「……ああ、これか?」 ターミナル中、ピンク、薄桃、淡紅と見事に咲き誇る一角で、呼びかけられてフェイ・ヌールが振り返った。「可哀想だろ? どうして、こいつだけ、こんなことになっちまったのかねえ」 彼が見上げているのは枝ばかりの木だ。 花一輪もない。 豊かに広げられた枝に、たったひとひらの花弁さえ。 そこにフェイはピンク色の小さな紙を折り畳んで結びつけている。「……本になれない話、ってのがあってな」 誰に話すこともなく、つぶやいた。「一冊の本にはなれねえが、それでも心にひっかかって離れない話……そういうのを、この紙に書き付けてたんだが、ひょっとしてこんなふうに結んでやれば、咲いてるように見えねえかな、と」 ごまかしだがな。 苦笑する横顔が微かに陰った。「自己満足…だ」 今しも結びつけた紙を見上げて目を細める。「助けたつもりで……誰も助かってねえ、ってこともあるってことさ」 長身の体が一瞬頼りなく揺れたように見えた。「……ん? あんたにもそんな話があるのか?」 構わないぜ。 振り返って、いつも通りにやりと笑う。「紙ならそこに一杯ある。適当に書き付けてくれれば、結んでおいてやる。読まれるのが嫌なら、折り畳んで手渡してくれ。そのまま結びつけておく……ああ、結ぶのを手伝ってくれてもいいぜ」 何せ、まだ一杯あるからな。 指し示した大きな銀色のバケツには、こんもり盛られた桜色の紙の山。「全部結びつけ終わったら………少しは気持ちがおさまるかもな」 小さくつぶやいた声は、淡く滲んで響いた。
「はい、どうぞ」 「ああ、ありがとう」 フェイは相沢 優に差し出されたピンクの紙に目を通して微笑む。 『祖母ちゃん達の話』 丁寧に書かれた文字が続く。 『昔、爺ちゃんが戦争に行って帰って来た時に、桜の下でプロポーズされたんだって。恥ずかしいけど、やるなーって思った』 「…おかしいですか?」 微笑を深めるフェイに優は照れくさくなって笑い返す。 「いや、わかるよ」 フェイはくすくす笑いながら、折り畳んで枝に結びつける。 「人の縁が繋がった話だ、この木も喜ぶ」 「……それがらみ、というんじゃないですけど」 優は結びつけられたピンクの紙を見つめながら、生真面目な表情になった。 「以前参加した依頼で、森の奥深くにずっと眠っている孤独の王様が居て」 「うん」 バケツから他の紙を拾って折り畳みながら、フェイが頷く。 「今もずっと、ひっかかっています」 「……なぜ孤独の王様なんだ?」 「……あるものを守るため……押さえるためっていうか、そのために、ずっと一人で緑の蔓に溢れた朽ちた城で眠っているんです」 「うん」 「………ずっと、一人なんだなあって……」 小さくつぶやいた声に、フェイは静かに次の紙を結ぶ。 「あのまま、ずっと」 「お願いしていい?」 「え、あ」 少しずつピンク色が増えてきている桜を見上げ続けていた優に、東野 楽園が紙を渡した。 「俺が?」 「構わないよ」 フェイがくすくす笑った。 『この前神託の都で夢を見たの。お父さんとお母さんの夢。二人がどうやって結ばれたか。私は愛されて生まれてきた。両親は命がけで私を守り通そうとした。』 楽園が差し出した紙に目をやって、フェイは少し笑みを消した。いつかの夜、彼女が語った昔話を覚えている。 『「貴女も愛する人を見付けて」とお母さんは言った。ずっと独りぼっちだった私にもいつかそんな人ができるのかしら。たとえば、クリスマスに出会って猫を預かってくれた不器用な軍人さんのような……』 思わず桜を見上げて、 「おいおい、本日お前は縁結びの神様の役割らしいぞ?」 一人ごちながら、続きに目をやって、フェイは嬉しそうに笑った。 