Epilogue1■フライジング春秋 聖女王オディールの宰相、シオン・ユング=ヴァイエンは、彼だけが入室を許されている女王の私室で、懸案事項の協議中であった。 もう数年前のことになる。異界から降り注いだ災厄のひとつがオディールを襲い、彼女は《黒孔雀》となった。当時、シオンもまた黒鷺と化して、ともに《比翼の迷宮》を作るに至ったが、旅人たちの尽力の結果、災厄は回避された。 《黒孔雀》は卵となり、銀の孔雀の雛が孵化し、ヴァイエン侯爵邸で養育されることとなった。 生まれ変わったオディールはかつての記憶を失っていたが、その成長も知識の吸収も早かった。 3年と経たぬうちに、以前と変わらぬ女王として、玉座に復帰することができたのである。「……シオンよ。ならば、どうしても内戦は避けられぬか」 オディールは、このところ急に大人びて落ち着きを増した宰相を見た。オディール養育の主担当だったシオンが、正式にヴァイエン侯の養子として認められ、女王の勅命により宰相職に任じられたのは2年前のことである。「はい。父とともに説得と交渉に努めてまいりましたが、アウラハ辺境伯の決意は強固で」「わらわの介入すら受け付けぬとは頑迷なことじゃ」「新しい辺境伯は、私が陛下を籠絡しているとお疑いなので、なおのことかと」 アウラハ領とヴァイエン領はその境界を多く接し、旧くより、領土問題に関する諍いが絶えない。アウラハ側はことあるごとに戦火を交えるもやむなしと挑発を重ね、ヴァイエン側は王家の取りなしによる和解を求めるのが常だった。 先だって、事故により足を痛めた辺境伯は長男に家督を譲った。現ヴァイエン侯ラファエルと世継ぎのシオンは、若き辺境伯との関係を今度こそ良好なものにしようと、対話を求めることに余念がなかった。 しかし、それは早々に暗礁に乗り上げた。 新辺境伯は、ヴァイエン側の要請を一蹴し、宣戦布告を行ってきたのだった。「メディオラーヌムのかたがたのご意向や如何に?」 女王は声を落とす。伝説の時代より仮想敵だったヒトの帝国との関係が、自国内よりも穏やかであるのは皮肉なことである。しかしそれも、シオンの姉が皇帝妃となったこと、また、皇太子とシオンが変わらぬ友情を育んでいることに起因する。 宰相シオンに異をとなえるものは辺境伯以外にも多い。《女王の紅きハヤブサ》騎士団長クルト・ヴェルトハイマーなどは「私は認めません」などと公言しているくらいだ。が、あながち、女王の贔屓のみによる人事ではない。 なんとなれば。 シオンが宰相職に就いてからというもの、ヒトの帝国側との意思疎通と相互理解が格段に進展したのだから。「ユリウス皇帝閣下もシルフィーラ皇妃殿下も、戦乱によるヴァイエン領の荒廃は避けたい想いはあれど、公式には非介入となさりたい由」「……ふむ。それは妥当なご判断ではある。しかし、外部圧力が期待できぬとあれば、戦況がまったく読めぬな。ヴァイエン騎士団、アウラハ騎士団ともに、戦力は拮抗しているのであろう?」「ですので事態を打開するべく、勝手ながら内々に、皇太子殿下に要請を」 シオンはテーブルのうえで両手の指を組む。そうしていると、生さぬ仲の父子であるのに、どこかしらヴァイエン候のイメージが重なるのだった。「ほう? して、アルフォンス殿は何と?」「女王陛下のご内諾を前提に、《ヨタカ》と《ヒクイドリ》を、一兵卒としてヴァイエン騎士団に紛れさせても良いと」「夜鷹と火喰鳥とは、もしや、アルフォンス殿の養い子たち、武勇の誉れ高きトリスタン殿とローエングリン殿のことか」 さても一騎当千の戦力よ、ならば戦乱はすぐに終結しようぞ、と、女王はにこりと笑う。 † † 報告のため、ヴァイエン侯爵邸に帰還したシオンを、思わぬ珍客が待っていた。「やっっだー! どうしちゃたのシオンくん、ちょっと見ない間にものすごくかっこよくなっちゃって。えーい、もふっちゃえ」「これは無名の司書殿。どうして貴女がここに……、って、あっそーか、年越し便の真っ最中かー!」 髪やら頬やら翼やらをぺたぺた触られながら、シオンは盛大にため息をつく。「いやー、おれだってさー、もうちょい、とーちゃんのスネかじってのほほんと暮らしたかったわけよ。それがさー」「なかなかどうして、シオンは良くやっておりますよ。女王陛下の信頼も厚く、何よりです」 ラファエルは帰属早々、武装財務官の総括に復職している。ヒトの帝国との緊張緩和を反映し、戦闘にあたることはまず皆無だが、財務官としての業務は山積みだった。「ラファエルさんはぜんっぜん変わらないわねー。どお、その後、女関係のほうは?」「いきなりそれですか。特に何もありませんよ」「他領からの縁談とか、ばんばん舞い込んでるんじゃないの? 公式行事で候爵夫人がいないといろいろ不都合じゃん?」「示されたご好意は尊重したいと思います。ですが、その……、私は『妻』を持つ気はもう、ございませんので」 苦笑するラファエルの顔を覗き込み、ふんふんと司書は頷く。「なるほどねー」「……何か?」「ターミナルにいたときから、ちょっと思ってたの。ラファエルさんて誰とも結婚する気、ないんじゃないかなって。それは恋愛に対するあきらめとか達観とか、壁を作ってるとか、そういうことでもなくって……、うーん、うまく言えないんだけど」 ――ラファエルさんにとっては「父親でいる」ことが、いちばんの愛情表現、ってことなんじゃないかな。誰に対しても。 司書は、ぽむ、と、ラファエルの肩を叩く。「お客様。侯爵閣下やシオン様に馴れ馴れしく触れたりなさいませぬよう」 しずしずと紅茶を運んできた美しいメイドは、司書をきっ、と、睨む。 司書はぱっと目を輝かせた。「きゃーーん。白雪ちゃん、久しぶりー! どお、もう侯爵邸のお勤めには慣れた? どじっこしてラファエルさんの膝に紅茶こぼしたりとかしてない? 慌てて拭くふりしてセクハラしてない?」「あんたじゃあるまいし!」 白雪姫はとりあえず、紅茶を一滴、司書の膝にこぼすのだった。Epilogue2■インヤンガイの九龍城砦「我ながら、いい出来映えだ」 ヘンリー&ロバートリゾートカンパニーの肝入りで、美麗花園跡地に建立された壮大なテーマパーク、「九龍城砦(ガウロンセンジャイ)からの脱出」を前に、ドンガッシュは目を細める。 これは、壱番世界で人気を博している、いわゆる「リアル脱出ゲーム」にならった施設だ。 かつて香港に存在した「東洋の魔窟」九龍城砦に、東京都中野区に現存する「サブカルチャーの聖地」中野ブロードウェイのイメージをプラスしたものであるらしい。 どうしてこのようなことになったかというと。 ――九龍城砦も中野ブロードウェイも、壱番世界における貴重な建築のサンプルですよ、ぜひ、ぜひっっっっ、ドンガッシュさんに再現していただきたいんですそうだ美麗花園跡地とかどうですか運営とかはほらご近所に螺旋飯店があるじゃないですか。 ……などと進言したものがいるらしく、それで…………、 † † 螺旋飯店支配人は、見事に完成した施設の前で、そっと額に手を当てた。「あの……、兄さ……、いえ、ロバート・エルトダウンさん」「何かね、黄龍」「いったい誰が、ドンガッシュにそんな、わけのわからない入れ知恵を」「まあ、いいんじゃないかな? きみは、ナガサキにある『ハウステンボス』というテーマパークを知っているかね?」「いえ、近代の施設についてはまったく」「その敷地の大部分は、エド時代に干拓された水田地跡だ。現在の日本において東京ディズニーリゾートとほぼ同規模であり、単独テーマパークとしては最大の施設ともいえる」「……?」「ナガサキには多くの戦争の爪痕が残っている。ハウステンボスに立ち寄った帰りに、近くの慰霊碑を訪れる観光客もいるそうだ。『人間魚雷』と呼ばれる、非人道的な兵器の出発の地でもあったのでね」 それが美麗花園にどう繋がるのか。 怪訝な顔の黄龍をよそに、ロバートは九龍城砦を見上げる。「さまよえる魂は、今、生きて活動しているひとびとの生命力に触れると浄化される、という説があってね。大勢の賑わいと楽しげな歓声が、鎮魂になる場合もあるのだよ」「趣旨は把握しましたし、螺旋飯店従業員『四神』一同、『罠(トラップ)』としてご協力することにやぶさかではありませんけれど」 すっと、ツインテールの女性が歩み出た。 インヤンガイ特有の、身体の線がくっきりとわかる民族服による、はちきれんばかりの胸もとと、腰まで切れ込んだスリットからのぞく脚の白さが悩ましい。「旅人のかたに容赦はしない、ということで宜しいでしょうか? もちろん命は保証いたしますが、重傷程度は覚悟いただかないと」「それはまかせるよ。協力ありがとう、紅花(ホンファ)」 紅花は一礼して、他の従業員たちを振り返る。 ずいぶんと背が伸びた蒼(ツァン)と、憂いに磨きがかかった墨(ムオ)、白い革のドレスに身を包んだ雪花(ユエファ)が、納得したような、何かひとこと言いたいような、微妙な表情でそこにいた。Epilogue3■激動のクリスタル・パレス ヴァイエン侯爵領とアウラハ辺境伯領との、ちょうど境界――因縁深きイトスギの森の中を抜ける小川を挟んで、戦陣の火ぶたは切られた。 しかし、その瞬間―― ミカエル・マルクス=アウラハは、ふと空を見上げた。見上げてしまった。 そして、そのブルーラベンダーいろの瞳に映してしまった。 宙を駆ける竜のような、列車を。 † †(私はなぜ、このような場所に) こともあろうに、開園したばかりの「九龍城砦(ガウロンセンジャイ)からの脱出」内部に転移し、呆然としていたミカエルが、ロストナンバーたちにより保護されたのはほどなくのことである。「うっわーー!!! びっくりしたぁーー! アウラハ辺境伯って『白いフクロウ』だったのね」 パスホルダーとトラベルギアを渡しながら、無名の司書はしみじみとミカエルの翼を見つめ、目を見張る。「なんかラファエルさんを若くしてきっつくした感じね。親戚か何か?」「ヴァイエン候とは遠縁にあたる。祖母がヴァイエン出身ゆえ」「そっか。お隣さんだもの、婚姻関係も発生するわよね。親戚同士仲良くすればいいのにって思うけど、血族(ファミリー)だからこそ難しいのかもね」「無駄話をしている暇はない。私は至急、領地に戻らねば」 パスとギアを突き返すミカエルを、司書はまぁまぁとなだめる。「ゆっくりしていきなさいよ、ターミナルにようこそー。おねーさん、美少年大歓迎よ〜」 そして、その額をぴたりと指さすのだ。「予言するわ、ミカエル・マルクスくん」 ――あなたは、『クリスタル・パレス』のギャルソンになる運命よ。Epilogue4■「あなた」の物語を聞かせて 図書館ホールで、司書はおもむろに『導きの書』を開く。 そして、この場にはいない、なつかしいひとびとに想いを馳せる。 皆さん、お元気ですか? 今、どうしていらっしゃいますか? こちらは相変わらずです。 新しいギャルソンも入って、……何だか手強い子なんですけどね。 そうそう、カリスさまがご多忙のあまり、フットマンの増員募集をするって仰ったものだから、ジークさんがそわそわしてます。 どうせ圧迫面接に破れて、泣いて帰ってくるって思うんですけど。 あたし? あたしは元気ですよ。 ときどきでいいから、思い出してくださいね。 もしも『導きの書』が、あなたの危機を告げたなら――、 いつだって助けに行くよ、と言ってくれる、旅人たちもたくさんいますから。 あたしはいつも、いつまでも、ここにいます。======<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆するシナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。======
