また、人魚姫たちと会いたいな。 ベヘル・ボッラが、『ヘンリー&ロバート・リゾートカンパニー』を訪れ、企画を持ち込んだ主な理由はそれだ。 彼女と、彼女の盟友は、ブルーインブルーにも海賊にも、そしてさいはて海域にあるネレイス族の国、フルラ=ミーレにも浅からぬ縁がある。 ブルーインブルーでは、先だって、大きな戦いがあった。 人間以外の知的生命体が、ふたつの種族というかたちで発見され、それらが争っていることが判り、またそこに世界計の欠片が関係していることが判明して、――急転直下の勢いでものごとは起きた。 現地の人々やロストナンバーたちの尽力があり、紆余曲折を経て、ひとまずブルーインブルーには平穏が訪れた。「ぼくは、その後《七色の至宝・リーフディア》がどうなったのか、気になっているんだ。様子伺いを兼ねて、皆で行くのはどうだろう?」 フルラ=ミーレ王国は、宿敵とでもいうべきアビイス族に荒らされたけれど、地上の人間たちがそうであるように、ネレイスたちもまた雑草のような――海に住まう彼らなら、海藻のような、と言うべきなのか――強さとたくましさを持っている。 きっと、全力で国の建てなおしをしている真っ最中だろう。 復興が進んだかどうか、気になるロストナンバーは多いはずだ。 実に百名も存在する、人魚の姫君たちがどうしているかを気にしているものも少なくはないだろう。 そして、今やグランアズーロの後継者となったロミオと、太古の遺産であるフェルムカイトス号はまだフルラ=ミーレに――ネレイス族のもとにいるのだろうか。「ロストナンバーには、海に棲む種もいることだし」 ベヘルは、淡々と、しかし愉しげに、「改めて連絡を取って、友誼を結ぶのも悪くないんじゃないかな? ぼくとしては、できれば復興の手伝いもしてみたいし、観光もしたい。そういうツアーは、ありかな?」 そう、言葉を締めくくり、返答を待った。 * 出迎えてくれたのは、九十九番目の姫君、イリスだった。 幼いながら聡明で、強い意志を持つ、愛らしい姫君である。 鯨海魔に飲み込まれ、声をなくしていたこの人魚姫は、ベヘルとその盟友によって救われ、勇気を与えられて、ふたたびうたうことが――絶望を払拭するという、神話のごとき歌声を響かせることが――できるようになったのだ。「いらっしゃい……来てくれたのね、ありがとう」 そのため、ベヘルたちをはじめとした一行を迎える声には、歓びと感謝がにじむ。「リーフディアの復興は、もうずいぶん進んでいるよ。もちろん、再建のお手伝いをしてもらえるなら嬉しいけど、イリス、それよりもみんなに、いろいろなことを楽しんでほしいな」 復興も終盤を迎えたリーフディアは、美しく興味深いところだ。 ここでは、美味な海産物を楽しむことができるし、真珠や珊瑚を探すこともできる。シーホースの乗馬体験もできるし、七色庭園を散策して風景を楽しむこともできる。耳に心地よい音楽もある。 なにより人魚たちは美人だ。「他の人魚姫たちは元気かい?」 ベヘルが問うと、イリスはにっこり笑って頷いた。 ――もちろん、救援を求めて旅立ったきり、還らぬ身となったものもいる。 貴い犠牲と一言で言い表せば簡単だが、生きて戻った姫君や、生き残った民は、今は亡き姉妹姫や命を落とした同胞に思いを馳せ、悼みつつも、だからこそ復興に励むのだろう。 それは結局、遺された人々が力強く立ち上がり未来をつくる、数多くの世界と何ら変わりのない営みだ。「そうだ」 不意にイリスが言い、ベヘルは首をかしげる。 イリスは悪戯っぽく笑った。「あのね、ロミオたち、まだいてくれるの。この国の復興を見届けたい、って」「ああ、そうなんだ。それが終わったら……?」「どこか、自分たちの国をつくるために旅を始めるんだって。人間の国をつくるには、陸地が必要だから」「そうだね。人類の生活圏内から離れすぎても不便だろうから、場所探しも慎重にならざるを得ないだろうな。じゃあ……会いに行けそうかな?」「うん、喜んでくれると思う」 イリスの言葉は、表情の少ないベヘルの唇に笑みを刻ませる、充分な力を持っていた。「じゃあ……ぼくはぼくで、適当に愉しむから。皆も、思い思いに楽しんだらいいんじゃないかな」 そう言って、ベヘルは軽快な足取りで目的の場所へと向かう。 彼女の、熱の少ない――しかしクリアに晴れた視界には、それだけでひとつの宝石、ひとつの絵画のような海が映っている。=============!注意!パーティシナリオでは、プレイング内容によっては描写がごくわずかになるか、ノベルに登場できない場合があります。ご参加の方はあらかじめご了承のうえ、趣旨に沿ったプレイングをお願いします。=============
