★ 【ツァラトゥストラはかく語りき】ハード・サースト・サブリメイション ★
<オープニング>

「……クロノスは完全に撤退したようだね、この街から」
 中有を見つめ、瑕莫が言う。
 スラオシャは頷き、
「見事な、と称していいものかは判りかねますが……派手な去り方だったようですね」
 つい三日ほど前に繰り広げられた、怪物と銀幕市民との戦いを反芻した。
「準備は、ラーシャ?」
「すでに、すべてが」
「……そうか」
 簡潔な答えに、瑕莫が満足げな微笑を浮かべる。
「陣の設置場所は、銀幕市立植物園の中央にしました。あの、緑に満ちた美しい場所ならば、『あの方』をお迎えするのに相応しいように思いましたので。――現在、『器』の設置も終わり、アエーシュマやアナーヒターたち、そして『根付いた者』たちが周辺の警固を行っています」
 先日不備が見つかったため、再度綺麗に『洗浄』を行った『器』は、今、抜け殻のような『空っぽ』の状態で、スラオシャたちが一年に渡って集めた結晶に照らされながら、その時を待っている。
「あれだけのともし火があれば、『あの方』もすぐに気づいてくださることだろう」
「はい。師の求められるものも、僕の欲する答えも、きっと見つかるだろうと」
「そうだね……では、行こうか」
 瑕莫の言葉に頷き、彼に続こうとしたスラオシャは、ふと思い立って再度口を開いた。
「師よ、『あの方』がおいでになられるまで、どれほどの時間が必要となりますか。その間、僕も、邪魔者の排除に努めようと思うのですが」
「ああ、そうだね、きっと『彼ら』はやってくるだろうから」
「ええ、そうですね、きっと来るでしょう」
「……楽しそうだね、ラーシャ?」
「そうでしょうか? ……そうですね、僕は『彼ら』と再度見(まみ)えたいと思っているのかもしれません。『彼ら』の答えを聞いてみたいと、切望しているのかもしれません。しかしそれは、アエーシュマたちも同じことだろうと思います」
「ならば……招くとしようか、『彼ら』も。儀式の開始が日の入りとして、そこから、あの方の降臨まではおよそ半日……その間に、『彼ら』が一体、どんな結晶を見せてくれるのか、確かに私も興味がある」
 言って瑕莫が笑う。
 スラオシャは頭(こうべ)を垂れた。
「……御意」
 彼らの願い、渇望はたったひとつ。
 それぞれの『答え』が欲しい、たったそれだけだ。
 そのために、この街を危機にさらすのかと詰られようとも、結果、消滅することになろうとも、彼らはそれだけを求めている。
 生命、心、魂、意味、理由、存在、意志。
 何故、どうして、なんのために、あの人のためならば。
 はっきりとしたかたちにすることの難しいそれらこそが、善と悪の両極に存在する神話の出身でありながら、そのどちらかのみに属することの出来なかった映画の登場人物である彼らが、それぞれに意義を知りたいと願う、絶対の『問い』なのだ。
「さあ……では、始めよう。我々の『答え』と、願ってやまぬ最果てのために」
 瑕莫の、本来ならば敵対者であるはずの師の、厳かな宣言に再度頭を垂れ、スラオシャは恭順と尊崇を示す。

 ――渇望の成就と、終焉とが近づいている。

 それをどこかうっとりと、夢見るように、彼は思った。

種別名シナリオ 管理番号1003
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
クリエイターコメント皆さん今晩は、新しいシナリオのお誘いに参りました。
こちらは、長い時間をかけて展開して参りました一連の流れの終着点、【ツァラトゥストラはかく語りき】最終場になります。

共犯者であるクロノスが撤退し、瑕莫を初めとしたペルシャの神々は、自分たちの物語を完結させるべく動き出しました。彼らは、彼らの世界の至高神であり、『はじまり』の神でもあるズルワーンを復活させ、答えを得ると同時に、この街に終焉をもたらそうとしています。

それを何とかして阻止していただこう、というのが、今回の依頼です。
どうやら対策課には、植物園の場所と、儀式の開始時間が書かれた匿名の手紙が届いている様子ですので、それらを念頭におきつつ、以下の内容についてプレイングをお書きください(思いつかない・関わらない部分があれば、すべて書いていただく必要はありません)。

1.巻き込まれ方、導入
どのように、もしくはどういう理由で現場に向かうことになるかをお書きください。特にこだわりがなければ、対策課からの依頼で調査に向かっていただくことになります。

2.警固をどう掻い潜るか、どう戦い、どう説得するか
植物園には、スラオシャ、アナーヒター、アエーシュマとドゥルジ、ハルワタートとアムルタート、赤と青、そして瑕莫に力を与えられた『根付いた者』たちがいて、邪魔者を待ち構えています。
しかし、遭遇することで必ず戦闘になるとは限りませんし、一定の条件を満たせば、彼らを説得し味方につけることも可能です。説得を試みられる方は、第一場『インフラメイション』・第二場『イグザルテイション』をよくお読みの上、それぞれに相応しいと思われる行動もしくは言葉をお書きください。

3.『器』と陣をどうするか
市立植物園の中央には、ズルワーンを呼び起こすための陣があり、そこには『真っ白』にされた唯瑞貴がいます。彼と、彼を取り巻く陣(=結晶の集合体)に対するアプローチがあれば、お書きください。そのアプローチが成功すれば、ズルワーンの復活を阻止できる、もしくは有利に行動できる……かもしれません(もちろん、アプローチが失敗すればズルワーンは復活し、唯瑞貴は消滅することになります)。

4.瑕莫への対処、彼の問いへの答え
こちらでは、瑕莫と対峙する際の行動についてお書きください。
力尽くで排除しようとするのか、あくまでも対話を望むのか、そのためにどんな行動を取り、どんな言葉を口にするのか。なるべく具体的である方が採用される確率は高そうです。
また、瑕莫=アーリマンが、対の存在である善神アフラ・マズダの不在によって抱くに至った疑問、命、存在の意味について、思うところがあればお書きください。

5.ズルワーンにどう対処するか
もしもズルワーンが復活してしまった場合の対処方法をお書きください。
何もかもが未知数なので、予想できる範囲で構いません。
(条件が当てはまれば、それが確定事項として採用されます)

6.その他、思うところなど
その他、取ってみたい行動や感じたこと、思惑や目論見などがありましたらご自由にお書きください。この項目も、場合によっては、とても美味しい扱いになるかもしれません。


※必ず上記のように書かなくてはならない、というわけではありません。
※『PCさんの台詞』『PCさん同士の人間関係』以外で使用されたノートは拝見しません。
※いつものことではありますが、人数の関係もありますので、プレイングの内容によっては登場率にかなりの差が生じるかもしれませんし、不本意な扱いをされてしまうこともあるかもしれません。それぞれ、ご納得の上でのご参加をお願い致します。
※この事件は、三月中に起きたものとして描写されます。


それでは、皆さんのおいでと、それぞれの思いの丈を、切にお待ち申し上げております。

参加者
太助(czyt9111) ムービースター 男 10歳 タヌキ少年
アル(cnye9162) ムービースター 男 15歳 始祖となった吸血鬼
狩納 京平(cvwx6963) ムービースター 男 28歳 退魔師(探偵)
理月(cazh7597) ムービースター 男 32歳 傭兵
ベルナール(cenm1482) ムービースター 男 21歳 魔術師
千曲 仙蔵(cwva8546) ムービースター 男 38歳 隠れ里の忍者
ミケランジェロ(cuez2834) ムービースター 男 29歳 掃除屋
マイク・ランバス(cxsp8596) ムービースター 男 42歳 牧師
守月 志郎(czyc6543) ムービースター 男 36歳 人狼の戦士
シャノン・ヴォルムス(chnc2161) ムービースター 男 24歳 ヴァンパイアハンター
ブラックウッド(cyef3714) ムービースター 男 50歳 吸血鬼の長老格
ルークレイル・ブラック(cvxf4223) ムービースター 男 28歳 ギャリック海賊団
ルイス・キリング(cdur5792) ムービースター 男 29歳 吸血鬼ハンター
月下部 理晨(cxwx5115) ムービーファン 男 37歳 俳優兼傭兵
昇太郎(cate7178) ムービースター 男 29歳 修羅
<ノベル>

 1.それぞれの、求めるもののために

 広い広い植物園の一角だった。
 すっかり日も沈み、鮮やかな緑に満ち満ちた周囲を照らすものは星明りとわずかな照明のみ。
 そんな空間での邂逅だった。
「……出来ることなら、こんなかたちではなく出会いたかったと思う」
 シャノン・ヴォルムスはぽつりとつぶやき、有翼の少年神の前に立った。
「そうであれば、佳き友にもなれただろうと思うからな」
 シャノンの言葉には答えず、どこかの歌い手と同じ顔をしたスラオシャは、無言のまま戦斧を構える。
「今も、答えは見つかっていないのか。……いないのだろうな」
 目の前に立つのは、守るべき存在が救われぬまま彷徨い続けることに苦しんで、それゆえに答えを――どうすれば彼らが救われるのか、それとも永遠に救われぬのか――切望し、罪と知りつつ大きな危機を招く行為に身を投じた少年神だ。
 たくさんのものに救われてここまで来たシャノンには、彼の苦悩に同意は出来ずとも、共感は出来る。
「確かに、何も判らぬまま……永遠を生きるのは苦しい、な」
 シャノンもまた身構えた。
 両手には、いつもの愛銃、FN Five-seveN。
 ――ふたりの視線が絡み合う。
 ふたりのまとう空気は……驚くほど、静かだった。
 まるで、旧知の友と語り合うかのように。
 しかし、
「……行くぞ」
 スラオシャの小さな呟き。
 殺気など微塵も放たぬまま、スラオシャが地面を蹴る。
 シャノンもまたそれに倣った。
「僕は……」
 びょう、と戦斧が空を斬る。
 シャノンは紙一重の動作でそれを避け、友人に造ってもらった風撃弾をスラオシャに向かって連続で撃った。
 通常よりも速い、追跡機能もある弾だが、しかしそれは、半ば予想していたこととは言え、スラオシャの戦斧によって叩き落され、振り払われた。
 びぢっ、という、金属と金属が擦り合わされるような、不快な音が繰り返される。
 と、同時に、浅い呼気とともに踏み込んで来たスラオシャが、残像すら見える速度でシャノンの間合いに入り込み、斧の石突き部分を彼の鳩尾目がけて突き出した。風撃弾が回避される、もしくは防御される可能性を念頭においていたシャノンは、撃つと同時に背後へ跳び、スラオシャから距離を取っていたので、それは空を斬ったのみだったが。
 スラオシャもまた、シャノンのそれを予想していたのだろう。
「迷っている、のだろうと思う。だからこそ、お前たちと再び出会えるのを、心待ちにしていたのだろうと思う」
 互いに距離を取ると同時に、ぽつり、言葉がこぼされる。
「……そうか」
「だが……実は、何を迷っているのかも、判らないのかもしれない。こんな気持ちは初めてだ……今の僕は、ひどく揺れている。情けなくも思うが」
 淡々とした真情の吐露。
 それは、もしかしたら、目の前にいるのがシャノンだから、なのかもしれなかった。
「俺は」
 踏み込みながら、囁くようにシャノンは言う。
 スラオシャの苦悩を否定は出来ない。
 シャノン自身、故郷では、永遠を思う苦悩の中を歩いて来た。
 心底愛した女を失って、この世に意味などあるのかと、自分に意味などあるのかと嘆き苦しみながら、それでも彼女が生きて欲しいと願うから、自分が消えることは彼女の記憶まで消してしまうことだと思ったから、血を流し、拳を握り締めて歩き続けてきた。
 ――そして、ここに辿り着いた。
「この街に感謝している」
「……そうか」
 小さな頷きと、かすかな笑みが返る。
 シャノンは、そこへ、弾丸を変えたFN Five-seveNの引鉄を立て続けに引いた。
 今回彼が使用しているのは火炎弾。
 炎を超高速で撃ち出し、貫通と高熱によってダメージを与える弾だ。
 危険性が判るのだろう、スラオシャが回避と防御の体制をとる。
 火炎弾もまた避けられるだろうと踏んでいたシャノンは、撃つと同時に、人間など及ぶべくもない脚力を駆使して、スラオシャ目がけて突っ込んでいた。
 そして、懐に入り込み、同じくその尋常でない脚力を駆使して足技に転じ、スラオシャを攻撃する。
 スラオシャはそれを、無表情に――どこか穏やかに――見つめ、大きな戦斧を軽々と操って、通常の人間が喰らえば一撃で骨を砕かれ、戦闘不能になるであろう足技を防ぎ、回避していった。
 しかし、やはり、ふたりの間に通うのは、静かな感情でしかなかった。
「俺は俺なりのやり方で答えを見つけてきた……この街は、俺に優しい」
 距離を取って向かい合い、シャノンは真っ直ぐな眼差しを向け、
「スラオシャ。無駄と知りつつ敢えて言うぞ。恐らく、ズルワーンに問いかけたところで答えは出ない。意味もない。与えられた答えは借り物だ、お前の渇望を完全に満たすことは、多分出来ない」
「……」
 真摯な言葉を、彼がこの街で手に入れた、手に入れかけている答えを投げかける。
「不完全であっても、幸せや救いは存在する。俺は、この街で過ごすことでそれに気づけた。……愛するもの、信じ合えるものたちとお互いに補い合うことで、それが達成されることにもな」
「では……完全なる幸いなど、不可能ということか」
「違う。そもそも『完全な幸い』の定義とは何だ? 人間や生命の在りようは様々だ、それを、誰かが『こうだ』と一方的に決定づけることは出来んだろう。それに、人間はどう足掻いても不完全なんだ、幼く未熟で、あまりに脆い。だが……実は、もっとも強かで柔軟だ。だからこそ過つが、だからこそ進化し続ける、そういうものだろう」
「それは……判る。判るが、しかし」
「しかし、なんだ」
 シャノンが問うと、スラオシャは複雑な笑みを浮かべた。
「人を守り導くものである僕が、それをそのまま受け入れてしまっては、僕の意味がない」
「……ああ、そういうことか」
 シャノンもまた苦笑する。
 映画世界での設定。
 そう言ってしまうことは簡単だ。
 しかしそれが、ムービースターたちにとって、背骨であり背景であることもまた、事実なのだ。
 シャノンとて、それらをたくさん背負ってこの世界に実体化し、それら背負ったものの重みによって、救われたことへの歓び、救ってくれたものたちへの感謝を深くするのだから。
「ならば……不可能と知りながら渇望し続けることこそが、僕のあるべき姿なのだろう」
 恐らく、スラオシャ自身も判っている。
 どこを探しても『完全』などないのだと。
 そして、だからこそ、無力感に苦しんでいるのだ。
「……」
 シャノンは微苦笑したままで銃を下ろした。
 スラオシャの戦斧もまた、下りている。
 もう、お互いに、戦うという気分では、なかった。
 と、そこへ、
「気持ちは判らなくもないけど、違うと思うんだよなぁ」
 唐突に響いた声には、聞き覚えがあった。
「……ルイス」
 わずかに目線だけ向けてシャノンが言うと、
「やっほー、お兄様! ホントは一直線に陣に向かうつもりだったんだけど、見かけちゃったからちょっと寄ってみた」
 黙っていれば二枚目、口を開けば……の色物ムービースター、ルイス・キリングが、緑の一角にある大きな石に腰掛けて、こちらに手を振っていた。
「何の用だ」
「いやん、お兄様ったらつれないんだ・か・らっ」
「……この緊急時に冗談とは見上げた奴だ。褒美に、額に穴でも空けてやろう」
「ってそれ全然嬉しくないご褒美だよね!? 額に穴ブチ空けられたらさすがのオレもヤバいし!? っと、それはさておき」
「だから、何の用だと訊いている」
「コールドアイズもここまで来ると物理的に凍り付きそうだよね!? いや、スラオシャの話を聞いてさ。お兄様と同じく、人間ってそんな弱くないんじゃね? って思って」
 ルイスの言葉に、スラオシャがまた複雑な表情をする。
 ルイスは微かに笑い、
「存在の意味とか意義とかさ、見つけるのってホント難しいと思うぜ。ましてや、『どうすれば人間が完全に救われるのか』なんてさ。あんたがそれを必死で模索して、悩んでるってのも、よく判るけど。……それ、必要悪だと思うんだ、オレは」
 迷いなく澄んだ目で、スラオシャを見つめた。
「……必要悪?」
「ああ。完全な救いなんてねぇんだ、ってことそのものが必要悪。それがなきゃ、前へ進めねぇだろ」
「……」
「人間はさ、皆、そのことを知ってるぜ? だけど、幸せになりたい、幸せにしたい、大事なものを守りたい、って思うからこそ、判ってて足掻くんだろ。そんで、足掻くからこそ、人間って強くなれるし、みっともなくても綺麗なんだろ。外見が、って意味じゃなくて、な」
「……だが、」
「あんたの存在意義は、人間を信じて見守ることじゃねぇのかな」
「……見守る……?」
「あんたが、っつぅかあんたたちが、色んな方向から悩んでこれを起こしたっての、認めるわけにも許すわけにもいかねぇけど、判ることは判る。誰も、人のことなんか言えねぇんだよ、核になんのはてめぇなんだからさ。なぁ、お兄様?」
「そこで俺に話を振るなと言いたいが、その通りだな」
 素っ気ないシャノンの返事に、ルイスは肩を竦めて頷いた。
「オレは、あんたたちを止めに来た。まだ戦うってんなら、ぶん殴ってでも止めてやる。だけど……出来るなら、判り合いてぇって思うんだよ。だから、そのために、出来ることをする。――……あんたは、どうする? まだ……迷いは、晴れねぇか?」
 ルイスの問いに、スラオシャは答えなかった。
 ただ、唇を引き結び、静かに、道を開けただけだ。
「……正直なところ、迷っている。情けなくも、揺れているとも。だが……お前たちの言葉を、信じてみたいとも、思う。お前たちの言うように、実践できれば、と」
 スラオシャは、シャノンとルイスが植物園の中へと進んでいくのを止めようとはしなかった。
「もしかしたら、あとになって刃を向けることになるかもしれない」
「ああ」
「だが……今は、少し、見届けてみたいと思っている。罪の償いは、そのあとで、しよう」
「……そうか」
 シャノンは瞑目し、頷いた。
「ならば……見ているがいい。俺は俺の十全に則って、俺の真実を明らかにしよう。それを、お前に見せてやろう」
 それだけ言って、あとはもう振り返らず、ルイスとともに暗い植物園の中へと踏み込んでいく。
 ――背中にスラオシャの視線を感じる。
 そこに、彼らの無事を祈る思いが込められていたように思ったのは、シャノンの自惚れだっただろうか。