EP.0■司書室にて【リベル・セヴァン】 「リベル先輩リベルせんぱい! 大変です」 リベルの司書室の扉をばばーんと開け、無名の司書が乱入してきた。しかしリベルは顔を上げもせず、報告書を読みふけっている。 それは、今も冒険を続けているひとびとから提出されたものであったり、すでに帰属して久しいひとびとの現況を、会いに行った誰かがまとめたものであったり、あるいは、リベル自身や他の世界司書の『導きの書』に浮かんだ光景を記したものであったりした。 「聞いてますかせんぱい。お願い無視しないであたしを見つめて! 大変なんです」 「今日もニヒツさんが壁の隙間に挟まってましたか?」 「はっ!? なぜそれを」 「さきほども、保護されたばかりのロストナンバーたちの話題になってました。『あの生き物は、どこが頭でどこがお尻なんだろう』と」 「リベル先輩はどう思います? ニヒツさんのお尻の位置がどこであるかについて」 「……それはここで今、論議しなければならないことですか?」 「大事なことです」 無名の司書はどどーーん、と、分厚い報告書をリベルの机に置く。 【ニヒツ・エヒト・ゼーレトラオムさん観察記録】と題されたそれを、リベルはけっこー熱心に読み始めた。 「……なるほど。まったく謎は解けていませんが、行動様式はかわいらしいですね」 「でしょでしょ。リベル先輩、実はニヒツさんのふわもこっぷりが大好きでしょ? くのくのっ」 リベルがニヒツに無表情で萌えている隙に、無名の司書は他のレポートをちゃっかり奪い取った。 「このひとたちのアレコレ、あたしも読みたかったんですよー。どれにしようかな。やっぱ、時系列順でいこうかな」 まずはファルファレロさんのから、と、司書は許可も得ずに、その場に座り込む。 ……今日もニヒツさんが大変なのは、さておいて。 EP.1■レッドテイルド・ホークの選択【ファルファレロ・ロッソ】 ミッドタウンの摩天楼に、そのバーはあった。 ここへふたりで来ることは、ファルファレロとラファエルの前々からの約束で、それがようやく叶った。 明日。 そう、明日。 ラファエルはシオンとともに、フライジングへ帰属する。 「約束を覚えていただいて嬉しいです」 「ったりめぇだ。忘れた訳でもすっぽかしたんでもねえからな」 「そうですか? 私はてっきり」 「ごたごたが片付いてから、改めて誘い直そうと思ってたんだ。お互い都合が合わなくて、ずるずる先延ばしになっちまったがよ」 「感じの良いお店ですね」 あれは何でしょう、と、ラファエルは広い店内の一角を見る。 「DJブースだろ」 「ファレロさんがDJを!? それはぜひ聞いてみたい」 「やらねーよ!」 「面白いつくりになってるんですね。DJブースやライブラリー等、テーマの異なるプライベートスペースが選べて、お客様が求めるシチュエーションに応じての使い分けが可能になっている。カクテルも豊富ですし、バーフードも充実しているようだ」 「店長目線でチェックしてどうすんだ。クリスタル・パレスの引き継ぎは終わったんだろ」 「たしかに、そうなんですが」 ラファエルの横顔は、少し淋しそうに見える。 「今日は無礼講だ。おごってやっから好きなだけ飲め」 「珍しいことを仰る」 「帰属の前祝いも兼ねてな。……前に言ったの覚えてるか。似合いの酒をおごるって」 ファルファレロは立ち上がり、バーテンダーにひと声掛けた。カウンターに入るやいなや、ミキシンググラスに、ウォッカとコアントロー、ブルー・キュラソーを入れ、カクテルグラスに注ぐ。 しなやかな指が器用に動き、やがて、美しいカクテルがラファエルの前に置かれた。 「ブルーマンデー。……憂鬱な月曜日って名前のカクテルだ」 「綺麗な青ですね」 「てめえの翼の色に似てると思ってな」 ラファエルはまじまじとファルファレロを見る。 「ファレロさん」 「なんだよ」 「……先ほどから、口説かれているような気がするんですけども」 「バカヤロ。それに、いい加減、さん付けはよせ」 「いいんですか? 呼び捨てで」 「ファルファレロでもファルでも……。ダチはそう呼ぶ」 「わかりました。では、ファルで」 「あと、もちっと砕けろ。丁重語だと落ちつかねぇ」 「いささか照れくさいけれども。……了解した」 カクテルグラスを持ち上げたラファエルの表情を、ファルファレロは探るように伺う。 「てめぇ、故郷に帰っても結婚する気はねえらしいな?」 「覚醒前、シルフィーラに去られたときに、既にそう決めたんだよ。シオンがいるので跡継ぎの問題などもないし」 「んなこといって、てめぇのことが好きでどうしても結婚したいって女が現れたらどうすんだよ」 「そうだねぇ……。気持ちを尊重したうえで、きちんと何らかの返事をしたいとは思う。寄せられた想いを曖昧なままにしておくことの残酷さは、あの迷宮で身に沁みたのでね」 「まあいいさ。お前の人生だ、好きにしな。愛し方なんて人それぞれだろ」 「ファルこそ、結婚や帰属はどうするつもりだ?」 「結婚は論外だ。帰属する気もねえ。好みの世界は見つかったがよ」 「それはどこかな?」 「挽歌の都市レクイエムとか」 「……ああ、君らしい。決してフライジングなどではないんだね?」 「なんでフライジング。死ぬまでやりたい放題馬鹿やって楽しく暮らすだけだってのに」 「……そうか」 「たまにゃてめえの世界にも寄る。その時はうまい酒だせよ」 「待っているよ」 「……てめえがいねえと張り合いがねえ。でもま、達者でな」 これやる、と、ファルファレロは無造作に渡す。青い指輪に紐を通しただけのペンダントだ。 「ダイヤかな? 大事なものでは?」 「安物のジルコニアだ。野郎に指輪を贈る趣味はねえけど餞別代わりにな。一応、俺とお揃いだ」 「ファル」 「嫌なら捨てろ。けどまあ、身につけてると悪運に恵まれて長生きできるって噂だぜ。俺が生き証人だ」 ……生きてりゃ、また飲む機会もある。これが最後ってわけじゃねえ。 ウイスキーグラスに反射するひかりを、ファルファレロは見つめた。 「結婚はともかく、好きな女ができたら真っ先に教えろよ。速攻寝取りに行く」 「はは」 「……なんてな、冗談だよ」 「ファル。この機会に、君にいいたいことがある」 「何だよ」 「君はいい加減、娘さん離れするべきだし、生来のナイーブさを押し殺して刹那的な生き方を極めるのもどうかと思う」 「言うに事欠いて……だれがナイ……ッ!」 「君が心配だ。放っておけない」 「おい」 「このままではいつか、君は非業の死を遂げる」 「……それがどうした。面白おかしく生きた挙げ句どこで野垂れ死にしようと、俺の勝手だろう」 「そのとおりだ。だが、それでは私が淋しい」 「てめぇ」 「いますぐでなくていい。フライジングへの帰属を考えてみてはくれないか」 「んだと?」 「私のかけがえのない友人として、良き隣人として、比翼の大地で暮らすことを視野に入れてほしい」 「……俺はなぁ、ンなぬるい生き方は性に合わねぇんだよ」 「決して、ぬるくはないよ。何しろ私は、君が思ってくれているほどには善良一辺倒の気性ではないし、武装財務官統括の業務も綺麗事では解決できない局面が多くてね」 ブルーマンデーをひと息に、ラファエルは飲み干した。 「私の故郷は、君が好む世界ではないのだろうと思う。しかし、決して平和な世界というわけではないんだよ。ヒトとトリの対立は一応の収束を迎えたけれど、『仮想敵』がいなくなった以上、今後はそれぞれの大陸での内戦が増えるだろう」 ……ファル。私と一緒に、新しい世界で戦ってはくれないか。 摩天楼を滑空していたレッドテイルド・ホークを一羽、ヴァイエン領に迎えたい。 ファルファレロは何も答えずに、二杯目のカクテルを作る。 EP.2■その帰還【フブキ・マイヤー/ダンプ・ヴィルニア】 フブキとダンプが彼らの故郷を見つけたのは、北極星号の帰還を経て、三ヶ月後のことだった。 「それにしても、果たして……」 「うむ。本当に、それがしらの世界かどうかは実際に見て見ぬことには分からぬが……」 楽しみでござるな、と、ダンプは感慨深げだ。 ――実に。 ――本当に。 しみじみと、ダンプは繰り返す。 「四年ぶりか」 愛妻家で子煩悩なフブキは、覚醒して以降、ずっと家族を案じていた。 妻にとっても子どもたちにとっても、四年の月日は長い。 娘のシラユキと息子のハツユキはどれだけ成長しているだろう。 妻は元気だろうか。 心配のあまり憔悴してはいないだろうか。 その世界に到着してもなお、彼らは《駅》から出なかった。 ロストレイル内に待機したまま、夜になるのを待ったのだ。 「この国では、それがしのような存在は敵でござるからな」 ダンプは吸血鬼となってしまった身だ。 自身を襲った根源の吸血鬼は倒したけれど、この運命が変わることはない。 やがて、陽は沈んだ。天空に一番星が煌めくのを見計らい、ダンプはフブキに問う。 「……さて、手前はどうするでござるか?」 彼らがともに世界に帰還することになったのは、0世界で話し合った結果ではある。 しかし、故郷に帰還した今となっては、ダンプはフブキの敵に他ならない。 フブキは少し、考え込む。 「……何、別に襲うつもりはないでござるよ。まだ理性は十分保ってるでござる」 「いや。そうじゃなくなくてな。家に入るとき、シンヨウに何と言ったものかと……」 四年ぶりの再会となる妻への挨拶に、フブキは悩んでいるらしい。 如何にもフブキらしいと、ダンプは微笑ましげに笑う。 「愛し合う夫婦同士のこと、心を尽せば伝わるものでござろう。さて、手前の家はどこでござるか?」 そこまで同行しようと、ダンプは申し出た。 「帰りがかなり遅くなったけど……。ただいま」 いろいろ悩んだ結果、フブキが発したのは、実にシンプルな帰還のことばだった。 「……あなた……!」 ふわりとした灰色の羽毛に包まれた女性が、家の奥から飛び出してきた。妻のシンヨウだ。やさしげな鶏を思わせる雰囲気は変わらない。 「本当にあなたなの? 顔を見せて」 シンヨウの瞳に、涙の粒が盛り上がる。 「お父さん……!」 「パパ……!」 父親似のなめらかな鱗を持つ娘、シラユキは、少しおしゃまになっただろうか。母親似の息子、白い羽毛を持つハツユキは背が伸びたようだ。 口々に呼びかける彼らに、ただ――頷く。 「心配したんですから! ……本当に心配したんですから!」 「お父さん。お父さん。うわぁぁぁん」 「ハパぁ。さびしかったよう。