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<ノベル>
誰かが悲鳴を上げた。
その叫びは、がらんとしたスタジオ内の隅々にまで響き渡り、中にいた者たちの心を震わせた。不快な旋律は、まるで腹の中に直接手をねじ込まれたかのような感覚すらもたらした。
ある者は目を閉じ、ある者は身震いした。
中の一人ネティー・バユンデュも、それを聞いて眉を寄せていた。宇宙人であり地球人よりも感情のコントロールに長けている彼女が、傍目からも分かるほどに不快感を表したのだ。
彼女は自問する。広い宇宙を旅してきた中で、今ほど真に迫った悲鳴を聞いたことがあっただろうか。
その声には魂が込められていた。だから聞いた者は皆それに気圧されてしまったのだ。だから──。一瞬でも、悲鳴を聞いた者たちは足を止めてしまっていた。
すなわち、そこから言葉を聞き取れたのもネティーだけだった。
彼女は理解していた。
今の悲鳴は、こう言っていたのだ。
も、う、や、め、て、
──と。
* * *
見覚えのある絵だった。
タイル張りの壁一面に描かれているのは海辺の風景だ。小高い丘から星砂海岸を見下ろしたアングルの、のどかな風景である。
それは四枚の壁に仕切られた銭湯だった。映画撮影のために用意された下町の銭湯であり、無名画家の絵という“設定”で、ミケランジェロが描いたものだった。
ペンキの汚れが目立つツナギ姿の、彼は掃除屋であり、そして芸術の神でもある。
その絵に魅了されたのだろうか。絵の前に白いワンピース姿の少女が一人。タイルの床の上に立って絵を見ていた。
やがて彼女は背後の気配に振り向く。ミケランジェロの姿を確認し、驚いたような素振りも見せず、彼女はまた絵に視線を戻した。艶やかな黒髪をショートボブにした、綺麗な顔立ちの少女だ。
その背中に、ミケランジェロは声を掛けた。
「お前が、大友ルルか?」
「ねえ。これ描いたのあなたでしょ? どうして、富士山じゃないの?」
少女は質問には答えなかった。
頭をぼりぼりと掻き、モップを持ち直したミケランジェロは、ゆっくりと歩いて彼女に近寄りその少し後ろに立った。
確認するまでもない。彼女が大友ルルだ。アンチファンであり、ダイモーンとともにリオネを誘拐した張本人なのである。
「変な感じ。銭湯の壁は富士山って決まってるのよ。『Michael-Angelo』は日本を舞台にした映画なんだから、あなたもそれは知ってるはず」
頬を緩め、ミケランジェロは苦笑した。
聞いた話は本当だったようだ。大友ルルは、あらゆる映画に詳しい。そしてあらゆるムービースターのことを知り尽くしている。
「世の中の銭湯の壁が、すべて富士山でなきゃいけないのか?」
「ええ」
ルルは挑むような目を向けながら答えた。
「だって、そうじゃなきゃ銭湯って分からないもの」
「それは映画の中の話だろ」
ミケランジェロはルルをよく観察した。彼女は一人だった。ダイモーンやリオネの姿は、近くには見えない。
「壁が富士山じゃない銭湯が、ひとつぐらいあったっていいだろ?」
「どうかしら」
「じゃあ質問を変えよう。おまえはこの絵を見てどう思った?」
ルルは斜に振り返り、もう一度壁の絵を見上げた。
「──何の変哲もない風景ね。この街の海岸を丘の上から見下ろしたところでしょ」
「なら、当然どこから見下ろしたのか分かるよな?」
「どこからって……」
眉を寄せるルル。彼女は大人びた仕草で肩をすくめてみせた。
「知らないわ。興味ないもの」
「興味ない、か」
彼はため息を漏らし、続ける。
「何の変哲もない風景かもしれねえが、俺はこの風景が好きだ。実体化してからこの街を歩き回って見つけたんだよ。だから描いた。自分が美しいと思ったものを描いたんだ。描けば、その思いが必ず他人に通じると信じてな」
ミケランジェロが落ち着いた口調でそう言うと、ルルは不快感を顕にしたように鼻を鳴らした。
「思いが他人に通じる? それは才能を持って生まれた者の論理ね」
「そうかな? ──言葉を返すようだが」
辛抱強く、彼は言葉を挟んだ。
「俺もおまえに言わせてもらおう。それは、努力しないヤツの論理だ」
その言葉に少女は、ああと声を上げた。ようやくお前の魂胆が分かったとばかりに、彼をじろりと睨み返す。
「わたしに忠告するつもりなのね。──馬鹿なことはやめろ、お前は操られてる、でしょ?」
言いながら、彼女は口の端を吊り上げて、笑った。それはあまり良い種類の笑みではなかった。
「俺は君の味方だ、君を助けたい? 真っ平御免よ、ウザいのよ! わたしは自分の意志でアムネシオスの声を聞いたのよ、誰の手助けも要らないの。どうせリオネを探しにきたんでしょうけど、あんたたちがあの子を見つけるのは無理よ。たとえ見つけることができたって、みんな忘れておしまいよ」
少女は勝ち誇ったように彼を見返した。「あんたたちは最大限に増幅されたアムネシオスの力に勝てやしないわ。あんたたちは、このスタジオの中をウロウロとさ迷い続けるのよ!」
だが、ミケランジェロは静かに彼女を見つめているだけだった。
「──おまえ、昔の俺と同じだな」
ぽつり。最後に彼が言った。ルルはそれに反論しようとしたが、言葉を呑み込んでしまった。何と返したらよいか分からなくなったのだ。何がよ、と、勢いを削がれたように言う。
ミケランジェロはルルとじっと目を合わせた。
ある類の色彩をその瞳の中に浮かべて。
* * *
奇妙だったが、そこにグランドピアノがあったのだ。
リゲイル・ジブリールは迷い込んだそのセットで足を止めていた。黒と白の市松模様のタイルの部屋に、グランドピアノが一台。芸術家の別荘の一室のような部屋だった。
なぜだか分からないが、リゲイルはそのピアノが非常に気になった。近寄って鍵盤蓋をそっと開けてみた。何かの映画の撮影に使われているところなのだろう。鍵盤を押してみれば音も出る。
彼女は、それを弾いてみることにした。
弾きながら、リゲイルは奇妙な感覚に襲われる。
この曲は確か──。
いつだったか、ホテルの自室のピアノで弾いて──。
だが、その先がどうしても思い出せない。
「──誰が弾いてるのかと思ったら」
曲の途中で、パチパチと拍手の音とともに女の声がした。リゲイルは指を止めて振り返る。暖炉のそばにいつの間にか白い服の少女が立っていた。
「あなたが、ルルさん?」
相手は眉を上げただけでそれに答えた。
「ホテルを丸ごと買えるような大金持ちのあなたが、ここに何をしに来たの?」
こんなところに買えるものは何も無いわよ、と。ルルは冷たい声で笑った。思わず身構えてしまうリゲイル。
「リ、リオネちゃんはどこに──」
「リオネ? 知らない」
そっと椅子から立ち上がり、リゲイルは相手を見た。確かに、彼女は一人のようだ。
「あの子はこの街にいるのが嫌になったのよ」
ルルはまるで自分の部屋でくつろぐかのように、近場にあった長椅子に座り、肘掛けに手をかけて寄りかかるようにした。それから、立ったままのリゲイルをねめつける。
「あの子の魔法のせいで、ひどい目に遭ったり、殺されたりした人たちが沢山いるんだから。そんな人たちに責められて。あの子は嫌になって逃げ出したのよ」
「そんな、だって」
リゲイルは反論しようとして口ごもった。責められて──という言葉に、嫌がおうにも自らの記憶を思い起こされたのだ。
彼女の心の奥底にいつも存在している、あのこと。
確かに彼女が兄のように慕っていた少年は、この街に実体化したことにより苦しみ、そして自らを見失って死んだ。リゲイルの恋人である男も、思い通りにならない身体を今も持てあまして苦しんでいる。
それは確かに、リオネの魔法のせいだ。
でも、それを自覚した彼女は変わろうとしたのではなかったか。
リオネは、かの少年が好きだったカニクリーム・コロッケを。スーパーまるぎんが経営難に陥ったときに、それを守ろうとした。さらに、この街のムービーハザードで困っている人を何とか救おうとした。
「──リオネちゃんは、逃げたりしないわ」
何か言おうとして、出てきた言葉がそれだった。
ムッとしたように、ルルが強い視線を返してくる。
「もう、あの子は嫌になって逃げたりなんかしない」
リゲイルがゆっくりと言い聞かせるように言うと、ルルは不愉快そうに鼻を鳴らし手をひらひらとやった。
「他人のことなのに、自分には分かってるみたいな口を利くのね。そんなに仲が良かったの? あなたたち。……<まだらの蜂>は、あの子の未熟な魔法が作り出したものよ。“漆くん”も“ラウさん”も、リオネに殺されたも同然なのにね」
「……っ」
その言葉に、リゲイルはカッと頭に血が昇るのを感じた。怒りとも少し違う、恥ずかしさとも違う、複雑に絡み合った気持ちが一気に噴出したのだ。
「……リオネちゃんはどこにいるの?」
「ふふ、怒ったの?」
「答えて」
「嫌よ」
「あなたは間違ってることを言ってる」
リゲイルは毅然と言い放つ。彼女の動揺は嘘のように治まっていった。まるで打ち寄せていた波が沖へと引いていくように。
斑目漆という少年と出会って、一緒に過ごしたこと。咲き誇る向日葵。覚えている。
朗らかに笑っていたレナード・ラウの顔。彼が彼女に残した言葉。覚えている。
そして、凍えてしまうと寒さに震えていた男。彼と出会ったことも──。
「ムービースターのみんなをこの街に連れてきてくれたのは、リオネちゃんよ。彼女の魔法が無かったら、わたしはみんなと出会うことも無かった。あの子の存在は何にも変えられないの。だから」
最後に、リゲイルははっきりとした声で言い放った。
リオネを返して、と。
* * *
この風景、前にも見たことがある──。
ランドルフ・トラウトは不思議な既視感に囚われていた。
小さな庭園を模したセットの中に、アンティークテーブルが置かれている。その上に載っているのは白磁のティーセットだ。その蔦薔薇のモチーフを見て。彼はそっとテーブルに近づいた。
こんな庭園に、以前来たことがある。
なのに、それがいつなのか思い出せない。
朽ちた薔薇の蔦が絡まっていた。たくさんの赤──あれは、血だったか?