『あの人になら素直になれる。でも、これを恋って呼んでいいのかしら?』 「……優」 「はい?」 「これを結びつけてくれないか……しっかりと、二度と解けないように」 「はい、フェイさん」 俺がやっていいのかなあ、と照れ笑いしつつ、紙を折り畳んで結びつける優から、楽園に目を移す。 「名前は何とつけてもいいと思うぜ?」 フェイの柔らかな声は、どこか苦しげにも響く。 「それが真実の思いなら、誰にも遮る権利なんか、ない」 時に人を傷つけても。 「そう?」 じっと見上げる楽園の目に、もう一度静かに頷く。 「結末を引き受ける覚悟さえあるならな」 「……わかったわ」 楽園はフェイの顔に何を読み取ったのだろう、同じように一瞬顔から表情を消し、それからふわりと愛しげに笑って、結ばれた紙を見上げた。 「ぼくも手伝っていい?」 ニワトコが頭の花を振りながら、近づいてきた。 バケツの中から紙を取り、見よう見まねで畳んでいく。 「ぼくは樹で、故郷ではたくさんの樹に囲まれた森で育ったから、『誰かの花が咲くお手伝いをする』なんてことはしたことがなかったな」 「ああ、そうか、そうだな」 フェイも隣で紙を折り畳み、優に渡しながら頷く。 「とても新鮮だし、素敵なことだと思うよ」 よいしょ、とニワトコが手を伸ばして紙を結ぶ。きちんとうまく結べたか、すぐに解けたりしないかと眺めながら、ふいにぽつりと、 「もしぼくがいつか枯れることがあったら、誰かにこうやってお話を結んでもらおうかな……」 「その時は世界中から話を集めて届けるよ」 フェイがにやりと笑った。 「おかしくて奇妙で、腹を抱えて笑い転げるしかないような話を一杯届けよう。そして、幾つも幾つも君に飾って、君と一緒に楽しもう」 たとえそれが命の終わりであったとしても、楽しんじゃいけないっていうことはないだろ? 「やぁ、なんだか面白そうなことしてるね。紙を結びつけるのでも手伝うよ♪」 ひょいと顔を出したのは、ベルファルド・ロックテイラーだ。 「どれどれ…?」 拾い上げた紙は、誰かがもう書き込んだものだったのだろう、へぇ~、こんなこと書いてるんだ! と目を丸くしてベルファルドは読み込んでいる。 「手伝ってくれると有難い……何だかたくさん来てくれたからな」 俺の自己満足に付き合わせているようで悪いんだが、と苦笑するフェイに、 「いいんじゃない? 自己満足。木に心があるか誰もわからないし。かわいそうに思う人がやりたいようにやればいい。それで気持ちが落ち着くなら、ね☆」 軽いウィンクを投げて、楽しそうに紙を折り畳んでいく。 「あの、コレ、お願いします」 「はい、どうぞ?」 ベルファルドが受け取ったのは、サシャ・エルガシャの書き込んだ紙だ。 『心にひっかかってること。ひとりぼっちだったワタシを引き取り育ててくれた恩人の旦那様。烙聖節の舞踏会でお会いした旦那様が言いかけてやめたこと……それは何?』 「ふうん?」 ちらりと期待を込めて見つめている瞳を見返す。 『旦那様がワタシを見る目。本当の祖父が孫を見るような温かい目。まさか。でも。本当かどうか会って確かめる事はもう叶わないけど、夢を見るのは自由だよね。ワタシ、旦那様のご家族を名乗っていいんですか?』 「…そうだよね、夢を見るのは自由」 けどさ、本当に自由なのは、これから、じゃない? ベルファルドは微笑んだ。 「いいか悪いかなんて、誰も決められないよ。キミが決めるから、繋がってくものってあると思うな」 どきん、と胸を鳴らせてサシャはベルファルドを見返す。 「フェイ」 これ。 傍若無人な、そのくせ断りきれない滑らかさでリエ・フーが紙を差し出した。 「ああ、ありがとう……忙しくはないのか?」 