ロストレイル13号が帰還した。 その報せに、ターミナルは喜びと活気に包まれる。 ようやくたどり着くことの出来たワールズエンドステーション。そこを通じて理論上、すべての世界群を探し出せるようになったという話は、ツーリストたちに大きな希望を与えた。 高揚が去った後、旅人たちは静かに、今までと、これからを思う。「これ、ください!」「オレは、これな!」 『Pandora』のカウンターでぼんやりとしていたティアラ・アレンの前に、何冊もの本が積み上げられていく。すぐにそれは視界を遮るほどの高さになった。 メムとイムの仕業だ。「お前らさ、前のを読んでからにしろよ」 そこへ低い声が追いかけてくる。「だって、もうおわりそうなんだもん! ルルミルシリーズ、すっごくおもしろいの!」「そうそう、エミウスの冒険も! 売り切れちゃったらどうすんだよ!」「あとね、チッチおばさんのレシピで、おりょうりおぼえて」「この数字のトリック!? っていうのも、勉強になると思うし」「……わかったよ」 二人の猛攻に、ジルヴァは大きくため息をついた。「毎度ありがとうございます。二人はすっかり本が気に入ったみたいで嬉しいわ」「ぼさっとしてるようで、案外商売上手なんだな。少しはまけてくれよ?」「ええ、サービスさせてもらいます」 ティアラは微笑み、会計に入る。 新春運動会以来、彼らはここへとよく立ち寄るようになった。「そういえばさ、13号が帰ってきたんだって?」 本が少し減って出来た隙間から、イムが顔を出しつつ言う。「ああ、ワールズエンドステーションに到着して、前館長のエドマンドだっけ? そいつと、ロストレイル0号を救出したって話だ」「いろんな世界にも、いけるようになったんでしょ?」「みたいだが、それはまだまだ、時間がかかるようだな」 ティアラは会話を聞きながら、ふと湧いてきた疑問を口にしてみた。「みんなは、元の世界が見つかったら、帰りたい?」 イムとメムは強く、何度も何度も首を横に振る。 そして弾かれたように背後を見た。「俺も帰る気なんかねぇよ。もうゴタゴタはうんざりだ」 そう言ってジルヴァはカエルとウサギの上に大きな手を置く。「それに、今はこいつらの保護者だしな」「お荷物だったら、無理しなくていいんだぜ?」「ほんとは、おじさんがさみしいんでしょ!」 返ってきた言葉は、嬉しげな音を含んでいた。 彼らのように、故郷に未練を持たないと言う者は、数多くいる。 本心かどうかはわからない。でも、ティアラには想像もつかないほど過酷な世界が無数にあるのも事実だ。 もし自分の故郷もそういう場所であったなら、帰りたいと思うことはないのかもしれない。「お前ら口ばっか達者だな。この前だって――」「ちょっと、ヘンなこといわないでよね!」「そうだぞ、すぐムキになって大人げないんだからな!」 口では色々言いながらも、結局は仲の良い三人を微笑ましく見ていると、故郷の家族の姿が脳裏に浮かんでくる。 口下手だけれども根は優しい父。落ちこぼれの自分をいつも笑顔で励ましてくれた明るい母。 祖父は時に厳しく、祖母はおっとりとしていて、どちらも本を読む楽しさを教えてくれた人だった。 家族だけではない。 特に仲の良かった二人の友人、クラスメイトや先生、よく通った古本屋の店主、姉のような存在だった隣人――沢山の人たちの顔が、声が、言葉が、頭の中に映し出されては消えた。「ティアラは? かえりたい?」 メムに問われ、浮遊していた意識が戻ってくる。「……ええ。この世界にも愛着があるけど、やっぱり、故郷だから」 だが、戻ることが出来たとて、ティアラのことを知る人も、ティアラが知っている人も、もう存在しないかもしれない。 覚醒してからの年月を数えることはしないと決めたはずなのに、気がつけばそれを確認している自分がいる。 それ程の長い時間を、自分はこの世界で過ごしてきたのだ。 その時、隣でにゃぁぁ、と声が上がる。「そうだね、あなたもいるよね」 灰毛猫のリルデは首もとを撫でられ、気持ち良さそうに目を細めた。 馴染みのない世界で出来た相棒の存在が、どれだけ大きな心の支えとなったかしれない。 それから少しずつ日々を積み重ね、こうして店を構えるまでにもなった。「ねぇ」 小さく息をつく彼女に、メムが再び声をかけてくる。「本、つくってよ。……メムと、イムと、おじさんの本。きねんにするの」「それいいな!」 イムもすぐに同意し、ジルヴァは苦笑いをする。「何の記念だよ」「だって、こんなことあったよって本になったらたのしいし、あとで読み返したらおもしろいじゃん! ――あっ、メムのけっこんしきのときによんだら、おじさん、ないちゃうね!」 イシシ、と笑ったメムにイムも続く。「ティアラも自分の本、作ろうぜ! そんで、ターミナルのみんなの本も作るの、どうだ? もしどっか行っちゃっても、ここのこと、思い出せるだろ?」「……そうね」 その明るい空気につられるように、ティアラも笑顔になっていく。 今までも、そうやって本として残してきた。 自らの世界を見失い、誰彼も解らぬ世界へと放り出された先で、星座の名を冠した列車と出会い、旅をした人たちの物語を。 彼らがこれからどこへ行こうとも連れて行ける思い出を、作ってあげられたらいい。 ティアラは立ち上がると、書庫の扉を開けに行った。======<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆するシナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。======
「ここは、どこなのかしら」 気がつくとティアラは、見知らぬ街に立っていました。 いつものように学校に遅刻しそうになり、あわてて走って、近道をしようと細い路地へと入ったはずなのですが、この場所はそこを抜けた先というわけではなさそうでした。 学校の高い塔や、今にも雨をこぼしてしまいそうな重たい灰色の雲や、その隙間を走る雷も、どこにも見えません。 どうやらティアラは、迷子になってしまったようでした。 ◇ ◇ ◇ 北極星号の帰還、そしてワールズエンドステーション発見により訪れた0世界を覆う熱気は、しばらく冷めそうにはなかった。 オーリャも世界樹が鳴動した際に影の刃を使って参戦し、ロストレイルの出発を手助けした身であるから、感慨深いものがある。 ターミナルを散策すれば、人々の笑顔や明るい声に必ずといっていいほど出会った。 『あなたの物語、作ります』 画廊街を歩いていた時、そんな文句が目に留まり、チラシを手に取る。 