――0世界。 今日も変わらず司書室で、司書としての仕事をこなしているのは世界司書の紫上緋穂だ。各依頼の報告書や、夢浮橋の研究資料などでが机の上に山積みになっている。だが乱雑に散らかっているわけではなく、整然と『散らかっている』のだ。司書室の中も、実は綺麗に整頓されている。「あーあー……私にもいい出会いが巡ってこないかなー」 羽ペンのしっぽをひらひら動かしながら、緋穂は誰に告げるともなく呟いた。こしょこしょと羽で頬をくすぐる。「こう、突然熱烈なプロポーズされたり――ってないか」 がくり、頭を垂れて軽く落ち込む。まあ、いつものことだ。まわりに愛されて幸せそうな人たちがいると、羨ましくなるものだ。この年の正月、年越し便で赴いた夢浮橋で再会した夢幻の宮も、幸せそうだった。「いいもん。司書は仕事が恋人だって誰か言ってたもん……ああ、エミリエさんだったかなぁ、これがリベルさんの名言だって教えてくれたの」 ひとりごちつつ報告書にペンを走らせ始める緋穂。そんな時、彼女の部屋のドアをノックする音が聞こえた。 ……トン、トン。 この控えめな音はエーリヒだ。「どうぞー」 緋穂の返答を待ってゆっくりと空けられた扉の向こうには、妖精の羽を持った少年、エーリヒ・チェルハが立っていた。「緋穂おねえちゃん、いま、いい?」「もちろん。どうしたの?」 エーリヒの表情はどこか冴えない。緋穂は席を立ち、エーリヒをソファに座らせて自分もその隣に腰を掛けた。そして俯いている彼の顔を覗き込む。「……緋穂おねえちゃん、……グレンおにいちゃんの世界が見つかったって、ほんとう?」「……グレンに聞いたの?」 ぽつりぽつりと言葉を発したエーリヒ。緋穂の問いにはこくんと頷いて。「そっかぁ……うん、見つかったんだよ。ごめんね、隠していたわけじゃなかったんだ。グレンには、今、帰属の意思を確認していて……」「……グレンおにいちゃん、嬉しそうだった」「……、……」 ツーリストの中には、自分の世界が見つかって喜ぶ者とそうでない者がいる。グレンは前者で、エーリヒは後者に近い。「……帰っちゃう、のかな……?」「エーリヒは、私と一緒にいろいろな人達が帰るのを見送ってきたよね」 緋穂はそっと、隣に座るエーリヒの頭を撫でる。「グレンが帰るのかは彼が決めることだから、私もエーリヒも口出しできないけど。でもね、一緒に過ごした日々は嘘にはならないから」 緋穂は覚醒前の記憶を失っているけれど、覚醒してから、そして司書になってから、素敵な人達と過ごした記憶はたしかに残っている。 今まで二人で見送ってきた人たちのことも、エーリヒだって確かに覚えているはずだ。「一緒に遊べなくなっちゃうのは寂しいけれど……グレンの決意が固まったら、応援してあげようね」「……うん」「でも、応援するのと我慢するのは違うからね」「えっ……?」 驚いたように顔を上げたエーリヒに、緋穂はいたずらっぽく笑みを浮かべて。「寂しかったら我慢しなくていいんだよ。寂しかったら寂しい、って言っていいんだよ。ああ、こんなに寂しがってくれるんだ、ってきっとグレンは喜んでくれるはず」 エーリヒは我慢し過ぎちゃうからね、もう一度優しく頭をなでて。「後悔しないようにね」 そう伝えると、エーリヒはゆっくりと頷いて拳を握りしめた。 *-*-* ロストレイル13号の帰還は、0世界が生まれ変わるのに合わせたかのようだった。 あれから時が過ぎ、0世界の顔ぶれも変わったり変わらなかったり……それでも紫上緋穂はまだ世界司書を続けていた。 数々の出会いと別れを経験してきた。 今でも時々思い出す、彼らと過ごした日々。 そして、思う。 今、みんなはどうしているのだろうか――。 ======<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆するシナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。======
――0世界。 「きたぞー!」 「こんにちは、緋穂さん」 アルウィン・ランズウィックとナウラが訪れたのは、緋穂の仕事がお休みの日。提案したのはナウラで、緋穂は快く家を会場として貸してくれた。 「いらっしゃいー」 「まってたよー、グレンお兄ちゃんももうきてるよ!」 歓迎を受けてリビングへと導かれれば、そこにはローテーブルがいくつか出されていて、作業場として最適な環境になっていた。 「今日はみんなで何か作れたらと思って、紙粘土を持って来たんだ」 ナウラがテーブルに広げたのは子どもでも扱いやすい紙粘土。特殊能力を使用して作った石や金属のオプションも用意してあった。角だったり牙だったり、子どもの発想力でどう使われるか楽しみである。 「何を作ってもいいの?」 「もちろん、好きなモノを作っていいんだよ」 不思議そうに問うエーリヒにナウラが笑顔を返すと、彼は紙粘土を前に少し悩んでいるようだった。 「アルウィンはさいきょうろぼをつくるぞ!」 「さいきょうろぼ? なんかすごそう! グレンお兄ちゃんは?」 「え? お、俺は……」 聞かれて困ったようにグレンは紙粘土をぐにぐにしている。 「私はどうしようかなぁ……」 迷ったようなことを言っている割に、緋穂の手はてきぱきと動いていて、何か作っているようだ。ナウラが視線を動かすと、グレンの手もエーリヒの手も動き始めたようで、安心して自分も手を動かす。もちろん子ども達の様子に気を配ることも忘れない。 「ランズウィックさん、胴体をもう少し太くしないと、立たせた時に上半身だけポキってなっちゃうかも」 「それはいやだぞ……!」 時折アドバイスをすると、子ども達は素直に聞いてくれて。ここはどうしたらいいの、なんて質問が出始めると忙しくもなったが嬉しくもあった。 「あのね、あのね、ここ、どうしたらいいかな? 細くするとね、ポキってなっちゃいそうで心配なの」 「ん? ああー、触覚か。そうだなぁ……なら、これをつけたらどうかな?」 ナウラは掌をだしてエーリヒの目の前でパーツを変形させていく。みるみる彼の瞳が見開かれるのがなんだか嬉しくて。触覚の形になったパーツを手渡すと、嬉々として彼は紙粘土にさした。 エーリヒは蝶を作っているようだった。アドバイスしてからナウラははっと気がつく。エーリヒの背中には蝶の翅がある。彼の両親も同じだったはずだ。彼は、両親の元へ帰りたいのだろうか――。 「エーリヒ、何で蝶を選んだの?」 聞いてはいけないことかもしれない。でも、確かめておいたほうがいい気がした。緋穂の方をチラッと見ると、手を止めて複雑そうに微笑んでいる。彼女からは聞きづらいのだろう。 でも、それは杞憂だった。ナウラの問いに答えるエーリヒは、笑顔だったのだから。 「だってね、グレンお兄ちゃんがお花を作ってるから、お花に止まるちょうちょさんをつくってるんだよ!」 「!」 「……!?」 その言葉にグレンの手元を見ると、焦ったように彼は作りかけの花を隠した。どうやら照れているようだ。 「ど、どうせ俺が花なんて似合わないと思ってるんだろ!」 「そんなこと無いよ、見せてよ」 「みせろー」 アルウィンまでも身を乗り出してきたから、しぶしぶとグレンは作っていたものを皆に見せる。 「わぁ、器用なんだねぇ」 緋穂の言うとおり、そこにはとても細かい細工の花がいくつも出来上がっていた。言っちゃ悪いが彼がこんなに繊細なものを、それも花を作るなんて思わなかったので、無邪気に出来を褒めるアルウィンやエーリヒとは対照的にナウラと緋穂は意外だという思いが隠せなかった。 「か、母さんが花が好きで、家で色々育ててたんだよ。だから……」 故郷が見つかって、母親の事を強く思い出したのだろう。それは自然なことだ。グレンは悪くない。だが。 「ぼく、ちょっとおしっこ行ってくるね」 エーリヒは淋しそうな顔をして立ち上がって、小走りでトイレへと走っていった。忘れようと思っていても、やっぱりグレンが近いうちに帰ってしまうという不安は彼の心の中にあるのだろう。 「なあ、グレン」 「ん?」 「早く帰りたい?」 アルウィンの問いに、グレンの動きが止まる。彼も気がついたようだ、エーリヒの様子に。 「もし、急がなくてもへーきなら、すこしほりゅーしてエーリヒやみんなで遊び倒してからにしたらどーだ?」 「そうしたいけど……でも、母さんが心配してるだろうし……」 「様子を見に何度か帰ればいいよ」 困った様子のグレンにナウラが助け舟を出す。故郷の世界が見つかったからといってすぐに帰属できるわけではないし、チケットさえあれば様子を見に行くことも可能なはずだ。 「ね、緋穂さん」 「そうだね。元の世界に行くことと帰属することはイコールじゃないから」 「いっぱいあそんだら、もっと離れがたくなるかもしれない。でも、思い出はたくさんあってもいいと思うぞ」 別れた後、同じ頃に、同じ出来事を思い出すかも知れない。 「友達、心つながってる。そんな事あるかも。なー、ナウラ!」 「忘れないよ、ランズウィックさん」 笑顔を交わし合うアルウィンとナウラを見て、グレンはなにか心が決まったようではあるが、まだ踏ん切りが付かない様子。 (グレンも寂しいんじゃないかな? 年上としての挟持が、素直にさせないのかもしれない) ナウラはテーブルを挟んだ向かいから、グレンの頭にぽん、と手をのせた。 「心配するなって言ってあげればいいんだよ。そうすればきっと、良いことがある」 「……ほんと?」 「大切なことはきちんと伝えないと、後で後悔するよ」 「……わかった」 頷いたグレンから手を離した時、ちょうどエーリヒが帰ってきた。 * 「エーリヒはちょうちょいっぱいつくるのか?」 「うん、だっていっぴきじゃさみしいでしょ」 「そっか。じゃあアルウィンもさいきょうろぼもうひとつ作るぞ!」 エーリヒの手元を覗きこんだアルウィンは新しい粘土に手を伸ばす。だが、紙粘土は作業途中で放っておけば乾燥してしまう! それをナウラに指摘されて、アルウィンはまず一体目を先に仕上げることにした。 「これ、みさいるにしよう! どだ?」 「かっこいいねー」 「もうひとつにはどりるをつける!」 子ども達が楽しんでいるうちにナウラは手を動かす。作っているのは鳥。鳥が、好きだ。本当は太陽が一番好きだけど、抽象的なのでやめたのだった。 「ナウラのかっこいいぞ! くちばしと目がひかってる!」 光る嘴と目をつければ、子ども達か羨ましそうに見てきたから、光るパーツを分けてあげて。 「できた!!」 そんなこんなしていると、ずっと黙っていた緋穂が大声を上げた。驚いてそちらを見る一同。 「見て見て、これが怒ってるリベルさん、こっちが笑ってるリベルさん、あと泣いてるのと照れてるのとデレてるのと眠ってるのと……」 黙っていると思ったら、次々に出てくるリベルの百面相。これがまた妙に似ているものだから。 「ぷっ……」 「ふふ……」 「あははははっ……!」 リビングは笑いに包まれる。 「これ、似すぎっ……本人に見せたら、怒られそ、う、だけ、ど……」 笑いをこらえてしゃべるのが精一杯だった。 * 「アルウィン、クッキーとぼーる持ってきたぞ!」 紙粘土を乾かしている間、子ども三人は庭でボール遊び。ナウラは緋穂とともにお茶の準備だ。アルウィンの持って来たクッキーは、以前ナウラと一緒に覚えたものらしい。緋穂の用意したチョコレートブラウニー(微妙な味)と共にお皿に並べて。子ども達の様子を見ると、グレンが上手く年下の二人を相手してくれているようだった。彼も実は面倒見がいいのだろう。 「こうしていると、グレンとエーリヒは兄弟に見える」 「そうだねぇ」 緋穂も手を止めて、庭へ視線を移して優しく微笑んだ。 ナウラは兄弟を失ったから、二人が仲良くしていると優しい気持ちになる。 (色々話したけれど、二人は言わなくてもわかっているかもしれない) 優しい気持ちが、ナウラの心を満たしていく音がした。 「アルウィンが取ってやる!」 投げられたボールのみを見ていたアルウィンが、ボールめがけて飛び出す。 「あっ……!」 エーリヒが声を上げたが、注意喚起は間に合わなかった。