 * * * * *

 式神を通じて瑕莫たちの一件を知った狩納京平(かのう・きょうへい)は、植物園の一角で、清浄の女神アナーヒターと向き合っていた。
「俺は勘違いをしていたのかも知れねぇな」
 呟き、こんな時でも毛一筋の乱れもなく美しい女神を見つめる。
「何を勘違いしていたの?」
 彼女はいつも通り白々と清浄で、静謐で、そしてどこか哀しげだった。
 ――アナーヒターは、否、恐らく今回の件に関わったすべてのペルシャ神が、自分たちの引き起こした行為が許されぬものだと知っている。ズルワーンという絶対を呼び起こし、この街に虚無を撒くという目論見が、成就してはならぬことなのだと知っている。
 知っていてなさねばならぬほどに彼女らが思い詰めたのは、不在と喪失が、あまりにも黒々と虚ろだったからなのだろうか。
「あんたにとってアフラ=マズダは、俺にとっての師匠みてぇなもんだったのかな、って思っただけだ」
「……ああ。そうね……そうかもしれないわ」
 それは、京平が味わった、人生でもっとも大きな喪失だった。
「……俺もあの時、『何で自分だけここにいるのか』って思ったよ。苦しくて苦しくて、死んだ方がマシだと思った」
 満開の桜の下で師を看取った。
 あの時、京平の胸は張り裂けんばかりで、思考は千々に乱れ、師への深い愛と信頼、それを喪う悲嘆で塗り潰されていたが、少なくとも師は、己が死を恐れてはいなかった。
 悔いなど何ひとつないと満足げに告げ、京平の生と幸いを願ってこの世を去った。
 ――十六の春のことだ。
「そっから、十二年だ。長ェのか短ぇのかは、俺には判らねぇ。その間に色んなことがあって、色んな経験をして、少しだけ判ったことがある」
「判ったこと?」
「ああ。生きるってのは、権利と義務を重ね合わせることだと俺は思う。……分かたれてもなお、前を向いて生きることが俺に課せられた義務なんだって、最近、ようやく思えるようになったんだよ」
 京平が、悲嘆に塗り潰され、復讐に滾る心のままで生きることを、師は望んでいないだろう。
 そこへ辿り着くまでに、ずいぶん時間がかかってしまったが、辿り着いた以上、京平の心は決まっている。
「俺は、喪失と不在の寒さに耐えて生きる。生きて、自分のあり方が、少なくとも俺にとっては正しかった、って、証明してみせる」
 低く、静かに、きっぱりと告げる。
 過ちならばいくつも犯した。
 辛酸ならば、何度も舐めた。
 けれど、自分自身の心のため、誓いのために――そう、彼女らの言うように表現するならば、自分自身の結晶のために――、決して折れまいと、もう決めた。
「俺と来い、アナーヒター」
 言って、京平は手を差し伸べた。
「え?」
 不思議そうな表情をするアナーヒター。
 手を差し伸べたままの姿勢で、京平は軽く肩を竦めた。
「前にあんたたちに言った、自由に生きればいい、って気持ちに今も変わりはない。喪失と不在に足掻くことを愚かだと嗤いもしねぇ。――……だが、そのために誰かを犠牲にするのは間違ってる」
「……ええ」
「ムービースターの……いや、違うな、生きてる奴ら全部がきっとそうなんだ、自分ってなんなんだろう、って疑問は、尽きるってことがねぇだろうと思う。それが、思考する能力を持った俺たちの業で、哀しさで、福音でもあるんだろう」
 静かに、自分自身が辿り着きつつある答えを差し出しながら、京平はアナーヒターを見つめる。
 返る視線もまた、静かだ。
「俺は……もう、決めた。てめぇっていう存在を証明するのに必要なのは、何かで推し量るんじゃなく、自分自身が確かにここにあるんだって、ここで生きて、思って、選んで受け止めてるんだって、信じることなんだ。そういう風にして、誰だって……神さまだって、手探りで模索するしかねぇんだ、――特に、この街では」
 なおも手を差し伸べ、京平は言葉を紡ぐ。
 絶対悪も絶対善も、この世界には存在しないのだ。
「だからアナーヒター、一緒に来い。俺があんたに、この世界の在り方ってのを見せてやる……あんただって許されてるんだって事実を、見せてやる」
「……わたしは」
 そこではじめて、アナーヒターの瞳が揺れた。
「消えるべきだと思っているわ。いいえ……この期に及んで、わたしは迷っている。あなたや、他の人たちが、美しい結晶を見せてくれたから」
「……だったら」
 京平は、アナーヒターの手を強引に掴み、彼女の身体を勢いよく抱き上げた。
「! 京平、何を……」
「尚更、このまま終わりになんざ、してやらねぇ。……行くぞ」
 声高に宣言し、アナーヒターを抱いたまま、京平は歩き出す。
 女神の困惑や焦りが伝わってくるが、知ったことではなかった。
 京平は京平なりの行動で、愚直過ぎる神々に己の真実を示すだけだ。
 罪の償いは、そのあとでいい。
「真実も在り方も、どこにでも、いくつでもあるってことを、証明してやる」
 それだけが、今の京平の、強い思いだった。



 2.絶対不在

「くそ、多いな……!」
 走りながらごちる理月(あかつき)にかすかに笑い、守月志郎(かみつき・しろう)は剣を握る手に力を込めた。
「太助(たすけ)、大丈夫か」
 理月が、頭の上に陣取った仔狸に声をかけると、
「おうよっ、ばっちりだぜ! ちょっとゆれっけど、やっぱあかっちの頭はサイコーだ!」
 そんな、元気のいい言葉が返り、
「ちょ、も、そんなん言われたら血圧上がるじゃねぇかよ……!」
 太助が大好きすぎる理月を思わず悶絶させるのだった。
「……仲がいいんだな」
 くすり、と笑ってから、志郎は手の中の巨大な剣をくるりと回転させて、襲いかかってきた男の首筋を鞘の部分で打ち据え、昏倒させた。
「当然じゃねぇか。俺、太助のこと大好きだしな!」
「おうよ、俺だってあかっちのことだいすきだぜ!」
「……やばい、非常事態だってのに、幸せすぎてどっかが切れそうだ……!」
 太助の迷いない言葉に、手に手に武器を、そして奇妙な能力を持って襲い掛かってくる人々を避け、攻撃を紙一重でかわしながら走り抜けるという芸当をやってのけながら、理月が本気としか思えない表情で呻く。
「はは、好きって気持ちはいいよな、なんていうか、温かいから」
 志郎もまた、拳を、剣を駆使して攻撃をかわし、また問答無用で眠らせながら、理月に並んで走り続けた。
「『根付いた者』、か……」
 まだ十七、八歳と思しき少年――彼が、以前、蠢く死者の群によって瀕死の重傷を負わされ、それゆえに渇望の力を手にしてしまったということを知るものは、今のこの場にはいない――が、不思議なエネルギー波を用いて襲ってくるのをかわし、首筋を強打して昏倒させつつ、志郎は呟く。
 ――彼らふたりと一匹は、植物園の真ん中を、それぞれの目的のために突き進んでいる。
 太助は、二柱の女神に会いに。
 理月と志郎は、瑕莫を止めたくて……唯瑞貴を助けたくて。
「渇望に囚われたまま、誰かから奪った力を使って自分の願いを叶える……」
「……なんか」
「ああ、どうした、理月さん」
「理月、でいいよ。呼び捨てにされる方が、何か親しげでいいじゃん」
「そうか、じゃあ、そうしようか。それで……何だって?」
「ん、なんかさ……切ねぇな、って」
「……ああ」
 何かを喚いた男が、手にした剣を――誰かから奪ったのだろうか、血がこびりついている――振りかぶった。ひゅ、と言う鋭い音に、しかし理月が動じる様子はなかった。
「でも……悪ぃけど」
 強い光を宿した双眸が男を見据え、ス、と突き出されただけのように見えた拳が、男の鳩尾を捉えると同時に彼を昏倒させる。
「あんたたちの望みがなんだって、どんな哀しくて辛い事情があるんだって、俺はてめぇの目的を間違えるわけにはいかねぇ。――俺たちにはなすべきことがある。退いてもらうぞ!」
 そこで初めて理月は刀を抜いた。
 白銀の、美しい刃だった。
「太助、ちょっとだけ志郎さんのとこにいてくれ……すぐに終わらせるから」
「ん、わかった。むりはしねぇようにな」
 こくりと可愛らしく頷いた太助が、志郎の肩にひょいと乗っかる。
 それと同時に理月が奔った。
 ――風よりも速く。
「傭兵団『白凌』が一刃、“黒暁”理月……推して参るッ!」
 白銀の、細い月が、目にも留まらぬ速さで揮われる。
 ただし……刃の向きを反対に。
「ぐっ」
「ひっ」
「ぎゃあぁッ!」
 非情なまでに正確な銀刃が、『根付いた者』と称される、渇望に囚われペルシャ神群の手先となったものたちを強かに打ち据え、問答無用で意識を刈り取っていく。
 志郎は、太助を肩に乗せたまま、理月の攻撃から逃れてこちらへ向かってくる人々を無力化しつつ、植物園の中央を走り抜けた。
「……よし、まいたな」
 そこから数分後。
 『根付いた者』たちの大半は駆逐され、意識を失って崩れ落ち、もはや向かってくることができるものもいなかったが、ふたりと一匹は、少なくとも彼らの気配が感じられなくなるまで走り続け、人工的に小さな川が造られた区画のほとりで立ち止まった。
「おつかれさん、あかっち、しろー。痛くねぇか? だいじょぶか?」
 理月の頭に戻った太助が、小さな前脚で理月の後頭部をぽすぽすと叩いて労う。
 戦闘に特化したふたりではあるが、さすがに数が多く、理月も志郎もあちこちに切り傷や擦り傷を作り、不思議な、魔法めいた力で焼かれたために数箇所を焦がしていた。
「ん、太助が痛い思いせずに済んだんなら、それでいいや」
「……うん、ありがとな、あかっち」
 しかし、無論、理月が自分の傷を気にする様子はなかったし、もちろん、志郎とて、己が痛みなど恐れはしない。
「んー……そんじゃ、俺はハルワタートとアムルタートをさがすわ。あかっちとしろーには、ほかにやることがあるんだろ? あとで追いかけっから、先にいってくれ。たぶん……あのふたりは、このあたりにいるとおもうんだ。人がつくったものだけど、ここには、きれいな水と緑があるから」
 と、太助が言った時だった。
「……わたしたちをお探しかしら?」
「ああ……また、逢ったわね、可愛い仔狸さん」
 かさり、と緑の一部が音を立て、
「……ハルワタート、アムルタート……」
 ベルベットのような黒髪に、清流のような青銀の目をした女性と、同じ質感の黒髪に、萌えいずる若草のような緑の目をした女性、非常によく似たデザインの、ペルシャ風ドレスに身を包んだふたりを、あらわにしたのだった。
「……太助」
 心配そうに理月が名前を呼んだが、太助は笑って首を横に振っただけだった。
「すぐに追いかけるよ。だから……俺に、はなしをさせてくれ」
「……判った」
 志郎は理月と顔を見合わせ、頷くと、植物園の更なる奥を目指して走り出した。
 太助には太助の闘いがある。
 それを、志郎も理月も、理解している。