『Pandora』という古書店のものらしい。この近くにある店のようだった。 興味を引かれたオーリャは、そこへと向かってみることにする。 「いらっしゃいませ」 中へと入ると、店主ティアラの明るい声に迎えられる。眼鏡の奥の茶色い瞳が、にこやかにこちらを見た。 灰色の太った猫も、にゃぁ、と一声鳴いてから、またごろんと寝そべった。 「こんにちは」 挨拶をしてから、少し店内を見て回る。 本棚の本はジャンルごとに整理され、高さや厚みもばらばらでありながらも、出来るだけ揃えようという意思が感じられた。 一つ抜き出し、手にとってみる。精霊、魔女や吸血鬼、ドラゴンが登場する群像劇のようだ。 居並ぶ本は、装丁も書かれている文字も様々だった。色々な世界の本が、こうして一つの本棚に身を寄せ合っているのだろう。 一通り眺めてから、カウンターで何やら作業をしているティアラへと、先ほど手にしたチラシを見せる。 「本を、作っていただきたいのですが」 「ありがとうございます。じゃあ、こちらへどうぞ」 彼女は近くにあった椅子を引っ張ってきて手で示し、自らも席に戻ると、羽根ペンと紙を目の前に置く。 「どんな内容がいいかしら?」 それからいくつか質問がされ、オーリャの答えがメモされていった。 詳しい内容を聞くというよりも、イメージの話が多いように思える。 「そうそう、本も選べるんだけれど、どんな表紙がいいとか、形がいいとかは、ある?」 「鳥籠のような表紙を持つ本というのは、できますか?」 「ええ、いくつかあったはず。ちょっと一緒に来てもらえる?」 そう言って立ち上がったティアラの後についていくと、彼女は店の奥にある、両開きの扉の前で足を止めた。そしてポケットから出した鍵で扉を開ける。 薄暗い中は、どうやら書庫になっているようだった。 「どうぞ」 ティアラが先に中に入り、オーリャもそれに続く。 「森のようですね」 「同じことを言う人、よくいる」 オーリャの感想を聞いて、ティアラは面白そうに言った。 鬱蒼とした、けれども静謐な空気は、まるで夜の森に迷い込んだような気にさせる。古い本が放つ独特のにおいも、店頭にいる時より強く感じた。 扉はそれほど大きくなかったのに、天井はずっと高く、中もかなり広い。 「こっちよ」 ティアラに誘導され、二人はそびえ立つ本棚の間を歩いていく。 一面の壁のように続く棚をぎっしりと埋める本たちは、それぞれ違った表情でこちらを見ていた。 「色々な形の本があるのですね」 「こっちの書庫にあるのは、読むための本とはまた別なの。元々何も書かれていないものとか、ぼろぼろになった本をつなぎ合わせたものとか、呪いがかかってたのを解いたものとか、魔法の素材を変化させたものとか、色々なんだけど」 「そうなんですか」 そんなことを話しながらたどり着いた一角。 そこには、動物や植物の形をした本が多く置かれていた。 「鳥籠みたいなのもいくつか……あった。これこれ」 オーリャは示された棚へと近づき、腰を落としてじっくりと見る。 本は、単純に表紙に鳥籠が描いてあるものもあれば、まさに鳥籠、といった形をしたものもあった。 「これにします」 いくつか見比べた後、一番しっくりと来たのは、白い鳥籠を思わせる形の本だった。 二枚貝のように丸みを帯びた表面を、浮き出た曲線が覆い、縦横に走ったその隙間からは紺碧の色が見える。 曲線部分は石のように硬質で、光の加減によりオパールに似た美しい輝きを見せた。 一見すると白い鳥籠の中に紺碧色の本が入っているようにも見えるが、籠部分と本の部分は一体化していて、端から開くと一緒になって動く。 「本当、色々なものがあるのですね」 「面白いでしょう? たまに在庫整理で販売すると、結構売れるのよ。大体は本じゃなく、ノートや日記になるみたいだけど」 ティアラはそう言って笑った。 「それじゃ、早速取り掛かりましょうか!」 店へと戻り、他に来客がないのを確認してから、ティアラは表に『準備中』の札を出してくる。 それから儀式の準備が行われた。 どういう物語が出来上がるのかは、術者のティアラにもわからない。 以前は依頼人の要望に沿うようにとか、面白い物語が出来るようにと、意思の力で何とかしようとしていたこともあったが、かえって魔法の力が上手く働かなくなってしまうということがわかってからは、魔法の本に任せるような気持ちでやっている。 それにその方が、ティアラ自身にも読む楽しみができるというものだ。 「そういえば、まだお名前を聞いてなかったわね」 「オーリャです」 オーリャは言って穏やかに笑む。 「オーリャさんね」 ティアラはその名前に不思議な力を感じ、その感覚をさらに掘り下げてみるために目を閉じた。 沢山の想いの集まり。想いは光となり、その光は鳥籠の中へと吸い込まれていく。 そのイメージを掬い上げ、熟成させ、拡大させていくように、意識を集中させた。 口から声にならない言葉が紡がれ、羽根ペンで本がリズミカルに叩かれる。 「本よ、本よ、我が意志を受け変化を遂げよ!」 やがて本は眩い光を放ちながら浮き上がり、ひとりでにぱらぱらと捲れたページは、物語の始まりまでたどり着いた。 「さぁ、オーリャさんのお話の、はじまりはじまり!」 === 彼の国は、始祖鳥の国でした。 それはそれは美しき、光に満ちた世界に浮かぶ、純白の羽根。 人々は光輝に包まれ、とこしえの安らぎを夢見ました。 なれど、それは幻。 うつしよの、はかなき幻。 ああ、その美しき羽根の、なんと、か弱きことでしょうか。 人々は知らないのです。闇の海が迫ることを。 自らの身に、災厄が降りかかるのだということを。 ――あれを見よ、あの恐ろしい闇を! はじめにその兆しに気づいたのは誰でしょうか。 はっきりと言葉にし、誰もが認めるしかなくなった頃にはもう、あたりには闇の海が満ちようとしていました。 人々は祈ります。 救済を、とこしえの光の国の約束を。 そして見たのです。 光る大きな鳥籠が、海から漂い来るのを。 ――神がお救い下さった! 彼の国は、始祖鳥の国でした。 それはそれは深き、闇に満ちた海に浮かぶ、輝く鳥籠。 人々は鳥籠に守られ、とこしえの安らぎを夢見ました。 なれど、すべては移ろい、変わりゆくもの。 それがうつせみの、はかなきことわり。 輝く鳥籠の光は、やがて失われてゆくのです。 人々は考えます。光をとどめる方法を。 自らの身を、守るすべを。 ――祈り神子よ! 彼の国は、籠の中の始祖鳥の国。 そして、祈り神子が守る国となりました。 祈り神子は鳥籠の中の一番上へとのぼり、そこから祈りをささげます。 