プランターに足を引っ掛けて、アルウィンの身体が傾いていく。エーリヒは思わず目を閉じた。 けれど。 「っ……ぶねぇ。おい、大丈夫か?」 聞こえてきたのはアルウィンの泣き声ではなく、グレンの声だった。ボールがポーンポンと庭を跳ねまわる。 「お? アルウィン痛くないぞ。ん?」 「痛くないならどいてくれ」 きがつけば、アルウィンはグレンの上に乗る形になっていた。転びかけたアルウィンの下にグレンが入り込み、キャッチしてくれたのだとようやく分かる。 「助けてくれたのか! かんしゃするぞ」 「怪我して泣かれるよりマシだからな」 なんて言ってはいるが、服についた泥を落とすグレンの掌はすりむけているようだ。自分は怪我をしてまで助けてくれるということは、やっぱり彼は優しいのだろう。 (できる奴……) 何となく、そう思うアルウィンだった。 * 遊びを終えておやつを食べ終える頃には紙粘土も乾いていて、作業再開にはちょうど良さそうだった。絵の具の準備をグレンが手伝っているうちに、アルウィンはエーリヒの手を引いた。 「あのな、エーリヒ」 「なあに?」 「大事な事は、相手の目を見てりょうてをにぎっていうと伝わりやすいんだぞ」 「! わかった、試してみるね!」 がんばれ、と背をを押してテーブル付近に戻れば、色とりどりの絵の具が用意されていて。 「これ、ぜんぶ使ってもいいのか?」 「いいけど、色どうしが混ざり合うと汚くなるから注意するんだよ」 ナウラの言葉に何度も頷いて、アルウィンは筆をとる。最初はどの色にしようか? 色とりどりの絵の具は、何となくモフトピアを思い出させた。 「エーリヒとモフトピアで遊んだな。こんど、グレンも行こ?」 「……」 「グレンお兄ちゃん」 戸惑っているようなグレンの手を、エーリヒはきゅっと掴んでまっすぐに瞳を見据える。 「ぼく、もっとグレンお兄ちゃんと遊びたい。だから、もう少しだけ、ここにいてほしい」 「エーリヒ……」 真っ直ぐな瞳が、真っ直ぐな心が、グレンを正直にさせる。 「そうだな、俺もまだ遊び足りないし。もう少し、ここにいるか。だからエーリヒ、心配するな」 「! やったっ!」 エーリヒの笑顔に花が咲く。つられるようにその場に暖かい空気が広がる。 「これ、ふたりにやる! ともだちのあかしだ!」 くぎゅっと握りこぶしを差し出したアルウィン。不思議そうに掌を出したエーリヒとグレン。その上にポトリと落とされたのは、綺麗なビー玉だった。 「きれいだねー」 「おし、今度遊びに行こうな!」 和気あいあいと子ども達が盛り上がっている。それを見て、ナウラと緋穂はほっと胸をなでおろしていた。 (知らなかった事を沢山知った、ここでの経験はきっと役に立つ) ナウラはいずれ自分の世界に帰る。でも友達の自慢と共に、未来で会う人達にも教えたり、助けたりできる。友達と一緒に何か作ったことは思い出になる。思い出は別れた後も、励ましてくれる。だから。 (死んでも忘れない) 強く誓ったナウラのもとに、アルウィンの声が届く。 「ナウラは正義の味方になるらしいんだ。だからアルウィンも負けないくらいの騎士になるぞ!」 その言葉はとても嬉しかった。思わず頬がゆるむ。けれども絵の具をつけたまま振り上げられた筆が絵の具を飛ばしていたので、ナウラは雑巾を手にその始末にあたることとなった。でも、緩んだ頬はそのままで。 友情なんて形のないものだという人もいるけれど、形がないからこそ心に残るのではないかと思う。それぞれのこころに様々な思い出と紐付いて、そこに友情は存在するはずだ。 *-*-* ――夢浮橋。 これは、一年ほど後の、夢浮橋での様子。 この世界に帰属したドルジェは、東宮妃となった花凛姫――華夜姫の元に仕えている。 本来の任務は姫の近くで彼女を危険から守り、必要とあらば情報収集や諜報活動を行う、壱番世界で言う『忍者』のようなものだけど、姫の好意で普段から身の回りの世話をする女房の役割も与えられていた。 「もう少し女らしくしたらどうかしら?」 そんな姫の言葉で髪も伸ばし始め、男装もやめた。夢浮橋の、暁京の作法もみっちり仕込まれて。最初こそ戸惑ったものの、今ではだいぶ慣れていた。着付けも、女物ならば難なく出来るようになったのだ。 東宮妃付きとして東宮御所で暮らすドルジェは、今上帝である夢幻の宮へ時折東宮御所での姫の様子を報告しに行くことがあった。その時大抵一緒になるのは、同じく東宮御所で暮らしている東宮付きの藤浪仙夜(ふじなみ・せんや)という男性だった。彼は東宮の様子を報告するために召しだされている。ドルジェと同い年であるという仙夜とは、共に召しだされることが多く、東宮御所への帰路で会話を交わすようになった。東宮と姫が共に出かけるときはもちろんドルジェも仙夜も供をするし、必然的に顔を合わせることが多くなって。気がつけば互いのことを話す仲になっていた。 「お二人は相変わらず仲睦まじくあられて、今上帝もご安心召されたことでしょう」 「そうですね。お嫁入りしてからの姫様は、よくお笑いになるようになりました」 今日もまた、東宮御所への帰り道。いつものように言葉を交わしながら歩く。今は任務のために動きやすい格好をしているドルジェだが、姫とともに公の場へ出る場合は、この国の正装――すなわち十二単をまとうこともあった。最初の時こそ重苦しくて動きにくい服だと邪魔に思っていたが、色合いにも季節への思いやお洒落心が込められていると知って、少しだけ身近なものに感じるようになった。ドルジェが女らしい格好をすると、姫がとても喜ぶ。姫の幸せが、今のドルジェの幸せであった。 「東宮も、以前の塞ぎこんだ様子とは打って変わられて……。はじめからお二人の運命は、結ばれていたのかもしれません」 「……」 仙夜は姫が冷我国の花凛姫として、藤壺の女御として前帝の妃であったことを知らない。これは、数人しか知らぬことだから。 「姫様がお幸せならば、私も幸せです」 ドルジェは、姫がとても努力した事を知っている。もともと後宮にいたからこの国のことはある程度学んでいたのだが、東宮御所に来る義父でもあるニワトコから東宮の植物の好みなどを教わるだけでなく、数カ月後には自ら庭に出て、ニワトコと土いじりをする東宮に混ざるようになったのだ。土いじりなどしたことがなかっただろう白い指と桜色の爪が土に汚れるのも構わずに、東宮のそばにいる。それだけ彼を想っているのだろう、愛しているのだろう。 そんな姫のひたむきな思いが東宮の心を癒やしたのか、最初こそ東宮は気を使って寝所を共にすることはなかったのだが、三ヶ月ほど経った頃だろうか、ついに二人は本当の夫婦となった。この報告をした時に帝やニワトコ、義理の姉となった華月がとても安心した様子であったのを覚えている。 それからも二人は仲睦まじく、かといって周囲が呆れるほどべったりというわけではなく。東宮も公私をきちんと分けており、姫もそんな彼を陰日向に支えている。もうそろそろ東宮を帝にしてもいいのではないかという声も上がっているようだが、上層部が首を縦に振らない。帝となれば余程のことがない限り側室を迎えることを拒否することはできない。いくら東宮が姫だけを愛していると言っても、他の妃をないがしろにするということはその後ろ盾となっている家との関係を悪化させることになる。もし華夜姫を差し置いて他の妃が身ごもりでもしたら……おとなしい華夜姫はその妃と子どもに気を使って、そちらに通ってほしいと言い出しかねない。それがわかっているのだろうし、他にもドルジェの知らないところで政治的思惑があるのかもしれないが、もうしばらく姫には心穏やかに暮らしてもらえそうなことにドルジェは内心安堵していた。 「――ですか?」 「えっ?」 物思いにふけりすぎた。仙夜と共にいたのだった。つい、姫の事を考え始めると自分のことは二の次になってしまうところがある。姫には叱られるのだが、なかなかなおりそうにない。 「僕と話すのは、あまり気が乗りませんか?」 「え? い、いえ、そんなことはっ……申しわけありません、姫様のことを考えていて……」 悲しげに微笑む仙夜の顔を見た時、何故か心臓のあたりがチクっとした。 「ふふ、少し意地悪を言い過ぎましたか。あなたが華夜様の事になると自分のことは二の次になることは、わかっていますから」 その顔が優しげな笑顔に変わると、今度は心が暖かくなる。 (???) 何故だろう、そっと着物の合わせ目あたりを押さえたが、触っても痛くはなくて。 「明日はなにかご予定がお有りですか?」 「……え? い、いつもどおりに姫様の側に控えている予定ですが……」 「おや、明日はお休みだと華夜様に伺ったのですが……」 「あっ……それは……休みは休みなのですが、特にすることもないので、いつもどおりに過ごそうと思って」 いい年頃の女であるのに休日を潰す趣味の一つでもないのかとおかしく思われるだろうか。いつも他の女房たちに呆れて笑われるからそんなこと慣れているはずなのに、仙夜に話すのは少し、恥ずかしかった。 「あなたは本当に華夜様思いですね」 しかし仙夜は笑わなかった。そっと、その手が伸びてきて頬に触れるのを、許してしまった。拒もうと思えば拒めたはずだ。逃げようと思えば逃げられたはずだ。なのに、しなかった。 「明日、僕にあなたの時間をくれませんか?」 「えっ……」 頬に触れた指は長く、節くれだっていて、当然のことながら女房たちの手とは違う。触れられた頬が熱を帯びる。 「あなたのことをもっと知りたいのです。あなたは、もう少し自分の為に時間を使っても許されるはずですよ」 「そ、んな……私なんて、ついこの間まで男装をしていて……」 さすがのドルジェでも、仙夜の言葉に男女としての気持ちが込められていることはわかる。そして、それを嬉しいと思う心が自分の中にあるということを、初めて、知った。 「今はもう、男性に間違われることはないでしょう?」 伸ばしかけの髪に彼の指が触れる。鼓動が、増していく。 「あなたは他の国からいらした方だから、この国の男女の常識を押し付けるつもりはありません。けれども人を愛しいと思う気持ちは、万国共通でしょう?」 仙夜の優しい微笑みがドルジェの心を掻き立てる。胸を打つこの気持ちが人を愛することなのだと、知った。 * 金の目は極力隠していますが、それは初めて会う方に奇異な印象を与えないためです。親しい方には普通に見せているんです。 それでも、災いは起こっていません。 ……この世界の人々は、私の目を否定しなかった。 ここでは私は自分を偽る必要がないんです。あれほど『女』であることが嫌だったのに、今ではそれも受け入れられる。ありのままの私を肯定してくださる方もいるから……。 このような形で自分の居場所を掴めるなんて、覚醒した頃は考えてもみませんでした。 運命と、それをもたらしてくださったすべての方に感謝しております。 ありがとう……私は幸せ者です。 ――藤壺の女御付き、女房頭・藤浪著『明星記』より抜粋。 *-*-* 同じく一年後。ここは、時間旅行が実現する世界。時間管理局は今日も頑張っている。 元の世界への帰属を果たしたエル――アーネスト・クロックラック巡査部長は、一通の封書を手に捜査二課課長室の課長のデスクの前に立っていた。 「結婚、するので」 差し出したのは辞表。結婚のため、時間管理局を退職するのだ。おめでたいことだ。エルのも笑顔を浮かべて上司に結婚を報告しているようにみえる――彼女が笑顔の下に秘めているものを、今は誰も知らない。 「……うむ、仕方ないな。君は大変優秀な人材だが……引き留められんか」 課長は流暢な筆跡で書かれた退職届を受け取り、それとエルの顔を見比べながら呟いた。覚醒する前にあれだけ見慣れていた課長の顔が、今は別物に見える。 「ええ。生涯かけて、付き合っていくって決めたんです。だから、その道を進むために……」 「そうか、幸せ者だな、君の相手は」 「……、……」 エルは赤い目を細めて微笑んだままだ。 「後半月か……退職するまでは君は時間管理局の巡査だ。今まで同様しっかり働いてくれよ」 「もちろんです。