「没有美人空暇(美人暇なし)」 薄く笑ったリエには息を呑むような艶やかさがある。その効果を知り尽くして、リエはピンクの紙を結ばれて、次第に満開の桜になりつつある樹の幹にもたれる。 「このあたりがいいな、結んで」 しなやかな指先で指差してみせるのに、はいはい、とフェイは近寄っていって気づく、リエの指差す頭上、桜の幹近くにはまだほとんど結ばれていないと。 「……卒ないな」 「こんなところに花は咲かない」 リエは目を細める。 「偽りの花だから、好き勝手にやるのもありだろ」 フェイは紙に目を落とす。読まれるのを待っているようにリエが目を閉じる。桜の下での逢い引きで、口づけを待っているとも取れかねない仕草だ。 『随分昔……俺がまだ上海にいた頃、出会った女がいてな。雪静て名前の娼婦。その名の通り色白で大人しい性格の娘だった。元は金持ちの娘だったんだが借金のカタに売り飛ばされてきて、色々世話焼いてやってるうちに懐かれちまった。西洋人に身請けされて外国に渡っちまったんだが、雪静が別れ際にくれたブローチ……官憲に追われて逃げる途中でなくしちまった。今頃誰の胸を飾ってるのかね』 「誰の胸を?」 くすっと笑ったフェイに、リエが訝しげに体を起こす。 「決まってるだろ、お前の胸じゃないか」 「…なくしたんだぞ」 「どこにあるにせよ、それはもうもらった時の姿じゃないだろう」 傷ついたりくすんだり、歪んだり欠けたり。 「けれど、お前の胸にはそのブローチが受け取ったそのときのままにある」 「……つけたことなんかない」 「わかってるくせに」 いじっぱりだなあ。 フェイに微笑まれて、リエはすいと体を起こす。 「おっさんのメルヘンに付き合ってられるか」 「結びつけておくよ、ここにも一杯」 すれ違った時の声に、一瞬肩越しに視線を投げ、リエはゆっくり去っていく。 「字が必要ならば協力するのもやぶさかではない」 ピンクの紙を取り上げて、美麗な文字でさらさらと書いた文章を、グラフェン・サートウはニワトコに渡す。 『この花よりも愛しい人よ。この花吹雪が君を隠してしまわないように、しっかりと捕まえておくよ』 「……恋文……??」 「かつて花見の宴のおりに友人が詠ったものでな。作品としては駄作だと思うが、この文字の並びは中々に美しい。それにその時の花はここの桜によく似ていたから、ふさわしいだろう」 見上げた彼が、枯れ木だった時の姿を指していったのか、それとも皆が次々と結びつける紙で覆われ始めて、周囲の桜と見劣りしなくなりつつあった姿を指していったのかはわからないが、誰かへの想いを託した内容は確かにふさわしい。 まだ足りないかも知れぬな、と次の紙を取り上げたところを見ると、まだまだ美しい文字を桜に贈ってくれそうだ。 「うん、まだこのままじゃ寂しいかもね」 一つ頷いて、新しく紙を手にしたのは、ティリクティアだ。 『私の故郷の神殿の中庭を手入れする、仲の良い盲目の庭師。彼から聞いた話で、ある庭師と巫女姫の恋の話。身分違いで、決して叶う事はない、その切ない話』 事細かに書こうとして、紙の大きさに諦め、一番書きたいところはここ、とペンを走らせる。 『でもね、とある花が大好きだった巫女姫の為に、庭師はその花を庭一面に咲かせ続けたんだって。それがね、薄紅色の可愛い花だったんだって。だから、この庭にはいつもこの花が咲いてるんだって』 「片思い…か」 受け取った優が一瞬眉を寄せ、それでも思いを貫いていくってことだよね、と紙を結びつける。 「シィーロ、これ頼む!」 「はぁい!」 『この木も周りと違うのは寂しいと思う。でもこの紙で桜色を纏えば他の桜と同じになれる。