画廊街の隅に存在する、小さな映画館。 ひと気のない館内の、倉庫の隅で蹲る男が一人。 一般の映画を収納する倉庫の隣にある、小さな部屋。棚には五色のフィルムがびっしりと並び、その脇には未開封のフィルム缶が乱雑に積まれている。「……ええと、どれから手を付けていいのやら……」 この映画館を預かる映写技師である男は、困ったように眉を下げ、五色に染める前の無色のフィルムが放り込まれた段ボールを眺める。 今日は気まぐれの休業日。“シネマ・ヴェリテ”としてたったひとりのためのロードショウを終え、午後を倉庫の整理に費やそうと、助手には内緒でひとり倉庫へとやって来たのだ。一般映画用の倉庫は、以前ロストナンバーたちに手伝ってもらった際に、大分整頓しやすく改良された。だからそのやり方に倣って、此方の――五色のフィルムを保管しておく倉庫も整頓しようと考えた。 既に名を刻まれた五色のフィルムは、ガラス戸付の棚に色別に分けられて並んでいる。技師も、助手も決して手を触れないようにしているため、その棚だけは他と違って驚くほどに整然としている。さてどこから始めようか、と周囲を見渡した映写技師の視線が、或る一点で止まった。 ふと――無色のフィルムが並ぶ棚の隅で、光を反射して何かが煌めいた、ような気がしたのだ。「――ああ、こんな所に居たのか」 埃に塗れるのも厭わずに、頭と肩とを棚の奥へとねじ込んで、彼は目的のモノを手にする。押し退けた拍子に段ボールが一つ中身をばら撒けたようだが、手に入れた物に意識を取られてそれには気づかない。 映写技師の手の中で、埃に塗れながらも確かな輝きを見せる一枚のフィルム缶。赤、青、黒、白、金、銀――そのどれとも違う、虹の光沢を纏っている。 《虹》のフィルム。 手違いで作ってしまったこの一枚を探しに、かつて、数名のロストナンバーが倉庫整理を手伝ってくれた事がある。映写技師は懐かしそうに笑み、愛おしいものの頬を撫でるように指先で埃を拭いながら、倉庫の扉を開いた。 ◇ 革手袋を嵌めた指が、慎重に、フィルムを映写機にセットする。 観客のない席を背後から見守りながら、男は幽かに、口の端に微笑を湛えていた。かつてこの映画館を訪れた者の何人かは北極星号に乗り込み一年の旅を送り、何人かはターミナルに残ってこの街を変えるために動いている。また何人かは、既に他の世界に新たな道を見つけて帰属していった。 彼らの断片を描いた色とりどりのフィルムは今も、この映画館に並んでいる。 このフィルムも――いずれは誰かが、その手に触れて、映像を刻んでくれるものだったのだろうが。 今だけは、と、映写技師は戯れに上映の真似事をする。「――……さん!」 その耳に、助手である少女の声が聞こえた。慌てるような、喜ばしいような、彼の名を呼ぶ声が。「ああ。此処に居るよ、灯里君」 声に応えて、映写室から顔を覗かせる。走って帰って来たのか、ロビーで肩を上下させていた少女が、彼の姿に気が付いて貌を明るくした。「北極星号が帰ってくるそうです! 迎えに行きましょう!」 少女は大きな眼鏡の奥で目を輝かせ、映画館の入り口を指し示して云う。「そうか」 穏やかに、平静にそう云いながらも、映写技師の貌にもはっきりとした笑みが浮かぶ。一度映写室を振り返り、稼働を始めたばかりの映写機に視線を向けた。フィルムを蝕む虹色が万華鏡のようにくるくると回っている。「早く、早く!」「ああ、今行く」 僅かの逡巡の後、男はそれを止めることなく、映写室を後にした。 ◇ から、から――と。 無人となった映画館に、映写機の回る音だけが響く。 白い光ばかりを映す銀幕に影が混じり始める。スクリーンに現れる色。鮮やかな光。無数の燈火が揺れるような、柔らかな色彩の乱舞。華やかに、優しく、映画の始まりを飾る。銀幕から溢れる光が、無人の客席をも輝かせた。 シネマ・ヴェリテに光が充ちる。 赤、青、金――七色の鮮やかなノイズに彩られて、やがて、銀幕は映像を結び始めた。 ――虹のフィルムは《無窮》。 全ての旅人たちのための、終わりのないエンド・ロール。======<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆するシナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。======
から、から、から――映写機の回る音がする。 虹のノイズを万華鏡のように鏤めて、スクリーンは様々な世界の映像を描き出す。 ◇ ――薫風のような、緑が舞う。 細かく、砂のようになるまで砕いた翡翠の破片のような、淡く美しい色のノイズが散る。粉雪のように舞い踊る。 その色彩は、見渡す限りの荒野、地平線の向こうまで続く乾いた大地には似つかわしくない芳醇の香りを含んでいた。かすかな囁きに似た音を奏でながら、恵みの色が舞う。 「アストゥルーゾ?」 銀幕に映り込んだ、布の塊が唐突に口――のような場所を開く。彼はこちらを振り向いて、けたけたと笑ったようだった。 「へえ、あの子に関心があるって事はロストナンバーって奴なのかな」 興味深そうに布の塊がもごもごと蠢く。浅い青を中心とし、羽根や枝葉で飾り立てたその容貌は何処か、彼が口にしたロストナンバーの特徴と似通ってもいた。 「でも残念ながら、ここにはいないんだ。呼んでも来ない。お仕事が忙しくってね」 軽やかな口調で、からからと笑いながら布は言う。喋りながら、不必要な変化を繰り返す。問われている探し人の姿を模倣し。それを問うてきた目の前のロストナンバーの姿を模倣し。はたまた全く関係もない、悍ましい異形の姿に変わり。陽気な化かし人はけたけたと笑い続ける。 「……そんなにあの子に逢いたいのかい?」 ロストナンバーって奴は変人揃いだと聞いていたけれど、本当のようだね、と。何処か困ったように、しかし羨むような口調で、男は笑った。 「じゃあ今から言う場所に行くといい。そこは辺境も辺境の、なにもないところだけど、世界の何処よりも美しく、不思議な場所だよ――」 男の言葉を聞きながら、緑のノイズが世界を覆う。 ――まるで、荒れ果てた大地を覆い尽くし生まれる草原のように。 そして、ノイズの上を踊るように、虹色の文字が現れた。 《 Evergreen 》 地平の果てへ向かって、流れるような色彩が咲き誇る。赤から緑を介し紫へ、辿り着けばまた赤へ。虹の色彩を幾度となく繰り返しながら、その豊かな花畑は風にそよいでいた。 緑のノイズが、花に誘い寄せられた蜜蜂のようにゆらゆらと踊る。光輝きながら、虹の花畑に控えめな色を添える。 そして――花畑に淡い木陰を落とす、巨大な樹木が天へと向かって大きく枝葉を伸ばしているのがひどく目を惹いた。 地平の果てまで荒野と人工物ばかりが続くこの世界に於いて、これほど大きな樹は珍しい。細かく枝を覆い尽くす葉は、羽根のような形と、匂い立つような濃い緑の色をしていた。緑のノイズを象る風にそよぎながら、大樹は世界の片隅に自然を根付かせている。 この場所を教えてくれた彼は云った。 「“ソレ”がアストゥルーゾだよ」 虹色の花畑を庇護するように聳え立つ、この巨大な樹木が、かつてひとりの化かし屋であったかれだ、と。――そして、かれの身に何が起こったかを、かれと同属であったらしい化かし人は伝え聞かせてくれた。 処刑の直前、失踪したとみられていたアストゥルーゾは、消えたのと同じくらい唐突に、親しい女王の前に姿を見せた。 帰還した彼には当然処刑が待っていたが、嘗て素直にそれを受け容れていたはずの彼は其れを拒んだ。今更命が惜しくなったか、と嘲笑う周囲に、アストゥルーゾは首を振って静かに応えたと云う。 「約束を、果たしたいんだ」 嘗て、女王と交わした約束を。 彼女の一番望むものをあげたい。 ――その言葉が、女王の心を揺さぶったかどうかは定かではない。 しかし、結局のところ彼は死を免れて、二人の約束の地である黒い荒野へと赴いた。 二人の約束。 それは、世界の果てのこの場所を、嘗てと同じように花で満たす事だった。 命ならば、彼女に死を宣告された時から捨てる覚悟はできていた。――だが、この身を以ってその夢を叶えられるのならば、それ以上に幸福な事はない。 そして、愛する女王の目の前で。 アストゥルーゾは、全ての力を振り絞って一本の大樹へと姿を変えた。 女王の見目と釣り合うよう、布に包まれた少年の姿をしていた彼の身体が、徐々に捩れていく。水平に伸ばした両腕はぐる、ぐるとねじれながら罅割れ、人らしい水気を保っていた肌は硬い木々のそれへと変貌する。髪の一本一本は太く、長く天へと伸びていき、次第に羽根の容をした葉を有する枝へと変わっていく。大地を確かに踏み締めていた脚は荒野を割り、その地下へと潜り込んでいく。 髪に挿していた虹色の翼は、その過程でひらりと抜け落ちる。 大樹の天辺から地上へと降りるまでにそれはほどけ、一片ずつの羽根へと分解される。黒い荒野に降り立った虹色は、大地に触れた傍から様々な色彩の、さまざまな容の花に姿を変えた。端から端へと移り変わっていく虹色の花畑に。 少年はその質量さえも遺さず、巨大な、天を衝く程の樹木へとその有様を変えてしまった。最早かつての化かし屋のように、容を変じても聲を発する事すらできない。元の姿に戻る力さえも喪われ、かれは永遠をその樹木の内側に綴じ込めた。 ――その一部始終を、かれの愛した可憐な白銀の花が、ただ静かに見つめていた。 今ではこの場所は、世界の何処よりも光と緑に溢れた、夢のような土地となっていた。黒かったはずの大地も土の色を取り戻し、踏み締めるたびいのちの匂いが大気に融ける。 「何故大地が浄化され、花が咲くようになったかは、あの子にしかわかんないだろうけどね」 化かし人はそう語る。 結果的に、アストゥルーゾの変じた大樹は大地に根を張り、荒野は花畑へと姿を変えた。 アストゥルーゾ、と呼ばれる大樹を振り仰ぐロストナンバーの足許に、何かがひらりと舞い降りた。 滑り落ちてきたのは、虹色の羽根。 かつてかれがロストナンバーとして生きていた、一欠片の証。 ――今も尚、かれは旅の記憶を忘れずに其処に在る。 在りし日の思い出を抱え、愛する世界を見下ろしながら、いつまでも。 ◇ 『――判決も、独房の中での出来事も、実のところ現実味を以て受け取ってなどいなかったのだ』 《赤》のフィルムは、そんなモノローグから始まった。 銀幕は、湿り気に似た薄暗い翳を帯びる。命の翅を揮わせて、蝉の啼く聲が轟いた。鮮やかな緑の葉が切り取る、濃い色の影がアスファルトに落ちる。照りかえるような夏の陽射しの中、しかしその映像には死の翳がちらついている。 陽炎が揺れるアスファルトの上を、一人の男が歩いていく。その黒い髪を、後姿を映し出す。 道路の隅、灌木の影になった地面に、蝉の死骸が落ちていた。 男はしゃがむ事もせずそれを一瞥する。懸命に生きた一握りの命は、その表情を曇らせるだけの価値も、その足を留めさせるだけの意味もなかった。 『何処かで、自分は未だ大丈夫と云う根拠のない自信だけがあった』 通り過ぎる男の後姿に、モノローグがかかる。 『何処かで、あいつなら助けてくれるだろうと云う甘えがあった』 蝉の聲がスピーカーを侵食する。 画面は蜃気楼のようにぶれ、赤いノイズを壁に飛び散らせた、狭い牢獄の中を映し出す。コンクリートに散る赤は蠢き、まるで大量の血痕のように世界を覆う。――此の独房に潜む殺人鬼が手に掛けた人間の数を顕わすように、銀幕は血の海に染まる。銀幕の住人が知る由もない、幻影の殺戮現場が其処に在る。 かつり、かつり、とコンクリートを固い靴底が叩く音が響く。 廊下の端から現れた看守は、或る独房の扉の前で立ち止まった。目隠しの板を開け、中を覗く。畳に座りこちらに背を向ける、不健康に痩せた後姿。赤のノイズを翳のように背負う殺人鬼。 ――看守はおもむろに指の背をあて、扉を二度、軽く叩いた。 《 Last Scene 》 ――此処は何処だ。 道を往く金の髪、赤毛。白い肌、黒い肌。蒼い瞳、緑の瞳、灰の瞳。 色彩の洪水のような街に投げ出されて、由良久秀はひとり愕然と立ち尽くしていた。此処は何処だ。もう一度、実感を取り戻すように思う。 遠く離れた世界で数年を過ごしている内に、由良の基準は其方側に擦り寄ってしまっていた。由良のように黒い髪と、黒い瞳と、黄色い肌の人間が団子のように纏まって蠢くあの街を見慣れてしまった。まるで蟻が大地を這うような恐ろしささえ覚える彼の風景は、しかし同時に、異質とされてきた自分の色彩が融け込める心地の好い場所でもあったのだと、今更ながらに思う。 噫、だが、この街ですら。 あの瀟洒な珊瑚色は存在しない。 珍しくも――実に忌々しい事に、珍しくも同道していない知人を思い返し、由良は苦虫を噛み潰す。そして、足早に歩き抜けようとした、その時の事だった。 通行人の誰かが、由良の貌を見て、あ、と――聲を上げた。 銀幕を、赤いノイズが斬り裂いた。 まるで誰かの血のいろのような、断罪のノイズが。 『 現代史上最悪の殺人鬼、遂に逮捕 』 センセーショナルに飾られた字体と共に顕れる、一面の新聞記事。 ブルー・インクのように乾いた黒。蠢くノイズに浸食されたその貌は、その目元は常よりも落ち窪んで見え、版面越しにすら爛々と輝いていた。 『 当人は否定を繰り返しておりますが、殺害数は少なくとも数十人に上るとみられ―― 』 『 矢張りゲーム感覚の殺人だったのでしょうかね、え、ゲームが趣味なんて情報は上がってこないって? うっそだあ 』 好き勝手に言い散らすワイドショーの聲が、有る事無い事を暴き立て、本来の彼から掛け離れた殺人鬼としての“由良久秀”を創り上げる。 塀の中、面会に来るような親族もなく、孤独に過ごす彼の耳にも、そんな風評は絶えず届いていた。怪物のような殺人鬼像。此れは誰だ、眩暈がする。俺はそんなバケモノじゃない。俺は人間だ。――誰一人、その訴えを聴く者はなかった。 「面会だ」 看守の機械的な声が、監視窓から聞こえる。 またいつもの検事が来たのかと、気が乗らないながら由良は独房から連れ出される。一日中何もせずに過ごすよりはまだ、あの陰険な男と取引を重ねていた方が有意義だと判断した。 ――だが、面会所へやって来た由良を出迎えたのは、予想だにしない人物だった。 「久しぶり」 サングラスの奥の緑灰の瞳が由良を捉え、柔らかく微笑む。 突然の邂逅に、言葉が出ない。何故ここに、だとか、今更何をしに来た、だとか、言える事は多くあるような気がするのに、ただ立ち尽くしてその姿を睨め付ける事しか出来ずにいた。看守に促されて、プラスチックを隔てた向かいに座る。 珊瑚色に染めていたはずの髪は、美しい白金の色に変わっていた。それが地毛か、と茫然と――場面も忘れて魅せられる。その頭上には見慣れた数字が浮かんでおらず、此の男が紛いようもなくムジカ・アンジェロだという事を実感させる 「……何をしにきた」 吐き捨てるようにそれとだけ云う。辛辣だな、とムジカがわらう。噫、このやり取りだけは昔に戻ったようだ。時を遡って帰りたい衝動だけが胸を衝く。 「顔を見に来たんだ。別れの言葉も告げられず仕舞いだったから」 ――そういえば、と思い出す。 故郷であるこの世界へ降り立って、直ぐの事だった。逃亡犯・由良久秀が逮捕されたのは。逮捕される事を想定しなかった由良はムジカに何も告げず、いつも通りターミナルへ帰るつもりで軽く降り立った。――そして、この独房に押し込められて以来だった。此の男の顔を見るのも何年ぶりになるだろう。由良の中の時は既に錆びついてしまっている。 「たすけてくれ」 ぼそり、と囁いた――縋るような声を、彼は確かに聞き届けた。 サングラスの奥の瞳を眇め、興味深そうに貌を歪める。 「自業自得だろう?」 しかし、最期の懇願に対して返されたのは、非常と言っていい言葉だった。罪には罰を。停滞した街に於いて法の徹底を訴え続けた男は、友人の命乞いも容易く切り捨てる。 唖然と目を見開いて、続く言葉を吐き出せずにいる殺人鬼を捨て置いて、ムジカは面会所を後にした。訪れた時と同じ唐突さで、由良久秀を支えていたたった一本の糸は、断ち切られたのだ。 程なくして、稀代の殺人鬼へは期待通りの死刑判決が言い渡された。 ――そして月日は過ぎる。 「もう、無駄だ」 何度となく取引に応じてくれた検事は、呆れたようにそう吐き捨てた。眼鏡の奥の瞳には、殺人鬼への一片の憐憫もない。 「そん、な」 「世間はまだ君の事を忘れてはいないよ。兇悪な殺人鬼を後回しにして、他の死刑囚から殺していくのは何故だ、と一刻も早い処刑を求める声が多く上がった」 幾ら君に余罪があろうと、これ以上引き延ばす事は出来ない――検事のその一言は、毎朝独房の前を通り過ぎる看守の跫よりも重く、彼の耳に落ちた。命を繋ぐ最後の綱が断たれた、そんな響きを伴って。 「待って、くれ」 みっともなく擦れた声が、殺人鬼の唇から零れ落ちる。 「全部話す、――話すから、未だ、殺さないでくれ」 見開かれた黒い瞳は震え、最早焦点を合わせる事すらできなかった。ピントのぶれたカメラレンズになど意味はない。死を捉え続けた彼の瞳も、己の死を前にして冷静にシャッターを切る事など出来ない。 「今日、道端で死んでいる蝉を見つけたよ」 殺人鬼の懇願を聞き流して判事は語る。レンズの奥で冷えた眼差しが無様な死刑囚を見遣る。その視線は、蝉の死骸を見る時よりも蔑みに充ちていた。 「君の命はあの蝉よりも価値がない。――今まで生き延びてこられたのが可笑しい程に、だ」 そう云って、判事もまた面会所を去る。 ――死刑の執行日が告げられたのは、それから一週間も経たない朝だった。 赤いノイズに浸食された血まみれの独房で一人、布団の上に蹲る。すっかりと痩せ衰えてしまった指先が、のろのろと畳を這う。何かを探すように。何かを求めるように。 求めに応じて、臙脂色の手帳が、掌に顕れる。 ――まだ、それが手元に在る事に無性に安堵した。それで何が変わるとも判らないのに、この期に及んでも殺人鬼の目測は甘いまま変わらない。紙面を開く。新しい伝言は一切ない。――あれ以来、薄情な友人は面会に訪れる事もなく、此方へ伝言を残す事もしなかったらしい。 だが、最期の瞬間を前にして。 脳裏に浮かぶ貌は、あの男の他になかった。 『明日処刑される』 震える手で書き綴る。 明日までに彼がそれを見るという保証もないのに。 『助けてくれ』 ――最期まで、足掻かずにはいられなかった。 血塗れの廊下を、拘束服で戒められた殺人鬼が看守に引き摺られて歩いていく。無駄な足掻きを繰り返すたび、銀幕に血痕のようなノイズが飛び散る。処刑場の小さな四角の上に立たされて、死刑囚はいよいよ死を間近に覚えたようだった。 しにたくない、叫ぶ口に猿轡を噛ませられる。血走り剥き出しになった眼を布が覆い、後ろ手に手錠を、足首にも枷を嵌められる。俎上に乗せられた魚よりも無様な姿になって尚、殺人鬼はもがき、足掻き、叫び続けた。太い縄が首に回されて尚、外れないよう強く括られて尚、命を諦める事など出来なかった。 ――床の間隔が失せる。 息を詰める。 その時初めて、殺人鬼は大人しくなったと云う。 ◇ ――歓声が湧き上がる。 レースの開始を前に、スタジアムは異様な盛り上がりを見せていた。 惑星のクレーターを利用して作られた巨大なスタジアム。そのフィールドに浮かぶ沢山のモニターに映り込むのは、ガイド・ビーコンによって惑星軌道上に整えられたドライビング・コース。