オープニング

 結局、カムイを世話する巫者の護衛は本人たっての希望でイメラが引き受ける事になった。とは云えレタルチャペに由れば彼等の行き先には宝珠の欠片が在るらしい。欠片に纏わる過去の事件を想うとイメラ達が心配だ――其の様に考えた終は、世界司書ガラの元にエアメールを送り、此の事を知らせた。
 ガラがどの様な対応をするかは判らないが、悪い様にはなるまいと信じて。

 ※ ※ ※

 さて、当の終は今、里を抜け出して、朱い氷に覆われた山を登っている。
 霊峰コンルカムイ。神夷の民より崇められ、濫りに侵しては為らぬ神の領域。
 此の山を訪れるのは三度目だ。一度目は同山でも南側の西国領に当る範囲を探索した。二度目は半年程前、土地の掟を破り遭難した仲間を助けに来た。
 此の辺りは、春先に其の仲間が雪崩に見舞われた場所であるらしい。念の為、此処に至る迄の道程で何某かの異変や人が近付いた痕跡が無いか確かめてもみたが、目立った変化は認められなかった。終が春以来の侵入者となる様だ。
 レタルチャペの話では、頂上付近に(彼女が台座と比喩した)風穴が空いており、水の宝珠は其の中に安置されていると謂う。併し、風穴に至る道程は強力な封印が施されている上、縦しんばそれを潜り抜けたとしても、風穴の内部には宝珠を護る強力なカムイが待ち受けていて、不逞の輩に牙を剥くとされる。
 事前に終が守護者に関する詳細をレタルチャペに訊ねてみても「会った事があるでしょう、どちらにも」「往けばわかるわよ」等と煙に捲かれただけだった。又、封印については終が冷気に干渉する事で無効化出来るとの事だった。

 思案の末、終は誰より行動を共にした木行の妖――玖郎の元へエアメールを送った。
『一人で来て欲しい。状況の詳細は現地で話す。一応戦闘の備えも頼む』
 来てくれるかは判らないし、来たとして手伝ってくれるか如何か。何れ当者の判断に任せるしか無いが、いざ聲を掛けるとなって定まったのは彼だけだった。

 今、終は重大な禁忌に触れんとしている。
 朱昏が世界計の一端――水の宝珠を手に入れる。それが神夷の民にとって何を意味するのか。何故霊峰が神域とされるのか。何れ解らぬ程、終は愚かでは無い。
 此の事を識って、玖郎は如何想うだろう。
 それにイメラや其の祖母、神夷の民達は、矢張り怒るだろうか。
「……レタルチャペ」
 終は手頃な朱氷に腰掛け、無人の虚空に向い問うた。
 ――なあに。
 絡み付く様な聲が耳を擽る。ぞろぞろと気配が迫るも、相変わらず姿は無い。
「貴女は水の宝珠を手に入れて如何する」
 ――当ててごらんなさいな。
「復讐の為か」
 ――さあ? でも、おまえにとっても役に立つのではなくて?
「俺に使えと」
 ――そうね。私を出し抜きたいのなら、そのくらいはしてくれないと困るわ。
「俺は、」
 ――おまえなどいつでも殺せる。只の思念となってしまった今の私でさえ。
「……噫」
 ――けど、それではつまらないでしょう。だから……ね。
「まるで邪魔しろと云ってる様だ」
 ――できるものなら。ふふっ、ふふふふふ。
 囁きは笑聲へと移ろい遠ざかって、
 ――この先、手に余る事があったなら鬼面を着けなさい。『助けてあげる』わ。
「…………?」
 くす、くす、と、消えた。
「……出来る物なら、か」
 確かに彼女の云う通り、今の終では力尽くで止める事すら叶わぬだろう。ならば説得か。併し、下に見ている者が何を主張した処で耳を貸しはすまい。
 では、もし終が水の宝珠を手にすれば状況は変わるのか。それは許される行為なのか。又、仮に終が我が物とする気でも、レタルチャペが大人しく認めるのか。
 何れにせよ危険だし、今の侭では判断もつかない。
 終は懐の鬼面を確かめ、それから老婆に託されたメノコマキリを握り、空を見上げ玖郎を待った。彼の気が向いたなら、そろそろ到着する頃合だが。