会いたかったよう」 「すまなかった」 不慮の事故とはいえ、四年もの間、家を無断で空けていたことに対し、ただ――詫びる。 「おかえりなさい。もうどこにも行かないでね」 「……ただいま」 とても懐かしく暖かく、柔らかな羽毛の感触。 フブキは改めて実感する。 (ああ、戻ってきたんだな) † † さすがにダンプは、フブキに伝えることはできなかった。 自分が何を考えていたか。 自分は何を思い、ここまで来たか。 自分は何をするために、故郷に戻って来たのかを。 家族にあたたかく迎えられたフブキを見届けてすぐに、ダンプはその場を離れた。 彼が住んでいた街の墓地へ向かい、妻の墓を探す。 墓は、すぐに見つかった。 経年劣化をものともせず、石の墓は白く、清潔だった。 ダンプは墓の前に腰を下ろす。 「……ただいま」 まるでそこに妻がいるかのように、話しかける。 「随分と長い間、留守にしてしまったでござる」 とっぷりと夜が更ける。 ダンプはまだ、そこにいる。 「共に逝くと願ったのに、それがしだけ……。いや、言い訳でござるな。すまなかったでござる」 朝日が射す。 その光が、身を焼き始める。 だが、傘は差さない。 「それがしが、そちらにいけるかどうかも分からぬでござるが」 全身が、火に包まれる。 「すまぬが、迎えに来てもらえぬでござろうか?」 焼けて、 焼け尽きて、 灰になってもなお。 「……愛しておった。そして、今も、これからも」 ――ああ、願わくば。 それがしの魂を、妻の元へ連れて行っておくれ。 EP.3■騎士の誓いのように【マルチェロ・キルシュ】 その日、一羽のシラサギが、メディオラーヌム方向からヴァイエン領へと慌ただしく飛んだ。 聖女王の宰相、シオン・ユングである。つい今しがたまで女王と審議を行っていたのだが、重要な来客がヴァイエン邸を訪れたと聞き及び、急遽移動したのだ。通常、移動には馬なり馬車なりを使うところ、トリのすがたで時間短縮を行ったのは、それだけ早く顔を合わせたい相手であったからに他ならない。 「お帰りなさいませ、シオンさま」 「連絡サンキューな、白雪。ロキが来てるんだって?」 「はい。応接間にお通ししております。……お召しかえは?」 「いいよ、このままで」 「駄目ですよ! 髪、乱れてるじゃないですか。服にも皺が! お友達に失礼ですよ」 「あー。わかったわかった。着替えるよ。着替えますって」 メイドに叱られ、シオンはしぶじぶ身仕舞を整え、応接間へと急ぐ。 年は重ねずとも、その雰囲気はすっかり大人びた親友、マルチェロ・キルシュ――ロキが待っていた。 「ロキ! 久しぶり」 「見違えたな、シオン。女王陛下の宰相になったって聞いたよ」 メイドが選んだ服は、簡易ではあるが礼装に近いものだった。帰属後、親友が着実に積み重ねてきたのであろう時間を、ロキは率直に讃える。 「中身はそんな変わってないんだけどな。つうか、ロキこそ」 シオンもまた、久方ぶりに会った親友を眩しげに見る。ロキの佇まいは、家庭を持ち仕事も充実している、落ち着いた男性のそれだったので。 「そうそう。学校を設立したんだ」 「へー!」 サーブされた紅茶を手に、シオンは目を見張る。 「それだけの資金をよく用意できたな。冒険旅行で無理したんじゃないのか」 「いや、異世界為替証拠金取引で稼いだんだよ」 「そういや以前、ぼやいてたっけな。幼少期の『勉強』が皮肉にも役に立ったとかなんとか。しかし思い切ったな」 「ああ。覚醒後『学びたい』と望む子どもって、けっこうターミナルには多いんだ」 もとの世界では教育環境に恵まれなかったり、あるいは教育機関や学校関係者を憎み、避けてきた子どもたち。けれど、さまざまな世界や多種多様なひとびとを知るにつれ、あらためて知識を得たいと思い始めた子どもたち。そういった12歳くらいまでの子どもたちに勉強を教えているのだとロキは言う。 ……なお、ロキの担当科目の中で、子どもたちのお気に入りは家庭科らしい。 「あはは、そうきたか。おれもロキ先生のレシピ、今でも活用してるよ。白雪に怒られながら」 「シオンさま! 厨房を使用なさるのはかまいませんが、焦がした鍋はちゃんと磨いてください。片付けが終わるまでがお料理です!」 「ほら、こんな感じに」 「目に見えるようだな」 ひとしきり笑い合い、彼らは改めて、お互いの微妙な変化にも気づく。 「ロキ、少し筋肉ついたんじゃね?」 「子どもたちの運動の相手やら教材の出し入れやらで、動いてるからじゃないかな」 「現場主義だなぁ」 「シオンは何というか、やっぱり落ち着きが出てきたよ」 「どうだろう? 自分じゃピンとこなくて」 「髪、伸ばしてるのか?」 「ん。おれの髪の毛、短いとハネるんだよ。ロキは、髪型を変えるつもりはないんだ?」 「ああ。いろんなひとたちから言われるんだけどな。もう短髪にだけはしない。絶対に」 家出前の彼は、短髪だった。 あの頃に戻りたくない。 戻る気はない。 その決意の現れでもあるらしい。 「騎士の誓い(ゲッシュ)みたいなもんだよ」 穏やかにロキは笑う。 服装も立居振舞もすっかり大人びて、保護者のそれになってはいたけれど。 親友を前にくつろいでいる今は、以前と変わらぬ表情を見せている。 話が一段落した様子を見計らい、ラファエルが場に加わった。 「ロキさま。ようこそお越し下さいました。お元気そうで何よりです。奥様にはお変わりありませんか?」 「こんにちは、ラファエルさん。これ、サシャからです」 妻から託された手紙と贈り物を、ロキは渡す。 それは帰属したふたりを祝う内容であり、また、祝いの品だった。 シオンには純白のマフラーを。 ラファエルには青い手袋を。 「おっ、仕立屋サシャの最新作じゃん。御礼いっといてくれな」 「手編みの技術も極めていらっしゃるのですね。一層のご活躍をお祈りいたしますとお伝えください」 いつか。 自分もロストメモリーになるつもりだと告げて、ロキはヴァイエン邸を後にする。 † † ターミナルの自宅に帰った彼を、妻がとびつくように出迎えた。 「おかえりなさい、旦那様」 食卓には、心づくしの料理が湯気をあげている。 EP.4■花を手向け、日々を送る【ローナ】 シオンさん、お元気ですか? これは、出すあてのない手紙です。 あれからどれくらい経ったのですかねー。 私は今でも0世界で暮らしています。 そうですねー、昔と変わらず人手が要りそうな依頼をよく受けてます。 増殖能力持ちって意外と少ないですし。 あ、どうしても行きたい時は抽選になっても応募しちゃったりするんですけどね。 冒険旅行以外では、福祉業務に関わっています。 北極星号の旅の間の変動期、私には何が出来るんだろうと考えた結果です。 0世界における懸案事項をまとめた統計資料を毎年作成しています。さまざまな角度から分析すれば、問題の未然防止がやりやすくなると思うので。 あとは、保護されたばかりのロストナンバー向けに、0世界の生活の手引き作りとか。 ターミナルの案内と相談先一覧を載せたパンフを作って、世界図書館のホールや、いろんなお店や、ランドマークになってる場所に置かせてもらってます。 自警団の皆さんと相談しながら、毎年改訂してるんですよ。 今の所属ですか? あまり厳密なものじゃないんですけど、自警団のお手伝いをしたり、世界図書館の福祉事務的な仕事を請け負ったり、いろいろです。その他、雑用も頑張ってますよ。人手が必要な仕事って多いじゃないですか。 毎年恒例(?)の、名簿整理とか。 そうそう。 原宿にも時々行ってます。やっぱ雑誌で見ているだけでは……、ねえ? それと。 毎年、お墓参りは欠かしたことがありません。 世界樹に襲われたあの日に、必ず行くことにしています。 主に、ディーナさんのお墓に……。 当時は自主訓練の成績が落ちちゃってて。 いろいろあって、自分の戦闘能力は守るための力だと認識を新たにしました。 第一、補給がないと能力生かせませんからね。特に食料! シオンさん。 ディーナさんの死に、私は深く関わっています。 だから、ずっとあなたに負い目を持っていました。けれど交流はないままでしたね。 帰属なさってからかなり経ちましたので、今のあなたを想像することができませんが、きっとご立派になられたのでしょうね。 もうお会いする機会もないでしょうけれど、あの、比翼の迷宮での出来事は忘れないだろうと思います。 これは、出すあてのない手紙です。 出さないままに、無名の司書さんに預けるつもりです。 私もまた、あなたの無事に安心していたことを、誰かにわかってもらいたくて。 EP.5■或る伯爵夫人の手記【司馬ユキノ】 今思い返しても、あんなに長い一年はなかった。 大学を卒業するまでの、あの一年。 単位を取るかたわら、ヘンリー&ロバートリゾートカンパニーのスタッフとしても、色々な世界を飛び回った。 フライジングにも定期的に通って、ヴェルトハイマー公爵夫人から、この世界の文化や歴史や礼儀作法を学んで。 公爵夫人は、聡明で美しくて厳しくて、カリスさまがお年を召したらこんな感じかな、という雰囲気の女性で。 指導は容赦がなかったけれど、私のことを考えて、きつく仰ってくださっているのは伝わってきた。 文字通り、目が回るほどのいそがしさだった。 それでも、何となく気楽に生きてしまうより、ずっと充実していて、楽しかった。 ほとんど休む暇はなかったけれど、全部私がやりたいことだったから。 そんな中、アンリ伯爵とお話する時間が何よりの癒しだった。 伯爵はお忙しい中私のために時間を取ってくれて、私の話に耳を傾けてくれた。 時には一緒にお酒を飲みながら、ツアーのお土産話をしたり、身の回りの近況を話したり。 私をモデルに、絵を描いてくれたりもした。 逢うたびに、私は伯爵に惹かれていった。 大学を卒業したらフライジングに帰属しようという気持ちを固めていった。 たとえ、私の思いが叶わないとしても。 ヘンリーさんやロバート卿には本当にお世話になった。 お仕事だけじゃなく、勉強を教えてもらったり、卒論のことで意見をもらったりもした。 ヘンリーさんは建築家だし、ロバート卿は企業家だから、多角的な視点で世界を見ることの大切さを学べたと思う。 別の世界に帰属するというのは、故郷を離れるということだ。 もう二度と、遠野には帰れない。 なんて言おう。家族をどう説得しようかとずいぶん悩んだ。 「どうかお嬢さんの選択を信じてあげてください」 「慣れぬ外国で暮らすことになりますが、彼女はひとりではありません。私どもも、周りのひとびとも支えとなることにやぶさかではありません。それはユキノさんがご自身で築かれた財産です」 ヘンリーさんとロバート卿が揃って私の実家を訪ねてくれたときは、本当に吃驚した。 別の世界に行く、という言葉を使わずに皆を納得させるのは大変だったけれど、力を貸してくれて……。 どれだけ感謝してもし足りない。 おふたりの元で働いた経験は、確実に私の糧になったと思う。 「でも、帰属してもカンパニーのスタッフをやめるつもりはないんです。この世界には、まだ誰も知らない面白いところがいっぱいあるはずなんです!」 