スタート地点に並ぶ色とりどりの宇宙船。迫る熱気に、満員の観客席が湧き上がる。 「F-V恒例のベット・タイムだ! さあ好きな選手を選びな!」 威勢良くそう叫んで、観客席の真上に浮かぶ小型半重力マシンに乗った売り子が無数のコインを投げ捨てた。 飛び散るコインは電子の光をばら撒いて、多色のノイズを煌めかせる。集まる人々は弧を描いて地面へと落ちる其れを空中で掴み取ったり、拾い上げるために諍いを起こす。 沢山の観客に取り合わされるコインの表面には、奇跡の生還を遂げた『マガツフォックス』のドライバー、シィ・コードランの凛々しい横顔が刻印されていた。 「はいはい落ち着いてー! チップはまだ幾らでもあるから取り合わないでよー!」 売り子の樹人が有らん限りの声で叫ぶが、狂乱は収まりそうにない。観客は皆、奇跡のレーサーの走りを楽しみにしているのだ。 フォーミュラ・ヴァンガードの観戦場となっているこのスタジアムでは、レースの順位を予測する賭けがF-V協会主催の元行われている。レース結果が表示された後、トップでゴールしたレーサーの刻印されたコインが賭け金になって戻ってくるのだ。 銀幕は、《追憶》と《覚醒》のノイズに蝕まれていく。 青と黒の光が集まって形成される銀河を、数多の機体が駆け抜けていった。 フォーミュラ・ヴァンガード――通称F-V。 宇宙、惑星内地上部、空中コースを問わず、選ばれたレーサーが宇宙船でレースを繰り広げる。時には亜光速を超える事もある、速度の限界を極める危険を伴った、しかしスリルのある娯楽だ。宇宙間で流行し、あらゆる惑星系で楽しまれてきたその競技は、或る日思いもよらぬ悲劇を生んだ。 スターブレイク。 F-Vの宙域レース中、突如その惑星系列の中心となっている恒星が爆発。惑星系を巻き込んで、光の藻屑と消えた。あまりに突然の爆発、かつ原因もいまだ不明な事から、テロの疑いもあるほどの惨事だった。 『史上最悪の災厄』とまで呼ばれたその悪夢によって、惑星系の住民とレーサー、観客など沢山の命が犠牲となった。――しかし、つい最近になって、犠牲者のひとりと目されていた女性レーサーが突然の帰還を遂げた。 F-V界隈ならずとも、メディアは連日其の話題で持ちきりだった。宇宙間警察の中では彼女こそがテロリストではないかと疑る声も上がったが、彼女のレーサーとしての姿を知る全てのF-Vファンはその疑念をものともしなかった。禍々しい赤と黒の船体に乗り込み、光の速さで宇宙空間を駆け抜ける彼女は、何よりもレースを愛している。真剣勝負がテロリズムなどと云う下賤な行為で穢されるのを、他ならぬ彼女こそが厭うだろう。 ――蒼と黒のノイズに蝕まれた回想を終えて、場面は切り替わる。 今回ユグドラシル星系を巡って行われるレースに於いて、一番人気を争っている機体は二つ。 宇宙空間に融け込むような黒に、鮮やかな赤が毛細血管のように走る、禍々しくも美しい機体『マガツフォックス』。 そしてその右隣でカウントダウンを待つ、荘厳な白銀の竜を模したシャープで機能的なフォルムが魅力の機体『ドラグナー』。そのドライバーは機体とは裏腹の、漆黒の鱗が艶やかな若き竜人だった。彼とはシィも何度かレースを競った覚えがある。粗削りだが光るものを持つ、将来有望な選手だと記憶していた。――だが、シィがロストナンバーとして旅をし、戻ってくるまでの数年間で、彼女の足許にも及ばなかったはずの青年は総合順位1位にまで登り詰めていたらしい。 ――俺はあんたをぶちのめすために腕を磨いてきたんだ。くだらねえテロなんかで死んでんじゃねえよ、と。 冷徹で何事にも動じぬドライビングが売りだった筈の男は、最大のライバルの死を前にしてそう慟哭を上げたという。竜の雄叫びが惑星を轟かせるほどに泣き喚き、竜人の青年は彼女の死を信じる事無く腕を磨き続けた。いつか彼女の機体を打ち負かすその日が来るまで。 シィの生還と、F-Vへの復帰を誰よりも喜んだのはほかならぬ此の男だろう。表向きはいつも通りのそっけない態度で、しかしこの日へ向けて入念なメンテナンスを行ってきたのだと伺える。 『これであんたに勝つことができる』 レース前の顔合わせで、彼はシィの前までわざわざやってきてそう云った。その貌にあったのは挑発でも見下しでもなく、純粋な歓喜。シィもまた微笑み返し、そうはいきませんよ、と差し出された手を握り返した。 彼のコインを手に取った観客は中々見る目がある、とシィはそう思った。間違いなく、今回の最大の敵は彼だ。 機体と同じ黒赤のヘルメットの下、静かに瞑目して開始を待つシィの眼前に置かれたモニターがヴィン、と揺らいだ。 『コードラン選手、レース前で緊張されている所申し訳ありませんが――』 「いえ、どうぞ」 スタジアムの実況席に座るナレーターが通信を飛ばしてきたのだ。無数の触手で覆われた単眼種の口吻から可愛らしい少女の聲が零れ落ちる。シィは突然の乱入を厭う事もなく、直前のインタビューを受け容れた。これも人気レーサーの常だ。ちらりとスタート地点に設置された信号灯と電光掲示板を見るも、未だ数字は表れていなかった、 『今回のレースに向けた意気込みなどがあればお聞かせください』 奇跡の生還を遂げたレーサーの伝説の走りが再びみられる、とあって、シィ・コードランとマガツフォックスへの期待は否応無しに高まっている。 「そうですね……」 楚々とした物腰で応えつつ、シィの手は操舵用のハンドルをしっかりと握りしめている。ヘルメットの奥の視線は鋭く、信号灯の動向を見守っていた。 九、八、七、電光掲示板の数字が徐々に減っていく。 「私がこの宇宙に戻ってきてから初めてのレースですが――」 五、四、三、観客が一体となってカウントダウンを叫ぶ。レースが始まる前のこの熱狂。噫、懐かしい。帰ってきたのだと、私の居場所は此処なのだと実感する。 二、一、〇。 ――信号灯が青に変わる。 「――悪ぃがオレは勝ちを取るためなら容赦しねぇぞ!」 レース開始の合図。一斉に、各機体が奔り始めた。様々な色の機体が、ブースターから多色のエネルギーを放つ。 楚々とした佇まいを振り払い、シィはヘルメットの下で凶暴な笑みを浮かべる。荒々しく力強いドライビングテクニックで、マガツフォックスは一気に他の機体を引き離しにかかった。 「さぁ、さっさと道を開けやがれ!」 未だ通信の繋がっていたスタジアムから割れんばかりの歓声が轟く。普段からは想像もつかないこのレース中の豹変ぶりに、間違いなくシィ・コードランが帰ってきたのだと、往年のF-Vファンの全てが歓喜した。 狐の尾のような、太く長い白銀のエネルギーを吐き出しながらマガツフォックスが飛び出す。他の機体群より頭一つ脱け出した漆黒の妖狐に、食らいつく影があった。白銀の鋭利なフォルム。ドラグナーだ。荒々しいマガツフォックスの走りとは対照的に、的確なコーナリングを決めてくる。 『――あんたに勝つって言っただろ!』 通信機越しに響く聲。モニターに割って入る、銀色の鎧兜を模したヘルメット。まったく気障な野郎め、と吐き捨てて、しかしシィはにやりと笑った。 「ハッ、出来るもんならやってみなァ! 無限の世界を踏破したオレは無敵だって事、証明してやるよ!」 挑発するように態と機体を揺らし、コースギリギリを攻めても相手は根気強くついてきた。それどころか、マガツフォックスの上すれすれを行くような動きを見せる。やってくれんじゃねぇか、狐のドライバーが忌々しく笑う。間違いなく、自分も相手も楽しんでいる。久方振りのライバルの出現に、昂揚している。――どんな魅力的なコースだって、競う相手が居なければつまらないのだ。 黒狐と銀竜は、共に光となって惑星軌道上を駆け抜けていった。 ブースターから吐き出された白銀のエネルギーが尾を引いて、彼らの軌道の跡に流麗な文字を描き出す。 《 Driver's High!! 》 ◇ 月下、小高い丘の上を一台の馬車が往く。 青く澄んだ夜だった。満月の光が燦々と降り注ぎ、明るい夜の気配が荷台の幌の隙間から忍び込む。 藁と布の敷き詰められた馬車の中で、少年と少女が身を寄せ合って凭れ掛かっている。 透き通るような白皙に、宝玉のような瞳。微笑む貌は闇夜を照らす光のよう。 何処か現実離れしたその美しさは、かれらが人ではないものの血を継いでいる事を如実に示している。優しい母の面影を遺し、美しい父親に似た、天使を思わせる少年と少女は寄り添って一つの毛布を羽織っている。夜の明るさにか、馬車の揺れにか、未だに眠気が降りてこない様子で、母親の語る異世界の冒険譚に聞き入っていた。 《 Sing a Song 》 「――それで、どうなったの?」 父親と二人、初めての異世界旅行に出た頃の話をする。 目を輝かせて続きを催促する娘は年頃の少女らしく恋物語の気配に食いつき、瞳を閉じて母親の語る光景を思い浮かべようとする息子は感受性に富んでいる。二人の子供たちを喜ばせる事が出来るのは嬉しいけれど、とエレニア・アンデルセンは苦笑を零した。長旅で疲れているだろうに、眠る気配が一向に視られない。 「続きは明日、起きてからにしよう。二人とも、もう寝なさい」 見兼ねた夫――イルファーンが微笑みながら助け舟を出せば、子供たちは不平を漏らしながらも素直に身体を横たえる。青い月の光に照らされて、彼らの頬にささやかな彩が添えられる。それらを微笑ましく見守りながら、眠りを必要としない夫の膝に頭を預け、エレニアもまた横になった。 白皙の手が、愛おしいものを慈しむようにエレニアの髪へと伸びる。優しい所作でゆっくりと梳かれ、エレニアはうっとりと目を細めた。 ――薄い青のノイズが煌めいて、エレニアの追想する景色を彩っていく。眠りの世界に落ちるまでの短い時間、彼女はこれまでの旅路を思い描いた。 故郷に帰属してから伸ばし始めた髪は、もう腰のあたりまで届くようになった。二人手を取り合って彼女の世界に戻ってきて、つつましやかな“人としての”生活を手に入れた。故郷では世界に忌み嫌われていたと云う精霊も、新しい世界ではその忌まわしい記憶を払拭するように、優しい人々に囲まれて暮らした。 妻の胎内に新しい命が宿ったと聞かされた時、精霊はまるで人がそうするように、否其れ以上に喜びを露わにした。何よりも彼が望んでいた、人としての家庭。暖かな家族の団欒。遠くから憧れ、見守るだけだったものが、今こうして目の前に在る。それを実感して、イルファーンは母親越しに生まれ来る子に祝福のキスを送った。そして、エレニアが故郷に居る婆様の元へ往こうと切り出してくれた。 『大切な君の子だ。僕と君の次に、君の家族が喜んでくれるだろう』そう口では云っていたが――聡明で優しい夫は、彼女が言葉にせずとも判っていたのだろう。エレニアが何を畏れていたかを。 己の聲に対する恐れは彼と共に在る事で随分と軽減された。今では人々の前で歌を披露する事だってできる。――だが、もし生まれてくる子供が同じ力を持っていたら? それでなくとも、異世界の精霊との子というだけで不安は残る。彼か、彼女かもわからない子供が、己の出生に苦しまないよう庇護していくことができるか、一抹の虞がエレニアにはあった。 しかし、数年ぶりに顔を合わせた祖母は驚くよりも先に、エレニアが大切な伴侶を得て帰ってきたことを喜んでくれた。彼女の辛い過去も全て受け容れて、寄り添う事を決めたイルファーンの言葉を聴いて、その掌を強く握ってエレニアを宜しく、と厳かに二人を祝福する。――そんな風に喜んでもらえるとは思っていなくて、エレニアは思わず涙を堪えられなかった。祖母からの掛値の無い愛を、確かに感じ取って。 エレニアの能力を知る祖母には、彼女が抱いていた危惧を素直に打ち明ける事が出来た。生まれてくる子に自分と同じ苦しみを味わわせる事にならないか、と畏れを抱いて問いかけるエレニアに、祖母は優しく云ってくれた。 「子供は大丈夫だ、私が全ての精霊と神に祈るから」 そう、力強い笑みで請け負ってくれた事を、強くおぼえている。 自分たちだけでなくこのひとも、生まれてくる子を祝福しているのだと心から伝わって、エレニアはまた、涙を流して婆様に縋り付いた。いつの間にそんなに泣き虫になったんだい、と記憶よりも弱弱しく枯れた掌が、彼女の頭を優しく撫でた。 「愛しているよ、エレニア・アンデルセン」 何度目か――何万回目か判らない、愛する夫の聲がする。 もう幾度となく聞いた言葉だ。それなのに、その聲に籠る思いはいつまでも色褪せる事無く。 「君と出逢い僕は変わった」 薄く瞼を開く。差し込む月の光は蒼く、柔らかく宵闇を包み込む。まるであの人の身に纏う衣裳のように。 「僕に愛を教えてくれた君を、永遠に愛し続けよう」 ――私もです、と、茫洋とした意識の中でエレニアは応える。 彼が与えてくれた有りの侭の愛に触れて、エレニアの心の傷は塞がれた。貴方が私に感謝するのと同じくらい、私は貴方に感謝しています。そう告げたくて、しかしこの優しい夜の帳を破るのは躊躇われた。 「いつか君が居なくなっても、君の面影を覚えていよう」 密やかな、畏れを微塵も含んでいないと判る声。彼はエレニアとの寿命の違いを痛感しながら、それさえも受け容れてエレニアを愛すると決めてくれたのだ。 ――その時が来るまでに、私も沢山の愛の言葉をかえそう。 エレニアが居なくなった後の世界で、彼を護ってくれる言霊となるように。 薄青のノイズが優しくエレニアの追憶を覆い尽くし、彼女を眠りの世界へといざなう。銀幕に溢れるのは美しい輝きばかり。二人の――四人の旅路を祝福するような、青い光ばかり。 場面は切り替わり、何処かの街の小さな酒場の光景に切り替わった。 イルファーンの奏でる異国の楽器に合わせ、人々を惹きつける聲でエレニアが謡う。虞を払拭した彼女の聲は今や自信に溢れ、聴く者すべてに安堵を与えるものとなっていた。 また或る日は、エレニアが二匹の白黒ウサギの人形を使って芝居をする傍ら、イルファーンが楽器を奏でながら歌を添えた。誰も知らない世界での冒険譚を、子供たちのみならず酒場の大人も物珍しげに眺め、彼らの世界に惹き込まれていった。 遠い異世界で耳にした詩を。イルファーンの知る祖国の歌を。エレニアの馴染んだ唄を。聴いた事もない楽器と歌を美しく奏でる夫婦の姿は、短い間だが逗留する街ごとに歓迎された。素朴だが心のこもった持て成しを、イルファーンもエレニアも心から感謝しながら受け容れる。街の子供たちにせがまれて、手品と称してこっそり魔法を披露する事もある。差し出された掌にそっと光の花を降らせれば、子供たちは驚いて、輝かんばかりの笑顔で感謝を告げた。彼らの馬車が街を離れるときには、酒場の常連を初めとした街のひとびとが見送りにやってきてくれた。またおいで、という優しい言葉に、いつかは応えたいと願う。 銀幕を柔らかな水色のノイズが覆い、世界を反転させる。青空の似合う街の広場から、宵闇に包まれた森の中へと。吟遊詩人、旅の一座として諸国を漫遊する一家四人に取り、野営も慣れたものだった。夕食後の団欒の時を、四人はあかあかと燃える焚火の周りで過ごす。何気ない家族の風景を、イルファーンは掛替えの無い時として噛み締める事を忘れない。――永遠にも近しい時間を生きる彼の前では、大切なひとときでさえも砂のように零れていく。 イルファーンとエレニアの血を継いだ二人の子供は、美しい聲と音楽の才を備えていた。エレニアが危惧した魅了の異能はほとんど受け継がず、ただ聴く者を幸せにするほどしかなかった。 父親の所有する異世界の弦楽器に触れて過ごしてきた息子は楽器を奏でる才を伸ばし、母親の歌を倣って育ってきた娘は歌と、踊りの才を発揮した。 イルファーンが二人の子供たちを招いて、焚火の音を背景に、或る歌曲を唄って聞かせる。よく覚えておいてくれ、と断りを入れながら。 「ふしぎな唄」 音律を追いながら、娘が緩く首を傾げる。息子は静かに、父親の指の動きを追い続けている。 イルファーンは頷いて、己の故郷の歌だと教えた。 「僕の中に息衝く故郷の記憶だ」 今ではもう還る事のない――イルファーンを必要としていないだろう世界の歌。けれどイルファーンなりに心から愛した人々の記憶を継ぐ旋律。もう、この世界でそれを覚えているのは彼一人となってしまったから。 「覚えていておくれ。きみたちを形作る血肉の奇跡を」 娘と息子は抽象的で難しい言葉に首を傾げながら、父親の真摯な願いにしかし確かに頷いた。 この子たちがまた子を育てる側に回って、この唄を歌い継いでいってくれればいい、とイルファーンは願う。そうして子々孫々継がれていくことで、唄は永遠に生きる。唄の中に残るイルファーンの世界の記憶も、永遠に生き続けるのだ。情深い精霊は、世界から切り離されて尚其れを願って已まない。 そうして、二人の子供たちの頭を順に撫でてから、イルファーンはまた微笑んだ。 「そうだね……きみたちの奇跡を綴るなら、僕だけでは足りない」 草を踏み分けて、此方へ歩いてくる跫が聞こえる。 振り返るまでもなく、彼らにはそれが誰か判っていた。 イルファーンは先程まで自分の座っていた切株を辞し、やって来た人物へとそれを明け渡す。 「おいで、エレニア・アンデルセン」 名を呼ばれたエレニアは立ち止まる。青い瞳を円く見開いて、しかしすぐにそれはほどけて笑みに変わった。差し出された夫の手を取り、彼の誂えた席に坐す。 「僕が君に魔法をかけるから、唄っておくれ。君の聲で」 「魔法?」 誰もが聞き惚れる優しい聲で妻は問い返す。夫は微笑み、唇に人差し指を中てて秘密を謳った。本当に仕方のない人、とエレニアは優しく笑って、彼女の最も馴染んだ故郷の歌を紡ぎ始める。祖母が子守歌にとよく聞かせてくれた旋律を。優しく、何も恐れるもののなかったころの想い出を。 子供たちは目を輝かせて、母親の美しい歌声に聞き入っていた。繰り返されるメロディを覚えて、耳に馴染ませる。父親の教えてくれた異国の唄と共に、次代の子供たちへと引き継いでいくために。 「君の唄は僕の糧。君の笑顔は僕の生きる歓び」 一旦歌を止め、子供たちを傍にと招き寄せたエレニアを、イルファーンが高らかに褒め称える。自ら楽器を手に取り、エレニアの唄に合わせた伴奏をかなではじめた。息子もそれに倣って、弦を爪弾く。 二人の伴奏に合わせて再びエレニアが唄を紡ぎ始めた所で、夜闇を照らす光がふわりと揺れた。子供たちが訝しんで空を仰げば、美しい光景が広がっている。 天上から降り注ぐ、淡い色彩。蒼や、銀や、金に輝く、仄かな光。 ――それは月の雫。 南の空に浮かぶ三日月が降らせる、優しい光の雨だ。 「きれい!」 「これがお父さんの魔法?」 子供たちにそう問われ、精霊の父親は微笑んで頷いた。エレニアの優しい声を象徴するような、柔らかな光を可視化して雫として世界に降らせていく。夜の帳を、したしたと雫の落ちる音が彩った。 掌で受け止めれば、オパールの如き光沢をもった美しい雫が溜まり、地面へと滴っていった。口に含めば極上の甘露となるだろう。其れは慈愛の精霊が大切な家族へ贈る奇跡なのだから。 はしゃぐ天使たちを、エレニアとイルファーンは寄り添いながら見守る。 「君はもう一人じゃない」 耳元で、真摯な聲で囁かれる。 エレニアは僅かに目を瞠り、夫の紅玉の瞳を覗き込んだ。優しく、心の裡までもを燃え上がらせるような鮮やかないろが、エレニアを捉えて離さない。 「僕がいる。子供たちがいる。