半月後、『お別れ』するまではしっかり努めさせていただきます」 課長のネクタイにつけられた、鷹の意匠を抱いたタイピンが、蛍光灯の明かりを反射してキラリ、光る。 その時のエルの言葉の本当の意味に課長が気づくのは――。 * 15日後。エルは予定通りに時間管理局を退職した。前日に開かれた送別会で同僚たちにさんざん惜しまれたが、エルの気持ちは変わらない。決意が覆ることもない。昨夜の礼と別れの挨拶を済ませたエルは、一軒のバーに立ち寄った。後から来た課長と合流して、二人だけの送別会をするのだ。 「課長、だいぶ飲んでましたが大丈夫ですか?」 「君こそ」 バーから出た後も、『良い部下』の演技は解かない。 「課長、もう一軒だけ付き合ってもらえませんか?」 「婚約者殿に叱られないかね?」 「大丈夫ですよ、理解のある相手ですから」 そう言ってエルが案内する道は、いつの間にか薄暗い路地裏へと変わっていって。月明かりがなければ、そこらに点在している廃棄物に足を取られそうだ。 「課長。そういえば、結婚相手……紹介していませんでしたね」 「ん……」 「今、紹介します」 シュンッ――。 「ぐあっ……」 闇の中を抜けた弾丸が、課長のスーツの胸元を射抜いた。減音器付きハンドガンによる0.01秒の抜き撃ちだ。自分の身を襲った痛みが何によるものなのか、彼が理解するより早く、月明かりを背後に憎しみ色に染まったエルの言葉が語る。 「その相手はね、『復讐』って言うのよ。……初めまして、私の家族を消した犯人さん?」 「な、に……」 流血を止めることが出来ずに汚れた地面に尻をついた課長が、のろりと視線を上げる。 覚醒したことはエルにとって無駄ではなかった。真実も、手がかりすらもまったく見えなかった事件の糸口を、真相の欠片を覚醒したことで知ることが出来たのだから。 香房【夢現鏡】で見せてもらった、“消失”の一ヶ月前の光景。父の視点を借りて見たその出来事は、エルに父の深い愛を感じさせただけではなかった。 あの時、父を脅していた一味の一人が落としたチェーン付きの時計には見覚えがあった。なぜなら、エルも同じものを持っているから。そう、あれは時間管理局員の証である、銀鎖の銅の懐中時計だった。 鷹の意匠のついたネクタイピンも、よく見ていたものだった。なぜなら、課長が全く同じものをつけていたから。 顎の傷は、見つけるのに時間がかかった。違法手段を使い、傷跡を消す再生医療の痕跡を追って漸く突き止めることが出来た。 もちろん、時間管理局があんなことをするわけはない。だから――。 「とても希少な能力……しかも、時間使いというものなら、その国家が管轄する時間管理局には……いえ、それを隠れ蓑とした組織には喉から手が出るほど欲しいわよね?」 裏の繋がりも必死で調べた。課長達が所属している組織のことも調べあげたが、誰にも伝えなかった。これは、エルの復讐だ。他の誰にも渡してなるものか。 「……でも、いずれ不要になるわ。あなたたち全員を殺す。勿論、慈悲はない」 「このまま……で、済む、と思うな……よ」 血の染みがどす黒い水たまりとなって、汚れたアスファルトを侵食していく。苦し紛れに搾り出された彼の言葉が、自白の代わり。 「そっちから来てくれるなら、大歓迎だわ。探す手間が省けるもの。だから、あなたも早く『見つけて』もらえるわ。良かったわね」 シュンシュンッ――。 銃弾に身体踊らせて、ドサリと倒れた『課長だった男』はもう、動くことはない。 「これで『お別れ』ですよ」 冷たい視線で死体を見下ろした後、エルはそのまま路地を歩いて行く。死体の始末はしない。その方が彼の仲間に早く『見つけて』もらえるから。 月明かりに照らされた彼女の瞳は、ルビーのように紅くきらめいていた。唇は三日月のように薄く笑みの形を作っていて。 エルの復讐は、まだ終わらない。 彼女は、『復讐』とともに歩むことを誓ったのだから――。 *-*-* ロストレイル13号の帰還によって、すべてのロストナンバーは元の世界へ戻れる可能性が浮かび上がった。出身世界を必死で探す者、全く興味のない者と分かれたが、シュマイト・ハーケズヤは前者だった。シュマイトは元の世界を探すのに全力を注いでいた。 メイドのハイユ・ティップラルから見てもシュマイトが研究にのめり込んでいることは明らかで、前にも増して研究しか頭に無くなった主人をハイユは甲斐甲斐しく世話をしながらも、飲んだり寝たり遊びに行ったりの――まあ言うなればこれまでと同様だ――素敵ライフを送っていた。 (本当に戻れるのだろうか――) 時折シュマイトを襲う不安。足取りを重くさせるそれを振り払いつつも研究を続ける。だが、決定的な成果を得られぬまま、一年が過ぎた。 (なんでそこまで戻りたいのかはほぼ想像つくけどねぇ) 紅茶のおかわりを運んで彼女の部屋を出たハイユは、後ろ手に扉を閉めながら心の中でつぶやく。本人は隠しているつもりらしいので、放っておくつもりである。 (あんだけ行ったり来たり、二人で徹夜トークとかしてれば普通は分かるって) シュマイトは親友のサシャ・エルガシャが既婚者となった後も、彼女の元に通っていて。ある日はお茶会、ある日は徹夜でトークと仲良く過ごしているようだった。 (しかも今は花嫁ブーケまで追加。「サシャからもらったものだからな」って、それだけのわけねえだろ) サシャの結婚式のブーケトスで受け取ったブーケを、シュマイトは手ずから手入れをして大切にしている。本人は真意を隠しているつもりだが、百戦錬磨のメイドであるハイユにしてみれば、真意など見え見えである。 (でも、最近行き詰まっているみたいだからなー。ここは一肌脱ぎますか) シュマイトに内緒でハイユが向かったのは……。 * 翌日。 シュマイトがハイユに連れられてやってきたのは、『サティ・ディル』。言わずと知れた、サシャの店である。 「ふたりとも、いらっしゃーい」 いつもの明るい笑顔でサシャに出迎えらると、なんだかシュマイトもほっとする。 サシャとのお茶会はこれまで続けていた。すさんだ研究の日々を送ってるシュマイトにとって、数少ない潤いの時間だ。だが今回はハイユの発案というところがいつもと違う。 (相変わらずサシャちゃんがからむと弱いねえ、お嬢は) しかし今回の内容が『サシャのところでお茶会』でなかったら、シュマイトはハイユと共に外に出てきたかはわからない。 シュマイトにとってサシャは特別なのだ。ハイユもそれを知っているから、サシャに協力を頼んだのだった。 いつまで経っても美味しさの変わらないサシャのお茶とお菓子、それにシュマイト達が持参したお菓子も加えてお茶会は始まる。話題は相も変わらない日々の出来事だが、昔に比べれば恋愛の話と旅の話は出番が減った。ロストメモリーとなったサシャは旅に出られないし、シュマイトは研究に夢中。サシャは結婚した。ともなれば仕方のない話だ。 「そう言えばお嬢はサシャちゃんに服作ってもらわなかったん?」 「ん?」 「作ったよ、とっても可愛いのを……ってあれ、もしかしてハイユさんに内緒だった?」 「い、いや、そういうわけではないが……」 シュマイトとしては自分から言うつもりはなかった。だって『想い人との再会にふさわしい服』を頼んだなんて知られたら、ハイユにからかわれるのは目に見えている。だがハイユとしては「作ったって話は聞いてないけど、たぶん作ったんじゃね?」ってことでカマかけてみたら見事に真実を聞き出せたというわけだった。 そこから話は広がって、思い出として口に上るのは二人の友情がたどってきた道。恋と友情が複雑に絡み合った、道。今となっては思い出として語ることができるけれど、そうなるまでは大変なこともあった。 「そっかー、一時期は百合に走るんじゃないかと思ったくらい仲良く見えた二人にも心の距離とかあるんだねー」 優秀なメイドは人間観察もお手の物。ふたりの、特にシュマイトの様子がおかしかったのにはもちろん気づいていたし理由にも心当たりはあったが、ここは「今はじめて気づきました。今思えばそんな感じだったね」という態度をとることにする。 「サシャちゃん結婚しちゃったしねー。彼氏できた時点でお嬢ボロボロだったもんねー」 「ハ、ハイユ!」 それ以上言うなという気持ちをこめて、シュマイトはハイユをキッと睨んだ。 「今となってはいい経験をしたと思う。大切な友情の1ページだ」 「へー。お嬢も成長したんだねー」 「ところでハイユ」 「ん?」 「席を外したまえ」 「え、席はずすの? 別にいいけど」 しかたがないなぁとつぶやいて、ブランデー入りのケーキをひとかけ口の中に放り込む。だがただで席を外すハイユではない。メイドの嗜みの盗み聞きがここで真価を見せる! 一方シュマイトは盗み聞きされているなんて考えてもいないのだろう、ハイユが姿を消したことにホッとして口を開いた。 「時折、不安になるのだ」 語るのは研究がうまくいかない不安と焦り。それと、ラスへの思い。帰れる可能性の出現が、ラスをより恋しくさせる。 「こんなことはサシャにしか話せない。ハイユは、わたしの想い人がラスである事も、彼と会うためにサシャに可愛い服を作ってもらった事も知らないのでな」 「嬉しいな、シュマイトちゃんに頼ってもらえて」 (でも、ハイユさんなら知ってそうだけど……) にっこりと笑ってシュマイトのカップに紅茶のおかわりを注ぐサシャ。心の中で思ったそれは口には出さないけれど。実はやっぱりハイユも知っている。ハイユが知らないと思っているのはシュマイト本人だけで。 「ありがとう。キミの結婚式のブーケトスでもらったブーケは今でも大切にしているよ。ハイユからやり方を教わって自分で手入れをしている」 おかわりの礼を述べて、シュマイトがはにかむ。 「シュマイトちゃんが自分で手入れしてくれてるんだ。大切にしてくれてありがとね」 「こればかりは自分で手入れをしたいんだ」 「シュマイトちゃんの花嫁姿かぁ……見れないのが残念だな」 それは花嫁のブーケにまつわる言い伝え。 「わたしが次の花嫁になる、か……そうなるのだろうか。照れてしまうな」 「現実主義のシュマイトちゃんがブーケの言い伝えを信じてくれていて、なんだか嬉しいよ」 (それに、今のシュマイトちゃん、とっても可愛い) 口に含んだ紅茶を飲み干して、シュマイトは笑う。今までのシュマイトだったら、ついひねくれたことの一つでも言ってしまいそうだが……。 「ははは、迷信などと言うほど無粋ではないよ、わたしとてそのくらいの夢は見る」 サシャの前でだからだろう、だいぶ、シュマイトは素直になることができていた。 「あー、やっぱりねー。いや、いいことだと思うよ?」 「ハイユ!?」 何食わぬ顔で入室して、自然に話に加わるハイユ。 「聞いていたのか!?」 「世界にいたらラスくんとの仲にちゃんと向き合えなかったと思うし」 主人のうろたえと抗議に耳を貸さず、ハイユはサシャを見て「あたしにもおかわりちょうだい」と付け足して。 「だからこれでもサシャちゃんには感謝してるんよ。あたしにはできなかったことだから。ありがとね」 「……ハイユ」 まさか彼女がそんなふうに思ってくれていたなんて。シュマイトの心に広がるのはむず痒いような複雑な思い。だけど、嫌ではない。 「ううん。だって大好きなシュマイトちゃんのためだもの。シュマイトちゃんにも、幸せになってほしいから」 当のシュマイトをおいて続けられる会話。ふたりに大切に思われていることが伝わってきて。 でも、やっぱり。 「……ハイユ、知った以上は協力したまえ」 素直になれるのはサシャの前だけ。照れているのだろう、ぶっきらぼうなものいいのシュマイトに、思わず笑みを漏らすハイユ。 「はいはい、お嬢の仰せのとおりにー」 シュマイトが、恋の味方を得られて内心少しほっとしているのは、ハイユには内緒だ。 もしかしたら、とっくにバレているかもしれないけれど。 *-*-* ――二年後。 舞原 絵奈はまだロストナンバーとして日々を過ごしていた。主にインヤンガイでの暴霊退治の依頼を受けながら、自分の、戦士としての腕を磨く――そんな日々を送っている。 ある日、絵奈のトラベラーズノートに世界司書の紫上緋穂からのメッセージが届いた。