そう言った私に、アンリ伯爵は、「本当にユキノさんは仕事熱心ですね」と、笑った。 「はい! そんな場所をたくさん見つけて、ロストナンバーの皆に来てもらいたいです。カンパニーのフライジング支部のような存在になりたいです」 「では」 アンリ伯爵は一瞬ためらってから、言った。 「では、どうか、ヴォラースをその拠点にしていただけませんか。私の、伴侶として」 私はもちろん、頷いた。 結婚の報告をするため、ふたりでヴェルトハイマー邸にお邪魔したとき。 ヴェルトハイマー公爵夫人は、 「あら、ヴォラース伯。やっとプロポーズなさったの。ユキノさんにいつまで花嫁修業をさせる気なのかと思っていたところよ」 と、彼女らしい祝福をしてくれた。しかも、 「ユキノさん。ヴォラース伯はご家族を亡くされ、おひとりになってしまわれた。一日も早く、新しい家族の顔を見せてさしあげて」 そんなことまで仰ったから、 「公爵夫人におかれましては、いきなり何を」 アンリ伯爵がうろたえておろおろしていた。 「貴方がぐずぐずしているから、心配で仕方なかったのです。わたくしはラファエルのことも貴方のことも息子のように思っているのですよ」 「クルトさまという立派なご子息がいらっしゃるではありませんか」 「……クルトねぇ。どうもあの子は報われぬ恋をしているようで頭の痛いこと。早く孫の顔を見せてほしいのに」 ——ともかく、ユキノさんにはもう、わたくしから何もお教えすることはありません。素晴らしい伯爵夫人となられることでしょう。 ヴォラース伯におかれましては、最低五人のご子息、ご息女を期待いたしますよ。 ふたりして真っ赤になってから、慌ただしく時間が過ぎて、 昨日、結婚式が終わった。 私は今日から、この館で暮らす。 冬が美しく、何処か懐かしい――このヴォラースで。 薄茶いろの鷹の、妻として。 ――ヴォラース伯爵夫人ユキノの手記より EP.6■比翼の大地での飛翔【黒嶋憂】 「お見送り、ありがとうございます」 これが、ロストレイルに乗る最後となる。憂の旅はフライジングへ帰属するためなのだから。 「……憂はヘルさまが大好きです」 発車のベルが鳴る。 ホームから友人が手を振っている。 「友達になれてよかった。これからも友達でいましょうね」 ――どうか、彼氏さまと共に末永く幸せになってください。 † † 「憂さまの新しいお住まいですけれども、リンダからの立っての希望がございまして」 前々からラファエルは、憂が帰属するのであれば、仕事や住まいの相談に乗ることにやぶさかではないと言っていた。 その言葉どおりに親身に探してくれていたが、ほどなく、憂にとっても思い出深い、《花のかわせみ亭》の二階の一角を提供されることになった。 店は繁盛しており、日中はひとの出入りも多いのだが、《風待ちの森》が近い立地条件ゆえ、閉店後は静かに過ごせるという。リンダは実は若くして引退した女性騎士であるため、ああ見えて腕はたしかで、防犯上の問題もない。 「それでお仕事ですが、いくつか案件を得ております。お望みの職種などは?」 「もしも可能であれば、ラファエルさまかシオンさまのお手伝いになる事を」 「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて……、私からお願いがあります」 「はい」 「シオンの補佐を、務めていただけませんか。シオンはひらめきで行動しがちなので、信頼できるかたに秘書的な連絡調整をおまかせできればと思っておりました」 「私でよろしければ」 「そのかたわら、女王陛下の話し相手になっていただければ、より嬉しく思います」 「……オディールさまの」 「オディールさまには、世界計の欠片がこの地に落ちる前も、そして今も、友人と呼べる存在がおられません。同じ年ごろの貴族のご令嬢がたとは、なかなかに打ち解けることが難しいようで」 養親であるシオンにはかろうじて本音を伝えることもできるようだが、やはり、心許せる女性の友人も必要なのではないか。 ヴァイエン候はそう云い、そして憂は、宰相秘書と女王のプライベートな話し相手を兼任する日々を送ることとなった。 † † 目まぐるしく、日々は過ぎる。 帰属から数ヵ月後、唯はヴィルヘルムに預けていた唯を引き取り、同居を始めた。 「まぁ。唯もオディールさまと同じで成長が早いのですね、驚きました……!」 かつて氷の迷宮にいた鸚鵡の少女は、ほがらかな笑顔で、自身の言葉で物ごとを語ることができる娘に成っていく。 その成長は、憂の成長でもあった。 † † 「お話があります。どうかお時間を」 「わかりました」 二、三年が過ぎたある日。 憂はひとりでヴァイエン邸を訪れた。 大切な用件なのだと前もって伝えていたため、人払いがなされ、ラファエルもまたひとりで応接間にいる。 案内したメイドもすみやかに引き下がった。 ソファに腰掛け、憂は居住まいを正す。 「ターミナルにいたときから、そしてこの数年、ずっと変わらずにラファエルさまを目で追ってきました」 「憂さま」 「……その間、ずっと気持ちが揺らがなかったので、お伝えしたいと思います」 憂は問う。あの迷宮で私が申し上げたことは、ラファエルさまの耳に入っていたでしょうか? と。 ラファエルは静かに首を横に振る。 「私は貴方にずっと恋焦がれ……、お慕いしておりました」 「ありがとうございます。憂さまのお気持ちは、私には勿体ないほどです。しかし」 しかし、と続きかけた言葉を、憂は遮った。 「司書さまがどこかで仰っておられたと聞きました。ラファエルさまは妻を持つ気はないのだと。ですが憂はお傍に居られるだけで幸せで……、それに、私の気持ちでラファエルさまにご迷惑をかけるのは本懐ではありません」 「迷惑などではありませんよ。私の話を、聞いていただけますか?」 「はい」 「憂さまは意識なさっておられないでしょうが、宰相秘書『ユウ・クロシマ嬢』に憧れている若者は多いのです」 「……はい?」 「《女王の紅きハヤブサ》騎士団長クルト・ヴェルトハイマーをご存知ですか?」 「ローゼンアプリールにて、よくお見かけいたします。真面目で厳しい騎士さまで、シオンさまには何かとライバル意識をお持ちのようで……。でも私にはお気遣いくださいますし、やさしいお言葉もかけてくださいます」 「クルトはヴェルトハイマー家に嫁いだ私の叔母の息子で、従兄弟にあたる青年です。真面目過ぎて融通の利かないところがありましてね。覚醒前の……、昔の私を見ているようで面映い気がしておりました」 「……。……はい?」 「そのクルトを筆頭に、複数の青年から私あてに、憂さまへの結婚の申し込みがありました」 「……!?」 「クルトはずっと《迷鳥》という存在を忌み嫌っておりました。その彼が、ユウ・クロシマ姫が我が家に嫁してくださるのであれば、ぜひユイ嬢を我が子として遇したいと表明しているのです。良き父になれるか否かはわからないが、ユウ姫がそばにいてくださるのなら最大限の努力をいたします、と」 「あの……、姫って……?」 「ああ、それは、憂さまに結婚を申し込みたがる若者たちにはきつく申し伝えているのです」 ――ユウ・クロシマ嬢は私の大切な娘分であるので、軽々しい気持ちで声を掛けられては困る。貴殿らは、ヴァイエン侯爵の掌中の珠たる姫に求婚しているのだと心得よ。 「そのときクルトが、あのプライドの高い騎士団長が、涙ぐみながら私に膝を突いたのです。どうか、ユウ姫に私の気持ちをお伝えくださいと。決断はユウ姫におまかせしますが、ほんの一瞬でも良いので、私との未来を考えてくださいと」 「……」 「憂さまのご意思によりますが、正式に私の養女になっていただき、ユウ・クロシマ=ヴァイエンとして、ヴェルトハイマー公爵家に嫁ぐ、という選択も視野に入れていただければと思います」 「……それは」 「憂さまは、私には過ぎるほどに素晴らしい女性だと思っています。それだけはご理解ください」 「それは……、あまりにも意外で、急なことなので、あの」 「仰るとおりです。こういう言い方は不適切とは承知のうえで申し上げますが、性急な結論は出さず、どうか、悩んで、迷ってください」 ――妻を持たぬ、と云いましたが、それは撤回いたしましょう。 若者たちと同じように、私も悩み、迷うことにいたします。 「ひとつだけ、聞いてよろしいでしょうか」 「何なりと」 「ラファエルさまには今、気になるかたがおられるのですか? ……その青い指輪のペンダント、ずっと大切に身につけていらして」 「……これですか。この指輪をくれたある旅人が、この地に帰属してくれるのをずっと待ってはいるのです。あれだけ熱心に誰かを口説いたことなど生まれて初めてだったのですが……、多分、振られるでしょうね」 「ラファエルさまを振るなんて。いったいどんな女性でしょう」 「女性ではありません」 「……………!!??」 憂に凄まじい誤解をされたことに、まだラファエルは気づかない。 EP.7■六月の花嫁【ジューン】 読みかけの報告書が、ばさっ、と床に散らばった。無名の司書は慌てて拾い集める。 「わわわっ。すみません!」 「読むのは構いませんが、同じ人物の報告書はひとまとめに揃えておいてください」 「はーい。……あっ、これジューンさんのだ。ええと、『6年後』『83年後』『95年後』『110年後』『198年後』『250年後』っと」 † † ジューンの6年後を記した報告書には、双子の妖精リベラとエルミナが、彼女らの故郷であるところの《真夏の夜の夢・タイタニアース》への再帰属を確認したことがしたためられている。 愛娘たちの帰還をそれはそれは喜んだ妖精王は、ジューンを国賓待遇で迎えた。ぜひこの国に留まって、リベラとエルミナの教育係に就任し、今後二千年をともにしてほしいと懇願した。 しかしジューンはそれを丁重に辞退し、カンダータへ向かったようだ。 そして軍属になるまで、ムラタナ夫妻宅で乳母をしていたらしい。 † † 83年後、稼働年限の超過により、ジューンの体内融合炉は停止した。 機能停止の前に、自分を分解し、解析・研究し、『彼女』の使用技術をカンダータの発展に役立てて欲しい旨、依頼したという。 † † 95年後、使用技術の完全解析は終了した。カンダータにて同型機の大量生産が開始される。 なお、原機と同じ記憶を持たせた機体には、この時点において、ロストナンバー化の事例はない。 † † 110年後、設計図はギベオンに導入され、同世界においても同型機の生産が開始された。 また、異世界で発見された別機能を組み込んだ試作機の生産も開始となった。 † † 198年後、ギベオンが所有する対イグジスト兵器の試験運用のため、イグジストウォーに参戦。 参加した機体は未帰還である。 † † 250年後、対チャイ=ブレ戦に参加。 † † 「よし、これで全部揃っ……、あれ?」 報告書をとんとんと揃えてから、司書は椅子の上を見る。 そこにもジューンの記録があったのだ。 ——『3年後』の。 † † ジューンは久方ぶりにフライジングを訪れていた。 