――いつまでも、君と共に在ると誓おう」 どこか気遣うような言葉に、エレニアは笑みを浮かべて応えた。 「ええ、知っています。大丈夫。私も、貴方を愛しているから」 彼がいつまでも隣に在ってくれる事など知っていたし、エレニアも己の命在る限りこの孤独な精霊の隣に寄り添おうと決めたのだから。愛の言葉を言霊に変えて、イルファーンの隣に添わせる。彼が歩む永遠の旅路を祝福するように。 ――蒼い月の光に照らされる中、二人のシルエットがそっとひとつに重なった。 ◇ 「驚いた」 淡々とした語調で、しかし獰猛な猫の目を丸く見開いた世界司書が呟く。 「きみは――グラバーさん、だよね」 「はい」 彼の特徴ともいえる麦わら帽子の下から、見覚えのない黄金が揺れる。まるで風にそよぐ一面の稲穂のような柔らかな質感の髪を、少なくとも世界図書館の人間の中で目にしたものはいなかった。ーー彼は、いつだって分厚い、宇宙服にも似たスーツで全身を覆っていたのだから。 「この前のトレインウォーで頭に怪我をつくってしまって」 「その時のショックが元で、失われていた幼い頃の記憶が戻ったらしい」 かつての彼からは信じられないほど、流暢な言葉を繰る青年の後を継いで、彼を此処まで導いてきた医務室のスタッフが説明を加えた。私も随分と驚いた、と怜悧な眼差しを崩さぬまま彼女は言う。 「グラバーだって名乗っても誰も相手にしてくれなくて」 「そりゃあ、これだけ変わってしまえば判らないのも無理はない」 困ったように、青年は笑う。神秘的な銀の瞳が、明るい光をはらんで煌めく。確かに、そこにかつての男女ともわからぬ宇宙服のロストナンバーの面影を見出すことは難しかった。ただ名残を残しているのは、記憶を取り戻してなお手放さぬ麦わら帽子とマフラーのみ。 「そうか。……怪我は、もう大丈夫?」 「はい、もうすっかりよくなりました。最初は本当に死ぬかと思ったけど、やっぱりロストナンバーってすごいんですね」 麦わら帽子を一度だけ脱いで、豊かな金の髪が靡く右側頭部をさするように撫でる。 「ああ、私からも保証しよう」 淡々とした貌の侭、医務室のスタッフはそう請け負った。そして、患者の退院を見届け、仕事を終えた彼女は医務室へと戻っていく。 「それで……きみは、これからどうするんだ?」 銀色の目が、好奇心にくるくると踊る。あちらこちらへとさまよわせて、宇宙服を脱ぎ捨てて初めて見る世界に、彼は新鮮な喜びを感じているようだった。 「オレは故郷へ帰りたい。父さんと、母さんと、弟と、それから――彼女に会いたいから」 ぎゅ、と、祈るようにマフラーを握りしめる。 記憶を失った中でも『大切な人からもらった』と言ってはばからなかったそれの由縁を、彼は確かに思いだしたようだった。 「そうか……ちょうど、次のワールズエンドステーション行きの列車が搭乗者を募集しているから、チケットを手配しようか?」 「よろしくおねがいします」 本当の姿を取り戻した青年は、祈るように頭(こうべ)を垂れた。 《 Zero Gravity 》 何度も北極星号に乗り、ワールズエンドステーションへと足繁く通い詰めたグラバーは、やがて彼の故郷を見つけることに成功した。故郷の情勢は彼が姿を消した頃と変わらぬままで、政府による恒星間配達人の《教育》も続けられているようだった。 ――故郷へは戻りたいと願うが、政府に飼い慣らされ、再び配達人を続けるつもりは、グラバーにはなかった。折角取り戻した家族の記憶も、幼馴染の記憶も、この無限の世界での旅の記憶も、どれも平等に彼にとっては大切なものだったから。 政府は決して、引力や斥力を自由に操る事の出来るグラバーを無視する事はないだろう。故郷へと帰る事は、政府の目を盗みながら逃れて暮らす事を彼に強いるが――グラバーは其れを受け容れた。 故郷に帰還したグラバーは、まず記憶を頼りに自らの故郷である惑星に向かったが、其処に彼を知る者の姿はなかった。農業用惑星は土が痩せこけて使い物にならなくなり、家族も、幼馴染も何処かへと移住した後のようだった。 それから、身分を偽り能力を隠しながら惑星の旅を続けていく内、グラバーは麦藁帽子を頼りに家族を見つけることに成功した。彼らはまた違う農業用惑星で、グラバーが居た頃と変わらない暮らしを細々と続けていた。幼い頃に引き離された息子が戻ってきたことに、家族はひどく驚き、そして彼を歓迎した。 ひとときの再会の後、グラバーはまた旅を始める。 政府の目に留まってはならない彼にとって、家族と共に暮らす事は危険でしかなかったから。また会いに来るよ、と笑った彼を、年老いた父と母とが、強く抱き締めて泣いた。 ――そして、彼はとうとう辿り着いた。 遥か遠い、観光用の惑星で、彼女はナビゲーターに従事していた。 グラバーの持つマフラーと同じデザインで、色だけが違うマフラーを巻いた、華奢な少女の姿。一面の銀世界の中に、その後姿だけが陽炎のように揺れる。星の輝きを閉じ込めたような銀色の髪が、ノイズを纏って長く靡いた。 それを目にしたとき、彼は思わず叫んでいた。 「――!」 その名を呼ぶ聲は、銀色のノイズに融けて消えた。 しかし、彼女の耳には確かに届いたようだった。マフラーの裾を靡かせて、記憶よりも大きく、美しく成長した幼馴染が振り返る。黄金の瞳が彼を捉えて、小さくだが確かに揺れた。 グラバー、と。半信半疑のまま、彼女が彼の名を呼んだ。 子犬のような、満面の笑みを浮かべて頷き、駆け寄る。 麦わら帽子とマフラー、記憶を喪っても尚手放さなかった、彼を象徴する二つの宝物は、今こうして過去と現在を繋いでくれた。 星の輝きによく似た、銀色のノイズが銀幕を覆う。 静かな音楽に包まれながら、場面は移り変わっていった。 一面の地平を覆う、黄金の稲穂の海。 風に流れ、ざわりと波紋を描きながら揺れる実りの色を前にして、グラバーは満足感に息を零した。今年も、順調に収穫の時期を迎える事が出来たようだ。生まれた場所と同じ農業用の惑星に落ち着いた彼は、長い時を経て、再び鍬を手に取り実りと向き合う道を選んだ。 収穫を待つ稲穂の揺れる水田の隣で、畑の一角を使った実験の成果を見ようと屈み込む。 「今度は何を作るの?」 最近は作物の品種改良を趣味としているグラバーへ、そっと近づいてきた妻が問いかける。マフラーから零れる銀色の髪が、彼の頬を擽った。 「んー、世界一腹持ちのいい芋、かな」 「腹持ち?」 「そうそう。芋は保存食に最適だから一食で得られるエネルギーや満腹感をもっと強くすれば非常の際に役に立つものが作れるんじゃないかと思ったんだよね。もちろん普段から食べるにも美味しいものに出来るといいな。あとほら、オレ元々芋大好きだし」 「そんな話初めて聞いたわ」 息をするように喋り続けるグラバーの芋語りに、妻は思わずと云った様子で吹き出す。その腕の中に抱かれた赤子が、微睡みから目覚めて小さく泣き声を上げた。 「ああ、ほら。起きてしまった」 「あ、ごめん」 苦笑する妻に謝りながら、土いじりで汚れた指先を拭い、幼子の頬を人差し指でつつく。途端、その頬を愛くるしい紅色に染めて、息子はきゃっきゃと喜んだ。誰に似たのか人懐こい子供だと、二人顔を見合わせて笑い零す。 ――政府に追われる身と知っていて尚、彼女はグラバーと共に歩む事を選んだ。 隣に立つ、その笑顔を護りたいと願う。 グラバーの穏やかな眼差しを受け止めて、妻もまた微笑み返した。 ◇ 十字を天辺に抱く建物の扉は閉ざされ、普段はひっそりと信者を受け容れている静かなその場所は、その日、厳かな祈りと祝福に充ちていた。 差し込む光は鮮やかで、雲のない青い空がどこまでも続いている。薄青色のノイズを瞬かせ、突き抜けるような天蓋に静かに文字が綴られてゆく。 《 Sanctus 》 木製の長椅子が並び、参列者が銘々に座してその瞬間を待つ。緩やかなざわめきに充ちた空間の中、一人壇上に佇むカーサー・アストゥリカは静かに瞑目し、穏やかな空気に身を任せていた。落ち着いたベージュのタキシードを身に着け、長い髪は後ろへ流し丁寧に纏めている。胸元には大輪の淡いピンクの薔薇を挿し、背筋を伸ばして真っ直ぐに立つ姿は、普段の彼からは想像もつかないほど大人びて見え、また颯爽としていた。 慣れぬ正装は落ち着かないし、気が逸る。 しかし、今日ばかりは大人しくしていなければならないと、さすがの彼も知っている。――今日、この場の主役は彼と、彼の恋人なのだから。 こころを空にして、彼は待ち侘びる。 最愛の恋人が――人生を共にすると決めた彼女が、この壇上まで上がってくるのを。 やがて、オルガンの周囲に並んだ聖歌隊が厳かに、美しい旋律を紡ぐ。カーサーの耳に馴染んだ言語で、ここから始まる彼らの人生へ、神に祝福を乞う。列席者の合唱も加わり、この場に居る全ての人が、彼らの新たな旅路を祝福する。 そして――教会の入り口が、開け放たれる。 鮮やかな光を背負い、其処に、彼女――ヘルウェンディ・ブルックリンは佇んでいた。 フォーマルな黒のスーツに身を包んだ、若い男の腕に手を添えて。 二人、並んで立つ姿を目にした新郎は目を細める。――喧嘩とすれ違いが絶えなかったが、こうして見てみれば、お似合いの親子だと思う。 オルガンの音色に合わせ、二人は一歩ずつヴァージンロードを歩む。長いヴェールを引きながら、貌を薄い布で隠した新婦の表情は窺えないが、隣の若い父親は何の感情も見せず、ただ淡々と此方を目掛けていた。――照れやがって、とカーサーは微笑ましく思う。 「ドレス、よく似合ってるぜ」 「……そう?」 耳元でそう囁けば、彼女は照れたように、しかし至極嬉しそうにはにかんだ。仕立て屋リリイに頼んだウェディングドレスは、髪と腰に左右対称になるように大きなリボンを添え、足許へ向かってさながら白い薔薇が咲き誇るような膨らみを見せる。幼さを遺した外見のまま年を取らずにいる彼女によく似合う――それでいて大人びて魅せるデザインだった。 「ああ、俺にゃ勿体ねーくらいだ。……もちろん手放す気はねーけどな」 そっと親指を立てて応えれば、ばか、と小声で詰られ、脇腹を肘で小突かれた。そんな照れ屋な所もいじらしい。 「……いよいよ本当の家族になるのね」 「そう。俺とウェンディとお義父さんで、新しい家族だ」 二人、至近距離で密やかな会話を交わす。 オルガンの音色に紛れて、神父の祈りの言葉を聞き届けながら。 「愛してるぜ、ウェンディ」 「私も。愛してる、カーサー」 気づけば彼は、ヘルウェンディの人生にとって、なくてはならない人になっていた。――彼が居たから、ホームシックにも負けることなく、彼女は頑張る事が出来たのだ。 「これからはずっと一緒ね」 世界で一番優しくて格好いい最高の彼氏は、これから(未だ発展途上にある)己の料理を残さずに食べてくれる最高の旦那様に変わる。 まっすぐに前を向きながら、夫は力強く頷いた。 「一生大切にする。今よりもっと幸せになろう、ウェンディ」 神父の聲が、厳かに響いていく。 二人の門出を祝う式が、優しい静謐の中、粛々と執り行われていく。 先頭の長椅子の端にどっかりと座り、役目を終えたファルファレロ・ロッソは横目で其れを眺めていた。 ――子供騙しの家族ごっこなんて性に合わねぇな、と参列を拒否しても、図太い義息と跳ねっ返りの娘は諦めなかった。あんたが参列してくれなきゃ意味ないじゃない、お義父さんに良いトコ見せてぇんだよ、と彼らは口々に、ファルファレロを『家族として』必要だと説く。 そのしつこさに折れ、渋々と云った形で承諾した式だが、いざ始まってみると妙な感慨に襲われた。 隣で腕を組んで歩く娘の横顔は、十四歳の侭年を取らないはずなのに、随分と女らしく見えた。 そして、新郎に娘を預ける際に向けられた微笑の意味を、悟ってしまえたからこそむず痒くてたまらない。長椅子の上で姿勢を崩しながら、しかし野次を飛ばすでもなく二人の式を見守り続けた。 聲に出さないまま、忘れられぬ女の名を口にする。 アイツもこの式をやりたがってたっけ、とうっすらと意識の端に遺る記憶を辿る。女はロマンティックな出来事に憧れるものだ。当時の自分は面倒くさがって真面目に聞きもしなかったが、今ならば彼女の切望も何となく理解できる。 ――その願いを今、こうして、自分と彼女の娘が叶えてくれた。 今も壱番世界に住んでいるという彼女はそれを知っているだろうか。俺じゃなくアイツに見せてやりゃいいじゃねえか、と思いはしても、それを口にはしなかった。だから、彼は代わりに式を見届ける。 誓いのキスと、指輪の交換が終わる。 身を翻し、共に花道を進む二人を、父親は大きな拍手で送り届けた。 薄青のノイズが花吹雪のように舞う中、銀幕は移ろう。 扉が開かれ、今度は内側から外へ向かって、花嫁と花婿が歩き始める。 教会の外に伸びる石段の両脇には、参列者が花籠を手に彼らを待ち侘びていた。 「おめでとう!」 「倖せにな」 降り注ぐ淡い色彩。薄紅、白、黄、――そして薄青の、彩り豊かな薔薇の花弁。長い石段が花で埋め尽くされ、祝福の雨の中を新郎と新婦がゆっくりと降りてくる。友人たちからの賛辞と、からかいの言葉に、満面の笑みで応えながら。 階段を降り切った先に、ファルファレロは一人、気の無いように佇んでいた。木陰に身を潜め、木の幹に凭れ掛かりながら、賑わいから離れた所で煙草を吹かしている。 彼を見つけて、花嫁が小走りで駆け寄る。ドレスの裾を踏まぬように気を付けながら。 「んだよ」 父親の不躾な視線にも動じず、きっと彼を見上げた。 「あんたって、ほんと最低な父親ね」 「あ?」 そして、開口一番鋭い批判を投げる。 追いついた新郎が諌めようとするのを受け流し、それまでの淑やかさを何処かへ投げ捨てた娘は、苛立ちを隠さない父親へと言葉を続けた。 「俺様で傍若無人、下品で下劣で、最低最悪。こんな父親誰にも見せびらかせないわよ」 「ウェンディ、その辺に――」 「――でもね」 一通り罵倒しつくした後、その声音が、がらりと変わる。 「私はそんなあんたが好き」 気の強いお転婆の罵りから、父を想う娘の其れへと。 父親の、眼鏡の奥の黒い瞳が、虚を突かれたように見開かれる。 「危ない時は身体を張って護ってくれた。意地悪で素直じゃないけど、私の事を最後まで見捨てなかった。――今も」 柄じゃないと嘯きながら、最後まできちんと参列してくれた父親への感謝を籠めて、花嫁は大輪の薔薇のような笑みを浮かべた。 「あんたがいてくれてよかった」 それは、生まれながらに憎まれた、地獄の罪人への赦しの言葉。 「生まれてきてくれてありがとう」 ――ターミナルで、私の事を待っていてくれて。 花嫁の華奢な腕が、ファルファレロを引き寄せて抱き締める。目眩いものを見上げるような、憧憬とくすぐったさを孕んだ笑みを花嫁は浮かべる。 「あんたが父親でよかった」 唖然とする男の頬に、軽いキスを贈り。 耳元で、ありったけの感謝を籠めた言葉が囁かれた。 「――噫」 芒と、聲を零して、ファルファレロは小さく瞬いた。いつの間にこんなに良い女になっていやがった、と改めて目の前の娘の成長を驚く。彼女の後ろで静かに見守るあの男の仕業か。――やってくれんじゃねえか。 離れようとする娘の腕を捕まえて、再び引き寄せた。 悠々と見守る新郎へ、横目で不敵な笑みを見せ。 彼女の頬に、御返しのキスを贈る。 「綺麗だぜ、ヘル」 黒い瞳を見開いて、驚く彼女にも、掛値の無い笑みを返した。 ブーケトスに向かうため、慣れぬドレスで石段を駆け登る花嫁を見送りながら、二人の男は並んで木陰に立ち尽くす。互いに切り出す言葉を迷う中、先に動いたのは父親の方だった。 腕を伸ばして新郎を引き寄せ、無理矢理肩を組む。 「おい」 「はいはい?」 「アイツを泣かせたら承知しねーぞ」 一段落ついた後のリラックスした表情で応えるカーサーを睨み、ファルファレロは聲にドスを利かせる。 一度は捨てた筈の娘の為に、まさかこの己がこんな事を云うとは思ってなかった。――だが、これだけは言っておかなければ気が済まなかった。 「倖せにしろ」 陽気な花婿は一瞬呆気にとられた後、すぐに満面の笑みで、親指を立てて応えた。他ならぬお義父さんの頼みなら、と。 「任せといてくれ。お義父さんまで幸せになるくらい幸せにしてみせるぜ」 友人たちに囲まれて、沢山の祝いの言葉を受け取る花嫁を見守りながら、決意と自信を籠めて答えるカーサーに舌打ちで返す。その余裕が気に入らない、と子供じみた反抗心で思う。 「……いいか、よく聞け」 「まだ何か?」 木陰のヴェールの下、二人の男の戦いはまだ続いている。 「俺はいつか死ぬ」 先程よりも静かに、そう切り出せば、新郎の紅い瞳が僅か、見開かれてファルファレロへ向いた。 「何年後かは知らねぇが、どうせどっかのろくでなしと殴り合って、ろくでもねぇ死に方をするんだろう。人生にずっとも必ずもねえ」 それは諦念でも期待でもない。 死に急いでるわけでも、生き急いでいるわけでもない。 ただの――彼にとっては最も高いと思われる、可能性の一つだ。 「俺はもう十分だ。やりたい放題暴れて、思い残す事はねえ」 こうして予期していなかった娘の晴れ姿も見届けられた。未練など何もないと、何処か晴れやかな声音でファルファレロは云った。 幾らこれからロストナンバーとして共に暮らす事になっていても、別れは避けられない定めだ。それに、 「親が子供よか先に死ぬのは当たり前だろ?」 無様に長生きして、娘の死を見届けるなんて以ての外だと若き父親は吐き捨てる。 「そうしたら、お前とヘルはさっさとどっかに帰属しな。んでガキを作って、ホームドラマに出てくるような理想の家庭とやらを築け」 その言葉はかなぐり捨てるようでいて、期待と願いが込められているように、カーサーには感じられた。――だが、死期の近い猫のようなそんな一方的な通告を全て受け容れられるほど、彼は愚鈍ではない。 「なあ、お義父さん」 「その呼び方はやめろ」 舌打ちも心地よい鳥の鳴き声のように聞き流し、新郎はからりと笑う。 「俺は……ウェンディの傍で、ファルファレロって人間の一生を見守るぜ」 たとえ彼がいつ死ぬとしても、それも運命だとして受け入れよう。 「もし俺らの前から居なくなってもさ、いつか俺たちの子供を見に来てくれよ」 「だからその頃にゃ俺は死んでるっつったろ」 噛み付くような物言いにも動じない。持ち前のポジティブシンキングで受け流し、カーサーは改めて義父の肩に腕を回した。 「これから生まれる新しい命は、ファルファレロ・ロッソが生きた証だ」 ――そして、そこだけは真摯に、言葉を添える。 「これからもずうっと受け継がれていく証なんだぜ。すげえよな」 生まれてくる子供の未来に思いを馳せる。 何十年、何百年後になるかわからないが、その時は家族で彼女の故郷を訪れてみたいと、夢をみるように思う。 その幸せの形は、彼が居たからこそ生まれくるものだ。 だからカーサーは、誰が何と言おうと、義父への尊敬を已めない。そしてそれは、彼の死後も変わらないだろうと断言できる。 「俺は鈍感だから見えやしないだろうけど、いつもみたいに酒を用意して待ってるからな!」 「おい」 「HAHAHA! でも子供の前じゃ煙草は禁止な! 俺こう見えても教師だからその辺厳しいぜ!」 「テメェ勝手に話進めんな! 死後まで未練残すような生き方しねえっつってんだろ!」 「……何やってんのよ、あんたたち」 のらりくらりと反論を聴かないカーサーに、遂にファルファレロが吠えた。