ぼんやりと思い出すのは、儚げな美しい女性の影だ。
何故だ。何故、思い出せない? 腹の底にしこりのようなものが出来つつあるのを感じて、ランドルフは大きな手で自分の腹を押さえた。
“彼女を助けなくては”。
そうだ。あの時もそう思った。だが、彼女とは誰のことだろうか。女刑事か? いや、違う。彼女も確か一緒にいたのだから。……そういえば、女刑事が彼女の名前を呼んでいなかったか? 確か、ディ──
──気をつけろ。
ふと、彼は目を瞬き、顔を上げた。
匂いだ。小さな神の子の匂い。リオネの匂いがした。
──この探索中、お前たちは様々なことを忘れるかもしれない。
──自分が、今何をしているか、などをな。
──よいか。気を確かに持て。
その言葉は、イカロスのものだ。
ランドルフは自分の頬を両手でパンッとやった。ぶるぶると顔を振り、気を取り直すと落ち着いて匂いをたどろうとする。
この庭園のセットが気になる。自分の過去につながっているような気がするこのセットが。しかし今はそれに構っている時間は無い。
自分は、ここに、リオネを助けに来たのだから。
「──上、か?」
ぽつりと呟くランドルフ。言葉は静かなスタジオ内に、思ったよりも大きく響いた。
彼はイカロスの言葉を思い起こし、自分がここに来た目的をかみ締めるように思い抱いた。呼吸を整え、そして近場に見えた階段へと足を運んでいく。
自分の記憶を忘れたとしても恐れるな。なぜなら──
* * *
「──平気よ。わたしが忘れたとしても、誰かが覚えていてくれるもの」
* * *
「リオネを返して、でしょう?」
大友ルルは、教室の机に寄りかかるようにしながら言った。付かず離れず。微妙な距離をとってその前に立っているのは柊木芳隆だ。
二人がいるのは、高校の教室のセットである。たくさんの机が並べられたそこで、柊木は穏やかな笑みを浮かべたまま、白いワンピースの少女を見つめている。
彼女の姿を見つけて声を掛けたところ、だしぬけに言われたのだ。
あなたが次に言う台詞を当ててあげる、と。
「そうだよ」
柊木は悪びれずに答えた。
「僕たちはティターン神族にさらわれたリオネくんを探しにきたんだよ。彼女の居場所を知っているなら教えてほしい」
「わたしが素直に教えるとでも?」
はは、と彼は笑った。
──確かに、きみは手強そうだ。そう続ける彼の口調は、あくまで父親のようなものであり、容疑者に対する警視長のそれではなかった。
「いいよー。じゃあしばらく話をしよう」
柊木はルルと同じように、背の低い机に自分の身を預けるよう腰を落ち着けた。ルルも落ち着いた様子で彼をじっと見返してくる。
「わたし、あなたの映画もちゃんと見てるわよ」
「それはどうもありがとう」
「『狼狩り』の頃からね。『狼狩り≪外伝≫』はテレビドラマからの映画化第一弾。お巡りさんから本庁の刑事に栄転した主人公のその後の話よね。貴方は彼の上司で、某国の陰謀に巻き込まれた主人公をサポートしてテロリストと戦う」
淡々とした口調で、ルルは自分の知識を披露する。
「──そこそこ面白い映画だと思ったけど、ラストだけ納得がいかないの」
「どうして?」
微笑んだまま相槌を打つ柊木。
「主人公を生き残らせるためのご都合主義的な展開っていうかね。テロリストにあんな風に囲まれたら普通死ぬわよ。彼が撃ち殺されそうになった時、身を挺してそれを庇うのは、柊木さん。あなたよ。あなたはテロリストに撃たれて生死不明になるの。馬鹿な部下──いいえ“主人公”を救うために、あなたは捨て駒にされるのよ」
柊木は、じっとルルを見つめていた。
口元の微笑みも、いつの間にか消えている。その代わりに、彼の瞳には何某かの色が浮かんでいた。だが、それもやがて消えていく。
「そうだね」
少し長い間の後、彼はぽつりと言った。
「捨て駒か。きみから見ると、僕の最期はそう見えるのかもしれないね。──でも、僕はそれでいいと思ってる」
「嘘よ、そんなの」
「いいや嘘じゃない」
きっぱりと返す柊木。「僕は映画の中に戻ったとしても、また同じことをすると思う」
「馬鹿なんじゃないの」
「そうなんだよ。馬鹿なんだ、僕たちは」
なぜか、そこでまた柊木はにっこりと微笑んだ。それは父親が娘に向けるような、柔らかい笑みだった。
「僕の部下は確かに馬鹿なことをした。でもそれは彼の信念に沿ってのことだ。彼があそこで奮起しなかったら、警察機構はいつまでも変わらないだろう。組織は人で構成される。組織を変えるためには人を変えなければならない。いつの時代も同じさ。人を動かすにはココが大切なんだよ」
と、自分の胸を。心臓を指差し、トントンとやってみせる柊木。
「馬鹿な奴が数人いて、そんな馬鹿が大勢を動かすんだ」
「くだらない」
はき捨てるようにルルが言う。彼女は憎憎しげに床に視線を投げ打った。
「きみは頭が良いから、若いのに世の中のことをよく知ってるんだね」
だが柊木は動じない。「──でも、どうかな。本当に知っているのかな。もしかすると知った気でいるだけかもしれない。きみは女優になりたかったんだと聞いたよー? いい夢じゃないか。オーディションを受ける以外にもいろんな方法があるんじゃないかな。考える前にいろいろ試してみたら──」
「──やめてよ!」
ルルは柊木の言葉を途中で遮った。彼女が声を荒げたのは初めてだった。
彼女はこちらに顔を向けていた。ギラつくような色を瞳に浮かべて。
「わたしのことなんかどうだっていいのよ! 女優になんかなりたくないわ。忘れたわよ、そんな夢」
「それは寂しいねぇー」
忘れたとルルは言う。しかしその言葉が嘘であることは、態度を見れば明らかだった。
「自主制作で映画をつくることだって出来る。自分で実績を先につくればいいんだ。魅力なんてものは実績を積むうちに自然に備わるよー? この街にはそうした夢を持った若者たちがたくさんいるはず。仲間だってすぐに見つかるさ」
「あなた、ジュンのことを言ってるの?」
ルルは俳優志望の友人の名前を口にした。とある窃盗事件の実行犯として起訴されている若者のことである。
いくつかの窃盗事件を起こした彼らを追い詰めたのは、他でもない柊木たちなのだが──。
「? 誰のことだい」
柊木は、いぶかしげに眉を寄せた。
「ジュンよ。池内ジュン。あなたたちが逮捕した──」
「??」
「あ──そっか」
なおもピンと来ない様子の柊木を見て、小さくルルは声を漏らした。そっか、忘れちゃったんだ。あの事件のこと。
このスタジオ内には、忘却を司るクレイオスのダイモーンが撒き散らしたガスが充満している。柊木は、ルルの友人たちが起こした事件を解決したことを──忘れてしまったのだ。
──忘れちゃったんだ。
ルルは、さらに呟いた。
心なしか、その口調は少し寂しげで。柊木はじっと少女の横顔を見つめた。
* * *
「私は君の味方だ、君を助けたい? 真っ平御免よ、ウザいのよ! わたしは自分の意志でアムネシオスの声を聞いたのよ、誰の手助けも要らないの。どうせリオネを探しにきたんでしょうけど、あんたたちがあの子を見つけるのは無理よ。たとえ見つけることができたって、みんな忘れちゃうんだから! あんたたちは、みんな忘れて、ずっとこのスタジオの中をウロウロとさ迷い続けるのよ!」
「──なるほど、よく分かりました」
ネティー・バユンデュは、大友ルルに対してあくまで冷静に振舞った。隣りにいた警官のエドガー・ウォレスにチラリと視線をやりつつ、少女に視線を戻す。
三人がいるのは、味気ないコンクリートの廊下だ。もしかすると、大友ルルは彼らに背を向けて逃走するかもしれない。そこは微かな緊張感に包まれていた。
「大友ルル。あなたは、あの生物がティターン神族と呼ばれる生命体の作りだした精神的な連結装置であり、あなたの思考を支配するモノであることを理解している」
見た目は20代後半の若い女性だが、ネティーはラテラン星から地球に派遣された親善大使だ。未熟で未発達な地球人よりもずっと、高度な精神構造を持つ彼女は、短い会話でルルの置かれている状況を理解していた。
しかし、とネティーは前置いて続ける。
「だというのに、あなたはそのことに関してさしたる問題も感じていない。自分の意思だとも言う。すなわち、あなた自身がティターン神族を引き寄せたということです」
「そうよ!」
冷徹な視線を投げ打つネティーに対し、ルルの方は怒りを抑えられない様子に見えた。
「みんな忘れちゃえばいいのよ。銀幕市がまるごとこんなことになって、まともなことだと思える? リオネの魔法なんか無かったことにした方がいいのよ。そうしたら、この街から出て行った人たちだって戻ってくるわ。みんな元通り。ハッピーエンド、よ」