1.再びのひかり 今回のツアーの発起人、ベヘル・ボッラは、“盟友”ムジカ・アンジェロと99番目の人魚姫、イリスとともに女王陛下のもとへ赴いていた。 フルラ=ミーレ王国を統べる偉大なる女王にして、ブルーインブルーの世界計を有する叡智の存在でもある、セア=テティース・オロ・ファーン・フル・ラ・ミーレ・アウルスノスフェスその人である。 鮮やかな青緑の色をした豊かな髪を持つ女王は、娘である人魚姫たちとさほど変わらぬふうに見える外見の、たいそう美しい人魚だった。 彼女は、《女王の座》と呼ばれる、明らかに人工物と思しき何かと半身をほぼ同化・融合させている。青く透き通ったパーツからなるそれは、機械の様相を呈しつつもどこか神秘的で、うつくしい。 『ようこそ、遠方のお客人よ。あなたがたとの、変わらぬ友情に感謝します』 ムジカは流れるように優美で洗練された一礼のあと、 「女王陛下」 恭しく、敬意を持ち、しかし親しみを込めて跪いた。 「アンジェリカ姫の無事をお伝えしに参りました」 数奇な運命をたどった十二番目の姫君が息災であること、そして彼女がとある人物の世話になっていることを報せる。 『そう……』 リーフディアを訪れてはいるが同行はしていない写真家から預かった写真を手渡すと、女王は微笑んだ。安堵と、娘への愛がにじむ。 『あなたがたのお気遣い、陸上人の配慮に感謝します。生きとし生けるもの、すべてには死がついてまわる……けれど、わたくしどもとて、親しき者の死をはずもないのです』 もはや喪われ戻らぬものへの追憶を、言葉の端々から感じ取りつつムジカは頷く。 「帰って来られなかった姉姫さまたちもいるよ。イリスだって、ふたりやロミオがいなかったら帰れなかったかも」 しんみりと言い、それから、 「でもね、だからこそ、今生きているイリスたちは、一生懸命じゃなきゃいけないんだろうなって思うの」 イリスは大輪の花のごとき笑みを咲かせてみせる。 ベヘルがくすりと笑った。 「そうだね。イリス、ぼくはきみともっと話したい。よかったら、お気に入りの場所を案内してくれないか」 「もちろん!」 * 復興の進む街をそぞろに歩く。 この辺りはもう、すっかり元通りになっていて、道行くネレイスたちの表情は明るい。店舗は大半が商売を再開しているようだったし、私的公的を含め、さまざまな施設もまたその運営を始めているようだった。 並んで歩きつつ、ベヘルはイリスを見やる。 立ち直ってゆく街を、国を、人を見るイリスの澄んだ目には、眩いばかりの希望と喜びがある。 「何、ベヘル?」 「ん? いや。うみの中のきみはうつくしいね」 「……そういうの、タラシっていうんだって誰かが言ってた。ベヘルはタラシなの?」 「さあ? 意識したことはないけど、そういうものなのかな?」 小首を傾げつつ、近況を報告し合いながらなおも進む。 「ロミオには会いにいくのかい?」 「うん。ベヘルも行く?」 「そうだね。ムジカも何か伝えたいことがあるみたいだったから、いっしょに行こうか」 企画ツアーへの参加者の姿もそこかしこに見られた。 ミケランジェロはそのひとりだ。 彼は、南雲マリアに引っ張って来られたのだが、 「美味しいものはひとりで食べたってもちろん美味しいけど、ごはんはみんなで食べると楽しさが増すからさらに美味しくなりますよね! ね、タリスさん!」 「うんうん、ほんとに。前、リーフディアに来たときは、みんなすごくたいへんそうだったけど、ずいぶん復興も進んだんだね。みんな、活き活きしていて、賑やかで、よかった!」 そのマリアは、初対面であるはずのタリスと意気投合し、はしゃぎながらあちこち行ったり来たりしている。 「タリスさん、見てみて、あそこの植え込み!」 「うわあ、すごい、真っ赤な珊瑚なんだねえ」 「紅い珊瑚ってすごく貴重なんだって。おめでたい感じもするし、今のリーフディアにはちょうどいい色ですよね」 「うんうん、海の中って青だけじゃないんだなあってすっごく思ったもの、ぼく。ほら、あそこの道、ぴかぴかの貝を敷き詰めてあるよ。きれい!」 そぞろに歩けば、食べ物を売る露店があちこちに立っているのが見える。 マリアとタリスが歓声を上げ、貝の串焼きだとか、マリネした魚介と野菜を挟んだパンだとか、綺麗な色をした甘い果物や菓子だとか、そういうものを買い込んでは頬張った。 「ミケさんもどうぞ?」 マリアが差し出す魚介の串焼きを受け取り、ミケランジェロは小首をかしげる。 観光の醍醐味は、買い食いをしながら歩くこと、と友人に聞いたことがある。喰わずとも死なぬ堕ちた神であるから、食にはそれほど興味がないのだが、おいしいおいしいと食べるふたりの姿は見ていて微笑ましい。 「まァ、もらっとくわ、ありがとよ」 「うん、じゃあ次はあっち! 小魚でダシを取ったスープに麺を入れてあるんですって!」 「まだ食うのか!?」 「まだもなにも、これからですよ? 私、海鮮丼が食べたいんだけど、どこかにお店、あるかしら。ねえ、タリスさん?」 