彼女の司書室に来てほしい、内容はそれだけ。 (なんだろう? また暴霊退治の依頼でもあったのでしょうか?) 不思議に思いながらも彼女の司書室を訪れた絵奈に告げられたのは、驚くべき事実だった。 絵奈の故郷の世界が見つかった。 「どうする? 行ってみるならチケット発行するけど……」 「少し、待っててください」 司書室を出て、心を落ち着かせようと図書館の外に出た。行き先は、決まっている。 (もう帰らないって決めてた……だけど) 頭をよぎるのは、大好きな姉や共に過ごした仲間の顔。彼らのお墓があると思うとどうしても気になってしまって、密かに故郷の世界を探してもらっていた。 見つかったら、あの人と一緒にいこうと思って。 だから、向かうのはあの人の元だ。 * 星川 征秀は一年前、友人とともに探偵事務所を開いていた。おかげさまで業績は順調だが、今はちょうど仕事の依頼が途切れて暇をしている。 (どうするかな……) 相方はちょうど依頼を受けて異世界に行っている。征秀は留守番がてら事務所に残っていた。だが客が来る気配はない。ソファの上に寝転がってまったりと過ごしていたその時。 「征秀さん、いないんですか?」 (……絵奈?) 事務所の扉を開けて入ってきた人物の声には聞き覚えがあった。ちょうど彼女の位置からはソファに寝転んでいる征秀が死角になっていて、見えないのだ。 遠慮がちな足音が近づいてくる。 「征秀さん?」 なんだか起き上がるタイミングを逸してしまい、征秀は寝転んだままでいた。絵奈の足音が段々近づいてきて、もう、ソファの背後に――。 「征秀さ――」 「……やあ」 目が合った。軽く手を上げて挨拶をしてみせたが、気まずい沈黙が流れていく。 「……居るなら居るって言ってください」 少し頬をふくらませて、絵奈は向かいの空いているソファに座った。 「征秀さん、私達の故郷が見つかったんです。一緒に行きませんか?」 「見つかった……?」 にわかに絵奈の言葉が信じられなかった。けれどもワールズエンドステーションにたどり着いてからこっち、ロストナンバー達の故郷は次々と見つかり始めているから不思議なことじゃない。絵奈も、彼女の姉である沙葉や仲間達の墓が気になってこっそり調べてもらっていたのだといった。だが。 「俺は二度と故郷に帰らないと決めたんだ、それは聞けない」 「でも……」 身を乗り出して、絵奈は言い募る。 「私一人で行っても、皆のお墓の場所わからないから……お願いします」 何度も何度も、頭を下げる。 「お願いします、一緒に行ってください」 絵奈も絵奈で、どうしても諦めるわけにはいかなかった。以前の絵奈だったらただ墓の前で号泣して縋るだけだろう。けれども今の絵奈は、違う。心の区切りをつけるような、ずっと、引きずっていたものを綺麗にたたむような、そんな気持ちで墓に詣でたいと思っていた。 「お願いします……」 何度目の懇願だろう。以前に墓に詣でたことのある征秀が一緒に行ってくれなければ、お墓の場所がわからない。現地の人に聞く方法もあることはわかっている。けれども絵奈は、征秀に連れて行ってもらいたいのだ。 「……わかった。分かったから頭を上げろ」 「……! じゃあっ」 「チケットの用意をしておいてくれ」 嬉しそうに絵奈が頷く。 どうも、絵奈には甘くなってしまう征秀だった。 * ロストレイルの中には絵奈と征秀の二人だけ。絵奈は、ずっと黙ったままだった。何かを考えているのか、少し、険しい表情で。 (久々の故郷か……5年振りくらいか?) さすがに征秀も緊張していた。 ロストレイルが停車し、久々に故郷の地へ降り立ったはずなのに、絵奈は特になんにも感じなかった。無理もない。絵奈はたいていお屋敷の中にいたから、外の景色を殆ど知らないのだ。だから、周りの景色があの頃とどれだけ変わっているのか、変わっていないのかもわからない。 征秀は周囲にさり気なく視線を巡らせながら絵奈を案内した。故郷の景色は思いのほか変わっていなくて、懐かしさと同時にあの頃の苦々しい思い出が沸き上がってきた。苦笑が漏れる。 (でも、今日は絵奈の付き合いで来たんだ、務めを果たすだけ……) 自分が悔いるために来たのでも、感傷に浸るために来たのでもない。絵奈の目的を果たさせるためだ、そう自分に言い聞かせた。 花屋で白い花を沢山買い求めた。ラッピングは断って、簡単に白い紙で包んでもらうだけにした。 「ここだ」 征秀に導かれるようにして辿り着いたのは、多数の十字架が立てられている場所。組織の戦士たちの、墓所だ。 木製の十字架は風雨に耐えて立ってはいるが色を変えている。以前征秀が見た時はまだ真新しかった。時間の経過を否応なく感じさせられた気分だ。 (ここに皆が眠ってるんだ……) そう思うと絵奈の記憶の奥から、仲間達との思い出が一気に溢れ出てきた。暫く忘れていたそれは、新しく湧いたばかりの泉の水のようにどんどん湧き出てくる。心が、震える。 「沙葉お姉ちゃん……」 真っ先に姉の墓の前に白い花を一輪置いて。墓に刻まれた名前を確認しながら、一輪一輪花を置いていく絵奈。 「まひるさん、呼宵さん、左京さん、秀一さん、誉さん、凌介さん、揺楽さん、巡さん、彩寧ちゃん……」 跪き、花輪供えて祈る絵奈を、征秀は少し離れたところから見守っている。花が供えられたばかりの沙葉の墓に視線をやって。 (……すいません、結局来てしまいました) ――まったく……。 沙葉が苦笑を浮かべてそういう姿が想像できた。口ではそう言いつつも、彼女は征秀の来訪を拒否したりはしないだろう。 「う……ぁ……」 「……!」 ふと征秀が我に返ると、嗚咽が聞こえてきた。嗚咽の主は探さなくてもわかる、絵奈だ。絵奈は、墓の前で泣き崩れていた。 「ごめんなさい、助けられなくて……」 絵奈のせいじゃない、それでも。 「ごめんなさい、来るのが遅くなって……」 絵奈のせいじゃない、だけれども。 「私、皆の分まで生きていくから……!」 きっと、それが皆の望み。そう自分を納得させるまで時間がかかった。 私だけ生き残ってごめんなさい――そう思ったこともあるけれど、今は、違う。 皆の分も生きる、それが、一番の餞であるとわかる。 けれども。 涙はとめどなく流れ、震える心は止まらない。 (……こんな思い、させたくなかったのにな) だから、連れてきたくなかった。けれども、これは絵奈にとって大切な『儀式』でもあるのだろう。 征秀は絵奈の傍らに膝をつき、そっと、彼女を抱きしめた。こうすることで彼女の気持ちが少しでも落ち着けば、そう願った。 「っ……」 絵奈はすがりつくように征秀の胸で涙を流す。嗚咽を漏らす。それが自然に収まるまで、征秀は絵奈を抱きしめてくれていた。 すがりつく相手がいるということが、とても恵まれているように思えた。 初めてここに来た時、征秀にはすがりつく相手がいたのだろうか? 「ありがとう……」 「えっ……?」 「ありがとう、征秀さん……ここに連れてきてくれて」 予想外の言葉が聞こえてきて、征秀は思わず腕の中の絵奈に視線を向けた。 聞き違いではなかったようだ。 絵奈のその言葉は、征秀の心の中につかえていた何かを、ふ、と消し去っていった。 * 帰りのロストレイル。相変わらず乗客は二人だけだったけれど。 絵奈の表情は行きとは打って変わって晴れやかなものだった。 だから征秀も、行ってよかったと心から思えたのだった――。 *-*-* ――三年後。 鬼龍は故郷の世界に再帰属を果たした。 村はどうなっているだろう――多少の不安を抱えながら村の周りを見て回ったが、村は鬼龍が知っている頃とあまり変わっていなかった。自然、ほっと胸を撫で下ろす。しいて言うならば、祠が新しくなっていた。 昼間は人目が多い。それでも千耶の様子が気になったので、隠行術で身を隠して千耶の家の前まで行った。だが……。 「……」 明かり取りの窓から覗いた室内、千耶は薄手の単を纏い、綺麗だった髪をボサボサと振り乱しながら、座り込んで宙を見つめていた。 ――雪原から戻ってこなかった彼を殺したのは、私。 ――雪原の鬼じゃなくて、私。 ――帰ってくるとどこかで信じていたのに。 ぶつぶつと焦点の合わぬ瞳でつぶやいている内容は、以前香房【夢現鏡】で見た夢の中と同じ。 (千耶、俺はお前のために帰ってきた。お前を自己嫌悪の檻から連れ出すために) 鬼龍はそのまま、日が暮れるのを待った。 * 今日は満月。月明かりが煌々と村内を照らしている。だが時間が遅いため、村民のほとんどは眠りについていた。しん……とした村内。鬼龍は隠行の術を解き、そっと木戸を開ける。差し込んだ月明かりに照らしだされた室内。千耶は壁に寄りかかるようにして両手両足を投げ出して座っていた。 「千耶」 そっと、声をかける。千耶にだけ聞こえるように。 「千耶、俺だ」 ぴくり、彼女の身体が揺れた。 「千耶」 声の主を探す彼女。戸が開いて月明かりが漏れ入っていることに気がついた彼女は、のろのろと立ち上がって。 「俺だ、霧生だ」 明かりに向かって歩み寄る千耶。その月明かりは彼女にとって、正気へと戻る唯一の光の糸。 「……きりゅ、う?」 木戸を開けて外へ出た彼女の顔は、涙に濡れていた。瞳には正気の色が戻っているが、涙で濡れてよく見えない。 「生きて、いたの……? それともこれは、夢?」 そっと手を伸ばし、鬼龍は袖で千耶の涙をやさしく拭った。 「夢じゃ無い」 「私、あなたを、殺して……しまった、と……」 「だが、生きている」 そっと、千耶を抱きしめる。彼女の身体はひと回り小さくなったような気がした。 この温もりが、生きている証だと伝わるだろうか。お前は俺を殺していないと伝わるだろうか。 「霧生……帰ってきたのね?」 「……いや」 胸に縋る千耶の言葉を、今の鬼龍は否定するしか無い。神でもある鬼龍は、もうこの村で人間だった頃のように暮らすことは出来ないのだ。 頭の白いキジの尾が月明かりに浮かび上がる。今の己は神でもある、そう告げると千耶の表情が歪んだ。 「……行ってしまうの?」 「……いや」 腕の中で不安げに問う彼女を、鬼龍は今一度強く抱きしめる。 「もう二度と、お前を離すつもりはない。……人ならざる俺の元へ嫁いでくれるか?」 千耶の表情が動く。 返事は、精一杯背伸びをしての接吻だった。 オォォォォォォォォォ――。 その夜、静かな村の中に咆哮が響いた。 何事かと目をこすりながら外を見た村人たちが見たのは、空を飛ぶ龍の姿。 その背には、一人の女性が乗っているのを見た者もいる。 ――さて、どこへ向かおうか。ふたりで、どこで暮らそうか。 ――どこでもいいわ。あなたと一緒なら、どこへでも行くわ。 満月に祝福されて、龍は遠く遠くへと姿を消した。 * 翌朝になって村人たちは「あの龍は何だったのだろう」と口々に語り合った。そして気が触れていた千耶がいなくなったことを知ると、村人たちは昨夜の不思議な出来事に一つの結論をつけた。 ――きっと、神さまになった霧生が迎えに来たんだよ。 誰一人としてこの結論に異論を唱える者はいなかった。 「おばば、霧生と千耶の話はそこで終わりなの?」 集まった子ども達は、オババの口から続きが語られることを待っているようだ。 「いんや、更に数十年後のことだよ。どこか霧生に似た少年と、千耶に似た少女が村にやってきたんだよ」 村人たちは口々に噂した。 ――あの二人は、神さまの元からやって来たのだと。 *-*-* ――夢浮橋。 夢幻の宮が帝となった数年後、東宮と華夜姫にも皇子が生まれ、東宮の基盤も安定したことから夢幻の宮は帝位を東宮に譲り渡した。 帝の位についていた間も彼女は時間を見つけてはニワトコとともに過ごしていたし、ニワトコも庭師の仕事を兼ねて参内しては彼女の元へ訪れていたが、やはり安定して共に花橘殿で暮らすことができるようになると、その時間が尊いものだと感じざるを得なかった。 今は庭師の傍ら夫婦揃ってロストナンバーの現地協力者をしている。彼女が帝をしている間はニワトコは一人で現地協力者として頑張っていたけれど、やっぱり一緒だと心強かった。 見知った顔や新しい顔、様々なロストナンバーが花橘殿を訪れる。