呆れたヘルウェンディの言葉も、耳に入らない。 「今夜は無礼講だ! とことん飲むから付き合えよ、テメェ!」 「望むところだ。一杯でも十杯でも付き合うぜ、お義父さん!」 ――Thanks, Dad. カーサーの密やかな独白は、賑やかな銀幕の光景に融けて消えていった。 ◇ 柔らかな風の吹き込む、初夏の湖水地方。 窓から薔薇園を臨む事の出来るベッドに腰掛けて、老人は手許の書に眼差しを送り続ける。 「おじいさま」 扉の向こうから、優しい声がかかる。 噫、と読み止しの書に栞を挟み、膝の上に置くと老人は緩やかに視線を其方へと移した。 「入っておいで」 以前よりも随分と弱弱しくなった声が、来訪者を招く。水面のように澄んだ蒼を湛えていた瞳は色褪せ、しかし凍てついた湖面の美しさを今も保っていた。皺が多く乾いた肌は、年を累ねた老木のような質感を残している。銀のノイズが、画面の隅を飾るように輝いた。 開いた扉の向こうに顕れた、若い娘とその腕に抱かれた赤子。 その姿を認めて、老人は愛おしそうに頬を緩めた。 壱番世界に帰属して十数年。 旅を已めたジョヴァンニ・コルレオーネは社会から身を引き、湖水地方の別荘に隠居して娘夫婦や孫、親しいものの訪れを待つばかりになっていた。 ――そして、九十歳を迎える頃、彼の命は尽きようとしていた。 《 The Long Goodbye 》 最早起き上がる事も叶わなくなった身体で、老人は首だけを動かす。臨終のときを見届けようと、寝台の傍へとやって来た一族の顔を見ていたかった。 「……皆、泣くでない」 ひゅう、と隙間風の抜けるような掠れた聲で、しかしジョヴァンニの言葉は確かに家族の元へと届く。若い頃の魅力をそのままに残した、芯のある聲だった。 九十年という永い時を、恵まれて過ごした。 娘は妻の面影を残しながらも時を経、美しくも気丈な女に育った。 数年前の孫娘の結婚式へは、病に冒され始めた身体を押して、医師の反対も振り切って出席した。孫の晴れ姿を見届けずして何故生き永らえる必要があったろう。白いドレスに身を包んだ孫娘は、これまでに見たいつの彼女よりも美しかった。それから直ぐに曾孫も生まれ、今では彼ら一家が娘夫婦と共に訪れる事を心待ちにするようになっていた。 「儂は本当に幸せ者じゃ」 充たされたような聲を遺して、意識が浮つく。 銀色のノイズが世界を覆い、視界が徐々に白み始める。 辛うじて頭だけを動かして、窓の外を見遣る。 (――噫) 其処に、彼女が居た。 (ルクレツィア) 白薔薇を胸に挿した、愛しい妻の姿。 死した時のまま若く美しい彼女は、薔薇園のアーチの下でジョヴァンニへと微笑みかけていた。夢か、幻か。それを判別する思考さえも、既に熱で焼け付いている。彼女の元へ駆け寄りたくとも、衰えた此の身体は立ち上がる事も出来ない。彼女だけが、輝くように美しいままだ。 隔たれた時間は埋められない距離となって、彼女と自分の間に存在する。 (ルクレツィア) 焦がれるように、再び彼女の名を心の裡で唱える。 其れを聞き届けたのか、若い妻は緩やかに、その美貌に笑みを浮かべた。――そして、ベッドの上で眠るジョヴァンニへと歩み寄る。ジョヴァンニの愛する白薔薇を胸に飾って、枕元までやって来た彼女は、再び彼に笑いかけた。布団の上に投げ出された、老木のような手を両掌で包み込む。ルクレツィアが触れた傍から、身体と魂とが乖離していく。 ――いつしか、妻の隣には彼の双子の兄の姿もあった。 ジャンカルロ。ルクレツィアと同じく、若くして死した才能溢れる兄。双子の確執の末、己が殺したも同然の兄を前に、ジョヴァンニはしかし穏やかに微笑みかけた。やはり、再びその姿を目に出来たのは幸福だと思う。 告げる事の出来なかった言葉を、長年の後悔を、ジョヴァンニは口にする。 (すまぬ) 乾いた唇が、幽かに動いた。 「おじいさま?」 孫娘がそれに気づき、問いかけるも、祖父が其方に振り返る事はない。ただ涙の幕を張った、淡い氷の色の瞳を天井に真っ直ぐ向けている。浅い息を繰り返すその胸元だけが、彼がまだ“此方側”に居るという証だった。 魂が身体から離れようとしているのだと、熱を帯びた頭でジョヴァンニは冷静に思う。最期の時が近づきつつあると、何も言わずとも家族も悟ったようだ。 ベッドの脇に立つ兄は、目を伏せて、微笑み、そして首を横に振った。呆れるような苦笑は、長い時を隔てて別たれた弟への愛情に充ちていた。 (噫……そうか) その仕種に、ジョヴァンニは今更悟る。 (儂はとっくの昔に――許されていたのだな) ――これが夢であったとしても、幻であったとしても、どちらでも構わない。 最期の時になって、大切なことに気づかせてくれたのだから。 器を残して起き上がる。身体は軽く、ロストナンバーであった頃や、妻と共にあった頃に戻ったようだった。 薔薇の庭園は主が立ち寄れなくなった今も尚、家族や庭師の手によって大切に手入れが為されている。窓越しにその香りまでも楽しむ事の出来るこの部屋を臨終の場所に選んだジョヴァンニの想いを察し、花は例年よりもより鮮やかに、芳しく咲き誇っていた。 ――今ならば、長年立ち寄れずにいた、あの花垣にも触れることができる。 (旅立ちには絶好の日和じゃ) 離れてしまえばもう戻る事は出来ないのだと知っていた。 だが、これほどに素晴らしい日は、そう来る事はないだろう。 充足した面持ちで、ジョヴァンニはおもむろにベッドから降りた。銀色のノイズに包まれた、魂だけの身でゆっくりと歩いていく。背後で彼の脈をとっていた侍医が、一言臨終を告げた。――別れの時が来た。 五月の風が吹き抜ける、静かな室内に、押し殺した啜り泣きだけが響く。器から離れ、ひとときその場に佇む、銀色の魂を視認できる者は居なかった。――否。 孫娘の腕に抱かれる曾孫だけが、ベッドの向こう側から家族を見守るジョヴァンニに気が付いて、目を輝かせた。きゃっきゃと笑って小さな体をいっぱいに揺する。 まるで手招くようなその仕種に、銀色の魂は惹かれた。別れを惜しむ家族の合間をそっと擦り抜けて、曾孫の元へと歩み寄る。あまりにも小さな握り拳をそっと撫でて、額に唇を寄せた。きゃっきゃと笑って甘受するこの赤子が、いつか皆に愛される人間となるよう、祝福を籠めてキスを贈る。 「あら」 赤子を抱く孫娘が、ひととき涙にぬれた貌を上げ、我が子の様子に微笑む。訣別への悼みを抱えながら、それでも子を労わる母親の貌は美しい。――本当に、良い娘に育ったものだと、祖父は改めてそう感じた。 「天使が通ったわ」 密やかに通り抜ける風としか認識できないはずの、ジョヴァンニの魂を、孫娘はそんな風に表現した。それを穏やかな目で見届けて、ジョヴァンニは徐々に薄れていく身体で、身を翻した。 (儂はもう逝く。――皆、達者での) 彼の最期の聲を、聴く者は居ただろうか。 罪に汚れたこの魂で、それでも告げる事が許されるならば、とジョヴァンニは窓辺へと向かいながら微笑み思う。 (――素晴らしい人生じゃった) 生垣のアーチを潜り、白い薔薇の咲き誇る庭園へと、銀色の魂は消えていった。 ◇ 臙脂の車両が、青く澄んだ空を切り裂いて、大地に滑り込む。 開いた扉から、タラップから降り立った一人の騎士が、背筋を伸ばして感慨と共に世界を見つめる。 その横顔は研ぎ澄まされた刃のようで、鋭く、美しい。 黄金のアーモンド・アイズを、漆黒の艶やかな髪を、雄々しい狼の鎧を、鮮やかな紫のノイズが彩っていく。 雪・ウーヴェイル・サツキガハラは、長い旅の後に、故郷への帰属を選んだ。王族殺しの冤罪を被せられ処刑が待っているだけの彼の境遇を知る友人からは心配の聲も上がったが、当人は己の役割はあの世界に在る、と語り、痛ましいほどの潔さで以って、ロストレイルへと乗り込んだ。 ――彼の世界へは、死ぬために還るのではない。 皆を“生かす”ために還るのだと、優しい友人たちにそう告げて。 《 Daydream 》 故郷へと再び姿を見せた雪を、当然のように王伯父派の重鎮たちは弑逆者として見做した。再び牢へ繋げ、処刑の日取りを決め直せと勢いづく彼らの罵倒を雪は黙したまま受け容れ、縄を掛けられ牢へと連れて行かれる彼を庇ったのは――他ならぬ近衛騎士団長、ユーヴェルジーンその人だった。国王エル・ギルもまた、ユーヴェルジーンに加勢する。 国を取り巻く情勢は、かつてと趣を違えた。 強力な魔族や魔物が台頭し、人々を脅かしている。 ――今は内輪で争っている場合ではない、と。 国王の一喝を受け、共に国を想う点では変わりない二つの派閥は、確執を残しながらも歩み寄った。 そして、全ての冤罪を払拭した雪の名誉は回復され、国王たっての希望により、再び近衛騎士団副団長の職に就く事となった。 淡い黄金の色彩を伴って、銀幕はまた違う場面を映し出す。 ロイヤルヘブンの王城の片隅、王の私室にほど近い場所に設けられた、庭園に面したサンルーム。普段よりも軽装の、しかし身を護る事が出来る程度の鎧に身を包んだ雪と、二人の男が一つのテーブルを囲んでいる。 流れる穏やかな空気。 ――しかし、雪だけは何処となく表情を曇らせていた。 「……ジーン。陛下」 呆れたような声音で、雪は二人の友人の名を口にする。東洋の血を色濃く残す、神秘的な黄金のアーモンドアイズを据え、近衛騎士団副団長はその整った貌を歪めた。 「何だ、ススグ」 覚醒前よりも幾分か年を累ね、渋みの増した美貌と、深く乾いた低音が雪の名を呼ばう。国王エル・ギルは、賢王と国民に慕われる思慮深くも豪胆な佇まいそのままに、其の瞳に慈愛の色を浮かべて雪を見つめている。――その眼差しは決して心地悪いわけではないものの、むず痒く、居た堪れない、と雪は感じていた。 「だから、いい加減甘やかすのは已めて頂きたいと、」 「甘やかしているつもりは毛頭ないが」 溜め息を吐き、ともすれば無礼とも見做される態度で物申しても、その進言はすぐ隣から受け流された。国王の隣に坐す近衛騎士団長ユーヴェルジーンもまた、同じように穏やかな眼差しを雪に贈りながら、そう云う。 「ですよね、陛下?」 「噫。国の為に戦い、身を捧げてくれる者を労って何が悪い?」 おおらかに笑いながらユーヴェルジーンが同意を求めれば、美貌に茶目っ気のある笑みを浮かべながら王もまた頷いた。だからその視線が、と言い返そうとして、雪は再び息を吐いた。この二人には何を言っても無駄だと、そう思う。 白い湯気を立てて、侍女が三人のカップに紅茶を注いでいく。 魔物や魔族の討伐遠征に忙しい合間を縫って、こうして気心の知れた三人で茶を楽しむ時間を、雪も、彼らも大切にしていた。 甘やかな紅の水面に映り込む己の貌が和らいでいる事に気付き、雪は苦笑する。 ――王と団長の二人が、雪を権力争いの人柱にせざるを得なかった事を悔やみ続けていた、と聴かされたのは帰還後の事だった。彼らは処刑の前に姿を消した雪を死んだものと思い込み、自分たちの勝手な都合で、国にとって、彼らにとって最も大切な者を喪ってしまったと己を苛み続けたという。 雪自身はそれらの事情を全て呑み込み、受け容れていたが――矢張り、彼らが己の犠牲に苦悩してくれていたと聞かされて、嬉しかったのは事実だった。父のように慕う国王と、兄のように慕うユーヴェルジーン。彼らは確かに、雪の記憶の中の優しい彼らの侭だったのだから。 ――だが。 雪の唐突の帰還後、喪ったと思い込んでいたものが戻ってきたことを、二人は酷く喜んだ。情勢の移り変わりもあり、雪の名誉を回復し再び手許に置いた後、――今度こそ喪うまいと、周囲にも呆れられる勢いで彼を溺愛しだしたのは頂けない。と、雪は呆れながらに思う。紅茶を一口含み、その暖かさで喉を潤し、努めて冷静に彼らの視線を受け流す。 「ススグよ」 国王が、慈しみを籠めた声で雪の名を呼ばう。 紅茶のカップを置いて、雪は国王と、ユーヴェルジーンへ視線を向ける。茶の席で、彼が改まって雪に話を向けるときは、話題は決まっていた。 「いつもの話をしてくれ」 「はい」 ――それは、雪が世界を違えた場所で送った、数多の冒険の話。 無限の階層世界を愛剣と共に駆け抜けた雪は其れを『夢の世界』での冒険と称し、彼らにのみ、話して聞かせていた。二人もまた、雪が懐かしげに微笑みながら語る、様々な世界での旅の話を喜んで聞く。時折こうして、待ちきれぬと催促するほどに。 語り始めた雪の聲に併せ、銀幕が柔らかな黄金の光を帯びる。彼の瞳と同じ、神秘的なノイズを纏いながら、映像は次から次へと移り変わっていった。 其れは回想。 無限の旅路で得た、様々な絆と戦いの物語。 背中を預けて戦う事の出来る友人や、何故か放っておけない青年と出逢った事。 薄紅の雨に打たれながら、優しい思い出と向き合った事。 《世界樹》の生み出した、夢幻の軍勢を打ち破った日の事。 その一つ一つを、噛み締めるように語って聞かせれば、国王は一言、善き経験を積んできたのだな、と雪の成長を喜んだ。 郷愁の色が、雪の黄金の瞳に宿る。 カミの気配を捉えるヨリシロの眼は、嘗ての旅路を静かに思い描いていた。 「――あの世界での日々のおかげで、俺はあなたがたを生かすために生きようと思う事が出来たんです」 彼の世界で出会った、様々な人との交流で。 彼の世界で目の当たりにした、様々な事件を潜り抜けて。 「ならば……我らはそなたを我々の許へと無事送り返してくれた事に、感謝せねばな」 「ええ、本当に。――よく戻ってきてくれたな、スゥ」 二人が、悼みと喜びの色を湛え、何処か祈るように雪に言葉を贈る。雪は其れを照れ臭く思いながらも、微笑んで受け容れた。 ――夢の世界から繋がる螺旋の旅路は、こうして続いていく。 ◇ 仁科あかりはセクタンを連れ、通い慣れた“首攫イ邸”の門を潜った。 「たのもー!」 時代劇でよく見るシーンを真似て訪問を告げる。彼女の明るい声に、出迎えの準備をしていたらしき邸の住人たちが庭先へやって来た。 「仁科」 気の弱そうな侍が彼女の名を呼べば、その足許から飛び出してきたドッグフォームのセクタンが彼より先にあかりに飛びついてきた。 「コヤタン! 元気してた?」 頭を撫で、一頻り挨拶を済ませると、ジェリーフィッシュフォームのモーリンがふよふよと降りてくる。二匹のセクタンは飼い主を差し置いて、ぐるぐると共に庭を駆け回り始めた。賑やかな光景を微笑ましく眺めながら、今日でこの姿を見守るのも最後なのだと静かに感慨に耽る。 これから仁科あかりは、二十年近くも離れていた、壱番世界に帰属するのだ。 《 Time to say Good-bye 》 0世界にも大切な人や大事な場所はたくさんあるけれど、やはりあかりの還るべき場所は壱番世界の、家族の元なのだ。随分と年老いてしまった父も、母も、彼女の帰りを歓迎してくれた。だから、帰ろうと思った。 「たくさん、たくさんお世話になりました!」 開口一番、大きな声で感謝を伝え、あかりは二人の友人に向かって頭を下げる。 扇の向こうで艶やかに息を零し、奇兵衛は彼女らしさ溢れる挨拶に微笑みを浮かべた。 「今までよく頑張ってくださいました」 「ううん、とても楽しかったです!」 大変だったでしょう、と言外に労ってくれる店主に、あかりはぶんぶんと首を横に振る。幻想的で、奥の深い紙の事を知るのは楽しかった。この邸と同じく、『軋ミ屋』も、あかりにとっては大切な場所の一つだった。 「色々教えてもらえて、よかったです。わたしはお役に立てたですか?」 「ええ、それはもう」 暗紫の瞳を細めて、奇兵衛は柔らかで艶のある笑みを浮かべた。それがいつも貌に貼り付けているものよりも一段と優しい事を、あかりはよく知っている。 「最後の御給金ですね」 そう云って彼が差し出したのは、蝶々の柄が入った折り紙でつくられたぽち袋だった。中には壱番世界の紙幣が入っている――帰属する彼女にもうナレッジキューブは必要ないと、態々両替してくれたようだった。そんな些細な心配りも、嬉しく感じる。 「わ、こんなに!?」 開けて御覧なさい、と促され、少しだけ中を覗いて思わず叫んでしまった。奇兵衛は笑みを深くするだけであかりの問い掛けを流し、代わりにもう一つ、あかりの掌の上に紙細工をそっと置いた。 「あ――モーリン、だ」 「そう。モーリンさんも、お疲れ様」 それはフォックスフォームのセクタン。 紙で出来ているのに、襟巻や四肢の先の炎は本当に燃えているようにゆらゆらと揺らめいている。細部までしっかりと再現されていて、云われなければ紙細工とは分からないような精巧さだった。今はジェリーフィッシュフォームのモーリンも、興味深そうに足の一本で紙細工をつついている。 「ありがとうございます! 大事にし、します!」 また、涙腺が緩みそうになるのをぐっと堪えて、あかりは頭を下げる。そして、ごそごそと紙袋を再び探って大きな箱を取り出した。 「わたしからは、これです」 差し出されたプレゼントを受け取り、奇兵衛はほう、と興味深そうな声を上げた。 「おや、これはこれは。らじこん、と云いましたかな」 「はい」 雄大な飛行船の容をしたそれは、奇兵衛にはてんで使い方の判らないものではあったが、あかりのその選択が面白くもあった。 後で橡と二人、動かし方に難儀するのも一興かもしれない。橡が与えられたすけぼーに挑み続けているように。この機械を弄っていれば、否が応にもあかりの事を覚えているだろう。 それから、あかりは橡から距離を取るようにして、奇兵衛にそっと小声で話しかける。 「バーミヤンをよろしくおねがいします」 初めは怖かったけれど、根は優しいこの店主が、今は大好きになっていた。彼なら、優しく、気弱に見えて本当は心の強い橡の助けになってくれるだろうと判るから。 「ええ、云われずとも。邸の主で御座いますしね」 「それと、たまには奇兵衛さんもバーミヤンを頼るです」 「私が?」 小さく目を瞠った威人へ、あかりは軽く胸を張って応える。 「はい。仲良くするですよ!」 そして、少し離れた場所で立ち尽くしていた橡の許へと小走りで駆け寄っていく。 「バーミヤンは、スケボーの次にこれを乗りこなす事、ですっ」 「何と」 ずい、と押し出された物体――短いぶーつの底にすけぼーと同じころが取り付けられている――を受け取り、橡が情けない声を上げる。彼女に唆される形で購入したすけぼーだが、まだまだ一人前と呼べるほど滑りこなせていないのが現状だ。最後の最後に更に課題を積み上げられてしまった。 「……むう、中々難題な気もするが、承知した。いつかは乗りこなして見せよう」 「いつかみたいに百年も二百年もかけてちゃだめですよー!」 そんなに待ってられませんよー、と茶化すあかりに、場面も忘れて橡は苦笑する。そして、改めてこれから彼女との時間が徐々に離れていくのだと実感する。橡の産まれ生きた“江戸”は疾うに無い。そして、彼女の生きる“平成”もこれから終わっていくのだろう。――そう思うと、途端に抑えていたはずの涙が込み上げてきた。 横目に隣の奇兵衛を見遣る。何事もなかったように、彼は常と変らぬ飄々とした態度で目を細めている。賑やかで働き者だったあかりとの別れに、何も感じていないわけがなかろうに。全く強情な、と思いつつも、その鉄面皮がすこし羨ましい。己は彼のように気丈には振る舞えない。 一滴、目尻を涙が伝って、其処からは抑えられなかった。 「バーミヤン!?」 あかりが面喰ったように名を呼ぶ。しかしすぐに、彼女の顔も涙に歪み始めた。 