ときは6月、目的は純粋な観光旅行だ。トリの王国の遥か北、今まで旅人が訪れたことのない土地へと足を伸ばしてみる。 首都ローゼンアプリールからもヴァイエン侯爵領からもかなり離れた、小さな城塞都市へと。 ノートメアシュトラーセというその地域は、春のおとずれが遅い。 ちょうと今、壱番世界のソメイヨシノに似た花が満開の季節である。 桜吹雪のなか、教会の鐘が鳴っている。祝福の音だ。 偶然にも、この地の結婚式に行き当たったらしい。 まるで桜並木がヴァージンロードであるかのように、新郎新婦が参列者から祝福を受けている。 親族のみで行われる式特有の、簡素であたたかな雰囲気。可憐な花嫁はジュウシマツだろうか。両親は涙ぐみ、大勢のきょうだいたちは彼女を笑顔で取り囲み、祝いのことばを延べ、若い花嫁と年上の新郎を冷やかす。 (サクラ様……? いえ、そんなはずは……。でも) 花嫁は、ジューンの知る少女の面影を宿していた。 「おおっと。ジューン姉さんじゃん。すげぇ偶然」 「シオン様……」 参列者や新郎新婦の目を避け、長身の青年がひとり、桜の大木の陰から式を見守っていた。 街の若者めいた服装をした、宰相シオンだった。 「しーっ。招待されてないし、ってか、サクラともダンナともまったく面識ないんで。でも、見届けたかったんだよ」 ジューンは頷いて、シオンをそのままに、ゆっくりと新郎新婦のそばへ行く。 「このたびは、おめでとうございます」 通りがかりまして、先ほどから拝見させていただいておりました、と、前置きをし、ジューンは花嫁に話しかける。 花嫁ははにかんだ笑みをジューンに向けるものの、謝意をつぶやいて、そっと夫の背に隠れた。 「申し訳ありません。――は、恥ずかしがりやなんですよ。初対面のかたにはいつもこんな感じで。何度かお会いして打ち解けてくればそんなでもないんですが」 年上の新郎は、ジューンの知らぬ名で彼女を呼んだ。愛しげに目を細め、若い花嫁を見る。 「旅のかたですか? ノートメアシュトラーセにいらっしゃるとは珍しい。ごゆっくり観光ください。女王陛下がおられるローゼンアプリールや、宰相どのがお住まいのヴァイエンのような華やぎはありませんけれど、ここも良い街ですよ」 新郎は家具職人だという。素朴でやさしい笑顔の持ち主だった。頼もしい新郎の背から雛鳥のごとく、花嫁はおずおずと顔を覗かせる。ジューンはふたりに寿ぎを伝えた。 「宰相のシオン様は有能なかただと聞き及んでおります。ノートメアシュトラーセにつきましてもお護りくださるでしょう。この地がこれからも平和である事を心よりお祈り申し上げます」 「ありがとうございます。どうぞ良いご旅行を。機会がありましたら私の工房にもお寄りください。お土産に適した工芸品なども造っておりますので」 どうかお幸せに、と、ジューンは微笑んで、その場を辞した。 桜の木陰に戻ったジューンに、シオンはぼそりと言う。 「ちょっとだけグラウゼに似てるな、あのダンナ。……よかった」 グラウゼさあ、サクラのことを娘みたいに思ってて、すごく心配してて。年越し便で訪ねてくれたんだよ。遠くからでも、生まれ変わったサクラを一目見たいって。そんで、家族に囲まれて幸せそうな様子を見て、安心したみたいだった。 シオンの目尻に涙が盛り上がった。 「……、は、はは。駄目だな、おれ。誰かの結婚式の度に泣いてちゃキリがねぇや」 「嬉し泣きは許容されるものではないでしょうか」 「ごめん……、ジューン姉さん。ちょっと胸貸して」 しがみついてしゃくり上げるシオンを、ジューンは子どもをあやすように抱きしめ、髪を撫でる。 「旅行中、耳にいたしましたよ。シオン様は辣腕の宰相だと」 「その宰相がこんなじゃザマぁねぇな」 「おふたりにも申し上げましたが、この国が平和であるようお祈りしています。この地に暮らすトリたちの幸福が護られることも」 「……ん。おれが辣腕かどうかはわかんねぇけど。サクラの生活の安寧を護ることはできると思う」 そして。 ジューンはその顛末を撫子に伝える。 「川原様、私は先日、フライジングでサクラ様にお会いしました……。お会いしたと、思います」 「……?」 何ごとかを、撫子は言った。聞き取れるか聞き取れないかの声で。 「ええ。私達の事は何一つ覚えていらっしゃらなかったですけれど、年上の家具職人の方とご結婚されて、とてもお幸せそうでした」 ご伝言などはありませんか? 私は当面の間、ここに帰属するつもりはありませんので、ご新居を訪ねることも可能ですが。 そう言ったジューンに、しかし撫子はにこりと無言でかぶりを振る。 「……そうかもしれません。私達はサクラ様の過去ですらないのですね」 願わくば。 ジュウシマツとなり、新しい地で新しい生と家族と伴侶を得たサクラも。 比翼の大地の治世を担うシラサギも。 どうか、幸福であるようにと祈るばかりだ。 ――幸せをつかんでくれて、ありがとう。 これからは陰ながら、おまえを護る。 涙声でそう言ったシラサギの、想いがかなわんことを。 EP.8■恋迷宮の冒険【エレナ】 ――あたしね、王子様の心の鍵を解く冒険に挑戦しようと思うの。 ヴォラースの《雪蛍館》で、エレナはそう宣言した。 それは、去る醸成月の収穫祭での、ラファエルの言葉を受けてのことだ。 ――……ねえ、エルちゃん。どうすれば人魚姫は、泡にならず幸せになれたのかな? ――実は私は、人魚姫が不幸だったとは思えないのです。 ――どうして? ――恋ひとつしない人生を送られるかたはたくさんおられるでしょう? 恋もひとつの冒険であり謎解きですよ、エレナさま。 その宣言通りに、エレナは、ラファエルの帰属直後から、季節ごとに、ヴァイエン邸への訪問を続けていた。 クリスタル・パレスの店長ではなく、ヴァイエン領を治める侯爵としての、また、武装財務官統括としてのラファエルを理解しようと努めていた。 だから、彼女は知っている。 ヴァイエン侯爵領とアウラハ辺境伯領との複雑に入り組んだ関係と、微妙なパワーバランスを。 若き辺境伯ミカエルが、好戦的な少年であることも。 侯爵ラファエルと、そして宰相シオンに、旅人としての俯瞰した立場から、探偵としての透徹した視点から、また、ひとりの少女としての素直な想いから、さまざまな提案をしてきた。 アウラハのひとびとを春のヴァイエン領へ招いてのお茶会や、因縁深きイトスギの森を舞台にしたミステリ性の高いピクニックイベントなど。 彼らの関係が良好で穏便なものになるように。 相互理解が少しでも深まるように。 ヴァイエン領とアウラハ領が一触即発なのは昔からのことで、すぐに事態が改善されるというものではなかったけれど、それでも。 それがたとえ僅かなものであっても、歩み寄らなければ何も始まらないと伝えてきた。 ラファエルにも。シオンにも。ミカエルにも。 今まで多くの旅をしてきた。 多くの謎を解いてきた。 9歳の少女のままに。 自覚したのは、いつ頃からか。 眠り姫の城――ドルンレースヒュス・シュロスホテル・ザバブルクでの、薔薇に満ちた廃墟を巡る冒険からか。 あるいはベニス・シンプロン・オリエントエクスプレスで、白雪姫の魔法により16歳の令嬢としてラファエルに接した、あのときか。 ――“運命”って、一方的に感じるだけでは叶わないものだと思う。けれど、それを伝えない限り、ほんの僅かな可能性に賭けることもできないものだと思う。 ――あなたがひどい男だという話を、聞かせて。 ――あまり、楽しいものではありませんよ。 ――それでもいいの。あたし、あなたのことをあまり知らないから。 しかし、それはひとときの魔法。 こうしている間にも、ラファエルとの年齢差は開いていく。 エレナが大人になるまで、待っていてくれるとも思えない。いつかは別れが来ることもわかっている。 (でも) (でも――好き) そんな折りだ。 エレナの故郷が見つかったのは。 † † ヴァイエン候の帰還以降、醸成月の収穫祭は、毎年開催されていた。多くの旅人が集い、領内がにぎやかになるのはこの時期の風物詩でもあった。 客人として招待されたヴォラース伯は、新婚のユキノ夫人とともに、旅人たちからの飲み比べの挑戦を快く受けていた。何しろ収穫祭が結んだ縁である。祝福しながら杯を重ねる旅人は引きも切らず、今年は特に賑やかだった。ヘンリー&ロバートリゾートカンパニーの現地スタッフでもあるヴォラース伯爵夫人は、《礼と美の規範》ヴェルトハイマー公爵夫人仕込みの見事なドレスさばきを見せながら、旅人たちへの気配りをてきぱきと行っていた。 ――だが。 そこにエレナのエレナの姿はなかった。いつもは親しい旅人たちと過ごしたり、可愛らしくラファエルに話しかけたりしていたのだったのだが。 恙なく収穫祭が終わったその夜。 シオンは、自分で淹れた紅茶をラファエルに渡しながら問う。 「とーちゃんさぁ、エレナと何かあった?」 「……いや? 何故?」 「収穫祭、毎年来てくれてたのに、今年は来なかったからどうしたのかなって」 「エレナさまなりに思うところがあるのだろう。出身世界が見つかったと、仰っていたので」 「……そっか。エレナも故郷に帰っちまうのかな? 今度来てくれたら、おれ、真面目な話するつもりだったんだけど」 「おまえがエレナさまに? いったい」 「とーちゃんがファルファレロに告ったのと同じよーなことだよ。ま、それはさておき」 シオンは居住まいをただし、ラファエルに向き直る。 「ヴァイエン侯に、聖女王からの伝言を申し渡す。『貴殿をわらわの婿がねに考えておるが、貴殿の意思を訊かせよ』と」 「………!?」 「吃驚したあまり紅茶噴くとーちゃんの図は、なかなか見られないよなー」 「いや待てちょっと待て。オディールさまは伴侶としておまえを意図しているものだとばかり思っていたが」 「いちお、おれも候補のひとりではあるんだけど、やっぱ女王の結婚は政略の要素もあるんで、『現ヴァイエン候』がほしいんだってさ。ま、政略うんぬんは照れ隠しとしても、とーちゃん、憂に、妻は持たない宣言撤回するって言ったんだって? だからオディールとしては公式に憂のライバル宣言したかったってことなんじゃね?」 「オディールさまと憂さまの関係がこじれたりなどは」 「あー、それ、おれも心配だったんだけども、わっかんねーよな女って。手を取り合って、『憂よ。正々堂々、勝負しようではないか』『わかりました。憂はラファエル様を渡しませんよ? オディール様にも、ヘル様のお父様にも』って、キャッキャウフフしてやんの」 「………」 「胃薬調合しよっか?」 「……いや。それには及ばない。オディールさまのご判断は、内政的にも対メディオラーヌム的にも、適切な選択のひとつではある。……だが、せっかく、というのもおかしいが、政略結婚をお考えで、なおかつご自身の幸せをお望みならば、私などよりもふさわしいお相手がいるはずだ」 「誰?」 「皇帝陛下のご子息、アルフォンス殿下が、一度、女王陛下と非公式にお話する機会を設けてほしいと仰っておられるそうじゃないか」 「ははん。実はおれもそう思ってたから、エレナに相談したかったんだよ。