな、と思って」 幼子を見守る兄だか父だか母のような物言いに、ラスはまたちょっと赤くなる。 「味覚ひとつで大袈裟じゃない?」 「視野が広くなった。いろいろなものごとを試してみるだけの余裕が出来た。自分から、少しずつ、居場所を増やそうともしている。――どうだ、成長してるじゃないか」 「何で火城のほうが偉そうなのさ。まあ……うん、そう言われるのは、嫌じゃない、けどさ」 火城のいうとおり、ラスは今でも、少しずつ変わりつつある。 ひとを想う余裕が出来た。 自分以外の何か、誰かに目を向ける視野が育ってきた。 どうでもいいと切り捨てず、考える時間もつくれるようになった。 何より、復讐しかなかったあのころとは違い、少しずつ、時間をかけてではあるが、自分が落ち着く場所、地面に足をつけてしっかり踏ん張れる場所を、ラスは開拓しつつあるのだ。 「<真理弾>は、今も探しているのか?」 火城の問いにも、素直に頷く。 「……うん」 復讐を諦めたわけではない。 永遠にも等しい時間、与えられた苦痛を、忘れてはいない。 忘れられるはずがない。 「だけど、実を言うと」 「うん?」 「それを見つけたとき、本当に復讐を実行するかどうかは、ボクにも判らなくなってきてるんだ」 彼らへの怒り、憎悪はまだ、ラスの中から失われてはいない。恨み言のひとつやふたつ、吐き出さずにはいられないという思いもあるが、同時に、ラスは理解することも出来た。 神々の苦悩と絶望、苛立ちを。 それを許すつもりはない。許さなくてもいい、と、火城をはじめとした親しい人々は言う。許さなくては、と苦しむくらいなら、許さなくても、許せなくてもいいのだ、と。 しかし、そう言ってもらったおかげで、ラスに余裕が出来たのも事実だった。 客観的に自分と彼らを見つめ、考え、決める。今はまだ、その途中なのだ。それでいいと、ラス自身、思っているのだ。 だから、<真理弾>を手に入れ、故郷へと戻ったとして、自分が何を、どう選択するかは、ラスには未知数なのだった。 「……そうか」 ラスの言葉に、火城は真紅の眼を細め、それからまた、手を伸ばして彼の頭を撫でた。 「火城はちょっとボクを子ども扱いしすぎだと思う」 「子どもじゃないほうがいいか?」 「いや……ええと、うん、いや、このままでいい」 ラスの頭を撫でる、火城の手は大きくて温かい。 「ああそうだ、これ。次の旅に出る時の、備えに」 「あ、……うん、ありがとう」 故郷を探すため、<真理弾>を見つけるため、そして心や思考の幅を広げるため、ラスは時に気忙しいほどの頻度で旅に出る。 そのたび、火城は、新しい絆創膏をくれるのだ。治療のために、というよりは、お守りだった。そこには、いつも、火城の、旅の無事を祈る想いがこめられている。 「まあ、怪我なんかはしないに越したことはないんだけどな」 「ボクは怪我しても一瞬で治るんだって。火城だって知ってるでしょっていうか、見たでしょ」 「見たとも。だが、それでも心配だし、あんたが痛い思いをするのは、やっぱり、気の毒だ」 「……」 とことん直球の言葉に、ラスはまた頬を赤く染め、言葉を失って、鮮やかな緑色をしたキウィフルーツを、強引に口の中へ放り込むのだった。 照れ隠しのそれを、火城は、穏やかな笑みとともに、見ている。 * * * その世界は、滅びの時を迎えていた。 大地が砕け、空はひび割れ、風は死んでゆく。 音は失われ、色は霞み、光は崩れ、闇さえ壊れて、何もかもが無へと還ってゆく。 生き物たちは、もう、姿を消しているようだった。 どこかへ旅立ったのか、それとも完全に失われてしまったのか、見えない場所で最期を迎えようとしているのか、判らない。 ただ、目の前に広がる光景からは、もう、命の営みを見出すことはできない。 ものごとには、始まりと終わりが必ずある。 だから、その終焉も、大いなる理に則った、正当なものなのだろう、きっと。 そうして、世界計は還るのだろう、それらを生み出した原初の地、はじまりの場所へと。 