「な、泣かないでよ! わたしだって我慢してたのにぃ……」 「泣いて、などおらぬ、こ、これは天気雨……!」 言い合いながら二人は、堪え切れなかったものを吐き出すようにしきりに涙を流し続ける。橡の言葉に応えるように、銀幕を縦に裂く白いノイズが雨を紡ぎ出した。 声を上げて号泣するあかりと、静かに俯きながら涙を堪える橡。情深い二人の感情の吐露を、二匹のセクタンと、冷静な威人とが静かに見護っていた。 ――局地的な天気雨は、非情にも、やさしく、彼らの頬を濡らしていく。 「今まで有難うでした。絶対忘れないよ」 大きく頭を下げて、あかりは今度こそ、別れの挨拶を二人に贈る。再びの天気雨に降られながら、鼻を赤くしたまま橡は頷いた。 「寂しくなるな」 また泣いているのか、とからかわれ、とうとうそれを認めながら、鼻声で続ける。 「気が向いたら文をくれ。俺も出す。すけぼーが上達した暁にはほとがらも送ろう」 「うん」 初めて逢った時は、この少女の騒々しさと明るさに面喰いもした。それから、自分にないものばかりを持っている事を羨みもした。――だが、こうして自分が外と関わりを持ち、積極的になる事が出来たのも、彼女や奇兵衛のおかげだと知っている。 前を向け、と励まされた。一見した騒々しさに見合わぬ思慮深さで、着実に橡を導いてくれた。あかりへの感謝は尽きぬほどある。 「奇兵衛さんと仲良くね」 「ああ、約束する。負けてばかりもおらんぞ。――おい笑うな、奇兵衛!」 開いた扇の奥に口許を隠し、くつりと笑んだ奇兵衛を橡が小突く。まるで漫才のようなやり取りと、「近頃思うのだが。こやつは、『つんでれ』とやらではないか?」と耳元で囁いた橡に、あかりは耐え切れないと云った様子で吹き出した。 ひととき、別れの場に穏やかな雰囲気が燈る。 「脇坂殿や親御と、末永く仲良くな」 そう、真摯な聲で告げて、橡は一振りの守り刀をあかりへと送った。この小刀が、あかりとその家族をいつまでも守護するよう祈りながら。 「ありがとう、バーミヤン。向こうに着いたら、手紙書くです」 小刀をぎゅっと抱きしめて、あかりは涙に濡れたままの頬で精一杯の笑みを浮かべた。息を吸って、吐く。せめて、別れだけは明るく締めたかった。 「またね!」 ダイアナ・ベイフルックの墓碑にひっそりと花を供えた後、あかりはモーリンと共に駅舎への道を歩いていた。ジェリーフィッシュフォームのセクタンを横目で見やっても、彼は無表情のままふよんふよんと浮いていて、表情を悟らせにくい。 ――あるじを喪ったセクタンは、チャイ=ブレの樹へと還っていくのだと云う。あるじの記憶を――情報を、抱えたまま。 それなら、今目の前にいるこの子は、親に還るその瞬間まで自分の事を覚えていてくれるのだ。そう思うと、愛しくて堪らなくなって、ひんやりと冷たいモーリンの身体を抱きしめる。 「忘れないよ。モーリン、モーリン」 ふよふよとした感触の触手が、前足のようにきゅ、とあかりの腕に縋り付いた。かれとの別れが確かに迫ってきている事を実感し、沢山泣いたあとなのに、また涙が零れ落ちる。 フォックスフォームの姿でよくじゃれてきて、あかりの作るシャボン玉を捉えようと前足を伸ばしていた。やがて浮上していくシャボン玉に追いつくには狐ではいけないと学んだのか、オウルフォームに姿を変えてもらって嘴で片端から叩き割るようになった。セクタンも学習するのだ、と知り、あかりは微笑ましく見守った。 北極星号の搭乗者を募っていた頃、あかりは密かに悩み、密かに決意を抱いていた。 「ダイアナさんに知ってほしいんだよね」 ぽつり、とそう呟いたあかりの言葉をも、かれだけが聞いてくれていた。赤の王が壱番世界に危機を齎して、その討伐に翻弄された時、あかりは彼女の言葉を訊いた。否、彼女だけではない。人は他人に無関心だ、というファミリーの嘆きを。 「ひとってそんなに薄情なものじゃないよ」 少なくとも、あかりはそう信じている。 「だから……かなあ。北極星号に乗りたいんだけど、いいかな、モーリン」 控えめにそう問えば、彼は無言のまま力強く頷いてくれた。 危険な時も、辛い時も、勇気を出すべき時も、食事も睡眠も、いつだって傍にいて、励ましてくれた。 たとえそれが、捕食者からの監視だったとしても構わない。 モーリンはこの旅の間、ずっと傍に居てくれた、大切な友人なのだから。 天気雨はやまない。 溢れ出る涙を最早隠そうともせず、あかりは何度も強く抱きしめたモーリンを手放した。ふよん、と浮遊するセクタンは、僅かにあかりから離れてターミナルの中央へ向かった。 「ばいばい、元気でね!」 その仕種に別れの覚悟を感じ取って、あかりもまた両手を振る。そして、勢いよく踵を返すと駅舎へと走って行った。もう振り返らない。かれを心配させて、心残りをつくらないように。私ならもう大丈夫だから、そう伝えたくて。――駅舎で待つ親友の元へ、あかりは全ての未練を振り切って走った。 ――モーリンの記憶が、このままチャイ=ブレに届けばいい。 人間のやさしさと、可能性と、楽しかった記憶をたくさん抱えた、あかりの想い出が。 ◇ その情景は、蒼い追憶のノイズに染められていた。 明け方の空のような、光放つ鋼のような、澄んだ蒼に。 「なあ、朧月」 たった一人の――少なくとも、彼が死ぬまではとそう定めた――主の聲で銘を呼ばれ、朧月は振り返る。黒のノイズに浸食された夜闇の中、蒼く白く輝く月が、彼を呼び止めた者の姿を照らして――朧月は、目を瞠った。 ざらりと変色した青鋼のノイズが、その半身を埋め尽くしている。粘性の液体のように、男の身体の中で蠢く其れは、恐らく榊だけにしか見えないものだ。 榊は鉄面皮を僅かに崩して、眼前の主の有様に動揺を示す。幸いにもそれは、男には気づかれなかったらしい。 ――いつまで保ちそうだ? ――さて。今の侭であれば、一年か、二年か。 数日前、そんな会話を交わした事を覚えている。 侵蝕が進んでいるようには見受けられないのに、何故か、その姿に心中がざわめいて仕方がない。柄にもなく足が竦む。其れ以上を踏み込むのを、畏れている――。 「――何用だ」 心中の動揺を隠すように、振り払うように聲を絞り出せば、主は髪を掻き混ぜて照れ笑いを浮かべた。 「なに。お前に新しい名を呉れてやろうと思ってな」 「……は?」 ――そして発せられた言葉があまりにも予想外で、朧月は思わず、彼らしくもなく唖然とした貌を見せた。主もまた、長年付き合ってきた相方の珍しい表情に吹き出す。 「忘れたのか? 明日は――が帰ってくると云っただろう」 男が口にしたその名は、ざらりと擦れるノイズに掻き消されて。 「噫。其れが何故」 「俺はあいつにお前の人らしい姿を見せて驚かせたい。その為には『朧月』などという刀の銘ではなく、人としての名が必要だ。お前だけの」 青鋼のノイズの中、異形としか表現できぬ容貌の男は目を光らせた。 戯言にしか聞こえないその言葉が思いの外真摯な語気を含んでいて、朧月の鉄面皮が更に揺らぐ。 「別に、我にその必要は」 「いいや必要だ。お前に希望が無ければ、俺が勝手につけてやる」 朧月の遠慮を受け流し、主は勝手に話を進めていく。其れ以上反論するのも面倒で、古太刀は無言で悩む彼を見守る事にした。 やがて、何が楽しいのか笑みを浮かべて主が顔を上げる。 「そうだな……『榊』で如何だ。否は認めんぞ」 銀幕の中の男は青鋼に蝕まれ、まるで青い空のように、闊達に笑っていた。 《 榊 》 「――何を思い出していた」 男の面影を残し、しかし其れよりも更に冷ややかで幼さを残した聲が、降り注ぐ。 「何も」 挑発するようにそう応えれば、木格子の向こうの男は苛立ちに眉を跳ね上げた。少し突くだけで、面白いように表情を表に出す。人間は脆く、しかしその複雑怪奇な“感情”というものに興味を惹かれる。榊が短い旅の中で抱き初めていた其れを、目の前の男は容易く操る。榊にはそれが目映く、また億劫だった。 男に興味などないと寝返りを打てば、冷たい石床の感触が、頬に触れる。不快なまでの冷ややかな湿り気。本性――刀に戻れば、こんな不快を覚えずに済むのに、と榊は僅かに倦厭を覗かせた。 男の属する組織に捕らえられて以来、傀儡化の能力を畏れられ、“朧月”は封じられた。今の榊に端から其れをするつもりがない事を、彼らは知らなかった。 こうして石牢の中に封じられているのは、己ではなく眼前の男――かつて榊の主であった男の息子を戒める為だと云う。 今、榊がこうして組織の手に落ちたのも、全てこの青年の執念の賜物だった。何度退けても、その都度自らの腕を磨き、朧月への対策を練り上げながら追い縋ってくる。形振り構わず食らいついてくる彼を、何故か榊は殺す事も、その手足を截って武人としての生命を潰す事もしなかった。人を傀儡にして食いつぶす事もせず、ただ己の力のみで彼の挑戦を受け続けた榊は、遂にその執念の前に膝を折る。 青銅のノイズが散り、銀幕は榊の回想を描き出す。 一つに束ねた髪が断ち切られる。人間を象った古太刀の身に、目に見えるほどの大きな罅が奔った。 「――様!」 貌を黒布で隠した彼の部下が、諌めるように聲を飛ばす。 武器を振り翳し、最後の一撃を加えようとしていた青年が、瞬間動きを止めた。何故止めるのかと、視線の動きだけで部下を問い質す。 「その刀は我らの目的の要となりましょう、今ここで打ち砕くのは得策では御座いませぬ!」 「構うものか! おれはこいつを殺すために今まで――」 我を失くした獣のように吠え立てる青年は、仲間の手によって抑えつけられた。 離せ、殺してやる――青年の叫び声だけが、銀幕にむなしく響き渡り。 罅割れた身体を砂利の上に投げ出したまま、榊は瞑目してそれを聴いていた。 ――このまま手の届く位置に在れば、彼は一族を惨殺した榊を打ち砕いてしまうだろう。 それが双方の望みであったとしても、神に抗する力を持つ古代の太刀を喪う事は組織の意図する所ではないとして、榊はあの日の敗北から、捕虜として地下牢に囚われている。 以来、青年はこうして毎日、格子の向こう側から憎らしげな目を向け、榊と僅かな時間問答を交わして去っていくだけだった。 「訊きたい事がある」 また明くる日、青年は闇に融け込むようにして姿を見せた。 飽きぬものよ、と呆れながら相手をしようとした榊へ、先んじて青年はそう切り出す。そして、懐から取り出したのは、榊にも見覚えのあるものだった。 「此れは父上の腕時計だな」 「そうだったか?」 「恍けるな。おれは確かに覚えている」 鋭い指摘に、榊はくつりと虚ろに嗤う。 ――本当は、彼自身も確かに覚えていた。 神気に蝕まれ、堕ちた主との交戦中、榊の一太刀を受けて彼の腕時計は手首ごと切り落とされた。そして、壊れて動かなくなっていた其れを手首から外し、取り上げた所で、榊はディアスポラ現象に見舞われたのだ。――それ以来、腕時計は常に彼と共に在った。主を殺めた記憶の拠り所として。己の罪の証として。 ざァ、ざらら、錆のような赤いノイズが、銀幕を薄く覆う。 「何故、お前が此れを持っていた」 憎むべき仇敵である朧月が、逃亡中もそれを失くさず大切に保ち続けていたという事実は、青年の憎悪に一滴の雫を落とし、波紋を描いたようだ。力を振るう為の道具が障害と化し排除した、刀の語るその理由が事実であれば、こんなガラクタを未だに持ち続けている必要はない。 「応えろ、朧月」 ――何故、と、ふてぶてしいほど主によく似た青年の貌が、幽かに揺らいでいる。おれは間違っていたのか、言外にそう問うてくる。 「さて。懐に紛れ込んでいたようだ」 その視線が煩わしくて、榊は身を捩って青年から顔を背ける。 ――その疑念は必要のないものだ。 己はお前の家族を殺した仇で、討つべき敵なのだと。 それを言い含めようとして、何故か言葉が口から零れ落ちる事はなかった。 弦を張るような細い三日月が、青銅のノイズに食い潰されて。 銀幕を仮初の青い闇が覆い尽くした。 「――様!」 慌ただしく部下が青年の名を呼ぶ。 深夜に叩き起こされ、不機嫌そうに顔を出した青年へ、黒い布で貌を隠した部下は恭しく頭を垂れながら事態を報告する。 「“朧月”が姿を消しました」 「何、」 目を瞠った青年は武器を手に駈け出す。 青銅のノイズに塗り潰された闇の中を、掻き分けるように突っ切って。 辿り着いた先の地下牢で、彼を出迎えるものの姿はなかった。 「朧月!」 咄嗟に、青年はそう叫んでいた。 銘を呼んだところで、彼が其れに応える事はなかったというのに。 「……逃がさない」 手の中の腕時計を握り締め、何者かに誓うように、男はそう口にする。 彼(あれ)は此処に居る。此の世に。 否、たとえ彼が違う世へ逃げ去ってしまったとしても、必ず追いかけて縋り付いて見せると、一族の墓前にそう約束した。 ――いつか、其の答えを引き摺り出せる時まで。 ◇ 眼下に佇む樹海を一望できる、一等地に佇むカフェ。 そのテラス席に腰を降ろし、村崎神無はひとり眼前の景色を眺めていた。 樹海から太い木の根がまっすぐに伸び、ターミナルを越える高さで浮遊する島を支えている。――あるいはそれは、捕食していると表現してもいいのかもしれない。中央に巨大な世界樹を奉り、視る者の背筋を寒くさせるその情景は、しかしターミナルのロストナンバーは既に慣れ親しんだものだった。少しずつではあるが《世界図書館》との融和が進み始めている《世界樹旅団》の拠点、彷徨える緑と祈りの都市・ナラゴニアだ。――彼の大樹の根元にて、今も職務に勤しんでいるであろうひとのことを想い、密やかに息を吐く。 「――何、恋のヤマイ?」 ふと、唐突に背後から声を掛けられて、神無は飛び上がるように振り返る。 「ニコル!」 名を呼ばれ、猫のようにいたずらな黄金の瞳を細めて、黒のワンピースに身を包んだ少女は軽やかに手を上げた。 「お待たせ」 そして、するりと神無の前に座る。長い黒髪が、今はもう着る事も少なくなったウェディングヴェールの代わりに踊る。神無のデザインしたワンピースを身に着けて、御洒落なカフェのテラス席に座って――そうしていると年頃の少女のようだ、と神無は微笑ましく思った。 北極星号の帰還から数年。二人を取り巻く環境は目まぐるしく変化し、色々慌ただしく身の回りの整理を終えて、気が付いてみればこうして二人ゆっくりと話をするのも久しぶりだった。 「なんか、いいねこういうの」 「そうね。なんだか懐かしくなるわ」 白と黒のノイズが、手を取り合うように銀幕を踊る。 ふたり、友人になったあの日のように、少女たちは談笑する。 《 The Gray Bonds 》 「それで、“園丁”サマとは最近どうなの?」 紅茶に口を付けた瞬間を見計らいニコルがそう切り出せば、カップを揺らして動揺を見せながらも神無は一口呷ってから応えた。 「ユリエスの事? ええ」 世界樹の意志を伝える《世界園丁》としての仕事を日々忙しなくこなす彼を、神無は隣で支援する道を選んだ。 「支援、と言っても私にできる事は限られているけれど……ユリエスは元気にやっているわ。ターミナルが平和なのがその証拠」 世界図書館に所属するロストナンバーである彼女が其処に立つことで世界図書館からの誤解を和らげ、ナラゴニアとターミナルとの融和、交流を後押しする。《十三人委員会》の許に顔を出し、世界園丁であるユリエスの言葉を伝える役目も担っていた。其れらを控えめに、しかし誇らしく話しながら、神無は己の口振りが徐々に饒舌になっている事に気が付いていない。無論、目の前のニコルがアイスティーを啜りながら、生温く微笑ましく眺めている事も。 「うん。神無が幸せそうなのはいいんだけど、そういう事じゃなくってね」 「どういう事?」 訊き返しながら、神無は再び紅茶を口に含―― 「つまりね、もうチューはした?って聞きたいのよ」 「ッ!?」 ――もうとして、掛けられた言葉に思わず吹き出してしまった。予測していた事なのだろう、ニコルは素早くそれを避けて、テラス席はテーブルクロスが赤く染まるだけの被害で済む。慌てて飛んできた店員に平謝りしながら、神無は赤くなったり青くなったり百面相を繰り返す。 「ちっ、チューって、そういう話……!?」 「モチロン。まさかまだとは言わせないよ?」 「そ、そういうのはいいでしょ……!」 そして新しいクロスの張られたテーブルで、紅茶を飲みながら改めて心を落ち着かせる。湯気に乗せて届いた芳香が、喉を潤す穏やかな味が、神無の胸に浸みていった。 ニコルはにやにやと、猫のように瞳を輝かせてその一挙一動を見護る。同じ新たな恋を見つけた者同士、彼女の恋路を応援したい気持ちがあったのだ。 「――それに、今は未だユリエスも仕事が忙しいの。そんな事を考えてる余裕なんてないはずよ」 北極星号の到着と時を同じくし、長らく空白だった《世界園丁》の座に就いたユリエス。人狼公もそれと認める実質的なナラゴニアの長として、彼にはまだまだやるべき事が沢山ある。今はただ、彼の隣でその支えと成れればいいと、神無は展望を語った。 「……そっか」 瞳に煌めいていたいたずらな色を鎮め、ニコルは神無の言葉をただ静かに受け入れる。彼女の恋がどうであろうと、結局のところ神無が悔いがないようにやれているならそれで構わないのだ。出逢った頃の卑屈そうな振舞は鳴りを潜め、今の彼女は真っ直ぐに背を伸ばして前を向く事ができる。それが、彼女の一番の親友であるニコルには嬉しかった。 「それにしても、ユリエスったらすごいのよ。一人でてきぱき仕事を片付けてしまうの。これなら私要らないんじゃないかなって少しだけ思ったけど、見透かしたように『いつも有難う』なんて言ってくれちゃって――」 「ナニソレ、惚気?」 「ちっ、違うわよ!」 気の置けない友人同士のやり取りが続いていく。こんなにも晴れた空の下、大切な友人とこうして茶の時間を楽しめる幸福を、神無はそっと噛み締めた。 「――そういうニコルは如何なの? その、彼の事」 そして、意趣返しとばかりに話題を差し向ければ、ニコルは一度目を瞬かせ、しかし猛禽の顔でにやりと笑った。 「ああ、私? 私の方は相変わらず。待ちぼうけの毎日」 「そう……」 『旅に出る』と言い残したまま、拠点としていた道場から姿を消した男の事を、ニコルは今も待ち続けている。 「あ、でもね、ちょくちょく目撃談はあるよ」 「えっ、居所がつかめたの?」 彼とニコルとの間に何が合ったのか、神無は詳しい話を聞き及んでいない。だが、ニコルは故郷の夫の為に設えたウェディングドレスを着るのを已め、彼の武道家に寄り添う事を選んだようだった。その選択を尊重し、応援したいと不器用ながら思う。 「うーん、噂じゃ最近は壱番世界のヨコハマって所に居るらしいんだけど」 「そう、まだ噂……でも大きな手掛かりね」 何処か楽しげに彼の事を語るニコルに釣られ、神無もまた微笑んで応える。会えない寂しさなど感じていないような素振りだが、恋しく想う者の行方を中々掴めない事がどれほど不安になるのか、神無は知っていた。 「祭も近いみたいだし、観光がてらちょっと行ってみようかな、ってね」 「春節祭、だったかしら? ……逢えるといいわね」 だから、こうして祝福する。迷いを振り払ってツァイレンを選んだ、友人の恋路を。 「ありがと。――もう、離さないって決めたんだ」 頷いて微笑んだ黄金の瞳が、猛禽めいた光を宿す。一度狙った獲物は決して離さない、捕食者の其れ。 そこにニコルの強い想いを感じ取って、神無はまるで己までもが元気づけられるようだ、と微笑む。 