 終は未だ気付いていない。
 遥か高みにて朱く透けた姿の少女が哀しい眼差しを己に向けている事を。
 朱い氷で封じられた風穴の奥、氷壁の中で脈動する陰陽珠から、巨大な朱い蛇が生え伸びて這い廻り、神域を侵す者を待ち構えている事を――。

ご案内

雪深終さんはレタルチャペカムイに「頼みごと」をされて、水の宝珠を獲得するために霊峰コンルカムイを訪れました。

宝珠の元にはなんらかの脅威が待ち受けているようですが、レタルチャペカムイからはあまり詳しい情報を得ることができず、終さんは思案の末、玖郎さんを呼び出すことにしました。

玖郎さんが終さんの呼び出しに応じる場合、お2人は現地で合流し、ここへ至った経緯や「オープニング相当の情報を終さんから聞かされた」とした上で、水の宝珠を獲得するために協力するなどの行動がおこなえます。

※今までの経緯:その1その2

!注意!
こちらは下記のみなさんが遭遇したパーソナルイベントです。

●パーソナルイベントとは?
シナリオやイベント掲示板内で、「特定の条件にかなった場合」、そのキャラクターおよび周辺に発生することがある特別な状況です。パーソナルイベント下での行動が、新たな展開のきっかけになるかもしれません。もちろん、誰にも知られることなく、ひっそりと日常や他の冒険に埋もれてゆくことも……。
※このパーソナルイベントの参加者
・雪深 終(cdwh7983)
・玖郎(cfmr9797)
※このパーソナルイベントの発生条件
パーソナルイベント『【瓊命分儀】むすびめ』にて「コンルカムイに登り、水の宝珠の回収を目指す」が選択された場合

このイベントはフリーシナリオとして行います。このOPは上記参加者の方にのみ、おしらせしています。結果のノベルが全体に公開されるかどうかは結果の状況によります(参加者の方には結果はお知らせします)。

このパーソナルイベントは、後日、冒険旅行にてリリースされるシナリオ『【瓊命分儀】いぺるすぃ』と同一時系列の出来事になります。玖郎さんはパーソナルイベントに参加された場合、当該シナリオに参加できなくなりますので、あらかじめご了承下さい。

なお、期限までに参加者のプレイングがなかった場合、終さんは「水の宝珠獲得のために最善を尽くした」ものとし、玖郎さんは「終さんの呼び出しに応じなかった」ものとします。

■参加方法
(プレイング受付は終了しました)

ノベル

「レタルチャペ」
 ――なあに。
「……意味も無く他者の命を奪わないと約束してくれ。別に嘘でもいい」
 ――私にとっての? それともおまえにとっての「意味」?
「……貴女にとってだ」
 ――なら考えておくわ。――……あら、来たみたいね。
「……!」
 愉悦混じりの囁きに天を見上げれば、見慣れた色の羽根が一枚、終の目の前を過る。彼方より羽根音さえも赤褐色に染まる程雄雄しき狗鷲の陰が迫り、次第にそれは人の姿を為して尚翼を広げ悠然と、一直線に此方へ向う。
 終は僅か口元を綻ばせ喜色を示して出迎えた。笑うのも彼を見るのも酷く懐かしい。降り立つ鳥妖の面に五情は窺えぬが、それは常の事。彼が如何なる思惑で来たのだとしても、呼び出しに応じてくれた事を嬉しく想った。
 程無く終の真向いに彼が立ち、翼を畳んだ。
「玖郎」
「おまえがあれにあやつられてのことか否か、確認しにきた」
「俺が?」
 玖郎の声に何処か警戒心の様な物が窺えて、終は直ぐに笑みを取り下げた。元よりお互い手を取り合って再会を喜ぶ気質では無いが。
 ――あらあら随分だこと……。
 紛れも無く其の原因たる「あれ」の呆れ声に玖郎は一切反応しない。矢張り終にしか聞こえていないらしい。だが、
「……厭な気は感じるな」
 気配を気取ったのだろう、鳥妖はそう云って顎を引いた。金行の怪が天敵ならば当然か。
「先ず……聞いてくれ」
 終は此処に至る迄の経緯と、神夷の老婆や槐から聞かされた過去とレタルチャペの記憶との矛盾点――ソヤが花京で発見された理由等――について出来るだけ手短に話した。またレタルチャペの封印を解いたのが如何やら龍王である事も伝えた。また、当時の事を意識下でレタルチャペに問い質しもしたのだが、彼女は膠も無かった。