「……」 枝折 流杉は、黙ってそれらを見つめ、見送った。 何十年か昔、ここを訪れたときは、こんな光景を目にしようなどとは思ってもみなかった。 「……さよなら」 あの時の彼は、哀しみと絶望に覆われていて、ただ足早に立ち去っただけだった。世界の、命の、人々の営みは、彼の胸に痛みを、空虚さをもたらしただけで、(どうせいつかは喪われる。どうせいつかは、僕の前から消えてしまうんだ)流杉の心をあたためはしなかった。 しかし、今なら、判る。 世界は、ひとは、命は生きた。 この終わりを、心あるものたちは哀しみ、苦しみ、絶望したのかもしれない。 それでも、世界は懸命に生き、与えられたいのちをまっとうしようとしている。最後まで足掻くことすら、世界への愛だと言えた。 世界は消える。 しかし、世界が生きたこと、そこに命が、想いがあったことは消えない。 「さよなら……またいつか。――忘れない」 世界計だったものが還り、循環し、再び旅立つのが理ならば、因果の果てで、いつの日か出会うこともあるだろう。それを人は、えにしだとか希望だとか、呼ぶのだろう。 流杉は唇を引き結び、その終焉を見守った。 ――哀しみは彼の双眸を濡らしたが、しかし、流杉の胸を、絶望が侵すことは、なかった。 * 万象の果実と呼ばれる異世界、シャンヴァラーラの一角に、『どこでもない場所』ゼロ領域と、再誕都市アレグリアはある。 「流杉――ッ!」 丘を登ってくる流杉に気づき、タリスはぴょこん! と飛び上がった。 絵筆を置き、一目散に駆け出す。 「危ないよ、転ばないように気をつけて」 隣で絵を描いているクレオ・パーキンスが、くすくす笑いながら言うのへ、くるくる回って手を振った。 「やあ、タリス、クレオ」 駆け下りたタリスが飛びつくと、流杉は静かな笑顔を見せた。 「やあ、流杉。調子はどう? 旅は、順調かい?」 「そうだね、まあ、それなりに……ってところかな。あ、これ、お土産」 クレオと流杉のやり取りを、タリスは交互に見つめ、流杉が差し出した紙の箱を、目を輝かせて受け取った。 わくわくしながら開けてみると――なにせ、流杉の持って来てくれるお土産は、毎回毎回、驚かされるものばかりなのだ――、そこには、エメラルドのように透き通る葉と、銀の葉脈と、銅の幹、枝を持つ、小さな樹が、鉢に植えられて、入っていた。 「わ、すごい、きれい!」 「異界の植物を持ち込むのは、ご法度なんじゃないのかい?」 「そうなんだけど、どうしても見せたくて。だから、世界に影響を与えないよう、夜女神に処理してもらっているよ。この程度なら問題ない、とも言われた。まあ、内緒だけどね」 「これは、どこの?」 「もう、滅びてしまった世界の」 「……ああ、それで」 「うん。何十年前だったかな、一度、訪れたことがあってね。とても美しい世界だったから、せめて、偲ぶよすががほしいと思って。ここで預かってもらってもいい?」 「もちろん。それにここは、すべての魂が巡り来る再誕都市だから。もしかしたら、その世界の誰かが、ここで目覚めるかもしれないものね」 タリスは、そんなやりとりをじっと聞き、それからぴょこん! と手を挙げた。 「ねえねえ、絵を描こう? この、樹の!」 「ふむ?」 「世界、なくなっちゃったの、哀しいけど。でも、僕たちみたいに、また出会える人が、きっといるよ。その人たちがここに来たとき、判るように、絵を描いて、飾ろう?」 「そうだね、そうしようか。――失われた世界への、せめてものはなむけに」 クレオが言い、絵筆をとる。 今まで描いていた絵を脇に避け――といっても、もうほとんど完成している――、真っ白なキャンバスをイーゼルへと立てかけた。 「ぼくも! 流杉も、描こう?」 「判った判った。判ったから、腕を引っ張らないで」 苦笑しつつ、流杉が、いつ行っても用意されている、彼のための椅子に腰かけ、イーゼルの前に陣取る。 タリスは、上機嫌でそれを見やり、そして、今や最後の忘れ形見となった、小さな樹を見つめた。 