 * * * * *

「……俺、来たよ」
 ふたりの気配が遠ざかるのを感じながら、太助は二柱の女神を見上げた。
「むねをはって伝えなきゃ、っておもったから、ここに来た」
 その言葉に、水や緑を司る二柱の女神が穏やかに微笑む。
 まるで、太助がやってくるのを始めから予測していたようだった。
 そして彼女らは、無垢な童女のような眼差しで、太助の次の言葉を待っている。
「俺、大事なこと忘れてた。ここでは神さまもスターなんだ。世界やなかまごと実体化すると、忘れちゃうけど」
 映画の中では神という絶対的な存在であったとしても、この街に現れた瞬間、彼らは『ムービースター』という名の一市民でしかなくなるのだ。
「ふたりが、切り離されて、それがつらくて……どうしたらいいかわかんなくて、ってきもち、俺もわかる」
 それは恐らく、太助だけの気持ちでもまた、ないのだ。
 生き物は――人間、心ある存在は皆、自分と他人という彼我の差異を感じ、自分以外の何かに包まれながら、自分以外の何かからもたらされるたくさんのものを受け入れ、受け止めながら、己とは何であるか、を構築していくのだ。
 彼女らにとって、それは映画世界において対ともなる悪神たちで――タルウィ、ザリチェという神々は、ゾロアスター教においてハルワタート・アムルタートと敵対する存在だと聞いた――、その対立こそが彼女たちに自己の立脚を促していたのだろう。
「だけど」
 言うと、女神たちが太助を見つめた。
 こんな、――きっと、彼女たち自身が最後と断じているであろう場面でも、ハルワタートとアムルタートは穏やかで、激情とは無縁だった。
 何故、今、彼女たちがここにいるのか判らないほどだ。
 ……否、今、この場所が、ペルシャ神群と銀幕市民との最後の戦いの場所なのか、判らなくなりそうなほどだ。
 もちろん、ここがどこで、今が何をすべきときか、決して間違えはしない太助なのだが。
「だけど……映画の中でどうだったとしても、ここでは関係ない。映画の中のぜんぶから切り離されて、ひとりぼっちで立ってるのがスターってやつなんだ。だから……欲しいこたえは、自分の中から探すしかないんだ」
「……ええ、そうね、そう思うわ。わたしたちは神であったがゆえに、かえって脆かったのね。基盤を失って、何もかもが暗闇に包まれたかのように思ったの」
「うん……ムービースターは、みんなそう思うんじゃねぇかな。いや、みんなおなじだ、なんて決め付けるつもりはねぇけど……俺も、そうだったよ。じぶんがどうなるか知って、哀しくて苦しくて、なやんだけど……じぶんでさがして、じぶんで決めた」
「ええ。結晶を見せてくれたものね。とても綺麗な結晶だった」
「そうかな……そうだったら、俺は、ほんとうに幸せものだ。それはきっと、この街で、俺が、どれだけ大事にしてもらってきたか、ってことだから」
「……ええ」
「だからさ。どんなに望んだって、誰にもこたえはもらえない。いちばんえらい神さまが降りてきたって、それは、俺たちと同じスターでしかないんだ。そこに、絶対なんか、ない」
 女神たちを真っ直ぐに見据え、きっぱりと断じる。
 根本からはぐれた自分は苦しいだろう。
 特に、様々なものを司り、様々なものを守ってきた、『神』という存在にとっては。
 神さまなどというものになったことのない太助には、それをどうこういうことは出来ないし、その資格もない。
 けれど、銀幕市は、すべてからはぐれてもなお、ただ『ここに在る』ことを許される街だ。そして、すべてからはぐれながらも、ただ『自分として在る』しかない街でもある。
「ハルワタート、アムルタート。俺は、あんたたちに、この街で、『自分は自分だ』って言って生きて欲しい。生きるって……存在する、って、そういうことだろ? ――だから、ここに来た。俺なりのこたえを持って、堂々と」
 あの、暗い冷たい穴の中で震えていた少年の残滓を救う手伝いを、この二柱の女神はしてくれた。
 優しい神さまなのだと、疑いようもなく思う。
「あんたたちがいてくれたら、きっとこの街、もっと楽しくて平和なところになると思うんだ」
 だから太助は、彼女たちだけではなく、意味、意義、真理の不在に悩み苦しんで一連の事件を起こしたすべてのペルシャ神に、罪を償って、この街で生きて、そして救われて欲しかった。
「いっしょにいこう、この街は、何も決まってないんだから。ふたりがのぞむように、決めていいんだから」
 小さな手を差し出し、迷いのない口調で告げる。
 女神たちが顔を見合わせた。
「……そうね、そうなったら、素敵ね……」
 ぽつりと零れた小さな言葉。
 寂しげなそれに、太助は少し心配になったのだが、
「判ったわ」
 微笑んだアムルタートが頷いたので、ホッとして笑顔になった。
「罪の償いと、あなたの言う、可能性への歩み寄りを」
「……ありがとう、仔狸さん。わたしたちを、救おうとしてくれて」
「俺は太助って言うんだぜ。魔性のおなかを持つ狸、でもいいけどな! ……いや、ほら、前にさ、末吉を助けてもらったし。ここでは、やり直しが出来るんだから」
 言って、太助はハルワタートの身体を駆け上がり、彼女の肩に腰を落ち着けた。
「じゃあ……行こうぜ、ふたりとも。偉い神さまが降りて来て、この街をなんにもないじょうたいにしちまう、なんてことは、ぜったいに止めねぇと」
「……ええ、そうね」
「わたしたちも手伝うわ、あなたがそれを望んでくれるなら」
 どこか意味深な、何かしらの決意の含まれた笑みを交わし合った女神たちが、歩き出す。
 太助は、理月や志郎が踏み込んでいった、植物園の奥をじっと見つめた。
「ぜったいに……まもってみせる」
 彼の小さな呟き、強い決意を、深い闇に沈む植物たちが、黙って聞いている。



 3.ゆいいつのもの

 ルークレイル・ブラックは、対策課で行き逢った月下部理晨(かすかべ・りしん)とともに植物園に駆けつけた。
「……ここは通さねーぞ」
 立ちふさがったのは、双子のムービーファン、赤と青だった。
「師が、答えをお望みだ。僕たちは、彼の望みを叶えて差し上げたい」
 ふたりの手には、刃渡り四十センチほどのナイフがあって、物騒な光を放っている。
 きつい、強い眼差しからは、彼らが自分の死すら覚悟して――否、そもそも、生への執着がないのかもしれない――この戦いに臨んでいるのだということが伺える。
「……そうか」
 答える理晨の目は厳しい。
 朗らかで心優しい、とても自分より九つも年上には見えない、いつもの彼とは思えない厳しさ、冷ややかさだった。
「なら……俺も、容赦はしねぇ」
 言って掲げた理晨の手にも、大ぶりのナイフが輝いている。
 そしてそれは、まるで理晨の身体の一部であるかのように彼の手に馴染んでいた。
「俺の大事な『弟』が、平和を……この街の幸いを望んでる。あいつは、自分を救ってくれたこの街を愛してる……俺は、それを守ってやりてぇ。だから、あんたたちに好き勝手させてやるわけには行かねぇんだ」
 理晨が一歩踏み出すと、彼が同じムービーファンであると同時に、同じく戦いに身を置く存在であることが判るのだろう、少年たちは唇を引き結んで身構えた。
 それを見ながら、ルークレイルは、黙って理晨の隣に立ち、彼から譲られた拳銃、チェコスロバキアという国で造られた具合のいいそれをホルスターから引き抜く。
「……誰にも顧みられず、自分の存在を確かめようと足掻いた過去ならば、俺にもある」
 ぽつり、と零れた言葉は、ルークレイルなりに、少年たちの思いに沿ったゆえのものだった。
 ――両親が死んで、誰からも手を差し伸べてもらえず、底辺の生活をしてきた。
 誰からも顧みられない自分が辛くて、苦しくて、寂しくて、自分に何の意味も見出せないことが怖くて哀しくて、それゆえに財宝という、『人の心を惹きつけてやまないもの』、すなわち、自分とは正反対の性質を持つものに見入られ、それをなんとしてでも手に入れようともがき、昏(くら)い昏い闇の中へと堕ちてゆくことになった。
 だから、ルークレイルには、彼らの虚ろと渇望は近しく思える。
「お前たちは……大きな虚ろを抱えているんだな。あの日の俺と同じく」
 懐かしげに呟くと、
「てめぇに何が判る」
 赤い少年が吐き捨て、ルークレイルは肩をすくめた。
「そうだな、判らない。俺の痛みとお前たちの痛みは別物だ、本人以外がどうにか出来るとは思えん」
「だったら黙ってろ。……さっさと始めようぜ」
 ぎらりと双眸を輝かせ、赤が動く。
 それと同時に青も動いた。
「……やれやれ」
 ルークレイルは息を吐き、隣の理晨と目配せを交わした。
 理晨の目には、強い、折れない意志がたゆたっている。
 小さく頷き交わして、ふたり同時に地面を蹴る。
「青いな……まだまだ、透徹しちゃいねぇ。俺も、――お前らも」
「ほざいてろ!」
 本気の殺意を滲ませた赤が吼え、ナイフを振りかざす。
 生きるためにそうしてきたのだろうか、それともペルシャ神の誰かによって鍛えられたのだろうか、ルークレイルと対峙する青同様に、赤の動きもまたプロの如きそれだった。
 それはつまり、他者の命を思いやることが出来ない、他者の命が失われることがどういう意味を持つのかを、理解出来ていない、ということでもあったのだろう。
「俺には、大事な家族がたくさんいる。俺を大事にしてくれる人たちがたくさんいる」
「自慢かよ……反吐が出るぜ!」
「そりゃ悪かったな。だがまぁ、実際自慢みてぇなもんだ。俺には、佳(よ)き隣人がたくさんいる。だからこそ、俺は俺になれたんだからな。……俺には守るものがある。お前たちの企みを許すわけにはいかねぇ」
 飄々と言った理晨が、赤が突き出すナイフの腹を叩いて力を逸らし、長身とは言え細身に見合わぬ怪力によろめいた少年の腹部に拳を叩き込む。
「……ッ!?」
 さすが、というべきなのか、咄嗟に跳ぶことで直撃は避けたようだったが、それでもダメージは免れなかったようで、理晨から距離を取った赤は、腹を押さえて咳き込んだ。
「てめ、なんだその馬鹿力……本当に、ムービーファンか……ッ!?」
 忌々しげな、警戒を含んだ言葉に、理晨が軽く肩をすくめる。
 理晨の肩にしがみついたブラック&ホワイトのバッキーが同じ仕草をしていた。
「俺みてぇに平凡なムービーファン、そうそういねぇっつぅの」
 嘯き、理晨が更に地面を蹴る。
 そして、とてもではないが三十路後半とは思えない瞬発力、脚力で一気に赤との距離を詰め、
「な……!?」
「……言ったろ、容赦はしねぇって」
 静かな言葉とともに、少年を長い脚で蹴り倒した。
「ぐ……!」
 決して大柄ではない少年は、理晨の一撃に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。すぐに跳ね起きて体勢を整えようとした赤の目の前に、すでに理晨が辿り着いている。
「くそッ!」
「チェックメイト、って言うべきか?」
 赤に身構える暇も与えず、理晨は彼の腕を捻り上げ、時々ルークレイルも被害にあっている尋常ではない腕力、握力を駆使して赤の身体をホールドすると、背後からその首筋にナイフを押し当てた。
 その頃には、ルークレイルも、銃のグリップを使って青のナイフを叩き落し、それと同時に青の脚を払って彼を転倒させると、低く息を詰める少年に銃口を向けた。
 そろそろと身体を起こしていた青が、銃の気配に動きを止める。
「いっぱい殺して、山のように傷つけてきた。……俺は、自分の大事なもののためなら、手を汚すことなんざ、今更躊躇いはしねぇ」
 低く、鋭く、理晨が言い、
「……どうする」
 赤の首筋にナイフを押し当てたままで端的に問う。
 赤が、青が、息を飲むのが判った。
 ――恐らくは、自分の死よりも、片割れに突きつけられた『死』のゆえに。
 ルークレイルは小さく息を吐き、銃口を青に向けたまま、口を開いた。
「俺には、お前たちの痛みも苦しみも、判らんが」
 それでも、察することは出来る。
 その痛みに沿うことは出来る。
 それは、ルークレイル自身が陥っていたかも知れない道なのだから。
「俺の虚ろは、家族と……海賊団の連中と出会ったことで満たされた。それがなければ、俺は今頃、真っ暗闇の中を、血にまみれて歩いていただろう」
「……それが、どうしたと……」
 青が冷ややかな目で見つめ、言う。
 ルークレイルは肩を竦めた。
「お前たちは瑕莫との出会いを運命と呼んだな」
「ああ」
「なら、何故それを、お前たちの意味に出来ないんだ」
「……なんだって?」
「瑕莫が望むから、というお前たちの気持ちも判らないでもないが。だが、俺は、ズルワーンからもたらされる答えではなく、この出会いをこそお前たちの意味にすべきなのではないかと思うんだ」
「師との、出会いを……」
「瑕莫の願いを叶えてやりたいとお前たちは思ったんだろう? そのくらい、彼のことを大切に思っているんだろう? なら、どうして、この街で瑕莫とともに生き、終焉ではない『命の意味』探すという選択肢がないんだ」
「それは、」
「お前たちは、たくさんのものを選ぶことが出来る。生きているとはそういうことだろう? 俺は、自らの未来に在る可能性を潰えさせないでほしいんだ……お前たちのためにも、瑕莫のためにも」
「……」
 ルークレイルの言葉に、青が沈黙する。
「それでもなお、向かって来ると言うのなら、俺もまた、非情に徹しよう。この街には、俺の大切な家族もいるんだ……あいつらを危険に晒すことを、俺は許しはしない」
 厳しく言って銃の引鉄に指をかける。
 と、
「青! くそ、殺すんなら俺を殺せよ、そいつに手ぇ出すな!」
 赤が喚き、理晨の手を振り解こうともがいた。
 ――残念ながら、効果はなかったようだが。
「赤……」
 青が片割れを見やり、泣き出しそうな顔をした。
 年相応の、幼い表情だった。
 それを見て、理晨が静かな言葉を落とす。
「俺にもルークにも『家族』がいる。大事な、大事な連中だ。だけど……俺に家族や兄弟がいるように、お前らにだって、お互いって存在がいるじゃねぇか」
「……ッそれは、」
「お前らの境遇がどういったもんなのか、俺にどうこう言う資格はねぇよ。だが、まず、互いがいる幸いに目を向けなくて、どうするんだよ? 一緒だったからこそ、生きて来られたんだろ?」
「そんなこと、判って……!」
「判ってんなら、決めろ。どっちか失って、片方だけで生きてぇのか。失いてぇのか失いたくねぇのか、そのためにどうすりゃいいのか、自分で」
「……」
「……」
 沈黙が落ちる。
 赤の視線が青を、青の視線が赤を向いている。
 ふたりの双眸が揺れているのが、遠目にも判った。
「てめぇらは……」
 ややあって口を開いたのは、赤だった。
「何だ」
「おっしょさまを、殺す気、なのか」
「殺したくはない。過ちは償える……その気持ちさえあれば。この街は赦しのある場所だ、出来れば彼にも、その輪に加わって欲しい。この場所に実体化できた幸運、お前たちが彼と出会えた幸運を、このまま終わらせてほしくはない」
 赤の問いに、ルークレイルは率直に答えた。
 それは半ば、祈りでもあった。
「……だったら」
 しばしの沈黙のあと、赤がまた口を開く。
「あの人を、おっしょさまを、他の皆を助けてくれ……!」
 言うと同時に、だらり、と手が下がり、戦意が消えた。
「そうだ……てめぇらの言う通りだ。俺は、答えや真実より、青やおっしょさまたちがいる世界がいい。悪いことしたって謝って、罪を償えば、この街で生きることを許されるんなら、俺は、あの優しい人たちと一緒にいられる世界を選ぶ。おっしょさまたちが望んでなくたっていい、俺はそう望む!」
「……判った」
 泣き出しそうに震える赤の声に応え、理晨が少年から手を離す。
 それと同時に、ルークレイルは銃を収めた。
 赤が、地面に座り込んだままの青の元へ走り寄り、抱きつく。
「青!」
「……赤」
「俺、」
「……いいんだ。僕も同じだった……もっと早く気づくべきだった。僕たちは、本当は、幸運なんだってことを」
「……ッ!」
 声を詰まらせる赤、静かに微笑む青。
 そこに光を見い出して、ルークレイルは理晨と顔を見合わせ、笑った。
「あとは……こいつらのおっしょさんを何とかしてこっち側に引き戻せばいいのか」
「の、ようだ。唯瑞貴のことも気懸かりだ……急ごう」
「……理月も心配だしな。行こうぜ」
 頷きを交わし合い、ふたりは植物園の奥に向かって歩き出す。
 赤と青の視線が、背中に注がれている。
 彼らが気づけてよかった、と歩きながらルークレイルが笑うと、隣では理晨もまたかすかに笑っていた。
「どうした、理晨?」
「ん? いや……たぶん、ルークと同じこと考えてた」
「……そうか。なら……」
「ああ。赤と青の『家族』も、こっち側に連れ戻してやんねぇとな」
「そうだな」
 出会えた幸運、そこにある幸い。
 それを真実とするために、ふたりは進む。