祈り神子が置かれることで、輝く光は保たれることとなりました。 今度こそはと、人々は安寧を夢見たのです。 鳥籠は漂い、ゆらぎます。 闇の海を、そして空を。 空をたゆたう鳥籠と、始祖鳥の国の鳥籠は、時折出会うことがありました。 鳥籠と鳥籠がぶつかった時、人々のいくらかは新天地へと移ってゆきます。 それとともに、祈り神子の数も増えてゆきました。 ――ああ、気高き祈り神子! なれど始まりは、いずれ終わりへと。 鳥籠に張られた結界は、少しずつその力を失ってゆきました。 人々は考えます。その力にすがり続けるすべを。 自らの命をつなぎとめる道を。 しかし、此度こそは、それを見出せなかったのです。 ――終わりだ! 終わりだ! 結界が緩む! 人々の嘆きを聞いた祈り神子は、高い高い鳥籠の上から、闇の海へと身を投げました。 舞い落ちる祈り神子の目に、光を失いつつある鳥籠や、恐ろしさに打ち震える人々の顔がうつります。 それも、闇の海が体を飲み込めば、わからなくなりました。 あたりは闇ばかりで、何も見えず、何も聞こえません。 暗く、冷たく、痛みや苦しみや恐ろしさまでも、飲み込んでしまうかのようでした。 深く、深く、深く祈り神子は沈み――ついにその命のともし火さえも、闇の海が飲み込み、消し去ったときのことです。 ――光だ! 光だ! 結界の光だ! 国の人々は、歓喜の声をあげました。 鳥籠が、光を取り戻したのです。 祈り神子の犠牲により強められた結界は、再び人々を守る力を得ました。 籠の中に残された人々は、助かったのです。 ――祈り神子! 祈り神子! 気高き祈り神子! ――讃えよ! 讃えよ! 祈り神子を讃えよ! 国中の人々、代わりに新しく役目を担った祈り神子は、はじまりの祈り神子を讃えます。 その声は、三日三晩の間、やむことはありませんでした。 そしてこのときから、人々は移ろう世界の中で、自らを守るすべを得たのです。 === 本が静かに閉じ、ゆっくりとカウンターの上におりていく。 「……だから、鳥籠だったのね」 「ええ」 言葉を探すのに迷っている風のティアラに微笑み、オーリャは挟まれていた挿絵を見た。 深い闇色の中に浮かび上がるように描かれた、輝きを放つ鳥籠。 「素敵な絵ですね」 「魔法の本が、頑張って描いてくれるの」 その言い方が何だか微笑ましく、くすりと笑うと、ほっとしたような表情が返ってきた。 点描で描かれたような絵は幻想的で、生々しさは全く感じられない。 それは、本が語ったのはあくまで物語に過ぎないということを、改めて思い起こさせた。 胸のうちに沸き起こる感情は、懐かしいというものとはまた違うのかもしれない。 けれどもこうして鳥籠の形の本を選び、物語にしようと思ったのは、それに近い感覚があったのかもしれなかった。 オーリャは初代の祈り神子が闇の海へと身を投げた後どうなったのか、二代目以降の祈り神子たちがどういう運命を迎えたかを、身をもって知っている。 そして彼の国が、結局は滅んでしまったということも。 表紙の鳥籠の表面を指先でなぞってみる。 物語は封じられた。オパールのような輝きが増したように見えるのは、気のせいではないのかもしれない。 オーリャは――オーリャたちは、改めて故郷へと思いを馳せた。 ◇ ◇ ◇ 「なにか始めないと」 そうティアラが思ったのは、この街へときてからしばらく経った日のことでした。 毎日毎日泣いていても、仕方がないと思ったのです。 でもずっと落ちこぼれだった自分に、なにが出来るのか見当もつきません。 その時、隣でにゃぁと声がし、びっくりしてそちらを向くと、そこには、いつの間にか灰毛の太った猫がいました。 「やめてよ。大事な本なの」 猫がクッションのように座っているものを見て、ティアラは慌ててそれを引き抜きます。 この街へと来た時に持っていたかばんの中には、教科書や勉強道具のほかに、大好きな本が入っていました。 何度も何度も読み返した本は、もうずいぶんくたびれてきています。 本の上からおろされた猫は、逃げることもせずにじっとこっちを見ていました。 それをぼんやりと眺めていたら、突然、ティアラの頭にアイディアがひらめきます。 「そうだ! 本屋さんをやろう」 そうすれば、本が好きな人は喜んでくれるでしょうし、本に囲まれていれば、ティアラも気がまぎれるかもしれません。 それにティアラは、本にかかわる魔法だけは得意なのです。 色々な街の本を集めていくことで、ティアラの街のことも、何かわかるかもしれないと思いました。 「あなたも来ない?」 猫は、いいよと言うかのように、にゃぁと鳴きました。 ◇ ◇ ◇ ごく普通の二人は、ごく普通の恋をし、ごく普通の結婚をしました。 でも、ただひとつ――いえ、ふたつ違っていたのは、奥様は魔女で、旦那様は吸血鬼だったのです。 「ターミナル基準での普通ですけどね!」 (それから二ページぶち抜きで吹き飛ばされる影。代わりに寄り添う二人の絵が登場) ◆ 「改めてようこそ。我が妻よ」 蜘蛛の魔女もヴォロスへと帰属することが決まった日のことです。ネモ伯爵は恭しい態度で蜘蛛の魔女を迎えました。 城内は煌びやかな装飾で飾り立てられ、燭台の揺れる炎が光と影を作り出し、妖しげで美しい空間をつくりあげます。 差し出された手を取り、蜘蛛の魔女が深紅の絨毯の上へと一歩足を踏み出すと、どこからか笛の音が聞こえてきました。 さらに、爪弾かれる竪琴や、なめらかな弦の音が加わり、その場は厳かな音楽に包まれていきます。 二人はそれに合わせるように、一歩一歩と奥に進みました。 そして、大広間へとたどり着いたそのときです。 「さぁ、祝いの宴じゃ!」 ネモ伯爵の合図とともに、弦の音がかき鳴らされるように響きました。 一転しての明るく、軽やかな曲調。太鼓が跳ねるように鳴り、笛の音も速く、まるで踊っているかのようです。 続いて、ぱっと広間が明るくなりました。 奥の壁を覆っていた大きな布が取り払われたのです。そこにも沢山の明かりがあり、踊り子たちが控えていました。 踊り子たちは手を叩き、踊りながら、隠されていたステージから降りてきます。それはいかにも楽しげで、見ているとつい一緒に踊りだしたくなるほどでした。 「ずいぶんと賑やかね。今夜のご馳走かしら?」 でも踊りが得意な蜘蛛の魔女は、全く興味がないかのようにそう言って、じろりと踊り子や楽士たちを見ます。 「せっかくの帰属の祝いじゃ。揉め事はなしにしようぞ」 ネモ伯爵は、そんな蜘蛛の魔女をなだめました。 今日のお祝いのために、せっかく芸達者な者たちを集めたのです。 