タリスがシャンヴァラーラに、ゼロ領域の再誕都市に再帰属して、どのくらい経っただろうか。 相変わらず、シャンヴァラーラを訪れるロストナンバーはいて、新しく覚醒した人々もいて、彼らが時々顔を見せてくれるから、ターミナルを思い出すことはあっても、タリスが寂しい思いをすることは、あまり、なかった。 「タリス」 「なあに、流杉」 無心で手を動かし、キャンバスを見つめながら、ぽつりと流杉が名を呼んだ。 タリスは首をかしげる。 「――……今、幸せ?」 問いというより確かめるようなそれに、タリスはクレオと顔を見合わせ、流杉を見つめ、にっこりと笑う。 「うん、幸せ!」 「そっか。アレグリアの人たちは、やさしい?」 「うん。ぼく、みんなみんな、大好き。クレオのことも、流杉のことも、みんなみんな、大好きだよ!」 打ち棄てられた場所で、ただ消えてゆくだけだと思っていた。 けれど、タリスは、佳き人々に恵まれた。 見出され、救われ、世界を知った。 大切な人を喪ったときは本当に哀しかったけれど、その人とも再会することが出来た。そして、その人といっしょに生きることを許された。 何より、大好きな人たちと、大好きな場所で、絵を描くことができる。 この日々を、幸いと言わずして、なんと呼べばいいのだろうか? 「……そうか、そうだね」 「流杉、流杉は?」 「うん?」 「流杉は、幸せ?」 タリスが尋ねると、流杉は一瞬、考え込んだ。 言葉に詰まったのかもしれなかった。 彼は、旅人のまま、世界の『彩』を見る在りかたを選んだ。 ひとところには長くとどまらず、あちこちへ出かけてゆき、定期的にターミナルに帰り、シャンヴァラーラを訪れる、そんな日々を続けている。 「そうだね……哀しいことは、あるよ」 ややあって、流杉はぽつりと言った。 幸せなばかりではないだろう。 世界の理不尽さが、暴力的な、悲劇的な別れを突きつけることもあるだろう。 しかし、 「だけど」 「だけど、なに? 流杉」 「うん……そうだな。僕は、絶望することは、なくなった」 流杉は、静かに微笑んでいた。 「世界の在りかたは、時に一方的で、冷徹で、無慈悲にも思えるけれど、いのちが、懸命に生きていることは、判ったから」 だから、うん。 流杉は頷き、続ける。 「結局のところ、僕も、幸せなんだろう」 それは、タリスの小さな胸をあたためるのに十分な言葉だった。 「うん、ぼくも幸せ。流杉も、クレオも幸せ。それってすごい! なんだかすてき!」 脈絡なく飛びつくタリスを苦笑とともに抱き留める流杉を、 「そういえば、僕は少しお腹が空いたよ。何か、食べに行きたいな」 「おや、奇遇だね、俺もだ。タリス、そろそろお昼にしようか」 クレオが、近所で評判のレストランのランチに誘う。 陽光の照らすアレグリアで、穏やかな営みが続けられてゆく。 * * * 「お帰りなさい、天摯さん。今日も、お疲れさま」 橘神 繭人は、穏やかな笑顔で同居人を迎え入れる。 「ああ、ただいま、繭」 挨拶を返す天摯も笑顔だ。 「シヴァは?」 「依頼で、ヴォロスに行ってる。お土産に、スパイスを買ってきてくれるんだって」 「そうかえ。では、そのスパイスで、鶏でも焼こうかのう」 「あっ、それ、おいしそう。あと、俺、今度、インヤンガイの依頼を受けようかなって」 「ひとりで、かえ」 「うん。人探しなんだけど、手が足りないからって、火城さんに頼まれて。――あの、別に、調子に乗ってるとか、そういうのじゃなくて」 「なぜそこで己を卑下する。問題などあるはずなかろう。繭、ぬしはこの数年で、見違えるほど立派になったのじゃ、胸を張るがよい」 「えっ……そ、そうかな……」 「繭の一挙手一投足どころか視線の先まで見ておるわしが言うのじゃ、間違いない」 他愛ない会話が交わされる。 繭人は、その他愛なさに、胸を締め付けられるような幸福を覚える。 ――ここに、もうひとりの同居人、シヴァ=ライラがいたら、間違いなく天摯の文言には突っ込んだだろうが。 