そうしてこの木の下で花見が出来たらこの木もきっと寂しくないとシィーロは思う』 来る早々に、まっすぐな瞳でそう告げて、手の届かないところ、遥かな高みまで全ての枝に紙を結んであげたいと、身軽に木に登っていったシィーロ・ブランカだ。真っ白な毛並み、ピンと立った狼耳、苔色のロングコートを着た体からふさふさの尻尾が揺れている。 呼ばれてシィーロはまた数枚の紙を抱えて幹を登る。 「わあ……ずいぶんたくさんになったなあ……」 目の前に広がるターミナルの桜、それに勝ることなどないのだろうが、それでも一人一人の想いを結ばれていく桜もまた、満開となりつつある。 「えーと、これは……あの人」 地上で見上げているジョヴァンニ・コルレオーネを見下ろし頷く。 『思い出の花といえば薔薇じゃ。別荘にしておる古城の中庭に薔薇園があって、病気で臥せりがちな妻は寝室から毎日薔薇を見下ろしておった。自由に動けない妻にとってそれだけが心の慰めじゃった。ほんの数回、家族水入らずで中庭を散歩した。あの時の妻の笑顔、娘の笑顔は忘れられん』 「……」 胸に迫ったのは孤独の痛さ。周囲と違う自分の傷み。 『決して良い夫、良い父ではなかった。この手は血に染まっておる。でも、それでも。あの薔薇園で過ごした記憶は、今も鮮やかにこの胸に咲いておる』 「……十分、いい人だよ…」 こんなに人を大事にできる人に思われて。 きゅっと唇を閉じて、紙を折り畳み、枝にしっかりと結びつける。そこに込められた思いの豊かさが、少しでも枯れた木に命を与えられるように。 次に結ぶ紙を読みながら、シィーロの視界がぼやぼやと滲んだ。 『ディアママ。ターミナルで同じNYの人に会ったの。その人はアイツの事を知ってたわ。彼の死は早すぎたってお悔やみを貰っちゃった。……変ね、アイツの事なんかどうでもいい、勝手に死ねって思ってたのに咄嗟にどういう顔していいかわかんなくって。私のパパはパパ一人だけなのに。じゃあ、アイツは何なの? どうでもいいヤツならどうしていつまでも心にひっかかってるの? この世界にいるのなら会ってぶん殴ってやりたいわ』 書いたヘルウェンディ・ブルックリンは、真下から眩そうにシィーロを見上げている。いつもならきつい視線が、今は柔らかく輝いている。 「……いい…なあ……」 狼耳が垂れる。尻尾が力なく項垂れる。ごしごし擦った目元、強く握り過ぎた紙を慌てて伸ばし、折り畳んで一所懸命枝に結ぶ。 なじっても、ぶつかっても、後悔して、怯んで、それでもこうやって、繋がっている絆は、なんて温かくて柔らかいんだろう。 「シィーロ、どうしたあ?」 「は、はあい!」 フェイの声が響いて見下ろす。 「疲れたら降りておいで!」 ほら、ここに。 指差されたのは、皆が自分を見上げている中央。 ああ、そうだ、疲れたら、降りていこう、あの場所に。 「大丈夫ーっ!」 大きく手を振る。 「はい、これッ、ガイシャスッ!」 フェイに両手でまっすぐピンクの紙を数枚差し出して、氏家 ミチルは頭を下げた。セーラー服の冬服を着て袖まくり、白い鉢巻をしめ、白手袋をはめている。ホントなら、この木のために『応援歌』歌いたいとこなんスけどね、と見上げる。 「けど、ここでやる気出まくって根っこが爆走すッといろいろまずいッスから!」 振り返ると、いつの間にか背後には人が集まり、敷物が敷かれ、飲み物が持ち込まれつつあった。紙を結んでくれている者、追加を書く者、いつの間にかピンクだけではなく、薄赤い紙や白い紙も追加され、符術師よろしく怪しげな紋様を書き付け始める者もいて、ちょっとした宴会状態だ。 「自分のこれッス! シャス!」 「了解、じゃあこれは天辺か?」 『自分、家族の為に悪魔と契約したッス。願い事叶えてもらったから後悔してないッスよ。