驚かせ、喜ばせたかったので、蜘蛛の魔女にはずっと秘密にしていました。 「ふん、別にいいけど」 しかし、蜘蛛の魔女はつまらなそうな顔で、大きなテーブルの上に用意されていたパンや肉、デザートなどを掴んでかじり、ステージとは逆のほうへと歩き出します。 「これはこれは奥様ようこそ以後お見知りおいてご贔屓にしていただいたついでに地位と名誉ふぎゃっ」 そしてそのまま何かを踏みつけ、大広間を後にしてしまいました。 「おい、蜘蛛の魔女!」 「こんなことでへこたれたりなどぐひぇっ」 ネモ伯爵も同じように何かを踏みつけながら、急いでその後を追いかけます。 楽しげな音楽は、どんどんと後ろへ遠ざかって行きました。 蜘蛛の魔女はむしゃむしゃと紫芋のパイを食べながら、広いお城の中を歩きます。 そういえばこのパイは、二人がはじめて出会った時に食べたものにそっくりです。 「ふーんだ」 呟いた声は誰にも届きません。賑やかな音楽はまだ止まず、ここまで聞こえてきていました。 当てもなく歩いた廊下の先には、テラスが見えます。 蜘蛛の魔女は大きなガラス扉に近づくと、それを開け放って外へと出ました。 心地よい夜風が、この日のためにあつらえた上等な黒いドレスと、同じように美しい黒髪を揺らします。 「どうしたのじゃ?」 後ろからネモ伯爵の声が聞こえましたが、蜘蛛の魔女は黙って景色を眺め続けました。 暗い空には、今にもこぼれ落ちそうな沢山の星。緑豊かな大地からは、夜鳴鳥や虫たちの声が聞こえてきます。 「ご機嫌ななめじゃな、わが妃は」 「妃って、なんだかババくさくて嫌。せめて姫って呼んでよね」 髪をなでられても、蜘蛛の魔女は後ろを向こうとしません。 「うむ。確かにおぬしなら、姫のほうが似合うの」 「どーせまた、お転婆だからとか言うんでしょ?」 ネモ伯爵は心からほめているのですが、蜘蛛の魔女は取り付く島もありませんでした。 「何をすねておるのだ? 愛しき姫よ。わしとおぬしの新しい門出のために、せっかく宴を用意したというに」 「だからせっかく――」 蜘蛛の魔女はそこまで言いかけ、首を振ります。 「別に私、頼んでないし。いいよ? ネモちゃんは楽しんできて」 そうして、またそっぽを向いてしまうのです。 ネモ伯爵はその様子を途方にくれて見ていましたが、やがて何かに気づいたように声を上げました。 「ははぁ、さては」 「な、なによ」 「せっかく二人きりで過ごしたかったのに、わしが盛大な宴を用意したもので、すねておるのじゃな?」 「そ、そんなわけ……」 「やはり家族団らん水入らず、及ばずながら私も力にへぶっ――おーほーしーさーまー!」 近づいてきた影を夜空へと蹴り飛ばし、ネモ伯爵は蜘蛛の魔女の体を引き寄せて、自分に向かい合わせます。 「ないのか?」 「あ、あるわけないし」 「全く、これっぽっちもか?」 「そりゃ、ちょっとは――ほんのちょっと、ちょっぴりだけだけど。きゃっ」 ネモ伯爵に抱きしめられ、蜘蛛の魔女は言葉を詰まらせました。 「愛しておるぞ、蜘蛛の魔女。よう帰属を決心してくれた。改めて、わしの妻になってくれるな?」 そうして二人は、じっと見つめあいます。 根負けしたように先に目をそらしたのは、蜘蛛の魔女でした。 「……はい」 二つの影は、静かに重なり合っていきます。 遠くから聞こえる声と音楽の中、二人だけのお祝いの時間は、ゆっくりと過ぎていきました。 ◆ 「みんな~! メシだよ~!」 奥様の蜘蛛の魔女は、背中にたくさんついた脚で、床を叩いて合図をします。 すると、おなかをすかせた子供たちが、いっせいに集まってきました。 「みんなそろった?」 食堂にいくつも並んだ、大きく長いテーブルに子供たちがついたのを見て、蜘蛛の魔女は呼びかけます。 「ウィドウ、スパイダ、ゴライアス、ガイアナ――えっ? あんたはガイアナじゃなくてコバルト? あ~もう、何で一人一人名前付けなくちゃいけないのよ! 覚えられるか~!」 「相変わらず一旅団の様相じゃな……」 よりいっそう床叩きに力が入る蜘蛛の魔女と、おなかがすいたとはしゃぐ子供たち。 楽しげな様子に、それを眺めるダーリンのネモ伯爵も、何だか嬉しそうです。 これがお城の、いつもの朝の光景でした。 二人が結婚してから、長い年月が過ぎました。 でもそれは、不思議なパスホルダーがなくても、長い長い時間を生きられる二人にとっては大したことではありません。 「美しく成長してくれて嬉しいぞい、蜘蛛の魔女。そなたはわしの自慢の妻じゃ」 ネモ伯爵は愛しい指先をそっと自分の手で包み込み、蜘蛛の魔女を見つめます。 この百年の間で、小さく可愛らしかった蜘蛛の魔女は少しずつ成長し、誰もがうらやむような麗しのレディになりました。 「でも胸は育たなかったんですよねー残念ながら! まぁ私はつるぺたのほうが好きですがそもそもバ」 その時どこかから声がしましたが、蜘蛛の脚の連撃により、悲鳴をあげる間もなく静まります。 「ふ、ふん! なに馬鹿なこと言ってんのよ! この私が美しいのは当然でしょうが! そ……そうじゃないと、夫のネモちゃんが可哀想でしょ?」 終わりのほうに行くほど、か細くなっていく声ににっこりと笑い、ネモ伯爵は持った手を強く引き寄せました。 「きゃっ」 「では今日も、甘くてとろけるようなヴェーゼを……」 「い、いいわよ、そんなの」 「いまさら照れることはなかろう。それとも嫌か?」 「べ、別に嫌ってわけじゃ……ちょっと、こ、心の準備が」 「そういう、いつまでも初々しいところも大好きじゃ」 子供たちが見守る中、真っ赤になって顔をそむける蜘蛛の魔女のほっぺたに、ネモ伯爵は軽くキスをします。 そして、耳元で小さくささやきました。 「今はここまで。続きはあとじゃ」 「もう、ネモちゃんのバカ!」 いつまでも仲が良いパパとママに、子供たちも大喜びです。 こうして二人と子供たちは仲良く、ずっとずっと幸せに暮らしました。 === 「何を見ておるんじゃ?」 背後からかかった声に顔を上げ、蜘蛛の魔女は手に持ったものを見せる。 「本よ。こっちに来る前に作ってもらったの。ずっと仕舞ってたんだけど、そろそろ読んだら面白いんじゃないかって思って」 ネモ伯爵はそれを覗き込み、表情をほころばせた。 「ほう、これは面白い」 「でしょ?」 「今のわしらの生活、そのままじゃな」 そう言った不老不死のネモ伯爵は、全く以前と変わらない姿、蜘蛛の魔女は本の中と同じくゆっくりと成長し、見た目は二十代後半のスレンダーな美女となっている。 「ふむ」 彼は何かに納得したかのように頷き、突然、蜘蛛の魔女から本を取り上げて、テーブルの上へと置いた。 