(龍王に何を云われた)
 ――べつに。なんだって良いでしょう、くだらないわ。
(……)
 終は食い下がろうと想ったが、彼女の声音に怒気に似た物を感じ、止した。怒らせただけで危険を伴うのは先刻承知である。

 俄かの沈黙を話し終えたとみたか、今度は玖郎が口を開いた。
「おまえの望みはなんだ。それをかなえる手立てはみいだしたのか」
 突きつけられたのはこの短い間幾度も耳にし、思い浮かべ、口にした言葉。
「俺は……」
 レタルチャペを救う――それが終の望みだ。だが、其の為の手立ては未だ見えず、友の前で胸を張る事は出来ない。独りでは如何ともし難く、無力だ。
 ――高が己の干渉で朱昏の何が変わる。
 一方でそうも想う。故に終は玖郎と異なり、本質的にはレタルチャペも――龍王さえも恐れては居ない。或はこの山に鎮座する水の宝珠を手にすれば大いなる変化を齎すのか、レタルチャペを諌め、救う足懸りとなり得るのか――、
「――……疑念や違和感を感じたら捨て置いて関係者に連絡しろ」
 何であれ少なくとも玖郎が危険に晒されるのを望まないのは確かだった。
 答えにならぬ答えに、玖郎は狗鷲と同じ仕草で首を傾げた。


 ※ ※ ※


 途中迄は玖郎が終を連れて道程を縮めたのだが、ある高度を境に視得ぬ力で遮られ、山道とすら呼べぬ朱水晶の如き足場に下りる事を余儀無くされた。

 霧――否、雲の中を登る。着衣も翼もじっとりと濡れて熱を奪われ、重く圧し掛かる。氷山なれば足元の冷たきは云うに及ばず、更に上空から冷風が煽り二人を拒み続ける。終は風に抗って壁伝いに歩き、玖郎は翼を見に沿わせて冷気を凌ぎ乍ら、其の後に続いた。
 登る毎に妖気が益す。足元から、壁面から、頭上から、朱が滲み出して辺りを染める。玖郎は低温よりも、前を往く終の側と頂の双方より放たれ続ける強い氣が朱の濃度に比例して強まる事に危ういものを禁じ得なかった。