「そうですか」
言いながらも、ため息をつくネティー。成り行きを彼女に任せているエドガーも、ゆるゆると首を振った。
「大友ルル。クレイオスがそのようにあなたに言ったのですか?」
「そ、そうよ」
一瞬、言葉に詰まったようにルルは答える。「そんなようなことを言ってたわ」
「そうですか。では質問です。あなたはなぜその言葉を信じたのですか? その根拠は?」
「根拠って……」
「クレイオスの力で、リオネの魔法が無かったことになったとしても、話はそれで終わらない……とは思いませんでしたか? 銀幕市だけで終わらず、この日本という国、そして地球全体へと忘却の力が広がっていくとは?」
「え──だって」
「いいですか」
ネティーは、ルルに反論の機会を与えなかった。
「クレイオスにはこの世界を虚無に戻すという目的があるのです。それを前提に考えれば、この銀幕市だけで力の行使を終わらせるということは考えにくいでしょう。現時点では、その論理的根拠はゼロに等しい。それでも──」
* * *
「──それでも、あなたはクレイオスに手を貸すのですか?」
* * *
「たぶんそれは君のことなんだね」
エドガーは、赤いベコニア鉢の隣りの丸椅子に腰掛けながら言った。
このセットは花屋仕様で、彼の目の前には大友ルルがいて、棘のない白薔薇の切花を手で、もてあそんでいる。
どうやらこの花屋が登場する季節は秋らしく。売り物は生花と造花と半々で構成されていた。間口の狭い、何の変哲もない秋の花屋。秋。それでもエドガーがいつぞやの秋の宴を思い出すことは無い。
そして警官である彼も、警官としてではなく、一人の人間として、大友ルルに向かい合っていた。
「君はリオネのことなんかどうでもいいと思っている。この街での出来事を無かったことにしたいのは君自身なんだ」
そう言うと、彼は少し寂しそうな色を目に浮かべてみせる。
「──そして君は、この世界から消えたいと思っている。死にたい、とはまた違う。君は、消えてなくなりたい、と思っている」
「だから、何よ」
反論を諦めたのか、ルルはそっけない返事を返した。
「なぜ? なぜ、君は消えたいと?」
「──わたしを理解したいだとか、あなたそんなようなこと言ってたわね」
ルルは言う。エドガーはそんなことを言った記憶は無かったが、ただ微笑みをもってそれに応じた。
「いい答えをあげる。わたしはこれなのよ」
そう言って、彼女が指差したのは、ススキの穂だった。店頭の大きなオーナメントから数本突き出していたもので、季節外れのそれは造花であった。
「この穂が花だってことを知っている人は少ないわ。本人は咲いているのに、誰も気づかない。……だって、華がないんだもの。いくら揺れたってムダよ。どこにでも生えているものに気を配る人間はいないわ」
「そうかなあ?」
少女の冷たい口調に、エドガーは努めて明るく相槌を打った。
「どうだろう。それはススキが揺れているだけだからじゃないかな」
「どういう意味?」
「叫んでみたらどうかな。ススキが叫んだらどうだろう。そうしたら、人はススキに目を留めると思うよ」
穏やかなエドガーの言葉に、ルルは怪訝そうに眉を寄せる。
「ススキは叫んだりしないわ」
「そりゃそうだよ。ススキは植物だが、君は人間だ」
「──嫌な答え方」
「俺も、かなり嫌な奴だって、さっき言わなかったっけ?」
ルルは、ジロリと彼を見返す。
「あなたたちは、みんな揃いも揃ってロイ監督の話を持ち出すのね。わたしのことを聞いたようだけど、あれはもう終わったこと。わたしだって、もう何とも思ってないわ」
「他の誰かと会ったのかい? へえ、てっきり俺が一番乗りかと思った。──いずれにしても」
と、そこで彼はにっこりと微笑んでみせる。「俺は、今、君と話していて楽しいよ。君は聡明だし、きっと自分が何をすべきか分かっているはずだ」
「──永らへば またこの頃や しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき」
「え?」
「俺の好きな和歌の一つさ。長く生き続けていれば、辛かったことも楽しく思い起こせる、という意味だよ。俺にとってはね、楽しい出来事も苦い思い出も犯した過ちも全部貴い経験なんだ。それらから何かを学び、得る。その繰り返しが人生だと思うんだよね」
エドガーは淡々と、ただ笑みをたたえながら少女を見つめる。ルルは、目の前の男が何を言っているのか理解できないようで、ただ、ただ彼を見つめ返していた。
「ルル。ロイや君自身が気付いていない魅力を見出す人がこの街にいるかもしれない。このまま風に揺られるススキのままでいるか、叫ぶか。俺は叫ぶ事を奨める。叫べば誰かの耳にその声が届くチャンスがある」
少女は肩を強張らせ、口の中で何かをつぶやいて俯いてしまった。だが、エドガーは構わず続ける。
「君を変えられるのは、君自身だよ。どの道を選ぶかは君次第だけど……。夢を追いかけていた時の気持ちを思い出して、星を掴んでほしいんだ」
「……なんでよ」
小さな声でルルが言った。
「うん?」
「なんでよ!」
急に、怒ったようにルルが叫んだ。「なんで、今さらわたしを励まそうとするのよ! アカの他人なのよ、しかもわたしはあんたたちにとって敵。痛めつければいいじゃないの! リオネを取り戻せれば、わたしのことなんかどうだっていいんでしょう? そうよ──」
まくしたてながら、何かに気づいたのか。ルルは顎を引き、強くエドガーを睨んだ。
「そうよ、あんたたちは、わたしのことを理解したフリしてるんでしょう? 君はまだやれる、まだ頑張れるとか言って。そうすれば、わたしがリオネの居場所を喋るとでも思ってるんだわ。騙されないわ、騙されるもんですか!」
「──違うな」
そう彼女に答えた声は、エドガーのものでは無かった。
弾かれたように、声がした方を見る二人。花屋の入口に金髪の青年が立っていた。天井からぶら下がっているローズマリーの。その藤色の花の隣りに、彼の色白の顔があった。
「騙そうとしてんのは、おまえだよ」
イェータ・グラディウス。傭兵団『ホワイトドラゴン』の隊員であり、傭兵である彼は足音もさせずに、そっと。猫のように二人に数歩近づいた。
何よ、あんた、とルルが後ずさる。
「おまえは自分自身を騙そうとしてるんだよ」
静かな声で、闖入者は言った。
「もう駄目だ、誰も味方がいないと思い込もうとしてる。本当にそうなのか、おまえには本当に誰もいねえのか。──いや」
語気を強め、イェータはルルを真っ直ぐに見る。「本当におまえは、みんな忘れちまいたいって思ってんのか?」
「わたしは──」
「女優になりてえと思った、おまえのその強い思いを簡単に捨てちまっていいのか?」
何も言い返せなくなったのか、ルルは口をつぐみイェータを凝視した。
傭兵は、また一歩を踏み出した。少女の気持ちを感じ取ろうとでもいうのか。間合いを詰めることを、彼はやめない。
ルルはもう一歩、よろめくように後ずさった。
「いいか」
イェータはその目をまっすぐに捉える。「忘れてぇって思う気持ちは罪じゃねぇんだ。心が血を流したまんまじゃ、誰だって苦しい。でもな。忘れたいと言いつつ、決して忘れはしないからこそ、人間は強くなれるんだ」
エドガーも静かに目を閉じ、うなづいた。
「俺のために母親が死んだ。俺の目の前で、たくさんの仲間が殺された。映画の中の話じゃねえ。全部現実の話だ。そして、彼らが死んだのはみんな俺のせいだ」
イェータは、常に思っていた。人体実験の末、兵器として生み出された自分は、人間の欠陥品だ。戦場しか生きる場所がない。自分が人間なのか化け物なのか時々判らなくなることすらある。
「──それでも、俺は生き続ける」
どうして? と、小さくルルが呟いた。彼女は薔薇を持っていた手をだらりと下げ、傭兵の顔をじっと見返す。彼はもうすぐそこに居た。
「仲間が死んだのは、もう十三年も前になる。だが、俺は奴らのことを忘れない。俺の力が及ばなかったばかりに奴らが死んだことを忘れない。あいつらの記憶と一緒に、あいつらの分まで生きることが、弔いになるからだ」
忘れたくない。絶望もしない。イェータは、ルルの細い肩に手を触れようと手を伸ばす。
自分が愛されたこと、愛していたこと。『彼』の笑顔に救われていること。失われた家族が自分の幸せを願っていることが判るから。
だから自分はここにいる。だから自分は生き続ける。
傭兵の手が、少女の肩に触れたその時。ハッと、ルルは我に返ったように身体を震わせた。
「──や、やめて!」
* * *
「消しちまえば、おしまい。そうだよな。分かるよ」
ミケランジェロは手にしたモップに、自分の体重を預けるようにしながら言う。