時折ロストナンバーだったことを懐かしくも感じるけれど、帰属したことを後悔はしていない。 いつまで経っても新婚のように仲睦まじいと言われるのは恥ずかしいけれど嬉しかった。ただ、まだ二人の間に子どもはなく、養女の華月と華夜の方が先に子を授かってしまったため、実年齢は娘たちとさほど違わないのに孫から『おじいちゃん』と呼ばれるのがなんだか落ち着かない。 「おじいちゃま、おじいちゃま~」 「朔(さく)、走って転ばないようにね」 舌っ足らずな喋りでニワトコに向かって駆けてくるのは、華月と鷹頼の長男の朔。3歳だ。ゆっくりと渡殿を渡る華月と姉の朱衣姫(すいひめ)を待ちきれなかったのか、几帳をかき分けてニワトコを目指す。 「朔、危ないよ」 言った側から躓いて体勢を崩した朔を、ニワトコは両手を広げて抱き止めた。 「お父様、すいません」 「いいんだよ、華月。朱衣姫もいらっしゃい」 「おじいさま、ごぶさたしております」 6歳になる朱衣姫は裳着こそまだだが、しっかりと頭を下げて挨拶をした。 「お母様は?」 「じきに来るよ」 円座に華月が腰を下ろすとほぼ同時に、部屋の奥から夢幻の宮が姿を表した。華月と並ぶとまるで姉妹のように見える。 「いらっしゃいませ。朔と朱衣には甘いお菓子を持ってこさせておりますからね。もう少し待っていて下さいね」 「お母様、ありがとうございます」 「華月こそ、身体は大丈夫ですか?」 「はい、つわりも落ち着いて……」 今、華月は三人目の子どもを宿していた。 実子を持つ前に孫が増えていくのはなんとも不思議な感覚で。ニワトコにとって『おじいさん』といえば故郷で世話になった古木のおじいさんを思い浮かべてしまうため、そこまで大きくて立派な木になったわけではない自分がそう呼ばれるのは、父と呼ばれる以上に不思議な感覚なのだ。おじいさんのように、寄り添う誰かを守れる存在でありたいとは思うけれど……。 「お母様は……」 「……、……」 華月の言いかけた言葉がわかったのか、夢幻の宮は困ったように笑ってみせた。 華月や鷹頼だけでなく、華夜や東宮も、ニワトコと夢幻の宮の間に子ができぬのを気にしていた。それは当の二人にも伝わってきたけれど。 「そもそもぼくたちは種族が違うから、どうなるかわからないし……ゆっくり待つつもりだよ」 「だから、あなた達が気に病む必要はありませんよ」 ニワトコも夢幻の宮と視線を絡め、互いに微笑み合う。もし子どもが出来なくても、素敵な家族が居るのだから。 「華月は元気な赤ちゃんを産むことを考えて」 「ありがとう、お父様、お母様」 * ニワトコは帝となった東宮の元へも足しげく通っていた。育てた花を届けがてら、話し相手としてそばにいる事が多い。 「東宮が、日に日に私の幼いころに似てくると、周りの者が言うのです」 現在の東宮は華夜姫――藤壺の女御の産んだ皇子だ。まだ幼いが、他に適任の者がいないのだ。帝もまだ若いので、すぐに幼い東宮が帝となることはないだろうと目されている。 「ぼくは帝の幼いころは知らないけれど、帝みたいに優しく、しっかりとした男の子になってくれるといいなと思うよ」 帝のもとには数人の姫が入内している。帝の役目として側室の元へと通うこともあるのだが、きちんと正妻であり皇子を産んだ華夜姫を立てているので、自然と後宮内の序列は守られ、妃同士の仲も比較的円満だという。 「私は、義兄上のような強く、けれどもしなやかな男になって欲しいと思います。私は、義兄上に助けられましたから」 数年前、全てに絶望して拒絶していたあの頃。ニワトコの言葉と存在が、彼をこの世に引き戻したと言っても過言ではなかった。 「また来てくれますか?」 「もちろん、来るよ」 帝としての彼を支えることは出来ないけれど、こうして彼の素の部分を支えることができるのなら、彼が幸せで過ごす力になれるなら、いつでも――。 * 「ニワトコ様、また文が」 帰宅したニワトコを待っていたのだろう、二人宛の文は開けられてはいなかった。 「露姫から?」 小さく手招きをする夢幻の宮の隣に座り、彼女の手元を覗きこむ。自然、ふたり寄り添う形になった。 駆け落ちした露姫からは、ロストナンバーを介して時折文が届くようになっていた。最初こそ生活の違いに戸惑うことも多かったようだが、今では幼子の母として立派に過ごしているようだ。 そっと夢幻の宮の細い指先が文を開いていく。紙はさほど上等なものではないが、それは露姫がしっかりと家計を守っていることを伺わせた。 「……」 「……」 ふたり、互いの息遣いを感じながら文に目を落とす。ロストナンバーでなくなってからこの国の読み書きを練習したニワトコは、今は平易な手蹟であれば読めるようになっていた。夢幻の宮が本気を出して書いた流麗な手蹟は、まだ少し難しいが……。 「『嫁いだことを一度も後悔していません』、か」 宮家の姫としての生活を捨てて、好きな男性の任地へ同行した露姫。辛いこともあっただろう。けれども、後悔していないと言い切れるだけのものを見つけることが出来た彼女は幸せだ。 全く違う生活様式の世界へ根を張ったという点ではニワトコも同じだ。戸惑うことも多かった、けれども。 そっと、近くにある夢幻の宮を見つめる。 彼女に出会わなければ、ニワトコは今もロストナンバーだったかもしれない。彼女に出逢ったからこそ、彼女とともに生きていきたいと思ったからこそ、彼女とともに根を下ろしたいと思ったからこそ、今の自分があるのだ。 「ぼくも、一度も後悔したことはないよ」 その言葉に文から視線を上げた彼女と目が合う。 「わたくしもです」 絡みあう視線、近づく吐息。重なる唇――。 ――かつては普通の木に憧れたこともあった。けれど、自分は今、ひとの世界で『ニワトコ』として、幸せに生きている。 *-*-* ――六年後、0世界。 「緋穂様。リベラとエミリナを故郷まで送ってただ今戻りました」 「おかえりなさい。ふたりとも泣かなかった?」 「……泣いていました」 緋穂の司書室。ソファを勧められて腰を掛けたジューンはつい先程とも思える出来事を思い出す。 ジューンが壱番世界で保護した双子の妖精は、今日故郷へ再帰属した。ジューンはそれを見送ったのだが、彼女になついていたふたりが彼女と分かれるのを惜しむことは容易に想像できた。実は故郷の世界が見つかった時に再帰属するしないでもめて、とりあえず一度見に行って郷愁が湧いて、けれどもジューンと離れたくないというジレンマに苦しめられた妖精たち。ジューンも一緒に帰属して欲しいと願ってきたが、ジューンはそれを受け入れることはなかった。時間をかけて双子を説得し、何度もその世界へ足を運び、そして、双子たちも納得して帰属を受け入れたのだが、やはり、別れとは悲しいものだ。 「ジューンさんはこれからどうするの?」 「13号の旅の間に再帰属の兆候は消えてしまいましたが、当面ムラタナご夫妻の家にお邪魔してグスタフ様と直談判する予定です」 「ああ、なるほど。コタロさんと撫子さんのところかー」 「ムラタナ様の御宅にはもう子供が2人いらっしゃるので乳母の需要はあります。でも私は西戎軍第弐連隊に従軍したいのです」 乳母として働きながら、時期を待つつもりだという。 そこまで話した時にぐすん、と鼻をすする音が聞こえて。それは絵の具やキャンパスなどが置いてある窓の付近の椅子から聞こえていた。そこに生体反応があることをジューンは気づいていたが、彼女が入室しても飛び出してこないことから触れていいのか迷っていたのだ。 「エーリヒさんはどうかしたのですか?」 そう、その椅子に座っていたのは小さな少年。蝶の羽を背に持った、少年。 「んー……グレンがね、とうとう本当に帰属することになって。これでも数年、先延ばしにしてくれてたんだけどね」 「それは……寂しいですね」 エーリヒにとってグレンは本当の兄のような存在になっていて。いつか別れが来るのは覚悟していたはずだけれど、実際にそれがやってくるととても悲しいものだ。 「緋穂様、エーリヒさんは元の世界に帰るつもりなのでしょうか」 「んー……元の世界に帰るつもりはないみたいだよ。一度探すかどうか聞いたんだけど、首を振られちゃって」 エーリヒにも深い事情はある。閉じられた世界で辛い暮らしをしていた彼は、覚醒したことで色々なことを知った。楽しいこと、嬉しいこと、幸せな気持ちを知った。父母に対する思いがなくなったわけではないだろう。けれども、帰るとなると帰りたくないと引き止めるだけのものが、彼の中に出来てしまった。 「私の所でもムラタナご夫妻の所でも構いません。帰るつもりがないなら、養子になるつもりはないか確認しても宜しいでしょうか」 「あの時のアレ、本気だったんだね。いいよ、私はエーリヒがいきたいところに送り出してあげるつもりだから」 前に緋穂の家でお茶会を行った時、ジューンはカンダータへ帰属する選択肢も用意して欲しいと言っていた。撫子はエーリヒを養子にしたい、とも言ってくれた。 緋穂は自分にエーリヒを縛る権利はないとわかっているし、彼が行きたいと言ったらそこへ帰属できるように全力をつくすつもりでいた。だから、ジューンの言葉を断らない。 「エーリヒさん」 呼びかけに彼の翅がぴくりと動いた。ジューンはそっと近寄って、彼が座っている背もたれに手をのせる。 「エーリヒさんは自分の将来をどう考えていますか? このまま0世界で暮らしたいですか? それとも、どこかの世界に帰属することを考えていますか?」 「……ぼくは、ひとりになりたくないんだ。でも……みんな、いなくなっちゃう。緋穂お姉ちゃんだけはずっと一緒にいてくれるけど……」 「では、私と一緒にカンダータへ行きませんか?」 「えっ……?」 彼が驚いたように涙に濡れた瞳を上げた。ジューンは優しく微笑んで。 「川原様……いえ、撫子様を覚えておられますか? あの方はカンダータに帰属なさってご結婚されて、お子さんがいらっしゃいます。私は撫子様のもとで乳母として働くつもりです」 「ても、一緒に行ってもぼくは、何をしたらいいのかわからないよ。ぼくは戦えないし、翅もあるからきっと、みんなとちがう……」 「エーリヒさんはエーリヒさんでいればいいんですよ。翅は個性の一つだと思えばいいんです。個性ゆえに辛い思いをすることがないとはいえませんが……そんな時は撫子様が支えてくれます。もちろん、私も」 「でも、迷惑かけてばっかりじゃ……」 しゅん、と顔を伏せるエーリヒ。ジューンはしゃがみこんで彼の顔を覗き込む。 「迷惑なんかじゃないんです。みんな、エーリヒさんと家族になりたがっているんです」 「えっ……?」 「撫子様は、エーリヒさんのお母さんになりたいと思っておられるのですよ」 「おかあ、さん……」 「そうなればムラタナ様宅のお子様は、エーリヒさんの兄弟ということになりますね」 「……きょう、だい」 少しだけ、エーリヒの瞳が揺れる。 数年前に一度、時間を共にしただけの撫子がどうしてそこまで自分を欲してくれているのかはわからない。けれども自分をずっと気にかけてくれているジューンも一緒なら……。 「すぐに答えを出せとは言いません。考える時間も必要ですよね。後日、返事を聞かせてください」 こくん、小さくエーリヒが頷くのを、緋穂は淋しそうに見ていた。 * とはいえカンダータに行ったことのないエーリヒが、帰属を決めるのは難しい。ジューンは何度かエーリヒを連れてカンダータへ足を運んだ。撫子にも子ども達にもエーリヒを会わせ、親交を深めていった。 そして。 「緋穂様、お世話になりました」 「ううん、私こそ……ジューンさんに色々と助けられたよ」 ジューンがカンダータへ長期滞在のために旅立つ日。 「そういえば3年前、フライジングでサクラ様そっくりのトリの方の結婚式に遭遇しました。どんな形であれ幸せは追及するべきと考えます」 フライジングで十姉妹へと生まれ変わったと思われているサクラ。彼女にそっくりなトリの結婚相手は、年上の家具職人だという。少し、グラウゼに似ているらしい。 「……そうだね。幸せにならないと、ね」 まるで自分に言われているような気がして、緋穂は薄く微笑む。覚醒前の記憶はないけれど、心の中に残る幸せの残滓と深い悲しみと絶望の残滓が心を揺らす。 