エレナっておれよりかずっと宰相の素質があるし、それに」 ……それに、と、シオンは彼らしくもなく言葉を濁す。 † † 「あら来たのエレナ、ふーん。もう来ないかと思ったのにうっとおしい幼女ね。はい毒リンゴ、美味しいわよ」 エレナが久しぶりに顔を見せたのは、それからほどなくしてのことだ。ラファエルとシオンはほっと安堵し、ずっと気を揉んでいた白雪は彼女流の歓迎の意を示す。 「んなもん出すなぁ! エレナいびりはやめろよ白雪」 「素直に切遇できないものですかね。エレナさまの訪問がないと淋しそうにしていたくせに」 「いつもありがとう白雪ちゃん♪」 しかしエレナは慣れたもので、毒リンゴと称した形の悪いだけのリンゴを華麗なデザートに錬成し、美味しくいただいている。 「エルちゃん、シオンちゃん。今日はね、むめちゃんからの伝言があるの」 「何でしょう?」 「なになに?」 「『やっほー。ラファエルさんシオンくん。元気してるー? この前、ミカエルくんがインヤンガイで保護されたのは知ってるよね? でね、暫定的にアルバトロス館で暮らすことになって。それからいろいろあって。昨日ね、ミカエルくん、クリパレのギャルソンデビューしたの〜。ツンっぷりが揺るぎなくてジークさんに怒られっぱなしだけど、そこがいいってもう固定客ついてるのよ〜』って」 「…………!!」 「驚きのあまり紅茶噴くとーちゃんの図はなかなか見られないよなー、そのに」 「……失礼いたしました。ジークフリート店長によるクリスタル・パレスの運営は、なかなか順調そうですね」 「うん、エルちゃんやシオンちゃんがいたときとはやっぱり違うけど、愛されてるよ」 エレナはにっこり笑ってティーカップを置く。 「白雪ちゃん。お話があるの」 「……わたしに? ラファエルにじゃなくて?」 「エルちゃんにも、後で」 † † ――解けない魔法を、かけてほしい。 中庭でエレナの『話』を聞いた白雪は、大きく息を吐いた。 「わたしを残酷な魔女にしたいのね」 「……ごめんね、白雪ちゃん」 「魔法の対価が必要よ。童話の人魚姫が『声』を差し出したように、わたしもあんたに『かけがえのないもの』を要求するわ」 「それは、何?」 「時間」 「……時間?」 「あんたはもう『少女探偵』ではいられない。幼い少女から大人の女性へと、少しずつ少しずつ成長することはできなくなる。いきなり知らない世界に放り出され、適齢期の女性としての対応を求められることになるの」 「でも、それがあたしの」 「そうね、それがあんたの望み。同時に代償でもある――いいのね?」 少女は頷き、侯爵家のメイドは、ひととき、かつての魔女に戻る。 ――時の精霊に告ぐ。かのもの、鋼鉄の理を無限の螺旋へと変換せしめることを欲す。 花園の平穏と引き換えに、嵐の航海を与えよ……! † † ふわりとしたハニーブロンドはそのままに、その肢体はすらりと伸び、やわらかな曲線を帯びる。宝冠のように浮かび上がって点滅する、フライジングの真理数。蒼い双眸に宿るのはきらめく知性。 春霞のような淡い色のドレスの胸元で、18の乙女は指を組み合わせた。 ひた、と、ラファエルを見つめ――エレナは覚悟を告げる。 しばらく来訪が途絶えていたのは、故郷へ行き、両親に別れを告げるためだったのだ、と。 解けない謎を解くために比翼の大地で冒険の旅を続ける、もう故郷には戻らない――、と。 「エルちゃんが大切にしているものは、あたしにとっても大切。もっともっと知りたいことがたくさんあるの」 「エレナさま。……私は」 「ちょーっと待ったあ!」 エレナとラファエルの間に、シオンが割って入る。 シオンはうやうやしく膝を折り、 「エルライアノーラ・レイアストリア・ニア・ナンナ・エーデルローゼ。"高貴な薔薇"家の知恵深き泉、高貴の女王、玲瓏と祝福の娘よ」 ――その手を取る。 「もしも貴女がここに帰属するのであれば、それにより、多くの大切なもの、大事なひとびとと決別しなければならない。この地で貴女を待ち受けているものは、決して平坦な人生ではない。私も父も、おそらくは貴女に多大な負担を強い、迷惑を掛けることになる」 そして、その手の甲に唇をつける。 「私と結婚してください。未だ未熟な身ですが、貴女の支えがあれば生きていける」 「シオンちゃ……」 あまりのことにエレナは絶句する。 ラファエルも一瞬目を見張ったが、すぐに微笑みを取り戻した。 「エレナさまの帰属、ヴァイエン領あげて歓迎いたしましょう」 シオンの肩に手を置き、エレナの瞳を見つめ返す。 「お気持ち、しかといただきました。私もまた、オディールさまの、憂さまの、エレナさまの、それぞれの心の謎にきちんと向き合うことにいたします」 同時に、と、ラファエルは言う。 「願わくばオディールさまにはアルフォンス殿下のお人柄に接していただきたいですし、憂さまにはクルトのことをよく知っていただきたいですし、エレナさまには、シオンが真剣であることをわかっていただければと思います。今ここで申し上げるのも何ですが、自慢の息子です」 「エルちゃん」 「といって、私が舞台を降りるというわけではありません。若者たちがライバルでは、いささか分が悪いですけれども」 いつまでエレナさまの手を握っている、失礼だろう、と、ラファエルはエレナからシオンを引き離す。 まるで、あのカフェでの、懐かしい一幕のように。 「どうぞ、エレナさまのお心のままに。冒険は今、始まったばかりですので」 EP.9■千夜一夜の四神からくり【ムジカ・アンジェロ/由良久秀/黒葛小夜】 「君になら言ってもよかろうと思うが、ぼくは、自分がすばらしい犯罪者になれたのではないかとずっと考えてきたのだ」 "The Adventure of Charlese Augustus Milverton"より ――シャーロック・ホームズ † † 「ふぅむ。『九龍城砦(ガウロンセンジャイ)からの脱出』の参加者数は日によって波があるね。ある程度予測したことではあったけれど。紅花、今回の挑戦者は誰だい?」 「ムジカ・アンジェロさま、由良久秀さま、黒葛小夜さまの三名となっております」 「おや、探偵バッヂ保持者とかわいらしい助手嬢のお出ましか。これは全力でお迎えしないと申し訳ないね。せっかくだし私も、演出かたがた狂言回しとして出演するとしよう」 螺旋飯店支配人黄龍は、すでに『罠』としての衣装を身につけていた。黒のシルクハット、黒のスワロウテイル、黒天鵞絨のマント。そして、黒い麒麟を意匠化したマスク。 「きみも一緒にどうだい、サラスヴァティ。彼らと『遊びたい』だろう?」 黒麒麟のマスクをもうひとつ、黄龍はサラスヴァティに渡す。 《たそがれのチェンバー》の管理人、水の女神サラスヴァティは、黄龍がベンジャミンとしてターミナルにいたときからの知己でもある。このたび黄龍から協力要請を受け、このテーマパークの運営に参加することになったのだ。具体的には、演出案とシナリオ案の提供である。 サラスヴァティは、「九龍城砦からの脱出」を、特定のイメージに限定せずに、1001通りの世界観とストーリーでもって挑戦者を迎え撃つことを提案した。複雑怪奇な建築物に、さらに外部からの立体映像を重ねることにより、さまざまな物語に対応できるよう調整したのだ。いわば、リアル壷中天ゲームの趣きとでも言おうか。 「……そうね。ムジカさんも由良さんもお忙しくて、なかなかわたしたちと遊んではくださらないですものね」 貴婦人のごとく髪を結ったサラスヴァティは、漆黒のドレスを纏っていた。マスクを受け取り、目元を覆う。 「え〜〜。サラさんずるうい」 それまで大人びた口調と態度を保っていた紅花は、むうと唇を尖らせた。 「支配人と遊んでりゃいいじゃないですか。ゆらりんが来たからって何ほいほい出張ってんのさ」 「紅花さん。残念だけれど由良さんは、胸の大きな女性はあまり好みではないようよ。成長が仇になったようね」 「なななななんであんたにそんなことわかるのよー!?」 「だって、ほら、ご一緒の小夜さん。彼女の可憐さをごらんなさい」 「ちっちがうもの! ゆらりんはそんなひとじゃないものっ! こうなったら本人に聞いてみる」 「いいや紅花、これではっきりしたろう、いい加減目を覚ませ。おまえはあの男に騙されてるんだ!」 紅花の兄、現地探偵のカイが駆け寄ってくる。 「ほんの少女だったときはいい顔しといて、大人になったらぽいと捨てて別の可愛い少女に乗り換えるやつなんだよあいつは!」 カイはそれまで、会場調整というか下働きというか雑用係というか、ともかくいつものようにいいようにこき使われていた。そして、何年経とうと、溺愛する妹が幾つになろうと、例によって例のごとく通常営業である。 「お兄ちゃんは黙っててよ!」 「……そういえばカイさんは、ムジカさんや由良さんと面識がありますね」 「それがどうした」 「囚われの人質役をお願いします」 「はぁ!?」 「時間切れになると命が危ないという設定で」 「あ、それいい! 蒼、墨、雪花。お兄ちゃんを『あの場所』に閉じ込めるの手伝ってー」 「ちょ、ま、やめろおい。っていうかそれ、ホントに『設定』なだけなんだろうな!?」 カイは絶叫して抵抗したが、四神にかなうはずもない。 引きずられ、いずこかへ連れていかれてしまった。 微笑みながら見送るサラスヴァティの横顔に、黄龍は視線を落とす。 「どうしたの、黄龍」 「いや……。ずいぶん活き活きしているなと思って」 「罠はクリアするよりも仕掛けるほうが楽しいじゃありませんか。そのぶん、難しさはありますが。貴方だってそうでしょう?」 「いささか悪趣味ではあるけどね」 「お好きでしょ? こういう趣向は」 サラスヴァティの手には、署名入りのメッセージカードが三通。 ――では、『名探偵への挑戦』とまいりましょうか。 思い切り、悪趣味に。 ***************************************************** 《金の麒麟》ムジカ・アンジェロ、 《銀の朱雀》由良久秀、 《銀の朱雀》の助手、黒葛小夜。 以上三名へ挑戦状を送るものとする。 混沌の迷宮と化した劇場に、ひとりの男を幽閉した。 陽が落ちるまえに鳥の啼き声を聞き、彼を救ってみるがいい。 ジェームズ・モリアーティ アイリーン・アドラー ***************************************************** ぽっかりと開いたその入口は、《穴》だった。 「いらっしゃいませ、不思議の国へようこそ」 「いらっしゃいませ、深淵の《穴》へようこそ」 穴の横には、ふたりのフットマン。 ひとりは蛙の意匠の蒼いタキシード、ひとりは魚の意匠の黒いタキシードを身につけており、レディ・カリスのフットマンを彷彿とさせる。 「いらっしゃいませ、出口のない迷宮へ」 「いらっしゃいませ、赤と白のチェス盤へ」 両脇には、ふたりの女。 それぞれ、身体の線もあらわな、紅い革のドレスと白い革のドレスを纏っている。 まるで《赤の女王》と《白の女王》の符丁であるが如くに。 