 4.修羅と大魔

「……あんたらが、戦神か」
 暗い植物園の一角。
 巻き添えにする植物もない、レクリエーション用と思しき広場の真ん中に、大柄な男と妖艶な女とが佇んでいる。
「お前は……もしや、噂に聞く修羅か? 私たちは、人を待っているのだがな」
「俺のことを知っとるんか? 俺は……昇太郎(しょうたろう)、て言うんじゃ。あんたらに用があって、来た」
 昇太郎は神殺しの剣を手に、大怒魔アエーシュマと虚偽の大魔ドゥルジの前に立った。
「俺たちがなにものかを知ってここにいる、ということは……対策課とやらの依頼で来たか。待ち人の前に、まず一戦といったところだな」
 血塗れの大剣を手にした屈強な男、猛々しい空気を全身にまといつつも、何故か晴れやかな闊達さを滲ませた、とても悪神とは思えぬ雰囲気を持つアエーシュマが、昇太郎に向けて一歩踏み出す。
「その、剣……」
 アエーシュマの目が、昇太郎が手にした西洋剣を見つめ、その後細められる。
「……下手に喰らえば、俺も死ぬ、な」
 小さな呟きに、昇太郎は答えず、身構えた。
 答えぬことが、肯定だった。
 これは、はるかな昔、昇太郎が、心底愛した女を――世界を律するシステムそのものであった『神』を殺し、その血を浴びたために、神属の存在に対して絶大な威力を誇るようになった剣だ。
 悪神であり武神でもあるアエーシュマやドゥルジならば、滅することも可能だろう。
 無論、昇太郎自身は、それを望んでいるわけではないのだが。
「ならば、始めようか」
 アエーシュマが、身の丈ほどもある大剣を軽々と掲げ、一歩踏み出す。
 昇太郎もまた、彼を見据え、一歩踏み出す。
 ドゥルジは、戦うつもりはないのか、一歩退き、ふたりの戦いを傍観する構えを取った。
 昇太郎はそれを確認し、――次の瞬間、アエーシュマと同時に地面を蹴った。

 ぎゃ・がッ、ぢぃん!

 ふたりが剣を合わせ、組み合うと、周囲に激しい火花が散る。
 互いに一歩も譲らず、非常識な膂力で押し合ったのち、後方に跳んで着地とともに地面を蹴り、その反動で再度剣を振り抜く。
 水平に、流れるように……隼のように早いそれを、アエーシュマはいっそ流麗ですらある動きでかわし、普通の人間ならば持ち運ぶことさえ不可能な大剣を頭上から振り下ろした。
 振り下ろすという、下手をすれば致命的な隙を与えてしまう類いの大きなモーションでありながら、それは異様に速く、昇太郎は水平に構えた剣でアエーシュマの大剣を受け、力を殺して流しながらまた後方へ跳んだ。
「俺は……」
 強い意志をにじませながらも静かなままの瞳でアエーシュマを見つめ、昇太郎はつぶやく。無論、アエーシュマに聞こえていると知って、だ。
「『修羅』やった。魔物との闘いのためだけに生きるもんじゃった。いや、いまでもそうじゃ。ただ、『それだけ』やない、て知っただけで。……あんたらを見てると、昔の自分を思い出す」
 愛した女の望みをかなえるために彼女を殺した。
 結果、生命の循環を司る機関である『天』もまた滅びることとなり、昇太郎はその償いのために――ひび割れた『天』を繕うために、長い長い放浪を繰り返し、何千年もの時間を費やしてきた。
 彼ら戦神を見ていると、その己を思い出す。
 昇太郎の薙いだ剣の切っ先が、アエーシュマの肩口を抉った。
「……ふむ。やはり再生せぬ、か……」
 アエーシュマはそれを何でもないことのように言ったのち、血染めの大剣を昇太郎の心臓目がけて突き入れる。ごう、と風が唸るような音が、剣閃の速さを物語っていると言えるだろう。
 舞うような動作で身をひねり、急所への一撃を避けた昇太郎だったが、
「それだけとは思わぬことだ」
 アエーシュマが言うように、彼の手の中でくるりと踊った大剣が、目にも留まらぬ速さで宙を斬り、昇太郎の脇腹を決して浅くなく抉って行く。
 熱のような痛みが弾けるが、今更痛みに頓着するような精神は持ち合わせておらず、昇太郎は眉をほんの少し動かしただけだった。ただ、昇太郎の周囲を飛びまわる金色の鳥が、彼の傷を癒すべく一声鳴き、――それが果たされぬことを知って戸惑った声を上げただけだ。
「……あんたも、か」
「神を殺す能力がお前にあるように、死を持たぬものにすら死を与えるのが、すべての暴虐の中心たる俺だ」
「……そう、か」
「だが、それで怖気づくお前ではないだろう、修羅よ」
 アエーシュマは愉しげだった。
 昇太郎は唇を引き結び、剣を構える。
「……そないにしてまで、戦うために生きたいんか」
 戦いは不毛だ。
 そして、非情だ。
「……なら、俺が、叶えちゃるけぇ」
 昇太郎が感じたそれは、憤りだったのか、それとも苛立ちだったのか。
 自分自身とひどくよく似た道を歩いてきた彼らへの。
 ――何にせよ、昇太郎には珍しい感情だった。
 昇太郎自身、自分がこんな色彩の感情を持っているのかと、ほんの少し不思議に思ったほどだ。
「せやけど」
 剣の柄を握り直し、じくじくと痛みと熱を訴える脇腹のことは完全に無視してアエーシュマと向き合う。
「そないなもん、あんたを完全にする、救いにはなり得んのじゃ。……それを、教えちゃる」
 戦いのために生きたいのなら生きればいい。
 だが、そこに十全などないのだ。
 あとに残る虚しさを、無を、掻き消してくれるものではないのだ。
「……はは」
 しかし。
 アエーシュマは、やはり、愉しげなままだった。
 かすかに漏れた笑い声もまた、どこか楽しげだ。
「そもそも、十全などとは思っておらぬ」
 それは苦笑だったか、自嘲だったか、それとも甘受だったのか。
「……?」
 昇太郎が眉をひそめると、アエーシュマは穏やかな表情で言った。
 穏やかな表情のまま距離を詰め、手首を返して大剣を振り下ろす。
「修羅よ……この街で救いを得たお前を羨ましく思うぞ。だが……違う」
 がぢり。
 常人ならば得物ごと叩き折られ肉塊にされているであろう大剣を、剣で受け止める。
 ぎちぎちと押してくるアエーシュマの怪力を、あまり人のことは言えない腕力で押し返しながら、彼の次の言葉を待つ。
「戦いは――……闘争は我らの存在意義そのもの。今更それを拒絶はせぬ。俺は俺たちの意義を全うする。お前が、最後のひとかけらとして、天に解けることを選択するように」
「? ……なんやて、何て言うた……?」
「……いや、こちらの話だ……気にするな」
 かすかに肩をすくめて言ったあと、アエーシュマが大剣を跳ね上げた。
 剣を弾き飛ばされるほどではなかったが、咄嗟のことで反応しきれず、昇太郎は後ろによろめき、たたらを踏んだ。無論、次を許すほど不慣れでもなく、すぐに体勢を整えて剣を構え、距離を取る。
「俺は、知りたいだけだ」
「……何をや」
 昇太郎の言葉に少し笑い、アエーシュマは問いとは別のことを口にした。
「俺は悪神として救世主に斃されるために存在している。そのすべてが俺という存在をかたちづくる要素であり、俺の意味だ」
「それは、判る。この街に来てまで、て思うけど……あんたにとっては、その全部が、あんた自身を立たせる意味で、手段なんやな」
「そうだ。それゆえに俺は渇望している。滅びることそのものが、俺を立脚させる手段であるがゆえに、俺は、満ち足りた最期とはなんであるのかを知り、見届けたいと思う」
 その頃には、もう、昇太郎は自分の勘違いに気づかされていた。
 この男は、戦うために存在する戦神でありながら、戦いそのものを望んでいるのではないのだと。
 ただ、その中に含まれる、無数の結露を目にしたいという、それだけのことなのだと。
「……お前の、満ち足りた最期とは何だ、修羅よ」
 無論、そこに死が大前提として存在する限り、昇太郎にそれを認めることは出来ないのだが。
「俺の、最期、か……?」
 静かに言葉を交わしながらも、ふたりは激しく剣を合わせていた。
 剣と剣が激しく打ち合わされて火花が散り、断末魔のように金属が哭(な)く。
 しかし、それだけ激しい戦いの最中でありながら、昇太郎の心は静かに凪いでいるのだった。――恐らく、アエーシュマもまた。

 ぢぃん!

 剣と剣が噛みあわされ、高く鋭く哭く。

 実力は拮抗していた。
 どちらも、互いの得物によってあちこちを傷つけられながらも、それが決定的なダメージにはなっていない、そんな状況だった。
「満ち足りた、終わり……」
 小さくつぶやき、昇太郎は踏み込む。
 神殺しの剣を横に滑らせ、斜め上に跳ね上げて、アエーシュマの首筋を狙う。
「――……速いな」
 アエーシュマが愉しげに笑った。
 その、悪びれない闊達な笑みを見て、昇太郎も、知らぬ間に苦笑していた。
 と、そこに。

 びゅっ。

 黒い、大きな影が、飛び込んできた。
「……来たか」
 アエーシュマの声に嬉しげな色彩が滲む。
「この勝負……俺にお預けいただきたい」
 昇太郎の剣と、アエーシュマの大剣を篭手で止めながら静かに言ったのは、昇太郎の故郷の国とよく似た印象の衣装を身にまとった、隆々たる体躯の壮年の男だった。
 昇太郎もアエーシュマも尋常ではない怪力の持ち主なのに、男は、ふたりの得物を防ぎながらも、特に辛そうな表情も見せてはいない。
「……何もんじゃ、アンタ」
 小首を傾げて昇太郎が問うと、巌のような顔を綻ばせて男は答えた。
「我が名は千曲仙蔵(ちくま・せんぞう)。大怒魔アエーシュマと虚偽の大魔ドゥルジを主君と奉じるものだ」
 どこか誇らしげな名乗り。
 ことの次第は判らないものの、そこに揺るぎない決意と覚悟とを感じ取り――そして更に、この男にすべてを任せた方が巧く行くという直感のようなものがあって――、昇太郎は小さくうなずいて剣を引いた。
 彼とアエーシュマの間に、そして一連の戦いを見守っているドゥルジとの間にも、何か、口出ししてはならない空気を感じたからだ。
「判った……見届けるけぇ」
 昇太郎が言うと、仙蔵は目礼だけで謝意を表し、アエーシュマと向き合った。
 手には、昇太郎が故郷から持ち出したものとよく似た造りの刀があった。
「……始めようか」
 アエーシュマが言い、仙蔵が頷く。
 昇太郎はそれを、静かな眼差しで見つめていた。
 ――脳裏に、満たされた最期のことを思い描きながら。