「俺も昔はそう思ってた。忘れる、消す、無かったことにするのは、スマートな解決方法だってな。でも、今は違う」
友達が、教えてくれたんだよ。と、芸術の神はルルに言う。今や、彼らは並んで、銭湯の壁の絵を見上げていた。
「最初は俺もよく分からなかった。どうしてそんなに何もかも背負っていこうとするのか、俺には理解できなかった。だが、そいつはいつもキラキラ光ってた。足掻いて、もがいているのに、なんていうか──」
──美しかったんだ。
「俺はもう、消すことに救いを求めたりしない」
ルルはただ、銭湯の壁を見上げている。聞いているのかどうか。ミケランジェロの言葉を無視しているのか。それは分からなかったが、彼は淡々と彼女に語りかけ続けた。
「虚無に救いなんかない。罪も罰も、穢れたものも何もかも抱えて、足掻きながら生きるのが人間だ。それが人の美しさなんだ。なあ──ルルって言ったっけ、お前」
名前を呼ぶと、少女は無表情な顔をこちらに向けた。絶望か、いや違う。彼女の瞳には、ただ色が無かった。何も浮かんでいなかったのだ。
「お前だって、光を見つけたはずだ。それは、どんな光だった?」
* * *
足掻くなんて、馬鹿馬鹿しいのよ。
大友ルルは吐き捨てるように言った。
ま、確かにね。そうかもね。
吾妻宗主は、気楽な口調でそう答える。よっ、と口に出して言いながら、空の浴槽の縁に腰を降ろす。
なぜだろうか。大友ルルは、ずっとこの銭湯のセットの壁に描かれた海岸の風景を見上げている。宗主が彼女を見つけたときから、そうだった。
この絵が好きなの? と聞けば、違うと言う。
思い出の風景なの? と聞けば、それも違うと言う。
誰が描いたのか知ってる? と聞けば、知っていると彼女は答えた。
宗主も知っていた。この絵を描いたのは、ミケランジェロだ。映画の中から実体化した、自称掃除屋。宗主からは決して届かないほどに優れた才能を持った、まばゆいほどのセンスの持ち主。
「俺もさ、こういう絵を描けるようになりたいって、ずっと思ってるんだ」
「知ってるわ。医者になりかけたのに、画家になろうっていうんでしょ」
馬鹿よね。公然とルルは宗主に言う。医者になればお金にだって困らないのに。
「ああ。でも、子どものころからずっと成りたかったんだ」
構わず、宗主は自分の話を続けた。笑顔を浮かべたまま。
「中学のときなんかね、有名な日本画のコンクールに出品できることになってね。俺、嬉しくってとにかく頑張っちゃったんだ。何日も徹夜してさ、仕上げたんだ。俺としては、今までで最高のもの描いたと思った。自信満々だったよ」
でもさ、と宗主はルルと一緒に、壁の絵を見上げながら続ける。
「いざコンクールが終わってみれば、俺の絵、ぜんぜん駄目だった。箸にも引っかからないってこのことだね。見事落選。俺、すごく頭に来たよ。審査員の奴らは俺の才能をぜんぜん分かってない──そう思った」
ふと横顔に視線を感じる宗主。ルルが、自分を見ている。
「だけど高校生のころ、その絵をもう一回改めて見てみたらさ。俺も“こりゃ駄目だ”って思ったんだ」
そこで、彼はプッと小さく吹きだすように笑う。「中学生の俺の絵、なんだか、うまくやろう、綺麗に描こうっていうのが見え見えでさ。ちっとも面白い絵じゃなかった。数年経ってから、それがようやく理解できたんだ」
「自分に才能が無いって……理解したってこと?」
「ん……、才能が無いと有るとか、そういうのとは、ちょっと違うかな」
静かに問われ宗主は答えた。
「その時見えなかったものが見えるようになったっていうこと。時が経てば、見えてくることっていっぱいあると思うんだ」
ルルは無言で、首をかしげた。宗主から視線を向けられると、また壁の絵へと視線を戻してしまう。
「ここが駄目、とかさ。指摘されたんなら、その部分に気付けて良かったって思うんだ。駄目なところに気付けたら自分でそこを伸ばしていけるじゃない? 君は映画が好きで、女優になりたかったんでしょ」
「また、その話!」
「──?」
突然、腹立たしそうに言われ、宗主は戸惑ったようにルルを見る。
「あんたたち、みんな同じ話して、わたしを──」
「? 誰かに会ったの?」
「もう、やめてよ!」
少女は大きな声を上げて、宗主から離れるように飛び退いた。
「さっきも、あんたそんな話をしたじゃないのよ。わたしには才能もないし、女優もオーディションも、どうだっていいって言ったじゃないの! もうたくさんよ! わたしに構わないでよ、何でみんなわたしなんかに話しかけようとするのよ」
「だって──」
自分は同じ話を二度したのだろうか。宗主は覚えのないことを言われ、さらに戸惑った。
「ロイ監督に君のことを聞いてさ、俺がもし君だったら、落ち込むよなあって思ったんだよね。君が、君自身のことを嫌いになるかもしれないって」
ルルは苛立ったように自分の頭を両手で包み込むようにして、髪を掻き上げた。
「ええ、嫌いよ。大嫌いよ。あんたたちのことも嫌い、わたしは自分が嫌い。だからわたしを嫌いなさいよ、わたしはアンチファンよ。あんたたちの敵よ。この銀幕の街が、めちゃくちゃになればいいと思ってるの」
「君を嫌うのは嫌だな」
しかし宗主は動じず、自分の素直な気持ちを口にした。
「俺が頭にくるのは、君を操ろうとしているティターンのクレイオスさ。君のことは嫌いじゃない」
「同じ映画好きでしょ。君は映画が好きだから、この街に来たんでしょ?」
* * *
「何なのよ、わたしだって努力してるわよ。たくさん努力したわよ、でも駄目だったって、なんで分かってくれないのよ!」
* * *
「結局さ、思い通りにならないことっていっぱいあると思うんだ」
俺は、もしかすると、もう何度もルルに会っているのかもしれない。そんなことをぼんやりと思いながら宗主は少女に話しかけていた。
この喫茶店のセット。奇妙なほど見覚えがある。さきほどもここに自分は来たのではないだろうか。デジャ・ヴュなのか、本当に来たのか、それが分からない。
「ムービースターの人たちだって、すごい力を持ってるけど、思い通りにならないことがいっぱいあるよ。そもそもさ、何でもすぐに出来ちゃったら、つまらないじゃない?」
じっと、ルルは宗主を見返してくるだけで、何も言わない。宗主がこんな話をしているのは、ルルがロイ・スパークランドのことを口汚く罵ったからだ。
「あのさ。努力して出来るようになることがあるから、楽しいんだと思うんだ。夢を願うからありえない話が映画になる。君はそういったスターを演じたかったんじゃないのか? 諦めるのは楽だけど、先がなくなっちゃうしさ。もう少し足掻いてみてもいいんじゃない?」
「うるさい!」
急に会話を打ち切るようにして声を上げ、ルルは憤慨した様子で足早にセットから出ていった。会話が全く成立していない。それもあって、宗主は彼女を追おうとはしなかった。
とにかく奇妙な違和感を感じていたのだ。遠ざかる彼女を見ながら、宗主は、ふと手元の携帯電話を見た。
時刻は3時50分。有り得なかった。
自分の感覚では、ついさっきこのスタジオに入ったばかりだ。それなのに4時間以上もこの中をさ迷っていることになる。時間の感覚が麻痺させられているのか。
自分たちは一体何をルルと話しているのだろうか。
* * *
「リオネくんはリオネくん。君は君だ」
苛々した様子を隠しもせずに、教室内を歩き回っている大友ルル。その彼女の動きを、柊木は目で追いかけている。
どれほどの時間が経っていたのか分からないが、彼は少女に辛抱強く話し掛け続けていた。
「リオネくんは自分の意志で罰を受け入れたんだ。どれほど辛くとも、この街の行く末を見届けると決めたんだよ。……全て忘れられてしまえば、確かに楽だろうね。でも、それは逆に寂しいことだとも思わないかい?」
「寂しい?」
そう、と柊木は少女から反応があったことが嬉しくて微笑んでみせる。
「僕はきみを忘れたくないよ。この街で起こったたくさんの出来事も忘れたくないねぇー」
「迷惑よ、忘れてよ!」
「嫌だよ。僕はきみを覚えていたい」
彼は同じことを噛み締めるように、ゆっくりと言った。
「きみが、この困難を乗り越えて素晴らしい女優になって活躍する姿を見てみたいなぁー」
ルルは何か意味にならない言葉を口走る。どういうわけか、彼女はとても苛立っており、何かにとても腹を立てていた。
「きみはまだ若い、どんな可能性だって秘めているんだよ? 華が無いと言われたのなら、これから育てていけばいいじゃないか。この街はとても素敵なところだ。きみの活躍できる場所はたくさんある」
柊木は、しかし浮かべた微笑みを決して消しはしない。