「天摯さんのほうは?」 天摯から甲斐甲斐しく外套を受け取り、かたちを整えて仕舞いながら問うと――ちなみに、最初のころは「そのようなことをせずともよい」などと言っていた天摯だが、最近では「壱番世界で聞くところの『新婚さん』のようじゃの」と悦ぶ駄目っぷりを発揮している――、少年の姿をしながら千年以上の時を生きる“神位のつくり手”は、少し、肩をすくめてみせた。 「まァ、ぼちぼちじゃな」 新しい法に則って活動するターミナル警察の一員に天摯が就任して、それなりの時間が経った。新法が発令されたのちも、ターミナルは、結局のところいつも通りで、佳いことも悪いこともほどほどに起きる。 そのため、残念ながら、ターミナル警察も、暇で暇で仕方がない、というようなことにはなっていない。 「また何かあったの? 強盗と果し合いと魔力暴走の話は聞いたけど」 「覚醒したばかりの魔獣どのが、人が喰いたいと大暴れなすっての。説得するのに、少々手こずった」 「説得……」 「物理的な、の」 「ああ、うん、だよね。たいへんだなあ」 「多種多様な人々――ですらない、あまりにも多くの存在が暮らす場所ゆえ、いうても詮なきことではあるがの」 とはいえ、天摯に疲れた様子はない。 何度か起きたいざこざや小競り合いに駆り出され、何日も不眠不休で鎮圧に当たったところで特に問題がない程度には頑丈な人物である。持久力には不安のある繭人から見れば、この人の体力は無尽蔵なのではないかというほど、天摯は頑健だ。 「でも、無理はしないでね。俺、天摯さんが怪我をしたり、痛い思いをしたりするのは、やっぱり、嫌だから」 夕飯の支度をするね、と台所へ引っ込みつつ繭人が言うと、天摯は、眉根を寄せ、口元というか鼻を片手で抑えていた。 「えっ、どうしたの天摯さん、大丈夫!?」 「うむ、感極まって鼻血が出そうになっただけじゃ、問題ない」 まったくもって問題だらけのことを言っているが、残念ながら貴重なツッコミはヴォロスに出かけていて不在のため、警察官がそんなことでいいんですか天摯さん、というような案件は、このままさらっと流される次第である。 「今日は、タケノコご飯と鰆の塩焼き、白魚の玉子とじ、菜の花のお浸しだよ。お汁はけんちん汁で、デザートにはいちごがあるよ」 丁寧に、しかし手際よく、繭人は夕飯を仕上げてゆく。 それを見守る天摯の眼は、限りなく優しい。 繭人は気づいていないものの、言動こそ駄目な大人まっしぐらの天摯ではあるが、彼が繭人に寄せる愛情には寸分の曇りも揺らぎもない。天摯ともうひとりの同居人が愛し、支え、励まし、褒め、背を押してくれたおかげで、繭人は前を向いて歩くことができるようになった。 実を言うと、元の世界は見つかっている。 帰ろうと思えばいつでも帰れるが、繭人はそれを選択しなかった。 帰ったところで、あの世界に繭人の居場所などないのだ。 それに、姿を消したとはいえ、花贄である繭人が生きていれば、橘神の家は、新しい贄を選ぶ必要はなくなる。そして、繭人が生きている限り、橘神家の守護神、アケハヤヒは、あの家を護り続けてくれるだろう。 そんな思いもあって、繭人は、ターミナルに残ることを選んだ。 「天摯さん、次の巡回っていつだったっけ」 「わしの隊の担当は、一ヶ月後じゃな」 「その時は、手伝ってもいい? あと、みんなのぶんのお弁当、つくるよ」 「おお、それは、励む甲斐もあろうというもの。先だっての弁当は、皆、たいそう喜んでおったしのう」 天摯がターミナル警察に就任し、ひとつの隊を預かる身となったのもあって、その手伝いを細々と続けている。天摯とシヴァ=ライラがいてくれたらそれだけでいい、というのが、繭人の偽らざる気持ちだった。 「うん、俺、がんばるね」 「頑張らずともよいが、期待はしておるよ」 くつり、と天摯が笑った。 その眼は、やはり、とても優しい。 こうして暮らし始め、ターミナルに残ることを決める少し前、迷惑ではないかと訊いたことがあった。