 5.約束

「誓いを果たしに参った」
 千曲仙蔵は胸の昂揚を抑えながらアエーシュマと向き合い、言った。
 アエーシュマとドゥルジを止める。
 そして、心から信じ、仕えることの出来る主を得る。
 今の仙蔵は、ただひたすらそのためだけに行動している。
「……主君に刃を向ける無礼、今はお赦しになられよ」
 もちろん、主たる二柱と闘うことに葛藤がないわけではない。
 しかし、自分たちを止めてくれ、というアエーシュマの言葉に従うことが今の仙蔵の総てであり、なすべきことだ。
 ――生きて欲しい。
 償いのための手伝いならば、命をかけてする。
 新しい道を、未来を、模索して欲しい。
 闊達に笑う二柱の、あの笑顔が偽りだとは思えない。
 きっと、すべてが終わったら、彼らは、銀幕市の諸々に対して佳き隣人となるだろう。そして、佳き主人として、仙蔵に光を与えてくれるだろう。
「罰は、のちほど。今は……主命を果たすのみ」
 アエーシュマの、ドゥルジの言葉が、心が、仙蔵の闘志をたぎらせ、覚悟と力とを与えてくれる。
 ――滅ぼすためではない。
 罰を与えるためでもない。
 己が願いのためにのみ行動する自分が、他者の渇望をどうこう言えるはずもないのだから。
 ただ、生きて欲しい。
 自分自身のために、そして仙蔵のために。
 彼は、そんな利己のために戦う。
 それでいいと思っている。
「全身全霊で……参る」
 忍者刀を手に、仙蔵は身構えた。
 ふつふつと力が湧いてくる。
 実は、仙蔵は、普段の自分の力では相手にならないと判断し、忍薬『秘仙丹』を使用していた。
 『秘仙丹』は彼の里に伝わる最高峰の秘薬だ。
 何年もの時間をかけて熟させ発酵させた様々な薬草を練り込んだもので、痛覚を鈍らせ、普段使われていない筋力も限界ギリギリまで使用可能にする奥の手だ。痛覚を完全に遮断してしまうのはかえって危険なため、あくまで痛覚を鈍らせているだけだが、躊躇いのない戦い方が出来るようになることは間違いない。
 とはいえ制約がないわけではなく、限界ギリギリまで身体を酷使できるようにするため、使用後のケアには万全を期さねばならないが、アエーシュマとドゥルジとの戦い以外まったく念頭においていない今の仙蔵にとっては、それはどうでもいいことだった。
「……行くぞ」
 重々しく告げてアエーシュマが地面を蹴った。
 仙蔵と同じか、それ以上の隆々たる体躯でありながら、その動きは軽やかで速い。
 仙蔵もアエーシュマと同時に走り出していた。
 仙蔵自身、身体つきに似合わぬ俊敏さを有しているのもあって、ふたりはあっという間に向き合っていた。
 アエーシュマが笑う。
 偽りのない、ただ嬉しげな顔で。
 ――それだけで、仙蔵の覚悟はますます固くなる。
 あの笑顔の傍らにあって、彼らを守るのだ、と。
 びゅう、と血塗れの大剣が鳴いた。
 優れた動体視力を活かしてアエーシュマの筋肉の動き、手や視線の方向を読み取って、薙ぎ払われる大剣を微妙な角度を持たせた忍者刀で受けると、するりと力を殺してダメージを相殺し、アエーシュマが離れる前に返す手で刀を揮う。
 胴を薙ぎ斬るつもりで放った、居合いにも似た一閃を、アエーシュマがわずかに身体をずらすことで避けるのを読み、更に一歩踏み込んで刀を突き入れる。
「む」
 瞠目したアエーシュマが唸り、
「……ほう」
 ドゥルジが小さく感嘆の声を上げるのが聞こえた。
「見事なものだ」
 その賛辞に胸が熱くなる。
 我ながら単純なことだ、と胸中に苦笑しつつも――そして、そんな相手が今の自分にはいるのだと幸福すら感じつつも――、仙蔵の動きにはよどみがなく、羽毛のように軽やかだ。
 突きを避けられたことで自分に出来た隙をカバーすべく、背後にではなくむしろ前方に突っ込み、刀で斬り払うようにしてアエーシュマを後退させながら距離を取る。
 体勢を整えると同時に地面を蹴り、再度大剣と刀で組み合う。
 前後左右から恐ろしい速さで襲い来る血濡れた大剣をかわし、掌で打ち払い、刀で受け止めて受け流しながら、宙を奔るがごとき滑らかな動き、速さで刀を揮い、隙を狙って何度も打ち込む。
 そんな、真剣勝負のような――しかしどこかじゃれあいのような――命のかかった戦いを、十分も二十分も続けた。
 仙蔵自身、のちに、あれほど胸が躍った時間はなかったと、この戦いを満足げに……懐かしげに語ったものだ。
「やはり……お強い。さすがは……」
 さすがは俺の主君だというのろけにも似た言葉は飲み込んで、パッと離れ後方へ跳びながら、目にも留まらぬ速さで手裏剣を投擲し、アエーシュマが大剣でそれを弾くのを見つつ着地と同時に跳躍、アエーシュマへと間合いを詰め、素早い動作で刀を振り払う。
「む」
 それを、素早く大剣を立てたアエーシュマが受け止めた。
 視線が絡み合う。
 と、仙蔵を見つめるアエーシュマの目、血のように赤い双眸が、やわらかく……慈しみを含んで細められた。
「お前の答えはどうだ、仙蔵よ」
 組み合ったまま、アエーシュマが問う。
 その問いの意味が、仙蔵には判った。
 互いに全力で押しながら、一歩間違えばどちらかが即死する戦いを繰り広げながら、ふたりの間に通う空気は静謐だ。
「お前にとっての満ち足りた最期とは、何だ」
 アエーシュマの再度の問いに、仙蔵は一瞬、瞑目した。
 充足のある死。
 悔いのない終焉。
 ――今更、死など恐れてはいない。
 命を賭して仕える主人を欲した時点で、己が生などなきも同然。
 生きる意味、意義を主君の傍らに見出すのならば、答えなど初めから決まりきっていた。
「貴殿らのために斃れる、それのみ」
 きっぱりと断じると、アエーシュマが虚を突かれたような表情をした。
 それがほんの一瞬の隙になったのを、仙蔵は見逃さなかった。
 ――その一瞬を逃せば、あとは消耗戦になり、自分の勝機が遠ざかるばかりになるということも。
 仙蔵は全身に闘気を漲らせた。
 爪の先、髪の毛一筋一筋にまでエネルギーが満ちていく。
 それと同時に、酷使し過ぎた身体のどこかで、繊維がぶつぶつと切れていく音が聞こえたが、仙蔵は一切頓着しなかった。
 全身の筋肉が盛り上がる。
 アエーシュマがそれに気づいて態勢を整えるよりも速く、

「うお、お、おおおおおぉッ!!」

 裂帛の気合とともに仙蔵は吼えた。
 そして、渾身の力を込めてアエーシュマを弾き飛ばし、
「ぬ、」
 わずかによろめく彼の懐に飛び込むと、
「……ご免!」
 忍者刀を揮って、血塗れた大剣を打ち据え、叩き落した。
 同時に流れるような動作で、アエーシュマに切っ先を突きつける。
「勝負、ござったな」
 弾け飛びそうに鼓動する心臓を宥めながら、仙蔵が静かに言うと、
「……そのようだ」
 アエーシュマは晴れやかに笑って頷いた。
 それからゆっくりと立ち上がり、仙蔵の肩を叩く。
「無体を言ったな……済まぬ、礼を言う。お前の戦いぶり、見事だった。お前と剣を交えるは、胸が躍ったぞ」
「勿体のない、お言葉……」
 仙蔵は片膝をつき、こうべを垂れた。
 秘薬の効果が切れ始めたのだろう、全身を鈍く重苦しい痛みが侵食し始めていたが、今の仙蔵には、それすら誇らしく、愛おしかった。
「ならば、ドゥルジ」
「ああ」
「俺たちは、師に背かねばならんな」
「……そうだな、約束を守らねばなるまい」
 頷き、答えたあと、ドゥルジが、
「無論、私の欲する真実は、まだ満たされてはいないが……それもまた、償いの日々の中で明らかになるのだろう」
 そう言った時だった。
「答えなんて、ひとつだけではないと思いますよ」
 静かな声は、後方から響いた。
「おや、貴殿は……」
 振り向くと、そこには、純白の髪と肌に真紅の目をした、繊細な美貌の少年が佇んでいる。
 ジャーナルでもよく見かける顔だ。
 確か、吸血鬼の少年で、名をアルと言ったか。
 どうやら彼も、対策課で依頼を受けて来たものであるらしい。
「……どういうことだ?」
 アルに目を向け、ドゥルジが問うと、
「ああ、僕はアルと言います。こんな場面で口を差し挟んで申し訳ありません。ですが……あなたの渇望をお聞きして、どうしてもこれだけは、と思ってここまで来ました」
 少年吸血鬼は丁寧に名乗ったあと、まっすぐに彼女を見つめた。
「心はひとつではありません。僕とあなたがたの考え方が違うように、たとえば同じ花を見ても感じ方が違うように、心に同じものなど何ひとつとして存在しないのでしょう」
「ふむ?」
「僕はそれを、この世界に来て知りました。同時に、個人の心もまた、必ずしも一方向のみを向いてはいない。……僕の心もまた、百様と称して間違いないのです。喜び怒り哀しみ楽しみ、幸いと感じ苦痛と感じ、憤り悔い過ち、憎み許し、拒絶し受け入れ、多種多様に変化しながらここまで来ました。僕はそこに、こころの真実を見い出します」
「それが、お前にとっての答え、か?」
 目を細めてドゥルジが言うと、アルは瞑目し胸を白い手で押さえた。
「……真実は無数にあるのでしょう。誰かにとっての真実が偽りであるように、ひとつの偽りは逆向きに見れば真実なのでしょう。だから、何ひとつとして決め付けることは出来ないのではないかと、僕は思うのです」
 アルの言葉は淡々としていたが、真摯でひたむきだった。
 それは、彼自身がこれまでに得てきた救い、与えられてきた心を思わせる。
「ドゥルジさん、あなたは……いえ、あなた方は、と表現するべきなのでしょうね、あなたもアエーシュマさんも、悪神に属しながら誠実な性質をお持ちです。それゆえに今回の、一連の事件を起こされたのだろうと思います」
「それは買いかぶりだ、私たちは私たちの望みのゆえに、この街に牙を剥いたに過ぎぬ」
「そうですか? いえ……ならば、尚更、納得する答えが見つかるまで見守り続けるべきなのではないかと」
 アルが言うと、ドゥルジはまじまじと彼を見つめ、そして苦笑した。
「お前たちは……不思議だな」
「不思議? 何故です?」
「街を危機に晒したものにまで、そうやって赦しの言葉を投げかける」
「……ああ」
 アルもまた苦笑した。
「僕もまた己が欲望のために罪を犯しました。そしてそれを悔いてもいません。僕は僕の心に従った……ならば、罪を受け入れながら前を見つめることこそが、第一の償いであるように思うのです」
「なるほど」
 ドゥルジが頷き、アエーシュマを見る。
 恐縮する仙蔵に肩を貸しながら、アエーシュマが頷いた。
 その傍らへ、昇太郎が歩み寄る。
「ならば、我らに救いと赦しを投げかけてくれた愛しき隣人たちのためにも、罪の償いと、未来の構築を。……師の、元へ」
 どこか晴れやかなドゥルジの言葉に、仙蔵は全身を覆う気だるさも忘れて笑っていたし、まだ事件は終わっていないと知りつつ、自分を支えてくれるアエーシュマの手の感触に、仙蔵は幸福を噛み締めていた。
 彼は彼の主命を果たした。
 ――そして、彼の元には、待ちわびた存在がやってくる。
 それ以外、それ以上の喜びを、仙蔵は知らない。



 6.思考――コギト・エルゴ・スム

 植物園の中央に位置する広場は、白く燃える熱のない光に埋め尽くされていた。白々と輝くそれはひどく美しく、神秘的で、この場に不可視の、強く神々しい力が満ちていることが判る。
 陣から漏れ出たこの神威が、アーリマンのものであるのか、それとも招かれようとしているズルワーンのものであるかは不明だが、何にせよ、強い力が陣の中に渦巻いていることは確かだ。
 ブラックウッドは、それを、対策課で行き逢った今回の同行者たちとともに見つめていた。
 ――脳裏を、対策課に届いた、匿名の手紙の送り主に関する思考が過ぎる。
 差出人は、至高神ズルワーンを喚ぶための結晶と陣を用意しながらも、それを止めて欲しいと思った、彼らのうちの誰かではないかとブラックウッドは思っている。そしてそれは、外れていないだろうとも。
「……ブラックウッドさん」
 聞き慣れた声に、ブラックウッドが振り向くと、そこには、見慣れた出で立ちの漆黒の傭兵が佇んでいる。隣にいるのは、先の事件でも一緒になったことがある、守月志郎という男だ。
「ああ、理月君。そろそろ来るだろうと思っていたよ」
 ブラックウッドが微笑んで言うと、理月はいつも通りの、彼らしい、邪気のない笑みをみせて頷いた。
 それから、一面を埋め尽くす白い光を訝しげに見遣る。
「これは……?」
「恐らくは、彼らがこれまでに集めていた結晶だろう」
 答えたのはベルナールだった。
 彼もまた、この一連の事件において、これまでにも、何度も顔を合わせている人物だ。
「……俺たちにも見えるんだな、……ッ!」
 言いかけた理月の顔が強張る。
 ブラックウッドにはその理由がよく判ったので、理月を宥めるように背を撫でてやり、落ち着かせながら耳元に囁いた。
「大丈夫だ、まだ、間に合う」
 純白の光で彩られ描かれた不思議な、巨大な文様。
 一般的な民家がゆうに十は入るだろうその広場の中央に、黒い衣装を身にまとい、周囲に青い燐光を発する蝶を舞い飛ばせた唯瑞貴が座り込んで、ぼんやりと夜空を見上げている。
 そこには、何の表情も浮かんではいない。
「早く助けねぇと、」
「判ってるよ、ンなこたぁ。俺たちもここについたばっかりなんだ、様子見くらいさせろ」
 不機嫌そうに言うのは、ミケランジェロだ。
 神秘的な紫の双眸には、隠しきれない苛立ちが揺れている。
「……タマ、なんでそんなイライラしてんだ?」
「タマじゃねぇ」
「んじゃミケ」
「……あいつらみたいな勝手な奴を許せるほど、俺ァお人好しじゃねェんだよ」
 彼らの引き起こした一連の事件によって渇望の毒を埋め込まれ、苦しみを舐めた男の苦々しい言葉に、理月がああ、と頷く。
「だけど……俺は、あいつらのこと、憎めねぇんだよ」
「ぁあ?」
「……あいつらの抱いている渇望とか、存在の根幹への問いは、誰のものでもあるんだろ」
「だからなんだ? 実体化して何かを失ったのぁ、ほとんどのムービースターが同じだろうが。誰だって苦しんで悩んだんだ……それに納得せずに事件を引き起こすなんざ、単なるヴィランズじゃねぇか」
「ホント、イライラしてんだな、ミケ」
「うるせェよ、悪かったな短気で。……答えが欲しいなら自分で探せ、人様に迷惑かけんじゃねェってことだ。他者から与えられる言葉に、絶対の救いなんぞあるはずがねェんだからな」
「……絶対なんて求めてねぇと思うけどな、俺は」
「あ?」
「……いや、いい。多分、今のあんたと俺は、全然違うことを感じてるし、考えてる。ここで議論してる暇もねぇだろ」
 肩をすくめて言った理月が、白い光を踏み越えて、さっさと唯瑞貴に近づいていく。ベルナールがその後を追った。
「……」
 がりがりと頭を掻き、溜め息をついて、ミケランジェロが続く。
「……どう、思うね」
 抵抗はしないが彼らの言葉に反応もしない、抜け殻のような唯瑞貴を、三人が担ぎ上げこちらへと連れ帰るのを見ながら、ブラックウッドは傍らに佇む男に声をかけた。
「どう、と申されますと?」
 返った声は静かで、理知的だ。
 彼は、マイク・ランバス。
 ブラックウッドと同じく、この渇望を根幹とした一連の事件に関わってきた人物だ。
「ペルシャ神群と、ズルワーン神と、だよ」
「……ああ」
 柔和な面にかすかな笑みを載せ、マイクが頷く。
「他の文献を見たところ、ズルワーン神とは創造神であり、最初は善のみを創られたが、『善のみで人は本当に幸福になれるのか?』との疑問から悪を創りだされたとあります。例え降りてこられたとして、私にはズルワーン神が全てを無に還すとは思えません」
「ふむ。悪神アンラ・マンユが生まれた経緯だね。私の持つ文献では、善のみの存在など創ることが出来るのだろうか、と疑問に思ったがためにアンラ・マンユが生まれ、世界は闘争の時代に入った、とあるよ。【ツァラトゥストラはかく語りき】という映画の内容から察するに、かのアーリマンが悪そのものの性質であるとはとても思えないが……興味深い」
「はい」
 これは私の希望の混じった推測ですが、と断ってマイクが言葉を継ぐ。
「ズルワーン神は善悪、両方の存在を認めています。それは絶対的な祝福です。どのような性を持っていようと、そこに在る以上、その存在は許されているのです。……己の存在意義は、己と向き合うことで探すしかありません。他者の渇望、願望を見つめるだけでなく、それとともに己の内面と向き合わねば何も得られはしません」
 ですから、とマイクが更に言葉を継いだ。
「私は、瑕莫さんに、申し上げたいのです。すべての人々と、すべてのことを話そう、と。たくさんの思いが、たくさんの魂の中に存在すると、この事件に関わる人々が深く気づければ、一連の事件は収束する気がします」
「ああ、概ね同じ意見だよ、私も。特に、彼らの求めているものに関してはね。結晶は陣の効力を上げるための触媒でもあるのだろうが、それと同時に、彼らがまず、他者の様々な結晶を見たかったのだろうと思うのだ。彼ら自身が己の結晶のかたちを知りたいがために、ね」
「はい」
「かの至高神は、創世にあたってもっとも善にして全なる存在を創ろうとしたが、ふと生じた迷いから善神と悪神が生まれたという。……迷いより生じた神々なればこそ、産まれ落ちたその時から、彼らの内には宿命的に己の存在への迷いがあるのだろうかね」
「そうかもしれません。ですが……人間もまた、同じことでしょうね。絶対、唯一と言いながら、私の神もまた完全ではありません。このようなことを言えば、不敬だとお叱りを受けるかもしれませんが、完璧ではないものから生み出された存在が、完璧たり得るとは私には思えない」
「だからこそ、彼らの見せる結晶は美しく、力を孕む……か」
「ええ。結晶の光がズルワーン神をこちらへと呼び寄せる灯火になるのは、決して完璧ではない神々にとって、それがとても眩しく感じられ、惹きつけられ引き寄せられるからなのでは、と」
 油断なく辺りを伺いながら、言葉を重ねる。
 三人に担がれて、唯瑞貴が陣の外へ運び出される。
 『器』である唯瑞貴が外へ出ても、陣そのものに変化はなく、何かが起こる様子もなかったが、ブラックウッドの鋭敏な感覚は、旧い大きな力を持った何者かが近づいて来ていることを感じ取っていた。
「『器』は……」
「どうなさいましたか、ブラックウッドさん」
「……いや。もしやそれもまた、絶対的な必要条件でありながら、要素のひとつでしかなかったのではないか、と……」
 一瞬、背筋が冷やりとした。
 『器』たる唯瑞貴を『取り除いて』も、結晶で描かれた白い光の陣には静謐で神秘的な力が満ちている。
 それは、一種の完成した『場』だった。
 陣の傍に、瑕莫を筆頭としたペルシャ神群、『根付いた者』と呼ばれる人々がひとりもいないことが、ブラックウッドにそれを確信させた。
 そう、陣はすでに完成しているのだ。
 そして、至高なるものの訪れを待っている。
「……」
「ブラックウッドさん?」
 訝しげなマイクの言葉には答えず、ブラックウッドは慎重に陣を調べ始めた。
 ――何かが迫ってきている。
 圧迫感が、少しずつ大きくなる。