「僕もこの街に来てから、素敵なことがたくさんあったよ。新しい家族もできた。意地っ張りだけど優しい娘と、孫と、大勢の友達と。こんな嬉しいことはないよー」
* * *
「わたしとあなたは違うのよ! もう、やめてよ、わたしに話しかけないで!」
* * *
「忘れたくないよ、大切な思い出だもの。一つだって忘れたくない」
ピアノの上に白磁のような細い指を置いたまま、リゲイルは目を伏せる。
「でも、わたしだけの記憶じゃないもの。きっと誰かが覚えていてくれる。あのね、神様の力でどうにかなるほど、わたしたちの絆って弱くないと、思うんだ……」
相手からの返事は無かったが、リゲイルは胸にいっぱいの思い出を一つずつ思い起こしては、その感情を確かめ、言葉を紡いでいく。
「わたし怖くないよ。忘れてもきっと思い出せるから。わたしたちの思い出は無くなったりしない。だから、わたしリオネちゃんを連れて帰りたい」
桜の季節に神の子と話をした。そう、あれから一年が経とうとしている。この街から消えてしまった二人の時は止まってしまったが、自分はこの世の中に存在し続けている。
「ねえ、お願い。彼女を帰して欲しいの」
そう言いながら、ようやくリゲイルは振り返った。背後の長椅子に、リオネをさらった張本人のルルが腰掛けているはずだった。だがそこに彼女の姿は無かった。
おや、と辺りを見回せば、居た。ルルは壁に寄りかかるようにして立っていた。こちらに背を向けている。何をしているのか──。
「ルル──さん?」
そっと声を掛けながら、リゲイルは彼女に近寄った。
よく見ると、ルルは自分の耳を塞いでいた。両手を耳に当てて、言葉を聴かないようにしているのだ。
「あの……」
もう一度声を掛けると、ルルは膝を追ってうずくまってしまった。
その背中をリゲイルは不思議そうに見つめた。一体、彼女に何があったのだろう。リゲイルは背を丸めてしまった少女の肩に手を伸ばそうとして──自分の手を握ってしまう。
いいのだろうか。彼女に触れてしまっても。他人の心に土足で踏み込むようなことになりはしないだろうか。
だが、リゲイルはその手を開いた。彼女は意を決し、ルルの肩に触れようとする──。
* * *
「──魔法が消えても、人々の思い出の中で俺達は生き続ける。それこそが、俺達がこの街で生きた証なんだ」
* * *
「知的生命体である以上、記憶というものから逃れる方法はありません。しかし、記憶とは経験と同義でもあります」
ネティーは、廊下を歩きながら傍らの巨漢──ランドルフに話しかけていた。二人はもちろん面識は無かったが、このスタジオの中で行き会って一緒にリオネを探すことにしたのだった。
ランドルフは自らの嗅覚を頼りに。ネティーはディテクターという携帯電話によく似た小型コンピュータを使用して、廊下を足早に歩いていた。
「私は母星では生物研究者として政府機関で働いていたのです。そのころに記憶除去装置の研究に関わったことがあるのです。今回はその時のことを思い出しました」
「記憶除去……ということは、人の記憶を無くすということですか」
「そうです。まさにクレイオスの能力と一緒ですね。精神に負担を与える記憶、思い出すたびにストレスを感じる記憶──つまり、本人にとって辛い記憶のことです。それを消すことで負担やストレスをも除去しようと考えたのです」
難しい話ではあったが、ネティーが丁寧に説明してくれるのでランドルフは何とかそれを理解することが出来た。
「しかし研究は、全くうまくいきませんでした」
淡々と彼女は説明を続ける。
「辛い記憶を消された者は、精神が未成熟の状態に戻ってしまったのです。小さなストレスにさえ耐えられなくなってしまった者たちは、やがて生きることそれ自体にストレスを感じるようになります」
「それはつまり──」
「生きる力をも失ってしまったということです」
溜息をつきながら答えるネティー。
「結局、被験者は全員自ら命を絶ってしまい、研究は凍結されることになりました」
彼女はディテクターの画面に目を移した。ランドルフの目には、その横顔が少しだけ哀しそうにも見えた。
地球人にも同じことが適用されるかは分かりませんが、とネティーは言い、ランドルフの方をちらりと見る。自分の顔に何か付いているかと言わんがばかりに。
「辛い記憶でもそれは生物にとって成長の糧であり、それがなければ人は生きていけないのです。私自身も、その研究の辛い記憶を持つことによって、また成長することができました」
「そうなんですか……」
ランドルフは、上手い言葉を思いつかずにうなづくだけだった。一見、感情の起伏が乏しいように見えるネティーだが、彼女もおそらく、その研究に参加してくれた者たちが絶望し死んでいく様を見て心を痛めたに違いない。
そういった絶望や悲しみから解放されるためであったのに、結果は真逆のものになってしまったのだから。
「あなたは」
ふいに、話を変えようとしたのか、口調を変えるネティー。
「聞いた話ですが、ムービースターを狂わせてしまうというネガティヴゾーンに生身で赴き、ただ一人帰ってくることが出来たムービースターだとか?」
「──はい。そうです」
あの『穴』に行ったときのことだ。ランドルフは、ゆっくりと頷く。
「でも、本当はよく分からないんです。私も彼らのようにムービーキラーになっても、おかしくなかったんですから」
彼は、ごく、と生唾を飲み込んだ。
「私は過去に、友人二人に対してとてもひどいことをしました。だからそのことを忘れないように彼女の指輪をいつも持ち歩いているんです。あの『穴』に行ったときもそうです。彼女たちのことを思い出すと、私は胸が張り裂けそうになります」
さすがに、友人を食ってしまったのだとは言えずに、ランドルフは大きな手をそっと自分の胸に添えた。
「忘れたいです。でも忘れてはいけないと思う。この街に来てから、楽しいこともたくさんあって、私はたまに分からなくなる時もあります。自分はこんな風に過ごしていていいのだろうか。彼女たちの人生を犠牲にしてこんな──」
「ランドルフ」
ネティーが彼の腕にそっと触れた。目が合うと、彼女はゆるゆると首を横に振ってみせた。
「いいんですよ、それで。あなたは自分に向かい合っている。そして未来を見ているではありませんか」
ランドルフは傍らのネティーを見下ろした。彼女は微笑んでいた。
その顔を見ていると、何だか温かいものがこみ上げてきて。ランドルフは足を止め、小さく頷いた。ありがとうございます、と告げながら。
その時だった。
「──!」
二人は同時に顔を上げて、目を見合わせた。ランドルフは鼻をヒクつかせ、ネティーはディテクターが反応する電子音を聞いた。
「リオネちゃんの」
「行きましょう」
短く答えるネティー。ランドルフもうなづいて、二人はさっと身を翻して神の子の反応のあった方向へと走り出していった。
* * *
「ロイ監督に君のことを聞いたんだよ。それで、俺がもし君だったら、落ち込むよなあって思ったんだよね。君が、君自身のことを嫌いになるかもしれないって」
「──わたしのことなんか、あなたに関係ないじゃない」
* * *
「きみは女優になりたかったんだと聞いたよー? いい夢じゃないか。オーディションを受ける以外にも方法があるんじゃないかな。考える前にいろいろ試してみたら、どうかな?」
「その話は、もうやめてって、さっき言ったでしょう!」
* * *
「辛い記憶を消された者は、精神が未成熟の状態に戻ってしまうのです。小さなストレスにさえ耐えられなくなってしまった者たちは、やがて生きることそれ自体にストレスを感じるようになります」
「な、何言ってるのか分かんないわよ!」
* * *
「忘れてぇって思う気持ちは罪じゃねぇんだ。心が血を流したまんまじゃ、誰だって苦しい。でもな。忘れたいと言いつつ、決して忘れはしないからこそ、人間は強くなれるんだ」
「あんたと、わたしは違うの! もう、何度言ったら分かるのよ!」
* * *
「俺もおまえに言わせてもらおう。それは、努力しないヤツの論理だ」
「何で、」
* * *
「君を変えられるのは、君自身だよ。どの道を選ぶかは君次第だけど……。夢を追いかけていた時の気持ちを思い出して、星を掴んでほしいんだ」
「──ねえ、それなら、どうして、」
* * *
「わたし怖くないよ。忘れてもきっと思い出せるから。わたしたちの思い出は無くなったりしないから」
「何で忘れちゃうのよ、あんたたち──」
* * *
「どうして、わたしの言ったこと覚えていてくれないのよ!」
* * *
誰かの悲鳴がスタジオ内に響き渡った。
ハッとイェータは顔を上げた。今の叫びは、ルルなのか?