「うん、ぼくもっといろいろなものが食べたい。あとね、あとね、綺麗な魚を見に行きたいんだ!」 「あーはいはい、判った判った」 バイタリティあふれるふたりに、押しに弱いミケランジェロが振り回されるのは致し方ないことだ。 「……ま、悪かねェわな」 堕ちた神は小さく笑んで、串焼きに口をつける。 そんな中、枝折流杉は物思いに耽りつつ歩いていた。 「ふとした瞬間に、ここが海の底だって忘れそうになるな……」 フェルムカイトス号のブリッジ越しに見ただけの光景を、間近にすることになろうとは思ってもみなかった。その時の彼は、まだ大切な人との再会を果たしておらず、世界というものを後ろ向きに、絶望や悲嘆とともに見ていたものだ。 『彼』との再会以降、流杉の世界はずいぶん開かれたものの、観光の楽しみ方というものはまだよく判らない。 「あとで、絵にしよう。ここは美しいもの」 携帯電話のカメラで、リーフディアの光景を撮りつつ、三人のあとをついて歩いていたら、 「おい、物好き屋」 ミケランジェロにこつんと頭を小突かれた。 「……何?」 「いや、また難しいこと考えてんじゃねェかと思ってな。喰いたいものがありゃ、あいつらに言ってみろよ」 「食事かぁ……うーん、パスタがあれば食べたいかな?」 そう言ったら、耳ざとく聞きつけたタリスが、驚きの速さで飛んできて流杉の手を取った。 「ぱすた! ぼくぱすたも食べたい! 行こう流杉、ぱすた!」 「シーフードパスタかぁ……これは、期待できそう……!」 ひとしきり興奮する食いしん坊コンビに苦笑しつつ、 「判った判った、ちゃんと行くよ。だからタリス、あんまり手を引っ張らないで」 流杉もまた、自分なりにこの時間を楽しむべく、歩き出すのだった。 2.旅人たちの献身 街を少し外れると、まだ崩れ砕かれたままの箇所も残されている。 民の生活に直結するわけではない大型の建造物などは、どうしても後回しにされがちだ。 この、多目的屋外競技場もそうだった。 アビイスが率いた巨大海魔に蹂躙され、丈高い外壁を粉々に砕かれたここが再建されれば、リーフディアでは、様々な競技会や芸術鑑賞会などが行われることになるだろう。望めば、ここでサーカスの上演なども出来るかもしれない。 「おーいハルカ、ゼロ、そこの建材取ってくれー」 アキ・ニエメラは強化兵士らしさをいかんなく発揮して、競技場の再建に勤しんでいた。 「うん、これでいい?」 「アキさん、どうぞなのです」 「おう、ありがとよ」 ハルカ・ロータスが、最大で100tまで可能という強烈な念動力を駆使して白い岩塊を持ち上げれば、無尽蔵かつフリーダムに巨大化できるシーアールシー ゼロが固定用の鉄楔を大量に――それこそ何tという規模で――運び上げる。 ハルカに岩塊を支えてもらいつつ、受け取った楔を念動で打ち込んで行く。 地上数十メートルでの仕事だが、アキもハルカも怖じることはないし、巨大化しているゼロは言わずもがなだ。 「いやー、懐かしいな、こういうの。向こうでもよくやったわ」 アキはどこか愉しげだ。 「……楽しそうだな」 「ん? そりゃなあ、壊すよりつくるほうが楽しいだろ」 「確かに」 「お前だって楽しそうじゃねぇか」 「……うん。本当は俺たちがいなくたってここの国の人たちはたくましく立ち上がるんだろうけど、その手伝いが出来たら、俺は嬉しいな」 「そういうとこ、お前らしい」 口笛など吹きつつ、次々と競技場外壁最上部を完成させてゆくアキに、ゼロが声をかける。 「ゼロは廃材を始末するのです。手が空いたら、瓦礫を回収して所定の場所へ集めてほしいのです」 「判った。向こうのほう、まだありそうだったしな」 同じ強化兵士である相棒のハルカと、巨大化という特殊能力を用いて八面六臂の活躍を見せるゼロの三人は、その力を如何なく発揮していた。ゼロなど『誰も傷つけられない』という特性持ちゆえ、絶対安全万能重機状態である。 「終わったら、何か食いに行きてぇなー」 「俺は、観光っていうのをしたいな。真珠を探したり、シーホースに乗ったり、昆布を収穫したりしてみたい」 「お、それもいいな」 終了後のお楽しみに思いを馳せつつ、作業に精を出す。 アマリリス・リーゼンブルグもリーフディア再建の手伝いに全力投球していた。 彼女もまた、故郷にて軍に所属していた際は、インフラを整える活動も行っていたため、整備や建築などには慣れがある。さすがに強化兵士たちほど重たいものをたくさん運ぶことは出来ないが、翼を利用して、高い場所での作業を行うなどは朝飯前である。 「アマリリスさん、大丈夫ですかー?」 彼女たちは、競技場傍にある公民館の再建を手伝っている。 組み上げられた石壁の、一般には手の届きにくい高所に腐食防止用の塗料を丁寧に塗っていると、下から司馬 ユキノの声がかかった。 ユキノは、両手にいっぱいの花を抱えている。 