そして、彼女の体を引き寄せる。 「では本のとおり、今日も甘くてとろけるようなヴェーゼを……」 「ちょ、ちょっと待ちなさいってば」 そんなことをしていると、遠くから何やらざわざわと波のように押し寄せる音が聞こえてくる。 それはあっという間に大きくなり、部屋の中へとなだれ込んできた。 子供たちが、遊びから帰ってきたのだ。 子宝に恵まれ、気がつけば九十九人。それが一度に戻ってくれば、祭りでも行われているかのような大騒ぎになる。 「おや、皆おかえり」 「おかえりー!」 挨拶をすれば、今度はただいまの大合唱だ。 「そろそろおやつにするから、みんな手洗って席につきなさいね」 大好きなおやつの話が出れば、よりいっそう盛り上がる。 喜んだ子供たちは、部屋を縦横無尽に走り回った。 「はいはい、押さない駆けない喋らない! ――ちょっとコバルト! それはパパのお洋服だから登っちゃダメでしょ! えっ? ガイアナ? どっちでもいいわよもう、とにかく踏んじゃダメ!」 「久々に戻ってみれば、相変わらず躾というものがなっていないようですね!」 「それは踏んでいいわ」 「いやぁぁっ、やめて! 総攻撃はやめて!」 今日も二人の居城は、賑やかで楽しい。 ◇ ◇ ◇ そうしていつの間にか、たくさんの時間が流れていきました。 それでもティアラはあの時のまま。住んでいた街はどうなっているのかもわかりません。 この街には、同じような境遇の人たちが多く集まっていました。 そのうち顔なじみのお客さんや友だちもできて、たくさんの出来事をみんなで乗り越えて――ついに、元の場所へと帰る方法が見つかる時が来たのです。 ◇ ◇ ◇ 「世界発見おめでとー!」 大きな拍手と歓声に、ティーグ・ウェルバーナは照れたように顔を伏せ、落ちつかなげに指を動かす。 彼女の元の世界が見つかったことを祝って、今日は孤児院でパーティーが行われていた。 「本当に良かったね!」 「おめでとう!」 「おめでとー!」 口々に発せられる言葉に、ティーグは少しだけ視線をあげ、こくりと頷く。 「うん……ありがとう」 「嬉しくないの? ティーグ」 「嬉しい、けど……」 ずっと待ち望んできたことだった。けれど、元の世界に帰りたいという思いは、ここにいる皆も同じはずだ。 ティーグもこうやって、先に帰属した仲間を何度か見送ったことがある。 祝う気持ちが心からのものであるのも確かだったが、羨ましいと思う気持ちがあったのもまた確かであり、今も実際口にはされないものの、そういう視線が自分に向けられているのも感じている。 それは仕方のないことなのかもしれない。でも、もう一つ確かなのは、ここにいる皆と、明日にも別れなければならなくなるということだった。 もう、二度と会うことはないのだろう。 「やめてよティーグ、泣かないで」 「うっ、うん……」 これではいけないと慌てて笑顔を作ってみるけれど、抑えようとしても苦しくなるばかりで、上手く笑うことはできなかった。 瞳からは勝手に、涙がこぼれ続ける。 「ずっと待ち望んでたことじゃない!」 「そうそう、離れたって、私たちが友達じゃなくなるわけじゃないし」 「そうだぞ、本当におめでと!」 「み、み゛んな゛……ありがど……ぅ……ひっく、っ……」 励ましの言葉は、別れの辛さを余計に大きくさせた。 「み……み゛んな゛だっで」 そしてティーグの気持ちが伝染したかのように、いつの間にか皆も泣いている。 「だって……やっぱりお別れ、悲しいもん」 「ティーグ、俺たちのこと、絶対忘れるなよな!」 「わ゛……わずれ、な゛い……ない……」 ひとしきりみんなで泣いて、あとは気持ちもすっきりして、今までそうしてきたように、笑って騒いで。 とても楽しい時間だったが、宴の終わりはやってくる。 後片付けを手伝おうとしたら、ティーグは今日の主役なんだからと言われ、もうここでの自分の仕事はなくなるのだと思うと、それも少し寂しかった。 ならば少しの間ターミナルを散歩してくると言って、施設を出る。 特に行くあてもなく、足の向くまま歩いた。 ――元の世界へと帰る。 それがもう現実になるのだと思うと、心は一足先に故郷へと飛ぼうとする。 カフェ、画廊街――ついさっき目の前を通り過ぎた場所なのに、今、目に映っている場所なのに、なぜかとても懐かしい場所のように感じるのが不思議だった。 ゲームセンターの広告が見え、浮かぶ大きな樹が見え、セクタンを抱えて歩く人が見え――そして、『Pandora』という看板が目に留まる。 『あなたの物語、作ります』 ティーグの足は、そちらへと吸い寄せられるように向かった。 === それがティーグの、はじめての冒険でした。 === 「そうそう、大きなカマキリと戦ったのよね」 今でも、昨日起きたことのように思い出せる。 「あの子、元気にしてるかな」 それは、武術は守るために使うという父の教えを、初めて心から理解できた日でもあった。 === 「OK! ――これがウェルバーナ流よ!」 二人は次の敵へ向かって、走ります。 みんなを、守るために。 === 「この時は、本当に危ないと思ったわ」 ナラゴニアの侵攻に、ターミナルはパニックに陥った。 ティーグは『Pandora』周辺を守るために戦い、『レディ・カリスの首飾り』を動かすための集金活動にも参加し、文字通りあちこちを飛び回ることになる。 店主のティアラにも改めて礼を言われ、少し照れくさかった。 「でもこの後、ナラゴニアのみんなとも交流が始まったのよね」 0世界大祭では、駅伝に参加して宙返りを披露したりもした。 他にも、初めての温泉に入ったり、みんなで料理を作ったり――気がつけば、こんなにも思い出に満ちた日々。 『間もなく到着です』 車内アナウンスに、はっと顔を上げる。 それから向かいに座る孤児院の職員を見た。 返ってきた頷きに後押しされるように本を閉じ、窓の外に目をやる。 『ウェルバーナ流空舞体術』の道場が見える場所まで来て、ティーグは足を止めた。 ――覚えている。この道も、角にある看板も、背の高い木も。 その時、肩に手が置かれて振り返る。 「……先生」 眼鏡の奥の瞳は、0世界で途方に暮れていたティーグを迎え入れてくれた時と同じく、優しげに揺れていた。 「恐がらなくていいの」 心の中を見透かされたような思いがして、ティーグは俯く。 今すぐ走って、家へと帰りたい。けれども、それを恐がる自分もどこかにいる。 「あなたは数々の冒険をして来たでしょう? 0世界も守ってくれた、とっても強い人なんだから。