「それで、これからどうするの?」 「んー、今の暮らしは結構気に入ってるし、当分このままでいいかなって」 ニコルは、いつか彼が還ってくる日まで、彼の道場を在りし日のままに保ち続ける事を己が使命としている。それ以外にもこうして神無と茶を楽しんだり、他の友人たちと依頼旅行に出かけたり、忙しくロストナンバーとしての生活を満喫しているのだ。 「……でも、ずっと同じじゃないのはわかってるんだ」 「そう……ね」 だが、世界は移ろいゆく。停滞を象徴していた0世界でさえ、改革の日を迎え、少しずつ変わろうとしている。 「私はこの命が続く限りユリエスを支えるつもりだし、ニコルとも付き合っていきたいけど……想像もつかないけれど、この時間にもいつか終わりが来るのよね」 二人の間に、沈黙が降りる。 その形は未だ想像もつかないが、いずれ訪れるであろう別れの日を痛感して。 「ここってさ、名前の通り《駅》なんだよね」 其れを振り払うように、ニコルが努めて明るい声を上げた。神無の視線を惹き寄せて、年頃の少女らしい朗らかな笑みで言う。 「目的も道も違う人たちが、ほんの一瞬だけ一緒の時間を過ごすの」 ――ターミナル。 世界から放逐された旅人たちの終点として名付けられたこの街は、しかしここから始まる新たな旅路を見届ける役割も担っている。人種も価値観もバラバラな、あらゆる存在を内包する街、それはまるでスクランブルのようだと神無もまた思う。 「でも大体みんな違う方を見てるから、中々声かけあったりってならなくて」 あたかも、同じ電車に乗り合わせた他人のように。 奇妙な親しみを感じながらも、彼らは所詮“他人”なのだ。 「――だから、だからさ」 ニコルにしては珍しい、必死さを湛えた貌で、彼女はテーブルに身を乗り出す。その真摯な眼差しを、神無は逃げる事無く受け止めた。 「あたしね、カンナと逢えて本当によかった」 綻ぶような笑みを浮かべ、神無とこうしてテーブルを囲める奇跡を、ニコルもまた噛み締めている。 「一瞬の何分の一かの間でも同じものを見て」 笑ったり、怒ったり、泣いたり、殴り合ったりもしたけど、とはにかんで、ニコルは思いの丈を親友にぶつけていく。 「今またこんな風に笑って話す事が出来て」 この広い無限の世界で、二人擦れ違い、声を掛けあって共に肩を並べて歩く事が、どれほど気の遠くなるような確率の上に成り立っているだろう。 「だから……ありがとう」 出逢えてよかった。小さくともかけがえのない奇跡に、感謝する。 「私だって」 祈るように頭(こうべ)を垂れたニコルの手に、手を重ねて、神無は微笑みかける。 「私、友達って言える存在はニコルが初めてなの」 彼女と共にインヤンガイを駆け抜けたあの日の出来事は、今も尚強くおぼえている。あの時の経験が、神無を幾重にも覆い尽くしていた断罪のヴェールを引き裂く一端となったのだ。 「こんなに深く誰かと関わる事になるなんて、想像もしていなかった」 彼女がいなければ、ユリエスとだって出逢えていなかったかもしれない。全てを変えたあの日を、神無はいつまでも忘れはしないだろう。 「私の方こそありがとう。……あなたと出逢えたこと、感謝しているわ」 罪深い己が神に感謝するなど柄ではない。 だからこれは、“私”を見つけてくれた、“あなた”への感謝だ。 そう、微笑んで見せれば、ニコルはまた黄金の瞳を細めて、ほどけるような笑みを返した。 「ふふ、何やってんだろ。これじゃお別れみたいだ」 ふたりの縁は、まだまだ続くというのに。 ニコルが場を和ませるようにそう云って、ふたり、ひとしきり笑いあった。 「そうだ、お願いがあるんだけど」 笑いの発作が一段落した頃、ふとニコルが切り出して、神無は視線だけで応える。す、と黄金の瞳を細め、真摯な眼差しに戻ったニコルは、ゆっくりと首を傾げて見せた。 「手錠……くれないかな」 神無の両手に嵌る、彼女を象徴する鉄輪を指し示せば、神無は思い出したように其れを見下ろした。 「手錠……そうね、そろそろ此れを付け続けるのも潮時かもしれないわ」 誰かの喪に服す女のように、罪に縛られ過去を省み続けるのはもう已めた。忘れられぬ故郷の夫のためにウェディングドレスを着続けていた彼女が、新しい服を選び始めたように。神無は両手から手錠を外し、テーブルの上にそっと置いた。裁断に捧げる供物のように厳かな所作で。 「見ていて」 そうニコルに告げ、神無はトラベルギアを抜き放つ。 二つの輪を繋ぐ頑丈な鎖の中央に刀の切っ先をあて、勢いよく力を掛ける。鎖は真っ二つに割れて、綺麗に二つの輪は切り離された。 「カンナ?」 「受け取って」 片方の輪と手錠の鍵を手に取り、神無は親友に向かってそれを差し出す。 「手錠としては意味をなさない……でも、あなたに両の手を縛る道具は必要ないわ」 このターミナルの天蓋のような、青く広い自由な大空こそが、大鷲の末裔たる少女にはよく似合う。両翼を広げて空を渡るには、手錠は邪魔だ。 「私も此れからは片方だけを付ける」 そう云って、神無は躊躇いなくもう片方の輪を己の手首に嵌めた。先を喪った鎖が、じゃらりと音を立ててぶら下がる。――それを解くための鍵は今、ニコルに預けた。 「――自分の罪を忘れてはいけないけど、一人で背負う必要もない」 片方だけ繋がれたこの手錠を解く事が出来るのは、世界で彼女一人だけだ。それは神無が自分の罪を曝け出し、ニコルに背を預ける事が出来るようになったことの証明。 「……私が言っても説得力の欠片もないけど。そう思うようになったの」 照れたように、自嘲するようにはにかむ友人を、ニコルはただじっと眺めていた。片方だけの手錠と、鍵をぎゅっと胸元に抱き締める。じゃらりと聴き慣れた金属音が響く。この音も、重みも、戒めも。すべて彼女が背負ってきたもの。神無の持つ悼みを半分、享け負う事が出来たのだと痛感する。 「――カンナ、大好きっ!!」 言葉と共に飛び付いてきたニコルを、驚きながらも神無は微笑んで抱き留めた。 ◇ 風に流され、水面を滑りながら漂流を繰り返していた一葉は、無事大樹の元へ――祖国へと辿り着いた。 《 叢雲を祓う 》 薄紅色の花が舞う。視界を覆い尽くすように、ざららと風に吹き流される。雲一つない青い空を遮って、銀幕を我が物顔で染め上げる。 都内某所に在る人気のない茶室で一人、細谷博昭は姿勢を正して坐していた。瞑目し、静謐の中に身を置きながら、鳥の囀りと風の流れる音、水のせせらぎだけを聴く。 その襟元に、黄金に輝く菊菱の紋はない。 細谷の覚醒から暫くして、消息を絶った彼は議員資格を取り消された。その後補欠選挙が行われたと云う話も聞いている。今の彼は実質隠居状態だ。じきに行われるであろう統一選挙へ向け、各党が動き出している情報も耳に入ってきてはいる。細谷自身への立候補の要請もあるが、政界へ再び身を投じるかどうか、細谷は今の所何の行動も示さずにいた。 細谷は背筋を伸ばし、瞼を閉じた侭、この国へ戻ってきてからの出来事を回想する。 ――縁側から吹き込む風に乗り、桜の花弁が一枚、茶室へと舞い込んだ。 夢にまで願った己の祖国を見つけ出して、降り立った時の感慨を一度たりとも忘れた事はない。彼の居ない間に祖国が、政界が外道と穢れに蝕まれている事を危惧したものだったが、その心配は杞憂に終わった。この国の要ともいうべき総理大臣は嘗ての記憶よりも尚迫力を増していたし、党の若者たちも細谷の知らぬ間に成長し、見違えるまでの力を付けていた。 彼が危惧していたよりも、此の大日本皇国は強く、美しかった。 『紫電』と『大和』。 トラベルギアとして顕現するほど、彼にとって無くてはならなかった一対の刀は、彼の消失後、それぞれの在るべき所へと収められたようだった。 『紫電』は細谷とも縁の深い出雲大社に預けられていると聞き、細谷は一も二もなく出雲へ飛び、再び己の手に収める事が出来た。久々に手にした『紫電』の鞘を払い、雷光纏う曇りなき刃を前にして、細谷の心は引き締められるようだった。矢張り、同じ容であっても、同じ力を持っていたとしても、トラベルギアとは違う。確かな神威と手に馴染む感覚。此れこそが本物だと云う実感が湧いて、細谷は思わず誰にともなく頭(こうべ)を垂れた。 ――だが、その一方で『大和』の所在は杳として知れなかった。 元より地獄の閻魔(やま)より預かった刀であるから、紫電と同じく在るべき場所へ戻ったのであるなら地上の何処にも存在しないのは判らぬ事でもない。では何故、世界に還ってきた彼の許へ再び姿を現さないのかと言われれば、それは恐らく、彼が未だにロストナンバーだったからだろう。 外道とも違う、既に其の世界の構成員でなくなった細谷へ、閻魔の使いが現れる事はなかった。 薄紅のノイズが、雨のように滴り落ちる。 それは色彩を失くし、ビルの窓に貼り付く雫の幕へと変わっていった。 彼を慕う青年議員たちとの会合を終え、細谷は傘を携え、雨の街へと躍り出る。議員資格を喪って尚、元幹事長である彼には成すべき事が沢山ある。 駐車場へと向かおうとした細谷は、ふと足を留めた。 雨の向こうに佇む影がある。 人のようでありながら、人とは明らかに違う肥大したシルエット。その肩から立ち昇る瘴気や、両腕から滴る暗紅色が酷く醜悪で、目を惹いた。 ――いつぞやの、細谷が斬り落とした腕から飛び散る血の色を思い起こさせる。 眉を顰めて、気が付く。 否、腕だけではない。彼は既に、その身の至る所から血とも澱とも泥ともつかぬ粘ついた液体を滲ませている。雨に流れながらも紅を纏うその貌は闇に塗り潰され、嘗てのぎらついた瞳の輝きだけを眼窩に遺していた。 「……遂に、堕ちたか」 最早異形としか呼べぬその様相に、憐れみと、侮蔑の色を向ける。千獄、と嘗ての男の名を口にすれば、怨嗟に染まった双眸が彼を睨め付けた。細谷の帰還より一年前、体調不良で総選挙の出馬を見送った後、ひっそりと病死が伝えられていたが、矢張り。 外道の力を操る者は、穢れを貯め込み、遂には己自身も外道へと堕ちてしまう。 彼の男はそれを理解していたか否か、こうして人の道を踏み外してしまったようだった。 言葉を交わそうとする細谷を遮り、外道は獣のように身を低くして駈け出した。真っ直ぐに、細谷を目掛けて。 ――迅い。 禍々しい瘴気を放つ刀の一撃を紫電で受け止めながら、細谷は軽く貌を顰める。以前刃を交えた時は未だ、人の範疇を越えていなかった筈だ。それが今や、完全なる外道へと堕ちてしまった男は人の目では捉えられないほどの迅さで二刀を揮う。細谷は飛び散る穢れを紫電で焼きながら、男の太刀筋を受け流すだけで精一杯だった。 細谷の額を、一筋の汗が伝う。唇を噛み締める。乾いた皮膚がかさりと音を立てて破れた。 ――矢張り、完全に外道と化してしまった男を相手に、一刀だけでは渡り合えぬ。雷で穢れを焼くだけでは、男を退ける事は難しい。 矢張り、この世界から切り離された自分では――。 薄紅の雨を切り裂いて、光が舞い込んだ。 スクリーンを焼く白。フィルムそのものに焼き付いたような鋭く目を射る輝きは、神威を纏うように荘厳に、ヴェールのように連なっていた。 天国から舞い込んだかのような白に遮られ、外道と堕ちた男は思わず怯んだ。刀を取り落し、焼かれた両目を手で覆い隠して身悶える。 外道よりも早く光に慣れた、細谷は、光の向こう側から“誰か”が二本の腕を差し出している事に気づいた。 差し伸べられた腕は、一本の刀を握っている。細谷の愛刀である『大和』を。 見覚えのある袖口と、見覚えのある手指の容。 ――嘗て異世界で視た夢の光景を思い出し、噫、と聲を零す。そう、彼の地の夢は『未来を映す』と云われていた――。 懐かしさに、畏敬の念に目を細める。その光の先にいる人物を、細谷は知っている。己の帰還を、“彼”が待ち続けてくれていたのだと、その時確かに、細谷は理解した。 差し出された愛刀を受け取ると、細谷は流れるようにその鞘を払う。瞬間、溢れる光。外道を討ち払う輝きで以って、怯む嘗ての仇敵へ、逃れようのない一撃を加えた。 断末魔が轟いて、勢いの強くなった雨が、消えていくその身体を打ち付けた。 ――外道を完全に消滅させ得ることは難しい。一時的に退けても尚、嘗ての仇敵は執拗に細谷を狙い続けている。 それから程なくして、細谷の頭上に真理数が点燈する。再び世界に、皇国に迎え入れられた彼は再帰属を果たして、長らく命を預けていたパスホルダーを手放した。 議員バッジは喪ってしまったが、それだけで細谷の戦いは終わるものでもない。命を賭すと決めた総理大臣の為、政党の為、彼は今も二刀を揮い続ける。紫電で穢れを焼き、大和で外道を祓う。『出雲の鷹』は今も尚、此処に在る。 ざァア――。 薄紅のノイズが、花吹雪の姿を象って銀幕を覆い尽くした。 桜舞い散る庭園に面した茶室で、細谷は依然心を鎮めている。瞑目したまま、其の聴覚を研ぎ澄ませた。 風と鳥と水の音に紛れて、長い廊下を踏み締める跫(あしおと)が、鼓膜を揺るがした。 瞳を開き、細谷はおもむろに振り返る。 四角い眼鏡に嵌る硝子が光を跳ね返し、待ち人の姿を映し出した。 ◇ 依頼を終えて世界図書館に顔を見せたムジカ・アンジェロを、世界司書は無言で迎え入れた。 「――パスホルダー、受け取ってこなかったんですね」 パーカーのフードを深く被り、長い前髪に隠されたその奥で黒い瞳が此方を窺っている。僅かに背筋が曲がっているが、陰気さは感じさせない立ち姿。壱番世界によくいる大学生の典型のような世界司書の、見透かすような眼差しを肩を竦めて受け流し、ムジカはわらった。 死刑囚として彼自身の世界に囚われた由良久秀に帰属の兆候が見られた。 予言の書でそれを覗き見た世界司書から、嘗て彼に最も近しい場所に居たムジカにこうして依頼が回ってきた。――だから、面会を装って彼に逢いに行ったのだが。 「彼自身に帰属の意志が無いようだったから。再帰属は個人の意志に沿わなければならないのだろう?」 ムジカは肩を竦める。悪びれる様子は一切なく、それが自然だとでも言いたげな様子だった。 「そう言うだろうと思っていました」 だから正式な手続きは取らなかったのだと、世界司書は苦笑して言う。ムジカもまた手渡された往復のチケットが私的旅行に用いられるものだと気づいていたし、今更彼の帰属を世界図書館が気にする筈もないだろうと知っていた。――彼があの世界を離れる事は、もう永劫ないだろうから。 「彼に待ち受けているのが“死”の他にないのだとしたら、真理数の有無は些細な問題だと思ったんだ」 矢張りと云うべきか否か、世界司書はそれ以上糾弾してこなかった。 銀幕は移ろう。 白金のノイズがぶれて、山道を往く車の姿を映し出す。 擦れ違うのも難しいほど狭い道路の脇に車を寄せる。ワインレッドのミニバンが放つ、使い込まれていても尚気高い色彩はこんな山奥には不釣り合いだ。森側の扉が開き、艶やかな紅は運転席から男を一人吐き出した。 長身の、瀟洒な出で立ち。白金の髪が、風に靡く。 光射さない深い山の奥に在って尚目を覆うサングラスを外さないまま、男は躊躇う事もなく森の中へと分け入っていく。 男は暫く其処で何かを探していた風だったが、やがてうねり曲がった樹の脇に屈んで、しなやかな指先で土を掻き分け始めた。手が泥に汚れ、爪の間に土が入り込むのも厭わない姿。 指先が何かに触れる。 「――見つけた」 サングラスを外し、緑灰の瞳を細めて男は微笑む。 まるで愛しい誰かの消息を掴んだかのように。 「――?」 ふと、何かに気づいたように男は懐から手帳を取り出し、開いた。銀幕に大写しになるのは、臙脂色のトラベラーズ・ノート。 ここ最近誰ともやり取りをした覚えのない、真っ新な紙面に、血のように湧き出る赤いノイズ。それは静かに蠢いて文字を築き、ムジカの前に現れた。 『明日、処刑される』 懐かしい筆致だ、と思った。 そして、狂乱とも絶望ともつかぬ、取り乱したような筆跡に軽く苦笑した。此れだけの時間がありながら、未だ覚悟の一つも出来ていなかったのか。相変わらず生き汚い男だと思うものの、その醜いまでの生への執着こそが、彼の性質が変わっていない事を如実に顕わしていた。――恐らく、この後に続く言葉は、 『 助けてくれ 』 震え、蠢く赤いノイズ。ノートの紙面から溢れ出る鮮血のように白を浸蝕し、殺人鬼の文字は期待通りの命乞いを吐き出した。 これらの文字は確かに、彼の血肉の欠片なのだ。 最期の希望を砕いて、溶かして、書き綴った、絶望の残滓だ。 「おれなんかにそれを頼んでいいのか?」 苦笑いと共に、物言わぬ紙面に問いかける。おれに弱みを見せるのは厭なんじゃなかったのか。 同時に、最期に縋る相手が自分であった事に、昏い歓喜を抱く。 ――つまり、おまえの故郷すら、おまえを必要としなくなったわけだ。 そう思いはしたが、返信を綴るのは已めにした。 安易な言葉で彼を堕落させるのは、己の望むところではなかったから。 白金のノイズが、光のように銀幕を覆う。 独房から連れ出される殺人鬼。両脇を抱えられ、子供の駄々のように暴れ泣き叫ぶのを無理矢理引き摺られていく無様な姿。壁を、床を、刑務所を覆っていた血塗れのノイズは払拭され、光のような白金が代わりに彼方此方に散っていた。――死刑囚に貼りついた死の翳を拭い去るかの如く。 床が開き、縄を掛けられた死刑囚の身体が落ちる。 ――その瞬間、処刑場の地下を眩いまでの光が覆い尽くした。 光はすぐに已み、中空に佇む一人の男の容を象る。三対の翼を備えた、背の高い天使の姿。翼を模した銀の仮面で顔立ちは判らない。 天使は腕を伸ばし、落ちてきた死刑囚を難なく受け止める。 首から伸びた縄が撓る前に其の身体を支えると、翼を羽撃かせた。一条、翻った翼から放たれた白い光が刃に代わり、的確に縄を切り裂く。 ――ガラスの壁の向こう側で、処刑を見届ける刑務官が目を見開いている。大写しになる其の瞳に、天使から毀れる白金のノイズが煌めく。 ひどく、現実味のない光景だった。 処刑場に顕れる天使。ノイズが翼から落ちる羽根のように降り注ぐ。死刑囚を――殺人鬼をその翼と腕に閉じ込めて、薄暗い死の翳を羽ばたきで振りほどく。溢れる光。一瞬が、まるで永遠のように思われた。 銀の仮面の奥から、男はわらう。 あまく密やかに、あいの詩を紡ぐように。 呆気に取られる刑務官らの前で、天使は三対の翼を畳むと己の身体を覆ってしまう。白金の髪も、白銀の仮面も、死刑囚の姿も純白の翼の向こうに消えて、――次の瞬間、再び溢れた光の中に、その翼の色さえも融けて消えていた。 『――噫』 眼前の美しい光景に、彼らを嘲笑うような幻想の介入に、ただ感嘆の息だけが零れる。 今目の前で起こった事を“脱獄”と称していいのかすら、彼らには考える事も出来なかった。 《 The Angel Of ―― 》 『――その光景を何と捉えて良いのか、私には判らなかった。脱獄と呼ぶには意味不明に過ぎ、夢と呼ぶには妙に現実感があった。仮面の奥から天使が微笑みかける、あの緑の瞳の色までも確かに覚えている。――』 「……おい」 声を掛けられ、ムジカはふと視線を上げた。開いた本越しに、不機嫌そうな貌と目が合う。眉間に皺を寄せ、落ち窪んだ翳のある黒い瞳が、物言いたげに此方を睨んでいた。 「どうした、由良」 本を閉じて肩を竦める。視線だけで人を射殺せそうなこの殺人鬼の睥睨を笑って往なせるのは彼くらいなものだろう。むしろ、その睥睨を愉しんでいる節すらある。 