 * * * * *

「唯瑞貴、しっかりしろ、唯瑞貴」
 虚ろな目を見開いたまま宙を見ている唯瑞貴を抱き締め、理月が呼ばわるのを、ベルナールは周囲を警戒しながら見つめていた。
 『器』はズルワーン現出のための扉であるという。
 それゆえに、広大な虚ろを抱えていた青年剣士は連れ去られ、『中身』を空っぽにされてしまったのだ。
 『器』とは入れ物のことだから、この入れ物がなければ儀式は成功しないのだとして、彼を『破壊』してしまえばそれは成功する。
「……だが、それではあまりに……」
 ベルナールには唯瑞貴との面識はない。
 ジャーナルで読んで知っている程度のことだ。
 これが、故郷でのベルナールならば、主人を、国を守るために非情に徹することも出来ただろうが、今の彼は様々な経験をし、様々な考え方、心のありように触れて少し変わってきている。
 主人と分かたれたままの己を苦しく思いながらも、この街での邂逅を喜び、例え自分たちの世界が映画という『創られたもの』であったとしても、純然たる真実は存在するのだと、己が魂に偽りなどないのだと確信を深めているベルナールだ。
 ……それは甘さではない。
 単純に、彼の意識が研ぎ澄まされ、透徹してきている、というだけのことだ。
 しかし、それゆえに、可能性を投げ捨てて一足飛びに乱暴な手段に訴えることは出来なかった。
「唯瑞貴……皆が待ってる、一緒に帰ろう」
 理月が唯瑞貴を呼んでいる。
 その背後で、煙草を咥えたミケランジェロが、鋭い眼差しで周囲を伺っていた。
 ――恐らく、ミケランジェロもまた感じている。
 『器』を取り除いてなお、陣に神威がたゆたい、なおかつそれが徐々に強くなってきていることを。
「『器』は重石だと、言ったか……?」
 どこかで、何かで見た気がする言葉を、おぼろげな記憶から掘り起こしてベルナールは呟く。だとすれば、唯瑞貴をこうして救出したからと言って、安心することは出来ない。
 ――出来ないが、
「唯瑞貴殿、しっかりなされよ。貴殿のお戻りを心待ちにしている者たちがいるのだぞ」
 唯瑞貴を放っておくこともできない。
 ベルナールは小さな声で呪文を繋ぎ、ぽっかりと目を開けたまま沈黙する唯瑞貴の周囲に鏡を創り出した。
「肉体と精神は密接につながっている……どれほど綺麗に『洗浄』を行ったとしても、それは変わらぬ」
 神々のなしたことであれ、咄嗟に正気づいて殺してくれと懇願したという唯瑞貴の様子を鑑みるに、肉体に精神の痕跡が染み付き残っていることは疑いようがない。
 鏡を創りだし、唯瑞貴に、自分自身が見えるようにしたのは、自分の身体に、記憶や経験につながるものがあると知っていたからだ。
 ちなみに、ベルナールは知らないが、これは、今は後方で周囲を警戒しながら唯瑞貴たちの様子を見守っている守月志郎が、クロノスの依り代となった久我正登に対して行ったのと同じ方法だった。
「姿を認識させることは、心を呼び戻す足掛りになるのではないか」
 ベルナールが言うと、理月は頷き、『鏡』に唯瑞貴を向き合わせた。
「唯瑞貴。思い出せ……あんたがどういう人間か、どういう風に大事にされてきたのかを」
 唯瑞貴は動かない。
 だが……鏡に自分の姿が映った時、ほんの少しまつげが揺れた気がしたのは、ベルナールの気の所為だっただろうか。
 ――対策課で依頼を受けてやってきた人々が、三々五々到着したのはこの辺りだった。
 シャノン・ヴォルムスとルイス・キリング、女神アナーヒターをつれた狩納京平。女神ハルワタートとアムルタートとともにやってきたのは仔狸の太助で、ルークレイル・ブラックは月下部理晨と同行していたし、昇太郎とアルは、大怒魔アエーシュマと虚偽の大魔ドゥルジに身体を支えられた満身創痍の千曲仙蔵を気遣いながらやってきていた。
 敵対していたはずの神々と何があったのかは知らない。
 しかし、人々の真摯な言葉が、行動が、神々の心を開かせここに集わせる理由となったのだということは、判る。
「唯瑞貴さん、しっかりしてください」
 声をかけたのは、白い肌に白い髪、赤い目の、美しい少年だった。
 ジャーナルで何度も姿を見かけたことがあるので、彼のこともベルナールは知っている。
「ゲートルードさんから、あなたへの思いを預かってきましたよ」
 少年はそう言って、座り込んだままの唯瑞貴に向かって屈み込み、彼の額にキスをした。
 聖人の祝福のようだ、とベルナールは思った。
「ゲートルードさんの中の、あなたの記憶と思い……お返ししますね」
 アルの白い指先が、慈しむように唯瑞貴の額を撫でる。
 それと同時に、唯瑞貴の身体がびくりと震えた。
 たったそれだけのことだったが、唯瑞貴の頬に、ほんのわずか赤みがさしたことを、誰もが見て取っていた。
「……唯瑞貴、思い出せ。お前の中にも結晶がある……俺の中にもあるように」
 言って、理月に抱き締められたままの唯瑞貴の元に屈み込んだのは、ルークレイルだ。
「想いは心だけに宿るものじゃないと信じる。積み重ねてきた生と想いはまだお前の中に在るんだ……お前を、何も知らない連中に単なる『器』とは言わせない」
 ルークレイルの、長くて武骨な指先が、唯瑞貴の頬をなぞる。
「虚ろを抱えていたとしても、虚ろそのものではなかった。だからこそ、皆がお前を案じ、取り戻したいと願うんだろう?」
 彼の眼差しもまた、真摯で、まっすぐだ。
「だから、戻って来い……まだ、立ち去るには早すぎる。それじゃ、面白くないだろうが」
「……その言い方、ルークらしい」
 口を挟んだのは、出で立ち以外理月とそっくり同じ青年だった。
 理月を演じた俳優、月下部理晨だ。
「当然だ。俺が俺らしくなくて、どうする」
「だな」
 ルークレイルの物言いに、くすり、と笑った理晨が、唯瑞貴の頭をなでた。
「あんたって存在が、俺の大事な『弟』の日々に彩を与えてくれたことを感謝する。俺の我儘なんだけどな、それも。……この際だから、我儘ついでに言うぜ? 理月のためにも、あんたには、戻って来てもらわなきゃ困るんだ」
 理月のためと言いながら、唯瑞貴を案じる色彩を滲ませ、戻って来いと告げる。
 ――また、唯瑞貴のまつげが揺れた。
 その時だった。

 ごぼり。

 音がした。

 ごぼ、ごぼり。

 何かが沸き立つような、溢れ出るような、そんな音だった。
 ――そして、唐突に圧し掛かる、絶大なる神威。
「からだ、が……!?」
 誰かが驚愕の声を上げた。
 ベルナールもまた、息を詰めていた。
 身体が重い。
 物理的に何かをされたわけではない。
 単純に、あまりにも強大な神威に晒された所為だ。
「……来やがったか」
 ミケランジェロがうっそりと呟き、モップの柄から刀を引き抜く。
 彼の紫色の視線の先に、黄金の目を理知に輝かせた壮年男性の姿を認め、
「命と存在の意味を、欲しておられるのだったな、貴殿は……」
 ベルナールは、ゆっくりと体勢を整えながら、彼と向き合った。
 瑕莫が目を細め、頷く。
「君は、答えを見い出しているようだ。――是非聞きたいね、それを」
 瑕莫は、他の神々が一緒にいることに対して、何も言わなかった。
 神々もまた、何も言わなかった。彼らはただ、何かを確かめ合うかのように瑕莫と視線を交わし、微苦笑とともに小さく頷いただけだった。
「私にとっての意味、か」
「いかにも」
「……ひとつだけ、主とともにあるという事実のみ」
 静かに、きっぱりと言い切る。

 ごぼり。

 何かが沸き立つ。
 ――陣の内側で。

「主がために生きると決めたのは私自身。もしも人生を選び直すことが出来たとしても、何度でもこの道を選び、その数と同じだけ主と出会い、終わりへと続く道を歩く」
 虚しい永劫回帰だと嘲られようとも、その思いに変わりはない。
 この覚悟に偽りはない。
「主のおられぬこの街で抱えることになった、狂おしい、やるせない思いも、叶わない願いもまた、私をかたちづくる一部。私を律し、私の道を指し示す私の一部なのだ」
 確かに、彼が絶対と断ずる主人はこの街には存在しない。
 そして、この街の人々にとって、ベルナールや主人は創られた――空想の存在なのだと言う。
 そのことで悩みもした。
 主人の苦悩が人々を楽しませるためのスパイスでしかないと知って、この世界の人々に負の感情を抱きもした。
「だが……私の中には、『映画の登場人物である、倒される存在の王』ではなく、『絶対にして至上なる私の主』が存在する。身体はこの街と故郷で分かたれた、だが心はともにあると断言出来る」
 何が悪いとも言わない。
 誰の過ちだとも言わない。
 ただ、ベルナールはベルナールの思うままに生きるだけだ。
 そして、自分にこの境地を与えてくれた、銀幕市の日々に、ほんの少し感謝するだけだ。
「瑕莫殿」
 ベルナールは真っ直ぐに瑕莫を見つめた。
 静かな黄金の双眸が、ベルナールを見つめ返す。
「貴殿の中に、貴殿の半身はいるのでは? 私の中に、我が君がおられるように」
 正しい答えなど、ベルナールは知らない。
 それはただ、我が身に即して考えた、ベルナールの真実でしかなかった。
 だが……瑕莫は、莞爾と微笑み、
「そうだね……そうであれば、どんなにか素晴らしいことだろう。もっともっと時間をかけて、それを確かめられれば、よかった」
 そう、答えたのだ。
「ならば、」
「……だが、もう、遅い」
 ベルナールの言葉を遮って、瑕莫が視線を陣に向けた。
 その時だった。

 ごぼり。
 ごぼごぼごぼ、ごぼッ!