「何、うつくしい女性たちのためなら、これくらいはなんでもないよ。うつくしい人魚姫たちの笑顔も見られる、言うことなしだ。それでユキノ、君の、その花は?」 「あ、はい、戦没者の慰霊碑があるそうなので、花を手向けに行こうと思いまして」 ユキノの傍らには、ネレイスが数名、同じような花束を手にして佇んでいる。 政府からの支援も受けつつ、トップダウンだけでは目の届きにくい、こまごまとした部分の復興を手掛けている、現地の団体であるらしい。ユキノは、その手伝いをしている傍ら、慰霊碑のことを知ったのだそうだ。 「そうか……なら、私も同行させてもらおう」 塗料を塗り終え、ふわりと翼をはためかせて降り立つ。 ネレイスたちに案内された先の広場では、青く透き通る石を切り出して磨いた、ごくシンプルな石碑が、街を見守るように立っている。 「皆が心から笑えるようになるまで復興は終わりません」 手を合わせ、祈りを捧げながらユキノはつぶやく。 「あんな戦いが、二度と繰り返されませんように」 それはきっと、この場に集ったあまたの人々の祈りであり、願いでもあったことだろう。 そのころ、川原 撫子はさまざまな建築資材を担いでは走り回っているところだった。 土木作業を手伝うかわり、この国の民族衣装と呼ぶべき服飾品のたぐいを分けてもらうことになっているのだ。怪我をしてここに来られない友人が、こういった服飾関係に興味を持っており、見舞いがてら土産に持って帰ってやろう、という魂胆である。 すれ違うネレイス女性の、メリハリの利いた体型にコンプレックスを刺激されつつも、 「今はそれどころじゃありませんもんね。がんばらなくっちゃ!」 まずはやるべきことを、と、持ち前の怪力を駆使して手伝いに励む。 ルンもまた同じように、1tのバッファローを殴り殺して引き摺って帰れる怪力を遺憾なく発揮し、ヒト型小型ブルドーザーとして瓦礫撤去や建材運びなどを一手に引き受けていた。 「ルンは、死んだ。天国に、来た。神さまの、役に立つ。立たなくちゃ、いけない」 実を言うとルンは、いまだに自分が覚醒したという意味が判っておらず、『死んで、天国に飛ばされた』と思っている。 神さまの国に来たからには、その国を統べる存在の役に立たねばならない、そう思い込んで、力仕事に精を出しているのだった。 完全な復興まではまだ少し時間がかかりそうだ。 しかし、国民たちの努力と、ロストナンバーたちの少しの善意、献身は、きっとそう遠くなく、リーフディアに在りし日の姿を取り戻させることだろう。 3.異文化は楽し 復興の進む街は、そこかしこに賑やかな笑い声を内包している。 ジューンはあちこちを歩き回っていた。 世界司書であり、他の世界に自由に行くことのできない人々へのお土産を買って帰ろうと、よい品を探しているのだ。 土産を買うことで地元の経済に貢献し、復興の手伝いの一端にしようという目論見もあった。 「白い真円はツギメ様、黒のバロックは緋穂様に似合いそうです。菖蒲ちゃんにもカラーパールを見つけられればよいですが」 商店街には、土産物や装飾品を扱う店も少なくない。 海中都市であるリーフディアには、海から産出する品々が多く売られている。 装飾品のたぐいが特に顕著で、真珠や珊瑚の美しさは他の追随を許さない。 ネレイスたちの、美を愛でる心は陸上人たちとなんら変わりがなく、リーフディアの芸術は、地上のそれとは少々趣こそ違うものの、独特の雰囲気とともに確立されている。 「あら……素敵ですわね」 三雲 文乃は、深山 馨とともにリーフディアへ訪れていた。 優れた審美眼を持ち、芸術への造詣も深い彼女は、海底で発達した文化ならば、地上とは違った絵画を発展させているのではないか、という期待とともに美術館へとやってきたのだが、それは裏切られるということがなかった。 種族こそ違うものの、ネレイスたちの感性は陸上人やロストナンバーたちに近い。 見えているものも、感じているものも、きっと似通っているのだろう。 「貴方はどの絵がお気に召したかしら?」 文乃が、唇に蠱惑的な笑みを刻めば、馨からは穏やかな微笑が返った。 「そうだね。この、“A Tree of the Idea”かな」 それは巨大な珊瑚の森を描いたと思しき絵である。 珊瑚は万の年を重ねた巨木のごとくにそびえ立ち、無数とも言える枝を伸ばしている。枝にはいくつもの光る泡が灯っている。枝は、赤から橙、赤から紫、紫から青、青から緑、さまざまに鮮やかなグラデーションで描かれている。背景には黒みの強い青が使われているが、この濃淡が、妙に心を惹きつけるのだ。 「イデアとは本質であり原型……そして永遠不変の価値。しかしながら、それは恐らく、個々に違うもの」 「わたくしに見えている絵と、深山さまに見えている絵は違う……かもしれない、ということですわね」 「だからこそ、この《木》はそびえ立つのかもしれないね。