「エーリヒも、自分の幸せを追求していいんだからね?」 ジューンの横で彼女と手をつないでいるエーリヒと視線を合わせ、緋穂はその頭に手をやる。 「めいいっぱい幸せになるんだよ」 「うんっ!」 エーリヒは、撫子の養子としてカンダータで暮らす。これは、彼が選んだこと。 彼の個性は彼を苦しめることもあるだろと。けれども彼ならば、それを乗り越えていけるはずだ。支えてくれる人が、たくさんいるのだから。 「緋穂お姉ちゃん、大きくなったらぼくがお嫁さんにしてあげるから、待っててね」 「えっ……」 驚いている間に不意打ちで頬に贈られたキス。 その約束は恐らく果たされることはないだろう。再帰属した者は再び覚醒ることはないというし、緋穂はロストメモリーとして0世界に帰属した身だ。 けれど。 それは。 エーリヒなりの別れの言葉。きっと彼もさよならは辛すぎると思っているのだろう。だから、優しい言葉を選んだのだ。 「……うん、待ってるからね」 泣かないと決めたはずなのに、涙が浮かんできてしまう。 ジューンとエーリヒが乗ったカンダータ行きのロストレイルはゆっくりと動き出し、窓から手を降るエーリヒもどんどん遠ざかっていく。 「緋穂お姉ちゃんー、ありがとうー!」 手を振るエーリヒを追いかけて緋穂はホームを走る。底の厚い靴では走りにくかったけれど、でも。 エーリヒと暮らした日々は緋穂にとっても大切で、かけがえなくて、幸せな時間だった。 大きな家にひとりきりで住んでいた頃を、今はもう、思い出せない。 今日から、その頃の生活に戻るというのに。 「エーリヒ……」 ホームの端でぺたんと膝をついたまま、緋穂は声を押し殺して泣いた。 * その後、ジューンは稼働限界まで動き続け、機能停止の後もジューンに使われた技術はカンダータで役立つことになった。 いずれ、ジューンと同じ姿をしたアンドロイドが、たくさん動き出して、世界のために働くことになる。 *-*-* ――十年後。 煌 白燕は故郷の土を踏んでいた。その傍らには、忠星と西嘉の姿もある。 「やっとこの世界に戻ってこれたな……我が故郷」 「そうですね」 「だいぶ荒れてますけど」 札に封じていた二人も、夢浮橋の冷我国で学んだ術のお陰でもとに戻すことが出来た。仙境で白燕に術を教えてくれた二人の仙人、白燕が師と仰ぐ二人には感謝してもしきれない。一生、この恩は忘れぬつもりだ。 戻ってきた白燕を驚かせたのは、何年も経っているというのに白燕の領土であった国を治める者がいないということ。この土地を巡る争いは続いているようだが、玉座に座る者が未だに現れていないというのだ。 二人を連れて、白燕は荒れた城の中へ足を踏み入れた。たとえどんなに城内が荒れ果てて変わっていようとも、玉座への道は、身体が覚えている。 一歩一歩進むたびに思い出すのは昔のこと。豊かなこの国を守る白燕は誰からも好かれる名君だった。城内にとどまらず城下を歩いても民から気軽に声をかけられるものだから、お忍びで出かけるのに苦労したのもいい思い出。 彼らの殆どは――おそらく今はもういないのだろう。本物の軍隊が攻めてきた時に命を失ったか、命は守り通したが、荒れていく一方の君主のいない国から逃げ出したか。 傷つき、塗りのはげ落ちた柱。砂や埃の積もった床。壊された扉に赤黒く固まった血の跡。 それでもここは、白燕にとって帰ってくるべき場所なのだ。 帰ってきた、その実感が胸の内を占める。それは忠星も西嘉も同様のようで、感慨深そうにあたりを見回している。 「……」 果たして玉座はそこにあった。傷つけられ、壊れかけてはいたけれど、それは、白燕を待ってくれていたのだ。 そっと腰を下ろす。すわり心地は変わってしまったけれど、ここはやはり『白燕のための場所』で。妙にしっくり来るのはそのためだろう。 さっと膝をついて忠星と西嘉が頭を下げる。かつてはこの広間をうめつくすほどの家臣たちが白燕の前に跪いた。けれども今はたった二人。しかしこの二人こそが、白燕にとって最も大切で、最も力を与えてくれる者達なのだ。 「ふたりとも、これから私はこの国を復興させるつもりだ」 凛とした声色で、告げるは決意。自分以外それを成せるものはいないだろう、そう思う。長年この国に君主がいないのが、その証。 「一からやり直しだ。二人には苦労をかけると思う。それでも、ついてきてくれるか?」 白燕の言葉に二人は頭を下げたまま顔を見合わせ合い、そして、顔を上げる。そこに浮かんでいたのは、穏やかではあるが決意に満ちた表情で。 「貴女にについてまいります」 「愚問だ」 その言葉に、思わず白燕も笑みを浮かべた。 二人に寄りかかるのではなく、三人がそれぞれ互いを支えて共に歩んでいく。それが理想であり目標だった。 * やがて、徐々にではあるがこの国にも民が戻り始め、城下も活気を帯びてきた。こうなるまでに相応の歳月が必要だったことは言うまでもない。もちろん、白燕達が並々ならぬ努力をし、苦労をしてきたことも。 けれども三人一緒ならば、乗り越えられた。二人を失うと思ったあの辛さに比べれば、このくらいなんでもないことだった。 良い君主のいる国は栄える。それは自然のこと。白燕の治める国が栄え始めるのは当たり前のことだった。 このまま時間を止められたら、どれだけいいだろうか。 他の国には手を出さないから、放っておいて欲しい、それが白燕の本心。 多くの国の中でたった一国。それが何故許されぬのだろうと思うこともあった。 だが、同じ轍を踏む気はない。 一国だけというのが許されぬならば、この世界すべての国を手に入れて、すべての国にこの平和を与えるしかないだろう、それが、白燕の到達した答え。 友とともに世界すべての国を治めるべく、白燕の歩みはまだ止まらない。 * 今宵の星空はとても綺麗だ。城の裏手の丘で、昔のようにじかに尻をついて空を見上げる。持ち出してきた酒瓶と盃。酒で満たされた盃を三人であおる。 「忠星、西嘉、ありがとう。そなたたちと出会えて私は幸せだった」 「何を言い出すのですか」 「まだまだ現役でいてくれないと」 二人の言葉に白燕は口元を綻ばせる。 世界の国々を統一して治める、その悲願を達成するのに邁進した三人は、ずいぶん年をとってしまった。 「三人とも婚期逃してしまったなぁ……」 白燕が養子に迎えた息子は賢いいい子だ。きっと、国を守ってくれることだろう。 「この世界の平和を守ってほしい。私はこの世界を愛している」 白燕が友とともに手繰り寄せた世界平和、これがずっと続いてくれることを祈らずにはいられない。 * 不敗の名君の名は、彼女が没した後も歴史に刻まれ、後世まで語り継がれる。 その傍らに常にあった、二人の名とともに……。 「婚期を逃したなどと」 「私達が愛していたのは貴女ただ一人ですよ」 *-*-* 福増 在利の故郷が見つかって、彼が何年かぶりに故郷へ帰ると、息子を失った両親はすごく疲れた顔をしていた。経た年月以上に老けて見える。 「……長く家を空けてごめんなさい」 いなくなった時のままの姿をした在利に、両親は最初それが夢のように思えたことだろう。けれども。 「―――ただいま」 その言葉とともにぽろぽろと涙をこぼす在利を見て、それが夢であるはずがないと思えたのだろう。 「――おかえり、在利」 溢れでて止まらない涙を拭きながら、三人は固く抱きしめ合った。 * ――十年後。 在利はシャニア・ライズンとカルム・ライズンと共にこの世界に帰属して、日々を過ごしていた。 「別の世界に帰属するって、大変でしたよね?」 「そうね……元世界の知り合いや、0世界で知り合った人達と別れる事になるのは少し寂しかったけど……今は何よりも大切な人が居るから、苦ではなかったわ」 元ロストナンバーのシャニア達に話を聞きに来たロストナンバーの青年は、帰属について迷っっているようだった。どんなことでもいいから教えて欲しい、そう懇願されてシャニアとカルムは青年の相手をしている。 「ぼくの病気は、お姉ちゃんが持ってきてくれたルリハ草を飲み続けたら、だんだん様子が良くなって来て、ついには魔法を使っても苦しくならなくなったんだ! 病気が治った時本当に嬉しくて、ぼくもお姉ちゃんも泣きながら喜んだよ」 「ああ、ヴォロスのシャハル王国で薬となる薬草をもらったんでしたよね。ここに来る前、俺もシャハル王国に行ってきました」 「ラグさん元気にしてた?」 恩人とも言えるラグ――ラグラトリアス王はあのあと妃を迎えて、今は子どもも居るらしい。あの後、王太后の病気も治り、王太后は孫に囲まれて幸せな日々を過ごしているとか。王族として色々大変なこともあるだろうが、お世話になった人達の幸せそうな近況を聞けるとやはり嬉しい。 「私たちは故郷に帰るわけにはいかない事情があったから……カルムにも理由を話したの」 「お爺ちゃんの元に戻れないから寂しい気持ちで一杯だったけど……それもぼく達の幸せを考えての事、お爺ちゃんや元世界の友達を守る為でもある事、そうだと分かったら、すぐに立ち直れたよ!」 「そうか、強いんだね」 青年はまるで自分の弱さを悔いるかのように笑みを浮かべた。 「交際を認めてもらうのは……やっぱり大変でしたか? それこそ生まれた世界が違うのですから……」 青年の言葉に、シャニアは当時のことを思い返す。 「在利くんがね、全部ご両親に話してくれたの。ロストナンバーとなったことから、病気が治ったこと、私がそれを手伝ったこと、私たちが恋仲になったこと。さすがにロストナンバーのくだりはにわかには信じてもらえなかったけれど、在利君の病気が治ったことについては命の恩人だなんて言われちゃって……」 在利の両親は息子の命を救ってくれたシャニアに対して頭を下げ、もちろん交際を反対することはなかった。 「参考にならなくてごめんなさいね。でも、在利君のご両親があたし達の交際を認めてくれて本当に嬉しかった。そして、あたしとカルムは在利君の家の手伝いをして過ごさせてもらえる事になったの」 元の世界とは違った環境での生活にもちろんシャニアもカルムも戸惑ったけれど、予想していたよりも早めに慣れることが出来た。 「何事にも新しい気持ちで打ち込めて気持ちいいわ」 微笑むシャニアは本当に幸せそうだ。今は福増家の家事や手伝いをしながら在利の研究の手伝いもしているらしい。 「カルム君は、今は何を?」 「僕は、機械技術の発展の研究をしているよ。この世界では機械技術がそこまで発達してなかったから、僕の持つ知識を応用して、今の段階で出来そうな物を色々考察しながら作り上げたんだ」 さすがにカルムの出身世界や今の壱番世界ほどのことは出来ないけれど、レトロな機械とか、先駆けに出来そうな物の開発には成功したのだという。 「はぁ~すごいな。自分のもつ知識と技術を活かせたんだね」 「あなただって何かあるんじゃないの?」 シャニアの言葉に青年はうーん、と唸ってしまう。 「その技術が少しずつ注目されてきて、時々仕事の依頼が来る様になったんだ。おかげで収入もできて、福増家をしっかり支える事が出来ているよ」 発明家になりたいという夢が叶った、そう嬉しそうに笑うカルムが、今の青年には眩しいようだ。 * 「見ての通り、僕は元気でやってます。ヴォロスだけじゃなく、この世界にもあの薬草に似た、不治の病を治せる薬の元があると信じて」 在利の仕事場に移動した青年は、彼からも話を聞いていた。 「職業は薬師というよりも研究者ですね。毎日毎日薬草を探しては調合する日々。中々上手く行かないんです。ヴォロスでの研究内容はメモしてあるから忘れることはないけど」 それでも在利は研究をやめない。同じ病気で苦しむ人達を、いつか治してあげられるようになると信じている。 「それに、僕を支えてくれるシャニアや、カルム君のためにもへこたれないし。両親も、家を研究用にしてくれてまで支援してくれる。頑張らないと」 そう語る在利は青年が過去の報告書で読んだ在利よりもしっかりとしていて、家長としての責任を背負った立派な男性に成長していた。緋穂が青年に、彼らに話を聞いてこいといった理由がなんとなく青年にも分かった。 