 陣の内部が唐突に沸き立った。
 中には何も見えない。
 何も見えないのに、何かが在ることが判る。
 見えないそれは、神威の塊である己がカラダを蠢かせ、結晶に飾られた陣を揺らめかせている。
「完全なかたちではなかったが……我が創り主の降誕は、為った」
 陣が結界の役割を果たしているのか、見えない何かが外に出てくることはなかったが、陣の効力が失われてしまえば、どうなるかは判らない。
「まさか……どうして」
 唯瑞貴はここにいるのに、と呟く理月に、
「陣が完成してしまえば、召喚は為ったことになる。そもそもズルワーンとは時間を意味する言葉であり、概念的な存在なのだろう。だからこそ、注ぎ込み形状を安定させる『器』が必要だったということなのだね。それがないことを鑑みれば、今の方が危険だと考えるべきかもしれない」
 ブラックウッドの、どこまでも冷静で理知的な言葉が向けられる。
「くそ、止めねぇと」
 あれが溢れ出してしまったら、何が起きるか判らない。否、瑕莫たちが以前口にしていた言葉を思い起こせば、歓迎すべきこと、よいことが起きるとは到底思えない。
 そのことに思い至ったのだろう、神威に呆然とさせられていた人々が、唇を引き結んで瑕莫と向かい合う。
「……絶対に、止める」
 瑕莫はそれを、静かに見つめていた。
 まるで、それらすべてを見届けようとでもするような、戦意も敵意も伺えない表情で。

 ごぼり。

 不可視の何かが蠢く。
 陣が、みしり、と軋んだ。



 7.溢れ、滴る、それぞれの真実

 陣が不可視のなにものかによって押されている。
 みしみしという音ではない『音』を、皆が感じている。
 陣が押し破られ、中のなにものかが――呼び起こされたズルワーンが、不完全なままにあふれ出したら、この一角は、そして銀幕市は、ズルワーンに飲み込まれ、無へと帰してしまうのだろう。
 瞠目し、眉を厳しくしたベルナールが何ごとかを唱え、光る膜を陣へ被せる。
 陣の軋みが、少しましになった。
「……そこを退いてくれ、瑕莫さん」
 守月志郎は大きな剣を手に一歩踏み出した。
 瑕莫の金眼が志郎を捉え、彼は一瞬、自分が捕食される小さな虫になったような気持ちにさせられたが、萎えかける意識を奮い立たせて踏ん張る。
「そこの女神さんたちが、『そうだったらいいのに』って言ったって話を聞いて、ずっと考えてた――……あんたたちも、本当は、映画の中みたいに生きる必要はない、って判ってるんだ」
 女神たちが苦笑を交わす吐息が背後に感じ取れる。
「だけど、それでも自分の立ち位置を貫くのは、自分はそう生れついたって……自分の生まれたわけはそれだって思ってるからなんだろう」
 志郎は自覚している。
 神々の苦悩を、自分が真実理解することは不可能だと。
 志郎の信条は、生きる意義はあるかもしれないが生れてきたそのことには深い意味はなく偶然の産物であり、それゆえに奇跡的と言える、というものだ。
 誰もが生まれたくて生まれるのではないし、生まれようと思って生まれるのでもない。それは運命という流れの一端でしかなく、自分自身で何とか出来るものではないと志郎は思っている。
 だから、必然に縛られ、運命の帰着する先にまで意義を与えられてきた神々の、絶対的であるがゆえの苦悩を我が身に置き換えて理解することは出来ない。
 しかし、
「生まれを離れて、生きる意義や目的を見出すことは、出来ないのか」
 生きようと思って生きることは誰にでも出来る。
 己が意志によって己を立たせ、己の向かう道を模索することは、誰にでも出来る。
 ――心が折れず、魂が腐敗しない限り。
 決して自由ではなかった故郷での日々の中、志郎が自分を見失わず、立たせて来たのは、その思いが常にあったからだった。
 沈黙した志郎に代わって口を開いたのは、白い吸血鬼、アルだった。
「僕は……己が欲望のために半身を殺しました。ですから、あなたの渇望を止める言葉を持ちません。為したことは違えど、意味は同じだからです」
 アルの静かな告白に、ルイスがなんとも言えない表情をする。
 かすかではあったがこんな場面には不釣合いなほどに幸せそうな笑みを浮かべ、アルに歩み寄ったシャノンが、少年の華奢な肩に手をおくと、アルはほんの少し頬を上気させて、自分の肩に置かれたシャノンの手に確かめるように触れ、頷いた。
 ――互いの薬指で、銀色の指輪が光った。
 また、ルイスがなんとも言えない表情をする。
「だから……身体で止めます。あなたにあなたの渇望があるように、僕には僕の願いが、守るべきものがある。――言い訳はしません。あなたとどうしても道が交わらないのだとしたら、僕は、僕のために、あなたを斃します」
 アルのキッパリとした言葉に、瑕莫は微笑んだ。
「それでいい……渇望とは、そういうものなのだろう」
 無への帰着を望む彼に、死への恐れはないだろう。
 だが、それゆえの物言いでも、ないだろう。
 彼はきっと、見届けたいのだ。
 人々が、己が意志で掴み取る未来を、結晶という名の結露を。
「善と悪、光と闇、どちらが欠けたって、世界は成り立たねぇ」
 がしがしと頭を掻きまわし、言ったのは京平だった。
「あんたは、自分だけ実体化したから、善がいねぇのに何で悪である自分は存在してるんだろう、って思ったんだろ? そんで、その理由が確かめたくて、ズルワーンを呼んだんだろ?」
「……そうだね、簡単に言えば、そうだ」
「ズルワーンは答えてくれそうか?」
「いや……どうだろうね、今の、受肉すべき器を持たぬ『彼』は概念だけの存在だ、我々に気づいてくださるかどうか。だが……本当は、もう、判っているのだろうよ」
「だろうな。いや……実際には、最初から判ってたんじゃねぇか? 判ってたけど、確かめずにはいられなかった?」
 京平が言うと、瑕莫はくすりと笑った。
 言外に肯定のニュアンスを感じ取り、京平は肩をすくめる。
 ――それを、傍迷惑な、ただの我儘だと断じるのは簡単だ。
 しかし、多くの痛みを感じ、自身に疑問を持ち続けてきたものほど、その断定をすることは難しいだろう。この街を守りたいがゆえに、彼の所業を許すわけには行かないと思いつつ、その痛みを否定することは出来ないだろう。
「生きることは善悪の繰り返しだ。それは多分、あんただって、あんたの半神だって、変わりねぇだろ。――特にこの街じゃ、それでいいんだろうと俺は思う。だから」
「……だから?」
「善悪どっちにも属せねぇってぇんなら、それでもいいんじゃねぇの?」
「ふむ」
「中庸、って言うだろ。何もかも含まれてるから世界は面白ぇ。曖昧だからこそ、変化する余地がある。……その中で、あっちこっち行ったり来たりしてみるのも、悪くねぇと思うぜ、俺は」
 自分なりの境地に辿り着いたがゆえなのだろう、どこか自信すら滲ませた京平が飄々と言うのを、瑕莫の金眼が穏やかに見つめる。

 ごぼ。

 陣の中で、概念だけの姿で表出した至高の神が蠢く。
「……『彼』は、答えを与えてくれそうにはないね、残念ながら」
 苦笑とともにブラックウッドが言った。
「私もまた、興味があったのだよ。迷いより生じた神々が、己が根源への疑問へ行き着き、自身を生み出した至高の神に、その迷いとは何たるかを問いたいと切望することは、必然であるのかもしれないと」
 そして、と言葉を継ぎ、ブラックウッドは瑕莫を真っ直ぐに見つめる。
「では……至高神に因らずとも己の存在を確たるものにできたならば、君たちはその渇望の軛(くびき)から解き放たれるのだろうか?」
 ブラックウッドの渇望は深いが、単純だ。
 この世に存在し続けること、それそのものが、ブラックウッドの……不死者たちの渇望なのだ。
 魔物としての性(しょう)に悩み苦しみつつも、それもまた自分だと、魔物である自分を受け入れながらも人間である自分を手放しもしない、どちらの自分も真実なのだと言い切れる強さが、ブラックウッドにはある。
「君たちの渇望を否定はしない。私もまた、渇望とともに日々を歩む者なれば。だが……そのためにこの街を危険に晒すと言うのならば、相応の抵抗、反撃は予測のうちなのだろうね?」
 握った左手中指の、黄金に輝く指輪に口付けながらブラックウッドが言うと、瑕莫はどこか楽しげに笑った。
「まったく……」
「どうかしたかね?」
「何、ここは、面白い場所だと思っただけだよ。私を責めながらも未来を見せようとし、我が同胞に救いを与え許し、この危機を目にしてもなんら折れるところがない。……それが、この街の強さなのだろうかね」
「ふむ……それに関しては、私も、否定する箇所を見い出せないな」
 落ち着いた物腰の壮年男性ふたりが、かすかに笑みを交わす。

 ごぼっ。

 不可視の至高神が沸き立つ。
「ちっ」
 それを目にして、苛立たしげに舌打ちをしたのはミケランジェロだった。
 今回、この場に集ったメンバーの中では、ペルシャ神群や『根付いた者たち』に対してもっとも苛立ちをあらわにしていた男だ。
 それは彼自身が、堕ちたとは言え神の一員だったからなのだろうか。
「御託はいい。てめェの渇望も、どうでもいい」
 ミケランジェロの手には、鋭く光る細い刃がある。
「半神を待てとは言わねェよ。それを埋める何かを見つけろとも言わねェ。求めてやまねぇんなら、求め続ければいいんだ。それだけのことだろうが?」
 得物を構えたまま、ミケランジェロが一歩踏み出す。
 じわり、と戦意が滲み出した。
「たったひとりですべてが完結する存在なんざいやしねェ。人の在り方なんぞ十人十色で、十全な存在なんてものはねェんだ……『求めるものが在る』ってだけで、その命は満たされてるンだからな」
 何かを求めることこそが存在意義に成り得るのだと、探して、求めて、その先で得た何かこそが、答えなのではないかと、ミケランジェロは言外に語っている。
 苛立ちつつも、ミケランジェロは、救いの方向性を示している。
「それを、何もせずに八つ当たりばっか繰り返して、答えを求めるだけで、どこへ進める? ……進めるわけがねェ。時間がねェんだ……退かねェんなら、力尽くで、行くぞ」
 言うなり、誰かの制止も聞かず、ミケランジェロは走り出した。
 それほどパワーがあるわけではないものの、彼の速さと攻撃の正確さは自他ともに認めるところで、
「それだって、覚悟の上なんだろう? だったら……遠慮する必要もねェ」
 振りかぶった刃が、動こうともしない瑕莫を襲う。
 ――しかし。

 ぎぢっ!

 鳴った刃は、瑕莫のものではなかった。
「ミケ。……あんたの言いてぇことも判る、けど……」
 ミケランジェロの一閃を、瑕莫の前に立ち塞がり、白銀に輝く刀で受けたのは、理月だった。
「お前、」
「この街で救いをもらった俺たちが、それを言ったって、仕方ねぇ」
 刃と同じ白銀の目には、強い光がたゆたっている。
「誰が正しくて誰が間違ってるなんて、俺には言えねぇよ。俺も、いっぱい間違った。いっぱい苦しんで、いっぱい助けてもらった。だから、今の俺がいる。でも……てめぇが救われて、楽になれたから、今のてめぇが満ち足りてるから、間違った他人を責めるのは、おかしいと思う。だから俺は、瑕莫さんを責められねぇ」
 噛み合った刃と刃が、ぎぢっ、と音を立てる。
「ち……」
 理月を傷つけるつもりはないのか、忌々しげな表情でミケランジェロが得物を引いた。
「俺は、判って欲しいんだ、瑕莫さん」
 剣を退きはしたが殺気は消していないミケランジェロと向き合ったまま、振り返りもせぬままに、理月が言う。
「何を、だい」
「……俺の中にも、あんたと同じ問いがあるってこと」
 ぽつり、
「誰もがその意味を探して生きてるんだ、ってことを」
 ぽつりとこぼされる言葉は、朴訥だ。
「あんたは悪神だって言われて存在するけど、どう見たって絶対悪じゃねぇし、本当は争いなんか望んでねぇんだろうと思う」
 理月が言うと、瑕莫からは否定とも肯定ともつかぬ笑みが返った。
「……存在の意味なんて、きっと本当はどこにもねぇんだ。てめぇの心の中に、見い出すしかねぇものなんだ。それを虚しいって言うのは、仕方ねぇのかもしれねぇけど……だけど、俺はこの街が好きだし、懸命に生きて、俺に色んなものをくれる皆が愛しいよ。だから生きてぇって思うのじゃ、意味にはならねぇのかな」
 そこで初めて理月が振り向き、透き通っていながら途方に暮れたような白銀が、瑕莫を見つめる。
 そこへ、
「なぁ……ただ、そこに在るだけじゃぁ、いけんのか?」
 同じく、困ったように言ったのは、ずっと黙って皆の言葉を聞いていた昇太郎だった。
「意味も、答えも要らん。ここにおって、誰かといっしょに生きられる、生きたい、て思える、それだけじゃあ、いけんのか」
 彼の物言いもまた、朴訥だ。
 世界から拒絶され、侮蔑と嘲笑によって人々から切り離され、暗く重苦しい道を歩いてきたがゆえに、昇太郎がこの街で得た救いは大きかった。
 この街だからこそ、昇太郎は救われることが出来た。
 愛しい女と再会し、彼女が己のうちに在ることを知り、理解し、魂に寄り添う彼女とともに生きる幸いに行き着くことが出来た。
「足りんもんがあったかて、意味なんぞなかったかて、俺はここにいるっちゅうことを幸せじゃと思う。――自分が幸せじゃて思えるだけじゃ、いけんのやろうか?」
 それゆえの、昇太郎の言葉だった。
 長い長い時間を侮蔑と嘲笑、嫌悪の中にあって生きてきた彼には、話す、ということすら不要な行為で、昇太郎はあまり……どころかまったく口が達者ではない。伝えたいことを言葉にしようとすると、とてつもない時間がかかってしまう。
 しかし今、昇太郎は、拙い言葉を駆使して、懸命に、自分の思いを伝えようとしていた。何とかして、自分が得た喜びを伝え、瑕莫に『こちら側』の思いに気づいて欲しいと、出来ることならば判り合いたいと、そう願ってのことなのだ。
 無垢なる修羅は、自分が救われたがゆえに、他者にも救われて欲しいと願っているのだろう。
 そういう、やさしい青年だからこそ、周囲は打ち捨てておけぬと思うのだろう。
「……」
 沈黙が落ちる。
 瑕莫の背後で、不可視の至高神は、のたくるように蠢き、陣を揺らしている。
 ぴしり、と聞こえた音は、陣が、そしてベルナールが張った結界が、限界を迎えたがゆえのものだったのだろうか。
「――……やれやれ」
 苦笑をこぼしたのは、瑕莫だった。
「何故……」
「どうしたね、瑕莫君?」
 判っていながら、といった風情でブラックウッドが声をかける。
 唇に浮かぶ笑みは、瑕莫の変化を敏感に感じ取ってのことだろう。
「……いや。何故この街の人々は、こうも可愛らしいのだろうか、と」
「ああ」
「かようなる罪を犯し、街を混乱させ、人々を傷つけた私であっても、罪を償い、ともに生きよと言うのだね、君たちは」
「渇望によってかたちづくられ、渇望のために生きる私にそれを言うかね」
「ふむ……確かに」
 冗談めかしたブラックウッドの物言いに、瑕莫がまたかすかに笑った、そのときだった。

 ぴし、ぱきんっ!