「何を読んでいた」 乗り慣れたロストレイルのコンパートメント。ボックス席の向かいに座って窓の外を眺めていたはずの男は、何故か不機嫌そうに其れを問うてきた。会話が弾まず、各々勝手に時間を潰すなどいつもの事であろうに、何故今更、とムジカは首を傾げる。 「おまえの世界で手に入れた。『殺人鬼・由良久秀の真実に迫る――』そんな煽り文が付いていたかな」 しかしその問い掛けには素直に応えると、何故か――今度は理由が予測できるが――由良は再び眉間に皺をよせた。 「不愉快だ」 他人の目を通した己の所業がどれほど歪んでいるかなど、聴きたくも想像したくもない。それを端的に語り、死刑囚であった男は窓の外に目を向ける。 「そう云うな。結構楽しいものがあるぞ」 「相変わらず悪趣味な奴め」 棘のある言葉をわらって聞き流し、閉じた本に視線を落とした。 由良久秀の死刑執行から数年。《天使》に攫われて処刑場から姿を消した殺人鬼の最期は、当初は隠蔽されていた筈が、『真偽の不確かな伝説』として実しやかに語られるようになっていた。真相に迫ると豪語しておきながら、ただ居合わせた刑務官の話を掲載するだけの本に飽き飽きしつつも、ムジカは子供のように密やかな笑みをこぼす。完全犯罪を誰にも見抜かれなかった殺人者とはこういった気分なのだろう。ほしいものは手に入れた。もう望むものは何もない。 ――答えはいつも簡単で、そして一番美しい。 ◇ あかりを見送って数日後。 橡は今日も“首攫イ邸”でひとり、家事に勤しんでいた。 別れの日の翌日、唐突に奇兵衛は朱昏へと依頼に出かけた。優雅に、ゆるやかに過ごしているはずの彼が珍しくきびきびと外出へ向かった、其の違和感の理由を橡は知っている。――彼の威人はああ見えて、情深く気配りの巧みな所がある。覚醒してから百年近くも気を喪っていた橡が外に馴染めるよう、敢えて邸に居座り続けていた事も、今ならば判る。回りくどいその配慮に、「つんでれ」という言葉がやはりしっくりくる、と橡はひっそりと笑い零した。 依頼が予定通りに済めば、今日が奇兵衛の帰還日に当たる筈だった。だからこうして橡は薪を積み重ね、風呂の火加減を調節している。許が紙とは云え人と変わらぬ生活を送れる奇兵衛ゆえ、長旅の疲れを洗い流してもらうにはやはりこれが一番なのだ。 あかりと時を同じくして、彼女の親友だった青年もまた己の世界に戻っていった。彼らは今頃自分の家に帰り、家族との生活を取り戻した頃だろうかと思いを馳せる。寂しい心は未だに在れど、橡にと奇兵衛には彼らの新しい人生をここから祈ることしか出来ぬ。 こうして取り残されるのは、未だ自分の居場所を見つけられていない者ばかりだ。 風呂を沸かし終えて、橡は一仕事終えた充足感と共に立ち上がる。 蔵から“すけぼー”を取り出して、小脇に抱えて小弥太と共に庭へ向かう。奇兵衛の帰りを待つ間、あかりから与えられた課題でもあるすけぼーの練習に励もうと。 「……む?」 ふと、足を留める。 ――門から玄関へ向かう飛び石の上に、見慣れた姿を見つけた。 「奇兵衛、帰って来ておったのか」 何処か茫洋と、空を仰ぎながら佇むその横顔に聲を掛ける。此方を振り向く其の所作がいつにもまして緩慢としていて、訝しく思った橡は小弥太と共に歩み寄った。 艶やかで怜悧であるばかりだった彼の瞳が、彷徨うように揺れて、ゆるゆると、焦点を結ぶ。 「奇兵衛?」 「橡、さん」 橡の名を呼んで、彼を認識した途端に、奇兵衛の頬を涙が伝った。 《 煙雨、頬を濡らす 》 ざぁあ、と降り注ぐ雨にも似た朱のノイズが銀幕を覆い尽くし。 場面は色鮮やかな花の咲き乱れる島国の情景へと移り変わる。 雨が降る。朱色の、暖かで静かな雨が。 朱昏は儀莱(ニライ)にて簡単な依頼を終えた後、奇兵衛は一人椿の集落を散策していた。突然の雨に降られ、紙を貼った傘を作り出し、悠々と温暖な道を行く。日の照りながら降り注ぐ雨は朱く、しかし透き通っていて、咲き乱れる紅の花を煙らせていた。 此の地を訪れるのはいつ以来になるだろうか、と思いを馳せる。最早戻らぬつもりの故郷の情景を垣間見せてくれた、この雨はひどく優しく、酷く無情だと感じた。優しい過去は、訪れる者の心を確かに揺らす。 ――噫、ほら、今だって。 椿の花が咲く生垣の傍に、立ち尽くす青年の影がある。 花を愛でるように振り仰ぎ、雨をその身に受け止めるその横顔を、奇兵衛はよく覚えていた。二度と逢うはずのない、己の手で殺して息子の姿。 ひととき、懐かしさに目を細めて、気が付いた。 ――朱の雨が見せる幻ではない。 彼は確かに、其処に居る。確かな儀莱の住人だという事に。 奇兵衛は表情に出さぬまま、愕然とした。腕を組み、袖の中に隠した指先が震えているのが解る。 ――畏れているのか。間逆、この私が。 何故、どのような経緯で彼が此処に居るのか、それは判らない。ひょっとしたら魂だけが覚醒して流れ着き、そのまま此処に居ついたのやもしれぬ。この世界は数多の魂に寛容だ。有り得ぬ話ではないと己で納得する。 足を留め、先に進めないでいる奇兵衛を振り返り、青年は緩く笑った。他の住人たちと同じように、旅人を歓迎する。 その笑みには、思い詰めたような貌も、己の生を悩んでいるような節もない。 全ての情念から解放された、赤子のような貌を前にして、奇兵衛の裡からも何かが確かに抜け落ちたような感触を覚えた。 「ひととき、ご一緒しても宜しゅう御座いますか」 そう乞えば、青年は破顔して頷いた。 通り雨が上がるまで、世界を別たれた親子は嘗てのように、穏やかに過ごした。奇兵衛の見せる術を、青年は初めてのように眺め驚き喜んだ。椿の蕾を象った紙細工が、生垣の花にも負けぬ鮮やかさで咲き誇る様子に、どうやって動かしているのだと熱心に問われたりもした。幼子のような無垢な態度に奇兵衛は微笑み、ただ懐かしむ。 別れ際、青年の掌に載せられたのは、小さな紙細工。ひとりでに羽ばたく鶴の意匠は、幼い頃に与えたものと同じ。 しかし彼はまるで初めて受け取ったもののように驚いて、にこやかに礼を云った。 「どうぞお健やかに。――どうか、お幸せに」 嘗て奇兵衛の息子であった彼は、此の地で新たな生を迎えるのだろう。 それは奇兵衛の与り知らぬ、全く無関係の人生だ。 だが、その人生が幸多からんものである事を、奇兵衛はただ祈る。 望みの一つが叶った。 此の地で彼と出逢う事が出来て、よかったと思う。 ――それから、再び降り始めた朱の雨に打たれるがまま、奇兵衛は0世界へと帰還した。 茫然とした面持ちで首攫イ邸に戻り、此方へと歩んでくる橡の姿を捉えて、何かの糸が、ふつりと途絶えたような感覚がした。 「!? ど、如何した」 ――視界が歪む。 出迎えてくれた橡が、面喰ったように取り乱すのが見える。否、すぐに視界が塞がれ、それもわからなくなった。何事ぞと己の目尻を擦れば、冷たく濡れた感触がある。――噫。涙か。 人前で涙を見せるのは初めてだ。みっともない、と思いはするが、涙は止めようとする傍から溢れて止まらない。口を開いてしまえば嗚咽が止め処なく溢れ出そうで、唇を引き結び、代わりに橡の袖を強く握った。――たまには橡を頼るように。つい先日別れたばかりの少女の聲が、脳裏に蘇る。 橡は一度、戸惑いに視線を彷徨わせ、しかし何かを決心したように奇兵衛の貌を己が肩に引き寄せる。その泣き顔を誰にも見せぬように。 そして、足許でくぅんと鳴き不安げに二人を見上げていた小弥太へ声を掛ける。 「小弥太、邸に戻っていてはくれぬか。――天気雨がな、降っておるのだ」 くぅん、と再び一鳴きして、小弥太は縁側へと駆けていく。はじめは奇兵衛を警戒していた彼もまた、いつの間にか同居人として認めていたのだろう。 情深い威人は、橡の胸の中で一頻り涙を溢し続けた。 ――雨が降る。 誰の目にも見えぬ、透き通った雨が。 ◇ 咲いている。 わらっている。 血の海とも見紛う、朱野の群れが。 《 団栗の約束 》 ざわり、と鮮やかな朱の花が風に靡く度、花弁がノイズとなって黄昏の空に散っていく。朱野原は見渡す限り何処までも続いていて、野辺を、山を錦の如き鮮やかな色に染めている。紅葉よりも尚赤く、黄昏よりも尚不穏な色彩が、銀幕を覆い尽くしていた。 朱の花畑を掻き分けて、一人の娘が画面の中央を進んでいく。娘の纏う白い小袖は黄昏の色に染まる。朱野の群れは波紋のように震え、まるで入水の為に海を掻き分けていく姿にも重なって見えた。 ――団栗を取りに山に入ったこと、覚えてる? 娘は歩きながら、振り返る事もなく銀幕の此方側に問いかける。画面に映らない何者かが、若い青年の聲で嗚呼と応えた。朱と黄金の合間に異質な青のノイズが奔る。朱野が原を往く娘の姿が擦れ、ぼやけて、一回り小さな少女の姿へと変質した。同時に彼女が往く朱の海が、深く青い森へといろを変える。 ――どちらが沢山採れるか、あんたと競争になってさ モノローグは淡々と情景を語る。 青いノイズに包まれて、少女は夢中になって山を掻き分けていく。そっちへいったらあぶないぞ、声変りを迎える前の少年の忠告にも耳を貸さず、あたしのほうがいっぱい採れるんだから、とむきになった少女は山の奥へ奥へと向かっていった。年頃の闘争心のようなものだろう。意味もない背比べで爪先を立てるような。 そして、幼さゆえの無謀で山を侵した娘は、ふと我に返る。 ――あたしむきになって、気付いたら自分が何処にいるのか分からなかった 右も左も、前も後ろも茂みに囲まれ、道らしい道はおろか、けもの道すら見えない。太陽は遠く、昏い森の中で視認できる場所にない。方角を喪った少女は、途端に強い不安に襲われた。 闇の奥で、夜の色をした群青のノイズが蠢いている。迷い込んだ哀れな子兎を捕食せんと企むかのように。 少女は歩いた。籠の中に入った沢山の団栗を、村との縁(よすが)のように大切に大切に抱えたまま。しかし、歩けば歩くほど山は深くなるばかり。常々村の大人が脅し文句のように口にする《天狗》に化かされたとしか思えぬほどに。生まれた頃から慣れ親しんできた森は少女の前で違う貌を見せていた。 やがて、少女は山の只中で足を留め蹲る。 足が棒のように固くなって、最早一歩もあるけぬ。木陰の合間から覗く空も、気付けば紫と朱の融け合う黄昏の色を成していた。 ――ふと視界が翳って、訝しんだ少女は顔を上げる。 「――ッ!!」 そして、大きく目を見開いて、息を詰めた。 二対の赤褐色の翼を背負う、ひとでありながら鳥でもあるような、奇妙な姿の男が一人、其処に立っていた。 里の娘か、と鳥は静かに問うた。ひととよく似た見目で、ひとと同じ言葉を繰る妖。得体のしれないものを前にして、少女は愕然と目を見開き縮こまった。 山の深くへ入ってはいけない。《天狗》にさらわれてしまうから。 村の大人に聞かされた脅し文句を、今更ながらに反芻する。ならばこれが彼らの云う《天狗》か。鳥は名乗る事もなく、少女を静かに見下ろし続けた。二対の翼が垂れ下がりながらも横に広がり、大人と変わらない程度の背丈の彼を更に大きく見せる。鴉のような鉤爪を備えた両脚は、しかし鳥の其れよりもずっと大きくて恐ろしい。 団栗の入った籠を差し出して、必死に手を合わせる。ゆるしてください、まよっちゃっただけなんです、おねがいだから無事里に帰してください。幼い少女なりに、御供えの風習を真似て懇願する。 鳥は首を傾けて、少女の差し出した籠を無感動に見下ろしたまま。さては怒らせたかと、少女はますます貌を俯かせ、鳥の姿を見ないように蹲った。 ――そうしたら、なんて言ったと思う 木の実などいらぬ、と、閉じ籠る少女の耳にそう言葉が響いた。 恐る恐る少女が顔を上げると、いつの間にか鳥は少女の鼻先に立っていた。鳥を模した面の奥から、ぎらりと輝く目が彼女を見極めるように捉えていた。 その視線が捕食者の其れのように見えて、あたしにできる事なら何でもしますから、と咄嗟に少女はそう乞うていた。だから助けてください、里まで返してくださいと。天狗はその鉤爪を少女に向ける事もなく、淡々と言葉を紡いだ。 ――そだつまでまつ、って 何を、とは問い返せなかった。 里はいずこぞ。聴かれて、応える前に、少女の身体は宙に浮いていた。――否、飛んでいた。東の果てより宵の迫り来る、黄昏の空の只中に居た。眼下に青く萌える山と、いつの季節でも鮮やかに咲き乱れる朱野原が広がっていた。 少女の意識は其処で途絶え、はたと我に返った時には既に、村の端に立ち尽くしていた。大人たちの名を呼ぶ声が銀幕の裾から響く。あれは夢だったのだろうか、と団栗の籠を抱き締めようとした腕の中は、空だった。 青のノイズを伴った回想は潰え、銀幕の映像は朱野の海に還る。 ――でね、今朝方。家の軒先に、団栗の入った見覚えのある籠があったんだ ――それで、ああ、迎えに来るんだなってわかった ――多分約束、なんだろうね。それなら仕方ないじゃない。 朱の花が嘲笑うように揺れる。娘は半ばで立ち尽くす。空の黄金と大地の朱の狭間で、彼女の白い衣裳はひどく浮ついて見えた。空からでも、地上からでも、其処に彼女が居ると判る。――知らしめているのか。自分は此処だと、迎えに来る誰かに向かって。 誰の元へ行くのか分かるなら、それほど恐ろしくはないんじゃない? 彼女はそう笑ったが、銀幕の外から彼女を見つめ続ける青年には、とても同意など出来ようはずがなかった。 ――あのね、籠の団栗 娘は朱野原の中で佇んだまま、そう続ける。“此方側”へと戻ってくる気配はない。案山子のように両腕を広げながら、鳥の訪れを待っている。皮肉な光景だった。 ――あの時のものじゃないだろうから、採り直したんだと思う 可笑しいよね、と子供のようにわらう。 人智を超える鳥妖の見せる、人間染みた律義さを想う。態々自分の家に届ける為だけに団栗を集める天狗の姿を思い描いて、娘はひどく優しく笑った。 ――彼女は笑っていた。 モノローグの主が変わる。 天狗に選ばれた娘ではなく、その隣に立つ青年へと。 ――不可解にも何処か嬉しげに見える彼女を護ろうと、俺は常に傍にいた。 成長した娘の手が朱野を摘み、籠に積んでいく。小さな村の生業。この國に無限に咲く花は、何故か都で高く売れる。朱野原の傍で畑仕事をしながら、青年はそれを見守り続けた。如何なる理不尽からも守り通すという硬い意志を秘めて。 時は過ぎ、二人の間に婚姻の話が出始めた頃。 青年と両家の親はそれを喜んだが、何故か娘は頑なに辞し続けた。だめ、あんたを悲しませたくない。理由を問うてもそうとしか応えなかった。山の天狗の言葉を信じているのかと問い質しても、首を縦にも横にも振らなかった。 ――いっそ此の侭、俺が連れ去ってしまえたら。 青年の心に昏い影が差し掛かる。 娘はそれを知らず、その日もまた朱野が原へ分け入っていく。その背中が入水を試みる娘のようだと、いつになく青年はそう思った。 ふと、強い風が吹く。朱野原が揺すれる。花弁が千々に散る。 銀幕を、朱のノイズが覆い尽くして。 ――再び収まった時、そこに娘の姿はなかった。 青年は眼前で起きた出来事に唖然と口を開き、しかしすぐに走り出した。娘が消えた朱野原を掻き分けて進む。花弁が散って黄昏を赤く染める。画面は引いていき、暮れゆく空の下娘の姿を探し続ける青年の姿だけを描く。 遠く、山の向こうで鳥影が羽ばたいた。 ――何故彼女が鳥妖の意に応じたのか、俺には未だ分らない。 咲いている。 わらっている。 血の海とも見紛う、朱野の群れが。 ◇ 其の山は、澄んだ朱の色彩に包まれている。 吐く息さえもが朱を帯びる。 淡い色彩の雪に足を埋め、青年は寒さと不安に凍えながら山を往く。――此の地は、何処を眺めても朱い。彼の故郷には鮮やかな朱の花が群生していたが、其れよりも、更に。地上を、天上を、大気中を、木々を、すべてを朱が染め上げる。一面の朱景色の中で、彼だけが、異質な色彩だった。 ――征夷大将軍の命により此の地へと派遣されて幾月。 長らく続いていた神夷との戦も収束を迎え、大河の西に位置する二つの地域は互いに歩み寄りを始めている。だが、西の者は未だ神威を色濃く残す北國を畏れ、積極的な融和は進んでいないのが現状だった。 彼が此処へ遣わされたのも、友好の使者として、そして此の地の文化や神威の由縁を調査するためであった。 北の山に棲む人々は、特徴的な装束を身に纏い、雪に生きる狩猟民族としての険しい面立ちをしていたが、しかしマレビトである彼に対して、予想していたよりも友好的に接してくれた。 恙無く、任じられた月日を過ぎようとしていた頃。 或る冬の日の事だった。 里の子供が一人、山から戻ってこないと云う。 神夷の人々と共に捜索に出て、――山に慣れぬ彼は、一人道を見失ってしまったのだ。 《 カムイマレビト譚 》 ――頬に氷が触れて、彼の意識は浮上した。 否、氷ではない。其れよりも幾分か暖かな、しかし到底人肌とは思えないソレ。ぺたぺたと、彼の頬を、首を、耳を確かめているようだった。 凍り付いたように痺れる皮膚を叱咤し、瞼を持ちあげる。気を喪っていたのか、と茫然と思う。 「――目覚めたか」 其の振動が伝わったのか、彼の顔に触れていた何者かが、安堵するような声を上げた。吹雪を模した朱のノイズの中に、その輪郭が徐々に顕れる。 赤茶色の長い髪。透き通るような、白い肌。 神夷の女と同じ、大きな朱の紋様が走る装束。 感情の乏しい貌立ちで、しかしそれは確かに笑みを浮かべていた。 ――雪女、と云う伝承を、故郷で耳にした覚えがある。 冬の山で男を誘い、帰らぬ者としてしまう女の話を。 目の前の“ソレ”がそうかと咄嗟に思ったものの、疑念を己で振り払う。確かに幼い貌立ちと長い髪、女の出で立ちをしてはいるが、かれは――そう、彼は少年だった。 ゆきおんなか、と震える唇で問えば、彼は目を小さく見開いて、しかし首を横に振る。 「嘗ては。……だが、今は違う」 自嘲するように僅かに笑んで、赤茶色の瞳で遠くを見る。 「俺は《コンルカムイ》――この山の守護者だ」 少年の名乗る其の言葉を、彼も耳にした覚えがあった。それは彼が今踏み込んでいる霊峰そのものの名前であり、だが――神夷の民は、何故か特定の人間の事を指し示すように、其の名を用いる。 訝しみ、そして、彼は気づいた。 コンルカムイと名乗った少年の周辺には、荒れ狂う朱の吹雪が届かないのだ。少年の隣にいる彼もまた其の恩恵を受け、雪山の中にあるというのに、先程よりも温もりを保てている。 其処に人ならぬ何かを垣間見て、青年は其れ以上の詮索を已めた。此れ以上踏み込んでしまえば、後戻りはできなくなる気がした。 「何故、こんな深くまで来た」 「……里の子供が一人、山で行方を晦ませた」 しかし彼自身に邪気や悪意のようなものは感じられず、無垢な調子で問われれば、つい素直に応えてしまう。 「……神夷の民ならこの季節に山へは入らぬだろう」 「噫、おれもそう思う。だが、あの子は帰ってこない」 淡々とした問答の末、青年もまた危険を顧みず山へ分け入った事実を汲んでか、彼は青年の言を信じる事にしたようだった。人の気配をさがそう、とぼうやりと呟いて、青年を先導した。 霊峰の事を細部まで心得ているのか、ほどなくしてコンルカムイはとある祠の前で足を留めた。視界は変わらず、朱に染まっている。 「――彼(あれ)か」 そういって指さした先には、ほっそりとした、背の高い少年の後姿。 朱吹雪の向こうの何かと対話を交わしているような――。 「チクペニ!」 