でも、友達や家族に会えないのは偶に寂しくなるッス。平凡な家で、喧嘩する日もあったけど。今思うと、平凡に育ててもらえたのは幸せな事かも知れないッスね。皆が好きだったからグルグル考えたりも偶にあるんスよ。覚醒したから覗きにも行けないしって。だけど、うじうじするのは無しッス!皆が知ってる自分はそんな奴じゃないスから』 みちるの紙を読み終えたフェイがにやりと笑う。 「確かに天辺な内容だな。シィーロ!」 「はい!」 急いで降りてくるシィーロの横で、ヌマブチがいつの間にか手伝い始めていた坂上 健に紙を渡している。 「某が居た戦地では、この花に関する噂話のようなものがまことしやかに囁かれていたのであります」 「へえ?」 健はヌマブチの紙をゆっくり読む。 『かつて国境に一本の桜が立っていた。季節がくるとそれは美しい花を咲かせた。その花の美しさに、両国兵士は互いに命令を無視し、戦を止めた。桜が散るまでの間だけ』 「……桜が散るまで、戦を止めた……ほんとう、かな」 思わず紙を結んだ桜を見上げたのは、今この世界を覆いつつあるきな臭さが食い止められるなら、永遠にこの桜を咲かせればいいんじゃないかと思ったせいで。こうやって人と人とが結び合う、この気持ちと絆と互いの指先で。 「事実かどうか? 知らん」 ヌマブチは一蹴した。 「少なくとも某はそんな桜は見たことはない、戦火の影響で昔に比べ自然も減ったからな。花見の席には相応しくない話、甘露丸殿には告げていないのでありますよ」 「ああそれで、花見では聞かなかった話なんだね」 そう頷いた、そこへ、 「わぁ、大変そ」 通りかかったのはディーナ・ティモネンだ。大きなバスケットと大皿を巧みに包んだ風呂敷を下げ、びっくりした顔でこちらを見て近寄ってきた。 「花見用に、肉団子。たくさん、作っちゃったから…どうぞ?」 すごくたくさん結んだね、まだ結ぶの、とバケツを覗き込みつつ、肉団子と温かいお茶を差し入れる。 「いいのか? どこかへ持っていくんだったろ?」 「大丈夫」 微笑み返しつつ、そっとピンクの紙を取り上げ、 「私は…まだ、書けないから。書きたくない、のかも?」 「無地でもいいぞ」 フェイが笑った。 「一枚、咲かせていくか?」 「ん…」 ディーナは桜を見上げ、少し首を振る。 「この木…ナレッジキューブの、変成だよね? なら、この姿が…みんなの願い、なんだよ。みんなの迷い、とか…想い、とか。そういうの咲かせるための、木」 「なるほどなあ」 「桜吹雪の中で、花びらが自然に枝から離れて地面に落ちるまでを一瞬も見失わずに最後まで追い続けることが出来れば願い事が1つ叶うそうなのです」 ふいに、すくっと立ったシーアールシーゼロが宣言する。 「しかし、無数の花びらが舞う中で一つの花びらを最後まで追うのは困難なのです。成功するまで何度も試みる必要があるのです。それを成し遂げた人は、花びらを最後まで見届けることができたことで満たされ願い事をしなかったそうなのです。ゼロも試してみるのです」 無垢な瞳を前の桜に向け、あれ? と首を傾げるゼロに、フェイは吹き出した。 「おいおい、それはこの桜じゃ無理だろ」 これだけ固く結びつけていくんだから、そうそう離れて落ちやしない。 うむむむ、と眉を寄せて悩み出すゼロの可愛らしさに、思わず周囲が和んでしまう。 「フェイさん、ゼロさん!」 ふいに上の方からシィーロの声が降ってきた。さっきから次々と紙を受け取っては登って結び、大活躍していたが、楽しいのだろう、尻尾がぱたぱたと勢いよく振られている。 「この木だって、桜だ! ちゃんと花吹雪もできる! ほら!」 