彼我の多様性を伝えるために」 「それが、貴方の解釈ですの?」 「そうだね、私という一個人の、感性の表出と言う意味で」 美術館には、絵画のほかに、彫刻や陶器、彫金、漆器や服飾、宝石細工などが展示されていた。また、隣接した資料館では、演劇や歌劇、音楽や楽器などの展示が行われており、こちらも興味深い。――海底にも、陸上と似通った文化が存在する、収斂という意味でも。 「青い宝石が多いんですのね。自分たちを包み込む色だから、親しみが深いのかしら」 独特のデザインを有しつつ、それらは地上にある美と変わりない。 貴金属と貴石を組み合わせ、一個のうつくしいモノをつくろうという、職人たちの気概にも変わりがない。 「……心に染み入る色だね。異文化でありながら親しみを感じる」 「ええ」 穏やかに談笑しつつ、ふたりはなおも鑑賞を続ける。 そのころ、黒葛 小夜は、『先生』と呼んで慕う由良 久秀とともに街を歩いていた。 「……どこであっても、生き物というのはたくましいな」 復興そのものにはあまり興味がないらしい由良が、街並みの写真を撮りつつつぶやく。 「元気があるって、すてきなことですよね!」 同意すると、由良は一瞬沈黙し、それから「そうか」とだけ返した。 口元をかすめたのは、微苦笑だっただろうか。 しばらく歩くと、シーホースの乗馬体験が出来る牧場へと行き当たった。 そこでは、複数の人魚姫たちと何人ものロストナンバーたちが、絹のヴェールのように美しい鬣を持つシーホースに乗っている。シーホースの性格にもいろいろあるようで、おっとりと乗せてくれるものから鼻息荒く振り落としにかかるものまで様々だ。 「うわあ、皆さん、愉しそう。怖くないのかな、大丈夫かな」 小夜は眼を輝かせている。 その視界に、挑戦者を応援する人魚姫たちの姿が映ると、彼女の眼は大きく見開かれた。 「小夜、乗らないのか」 由良が声をかけてくれるが、小夜の小さな胸は感激でいっぱいになっていて、返事をするどころではない。 「こんにちは、人魚姫さま。はじめまして」 おずおずと、しかし勇気を振り絞ってそれだけ言うのが精いっぱいだった。 「こんにちは、小さなお客さま。あなたも、どうぞ楽しんでいらして!」 人魚姫たちがにっこり笑って挨拶を返してくれる。 それだけで、泣きたいくらい幸せな気持ちになった小夜を、いったい誰が笑えるだろうか。 「がんばって、ユーウォンさん!」 人魚姫がはしゃいだ声を上げる。 鮮やかなオレンジ色をした小型ドラゴンは、跳ねるシーホースにしがみつきながら、人魚姫の声援を受けて楽しげに笑っている。 「あかりさんも、がんばって!」 別の人魚姫が、くるくるとよく動く表情が可愛らしい娘さんに、惜しみない声援を送る。 「仁科 あかり、がんばるですよ! ほっ、はっ!」 少女が気合とともにシーホースの背でバランスを取ると、周囲の人魚姫たちからやんやの喝采と拍手が巻き起こった。 「えへへ、運動神経、悪くないほうだから、いけると思ったですよ!」 シーホースとの相性もばっちりなようで、辺りを軽やかに駆けまわりつつ、あかりは得意げだ。 ユーウォンは何度もシーホースの背から放り出されていたが、むしろそれすら楽しそうだった。難しいね、と言いつつも、諦める様子はない。シーホースのほうも、じゃれ合いのつもりのようだ。 「来てよかった。これ、心残りだったんだよねぇ。――近況の報告も出来たし、話も聴けたし」 親しげに鼻面を摺り寄せるシーホースの首を撫でてやりつつ人魚姫たちを見やると、明るい笑みが返り、手が振られる。ユーウォンもまた、笑って手を振りかえした。 由良は、それらの光景も無造作にカメラへと収め、それから王城のある方角へ眼をやった。 「アンジェリカ姫はまだあの街……なら、シェヘラザード姫のところへ行くか」 彼女の、海月コレクションというやつを撮ってみたい、というのが今の欲求である。 「他の人魚姫に会いに行くんですか? わたしも行っていいですか?」 期待を込めて見上げてくる小夜へ頷いてみせ、由良は牧場をあとにする。 牧場の先には、真珠貝を育てている領域があった。 乗馬体験を堪能したあと、あかりが向かったのがそこだ。 ここでは、真珠の採集を体験させてくれる。 「トモダチにあげるですよ、イヒヒ」 いくつか、貝を開けさせてもらい、大きさも色もかたちも様々という真珠を探す。 あかりが手にしたのは、親指の先ほどもある真珠だった。白い光沢を持つ、どことなく涙の雫のようにも見える真珠だ。 それはまるで、心根のようにも見え、 「……異世界っぽいものがあったら、離れ離れになっても思い出せるですよね、きっと」 真珠を掌に包み込み、あかりはそっと微笑む。 少し離れた位置では、ジャック・ハートが真珠を探している。 