気付けば、自分は虚空に向かって手を伸ばしていた。触れようとしていたルルは、しばらく前に去っていたらしい。これもダイモーンの仕業なのか。
「上だ!」
近くにいたスーツの男が言った。彼も今の悲鳴を聞いたのだろう、鋭い目つきで上階を見ていた。
「エドガーだ」
「イェータ」
短く名乗り合い、頷いた二人は、床を蹴るようにして走り出した。
花屋のセットを抜け出し、上階へ上がる階段のところに駆けつけてみれば、モップをもったツナギの男と銀髪の若い男が反対側から走ってくるのが見えた。
ミケランジェロと、吾妻宗主だ。
「今のを?」
「聞いた。ルルだ」
エドガーの問いに、宗主が短く答える。四人はモノも言わずに階段を一足跳びに駆け上がった。
四人は何も言わなかったが、お互いなんとなく理解していた。
みな、それぞれルルに会った。話をした。そして、彼女を追い詰めてしまったのだ。リオネの姿はなく、ダイモーンの姿も見つけられなかった。
このままでは──まずい。
誰もがそう思った。
階段の上まで登ると、赤毛の少女──リゲイルがいて、四人の姿を見て声を上げた。その後ろには柊木芳隆が立っているのも見える。
「リオネちゃんが!」
「どこに」
「声を掛けたら、逃げちゃって──」
「向こうだ。おそらくリオネくんは我々のことを忘れている」
リゲイルの言葉を補足しつつ、柊木は四人に廊下の奥を指差した。
「たった今だ」
「ルルは?」
「分からない」
「──こっちだ!」
一人、イェータが反対側へと走り出した。リオネが行ったのと別方向だ。
残された面々は視線を交わし、ミケランジェロと宗主、そしてエドガーはイェータの後を追った。リゲイルがリオネの方へと走り出したので、柊木はそれをフォローしようと、彼女とともに廊下の奥へと向かう。
* * *
「? わ、私は何を?」
ふと、自分が廊下の真ん中に立っていることに気付いて。我に返ったランドルフは思わず声を上げていた。直前の記憶が全く無い。自分は今、何をしていたのか。
「あなたは、ランドルフ・トラウトですね? 名前に間違いはありませんね?」
すぐ近くにいた風変わりな黄色と黒のスーツの女が言った。ええと……、ランドルフは耳の後ろを掻いた。彼女は確か──。
「ネティーです。ネティー・バユンデュ。私たちは一緒に……」
言いかけて、彼女も言葉に詰まった。「一緒に、何かを探していて」
ピッ! その時、彼女の手にしていたディテクターが鳴った。ピッ。ネティーは素早くその画面を見る。
みるみるうちに、文字が消えていく。不可思議な現象だった。しかし彼女にはそれで十分だった。
──リ、オ、ネ。
神の子の名前が、そこにあったのだから。
「リオネです。私たちは彼女を助けに」
「!」
ランドルフは驚いたような顔をしたものの、すぐに彼女を信じた。素直な彼の性格が吉と出た。自分にはそんな記憶は無い。しかし、ここにリオネを探しにきたのなら道理に合う。
「分かりました。リオネちゃんなら──」
彼の鼻が反応した。ランドルフは視線を巡らせ、振り返った。後方には教室のセットがある。彼らは知らなかったが、先ほどルルと柊木が居たセットだ。
「あそこです!」
無言でうなづくネティー。
彼女たちは、教室に向かって走り出した。おぼろげながら、段々と自分たちの状況が分かってくる。全ての記憶を失っているわけではないからだ。
二人は、自分たちが何をしているかを、忘れさせられたのだ。ティターン神族、クレイオスに。その忘却の力で。
「ドルフさん!」
ピシャッと大きな音を立てて、彼が教室の扉を開くと、背後から少女の声がした。振り返らずともランドルフはその持ち主が分かった。
「リゲイルさん」
見れば、柊木の姿もある。彼らは短く会話を交わした。
「リオネちゃんは」
「この教室にいます」
四人は、教室のセットの中に滑り込んだ。さっと展開し、室内を見回すものの人影は無いようだ。皆はランドルフを見た。この状況では彼の嗅覚が最も信頼できるものだった。
巨漢の食人鬼は、ゆっくりうなづいて、教室の後ろに並んだロッカーを指差した。
「そこです」
彼の太い指が、右から三番目のところで止まる。
「その中に、リオネちゃんがいます」
四人は、静かにそのロッカーに近づいた。確かに、中から人の息遣いのようなものが漏れ聞こえてくる。
ネティーとランドルフ、柊木、そしてリゲイルは顔を見合わせた。目配せし合い、こくりとうなづいたリゲイルがそのロッカーの前に立った。
「リオネ、ちゃん」
「……ッ」
呼びかけると、何か息を呑むような気配がした。
「わたしよ、リガよ。リオネちゃん」
「だ、誰……?」
名乗っても、ロッカーの冷たい扉の先からは怯えた声が返ってくるだけだった。リゲイルは悲しそうな目をして、背後の三人を振り返りつつも、またロッカーに視線を戻した。
「リオネちゃん、一人で怖い思いしたんでしょう? もう大丈夫だから。ねえ、ここを開けてもいい?」
「だめっ。リオネ、のこと、いじめるんでしょ」
「いじめないよ」
ゆっくりとリゲイルは声を掛けた。「あなたと、わたしは友達だもの」
「ともだち?」
「そう」
彼女は自然と微笑んでいた。
「もうすぐ桜の季節になるわ。また一緒に桜の下を歩きましょう」
「桜?」
「そうですよ」
思わずランドルフも口を挟んでいた。「夏には、砂浜でサッカーしたり、ああそれから、銀コミというんですか? 自作の本を売ったりするイベントがありました。インドから来た王子にカレーを作って食べてもらったり、水を撒いたりするイベントもありましたね。夏はいっぱい楽しいことがあって……」
息せき切ったように、彼は言葉を紡いだ。彼もリオネにいろいろなことを思い出して欲しかった。彼を、暗い闇から救ってくれたこと、この街での楽しい思い出。それを小さな神の子に話して聞かせたかったのだ。
ね? と、隣りのネティーに話を振ると、彼女も厳かにうなづいた。その水を撒いたりするイベントにだけ心当たりが無かったが、それは今のところ、些細なことだった。
「秋には運動会といって、市民が身体能力を比べ競い合う催し物がありました。それから菌類を採取して、それを焼くなどして食べる催し物もありましたね。どれも、この星の人間ではない私には新鮮なものでした。……あなたはそうは思いませんでしたか、リオネ?」
「きんるいってなぁに?」
「キノコのことだよ」
ロッカーの中からの質問に答えたのは柊木だった。
「この街には美味しい食べ物がたくさんあるからねぇー。ああ、ちなみに銀コミは、冬にもやっているよ。あれは夏と冬にやるものらしいね。クリスマスには雪だるまをつくったり、プレゼント交換をしたり、ほら、ついこないだのことだよ。きみも誰かにプレゼントをあげようとしてたんじゃないかな」
「リオネが?」
ロッカーの中で、小さな神の子は考えをめぐらせているようだった。
「プレゼント……。うん。クリスマスのときは、すきなひとにプレゼントするって、リオネ知ってるよ」
「リオネちゃんは、すきなひとがいるの?」
「うん。えっと……、としふみでしょ、みだすでしょ? それから、えっと……」
「そっか柊市長のことよね」
相槌を打つリゲイル。
「リオネちゃんは、スーパーまるぎんに出かけてたんだよ。きっと何かプレゼントを買いにったんだよね」
「まるぎん?」
リオネは何かを思い出したように、中で身じろぎした。「──そうかも。リオネ、まるぎんにお買い物いくのすきだもん」
「じゃあ、何をプレゼントしようとしてたか当ててあげようか」
「え?」
「──カニクリームコロッケよ。スーパーまるぎんの」
不思議そうな声に、リゲイルは微笑みを絶やさずに言った。
「コロッケ?」
「それも限定品の方のカニクリームコロッケよ。外はサクサク、中はとろっとろ。最高級のズワイガニを丸々使ったものなの」
彼女は不思議と胸がいっぱいになった。ただ、コロッケの話をしているだけなのに。食べ物の話をしているだけなのに。あのコロッケを食べて笑っている様々な人たちの顔が、次から次へと浮かび上がってきたのだ。
たくさんの思い出。彼女にもリオネにも、たくさんの楽しい思い出がある。
「そうなんだ……。おいしそう」
リゲイルの説明に聞き入ったのか、リオネはそれに興味を持ったようだった。
「美味しいよ。今度、一緒に買いに行こう?」
ね、とリゲイルはそっとロッカーの扉に手を触れた。
「わたしはリゲイル。リガって呼んで」
「リガ? リガ……ちゃん?」
扉がうっすらと開いた。リオネが中から押したのだ。
「そうよ、わたしよ」
覗いたリオネの目。微笑みかけたリゲイルが、静かにその扉を開こうとした時だった。
──シャッ!