ほら、背筋を伸ばして、しゃんとして」 「うん……」 「先生はね、またこうして大事な子をお家に帰してあげることが出来て、本当に嬉しい。ちゃんと戻れるように、先生も精一杯協力するから」 今度の返事は、言葉にならなかった。ただ、何度も何度も頷く。 二人は無言で抱きしめ合った。ティーグ自身のものだけではない震えが、体へと伝わってくる。 どれくらいそうしていたのかわからない。長いようにも、短いようにも思える時間だった。 やがて体は、ゆっくりと離されていく。 「さぁ、行きましょう」 「……た」 こちらを向いた顔は、一様に驚きに満ちていた。 「ただいまー……」 背筋を伸ばして堂々と帰ろうと決意したばかりなのに、思わず首を縮こまらせてしまう。 上目遣いの視界に映る、まるで幻でも見たかのような皆の顔は、やがて笑顔とも泣き顔ともつかないものに変わっていった。 「ティーグ――!」 誰も動けないでいる中、道場の奥にいたのにもかかわらず、他を寄せ付けない速さで飛んできたのは、父だった。 「お父さん……!」 凍りついた時間が溶け出したかのように、ようやく一歩を踏み出したティーグの体は強く、強く抱きしめられる。 しばらく、息が出来なかった。 「ティーグ! ティーグ……!」 「お母さん……」 誰かが呼びに行ったのだろう。いつの間にかそばまで来ていた母も、声を上げて泣いている。 二人にぎゅっと抱きしめられ、とても苦しいのに、嬉しい。 「ただいま……」 ティーグは涙でぐちゃぐちゃにした顔を父の胸に押し付けながら、実感した。 「ただいま!」 本当に帰ってきたのだと。 ようやく、帰ってきたのだと。 二年間行方不明だった理由は、付き添ってくれた職員が、保護したという名目で適当な説明をしてくれたから、ティーグは隣で黙って頷いているだけでよかった。 彼女はしばらくの間、様子を見に訪れてくれたが、ティーグの帰属が無事に完了したのを見届けると、別れを告げて去っていった。 ◆ 「いつの間にか中学生か……」 学校帰り、まだ明るい空を眺めて呟く。 この世界では過ぎていた、二年という時間。 卒業式も入学式も出来ないまま、いつの間にかティーグは進学をしていた。 子供の頃の二年というのは、大きいものだ。しばらく見ない間に、自分より小さかったクラスメイトに背を追い越されていたり、親友が大人びた女子になっていたりする。 でもティーグにとっても、その二年間は決して空白というわけではなく、仲間や友達と過ごした密度の濃い日々がある。 勉強も0世界でもしていたから、問題なく出来る自信はあった。実際、落ち着いてからやらされた学力テストの結果にも、先生たちが驚いていたほどだ。 あたりには、穏やかな空気が流れている。 初めこそニュースでも取り上げられたり、世間や周囲も騒がしかったが、次第に興味は別の話題へと移っていき、今は日常が戻ってきていた。 「ティーグ!」 その時、前方から友人がやってくる。 「今日これから、遊びに行かない?」 ティーグは少し迷った後、首を振った。 「ごめんね、今日は道場で稽古の日なの。それにまだ、お父さんもお母さんも心配みたいだし」 「そっか……そうだよね。じゃあ、また」 「うん、また誘ってね」 去っていく友人の背中を名残惜しく見送っていると、今度は背後から声がかかる。 「ティーグ!」 振り返れば、父の道場に通っている幼馴染だった。 「先に道場で待ってるからな! 今日こそ負けねーぞ!」 「あたしだって手加減しないからね!」 「望むところだ!」 そう言ってよそ見をしたまま走り、人にぶつかりそうになって謝る幼馴染の姿に、つい吹き出してしまう。 様々な経験は、拳法家としてのティーグをも、いつの間にか大きくしていた。 「まあティーグちゃん! あなたずっと、どこ行ってたの?」 今度の声の主は、母とよく訪れていた商店の店主だ。 落ち着いてきたとはいえ、こちらに戻って以来、まだ訪れることが出来ていない場所は多くある。 「それが、その……実はその時のこと、よく覚えてなくて」 言いにくそうにしていると、辛いことを思い出させてしまったと思ったのか、彼女は申し訳なさそうな顔をした。 「そう……ごめんなさいね」 「ううん、こうして帰ってこれたんだもの。嬉しい」 「そう? そうよね! また店にも来てちょうだいよ」 「うん、またお母さんと一緒に行きます」 「よろしくね。サービスするから」 そうして忙しそうに去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、少し申し訳ない気分になる。 嘘をつくのは心苦しいが、まさか真理のことを言うわけにはいかないし、下手なことを口にして、せっかく付き添いまでしてくれた先生の親切を無にするわけにもいかなかった。 (でもあたしは、この世界の外のことを忘れないわ) そう、絶対に忘れない。自分だけは覚えている。 不思議な運命によりもたらされた、大切な時間を。 ――数年後、彼女はオリンピック選手として選出されるのだが、それはまた別の話である。 ◇ ◇ ◇ 「みんなは、元の世界が見つかったら、帰りたい?」 ティアラが聞くと、イムとメムは何度も首を振り、ジルヴァも帰る気はないと言いました。 ティアラは帰りたいかと聞き返され、やっぱり帰りたいとは答えたものの、正直自分の気持ちがわからずにいます。 ティアラは昔よりもずっとずっと、この街が好きでした。 長い時間をここですごして、好きなものがいっぱいある場所になっていたのです。 この三人とだって、敵同士として戦ったこともありました。でも、今はこうして仲良くすることが出来ています。 「ねぇ、本、つくってよ。……メムと、イムと、おじさんの本。きねんにするの」 「それいいな!」 メムとイムは、にこにこ笑っています。 「何の記念だよ」 ジルヴァも口では色々言いますが、嬉しそうです。 「ティアラも自分の本、作ろうぜ! そんで、ターミナルのみんなの本も作るの、どうだ? もしどっか行っちゃっても、ここのこと、思い出せるだろ?」 「そうね」 ティアラは笑って、うなずきました。 ◇ ◇ ◇ 「こんにちはー」 「あら、ユーウォンさん。こんにちは」 ティアラが本棚のチェックをしていると、鮮やかなオレンジ色の顔と青い目が、戸口から覗いている。 「久しぶり! ナラゴニアとの戦争の時以来かな?」 彼は店内へと入り、物珍しそうにあちこちを見た。 「……そうなるのかも。あの時は本当にありがとう。運動会も参加してくれたのよね。でも話は出来なかったから」 「うん、でっかいコマに乗って、面白かったよ!」 「楽しんでくれてよかった。