「おッ、大物見ッけた! こいつァ、イヤーカフにするのがよさそうだな」 光に透かして見つめ、にんまりと笑う。 産業化された真珠養殖業だけに、入りは上々で、特に能力に頼る必要もなく、ジャックはその後も次々と色つやのよい真珠を手に入れることが出来た。 「こいつはブローチにするとして、あとは……」 リーフディアの真珠はどれも美しい。 ジャックは、更に、女物の装飾品七つと、子ども向けの玩具をひとつ贖う算段をしつつ、養殖場をあとにする。 4.おいしいって幸せなこと 「私は、ユキノの一生懸命さを、とても愛おしく思うよ」 今が旬という貝類をふんだんに使ったパスタと、色鮮やかな海藻のサラダ、海柑子なる柑橘のデザートなど、色とりどりでよい香りのする料理を前に、アマリリスが通常運転で口説けば、 「……もう、アマリリスさんったら、冗談ばっかり……!」 ユキノは真っ赤になって慌てる。 アマリリスが存分にイケメンオーラを放出しているのもあって、そこでは特に違和感のない空間が展開されている。 広く、快適なリストランテである。 ありとあらゆる料理が提供される、とネレイスたちにも評判の食事処だ。 「ここは、美味しい魚がたくさんいるから素敵だねぇ」 北斗にとっては、まさに楽園とでも言うべき場所だった。 彼は、獲れたての貝や魚をそのままで注文し、貪るように食べている。 「こんなところに住めたらいいなぁ」 うっとりしつつ、魚を丸ごと飲み込む、豪快な食べっぷりを披露する北斗だった。 店を一歩出ると、そこは食べ物を商う店が連なる通りである。 「いやあ、海ってすげーなー」 理星はほくほくと通りを歩いていた。 眼にも鮮やかな珊瑚の森、やさしい風合いの真珠の岩棚、悠久の水を綴じ込めたかのようなアクアマリン山、藍銅鉱色の海底平原を泳ぐ金色の魚の群れ。銀の鱗を持つ長大な魚がゆったりと身をくねらせる、白く透き通った化石珊瑚の岩場。 海は恐ろしいほど広大で、身が震えるほど美しい。 「お土産、出来たし」 珊瑚の森で、番人のネレイスにもらった真っ赤な珊瑚をいくつか、理星はしっかりと握りしめている。 「誰にあげようかな。――みんなにあげてぇな」 そんな『誰か』がいることを喜びつつ、理星は進む。 そこから北へ進んだ場所に、実りの森と呼ばれるグルメ垂涎のスポットがある。 森といっても繁茂しているのは巨大な昆布たちで、そこにはカニやらウニやらエビやら、鮑やら栄螺やら、一般的にご馳走と呼ばれるたぐいの生き物たちが無数に暮らしている。 ネレイスたちの収穫の場としてにぎわう場所だが、恩人だからということで、ロストナンバーたちにも開放されているのだ。 「生きててよかった……!」 そんな森に、冷泉 律の、心の底からと判る叫びが木霊する。 「美味しいっていいね!」 ハルシュタットは、その小さな身体のどこにそれだけの食べ物が入っていくのかと驚くほどの食欲を見せている。 「なあなあ、あっち行ってみぃひん? なんや、おいしいものがある予感がするねん」 「あーまあ好きにしぃや。わしはなんでもええさかい」 わくわくを隠しもしない有明の頭に、晦とハルシュタットが乗っかっている。首謀者は当然律である。 晦など、弟がどうしてもというから保護者的な意味合いでついてきたというのに、このサイズではまったくもって果たせていない。しかも、有明の頭が狭すぎて身動きが取れず、おまけに滑り落ちそうになってじたばたしている。 「大もふ中もふ小もふ……くっ、あまりのまぶしさに眩暈が……!」 キャラクター崩壊さえ引き起こしつつ、律が鼻を押さえる。 「律さん、おれでっかいカニが食べたい! 脚が長くて、食べごたえがあるやつ!」 「喜んでー!」 「僕な、僕な、おっきい海老が食べたいねん」 「もちろん喜んでー!」 もはや愛の奴隷。 乞われるままに、笑顔で海産物をかき集め、萌えの権化たちに捧げる。 律曰く、奉納である。 「有明、頭動かすな! 落ちてまうわ……っちゅーか何でこんな狭いとこおらなあかんねんな!?」 それは僕の萌えのためですと律は言わなかったが、無言で鼻血を拭う仕草はしたそうな。 「あああ、もう、何なんだろうこの幸せ空間。俺もしかしたらこのあと天に召されるのかな……」 「律、何真顔でぶつぶつ言うとんねん、めっちゃ怖いわ!」 思わず突っ込む晦を抱き上げ、もふもふぎゅうぎゅうぺろぺろしてからまた戻す。 「……なんやもう、何言うても無意味な気がしてきたわ……」 すでに諦観が勝っているのか、ほぼ無抵抗の晦である。あまりのツッコミ不在っぷりに投げやりだ。 「食い物もええが、酒はないんか」 「鮭ならあるよ?」 「そういうボケはええから!」 全力で突っ込む晦だが、残念ながら圧倒的に威厳が足りないため、律に鼻血を拭わせる効果くらいしかない。 その間にも、有明は有明で「僕育ちざかりやさかい、いくら食べても足りひんねん!」