ロッカーの中から、突然、何か小さなものが飛び出した。
キャッと悲鳴を上げるリゲイルの脇を、それが走り抜けていく。白い。白くて猫ほどの大きさのそれは──。
銃声がした。続けて二発。
一瞬の静寂の後、セットの窓ガラスが割れた。そこに駆け寄った柊木の手には、銃口から煙を立ち昇らせる銃があった。
「ダイモーンだ!」
彼の視線の先には、床に染みをつくった黒い液体のようなものがある。
「血、なのですか、これは?」
と、ネティー。彼女はディテクターを出し、反応を確かめる。
驚いたリゲイルはリオネの身体を抱きしめていた。そのおかげで、神の子は悲鳴を上げることもなく、ただぶるぶると震えていて少女にしがみ付いていた。
柊木が、その二人の様子を確認すると、油断のない目つきになってランドルフとネティーを振り返った。
「済まない、仕留め損ねた。だが──奴は、怪我を負ったはずだ」
* * *
一方、夜空の下。
少女が一人。こちらに背を向けて立っていた。
もう雪は止んでいた。真新しい白い雪が積もった上には、足跡がついていて。彼女の背中へとまっすぐに続いていた。
足跡は屋上の上を進み、柵を越えた向こうへと。
そんな光景が、屋上の扉を開けた先の──その静寂の中にあった。
「──ルル!」
誰が呼んだのか、数人の声が重なったのか。
静寂の中に自分の名前が響き渡ったことに気付いて、ルルは振り返った。もう白々と夜が明け始めている。水色とも紫色ともつかぬ、なんと表現したらよいか分からない色の空は、彼女の心の色をも映しているようだった。
柵に手をかけたルルは、袖で顔をゴシゴシとこすってから、こちらを向いた。ぼんやりとした目つきだった。
吐く息が──白い。
「もう嫌よ、こんなの……」
消え入るほど小さな声で、ルルが言った。
前に踏み出そうとしたイェータを、エドガーが手で制して止める。ミケランジェロも宗主も、迂闊に彼女に近づくことは出来なかった。
ルルが柵の外に居るからだ。
彼女は少し後ろにステップを踏むだけで、すぐに自分の命を絶とうとすることが出来た。彼女が望んでいたように、この世の中から消えることが出来るのだ。
「ルル、こっちに来い!」
「──わたし、いなくなりたいのに」
たまらず呼びかけたイェータに対してなのか。ルルはポツリと言った。かろじて届くようなか細い声だった。
「もう嫌よ。わたし、いなくなりたいのに、あなたたちはわたしを呼び止めようとする。──それなのに、わたしのことは覚えていてくれない」
言葉の末尾には、嗚咽が混ざり始めていた。
「……やっぱりわたし、消えてなくなりたいよ……」
だって、誰も聞いてくれないんだもの。
わたしのこと誰も見ていてくれないんだもの。
「違うよ」
よく通る声で、エドガーが言った。
「俺たちは君のことを見ているよ」
「そうだよ」
宗主も声を上げた。
「どうして今、君の前に四人も揃ってると思う? みんな君に消えて欲しくなくて。それでここにいるんだよ」
「なあ、おまえさ」
宗主の目配せを受け、ミケランジェロも言った。
「こんなところにいたら寒くねえか? 話は後で聞いてやるから、メシ食いに行こう」
ルルは力なく首を振った。
気をそらしてやろうとしたミケランジェロにも、他の皆も分かっていた。彼女を苦しめているのはクレイオスの忘却の力だ。本人は覚えていても、他人は忘れていく。彼の存在が抱えた矛盾が彼女をも苦悩に落としている。
「こっちに戻ってこい!」
イェータはもう一度同じことを言った。辛抱強く、彼の瞳はまっすぐに少女の姿を捉えている。
「後ろじゃない、こっちだ。前に踏み出すんだ。ルル」
言いながら彼は数歩、ルルに近寄った。
少女は怯えたように彼を見、震えるように首を振った。
「踏み出すんだ!」
何が彼を動かしているのか。イェータはこの時になって初めて、ルルの気持ちが本当に分かった気がしていた。どちらにも行くことができず、戸惑い、立ち止まってしまう。
誰にでもそういう時がある。
自分にも、そういう時があった。暗闇の中でうずくまるようにしていた自分を、そこから連れ出してくれたのは、家族であり仲間だった。大切な友人たち。
だから。
「おまえが一歩踏み出さなきゃ、誰も救ってやれねえんだ! おまえの命も、おまえが女優になりてぇって気持ちも、消えてなくなっちまうんだぞ」
「おいで」
エドガーもそっとルルに近寄った。彼は柔らかい笑みを浮かべていた。彼はルルをクレイオスから解き放ってやらねばと、思っていた。アンチファンも被害者なのだ。赤い本に惑わされ、殺人を犯してしまった、あの少女もそうだ。
エドガー自身も──惑わされる時がある。だからこそ、迷い苦しむ彼女を救ってやらねばならないのだ。
「ルル」
優しく彼女の名前を呼ぶ宗主の肩には、バッキーのラダがちょこんと顔を出していた。短い手足をばたばたと動かし、まるで少女に手を振っているかのようだ。
ミケランジェロは無言だったが、首の骨を鳴らし、フワアとあくびをしてルルを見た。さっさと行こうぜ、とその目が語る。
「ルル」
もうイェータは、ルルのすぐそばに迫っていた。
スッと伸ばした彼の手に、おずおずと遠慮がちな少女の手が近づく。一歩踏み出し手を伸ばせば届く距離だ。ゆらゆらと逡巡したそれは、やがてゆっくりとこちらに近づき、彼の手を、そっと握った。
みなが笑顔になった、その瞬間。
──よこせ!
手をつないだ二人の脳裏に、何かの思念が突き刺さった。
「キャッ!」
「……ぐッ」
強烈な思念を感じて、イェータとルルは悲鳴を上げて離れた。一体、何が! イェータは頭を押さえながら体制を整える。
だが、彼が見たのは、バランスを失って後ろへと倒れて落ちていこうとするルルの姿だった。
──そんな!