「――ッ」 思わず、名を呼ぶ。隣のコンルカムイが、僅か動揺したように身を震わせたようだった。 少年の黒い瞳が、彼らを視とめた。聡明で好奇心あふれる子供は吹雪を畏れもせずに此方へと駆けてくる。雪道をまろぶように降りてくる少年を抱き留めて、其の身体に怪我がないかを確かめる。 「こんな遅くまで何をしていたんだ!」 心配していたんだ、と怒鳴り付ければ、少年は其れに怖じもせず、応えを指し示すように背後を振り返った。 「レタルカムイ」 少年が呪文のように唱えたのは、神夷の者が用いる言葉。 名を呼ばれて、応えるように一瞬、朱吹雪の向こう側に白いノイズが煌めいた。 其れは影。 巨大な、白い獣の気配。 荘厳ですらあるその神威に、青年はふと背筋が凍える錯覚を覚えた。 コンルカムイもまた、白い影の消えた方向をじっと見つめていた。その瞳に郷愁に似た色が窺えて、青年は幽かに首を傾げる。 「コンルカムイ?」 「――噫。否、なんでもない」 問いかけても、茫洋とした表情のまま、首を横に振るだけで応えようとしない。コタン(里)まで送ろう、と二人を先導し、彼は雪の上をするすると歩き出した。 吹雪の吹き荒れる音に紛れて、高く澄んだ聲が響く。 聞き覚えのない、神夷のユーカラとも違う節で、コンルカムイが謳っている。子供ながらに博識なチクペニでさえもその唄を知らぬらしく、首を傾げながらも聲に聞き入っていた。 まるで重みが無いかのように、高く積もった雪に埋もれる事もなく、コンルカムイはその上を往く。彼自身が氷雪そのものであるかの如く。人によく似ていながら、決して人ではないその姿は美しくも何処か怖ろしい。 かどわかされているのかと警戒を強くするものの、里の子供の中でも特に神威に近しく、霊と人との分別を付けられる筈のチクペニが何も云わず彼に随うのを見て、青年もまた其れを疑うのは已めた。此の地のカムイは此の地の者のほうが詳しいだろう。 ――ほどなくして、彼らの目の前が大きく開けた。 木々が二手に分かれ、人はおろか荷車も通るほどの広さを持った道が、まっすぐに山の裾野へと伸びている。 「この路を降りて行けばコタン(里)へ帰る事が出来る」 コンルカムイが、吹雪に覆われる視界の先を指し示した。 「有り難い」 短く礼を言い、山を降りようとした青年を引き留めて、少年が振り返った。 「レタルカムイを、宜しく頼む」 あらゆる事象を見透かすような、チクペニの聡明な瞳がコンルカムイを真っ直ぐに見上げている。 目映いものを仰ぐように目を細めて、霊峰を預かる青年はゆるゆると、ほどけるような笑みを浮かべた。 「噫」 そして、それとだけ頷いて、ゆっくりとした足取りで踵を返す。 アイヌ(人)はアイヌのコタンに。 カムイ(神)はカムイのコタンに。 ――此の地に生きる命は、互いに一線を置きながら、隣り合い手を取り合って共に暮らしているのだ。 山を覆う吹雪が、一層強く荒れ狂う。 淡い朱の色彩が瞬間彼らの視界を埋め尽くし、――すぐに風は已んだ。 先程まで其処に在ったはずの、コンルカムイの姿は既になく。 ただ朱の雪に紛れて、白い桜の花弁が何枚か、風に舞っていた。 ◇ 五色の燈が川を流れていく。 朱昏での年越しの夜、“龍燈祭”。数多のロストナンバーたちも慰問に訪れる、龍王との語らいの日だ。 《 風露新香隠逸花 》 水面を跳ねるように駆ける、四匹の狐の姿が在る。 二尾の親狐に付き随う子狐たちは、めいめいに小さな酒樽を抱えていた。 「ぬしよ、我ぁは今年も呑みに来てやったえ」 酒樽を背負い顕れたその金茶の獣に、朱金の獣が顎を擡げてゆらりとそちらを仰ぎ見た。その隣に添う黄金の燈火は、ただ瞬きめいて揺れるだけ。 「また来たのか」 燈火と同じ色の瞳を細め、朱金の縞模様の毛並みを持った巨躯の獣がわらう。その頭上には朱昏のものとは違う真理数。年に一度、この日だけ異世界への渡航を許される、0世界の住人が其処に居た。 「ぬしこそ」 酔狂な御仁だ、とわらう虎猫に、狐は嘲りの色に似た、しかし蔑みのない笑みで応える。この世界司書とは、世界図書館の他に毎年こうしてこの場所で顔を合わせ、すっかりと顔馴染みとなっていた。彼も彼で、己の覚醒時に助けになったと言う龍王に未だに恩義を感じているようだ。猫の癖に律儀な獣よ、と心中で笑み零す。 『そも、汝は我に逢いに来たのではなかろう』 淡々と告げる黄金の燈火の、その声音に呆れたような色が含まれているのを、酒を囲む二人だけは気が付いていた。虎猫は同意を示すように目を細め、狐は不服そうに目を眇める。 「当たり前じゃろう」 そして、唇を尖らせてそう言う。 「ぬしは好かぬ。じゃが我ぁは此処からの眺めを気に入っておるのじゃ。年に一度しか来られぬゆえ仕方あるまい?」 ――朱金のノイズが、ざらざらと画面を彩っていく。 憎まれ口を叩きながらも、逸れ狐は朱昏へと通うのを已めなかった。 野山を地元狐に紛れて駆けまわり、野鼠を捉える狐の姿がある。艶やかな金茶の毛並みが風に靡く。二尾を揺らめかせ、狩を成功させた上機嫌に目を細める。 公娼街《朱雀縞原》の、朱硝子から降り注ぐ光の下を歩む色男の姿がある。時折、気紛れに顕れる謎めいた美丈夫は遊女たちの間ではすっかり馴染みとなっていて、大通りを歩くだけでかけられる声を軽やかに躱していく。 碁盤の目のように整然と形作られた朱煉瓦の街で、自らの居場所を見失って泣きじゃくる子供の姿があれば、その前には稀に、金の髪を靡かせた和装の少女が顕れると云う。 「ぬし、逸れたのかぇ?」 そして、嘲笑うようにからかいながらも、少女は迷子を人通りの多い場所へと導いてやるのだ。 ――そんな事ばかりを繰り返すからか、それから数年後には彼の頭上に真理数が浮かび始めたのも、至極当然の事だったのかもしれない。 同行者にそれを指摘されて、逸儀はからからと笑い飛ばした。 「愚断ここに極まれり、じゃのぅ」 そしていつものように、龍燈祭の場で龍王をそう嘲った。 温厚な世界司書が眼差しを鋭くするも、狐はそれに応じない。――彼の司書は嘗て、ロストナンバーとして朱昏の真理数を抱いた事があると、人伝に聞いた覚えがある。其れを諦めざるを得なかった自分の目の前でそんな事を云うなど、と許せなかったのだろうか。だからどうした、と酷薄な笑みを浮かべて狐は更に煽る。 「我ぁを受け入れてよいのかぇ、朱昏の王よ」 龍王は応えない。 逸儀の頭上に真理数が瞬いたという事は、即ち彼の王が逸儀の帰属を認めたという事実だ。愚かな事をしたものだ、と狐は嗤う。 「我ぁはヒトも喰らう。王にも神にも従わぬ。欲も業も深い妖物よ」 逸儀と名付けられた狐の、生まれついての本性は叛逆と外道。 如何な世界をその手に総べる龍王だとて、我を制御できるなどと思い上がるな――世界を相手に暴れつづけた狐はそう謳う。他ならぬ王自身が帰属を認めた旅人が、嘗て西で暴れた白虎神よりも支離滅裂で、東で暴れた天神の末裔よりも執念深い叛逆者に成り果てたとしても後悔せぬか、と。 『――狐よ、怖じているのではあるまいな』 しかし、龍王の具現たる黄金の燈火は、静かに其れとだけ応えた。 逸儀は目を瞠る。何を愚かな、と再び笑みを貼り付けようとして、しかし其れは遮られた。 『我が世には絶対の輪廻が在る。其れは人も邪も聖も同じだ。――其処に外道は無い。外れられる道もまた』 此の朱昏では、全ての命は、全ての魂は死した後儀莱へと流される。逸儀自身はその地を目にした事はない――まるで畏れるかのように、彼は儀莱を忌避し続けてきた――が、全ての執念と欲求を洗い流した、おそろしく空虚で美しい場所なのだと聞いた。 そう、朱昏に帰属してしまえば、『逸儀』とて輪廻の流転から外れられる事が叶わないのだ。異なる世界で与えられた性質も、言霊による呪も、全て浄化される。慈悲深く、無情な王の采配によって。 『汝とて、儀を逸れる事叶わぬだろう』 此の世に来てしまえば、彼の許には何も残らないが、其れでも構わないのかと。 世界から弾かれた逸れ狐に、龍王は改めてそう問い質した。 「――~~!」 逸儀は目を瞠り、そして歯噛みした。 ――矢張り、腹の立つ王よ。長年の善政も、全ての魂に分け隔てなく贈られる慈愛も、王としての器も。すべてを認めたうえで、矢張り彼はこの王を好かぬ。 それは子供じみた反抗心に似て。 未だ彼には、其の怒りの意味を認める事は出来なかったのだ。 「ッ、ぬしのその余裕が好かぬ! ほんに引っ掻き回してやろうかぇ!」 『できるものなら』 静かな笑みが降る。 その聲に応えてか、世界計の上方に設えられた文字盤が、水面のように揺れて情景を映し出した。 ――朱の樹氷の上に座り、ぼんやりと詩を口ずさむアイヌ衣裳の少年。霊峰に棲まう氷神(コンルカムイ)。 ――白装束の妻を新たに娶り、神夷にほど近い山に居を構えた、木行の天狗(あまきつね)。 ――花京の城に留まり、その身に宿した金行の宝珠を以て将軍家の治世を補佐する《西国の守》。 ――変わらず東雲宮に留まり、皇国の為半神半妖となったその身を尽くして妖力を揮う《東国の守》。 ――南の島に揃う十の祝女と神宝に抱かれて、穏やかな眠りに就く天神。 再度道が繋がってからのロストナンバーたちとの交流、そして國を揺るがす事件を通して、朱昏に築かれたのは、これまでよりも更に強固な体勢だった。 其れを目の当たりにして、狐はいよいよ言葉を喪う。 そして、半ば八つ当たりのように新たな酒樽に手を伸ばし、虎猫の制止も聞かず飲み干していった。 「――逸れられぬのであれば、我ぁは何になるというのだ……」 酩酊し、虎猫の背に縋り付きながらぼやく金狐を、皆が優しく見守っている。 「何でもいいんじゃないかな」 「……なんでも?」 木天蓼酒をなめながら虎猫は応える。ぐずるように、狐が反応を返した。 「そう、何でも。君は『逸儀』という名前に縛られず、何にでもなれる。其れをこの世界は容認する」 優しく、柔らかく。 諭すようにそう語る虎猫の聲を、唖然とした表情を繕う事も忘れ、酔いどれ狐はただ無言で聞き届けた。 夜明け前の空が白み始める頃。 東の空より、朱の光が横薙ぎに中州を照らす。 「酔っ払いを何故止めぬ、さっさと追い払えばよいモノを!」 ――などと喚く主を支えて、三匹の子童が銘々に龍王へと頭を下げる。 「此のようなあるじ様ですが」 「此の地をそれなりに気に入っておられるのです」 「此れからも何卒よろしくおねがいいたします」 丁寧に主の無礼を詫びるその三匹が、使い魔でも式でもなく逸儀の分体そのものである事を知る者は居ない。 『またいつでも参るがよい』 穏やかな龍王の聲が降り注ぎ、 そして、今年の龍燈祭も恙無く終わりを迎えるのだった。 ◇ カラ、カラ、カラ――フィルムは回り続ける。 虹色のノイズを煌めかせて、無人の劇場は光に溢れる。 《無窮》のフィルムは、未だ暫くは終わりそうになかった。 ◆ 住み慣れたこの部屋は、いつ見ても伽藍としている。 物を持たぬ性質故か、それとも己が此処の住人ではないと心の内で思っていたことが表に現れたか、空虚を自覚する己の頭では考え至らなかったが、しかし今となっては好都合でもあった。軍帽を脱いで、ヌマブチは紅の瞳をゆがめるようにして細くする。 ――自分は明日、此処を立つ。 父の代からの付き合いである大家には既にそれと告げた。彼女は寂しくなるわね、と笑いながら、それでもヌマブチの念願が遂に達せられることを喜んでくれた。それに罪悪感を抱くでもなく、ヌマブチは頭を下げただけだったが。 発見以降、故国には何度か足を運んだ。 自分がのうのうとしている間に、戦争は終わったらしい。身を挺してまで庇った上官の生存は真っ先に確認したが、共に戦った部下たちの行く末まではすぐには判らなかった。将校でもないいち兵士の末路などそんなものだろう、と安堵も落胆も覚えぬ、己の欠落をただ自覚するばかりだった。 案の定、身支度はすぐに済んでしまった。 時間を持て余し、ヌマブチは行く宛もなく通りに足を伸ばす。何年、何十年経とうと変わらぬターミナルの空は青く、朗らかな光を降らせ続ける。 ふと、ヌマブチは画廊街の片隅で足を留めた。 ――シネマ・ヴェリテ。 訪れる者の真実を描くといわれる映画館。 己もかつて、一人の少女と口論を結ぶために彼の扉を潜ったことがある。思えばそれも随分と昔の事のように感じられ、ヌマブチはふと「OPEN」の札が下がる入り口から館内へと入り込んだ。 「――もし、何方か」 声を掛けてもいらえはない。 どうやら留守のようだ、と見切りをつけ、ヌマブチはしばし立ち尽くす。そもそも映画を見に来たわけでもなければ、かつてのフィルムを受け取りに来たわけでもない。技師を呼び出してどうしようとも考えていなかったのだから、これはこれで構わないか、とすんなりと受け止めた。 「それにしても、不用心な」 "人らしくある”だろう言葉を吐いて、そのまま奥の劇場へと進む。 重い扉を押し開けて、いつかと同じように訪れたシアターは、ベルベットの座席を広げ、白いスクリーンをぶら下げたまま沈黙していた。 映写技師がいないのだから当然と言えば当然だが――何処か、伽藍とした印象を受ける。ヌマブチの棲んでいた部屋に感じたものと同じ。敢えて云うならば、この胸に巣くう虚とも同じ、味気ないほどの白。 客席に誰も座っていないのをいい事に、まっすぐにその合間を突っ切る。座席の中段右側、通路寄りの席までやってきて、ヌマブチは足を留めた。 其処はかつて、ヌマブチが黒猫の少女と口論を交わした時に座っていた席だ。この席から見る銀幕は大きく、二人の擦れ違う――決して交錯しない想いを描き出した。今はただ白い幕が垂れ下がっているだけ。じっと目を凝らしてみても、あの日のように黄金のノイズが散ったりはしない。 ――我ながら大人げない事をしたものだ、とヌマブチは形だけの苦笑を刷いた。 決して穏便に、と言う訳にはいかなかった。己は必要以上に苛烈な言葉で以って、彼女の視るヌマブチの偶像を壊し、彼女の望みを粉々に砕いて見せたのだから。無論平手打ちの一つも覚悟していた。 だが、演技に包まれた甘い言葉と態度を彼女が望んでいたかといわれれば、否だ。彼女は心から己に愛を望んだ。だから、真摯に否を返した。それだけだった。 自分は残される者の苦痛に鈍感だと、ヌマブチはそう認識している。 秤に掛けられること、切り捨てられること、望んだものを返されないこと。空疎なこの心は、それらの痛みを未だに理解できないでいる。酷なことをしたのだろうとは理解しているが、それは実感ではなかった。 だが、彼女は違う。 空虚な人でなしである己とは、違う。 豊かな心と、少女らしい感受性と、深い愛情を持っている。嘆き、喜び、傷つきながら、前へと進んでいく事が出来る。彼女ならば残される者の痛みを測り、寄り添う事が出来るだろう。 ――彼女は《夢守》として竜刻の大地に帰属したと、以前知人づてに聴いた。 別れを告げに往こうか、と考えはしたものの、今更こんな人でなしの貌など見たくもなかろうと実行には移さなかった。 ――有り得ない話だと我ながら思うが、若しも。 若しも祖国が見つからず、ヌマブチがロストナンバーを続けている間に彼女が年を累ね、あの日見た金のフィルムに映る女性のように美しく育っていたならば。 もう一度、肩を並べてみてもよかったのかもしれない、とヌマブチは思う。 だが、それはもはや有り得ない話となった。 ヌマブチには彼女との聲ならぬ約束よりも、祖国への帰属の方が重かった。それだけの事。 彼女は己の意志でヴォロスに帰属した。 そこにヌマブチの介入はない。 彼女の父母の束縛もない。 彼女の人生は彼女のものになった、ならば、己などに煩わされる必要もないだろう。ヌマブチは人が良くやるように、軍帽の下で薄く笑みを刷いた。 『 生きろ 』 あの日と同じ、黄金のノイズを鏤めて。 力強い毛筆の文字がスクリーンを埋める。 咄嗟に振り返るが、背後の映写室には勿論誰もいない。映写技師も、その助手も。映写機の回る音も、部屋から漏れる光もない。立ち上がって確かめに行こうとして、已めた。誰の意志によるものでもない事など明白だ。 再び銀幕と対峙する。 黄金のノイズは変わらず、明滅しながら光を放っている。生きろ。ヌマブチの空虚な裡に飛び込んできたその文字も健在だ。 くつり、と笑みを溢す。発作のように漏れ落ちたソレは、徐々に大きくなっていった。 己ひとりしか存在しない映画館。誰の意図も介在していないのだとしたら、この言葉は。 「成程、僕か」 あの日と同じ、ヌマブチの深層意識を写し取ったとでも云うのだろう。己でも理解できていない部分のこころを。 かつて見た言葉だ、と茫洋と考える。 何処でだったか、と記憶を手繰り、思い出した。ナラゴニアからの帰還直後下宿先で見つけた、己の父親が自分たちに書き綴っていたであろう手紙の結びだ。死ぬな、と。生きてくれ、と彼の父は長らく顔を合わせた事のない息子に向かってそう願い続けた。 生き別れた父親の手紙を読んでも、揺れる情など残っていなかった。彼が何を想ってあの手紙を書き続けていたのか、何を想って手紙を捨てずに残しておいたのか、其れは結局ヌマブチには判らず仕舞いだった。人の心の機微を悟るには、此のこころは虚ろすぎた。 だが、なぜ今になって、父親の遺言と同じ言葉が目の前に現れたのか。其れが判らない。 ――ヌマブチは、己自身の心を探るにも足らぬほど情を欠いていた。それは自覚している。だが、深層意識の、自分でも理解が及ばぬ部分での願いだと云われれば、其れには否定する材料を持たなかった。 一度収まったはずの笑いの発作が、再び込み上げてきた。 其れは自嘲か、歓喜によるものか。理由などヌマブチには判らない。 だが、誰の目もない事をいいことに、くつくつと聲を抑えずに嗤い続けた。軍帽を脱ぎ捨てて、身体を深く曲げて。ヌマブチの中で感情を発露する、何処かの自分の気が済むまで。 「――おや?」 不意に、映写室の側から聲を掛けられて、ヌマブチは我に返った。 眼前のスクリーンに、最早あの文字とノイズは残されていない。笑みの残滓を拭い去る。軍帽を被り直し振り返れば、映写室に続く扉を開けて、いつぞやの映写技師が此方を覗き込んでいた。 「すまない、留守にしてしまっていた」 「いえ、此方こそ。勝手に入り込んでしまい」 立ち上がり、劇場の扉近くへと足を向ける。映画を見に来たわけではない、というさり気ない主張を正しく理解したのか、映写技師は肩を竦めて用件を問うてきた。 「――明日、祖国へと帰属する予定でありまして」 「そうか。フィルムを受け取りに?」 「否。ただ懐かしくなって寄ってみただけだが」 やはり、自分でも、何故この映画館に足を向けたのかよくわからなかった。 いつも通りの鉄仮面で戸惑いを口に乗せれば、映写技師はそうか、と淡く苦笑した。 「……では、某はこれにて」 小さく頭を下げ、ヌマブチは映画館を辞した。 ターミナルの空は変わらず美しい。 ――この、停滞を象徴するかのような永劫の晴天を振り仰ぐのも、今日が最後だろう。 軍帽を脱いで、紅の瞳で真っ直ぐに蒼を仰ぐ。 「倖せにおなりなさい」 遠く、世界さえも違えた遠く、竜刻の大地に根付いた彼女へ向けて、最後の別れを告げる。 何処かで、映写機が動きを止める音が聞こえた。 ――その時、漸く、沼淵誠司と彼女とを繋ぐ縁は切れた。 <了>
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