 ――……って

 気流にか細い声が混ざる。覚えのある気配。不可視の力場が前に在る。
「とまれ」
 玖郎は終を制し、彼の隣迄進み出た。
「どうした……?」

『今直ぐ引き返して……』

 終が訝しい顔で問うた矢先、今一度若い娘の悲しげな声が響く。往く手からだ。最早薄紅に迄色付いてちかちかと粒子が光る前方の雲に、朧な人の形が見え隠れしている。それはじわりじわりと輪郭を帯びて雲が固まる様に人さながらの姿を形成していく。其の背で大きく結ばれた帯は蝶の翅の様に揺らいで光る粉を振り撒く。音さえ聞こえそうな煌きに包まれ、やがて露わとなった目鼻立ちは――嘗て玖郎と終が骨董品屋に持ち帰った、凍て蝶と見紛うあの氷像と、瓜二つ。
「まさかあの時の洞窟――祠の氷の……? 幻術……でも、無く?」
「ならば尋ねたきことがある」
 動揺する終の疑義を既に是と認めていた玖郎は臆するでも無く娘と対峙する。
「先の洞内で見た蛇神の屍……ぬけがら」
 此の地では朱が循環する如く、神も死と生を輪転するならば、
「此度まみえる水氣の守護者は、あの次代か?」
『……――』
 木氣が妖の疑問に、娘は悲哀の眼差しで応えた。否定では無い様だった。
「……亀ではないのだな。そしてかの金氣の白虎神。あれは西方守護者――四獣白虎が新生したものなのではないか」
「それは……?」
 話が見えないのか、終はまるでひとが物の怪を見るが如き眼を向ける。
「なれば朱に因らず何にも似ず、あれの封印を龍王が解いたのも得心がゆく」
 玖郎はかすかに終の側へ首を廻し、双方へ向けて云い添えた。
『……そうだとして。貴方達はどうするの?』
 娘は何がそんなに哀しいのか、ついに瞼を閉じて涙乍らに問う。半妖は困惑気味に口を鎖す。鳥妖は尚も語る。娘に、終に、それを云う為に来たのだから。
「今のあれは歪んでいる。おれにとり、あれはカムイのていをなしておらぬ。ひとのこころに染まりすぎている」
 玖郎の識る限り、神若しくは妖とひととでは心の在り様が根本的に違う。ひとから鬼へ変化した者でさえ、其の時点で内面は異質なそれに変容して仕舞うものだ。そして心身共にひとつの妖其の物となって其の維持にこそ腐心する様になるのである。
 併し、あのレタルチャペカムイは、心を病んだ只の女にしか見得ない。なまじ宿した強大な力と自らの情に振り回されて、宿主に仇為したものを呪い本来守護すべき西方を蹂躙する等、神妖としての領分を甚だしく逸脱した理を侵す行為に他ならない。
「おれはひとの国が滅びようと頓着せぬが、理がこれまで綻びし現状は看過できぬ」
 誰しも某かの理の中で生きる。玖郎はそれを身を以て識っている。故に、
「理を正すため、白虎をあるべき姿へ戻す方法を知りたい」
 玖郎は己の望みを云った。


「……神や妖の摂理は俺にはよく判らない」
 だが、あるべき姿へ戻す――それも又、救いなのかも識れない。仮令玖郎自身に其の認識は無くとも。そして彼の見立てが正しいのなら、龍王の「くだらない」話も凡その見当はつく。

(レタルチャペ。龍王は貴女に、)
 ――おだまり。それ以上云うと……殺すわよ。
 肌がちりちりと疼く。背筋が泡立ち――痛む。併し、

「っ」
 玖郎が些か機敏に終の方を見た途端、それは止んだ。彼は安堵の息を吐く終を暫し見詰めていたが、大事無いと判じてか、再度涙する娘に顔を向けた。幾分声を落したのは、取り立てて気遣った訳では無いのだろうけど。
「水珠の力を借りれば我らでもそれは叶うのか」
 彼女は何も答えない。透けた頬に伝う雫が止め処無く肩に落ち、弾けては朱い氷塵が散る様が痛ましく、只只此処は通せぬと、立ち尽くすばかりで。

 ――じれったいわねえ。さっさと「進みなさい」な。
 苛立つ女の声に、終は眉を顰めた。
 ――その小娘に「おまえを阻む」力はない。
(だが死なせたく無い)
 ――お優しいこと。けど、べつに死にはしないわ。只「進めば」いいのよ。

「……?」
 終は訳も判らぬ侭、レタルチャペの云う通りに歩みを進めた。玖郎の視線を感じ乍ら、悲嘆に暮れる娘のほうへ、一歩一歩、ゆっくりと。娘は朱露を零すばかりで止めようとはせず、やがて終が擦れ違おうとした処で一段と辛そうに俯き、
『――っ』
 恰も樹氷目掛け突風が吹き付けたかの様に――彼女を形作っていた要素が、さらさらと。ふわふわと。散り散りに四方八方へ逃れて。それらひとつひとつが朱い蝶となって何処かへと飛び――燐分を遺して――凡て、消えた。
(干渉するとはこの事か)