彼は、その琥珀色の目を見開いた。
* * *
人の心は弱い。
弱いのに強がろうとする。
無理をしようとする。
身の丈を知らないから、折れて曲がる。
どうだ、おまえもやり直してみないか。
仲間も死なない。母親も死なない。
まっさらな人生さ。
自分は化け物なんじゃないか、だなんて悩むこともない。
もう一回、生まれ変わるみたいなものさ。
悪くないはずだ。
さあ、もっとこっちに来い。
私と一緒にいこう。
もう夜が明ける。
みんな忘れて、楽しい朝を迎えようじゃないか。
そうさ。
今までのは、みんな夢だったんだよ。
* * *
「ふざけるな!」
* * *
雄叫びのように吼えたのはイェータだった。
彼は獣じみた動きで跳ね、跳んだ。それはまるで人間の動きではなかった。おおよそ本能的な行動だったが、彼は自分の目的を忘れてはいない。
ガツッ。伸ばした彼の無骨な手が、華奢な少女の手を掴む。コンクリートの縁に自分の胸をしたたかに打ちつけたが、今のイェータにはまったく関係が無かった。
彼はうつ伏せになって、落ちそうになったルルの手を掴んでいた。少女の足は虚空を蹴るが彼女は落ちなかった。
大友ルルは、死なずにすんだのだった。
「ぐキュッ」
「──見つけた」
彼の背後で、エドガーが抜刀していた。パッと飛び散る黒い液体。宙にいたかの存在の姿をを彼の剣筋が見事に捉えていたのだ。
「おっと」
「──ギュがッ」
それが落下しようとしたところに、今度は、ミケランジェロの突き出した仕込み剣が突き刺さった。掃除屋は串刺しにしたそれを見て、眉を寄せる。
白くて、バッキーに似た生き物……。
「こいつが、クレイオス、なのか」
「そのようだね」
宗主も目を細める。バッキーのラダが、ミケランジェロの腕に飛び移り、ぴくぴくともがいているそれを見つめている。
しばらくすると、それは静かになり、動かなくなった。
「──身の丈は自分で決めるもんだ」
ルルを抱き上げたイェータが、ひょいと柵を越えて戻ってくる。瞳に怒りの炎を宿した彼は、ダイモーンの死骸を見下ろし吐き捨てるように呟いた。「おまえなんかに決められてたまるか」
「──クレイオスは人選を間違えたようだね」
イェータに、事情を察してエドガーが声を掛けた。彼にはクレイオスの声は聞こえなかったが、イェータはエキストラだ。きっとクレイオスはルルの次にイェータをのっとろうとしたに違いない。エドガーはダイモーンを見下ろした。
「覚えておくんだね、世の中は時に予想もしない事が起きるものさ。──ああ、でもそういえば、忘れる事が君の十八番だったっけ、こりゃ失敬」
その言葉に、プッと吹き出すように誰かが笑った。
ミケランジェロが振り返ると、屋上にリオネを連れた柊木たちの姿が見えた。彼らも顛末を見届けるため、上に上がってきていたのだ。
彼らは床のダイモーンを確認し、安堵したように微笑む。
言葉はなかったが、視線を交わした彼らは皆、分かっていた。ダイモーンは死に、少女と小さな神の子は戻ってきたのだ。
「ティターン神族だかなんだか知らんが」
柊木がふいに口を開く。視線は床のダイモーンの上にある。その死骸らしきものはだんだんと砂のように溶けていっていた。近くでバッキーのラダが興味深そうにその様子を見つめている。
「この街の人間を利用するのは止めて欲しいものだな。我々ではなく彼らムービーファンやエキストラたちこそ、この街の主役なのだから」
口調は穏やかだったが、彼は静かに怒っていた。人間の心の隙を狙うティターン神族に、彼は我慢がならなかったのだ。
その言葉に、宗主も無言でうなづく。
やがてダイモーンの死骸は消えてしまい、興味を無くしたラダが走り寄ってきたので、彼はそれを抱き上げた。そして、あ、と声を漏らした。
見上げれば、夜は、いつの間にか明けていた。
* * *
あのね。
暗いところでじっとしてろって言われたの。
リオネ、怖かった。すごく怖かった。
だからね、いろんなこと思い出してたの。
うまく思い出せないこともあったけど。
リオネ、みんなにひどいことしたの覚えてるよ。
リオネ、みんなのことすきだから、怒られて、すごく悲しかった。
でも、リオネ、もうちょっとがんばる。
もうちょっとがんばって、みんながニコニコできるようにするね。
リオネ、みんなのことすきだから。
セーラちゃんが怒ってたのも思い出したよ。
リオネ、セーラちゃんのこともすきだよ。お友達だもん。
だから、セーラちゃんも、みんなみんなニコニコできるようにするの。
リオネ、がんばるね。
* * *
「もういいのよ」
リゲイルはリオネの頭を優しく撫でた。小さな神の子は、一生懸命に自分の思いを口にするのをやめて、赤毛の少女の顔を見上げた。
「帰ろう」
皆はスタジオを後にした。もう辺りはすっかり明るい。普段と何も変わらない、朝だった。日が高くなれば足元の雪も溶けてしまうのだろう。どこかで、鶏が甲高く鳴いている声も聞こえた。
鶏か。なんか鶏に嫌な思い出があるような気がするんだが気のせいか。ミケランジェロはそんなことを思いながら、肩にモップをかつぐ。
「さて、どうするかな、この後は」
誰ともなくそんなことを口にした途端に、彼は大きなあくびをしてしまった。今さらになって少しだけ眠気に襲われたのだ。バツが悪そうに頭を掻く。無表情だったネティーが、それを見て微笑んだ。
ルルは、一緒にいたが俯いて歩いていた。恥ずかしいのか、何かしらの罪悪感を感じているのか。誰とも目を合わせようとしていない。
まずはリオネを市長邸へと送り届けることになり、皆はなんとなくアップタウンの方向へと歩き出した。
「──ん?」
そこで、最初に異変に気付いたのはランドルフだった。彼は、鼻をヒクヒクさせて立ち止まる。
「どうしたんだい?」
声を掛けた柊木も、すぐに気付いた。宗主と目が合うと、彼もうなづいた。
「いい匂いですね。だしの香りだ」
道に漂う、よい香り。やがて全員がその匂いに気付いた。それは朝の匂いでもあった。その香りに鼻腔をくすぐられ、彼らは自分たちが空腹であることを思い出した。
料理の得意なイェータも、そうだ、と思い出す。同居人たちに朝飯をつくってやらねば。今日は、同居人たちもどこかでリオネを探していたはずだし、きっと彼の一番大切な友人も、その“弟”も、家で待っているに違いない。
いつだったかの時のように、美味い料理を振舞ってやらねば。いつだったか、思い出せないが何の問題もない。彼らと居れば、いつだって、楽しい時間を過ごせるのだから。
「──そこの『千道庵』っていう、そば屋よ。今からだしを仕込んでるのよ」
そんなイェータの脇で、ふいに隣りの少女が口を開いた。俯いていたルルだった。エドガーが意外そうに彼女を見つめる。
「そば屋?」
「そう。カツオ節だけじゃなくてサバ節も入ってるの。関西風ね。鰹節も荒節の方だから、香りもコクも濃厚なの。このそば屋でしか食べられない味よ」
「へえ。詳しいんだね」
エドガーが感心したようにルルを見る。
「君は、そこで食べたことあるの?」
だが、柊木にそう尋ねられると、ルルは首を横に振った。
「そりゃいい」
そう言ったのはミケランジェロだ。彼はあくびが止まらない様子で、少女をちらりと見る。
「じゃあ、今から行こうぜ」
「何言ってんの? まだ開いてないわよ」
思わずいつもの調子で切り返したルルは──笑っていた。馬鹿じゃないの、と言いながら、彼女はケラケラと声を上げて笑う。
その笑みを見て、皆、微笑んだ。
彼女が嫌味もなく素直におかしくて、笑っていることに気付いたからだ。
なぜだろうか。
そうやって笑っているルルは、本当に普通の十代の少女に見えた。
(了)
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クリエイターコメント | お読みいただいてありがとうございました。 リオネの記憶は完全ではないようですが、彼女は無事帰ってきました。 みなさんが、この忘却の迷宮に挑んでくれたおかげです。 ありがとうございました。 アナウンスのとおり、いつもより少し描写が少なめで、あとプレイングにより出番の強弱をつけさせていただきました。 みなさんのお気持ちに、感謝です……。
みなさんが忘れてしまったコンテンツのことは、お一人を除いて、ノベル内で描写させていただきました。 今後、どうなるのか分かりませんが、忘れたということで、フレーバーとしてお使いくださいませ。
>エドガー・ウォレス様 自らの身を振り返った静かな強い思いを、会話劇にさせていただきました。 和歌のお返事をしたかったのに出来なかったのが悔やまれます(笑)。 ★忘れていただいたのは、 パーティシナリオ 【女神祀典】アウトゥンノの祝実祭 です。
>吾妻 宗主様 ルルからは一番近しい人物というか、中学の時のエピソードは秀逸だと思いました。グッジョブです(^^)。 ★忘れていただいたのは、 ピンナップ 時代劇はざぁど・ぶらり双六 です。 ※ノベル内でただ一つ、うまく描写できませんでした(泣)。お許しください。
>リゲイル・ジブリール様 リオネとの絡みを多めにさせていただきました。なんかわたしも書いていてコロッケのところで胸いっぱいです。 ★忘れていただいたのは、 プライベートノベル バレンタインバースデー です。
>ミケランジェロ様 ほんとは興味あるくせに、興味ないフリしてる風にさせていただきました。 銭湯の壁に書いた絵、きっとルルはあとで見に行くと思いますよ〜。 ★忘れていただいたのは、 シナリオ 鶏−にわとり− です。
>ネティー・バユンデュ様 初めましてですね。クールで論理的なお姉さん、本当に楽しく書かせていただきました。でもせっかく虹を見れたのに、あのノベル忘れさせてしまってすいません。 ★忘れていただいたのは、 パーティシナリオ 銀幕市放水祭り です。
>柊木 芳隆様 いつもありがとうございます。今回もいろいろと語っていただきました。新しい孫ができたのでしょうかこれって。実にちょうどよい(?)ノベルを忘れていただきました。 ★忘れていただいたのは、 プライベートノベル アンディテクタブル ─銀幕大捜査線─ です。
>ランドルフ・トラウト様 リオネを探すというプレが意外に少なくてですね(笑)。そこで役立っていただいてしまいました。でもわたし思うにドルフさんは銀幕の希望の星だと思います(笑)。 ★忘れていただいたのは、 シナリオ 【死に至る病】#2 Decay です。
>イェータ・グラディウス様 熱さではピカイチだったのではないでしょうか。ルルをこちらに呼び戻したいという強い思いが、ざっくりと通じたのだと思います。WD隊員のみなさんと、また美味しいもの食べて、新しい思い出つくってくださいね。 ★忘れていただいたのは、 プライベートノベル White Dragon in the FANTASIA ―掌中の珠― です。
銀幕もあともう少しですが、どうか楽しい思い出を! このたびはありがとうございました!
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公開日時 | 2009-02-11(水) 20:20 |
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