「ここだけの話、元の世界に帰れない2人のことは、今もちょっと申し訳なく思うけど」 それでも今の生活は、二人なくしてはありえないと在利は思っている。 「在利くん、夕食の準備ができたわよ。あなたも一緒にどうぞ」 「え、いいんですか? すいません」 恐縮する青年に行こう、と告げて在利は仕事場を出る。 「シャニア、子ども達は?」 「ふたりともお腹をすかせて待ってるわ」 在利とシャニアは二人の子供に恵まれていた。一人は在利によく似た女の子。だけど体つきはシャニアに似たようで、発育がよろしいらしい。性格も活発で、そこもシャニアに似たようだ。 もう一人はシャニアによく似た男の子。娘の弟に当たるその子は顔つきが女の子に見える。性格がちょっと内気なのも含めて、在利からの遺伝だろう。 家族全員揃っての食卓に青年もまぜてもらって。おいしい食事と繰り広げられる会話の中で団欒を感じる青年。 「カルム君もずっと僕についてないでさ、浮いた話一つぐらいないの?」 「もう、兄さんっ。家にいる時くらい傍に居たっていいでしょ?」 「カルムも忙しいんだから無理はしないでね」 食卓越しに交わされる会話も愛情に満ちていて。 「おかわり!」 「はいはい」 娘の差し出した皿に料理を盛るため、シャニアが立ち上がる。 「姉さん、僕にも手伝える事があったら遠慮なく言ってね」 「これは私の仕事だから、気持ちだけもらっておくわ。でも、何かあったらお手伝いお願いするかもしれないわ」 言葉にされなくてもわかる。皆が優しい瞳をして、優しい雰囲気を作り上げている。それは、幸せだからだ。カルムはたまに竜化して空を眺めながら昔のことを思い出したりするらしいが、かといってこの世界に帰属したことを悔いているわけではない。 三人共、いや、在利の両親と子ども達皆を含めて幸せなのだ。 * 「参考になった?」 「……はい、決心がつきました」 0世界に戻るという青年を見送りに家の外に出た在利。シャニアは子ども達を寝かしつけるために子供部屋だ。カルムは食器の後片付けを引き受けていた。 「少しでも役に立てたなら、よかったよ」 「ありがとうございます」 青年は、彼女にプロポーズする勇気と、彼女の世界に帰属するという覚悟が欲しかったらしい。今、幸せに暮らしている彼らの話を直に聞いて、その決心は固まったようだ。 「また会えるかはわからないけれど、幸せを祈ってるよ」 「はいっ!」 何度も振り返り振り返り手を振る青年の後ろ姿が見えなくなるまで、在利は家の外に立っていた。 僕は、僕たちは――凄く、幸せです。 *-*-* ――十年後、0世界。 『サティ・ディル』を訪れていたのは、一組のカップルだ。赤毛の青年と、銀髪の女性。二人は、ロストナンバーで居続けることを選んでいた。 「ニコ様もついに年貢の納め時?」 「それ、会う人会う人みんなに言われるんだけど」 サシャの言葉にげんなりしたように机に突っ伏したのはニコ・ライニオ。ユリアナ・エイジェルステットと結婚を決めたことは、瞬く間にターミナルに広がって……。結婚するフリはしたことあるけど、結婚するのは初めてだと念を押して歩く日々が続いている。 「でも、なんで突然結婚を決めたの?」 パーテーションの向こうでウエディングドレスの試着を手伝っているサシャは、口だけニコに向けているのだ。 「それは……」 * 周囲を山に囲まれた場所に、臨時の駅は作られていた。どこを見渡しても緑が目に入る。 「……ここが」 「そう、僕の故郷だよ」 ニコが告げるとユリアナは深く深く深呼吸をして、味わうように胸いっぱいに空気を吸い込んだ。 「緑がいっぱいで、ふしぎと落ち着きます」 彼女のその言葉が、なんだか嬉しい。 ニコも視線を巡らせて、久しぶりの故郷の光景を目に焼き付ける。ニコが住んでいた山は、去って数百年経った今でも変わらずそこにあった。近くにあった小さな村は年月を経て街へと発展していて、月日の経過を感じさせた。 二人は連れ立ってその街へ降り、いつもの様にデート気分で街を歩いた。 持ち歩きできる軽食を買って近くの噴水の縁に座って食べ、露店を覗いておもちゃのアクセサリを買って。似合う、綺麗だよと告げれば、今でも彼女は頬を赤らめて嬉しそうに笑ってくれる。 そんな中、それに気づいたのはユリアナだった。 住宅街の軒先、干された真っ白な洗濯物の側に子ども達が集まっている。何事かと近づけば、老婆のやわらかな声が聞こえてきた。 ――それは、もうずっと昔のこと。あなたのおばあさんのおばあさんの、そのまたおばあさんのおばあさんが、まだあなたぐらいの年の子どもたったころのこと。 老婆が語り始めると子ども達は近くから持って来た椅子やら木箱やら地面に座って、おとなしくこれから始まる話に聞き入ろうとしていた。なんとなく、ニコとユリアナも子ども達の後ろに立ったまま、その話に耳を傾ける。 ――あなたは何をして遊ぶのが好きかしら。ええ、ええ。そうですね。あなたやわたしが住むこの辺りは深い深い山々に囲まれた、とても小さな村ですね。だから村の人たちはみんな、遊びといったら山の中を駆けて、木の実や食べられる草を摘んだり、小さな動物たちを追いかけまわしているのですよね。それは昔も同じ。あなたの遠い遠いおばあさんもきっと、あなたと同じように、山の中を転がりまわっていたことでしょう。 淀みなく語る老婆は、きっとずっとこうして子ども達に話を聞かせてきたのだろう。老婆もまた、子どもだった頃に別の老婆から話を聞いたに違いない。 ――けれど、あなたは知っているかしら。この山のずうっと奥には、昔、竜が住んでいたのだそうですよ。今もまだ住んでいるかどうかはわかりません。もう、ずうっと昔のことなのですからね。 竜という言葉が出た時、ユリアナは思わずニコを見た。その視線に気づいたニコは、ウインクで合図を送る。もう少し聞いてみよう、と。 ――竜って聞くと、あなたはどんなイメージを持つでしょうね? 絵本や昔話では、彼らはあんまりよくないことをしていたりします。とてもおそろしい、神さまのお使いだとか、逆に、神さま様の敵として描かれたりもしますね。 ――でも、この山に住んでいた竜は、そんなおそろしくはなかったのですって。むしろ優しい、――おひさまのようにあたたかな……。 老婆の話は続く。それは、生贄として捧げられた少女と、竜の交流のお話。優しい竜が所望したのは、月に一度の逢瀬。その逢瀬の折に新しい本を読み聞かせてくれること。そうして二人の逢瀬は続いて……。 ――女の子はそれからどうしたのか、って? ――ずっと、誰とも結婚せず、死ぬまでちゃんと竜のもとに通ったそうです。でも親を亡くした子どもたちを引き取って育てたりっていうこともしていたそうですよ。 それはどれくらい前の話なのだろう。きっと、人間にとっては気の遠くなるような昔の話。けれども、その出来事はこうして、人の口を経て今もなお、受け継がれている。 「……」 「ユリアナちゃん?」 老婆の話が終わると、ユリアナは黙ったままその場を離れた。慌ててニコはそれを追う。大股で彼女に追いついて前へ回ると、彼女は泣くのをこらえているような顔をしていた。 「少し、妬けます」 少しって顔じゃないけどなと思ったけれど、それは口には出さない。それよりも、彼女が妬いてくれたということが嬉しくて。 「私、これでもだいぶ、達観したつもりなんです。……だって、ニコさまの過去の女性に妬いていたら、こっちの身が持ちませんから。でも……」 御伽噺としてこうして語り継がれているなんて……やっぱり妬けちゃうんです――ぽろりとこぼれた涙を、ニコは唇を寄せて吸い取る。人目なんか、気にしない。 ニコと彼女が今でもこうして「竜のおとぎばなし」といて語り継がれているということが、彼女には今も二人が繋がっているように思えたのかもしれない。けれども。 「ねぇユリアナちゃん、妬いてくれるのは嬉しいけれど、ユリアナちゃんが胸を痛める必要はないんだよ」 「えっ……?」 「今はユリアナちゃんも、御伽噺の住人だよ。僕のお姫様」 そう言って笑ってみせると、少し考えるように口を閉じた彼女も笑って見せてくれたから、そっと、くちづけをした。 * 「その後、プロポーズされたのですよ」 「へぇ、なるほど……」 背中のファスナーをあげる手伝いをして、サシャは頷いた。鏡に写ったユリアナは、とても幸せそうな顔をしている。上手くのろけられた気がするが、こうした彼女の表情を見ていると、自分が結婚した時の事を思い出した。 (ワタシも、こんな顔してた) 結婚が決まった時の幸せさは誰よりもわかるつもりでいるから、のろけだって聞いちゃう。もちろん、今だって彼とはラブラブだし、幸せに満ちた日々を送っている。だから、他人の幸せを祝福する余裕はありあまっているのだ。 「サシャちゃんのところも、今もラブラブだよねー」 「もちろんっ。いつまでも新婚当初のようにラブラブだよ。昨日だってロキ様ったら……」 話を振られれば、負けずにのろけてみせるサシャ。こうして互いにのろけ倒しても嫌な気分にならない関係というのは、思いのほか心地よかった。 * 結婚式当日。 招待客として夫婦でよばれたサシャだったが、率先してユリアナの着替えを手伝った。このウエディングドレスはサシャが心をこめて縫い上げたもの。どうやって着れば一番花嫁を美しく見せられるかは、サシャが一番良く知っている。 「ユリアナ様、おめでとうございます」 髪の毛をアップにしてヴェールを被った彼女に告げると、返事の代わりに涙が落ちてきて。お化粧が取れちゃう、と慌ててハンカチを取り出したハプニングもあったが、滞りなく式は進み、二人は夫婦となった。 寄り添って祝福される二人。周りのキスコールに応えて何度もキスの雨を降らせるニコ。照れながらも嬉しそうに受け止めるユリアナ。今日の彼女はニコと離れる不安など微塵も纏っておらず、世界群一幸せな花嫁なのだろう。 ユリアナからドレス代にと受け取ったお金は、ご祝儀をプラスして受付に預けた。だってドレス代は、きちんと頂いていたのだから。 お姫様抱っこされたユリアナが、ブーケを投げる。サシャがそれを拾いに行くことはなかった。 (ワタシはもう、幸せを掴んでいるから) けれども結婚式の雰囲気は、何度味わってもいい。自分が作ったドレスを着た花嫁さんが本当に幸せな顔をしてくれると、また頑張ろうという気になる。 「ニコ様、ユリアナ様、お幸せに!」 * いつごろからか、0世界で二人は一緒に暮らすようになっていた。ユリアナが一人で暮らしていた部屋は二人で暮らすには少し手狭なので、思い切って一軒家を彼女が購入したのだ。もちろんニコも、それまでの住まいを出て彼女の家へ転がり込んだ。 結婚式の後、盛大な宴会が開かれた。知り合い達にまた「年貢の納め時だ」なんていわれたけれど、それも祝福してくれているのだとわかるから、心地いい。 宴会はまだ続いているはずだ。けれども主賓であるニコとユリアナは早々に会場を追い出されてしまった。これは、皆の心遣い。初夜を邪魔するほど、彼らは無粋ではない。 「ニコさま、あの……まだドレスを脱いでは駄目ですか?」 寝室のベッドに座ったユリアナは、ヴェールこそ外しているがまだウエディングドレスを纏ったままだ。ニコが脱がないで欲しいとお願いしたのだった。 「駄目だよ」 階下から上がってきたニコは、パチンと電気のスイッチを切った。窓の外側についている木戸を閉めているから、部屋は真っ暗だ。けれどもニコには彼女の居場所がわかる。彼女の気配は、今やニコの側になくてはならないもの。 パチッ……間接照明の明かりが闇を照らす。ユリアナがベッド脇のスタンドをつけたのだ。 「ニコさまだけ、ずるいです」 「ごめんごめん」 彼女の隣に座ると、スプリングが軋んだ。後れ毛が残る彼女のうなじがなまめかしく照らしだされる。その銀色の髪に手をかけて、髪を留めているピンを外していく。ふぁさっと、銀の長い髪が広がった。 そっと、抱きしめるようにしながら彼女の背中のファスナーに手をかける。互いの吐息のみが聞こえる中に、ファスナーの音は響いた。ずれたドレスからはみ出す身体を恥じらうように隠そうとする彼女の耳元で、囁く。 