自分のような人間のお守をずっと続けてゆくことは、天摯たちにとって負担ではないのか、と。 馬鹿者、と叱られた。 迷惑と思うような相手といっしょに暮らすような真似をすると思うのか、と。 魔族の大公は、もっと自信を持ちなさいと苦笑とともに諭してくれたし、天摯は天摯で、わしは繭が可愛いからいっしょにいたいのであってそれ以上に大切なことなど何もない、繭の立ち姿で三杯飯が食えるわしを見くびるな、などと問題発言をぶちまけて――何が問題なのか、繭人自身は理解していなかったが――同居人に猛烈なツッコミを喰らっていた。 なんにせよ、それは、つまるところ『ずっとここにいてもいい』という許しだ。そして、世界の誰からも望まれていなかった繭人が、『ここにいてほしい』と望まれているという救いだ。 そのことが判ったから、繭人はもう、それだけで幸せなのだった。 「ああ、忘れておった。土産じゃ」 天摯が、懐から、綺麗に包装された小さな箱を取り出す。 「何?」 「焼き菓子じゃと。長官どのの客が置いてゆかれたのを、分けてもらった」 「わあ、嬉しいな。じゃあ、お茶を淹れなくちゃ」 繭人は笑い、奇妙な、しかし深い感慨とともに、小箱を受け取る。 何でもない、他愛ない、当たり前のような日常が、彼らを包んでいる。 そして、それは続いてゆくだろう。 (アケハヤヒさま、俺は今、幸せです) 自分を覚醒させ、送り出してくれた樹木神に感謝しつつ、繭人は幸せを噛みしめるのだった。 * * * 「うむ……少々、緊張してきたのう」 ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは、そわそわと落ち着かぬ様子で周囲を見渡し、椅子から立ったり座ったりを何度か繰り返した。 壁の時計を見やれば、約束の時間まで、あと三十分である。 「……いよいよ、か」 まるで、最終決戦に臨む戦姫のごとき凛々しい面立ちで、ジュリエッタはつぶやく。 ロストレイル13号の帰還より、実に五十年が経過した。 現在、ジュリエッタは、0世界で暮らしている。念願のイタリア料理喫茶店のオープンまで、あと数日となっていた。 カフェ『Pomodoro』は、無類のトマト好きという彼女がつけるに相応しい店名と言えるだろう。 店の名を刻んだ看板には、ピッツァ・マルゲリータと自身のセクタン名にちなんだ三色のオウルフォーム・セクタンが彫られている。 店内には、『熱愛』『隠し切れない胸の想い』を花言葉に持つジギタリスの鉢植えが配置されている。シンプルで落ち着いた模様の壁紙、丸みを帯びた背もたれの椅子及びテーブルが数席、小説をはじめとした本を置いた木製の棚のある、小ぢんまりとして可愛らしい――我が家のように寛げるカフェを目指した――店である。 ジュリエッタは、そこで、親友に仕立ててもらった民族衣装を着て、人を待っていた。 開店前のカフェに招く誰かと言えば、ひとりだけだ。 「火城殿は、この店を、どう言ってくれるかのう」 ほう、と溜息をつき、ジュリエッタはつぶやく。 唇にはやわらかい笑みが浮かんでいる。 実を言うと、この期に及んで、ふたりは友達以上恋人未満の関係を続けている。 なにせあの朴念仁、相当に手ごわく、ロマンスだのふたりきりの甘いひと時だの切ない胸の痛みだのとは無縁の生き物で、たくさんの障害を乗り越え、紆余曲折を経て結ばれた両親のことを思うと、時々溜息をつきたくもなるジュリエッタである。 そのくせ、ジュリエッタを全面的に信じ、彼女が向ける想いをすべて受け止め、彼女がするすべてのことを――もちろん、中には失敗もあった――許し、彼女がそこにいることを当然のように喜ぶのだから、タチが悪い。 しかし、ジュリエッタは、自分が火城の『特別』の中でも独特の――ほかに代えることのできない位置にいると知っているし、彼が自分を裏切らないことも、自分がそこにいることで彼に穏やかな時間を与えているという事実も理解している。 