深淵を覗き込めば、蛇がとぐろを巻くような螺旋階段が見えた。 三人は吸い込まれるように、《穴》の中へと降りていく。 ――現れたのは、巨大な《劇場》。 「ようこそ、今はなき九龍城砦へ」 「ようこそ、幻想のバイロイト祝祭劇場へ。千とひとつの謎解きへ」 《モリアーティ教授》と《アイリーン・アドラー》が、彼らを出迎えた。 † † 「ワーグナーが自身の作品を上演するために建てた劇場だね。後援者はルートヴィヒ2世」 混沌とした世界観をたのしむように、ムジカは建物を観賞する。 由良はといえば、火の消えた煙草をくわえたままだった。 「……。誰だ?」 由良が驚いたのは、彼らのためだけに用意されたと思われる、悪趣味極まりないほどに雑多な要素を詰め込んだ趣向ももちろんなのだが、数年ぶりに遭遇した螺旋飯店の従業員たち、特に、紅花に対してだった。 考えてみれば最初に会ったとき、彼らは少年少女だった。見違えるように成長しているのも当然ではあるのだけれども。 「確実に時間は過ぎた、ということかな」 冷静に見えるムジカも、少しも驚かなかったというわけではない。大人びた彼らに、時の流れを実感したとも言えよう。 「んもー! ゆらりんの意地悪!」 そして《赤の女王》はあっさりと演技を投げ打って、かつての少女の表情に戻った。 「もしかしてお兄ちゃんやサラさんの言うとおりなの? 可憐な気まぐれ仔猫だった私がいろいろ成長してダイナマイツボディになったせいでそのコに乗り換えたの!? きいぃぃぃ悔しい!」 「……あの?」 いつの間にやら巻き込まれた小夜は、目をぱちくりさせる。 【ここに至るまでの小夜たん的な事態の把握】 なんかムジカさんが由良先生をどっかに誘ったっぽい。 ↓ どうやらインヤンガイに新しくできた脱出ゲームみたい。 ↓ 由良先生、壱番世界の脱出ゲーム等は漠然と知っている程度で参加経験はないので、あんまし積極的に行きたいとかは思ってなかったっぽい。 ↓ でもたまたま偶然にも幸か不幸か暇だったし、少なくとも危険はないだろ、と判断してしまったっぽい。 ↓ 結局いつものように、由良先生はムジカさんに引きずられて参加することになった。 ↓ その流れで自分にも誘いが来た。 ↓ ということなので、由良先生の痴情のもつれ関係はよくわかんない。 そんなわけで小夜たんは、無邪気に目をきらきらさせて紅花を見た。 「あのっ、綺麗なお姉さん」 「あ、あら? いいコじゃない。なあに?」 紅花はあっさりと態度を軟化させた。 「無事に脱出できたら、賞品とか、あるんでしょうか?」 「……賞品ねぇ。たぶん、支配人が何か考えてるとは思うけど」 そこらへんどうなんですか、と、問う紅花に黄龍は苦笑する。 「そうだね。クリアのあかつきには、小夜嬢には、由良くんと同じ《銀の朱雀》のバッヂを進呈しよう。ムジカくんと由良くんには――あとのお楽しみということで、今は伏せておこうか」 「わかりました。がんばる」 小夜は大きく頷いた。 「先生、あの、もしクリア出来たら、写真を撮ってくれませんか。記念に持っていたいんです」 そう頼まれては、由良とて無碍にはできない。 いくぞ、と、由良は歩き出す。 (……そもそも、これは一日で終わるゲームなのか) 規模の大きさと混沌とした造りに目眩を抑えながら。 † † 壱番世界におけるバイロイト祝祭劇場は、全館が木造のオペラハウスだ。 プロセニアム・アーチによって舞台と客席が隔てられ、客席はギリシアの円形劇場を模していて、高いせり上がりに沿って配されている。 そして舞台から見るホールは――黒一色。 19世紀の標準をくつがえし、華やかな彫刻やきらめくシャンデリア、装飾的な椅子などをいっさい廃したのだ。 漆黒に塗られた椅子は、詰めものひとつない硬い木製。それにより、客席をも含めたホール全体が共鳴板としての効果を持ちうるらしい。 その特異な音響空間は《ヴァイオリンの胴》にも喩えられるという。 空間が、妖しく歪んだ。 巨大なヴァイオリンの中に仕掛けられた迷路を、彼らは彷徨う。 扉から扉へ。通路から通路へ。 階段を降りたはずが昇り、昇ったはずが急降下する不思議な空間。赤と白の格子模様の床に彼らの靴音が響く。ときおり、手が壁にすうと吸い込まれる。一部が立体映像になっているのだ。 蝶のすがたで羽ばたきながら「方程式」が横切る。あれはシュレディンガー方程式か。ディラック定数が生き物のごとく宙をうねり、泳いでいく。まるで彼らを案内するウサギのように。 突き当たりにあるのは施錠された扉。空中に謎解き問題が浮かび上がる。 ――《赤の女王仮説》について述べよ。 「カリスが何を考え、これからどうするつもりかなど、どうでもいい」 面倒くさそうに由良が答えたとたん、どこからか、剃刀のように鋭いトランプが何枚も、凄まじい勢いで飛んできた。 「身体的な危険は、こういうゲームには不釣り合いだと思うが?」 詩銃で撃ち落としながら、ムジカは答える。 「《赤の女王仮説》は、進化に関する仮説のひとつだ。『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王の台詞『いいこと、ここではね、同じ場所にとどまるためには精一杯走っていなければならないのですよ(It takes all the running you can do, to keep in the same place.)』に基づくもので、種・個体・遺伝子が生き残るためには進化し続けなければならないことの比喩として用いられている」 正答だった。 かしゃり、と、音を立てて扉が開く。 † † 「すごいすごい」 出題が解かれるたびに小夜は瞳を輝かせ、惜しみない拍手を贈る。 これがひとりきりだったらどんなにか怖いだろうけれど、頼りになる「先生たち」と一緒だからまったく不安はない。 次の曲がり角には何があるのだろう。 どんな謎やしかけが待っているのだろう。 絵本とか、算数とか、昔話とか、得意分野だったら頑張れるのだけれど。 そんなことを思いながら、ムジカと由良のあとを小走りについていく。携帯ストラップにつけた、座敷童子と氷雪の王子のちび人形がかわいらしく揺れる。 「きゃ」 小夜が昇ろうとした階段は映像だったのだ。よろめいた拍子に、由良の腕にしがみつく。 「ごめんなさい」 「いや――、これは?」 観察眼の鋭い由良が、真っ先にそれに気づいた。幻の階段に描かれた画像と数字に。 画像は見覚えのあるものだった。ホームズの「踊る人形」で使用されていた暗号の絵。数字は……、真理数。なるほど悪趣味だ。 「写真を」 「ああ」 ムジカが言うのと、由良がシャッターを押したのはほぼ同時。そのコンビネーションに小夜は目を見張る。 小夜は辺りを見回す。不自然な階段が他にないかと思ったのだ。そして由良よりも先に見つけた。 幻の階段と、そこに映し出された画像と数字を。 「先生、そこにも」 それは身長の低い小夜であるからこそ、発見できる位置にあった。 37 46 38 26 42 16 彼らが集めた数字は6つ。発見順に並べてみたが、これだけでは意味を成さない。 「踊る人形の話は、読んだことがあるかな?」 「はい、小学校の図書室で」 小夜はほがらかに答える。ジュブナイル版ということらしい。 しかしそれなら話が早い。小夜にも、これが換字式暗号であることがわかったようだからだ。 「だが、作中のものと同じ暗号のはずもない」 由良はぼそりと言う。ムジカも同意した。 「46という数字が出てくる以上、ヨーロッパ圏で使用されている文字ではないだろう」 「46以上の表音文字を持つ言語。日本語だな」 「おれもそう思う。おそらくはいろは歌」 「色はにほへど散りぬるを、我が世たれぞ常ならむ。有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」 いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす い→1 ろ→2 は→3 に→4……、と順に番号をふり、当てはめてみる。 37→さ 46→せ 38→き 26→の 42→し 16→た 「させきのした。座席の下、ってことですね?」 小夜がそう言った瞬間、それまでは出現していなかった劇場ホールへの扉が現れた。 彼らは客席の下を見ることができる位置に立つ。 そして、見つけた。 胸にレイビアを突き立てられた、探偵カイ・フェイの死体を。 「……カイが死んでる? そんなはずは」 「演出だろ。悪趣味にもほどがある」 ほら、と、由良は死体からレイビアを抜こうとした。が、その手は空をつかむ。 「死体も凶器も立体映像か」 「ナレッジキューブ製でないだけ、良心的だ」 「――――良心的」 くっ、と、ムジカは喉を押さえる。 「暴霊でも出たか」 「どうかな。さすがにもう慣れた」 † † 死体の映像はご丁寧にも、床に血文字でダイイングメッセージを残していた。 +++++++++++++ 23 21 20 46 3 26 4 +++++++++++++ 「これもいろは歌ですか? ……でも」 小夜は首をひねる。彼女なりの違和感を感じたのだ。ムジカはメモを見ながら応える。 「そうだね。一度解いた謎だからといって油断してはいけない。この手のイベントは、後からそれを利用する事が非常に多いから」 いったい何処で仕入れたのか、ムジカは攻略法を語ってみせた。 由良は無言で縦じわを深くしながらも、数字をいろは歌に対応させてみる。 む な ね せ は の に 「……意味不明だな」 「油断するから引っかかるんだよ」 不機嫌そうな由良に、ムジカは楽しげに笑う。 「ダイイングメッセージは、いろは歌に対応した暗号にはなっていない。招待状にはなんて書いてあった?」 しなやかな指先に挟んだメッセージカードを、由良の鼻先に向ける。 「『鳥の啼き声を聞き、彼を救ってみるがいい』……そうか」 いろは歌ではなく、鳥啼歌ということか、と、由良は呟いた。 「鳥啼く声す、夢覚ませ。見よ明け渡る、東(ひんがし)を。空色映えて沖つ辺(へ)に、帆船群れゐぬ 靄の中」 なかなか響きの良い声での暗唱に、ムジカは軽く目を見張る。 「由良がそんなに教養豊かだったなんて」 「……国文学者の知り合いがいただけだ」 由良は気まずそうに言葉を濁す。 彼は、表向きは「故郷を探している途中」だと言っている。そのかたわら、相も変わらず事件に巻き込まれ、はからずも異世界で殺人を犯す羽目になってしまった。 先日も、壱番世界によく似た世界において、大学で教鞭を取る著名な国文学者と、彼の妻、彼の娘、研究室の准教授と助教、ゼミの学生などとともにおもむいた、八百比丘尼伝説の残る過疎の村での忌まわしい――いや。 終わったことだ、と、由良は首を横に振る。秘めた物語を、語るつもりはないのだから。 ともあれ、「鳥啼歌」とは、いろは歌47文字に「ん」を加えて48文字とした、いわば「新いろは歌」だ。 とりなくこゑす ゆめさませ みよあけわたる ひんかしを そらいろはえて おきつへに ほふねむれゐぬ もやのうち 「23→し。