「ウエディングドレスを脱がすのは、僕の役目だよ。一生に、一度だけの、ね」 優しく彼女の身体を押し倒す。ずれたドレスを抑えようとする姿が妙に色っぽい。 「ニコ、さま……」 羞恥に染まった彼女の声が耳朶をくすぐり、脳の奥へと響く――。 * ――孤独から救われたお姫様は、竜の花嫁になるのだ。 ――そして今度は、御伽噺ではない、ふたりの物語が続く……。 *-*-* ユーウォンはずっと旅を続けている。旅先や依頼の中身はどんどん変わっているけれど。 重要な情報の有りそうな世界の調査や、故郷へ帰りたい人の手助けも、どれも面白い。 やっぱりユーウォンには、旅が向いているのだろう。 でも、ユーウォンの意識は以前より変わりつつあった。長い旅に度々出るというのに、0世界が近くなった気がするのだ。それは多分、ちょっと特別な『ただいま』を言う相手ができたからだろう。 大切な友達、ニワトコに貰ったトゥレーン生まれの鉢植えの花。そして、それを旅の間預かってくれる人達。 話をきかせると咲き方が変わるというその花は、ユーウォンの話を聞いているうちにちょっと変わったらしい。ユーウォンいわく「ちょっとやんちゃになった気がする」と。葉っぱも、ずいぶん奔放に伸びだしているらしい。 いつか、一緒に旅をするつもりだと、彼は語っていた。 預けてばっかだけど、根を張って生きる命を責任もって面倒見れるようになるなんて思ってなかったなって言ったら、ニワトコは「ユーウォンさんも花と一緒に成長したんだね」と言ったらしい。そうかもしれない、とユーウォンは笑った。 * 同じ世界の同じ場所に何度も行くことが増えた。それは、帰属した友達に会いに行くため。といってもニワトコからすればたまにふらーっと顔見せるだけという感覚。それはやっぱり、ロストナンバーとそうでない者の差なのかもしれない。 「こんにちはー」 この日花橘殿にふらーっと訪れたユーウォンだったが、屋敷内はなんだかせわしない様子で。遠くから読経の声が聞こえる気もする。 「あ、お客様っ……ご案内が遅れて申しわけありません」 玄関近くを通りかかった女房の一人がユーウォンに気がついた。両手に抱えているのは……真っ白い、布? 「忙しそうだね。案内はいいよ。よく来てるし。ニワトコくんはいるかな? いつもの部屋で陽(よう)くんの相手をしてるかな?」 「あの、それが……」 「???」 困ったような顔の女房がユーウォンを案内したのは、いつも案内される、餞別にニワトコに上げた種を育てた花壇のある庭の前の部屋ではなかった。 「ユーウォンさん!」 小さな息子、陽を膝に乗せて暗い表情をしていたニワトコは、ユーウォンの来訪を知って勢い良く顔を上げた。この部屋は、経がとても良く聞こえる。 「やぁ。なにがあっ……」 「どうしよう、夢幻の宮さんが死んじゃうかもしれない!」 「……!?」 ふぎゃぁ~! ニワトコの剣幕に驚いたのだろう、泣きだした陽を抱き上げてあやしながら、ユーウォンはニワトコの側に座って話を聞き出した。 * 「双子ぉ~?」 「……うん」 ニワトコによれば、身籠っていた夢幻の宮が産み月より早く産気づいてしまい、なおかつお腹の中の子どもは双子なのだという。実は壱番世界の現代に近い文明を持っているこの世界とはいえ、電子機器はそれほど普及していない。 帝の計らいで一流の香術師と陰陽師、そして薬師や数少ない医師が派遣されてきたのだが、香術師が部屋を清める結界を張り、陰陽師が祈祷を続け、薬師と医師がついてはいるものの、無事に出産が済むとは断言できない状況だという。 「陽の時は初産なのに驚くほど順調だったって和泉さんが言ってたから、今度も大丈夫だと思っていたんだけど……」 ニワトコの髪に咲いている白い花も、しゅんとしおれてしまっている。父の不安が伝わるのだろう、3つになる陽もどこかご機嫌斜めだ。 「ニワトコくん、ニワトコくんが動揺してちゃ駄目だと思うよ。夢幻の宮さんもお腹の子ども達も頑張ってるんだから、誰よりもニワトコくんがその無事を信じるんだよ!」 「ユーウォンさん……」 「陽くんはおれが相手してるからさ、ニワトコくんは夢幻の宮さんの手を握っててあげたらどうかな? 安心するんじゃないかな」 「お願いしてもいい?」 「もちろんさ!」 ありがとう、そう告げて夢幻の宮が居る塗籠へとかけていくニワトコ。そんな彼の後ろ姿を見送って、ユーウォンは抱き上げていた陽の顔を覗きこむ。 「陽くん、おれと遊ぼう! 庭に出よう」 「わぁい! おにわ!」 洗いざらしの水干姿で蹴鞠の鞠を使って遊ぶユーウォンと陽。子どもと同じテンションで遊びに付き合うユーウォンに陽はよくなついていて。遊びたい盛りの陽がくたくたになって眠ってしまうまで、ユーウォンは相手をしていた。 * 事態が動きを見せたのは翌日の昼過ぎ。ユーウォンが陽と庭で追いかけっこをしていた時だった。 読経の声がやんで、弱々しくはあるが赤子の声が二重に響いた。 ふと足を止めて屋敷の方を見ると、塗籠から出てきた女房が集まった陰陽師や香術師達、そして花橘殿に勤める者達へと告げる。 「お生まれになりました! 男児と女児の双子でございますっ。宮様も衰弱しておられますが、お命には別状ないそうでございますっ」 わぁ、と湧く邸内。事態が飲み込めていない陽が、ユーウォンの手を引いた。 「陽の弟と妹が生まれたってさ。よかったな!」 抱き上げて頭を撫でると、陽も嬉しそうに青い瞳を輝かせた。 数時間後。御帳台に寝かされた夢幻の宮と付き添っているニワトコの傍にユーウォンは陽を連れて行った。外遊びをしていた格好のままでは駄目だといわれて二人して湯浴みをして着替えをした。 「ユーウォン様……」 まだくしゃくしゃの赤子を隣に寝かせた夢幻の宮はかなり疲れているようだったが、意識ははっきりしているようだ。そっと弟妹の顔を覗き込む陽と共にユーウォンもその顔を覗きこんでみる。 陽とともに思わず赤子の首やら顔やらに手を伸ばそうとして、和泉に叱られてしまい、陽がまだ赤子の時のことを思い出した。 (そう言えば、人間の赤ちゃんってすっごくやわらかくて、くたっとしてて、すぐに弱っちゃうんだっけ……) 今となっては陽も高く放り投げられたりして喜ぶけれども、この子たちがそうなるのはまた数年後のこと。 今は、幸せそうに子ども達を見つめる友達の顔を見るだけにとどめた。 * 何年経っても変わらぬ姿でふらっと訪れるユーウォンを、事情を知らない者達は物の怪ではないかと噂することもある。けれども彼の気の良さを知っているからか、不思議と人々には受け入れられた。 今日もまたユーウォンは、伝言や届け物を手に花橘殿を訪れる。洗いざらしの水干姿は、ずいぶんと様になっていた。 *-*-* ――十五年後、夢浮橋。 花橘殿を訪れたジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは珍しく今日は泊まっていくと告げた。これまで依頼の際に訪問することはよくあったが、今回は単独で、かつ泊まっていくのだという。もちろん夢幻の宮は歓迎したが、少し様子が変だとは感じたようだった。 「聞いてくれ、宮! 先日のう、新たに覚醒したロストナンバーを保護する依頼があってのう、わたくしは都合が合わなくて参加出来なんだが、緋穂殿が気を使って知らせてくれたのじゃ」 「……? 何かあったのでございますね?」 「驚いてくれるなよ、なんとそのロストナンバー、あの昭介だったのじゃ!」 「え……冷我国へ向かわれた、栄照様のことでございますよね?」 夢幻の宮が驚くのも無理は無い。ジュリエッタだって夢かと思うほど驚いたのだ。 「そうなんじゃ。年を取り、髪は伸びておったが紛れも無く昭介殿じゃった。本人にも会ったが、あちらも驚いておった。当然じゃな、わたくしは昭介殿と初めて会った時と変わっておらぬのだから」 「まぁ……まぁ……縁とはわからないものですね」 「そうじゃのう」 昭介も知り合いのジュリエッタがいれば混乱少なく過ごせるだろうということで、緋穂が二人を引きあわせたのだという。昭介はすぐに夢浮橋に帰属するつもりはなく、今後もどうするかまだ考えられていない状況だという。それも当然だろう。きっとこれから、いろいろな世界に赴いて、その知識を深めていくのかもしれない。 「おばあさま……あ、ジュリエッタ様!」 その時几帳の向こうから顔を出したのは、華月と鷹頼の娘たちだった。夢幻の宮とは戸籍上祖母と孫との関係に当たる彼女たちは、母である華月とともに度々花橘殿に遊びに来ていた。ロストナンバー達の話す異世界の話は彼女たちにとってはどんな本よりも面白いのだ。 「ジュリエッタ様、新しいお話、書いてきてくれました?」 「お姉さまずるーい、私はジュリエッタ様とお手玉やあやとりをして遊びたいのにっ」 「ふたりとも、無理を言うものではありませんよ」 ジュリエッタに詰め寄る孫二人をやんわりと制する夢幻の宮に、いいのじゃ、とジュリエッタは笑ってみせる。 「今宵はここに泊まっていくのでな、遊ぶ時間はたくさんあるぞ。もちろん、あの話の続きも書いてきたぞ」 「わぁい、じゃああちらの部屋で遊びましょ!」 手を引かれて連れられていくジュリエッタの表情はにこやかだ。だがいつもとどこか違うと夢幻の宮は思う。そう、どこか影が差しているようにみえるのだ。 * 翌日。 華夜姫の使いで訪れたドルジェについてきた彼女の娘と息子が加わり、ニワトコと夢幻の宮の子ども達も加わって賑やかな時間を過ごした後、ジュリエッタは花橘殿を辞した。 もう陽が落ちていて、夜空には星がまたたいている時刻。夢幻の宮はこの世界の『駅』までジュリエッタを送っていった。 「宮殿」 「はい」 「祖父が亡くなったのじゃ」 ああ、彼女の顔に差していた影はこれだ、得心した夢幻の宮だったが、小さく哀悼の意を述べるに留める。前々から、彼女の身の振り方については聞いていたから、この先に続く言葉は予想できた。それは夢幻の宮にとっても寂しいことではあるが、ジュリエッタの人生だ、夢幻の宮が口を出せることではない。 「わたくしの中で一区切りがついた。まだ旅をやめるわけではないが……異世界での長旅はもう、しないと思う」 「……そうでございますか。寂しゅうございます」 けれども、寂しいと口にだすことは止められなかった。ジュリエッタはそんな彼女の手をとって両手で握りしめて。 「もうわたくしの母、いや祖母になっておるのか……と言ってもいいぐらいに宮も貫禄がついたのう」 「祖母は、言い過ぎでございます。確かに、戸籍上の孫はおりますけれど」 そういったものの夢幻の宮は気分を害した様子はなく、長年の友の手を、きゅっと握り直した。 「これでお別れじゃ」 「……はい」 「ここにいる皆と会うのが嫌になったわけではない、むしろ逆じゃ」 「はい……」 互いの手が小さく震えている。離したくない、でも。 「ただ正直、流れる時の違いをずっと見ていくのは辛いのじゃ。いずれロストメモリーになる身で未練を残してはならぬからのう、ここでひと区切りをつけたいと思う」 遠くから、ロストレイルが駆けてくる音が聞こえる。そっと、どちらからともなく手を離した。 名残惜しくないわけがない。けれども。 ロストレイルが駅に滑りこんでくる。ふたりとも、無言で視線を絡ませていた。 車両の扉が開くと、ジュリエッタは意を決したようにロストレイルへと乗り込んだ。そして、列車口で振り返り、夢幻の宮と再び見つめ合う。 「どうか宮も伴侶殿達も幸せに……Addio eternamente」 「ジュリエッタ様も……お幸せに」 ジュリエッタが最高の笑顔だったから、夢幻の宮も笑顔でそれに答えた。 閉まる扉が二人を分かつ。 ゆっくりと、ロストレイルは夜空へと駆け出す。 さようならではない。 思い出は消えることはないから。 道が、世界が分かたれても、かつて重なった道がなくなるわけではない。 だから私たちは、今この道を歩みつつも、かつての軌跡が交わっていたという奇跡を、忘れることはないだろう。 【了】
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