だからこそ、時おり歯痒かったり、物足りなかったりすることもあれ、他の『特別』に対して、少女めいた嫉妬心を抱くこともあれ、自分もまた特別であると知っているがゆえに、そしてそれが揺るぎないことを実感とともに理解しているがゆえに、焦りはしていないのだった。 無論、ここに至るまでには長い道のりがあった。 ロストレイル13号の帰還から二年後には大学を卒業し、イタリアへと移住した。後見人の支援を受けながらイタリア各地の郷土料理を学び、料理の腕を磨いた。この間は、料理人としての修業のため、コンダクター活動を制限している。 十五年後には、彼女の認識するところ、唯一の肉親であった祖父が他界。その死を看取ったのち、日本の実家は信の置ける他者へ譲渡し、0世界へと移った。以降はターミナルを拠点に置き、コンダクターとしての短期の依頼と、壱番世界への旅に専念した。 この、壱番世界への旅で、ジュリエッタは、故郷の世界に残る親しい人々に別れを告げ、ついには0世界への完全移住を果たすのである。 ――そして、五十年が経った。 これまでの足跡に思いを馳せるにつけ、時の流れとは速くもあり遅くもあるのだ、と、何とも言えぬ感慨を抱くジュリエッタである。 * 贖ノ森火城は、約束の時間の、きっかり五分前にやってきた。 この辺りの几帳面さ、生真面目さは、出会ってから五十年以上が経っても、まったく変わっていない。 しかし、 「開店おめでとう、ジュリエッタ」 まさか、あの朴念仁が、腕に花束を抱えていようとは。 しかも、この強面の男が、鮮やかな赤や桃色、黄色の花々を組み合わせた、ヴィヴィッドな花束を選ぼうとは。 「これは、火城殿がわたくしに?」 「ん、ああ。佳いことがあるときには花を贈るのがいい、とどこかで聞いた。――間違っているか?」 「いや。とても嬉しい……ありがとう」 まさかの心遣いに頬を染め、ジュリエッタは花束を受け取る。 この花は早速フリーズドライにする手筈を整えねば、などと思いつつ、ジュリエッタは彼をテーブルへと案内した。 「来てくれてありがとう、火城殿。おぬしはわたくしの店の、最初のお客さまじゃ。……注文を伺っても?」 「そうだな、あんたのお薦めで、というのはありか?」 「それこそ、望むところじゃ」 火城の贈った大輪の薔薇のごとくに微笑み、ジュリエッタは頷く。 そうして、対面型のキッチンへと脚を踏み入れた。 そこはシンプルだが勝手のよいつくりで、とてもよく整頓されている。きれいに拭き清められ、磨かれた、気持ちのよい場所だ。 「いいキッチンだな。そこで料理をするのは楽しそうだ」 「ふふ、わたくしもそう思う」 「あと、その衣装」 「うむ?」 「とてもよく似合っている。あんたらしい、と言えばいいのかな」 「……そ、そうか」 まさか、まさかの連続で、ジュリエッタは思わず口ごもった。 他者の外見になど興味を示したことすらない男が、仮にも特別の存在とはいえ、そして新しい衣装とはいえ、『身に着けたもの』を褒めるなどと、正直言って、想像すらしていなかったジュリエッタである。 これは心臓に悪い、などと思いつつも、長年の修行で培った腕前で、ジュリエッタは手際よく料理を仕上げてゆく。 ナラゴニアで採れたきのこ、ポルチーニに似た深いコクと味わいを持つそれを、濃厚な生クリームとハード・チーズのソースとともに和えたパスタ。最高級のプロシュートとベビーリーフ、チコリ、トマトやセロリをオリーブオイルのドレッシングで和えたサラダ。仔牛のもも肉を、セージとオリーブオイルでグリルし、ブランデーで風味をつけたあと、ブラックオリーブとともにブイヨンで軽く煮たステーキ。イタリアはトリノの伝統的飲み物、エスプレッソ、ホット・チョコレート、ミルクが三層に積み重ねられたビチェリン。そして、上層にムース、下層にゼリーを配した、フルーツトマトのドルチェ。 それらを、タイミングよく出してゆく。 「いかがかの」 武骨な朴念仁は、しかし品のある手つきでカトラリーを操り、ジュリエッタの出した、心づくしの料理を、ひと品ひと品、丁寧に――確かめるように味わった様子だった。 