 ベルナールが被せた光る膜が、砕け散り、弾け飛んだ。
 ぐらぐらと、陣内部の白い光が揺らぐ。
 ――中から、巨大な神威が溢れ出してこようとしている。
 それは決して邪悪な気を発してはいなかったが、不完全に呼び出された代物であるがゆえに、それが『こちら』に溢れ出すことで、何かの不具合が起きることは必至だった。
「強制的に送還するには……」
 優美な指で頤(おとがい)に触れ、周囲をざっと確認したあとブラックウッドが呟く。
「『軸』が足りない、ね」
「……『軸』? ってなんだ、ブラックウッドさん?」
「核、と言えば一番相応しいかな。あれは……概念だ。それゆえに、今のままでは、どうすることも出来ない。核を創って、方向性を持たせてやらなくては」
「核って、どうやって創るんだ?」
「……『器』を設置するのと似ているね。ただし、神を内へ注ぎ込むのではなく、神の内へ放り込むことになるから、犠牲は必至だろう」
「! そんな……だけど、あれが溢れ出したら、」
「そうだね……私たちは飲み込まれてしまうだろうね。概念に飲み込まれた我々は、その概念によって統合され、ひとつのものになるのだろうか? それとも、掻き消されてしまうのだろうか? ――瑕莫君が言った、すべてを無に、とは、そういうことだったのかな」
「だったら……」
 どうすれば、と、理月が言うよりも早く。
「いけません、唯瑞貴さん!」
 マイク・ランバスの悲鳴のような声が響いた。
「!?」
 ぎょっとなった人々が見遣れば、いつの間にか立ち上がっていた唯瑞貴が、知らぬ間に、陣の傍らへと歩みを進めている。
「お義兄さんが哀しまれます、唯瑞貴さん! あなたの命、あなたの幸いが、他の方の幸いにも影響しているということを、忘れてはいけません!」
 必死で呼ばわるマイクの言葉に、唯瑞貴は答えなかった。
 ――無表情に近かったが、彼の目には、理性が光っていた。
「唯瑞貴、意識が、」
「――……ありがとう」
 言いかけた誰かの言葉を遮って、唯瑞貴はかすかに笑った。
 そこに覚悟と決意の色彩を感じ取り、何人かが息を飲む。
「皆の声が聞こえた……皆が与えてくれた、たくさんの気持ちが、私をここに帰してくれた。なら、私がやるべきことは、ひとつだ」
 不思議な色彩の目が、揺らぐ至高神を見つめる。
「溶け合って、ひとつになって、この街を見守れるなら……それも、悪くない」
「待て唯瑞貴、駄目だ!」
 一番近くにいた志郎が、咄嗟に手を伸ばし、唯瑞貴を掴もうとする。
 しかし唯瑞貴の身体は、志郎の手を、すり抜けた。
「ありがとう」
 そう、はっきりと口にして。
 唯瑞貴は、陣の中へ、飛び込んだ。

 瞬間、彼の姿は掻き消され、――ひときわ、陣が、揺れる。
 強い風が、吹きつけた。



 8.それぞれの果てに

「そんな……」
 理月は呆然と、ぐらぐらと揺らぐ陣の内側を見つめていた。
「だったら、俺たちは、何のために……!」
 握り締めた拳から、血が伝う。
 止めたかった、助けたかった、もう一度笑顔を見たかった。
 そのために、ここまで来た。
 ――それなのに。
「馬鹿が……自己犠牲なんざ、真っ平なんだよ……!」
 憤りにぎちぎちと歯を噛み鳴らし、ミケランジェロが吐き捨てる。
 ――ズルワーンは不可視のままだ。
 しかし、『彼』が先ほどまでの概念のみの存在ではないことを、この場にいる誰もが感じ取っていた。
「……ならば」
 ぎゅっと唇を引き結び、アルが決意の目を向ける。
 シャノンが、ルイスが、彼を守るように隣に立った。
「『核』が出来、ズルワーン神が存在として為ったのならば……打ち砕きましょう。彼の思いを無駄にせぬためにも。僕たち自身が、彼を忘れぬためにも」
 凛とした強い言葉。
 心が揺れぬわけではないだろう。
 アルもまた、唯瑞貴とは旧知の間柄だし、彼の義兄であるゲートルードのこともよく知っている。
 それを、自分の手で失わせることに、苦痛を感じぬはずがないだろう。
 しかし、それでも、なすべきことを果たすのだという、強い強い意志は、アルが半身と融合し、始祖として覚醒したがゆえのものだったのか、それとも、生来の性質がそうさせたのだろうか。
 誰ひとりとして、反論できるものはいなかった。
 口を開くものもなかった。
 聞こえるのは、理月にしがみついた太助の、唯瑞貴の名前を呼びながらしゃくりあげる声だけだ。
「……泣かないで、仔狸さん」
 二柱の女神が微笑みを交わし、そう言ったのは、まさにこの時だった。
 ばさり。
 大きな羽音がして、見遣れば、空からスラオシャが舞い降りるところだった。
 ハルワタートとアムルタートに向けられた、少年の眼差しには、二柱の女神と同じ色彩がある。
「まだ、遅くないわ。ねえ、アムラ?」
「ええ、そうね……ハルワ」
「ど、ういう、ことだ……?」
 ぐすぐすとしゃくりあげながら、顔を上げた太助が女神たちを見遣る。
 女神たちは、ほんの少し寂しげに微笑み、言った。
「彼は虚ろではなくなっていた。彼の中には芯が戻っていた。……ならば、まだ、吸収されてはいないわ。彼を助けることは、出来る」
「ど、どうやって……」
「――……だから、お別れよ、魔性のおなかを持つ仔狸さん」
「えっ」
「それは……親和性の高い別のもので核を創ればいい、ということかな」
 太助の驚きの声に、ブラックウッドの静かな言葉が重なる。
「ええ。わたしたちと『彼』とで溶けあって、時間の中に紛れ込むのよ」
「……決めていたの」
「仔狸さん、あなたが、わたしたちに綺麗な結晶を見せてくれた時から」
「え」
「こうなることが、判っていたのかもしれないわね」
「ええ……本当に」
「ふたりとも、なにを言っ……」
「わたしたちが、核になるわ」
 言った女神たちは静かだったが、太助はまた悲壮な顔をした。
 つぶらな両目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「そ、そんな……だって……!」
 どうすればいいのか判らない、といった表情で、理月にしがみつく太助を見つめ、
「お前たちだけでは容量が足りない。僕も行こう」
 淡々とスラオシャが言う。
 シャノンが眉をひそめた。
「……おい、スラオシャ」
「出来れば、おまえと酒でも酌み交わしたかったが」
 ふ、と、スラオシャの双眸が和らいだ。
「これを逃避に過ぎぬと知って、僕はこの償いを選ぶ」
「だが、それでは、あまりに」
「無責任だな。……そう罵ってもらっても、構わん」
「そうじゃない、お前の選択は、」
「無論、見守るとも、人間たちの行く末を。……お前のことも、見ていよう。お前が見せてくれる、すべての結露を、見届けよう。お前たちがそう、教えてくれたのだから」
「……」
 そのやり取りに、くすり、と笑ったのは、アナーヒターだった。
 彼女は、黄金の耳飾を外し、それを京平に差し出しながら、言ったのだ。
「あの規模ならば、もうひとりくらい、必要ね。なら、わたしも、行きましょう」
「! アナーヒター、お前、」
「ごめんなさい、京平。あなたがわたしを許してくれたから……わたし、実はもう、満足なの。本当は、わたしが傷つけてしまったすべての人たちに、謝らなくてはならないのだけれど」
「違う、俺が言いたいのはそんなことじゃ」
「ありがとう」
「!」
「わたしに、真実の一端を見せてくれて。……ありがとう、ごめんなさい、京平。……ひとつだけ、知っていて」
「何を、だよ」
「わたしたちはここから消えるけれど、滅びるわけではないのよ。……時間の中に溶け込んで、ずっとあなたたちを見ているから」
「……ああ」
 それぞれに言葉をなくす人々を見つめたあと、スラオシャは瑕莫の前に跪く。
「……師よ、あなたはお残り下さいますか」
 スラオシャの問いに、瑕莫は頷いた。
「そう言うだろうと思ったよ」
「赤と青を、お願いします」
「ああ」
 言葉少なに言い交わしつつ、瑕莫もスラオシャも、どこか満足げだった。
 残ることも、消えることも、どちらも十全ではない。
 彼らは自分の犯した罪を知っている。
 どちらも、楽な道ではない。
 それでも、ふたりが満ち足りた表情をしていたのは、この街の人々が、そしてこの場に集った面々が、彼らに、様々な真実をもたらしたからに他ならなかった。
「アエーシュマ、ドゥルジも」
「無論だ……可愛い部下が、出来たのでな。お前たちの分まで償って、最果ての日までこの者とともに歩もう」
「我らのことは心配しなくていい、仙蔵が必ず守ってくれる。……どうかお前たちの道行きに幸おおからんことを、同胞よ」
「……ふたりを頼む、強き忍よ」
「承知致した。一命に変えて、お守りいたそう」
 満身創痍の忍が、この時ばかりは背筋を伸ばして立ち、かすかに頭を下げたスラオシャに、決意をこめて一礼してみせた。
「なら……」
 ハルワタートとアムルタートが、顔を見合わせて微笑みを交わす。
 スラオシャはアナーヒターと頷きあい、
「これで、お別れだ」
 いまだ蠕動を続ける陣へと、ゆっくりと歩いていく。
 誰も、何も言えなかった。
 ただ、歩み去る四柱の神々の、凜と伸びた背中を見つめていることしか、出来なかった。
「ありがとう」
 ぽつり、言葉が落とされ、
「この、馬鹿野郎どもが……ッ!」
 搾り出すようなミケランジェロの罵声と、太助の泣き声に見送られるように、彼らは、陣の中へと、消えていった。

 ごう!

 瞬間、陣の内側に在った、不可視のなにものかが大きく伸び上がり、震え――そして、すべてが、沈黙した。
 ゆっくりと、神威が消えていく。
 白々と輝いていた、結晶の灯とともに。



 9.みちしるべ

 何もかもが消え失せたあとも、言葉を発するものはなかった。
 太助の啜り泣きだけが、空気を震わせる中、大人たちはただ、沈痛な面持ちで、陣のあった場所を見つめていた。
 植物園には暗がりが戻って来ていた。
 今、彼らの視界を助けるのは、空から降り注ぐ月光と星光のみだ。
 その一角に目をやって、夜目の利くシャノンが小さくつぶやく。
「……唯瑞貴」
 そこには、草に埋もれながら、黒い衣装をまとった青年剣士が倒れていた。
「!」
 ひと呼吸遅れてそれに気づいた人々、志郎や理月、太助やマイクが、息を飲み、そして彼に駆け寄る。
 アルとルイスは顔を見合わせ、苦笑を交し合い、瞑目した。
「……アルだったらどうしてた?」
「判らん……どの選択も正しいように思うし、間違っているように思うから。お前はどうなのだ」
「オレ? ……陣に飛び込むかも、って言ったら、アルはどうする?」
「殴る」
「そこでその返し!?」
「……ルイスの分際で僕をおいて逝くなど、許し難い」
「! や、その、……それは」
 抱き上げられた唯瑞貴は、規則正しい呼吸をしていた。
 泣きそうになった理月が唯瑞貴を力いっぱい抱き締め、苦笑したブラックウッドに窘められている。
 ルークレイルと理晨は、そんな理月を目を細めて見つめ、ベルナールは静かな安堵の表情をした。
 ミケランジェロはまだ納得が行かない様子で、不機嫌そうな表情のままだったが、昇太郎が隣に寄り添い、何ごとかを言うと、盛大な溜め息をついて無垢な修羅の頭をがしがしとかき回した。
 京平は黄金の耳飾を握り締めたまま瞑目していたが、
「だったら……見届けろよ、俺や、他の連中の、生き様って奴を」
 そう言って、黄金に輝く月を見上げた。
 秘薬の反動が激烈な勢いで出ていた仙蔵は、その頃にはもう、意識を保っているのがやっとで、アエーシュマたちに支えられたまま、ほとんど何も判らなくなっていたが、何度も何度も、誰かを安心させようとでも言うように、
「お二方は、俺がお守りする……ゆえ、何も、心配は、要らぬ……」
 そんなことを、朦朧とした思考の中で、繰り返していたのだった。
「……唯瑞貴」
 非常識な腕力で、唯瑞貴の骨を砕いてしまわないよう腐心しながら、理月がそっと名前を呼ぶと、
「う……」
 唯瑞貴のまつげが震え、小さな声が漏れた。
 彼を取り囲む人々の目が、顔が輝く。
 そしてその、一瞬あとに。
 あの、不思議な赤瞳が開かれ、笑みのかたちに和らげられるのだった。
「皆……」
 声には、張りがあった。
「ありがとう」
 万感の思いが込められた、端的な謝意。
 太助が唯瑞貴に飛びつき、首にかじりつく。
 残った神々が、それを穏やかな眼差しで見つめている。
 ――これからが真に苦難の日だと理解してなお、満ち足りた表情だった。



 こうして、渇望を軸とした一連の事件は収束した。
 地獄へと戻った唯瑞貴を、赤鬼氏は全身の骨が砕けんばかりの勢いで抱擁し、その無事を喜び、彼を取り戻してくれた人々に、無上の感謝を捧げた。
 残ることを決めた神々は、対策課を通じて、これまでに一連の事件で傷を負った人々への償いをはじめたし、赤と青もまた、いまや家族となった彼らとともに、自分たちの果たすべき責任を、自ら模索し始めている。

 銀幕市から、不可解な渇望は姿を消し、事件の予感を孕みつつも、いつも通りの日常が戻って来ていた。
 神々は、日々を、償いと、彼らを救った人々との語らいに費やしている。
 ――そして。
 償いのためのもろもろに行き来する大怒魔アエーシュマと、虚偽の大魔ドゥルジの傍らには、常に、巌のごとき風貌の、熟練の忍の姿があっという。

クリエイターコメント大変お待たせいたしました……ッ!
毎度毎度同じ挨拶で申し訳ありません。
渇望を軸にしたシリーズ【ツァラトゥストラはかく語りき】最終場をお届けいたします。

すべては本分中に詰め込みましたので、詳しくは語りません。

結果はどうあれ、神々は、皆さんのお陰で答えと救いとを見い出し、それぞれの方法で感謝と償いを示しました。皆さんの、真摯なお言葉、お心に感謝いたします。

中には、読み違いなどから、若干行動がぶれてしまわれた方もおられますが、それらすらも、この終焉の彩りであったのかと、ご寛恕いただければ幸いです。

本当に、どうもありがとうございました。

皆さんがこれまでに見せてくださったたくさんの思い、たくさんの真実、それぞれの覚悟や決意、思いやりや厳しさ、やさしさを、記録者は忘れません。

たくさんの素敵な方々を書かせてくださって、本当にありがとうございました!

それではまた、どこかでお会いできることを祈って。
公開日時2009-05-17(日) 08:40
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