などと言いつつ、ネレイスが分けてくれた鮑をモリモリ食べているし、ハルシュタットなど「猫は魚介類食べちゃ駄目って言うけど、おれは平気だもんね!」となぜか自慢げに、身の引き締まった真っ白な烏賊を頭から齧るありさまだ。 微笑ましさに和んだらしいネレイスたちが、収穫した海産物で熱々の濃厚な魚介汁を振る舞ってくれると、もふもふたちの興奮はさらに高まった。海底でとれる林檎で醸すという酒もふるまわれ、晦もやがてご機嫌になる。 「はああ、もふもふ最高。生きててよかった……神さまありがとう……!」 「もうそれはええから!」 ――しかし、ツッコミに手加減はないようだ。 ところ変わって、街中である。 湊晨 侘助は、灰燕を半ばあきれつつ見つめていた。 「それ、飽きひんのん……?」 海小豆を丁寧に漉してつくった舌触りの滑らかな餡玉。 海鶏の玉子をふんだんに使い、ふんわりと焼き上げた菓子。 最高級のテングサを使った心太、餡蜜、海金時豆を寄せた鹿の子。 海底にも粳米が存在するのか、餅のようなものを、色とりどりの餡でくるんだものもあった。聞けば、餡は貝の一種からつくられているという。 灰燕はそれらを、鍛えられてはいるが決して大柄なその身体のどこに入るのかという勢いで――そのくせ見惚れるほど優雅な所作である――食している。灰燕曰く、せっかく来たのだから、街中の甘味処という甘味処を制覇して歩く、のだそうだ。 「飽きんの。こないに美味いもん、飽きるやつがおるとも思えん。そう思うじゃろ」 「はあ……せやね……」 水気の多い場所ゆえ、焔の化生である白待歌は実体化出来ない。 それゆえ、「うるさいのがおらんけぇ気が楽じゃの」と、灰燕は羽目を外し気味である。 灰燕は楽しげだが、侘助自身は楽しむどころか水気と塩気に錆びないか気が気でない。 「わぇ……何でついてこようと思たんやろ……」 俺に言われても知らんと、七色の寒天菓子を全力で堪能する灰燕に斬って捨てられ、儚げな雰囲気を醸し出しつつ遠い眼をする侘助である。 ロストナンバーたちの大半は、客として食すがわに回っているが、中には、復興支援の一環として、店を出すことを選んだものもいる。 「いらっしゃいいらっしゃい、特製の鶏団子汁とおにぎり、焼きそばはいかがですかー! 安いよ、おいしいよ!」 皆が集まる広場にほど近い位置に、屋台が立っている。そこで声を上げるのは一一 一である。彼女の隣では、ねじり鉢巻き姿の鰍が腕を揮い、次々と料理を饗してゆく。 「あっいらっしゃい、現地の人たちは無料なんで遠慮なく! はい、美味しく食べてもらえたらそれだけで!」 笑顔で汁物を配る一の姿は晴れやかだ。 「一、観光とかいいのかよ? さっき、ちょっと離れただけじゃないか……おまえも楽しんできていいんだぜ? ここんとこ大変なこと続きだったろ」 鰍の労いと配慮に、一はくすぐったげな笑みをみせ、首を横に振った。 「心惹かれるのは否定しませんけど、やっぱり現地の人たちの力になりたいなあって」 まっすぐな眼差しは以前のまま。 しかし、前とは違う、落ち着きや力強さを、一は醸し出している。 「……そっか。まあ、無理はすんなよな」 「しませんよ。今は、する必要もないですし」 鰍は、そんな一をどこかまぶしげに見つめた。 と、そこへ、 「あっ、かじかじさん!」 何とも聴き慣れた呼称とともに、大きな白翼がばさりという音とともに舞い降りる。 「うん、一文字多いけど、久しぶり、理星」 ツッコミすら予定調和のようである。 背丈こそ大きいが、純真純朴と表現するのが相応しい理星には、鰍もあまり強く言おうという気にはならないらしい。 「あの、かじかじさん」 「ん、どした?」 「これ、お土産。あの、珊瑚の森でもらって、その」 「俺に? ありがとな、大事にするわ」 鰍が、おずおずといった様子で差し出された、見ただけで極上と判る珊瑚を受け取り、理星の頭を撫でたところで、 「あっ、かじかじさんに一さん! それに理星も!」 明るく穏やかな声が響き、そのとたん理星がぶわっと翼を膨らませた。 驚いたらしい。 銀色の視線は、こちらへと歩み寄ってくる青年の姿を捉えていた。 「おや、蓮見沢さんじゃないですか。鰍印のおいしい鶏団子汁、食べていきませんか。お安くしておきますよ」 「え、海産物がいい」 「こっちの焼きそばには烏賊とホタテがたっぷり入ってます」 「じゃあ二人前ください。大盛りで」 「っていうか俺はかじかじじゃな……反応早!? いやまあ、いいけど。まいどありー」 「ん、理星といっしょに食べたいなって」 にっこり笑い、焼きそばを片方、理星へ手渡す。咄嗟に受け取ってしまった理星が途方に暮れた顔をする。 そこからいくらか時間が経って、そろそろ撤退か、という頃合いになった辺りで、一は、七色の海ベリーを封じ込めた、綺麗な氷菓子を鰍へ差し出した。 「ん?」 