持って上がっていた数枚の無地の紙を千切り、上から一気に撒いてみせる。 「わあ!」 「ああ!」 「花吹雪なのです! しっかり追いかけるのです!」 ゼロも歓声を上げて両手を差し上げ、早速目当ての花弁を見つけて必死に目で追い始める。 「私、行くね…みんな、頑張って」 遠ざかっていくディーナと入れ代わりに、のんびりターミナルの花見にやってきた岩髭 正志が、そういうことならば協力しましょう、と紙を手に取った。 「桜といえば、入学式の光景を思い出します……」 さらさらと書き留めた内容を、フェイに差し出した。 『大学に入って医学の道を目指すと決めた時、故郷にそれまでこっそりと書きとめた小説をすべて置いてきたのですが、その時丁度書いていた話は結局完成させられませんでした。それが、少し……引っかかっています』 「終わっていない、話…か」 フェイはその紙を受け取って、少し押し黙った。 「シィーロ、もっと!」 「もっとぉ!」 「はぁいっ!」 「きゃああ!」 「きれいーっ!」 繰り返し撒かれる花吹雪ならぬ紙吹雪、その中で、フェイは正志にまるで叱られている子どものように立ち竦む。 「結んで頂けますか」 「……ああ…結ぼう」 呼びかけられて意を決して木に結び、振り返ると正志はもう姿を消している。 大の大人が射すくめられた。それはきっと、フェイの引け目。 ふいと気づくと、フェイの前に日和坂 綾と坂上 健が立っていた。 「ちょっとしゃがんでくれる、フェイさん? 先に言っとくけど…私、痴女じゃないからね?」 「? ……っ!」 いきなり綾がフェイをギュッとハグして、子供にするみたいに頭と背中をポンポンと叩く。耳元で小さな独り言のような呟きが聞こえる。 「紙を結ぶのを手伝いながら、ずっと考えてた。何でフェイさんはこれを始めたんだろう。苦しい、のかな? 迷って…いるんだろうな。でもきっと…フェイさんは前へ進むんだ」 「……」 ふわりと体を離されて、赤ジャージの大学生の小娘をフェイは呆然と見上げた。 「私たちも居るよ? フェイさんは独りじゃないから…だから、大丈夫」 にこり、と笑った綾が、次の瞬間、赤ジャージよりも真っ赤になった。 「え」 「きゃああああ!!!」 は、っずかしいいいっっ! 「に…逃げた…?」 全力疾走、周囲が見送る暇もなく、あっという間に駆け去ってしまう。 「お…おい」 それじゃまるで俺がチカンみたいじゃないか。 「フェイ」 「…健」 なお撒き散らされる紙吹雪と歓声を背中に緩みかけた気持ちが、近づいてくる『男』に気圧された。 「俺の話は未完だからさ」 ぼそりとつぶやいて健は静かに桜を見上げる。 「俺、報告書の類は殆ど目を通してるんだ。だからアンタが何考えてこれを始めて、何悩んでるか…多分理解してる、と思う」 桜はもう満開だ。満開の桜が、人の手で、なお花開いていく。 「終わるために始めるんじゃない。取り戻すために始めようぜ。世界を守りたくて探偵になった、あいつ自身をさ」 ざあっと風が渡った。紙吹雪に混じって、周囲の桜からも花が散る。 「アンタやアンタの友達の力になりたいヤツは沢山居る…今日もさ。周り見ろよ。俺達は仲間だ…いつだって隣に居るぜ?」 頬を叩かれたような顔で、フェイがゆっくり周囲を見回す。 「ああ…そうだ…な……」 俯く相手が、誰の姿を想うのか、健にはよくわかる。 「行こう…フェイ」 大きく息を吸って、遥か彼方の世界に広がる闇を感じ、武者震いした。 もう、枯れ木の桜はどこにもない。 そこにあるのは、なおも鮮やかに艶やかに、傷んだ桜を咲かそうとする、人の心があるだけだった。
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