頑張ったかいがあったわ」 ティアラは数少ないスタッフとして忙しくしていたので、エントリーはチェックしていたものの、一人一人と話す時間が持てなかったのだ。 ユーウォンが以前この店へと来た時は、倉庫とクリスタル・パレスへの往復だったので、きちんと店として営業している時に来るのは初めてだった。 「今日は、本を作ってもらいに来たんだよ」 「そうなの? ありがとう。どんな本にする?」 促され、ユーウォンはカウンター前の椅子へと座る。ティアラも向かい側に腰を下ろした。 「ロストレイル13号で、最初にワールドエンドステーションにたどり着いたとき、おれが送り出した世界計があるんだけど」 「報告書で見た! すごいわよね。世界を生み出すきっかけを、ユーウォンさんが作り出したなんて」 「うん」 そう言われると、誇らしいような、くすぐったいような感じがする。 「それで、ずーっとずっと先に、たぶん世界に育つんじゃないかって、時々見に行くんだけど、まだまだ世界計のまんまなんだ」 恐らくあの世界計が立派な世界になるのは、0世界の行く末やチャイ=プレとの決着がつくよりずっと後になるのだろうと、ユーウォンは考えている。 「おれ、できたらあの世界計がどんな世界に育っていくのか、見届けたいんだけどさぁ。下手したら忘れちゃうかもしれないし、いなくなっちゃうかもしれないって思って。だからおれが送り出した経緯を本にして、残しとこうって思ってね」 「ああ、なるほど」 「何万年でも残るような、しっかりした本にしてほしいな!」 その言葉を聞き、にこやかだったティアラの表情が少し硬くなった。 「何万年、か……」 考え込んだ彼女に、少し心配になって尋ねる。 「難しいかな?」 「魔法の本だから、普通の本と比べればずっと丈夫ではあるんだけど」 強化の魔法を施せば、ある程度のことには耐えられるだろうが、やはり基本的には紙の本だから、と彼女は言った。 実際に世界の誕生と成長に張り合おうというのだから、心もとないのは確かだ。 「でも、ここは意地でも何とかしてみせるわ!」 拳をぐっと握り締めて言ったティアラに、ユーウォンも同じように手を振る。 「そうこなくっちゃ! ……それとさ」 「それと?」 「最近、遠くまでロストレイルに乗ることが増えたんだ」 「忙しいのね」 「うん。それで、長い間ずっと乗ってるのって退屈だろ? そしたら、旅の間に、本を読むと面白いよ、って言われたんだ。見たことも聞いたこともない世界を、座ったままでみられるよ、って」 「そうね。旅とはまた違った体験が出来ると思うわ」 「本なんて、あんまり読んだことないんだけど。難しいと、寝ちゃったりするしね……でも、折角だから、試しに読んでみようと思ってさ。長い汽車旅が楽しくなるような、そんなお勧めの本、ないかな?」 今度はうって変わって、彼女の表情が明るくなる。 「あるある、お勧めの本、いっぱい」 「ほんと?」 ティアラが親指を立ててみせれば、ユーウォンも嬉しげに翼を動かす。 「もちろん! こう見えてもこの商売、長いんだもの。蔵書だって他店に負けないくらいあるわ」 「ギアにはいっぱい入るから、どんどん教えてよ。いっぱい買って、試してみるよ!」 「よーし、じゃあ早速……」 ティアラはそう言うと、店内や書庫を見て回り、カウンターの上に次々と本を積み上げ始めたのだった。 ◆ 後日ティアラに呼び出され、ユーウォンは再び『Pandora』を訪れる。 カウンターの上に置かれていたのは、本ではなかった。 「これ……石だよね?」 「そう」 まじまじと眺めるユーウォンに、ティアラは自信たっぷりに言い放つ。 「今回は魔法の本じゃなくて、魔法の石版よ!」 「へぇぇ」 手にとってみると、小ぶりな本ほどのサイズのそれは、一見どこにでもありそうな灰色の石で出来ているようにしか見えない。 四角く平らで、四隅は少し丸く、片側だけがつるつるとしていた。 「ちゃんと魔力のこもった石なの。これなら多少のことではどうにかなったりしないわ。『伝説の石版』として後世に語り継がれるレベルよ!」 「それは頼もしいなぁ」 そう言われると、普通の石とは違って見えてくるから不思議だ。 「じゃあ、そろそろ始めましょうか」 「うん、お願いするね!」 ティアラは呼吸を整え、声にならない言葉を紡ぎ始める。 それから羽根ペンで、石を何度も叩いた。 「本――石版よ、石版よ、我が意志を受け変化を遂げよ!」 すると、石版が眩い光を放ち始め、宙へと浮き上がる。 やがて光は収束し、石版の表面に光る文字を描き始めた。 「さぁ、ユーウォンさんのお話の、はじまりはじまり!」 === そこは『ワールズエンドステーション』と呼ばれていました。 世界の中心にあり、そこからどこへでも行ける世界。 どこかにあるのに、誰もまだ、たどり着けない場所。 旅人たちは、そこへ行きたいと願いました。 そこに行けば、自分たちの故郷を見つけることができると思ったからです。 そしてユーウォンもその場所へと向かうために、『北極星号』へと乗り込むことになりました。 出発の日がきて、旅人たちはプラットフォームでお別れの挨拶を交わします。それにはいつも以上に、熱がこもりました。 旅には一年もの長さがかかり、どんなことが起こるかもわからなかったからです。 そして、最初の危険が訪れたのは、なんと出発の直前でした。 眠っていたはずの『世界樹』の力が目覚め、世界樹の果実を食した人々に異変をもたらしたのです。 『世界樹』はどうしても『北極星号』の出発を止めたかったのでした。 旅人たちはその力に抗うため、戦い、情報を伝え、街の人を避難させます。 ターミナル一丸となって、『北極星号』の旅立ちを応援しました。 でも、『世界樹』もあきらめません。 何とか『北極星号』を引き戻そうと、あらゆる手を尽くします。その大きな力は『流転機関』のことも巻き込み始めました。 けれども、旅人たちも負けずに戦い、『流転機関』を守り続けます。 「このまま飛び出しちゃおうよ!」 ユーウォンが言いました。 『世界樹』がそれだけ引き止めたがっているのは、0世界を離れてしまえば、もうどうすることも出来ないからなのではないかと思ったからです。 同じ意見を持つみんなは、『北極星号』を動かすために精一杯のことをしました。 『牡牛座号』を使う人、『北極星号』の眠る力を呼び覚ます人、『チャイ=ブレ』に助けを求める人、『世界樹』と話をする人――それぞれの思うやり方で、なんとかして『北極星号』を送り出そうとしました。 そしてその強い思いは叶えられ、ようやく『北極星号』は旅立ちを迎えます。 