「……お疲れさまでした。やっぱり、鰍さんはすごいです」 「これ、俺に?」 頷く。 ありがとうと笑い、受け取る鰍に、 「私、少しは鰍さんのお役に立てましたか?」 尋ねる。 その響きは、やはりかつてとは異なっていた。 軽やかな、余裕さえ感じさせるそれに、鰍が微笑む。 伸びた手が、一の頭を乱暴に――親しみを込めて掻き回す。 「当然だ」 やめてくださいよ、そう言いつつ、一はくすぐったげに笑った。 ほのぼのとした空気が流れる広場の隅では、イテュセイがくだをまいている。 「何よーいいじゃないのよー、何が悪いっていうのよー」 彼女は、めっこクオリティの薬剤を駆使してロミオや人魚姫を恋の坩堝に叩き込もうとしたのだが、残念ながらロミオが見つからず、人魚姫たちにもやんわりと断られてしまったのだった。 無念。 その傍らでは、 「クックック……」 アビイスの裂け目でニヒリズムに浸りたかったのに、封鎖されてしまっていて果たせなかった神が、 「世界はまわる……それが選択であるがゆえに」 とか、 「私は興味がある……この世界の行く末に」 とか、 「まったく、生き物は愚かしい。その愚かしさが深淵を引き寄せると、気づいているのかどうか」 とか、 「……そうだと思わないかね」 などと、散々それっぽいことを言っては鬱憤を晴らす様も見られた。 5.続くえにし しだりは、青い龍の姿のまま街をゆったりと進んでいた。 「不思議だな……どうして、海底と陸上で、こんな共通点が生まれるんだろう」 同じ水棲生物のよしみで、ネレイスたちの文化に興味を持っての訪問である。 「うん、文化があって芸術があって、食べ物の調理方法があって、調味料や嗜好品があって、農業や工業がある。海と陸じゃ、在りかたも全然違うはずなのに」 相沢 優はほとんど当然のように隣にいて、しだりの言葉に相槌を打っている。 「それに……海の中の国、なんだよなあ。不思議だ」 水気に覆われた世界は、時おりヴェールのように揺らめく。 幻想的な光景だ。 どこかから音楽が聞こえてくる。 九十九番目の姫君が、ひとを癒す歌をうたうというくらいだ、この国でも音楽は愛され、奏でられているのだろう。 「綺麗な曲だね。波の穏やかな海域で、太陽の光を浴びているみたいだ」 優が言うとしだりは頷き、それから、 「……ふらふらしない」 ぼそりと言って、アコル・エツケート・サルマの尻尾をぐいと掴んだ。めりはりボディの美人ネレイスを追いかけようとしていたアコルは、 「すまんすまん、つい目が行ってしもうてのう、むほほ」 などとまったく悪びれない。 「……結んだほうがいい?」 再発防止に、と水で縄をつくり、首に引っかけようとするしだりと、 「いやいや、犬じゃないんだから」 思わず苦笑する優である。 「優、見て、イソギンチャクの植え込み」 「ほんとだ。なんだか可愛いなあ。あ、海梨の氷菓だって。おいしそう」 「しだり、食べたいな。優も食べる?」 彼らは他愛ない会話を喜んだ。 別れを意識して、というよりは、自然体のまま、その時を迎えるためだ。 そこには、寂しさよりも、ただ深い友愛だけがある。 「ワシは酒が飲みたいのう。海の中の酒など、珍しいものじゃ」 アコルは、孫のようなふたりが睦まじくしている姿を見るだけで楽しげだった。 「歴史、文化、ヒトの想い……そういうものを感じるのう」 街を見つめる眼には、旧き神としての慈しみがにじむ。 優が、ふわ、と欠伸をした。 「大丈夫?」 「ん、うん。あんまり穏やかだから」 「そうか……いいことだね」 しだりの眼差しは、どこまでも優しい。 そのころ、ムジカとベヘルは、フェルムカイトス号にてロミオと再会していた。 「聴かせたい人がいるんだ……いろんな、うつくしい音楽を」 イリスが、ロミオに聴かせたいとうたう歌を、ナレッジキューブ製の蓄音匣に収集する。ベヘルとムジカも、伴奏に加わった。 「……贅沢だな」 喜ぶべき共演を、ロミオは楽しんでいるようだった。 「それで、国づくりはどうなってるんだ」 演奏後、ムジカが問うと、ベヘルがそれに言葉を重ねた。 「個人的に手伝えるなら手伝いたいのだけども、ぼくはこの海の人間ではないからな」 双方、ロミオの理想を応援したいという想いは同じだ。 ふたりは、ずいぶん長く、深く、この海賊王子と関わって来たのだから。 ふたりの問いに、ロミオは晴れやかな笑みをみせた。 「まだ詳しいことは言えないが」 「ああ」 「全部巧く行くって、俺は信じてるよ」 「……きみらしいね」 楽天的にもほどがある、と、口では言いつつも、ムジカもベヘルも、なぜかそれが真実になるだろうと確信しているのだった。 ゆるやかなえにしがもたらすひと時は、こうして、今しばらく続いてゆく。
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