「ありがとう、堪能した。何というか、日ごろ、自分がもてなす側にいるぶん、新鮮な気持ちだ。もてなされるのも、面映ゆくていいものだな」 「そう言ってもらえれば、何よりじゃ。わたくしとて、『エル・エウレカ』へ往けば、そのような思いをさせてもらっておる、ということゆえな」 ジュリエッタは満足げに微笑む。 皿や茶器を片づけたのち、向かい合って座り、ほうじ茶など淹れて他愛ない話に花を咲かせたところで、ジュリエッタはぽつりと言った。 「……もうじき、ロストメモリーの儀式があると聞いた」 「ああ。希望者の話も聞いている。あんたも、か?」 「うむ」 小さくうなずく。 「覚悟は出来ておる」 「そうか」 火城は、それ以外のことは言わなかった。 ジュリエッタはまた微笑んだ。 「ありがとう、火城殿」 「何がだ? 今、俺はあんたに感謝されるようなことをしたか?」 「うむ、無論じゃ。今のわたくしは、おぬしのおかげでここにいるのじゃから。その火城殿とともに歩みたい、その決意と覚悟のゆえに、0世界の民となるのじゃ」 失われ空虚となる記憶を惜しみはする。 しかし、今の火城を見ていれば判る通り、失われたからといって無になるとも、ジュリエッタは思っていない。 ジュリエッタが今まで培ってきたもの、触れてきたこと、感じた思い、経験、積み重ねは、それが表層からは失われたとしても、ずっと彼女をかたちづくり、支え、動かすだろうから。 「五十年としたのは、ロストナンバーになっておらねばそろそろ人生を終える頃じゃから。いつぞやは何かを犠牲にしてまでも選ぶ愛とは判らぬと言っておったが……そんなわがままな想いこそ愛なのじゃとも思う」 しみじみとつぶやく。 「ただ、人のためを思い、考え、行動する親愛とはまた別のもの。そんなわがままなふたりの心が一致すれば……強き愛が生まれるのじゃろうかのう」 火城は、そうか、と相槌を打ちながら聴いているが、愛などという複雑なものを、彼が本当の意味で理解するのはいつなのか、むしろそんな日が来るのか、ジュリエッタには判らない。判らないが、それでもいい、とも思うのだ。 「わたくしが火城殿を想う気持ちになんら変わりはない。火城殿が、わたくしを特別と想うてくれることも知っておる。それ以外、それ以上に大切なことなど、何があろうか」 それは、世界を長く旅し、見聞を広め、経験を積んだジュリエッタが辿り着いた、ある種の透徹でもあるのだった。 「……そうだな」 頷き、火城がジュリエッタを手招く。 「?」 小首を傾げ、傍へ寄れば、 「俺は、感情というのが、実を言うといまだによく判らない。あんたには申し訳ないが、色恋なんてものはなおさらだ」 「うむ、致し方あるまい」 「だが」 「うむ?」 火城の武骨な手が、ジュリエッタの横顔へ添えられる。 「火城殿?」 見上げるジュリエッタへ、火城は静かに微笑んだ。 そして、 「あんたがこうやって、傍にいてくれるのは、俺にとっても幸せなことなんだろうと思うよ」 そんな言葉とともに、ジュリエッタの額へと、そっと唇を触れさせたのだった。 「な、な、な!?」 「これからもよろしく、ジュリエッタ」 真っ赤になって口ごもるジュリエッタに、それを特別なこととも思っていない風情で火城が言い、 「あああ、まったく、この御仁は……!」 衝撃さめやらぬ彼女は、これだからタチが悪い、そんなことを思いつつも、また一歩近づいた心に、甘くやわらかい想いが込み上げるのを、抑えきれずにいるのだった。 * * * こうして、旅は終わり、始まり、終わってはまた、始まる。 すべての人々は、それぞれの思いとともに、日々を歩み、自らの行き先を定めてゆく。 世界群は、0世界は、ターミナルは、それらの人々を送り出し、受け止め、時に見送るだろう。 そして、世界は、続いてゆくのだろう。 いくつもの心と、それぞれの結露を載せて。 (それでは、佳い旅を!)
このライターへメールを送る