二十二人の旅人、そして『アーサー』と名づけられた流転機関のあわせて二十三人は、『北極星号』に乗って『ワールズエンドステーション』へと向かいます。 しばらく静かな旅が続き 眠る人もいれば、本を読んでいる人もいました。 ユーウォンは今まであまり本を読んだことはなかったのですが、じっと読みふけっている人は、とても楽しそうに見えたので、今度旅をするときは、自分も何か本を持ってきたいと思いました。 それから長いとも短いともつかない、不思議に進む時間の中、途中でターミナルを追放された前館長と『0号車』を発見し、旅の仲間を増やしたユーウォンたちは、さまざまな世界に出会い、冒険を乗り越えてゆきます。 そしてついに、『ワールズエンドステーション』へとたどり着くときがやってきたのです。 それはディラックの空に浮かぶ、とてつもなく大きな『世界計』でした。 世界の始まりで、終わりの場所――その壮大さに、みんな圧倒されます。 「世界よりでっかい世界計の世界!」 ユーウォンはとにかくわくわくして、周りを見回しました。 ここはほんとうに大きくて、道を覚えるのが得意なユーウォンでさえ、道に迷ってしまうのではないかと思えるほどです。 滑らかで綺麗な地面の上をみんなで歩いていると、向こうから誰かがやってきました。 ユーウォンには、その人が翼を持ったドラゴンのように見えたのですが、他の旅人は、また違った姿に見えたといいます。もしかしたらそれはドラゴンよりも、めまぐるしく変わるユーウォンの故郷の風景に近かったのかもしれません。 その人は、頭に直接響くような不思議な声で、『ワールドオーダー』だと名乗りました。 『ワールドオーダー』たちの仕事は、『世界計』の部品を少しずつ組み替えることで、そのたびに生まれる小さな『世界計』は、いつかどこかで新しい世界になるといいます。 それは、なんと驚くべきことでしょうか! 「へーっ、面白い! 世界計をいじると新しい世界が出来るんだ。おれもやっちゃだめ?」 ユーウォンが頼んでみると、『ワールドオーダー』はすぐに不思議な機械を出してくれました。 「うわぁ! すごいなぁ」 もちろんユーウォンは今まで、こんな機械をさわったことはありません。 『ワールドオーダー』たちが文句も言わずにやらせてくれることに、みんな驚いて目を丸くしました。 「これをこうして……これは、えいっと」 不思議な機械を、ユーウォンは思いつくままにいじってみます。 それは楽器のような、動物の鳴き声のような面白い音を、あたりに響かせました。 「あっ!」 何かが動いたように思い、空を見上げると、確かに遠くのほうに、ゆっくり移動しているものが見えました。 『新たな複製が生み出されたのです。あなたによって』 「ほんと!? あれも世界になるの!?」 『ワールドオーダー』の言葉に、ユーウォンも、みんなもまた驚きました。 かけらのように見えるそれが、少しずつ遠ざかってゆくのを眺め、思わず声をあげたり、逆に詰まらせたりして見守ります。 「立派に育つんだぞ!」 小さな『世界計』が全く見えなくなるまで、ユーウォンは見送りました。 これから長い長い時間をかけ、小さな『世界計』は、立派な世界へと育つのかもしれません。 それを見届けられたなら、どんなに素敵なことでしょう。 それはいつか、ずっとずっと先のいつか、たくさんの人が住む場所――誰かの故郷になるのかもしれないのですから。 おしまい === 「おしまい……っと。何度見ても面白いなぁ」 その字が石版に吸い込まれるように消えた後、代わりに浮かび上がってきたのは絵だった。 不思議な機械をいじるユーウォンと、生み出された世界計の複製。 「そうそう、こんな感じだった」 これを繰り返し眺めていれば、世界計のことを忘れたりはしないだろう。 ユーウォンは石版を大事に肩掛け鞄へと仕舞うと、そのまま中をごそごそと探る。中には『Pandora』で買った本が沢山入っていた。 「さてと、今度は何読もうかなぁ。――これにしよう!」 いくつか見比べた後、『イザーク教授の推理』という本を手に取る。 「1巻は犯人わかんなかったんだよなぁ。今度は当ててやるぞ!」 そうしてユーウォンは、本の世界へと旅を始めた。 まだ休み休み読むという風ではあるが、段々と没頭することもできるようになり、気がつくとロストレイルが到着している、ということも増えてきた。 興味がなかった頃には気づかなかったが、世の中にはこんなにも沢山の種類の本があるのだということに驚かされる。 いまやユーウォンも『Pandora』の常連であり、『運び屋』として、他の世界から本の仕入れを頼まれることもあった。 行く先々の世界に、どんな本があるかを探すというのも、面白い体験だ。 ――やがて、車内に到着のアナウンスが流れる。 ◇ ◇ ◇ 「ここがティアラの故郷かぁ」 イムの呟きに、ティアラは本を閉じ、ようやく顔を上げる。 高台から見える街の景色は大分変わってはいたが、懐かしい空気を失ってはいない。 迷ったけれど、やっぱり探してしまった。そして、ついに見つけた。 それをたまたま来店した三人に話したところ、何故か今、一緒にここにいる。 「おうち、行かなくていいの?」 「ええ……そうよね」 メムに尋ねられるが、曖昧な言葉しか出てこない。 まだ、降り立った場所からほとんど動けてはいない。自分の家があった場所に行く勇気は出てこなかった。 あの時メムが行ってみたいと言ってくれなければ、ここに来るまでにもっと時間がかかったに違いない。 「ま、焦んなくてもいいだろ。とりあえず今日は来れただけでもさ。また来たけりゃ来ればいい」 ジルヴァはそう言って、地面に寝転がる。空は青く、心地よい風が吹いた。 「そうそう。オレたちもついてきてやるからさ!」 「ショックなことがあったら、メムたちがなぐさめてあげる!」 「ありがとう」 故郷の地に再びこうして立っている自分というのも信じられない思いだが、この三人と一緒にいるというのも、とても奇妙な感じがする。 「ここって、ちょっとステキじゃない? ゲームに出てくる街みたい」 「うんうん、わかる!」 盛り上がるメムとイム。「そうか?」と言ったジルヴァは、二人に睨まれて首をすくめた。 「メムたちも、なんどもかよって、ここがスキになったら、住んじゃうかもね?」 そう言ってウィンクをした彼女に、どっと笑いが起こる。 ティアラも気がつけば、自然に笑っていた。 <終>
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