 いつしか風は和らぎ雲も失せ、行く手には巨大な穴が、蛇の如く大口を開けていた。或は真実それは何者かの顎門だったのかも知れない。何故なら、

 ――木ッ端天狗ガ白虎ヲ正スト申シタカ。

「……!?」
「!」
 風穴から、

 ――ナラバ今直グ討テ。

 山頂から、

 ――其処ノ餓鬼ヲ。

 足元から、

 ――儀莱ヘ逃レシ、アレノ魄ヲ。

 壁面から、

 ――各地ヘ散リシ、アレノ魂ヲ。

 山、全体から、

 ――凡テ摘ミ取リ西ヘ還セ。

 男にも女にも子供や老人にも聞こえる異様な聲が響き渡ったからだ。
「彼女を……俺を、殺せと?」
「…………」
 流石に動揺を隠せない終を、玖郎は無言で見遣った。

 ――然ニアラズバ……神域ヲ汚ス愚カ者共ヨ。

 ぶるぶると、がたがたと震えが身を擽る。山が揺れているのか。次第にそれは地が歪まんばかりの轟音となって大きな揺れを伴い――氷壁が裂けて崩れ――足場に亀裂が走り――穴の奥からは同じ太さの濁流――否。

 ――――去ネ!

 薄く鈍色に染まる水が巨大な蛇――或は亀の頭の相を生して、抜け出てきた。
「――そうか」
 玖郎には合点がいった。霊峰コンルカムイは、謂わば巨大な亀甲なのだ。

 即ちこれは北方の守護者――玄武と呼ぶに足る存在。

 人の背丈をも凌ぐ太さの首は絶えず辺りに水を撒き散らしている。溢れ出た水流は氷面を滑らかに研いで足元さえ覚束なくさせる。
「くっ!」
 終は凍気を放ち朱氷に雪靴を固めて堪える。玖郎は捲き込まれる前に羽ばたき空へ逃れ、今一度対峙する強大な存在を確かめる。元より霊峰に充ちていた水氣は、今や神夷の地一帯を多い尽くさんばかりに渦巻いていた。転じてそれは水生木――即ち玖郎の力をも大きく底上げする。委ね過ぎては危ういが、活かさぬ手は無い。両椀に稲光を纏えば、常より鋭く身を取り巻かんばかりに暴れる。
「む」
 巨大な氷塊が頭上より迫る、氷丘の根元を断った様な何処か亀の前脚にも煮たそれは天狗一匹叩き潰すには些か大袈裟だ、だが守護者は惜しみなく其の豪腕を振い落す――玖郎は敢えてぎりぎりまで期を待ち寸での処で身を翻しがてら放電する!
「屠るは避けたいが」
 毛羽立つ雷鳴に万年氷が解けて遥か地表へしとどに流れ落ちる。だが守護者は留まる暇を与えまいと次次氷塊を鳥妖目掛け放つ。玖郎は風を纏い力強く羽ばたいて巨大な礫を掻い潜る。執拗に追われるが風神ともされる彼に届いた攻め手はひとつたりとも無い。
 併し問答無用とは――白虎は未だしも終を討つ事は出来ぬ。それを見抜いたが故、玖郎を敵と判じたか。そして終を討つとは如何なる意味を持つか――矢張りあれの傍に女妖が宿るか。ならば――己は。

 左右より迫る朱氷を上に避け、砕けたそれに目もくれず玖郎は終の元へ飛んだ。

 終の力も又、朱と水氣に因って高められていた。とは云え凍気を攻手とする事は無い。相対する守護者――コンルカムイも又水氣の長なれば、互いの氣は互いに通じぬ。故、終は叩きつけられる水に圧し戻されぬ様地固めをしたり周囲を凍てつかせる等して専ら防御のみに其の力を行使した。そして時に亀の首が此方へ擡げれば氷柱の如き斧を振るう、一閃と共に飛沫が上がる――刃は守護者の一部を削ぐも無尽蔵に溢れ出る水が直ちに修復し、決定打とは為り得ぬ。
 ――なってないわねえ、効く筈無いじゃない。
 戦景色を暢気に楽しむ西方守護者の聲。終は大振りな一撃の予備動作に大きな隙を残す、鈍色の水流は宙で弧を描き、口を開け乍ら終を呑み込まんと急速に走る。だがそれをこそ終は図っていた。
「承知の上だ」
 懐より桜花を放つ、追い風に舞い亀の頭を取り巻く花弁に終は手を翳し――北の守護者を再度眠りにつかせんと術を放つ――果たしてコンルカムイの動きは鈍り――終は緩んだ大顎に敢えて踏み込み凍らせがてらくるりと身を翻し、遠心力で凶器と化した己を其処に叩き付けた。顎から額と思しき箇所が粉粉に砕けて喪われ――遅まった流水がじわりじわりと欠損部位を修復しようとする。終は口内に踏み込んで、又冷気と斬撃を繰り返して風穴の奥へと進む。が――
 ――ふふふっ、いいの? 囚われても。
「何……?」
 振り向けば最初に破壊した頭部の側が下から徐々に盛り上がって終を取り込もうとしていた。前方では既に氷を溶かされ再生速度を取り戻しつつある。
「――!」
 当然と云えば当然だが幾ら砕いて散らしても水の宝珠がある限り、これを完全に滅するのは不可能に近いのだ。そして守護者が終に害意を擁いている以上、この侭では危険――ならば抗う手段は――比肩する力量の主に頼るか。
 終は胸に手を当てた。着物越しに硬く凸凹したモノの感触が伝わる。
(鬼面……併し)
 ――ふふ、何を迷っているの?
 コレを被って己が保てるのか。何が起こらないとも限らないのに。
 ――早くなさい。でないと……この亀と一緒くたにされてしまうわよ、『コンルカムイ』。
 レタルチャペは皮肉を織り交ぜて終を誘惑した。
「…………」
 どうする。被れば西方守護者に、被らねば北方守護者に食われる――刹那そんな葛藤が生じた。だが、被れば今の状況は打破出来る気がする。レタルチャペカムイは云いなりとなった自分を殺しはすまい。少なくとも。
 いつの間にか水かさが腰に迄達していた。前後上部からも水の上から水が雪崩れ込んでいる。一刻の猶予も無い。終はついに懐から割れた鬼面を取り出した。禍禍しい朱光に包まれた漆黒の鬼は何処か嬉しそうに口元を歪めている。
 ――さあ、早く……。
 甘く囁くのは鬼面の口か、己の内か、別の何かか。最早判らぬ。判らぬ侭――終はそれを己の左顔面に納める――直前、風穴内に赤褐色の旋風が捩れ込んだ。
「玖郎!」
 玖郎は風で守護者の水氣を弾き飛ばすと共に凶相の面を持つ手を掴み、逸らす。その弾みで終の手を逃れ宙に舞った鬼面に飛沫がぽつぽつと露を落としたが、それは立ち上る朱に吸われる様に瞬く間に失せ、蒸気の如く瘴気を立ち上らせる。
「それからは白虎の氣を感ずる。かぶればおそらく善いようにはならぬ」
「……!」
 水をこそぎ落す様に抉り突き抜けた鬼面が、氷上に落ちてからんと音を立てた。
 終としても気は進まぬ故、止められ危急も退けられたとあれば無理に被ろうとは想わない。とは云え此処に留まり続ければ進退窮まる状況は変わらない。
「だが、なら如何する」
 問われ、玖郎は守護者の身に透けて見得る風穴の深部を向く。其処にあるのは白と黒の絡み合う陰陽珠――朱昏の世界計が一端、水の宝珠。無尽蔵に水氣を供給し、玄武を玄武たらしめる根源。
「いずれあれにたどり着かねば止められはしまい――」
 玖郎が云い終えるか否かという間で――

 奥から流れ続け頭を形成していた水が唐突に、その役割を放棄した。

 亀の首はざぱあと崩れ、只の――と云うには余りある夥しい量の水となって、朱でも妖術でも無い物理法則のみに従い終と玖郎を外へ押し流そうとする。
 終は驚きつつも直ちに前方と足場を凍らせ、流水を枝分かれさせて遣り過した。
「行き成り何だ」
 ――龍王よ。まさかこの私をダシにするなんてね。
「何の話だ……?」
 ――…………。
 レタルチャペはそれきり、ふて腐れた様に黙ってしまった。

 入れ違う様にして、水の宝珠の傍らに、朱い燐粉がきらきらと集い始めた。


 ※ ※ ※


 鳥妖と半妖は肩を並べ、宝珠と娘の真向いに立つ。彼女は今尚悲嘆に暮れた面持ちだが、先の様に二人を止める意思は無さそうだった。
『お持ち下さい』
 声音は先と異なり、穏やか乍ら些か冷たくも感じられる。併せ、此の場全体を何者かに視られている様な、誰かの腹中に在る様な気分に駆られ、酷く居心地が悪い。レタルチャペの様な得体の知れぬ恐怖は無いが、睨まれている様な――。
「俺達が持っていていいのか」
 終とて元よりこれを得る為に訪れた訳だが、阻まれねばかえって戸惑う。
「……借用が叶うのか」
『いいえ……決して使ってはなりません。さもないと貴方達も狂ってしまう』
 玖郎への答えは水珠が紛れも無く世界計の特性を持ち得る事を示す。
「では何故寄越す」
『貴方達の世界で預かっていて欲しいのです。豊葦原が落ち着くまでの間』
 終と玖郎は互いを見る。レタルチャペの主張は今の処聞こえない。
「再び我らが排される事態を避ける為にも、例えば珠を介し龍王に伺い立てるは可能か」
 そう云った玖郎の姿勢は或る意味で――当人に其処迄の自負は無くとも――世界図書館の旅人として相応しいものだったが、娘はゆるゆると首を振った。
『それには及びません。私の言葉は其の侭“龍王の意思”とお考え下さい』
「龍王の……?」
 朱昏の主が宝珠を通じて彼女に何らかの託宣を与えているのか、はたまた彼女を直に操っているのか――何れ娘の様子が違うのはその為なのだろう。
「なら、確かめたい事がある。今、玖郎も云ったが――嘗て龍王は旅人を追放したと聞く。それは本当に此方の咎だったのか」
 終の兼ねてよりの疑問に対し、娘は冷ややかに云い放った。
『――貴方達のお仲間は、花京の都から白虎の宿主を連れて神夷の地へ連れ戻しました」
 宿主とはソヤの事か。
「併しそれは、」
『本来、宿主は西国に留まる運命だったのです。そして戦場より戻された金の宝珠と惹かれ合い、やがては次代の穐原家と共に西の守護を担う筈でした。――貴方達はそれを歪めてしまった。結果として宿主は命を落し、白虎は最も悪い形で金の宝珠と邂逅する事になりました』
「レタルチャペが怒り狂い西国で暴れたのは、」
 槐達の所為だとでも云うのか。
『未だあります。白虎を彼の山に誘き出す策も貴方達のお仲間が発案したものです。あの時討伐されていれば白虎の魂魄は大いなる流れに乗じて巡り、浄められていました。けれど、彼の御仁が白虎を庇い立てした事によって、朱昏の民は封印という後の世に禍根を遺す方法を余儀なくされました。金の宝珠は白虎と共に封じられ……理に大きな歪が生じました』
「…………」
 終は言葉を失った。可能性を考えてはいた。五十年前の白虎討伐作戦――その内容自体が当時の旅人の入れ知恵だったのでは無いか、と。では、槐のして来た事とは朱昏に――龍王にとって、理を乱す狼藉に過ぎなかったのだろうか。
『ですが、今にして想えば』
 娘は幾分声を落す。和らいだと感じたのは気の所為か。
『大筋では朱昏の為を想っていた事も又判っています。彼――いいえ、彼らは災厄を予見し、未然に防ごうとしていたのではありませんか。或は白虎の宿主が龍王の導き通り花京に留まっていたとしても、それは免れなかったのかも知れません』
 それを見極める為、
『貴方達の在り方を今一度問う為、龍王は再訪を黙認しました。そして……貴方達はこれ迄朱昏の安寧の為に善く働いくれています』
「それで俺達に宝珠を預けると……?」
 ならば道理には叶うのだろう。
「だが四氣の布石は既に瓦解している。このうえ水珠を朱昏より失すれば水理にも狂いが生じはしまいか」
 玖郎がそんな事を口にする。確かに、借り受けて朱昏に留まるのと、0世界に持ち帰るのとでは大きく意味合いが違ってくる。そして終は前者を、玖郎は――懼らく比較検討するなら後者を選ぶだろう。皮肉な事だが理を失する事で後の理の守護に通じるのだから。尤も、仮に理が乱れて一体何が起こるのか、終には想像もつかないけれど。
『……それも一時の事。白虎の手に渡るよりは』
 娘は瞼を半ば以上伏せて、取れとでも云う様に手を差し伸べた。導かれる様に白と黒の陰陽を模る珠が宙へ浮き上がり、毬藻の如く上下する。
 終と玖郎は宝珠を取ろうと腕を上げ――互いに手を止めた。
「…………」
「…………」
 沈黙に双方の腹積もりが交錯したと感じたのは終だけだろうか。僅かの間そうしていると、
『先ほど水の守護者が申し上げた事を実行して頂きたいのです』
 凍て蝶は『もうひとつお願いがあります』と、まるで二人の齟齬を繕う様に云った。
『今の白虎は魄――肉体を失い、魂に伴う心は金の宝珠共々散り散りとなって不完全な状態です。凡て揃えば白虎は本来の力を取り戻すでしょう。ですが、凡て揃えねば正す事はおろか討つ事さえ叶いません』
 何れ危険を冒さねば現状を覆すには至らぬと云う事か。
『金の宝珠――その欠片を凡て集めた暁には、白虎の魄を宿した童女共々穐原家に送り届けて……下さい。そ――て、すべ、て、合、わ………………せ――』
 不意に娘の姿が乱れ、明滅した。その度に燐粉が散り、何故だか終はぞわぞわと肌が沫立った。玖郎が身構えている。判っている、何が起きているのかは。
「どうした?」
 それでも訊かずにはいられなかった。
『……別に』
「――!」
 娘の口から漏れたのは最早耳慣れた――――彼女の聲。
『どうもしないわよ――ふふ』
 娘の姿がふわっと霧散し、直ちに収縮した。が、其処に顕れたのは――
「レタルチャペ……!」
 彼女は愛しそうに宝珠を手に取ろうとし――今度は入り口から突風が吹き込んで、彼女の手を、身ごと押し返そうと、消し去ろうとする。玖郎が招いたものか。
『小癪な天狗だ事……!』
 レタルチャペの怒号は瘴気を孕み肌を焼く、だが玖郎は宙の珠を引っ手繰り――その勢いで振り向きがてら逆手で終の腕を取って外へ向かい羽ばたいた。
「なっ――」
「――これが再構築の一助となるを願う」
 それは誰に云った。娘か、龍王か、白虎か、終か――その凡てにか。
 途端、風が今度は風穴の奥から二人を追う、邪な氣も又風に乗じて迫る。だが風神ともされる狗鷲に死の気配が追随する事は遂に叶わなかった。
 直ぐに視界が開け、朱氷の世界が――此方を見上げる妖しくも美しい女が、みるみる内に遠ざかり、周囲は瓶覗の空ばかりとなった。
「放せ! 俺は未だ――」
 彼女を救っていない。救えていない!
「放せ玖郎!」
 だが身を捩っても振り解こうとしても、玖郎の膂力に抗えはしなかった。
 別に水の宝珠が欲しい訳では無かった。只今少しあの不幸な女の傍で、何かを見極めたかった。彼女に安寧を齎したかった――なのに何故連れ戻す!
「捨て置けと云った!」
 終は遣り場の無い憤りをともにぶつける事しか出来なかった。
「ひとりであれを正す策あらばしめせ、さにあらずば――」
 玖郎は見向きもせぬ。併し其の言葉は常より何らかの色が滲んでいた。

「――捨て置けぬ」

「……っ!」
 そんなものは――未だ無い。判っていた筈だ。己の無力も、玖郎の意図も。凡ては彼の言葉が示していた。ならば自分をどうするか等、火を見るより明らかだ。
 それでも――終は苦渋に打ちひしがれる事しか出来なかった。

 二人は気付かなかった。
 この地の真理数が互いの頭上に浮かび上がっていた事に。




『――ふん、何よ』
 レタルチャペカムイは拗ねた顔で暫し二人を眺めていた。そうしていつしか手元に招いた鬼面に頬擦りして、一滴、涙を零す。漆黒に落ちた雫はぱっと朱い燐と散って、消えた。

 それは依代と化した凍て蝶の娘の残滓か、はたまた――。


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螺旋特急ロストレイル

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