21→ん。20→ひ。46→の。3→な。26→ら。4→く。 し ん ひ の な ら く 」 懸命にノートとにらめっこしていた小夜が、正解を導き出す。 「そう、つまりは《神秘の奈落》」 ムジカは真っ直ぐに舞台下を指さした。 バイロイト祝祭劇場は、観客を舞台に集中させるため、オーケストラ・ピットを舞台下に設けた特殊な構造になっている。 観客からはオーケストラが見えず、オーケストラや指揮者からは観客が全く見えない。 ――通称《神秘の奈落》。 「探偵カイ・フェイは、そこに閉じ込められている」 † † 螺旋飯店のダイニングルームで、カイはムジカと小夜の手を握りしめ、何度も何度も礼を述べた。 「ありがとうありがとう。いやもう本当にありがとう。本気で死ぬかと思ったよ」 なお、同様に尽力したはずの由良はスルーされた。 「俺に何か言うことはないのか?」 「とりあえずサラさんから手を引いてもらおうか」 「何でサラの話に」 「だって私たち、支配人のお兄さんから頼まれてるんだもの。ゆらりんをサラさんに親しく接近させるなって。ねーお兄ちゃん」 「何だと?」 「利害関係が一致したんで協力することにしたの。異界路に新しいお家買ってもらっちゃったし。螺旋飯店も近くて通勤便利でうれしい」 「うん。いいひとだなぁ、ロバートさんは」 「………兄妹揃ってロバートに買収されたのか」 「ロバートさんは、あんたが支配人からサラさんをかっさらうんじゃないかって心配してんだよ」 「濡れ衣だ。……美人だとは思うが」 だが、彼女に深く関わる心算はないし、ましてロバートに牽制される謂れもない、と続けたのだが、カイと紅花はそんなん聞いちゃいなかった。 「えっ、じゃあなに、私とサラさんのどっちか選べって言われたらサラさんを取るの!?」 「他に選択肢がなければ」 「お兄ちゃーん。ゆらりんったらヒドイー」 「紅花を捨てるなど許さん!」 「……。あんたはずっと奈落にいろ」 「クリアおめでとう、黒葛小夜嬢。今後とも、螺旋飯店を訪ねてくださることを期待いたしますよ」 「ありがとうございます」 《銀の朱雀》の探偵バッヂを、小夜は頬を紅潮させながら受け取る。約束通り、由良はシャッターを切った。 ムジカも小夜を祝福する。そして。 黄龍に、自身の《金の麒麟》のバッヂを差し出した。 「これを返さなければならないと思って」 その為に逢いに来た、と、螺旋飯店支配人を見る。 「……何故?」 しずかな哀しみが、黄龍の双眸に浮かぶ。 ムジカは言う。今もあなたに対する敬愛は変わらない、と。 しかし、あなたたち兄弟との間に蟠りが出来てしまってからは、己が此れを所持していていいのかと悩み続けていたのだと。 「ムジカ」 いっさいの韜晦を取払い、黄龍はムジカの肩に手を置いた。 「赦してほしい。私たちはとうにきみに見限られたと思っていて、きみが、その――それほどに悩んでくれていたとは思わなかったので」 ――約束しよう。 私も兄も、もう二度ときみたちを、螺旋の檻に閉じ込めたりはしない。 「赦されるものなら、このまま持っていてくれないか。今後、螺旋飯店支配人は、《金の麒麟》の探偵バッヂを、ムジカ・アンジェロ氏以外には授与しないことを誓う」 手のひらに乗せたバッヂを、ムジカは握りしめた。 「では、おれも約束しよう。このバッチは永劫に大切にする。異世界の友人との交友の証として」 「……ありがとう。では改めてサラスヴァティより、ムジカと由良に、今回の賞品の進呈を」 サラスヴァティは、黒麒麟のマスクをふたりに渡す。 「おふたりは、今後、『出題者』及び『罠』となる権利の行使が可能です」 悪趣味はお好きでしょ? だって黄龍のお友達なのですから。 水の女神は、せせらぎのように笑う。 † † 帰路のロストレイル車中で、由良はエイドリアンへ、簡潔なメッセージを送る。 この脱出ゲームの顛末と、彼の息子たちと水の女神のかかわりを。 ムジカもまた、ささやかに伝える。 いつか、ご夫婦で遊びにくるというのはどうだろう、と。 もしもあなたがたが訪れるなら、あなたの愛しいベンジャミンは、千とひとつの出題のなかから選び取るだろう。 あなたがたにふさわしい、極光の旋律を持つ物語を。 たとえば、古い洋館に眠るストラディバリを巡る謎。 音楽家と歌姫の探偵譚を、聞かせてもらえる日が訪れるとうれしく思う――と。 EP.10■我が良き友へ【蓮見沢理比古/虚空】 不変と停滞を覆し、ターミナルは変化を遂げつつある。 それに関わったロストナンバーたちは当然のことながら、実感いちじるしいのは、世界図書館成立以降、二百年の澱みをつぶさに見て来たものたちだろう。 たとえばレディ・カリス。たとえばアリッサ。たとえばヴァネッサ。 たとえば、眠りから覚めてのち、本来の行動派の本領を発揮しつつあるヘンリー・ベイフルック。 たとえば、パーマネントトラベラーの呪縛から解放され、帰還後は十三人委員会の議席をヘンリーから委譲されたエドマンド・エルトダウン。 ――たとえば、エドマンドの帰還と入れ替わるように、ターミナルに姿を見せることがめっきり少なくなったロバート・エルトダウン。 ロバートはヘンリー&ロバートリゾートカンパニーの事業を、先日、エドマンドに引き継いだばかりだった。フライジングの現地スタッフ、ヴォラース伯爵夫人ユキノのことをくれぐれも宜しくと言い残して。 一方、蓮見沢邸には居候がふたり、増えた。そしてひとり減った。 理星と清闇を迎えたのと入れ違いに、石川五右衛門は自身の世界へと帰っていったのだ。 とはいえ、虚空の日常は変わらない。 徐々に一族に認められつつある蓮見沢コンツェルンの当主を陰日向に支えつつ、『家族』の世話に追われつつ、ターミナルでの仕事にも精を出す――それは今までどおりのことだった。 虚空は理比古を理事会の議員に推薦している。ターミナル新法の制定やそれに伴う数々の事業が、理比古からの真摯な資金援助に支えられていたことは周知されているので、永世議席に就いたものたちも、また世論も、反対意見はなかろうと思われた。 もっとも虚空は、秘書としてそれなりの根回しをしながらも、その本音は、 「アヤみてぇな甘ちゃんで人の痛みに敏感な、懐の深い奴がひとりはいなきゃ困るだろ」 ということのようである。 虚空もまた、彼なりにターミナルを――あるじが心を寄せるこの街に集うひとびとを――愛しているのだった。 † † 「ロバートさんとティティちゃんに逢いにいこうと思うんだ」 広大な蓮見沢邸の庭を眺めていた理比古が、ふっとそう言ったのは、そんなある日のことだ。 「何も改まって言わなくても。しょっちゅう訪ねてるだろ? ロバートだって時々遊びに来てるし」 虚空はきょとんとする。 たしかにロバートは、ターミナルでの役職のすべてを手放してからというもの、そのほとんどを壱番世界で過ごしている。よって一般のロストナンバーたちとはすっかり疎遠になった。 覚醒して日の浅い旅人は、ロバートの名も顔も知らない。かつては《ファミリー》の一員であり、《ロード・ペンタクル》と呼ばれていたことさえも。悪名高きトレインジャックの首謀者であったことさえも。 しかし自分たちは、今も変わらぬ彼の友人だ。同じ壱番世界に暮らしていることもあり、ロストレイルのちからを借りずとも移動手段には事欠かない。 蓮見沢の自家用ジェットをもってすれば、すぐにでも駆けつけることができる。 「……そうなんだけどね。何だか今、急に、顔を見たくなって」 「――ああ、そりゃ、ロバートが逢いたがってるってことなんじゃないかなぁ?」 しょうがねぇな、あいつあれで淋しがりやだからな、と、虚空は笑った。 そして、あるじと自分の旅支度を始める。 ……実は、それなりに蓮見沢コンツェルンのお仕事が山積みで、虚空はスケジュール調整に四苦八苦しているわけだけれども、そこはそれ。 † † エルトダウン別邸は、湖水地方にある瀟洒な館だ。ロバートは世界中に別邸や別荘を所持しているが、最近はここで過ごすことが多いらしい。 「……ああ、理比古、虚空……。よく来てくれた……」 ふたりを出迎えたロバートは、げっそりと憔悴していた。 「このような事態になってしまって……、僕はもう、どうしていいのか……」 そのやつれようにふたりは大慌てになる。 「どうしたのロバートさん!?」 「いったい何ごとだ。何があったんだ!?」 「……それが……」 ロバートは言いにくそうに口ごもる。それほどに大変な事態が起こったというのだろうか。だったら何故、すぐに連絡してくれないのか。理比古も虚空も、いつでも甘えてほしいと言い続けていたではないか。 「水くさいよロバートさん。困ったことがあったら何でも言ってほしいのに」 「そうとも。何遠慮してんだよ。あんまり他人行儀が過ぎると怒るぞ?」 「……………ありがとう。いや、気持ちはとてもうれしいが、しかしだね………」 ロバートがいっそう言葉を濁した、そのときだった。 「にゃーん!」 すでに仔猫ではないティティが駆け寄ってきた。 ごろごろと喉を鳴らし、理比古にじゃれつく。 「久しぶりティティちゃん。もうすっかりレディだね。……あれ? ちょっと雰囲気変わった?」 「にゃー♪」 ティティは何故か得意げに、すりりと頭を押し付ける。 ……そして。 「にゃー」 「にゃー」 「にゃー」 「にゃー」 「にゃー」 すたたたたっと走ってきた仔猫が5匹、虚空の膝に肩に頭によじ上る。 白猫、黒猫、三毛猫、斑猫、虎猫と、皆、毛並みが違う。 「……ロバート。もしかして」 なんとなーく事態を把握した虚空が、おそるおそる言う。 「そのもしかしてだ」 ロバートは大きく息を吐いて額に手を当てた。 「ティティは希少なヴァン猫だから滅多な雄猫は近づけないように細心の注意を払っていたはずなのに……、それなのに……、どこかの野良猫がちょっと目を離した隙に……!」 「そういうことかぁ」 理比古は笑いながら、黒猫を抱き上げた。 「雑種なんだね。いいじゃない。雑種も可愛いよ」 「……そうなんだよ。どの子猫も大変な愛らしさで……、だから一層困っているんだ。何人か貰い手が名乗りを上げてくれているんだけど、どの子を譲ろうかと……。全部は手放したくないんだよ、ティティが寂しがるだろうし」 「競争率高そうだね。俺も一匹欲しいな。男の子がいい」 「理比古ならかまわない。可愛がってくれると思うのでね」 「ほんと? ありがとう。じゃあ、この子にしよう」 抱き上げた黒猫を、理比古は見つめる。両目の色はティティ譲りの美しい色違い。全身真っ黒の仔猫だが、左前脚の部分にだけ白い模様がある。それは、見ようによっては龍の意匠にも感じられた。 「名前は……、そうだな、『五右衛門』」 家族だったひとの名前なんだよ、もう故郷に帰ったんだけどね、と、理比古は仔猫に話しかける。 「うちにいる《小鳥》――っていってもきみよりずっと大きいんだけど――と仲良くしてくれるとうれしいな。真っ白な翼で、目が銀色で、すごくかわいいの」 にゃん、と、黒い仔猫は一声鳴いた。 † † ロバートの顔も見たし、新しい家族となった仔猫も連れ帰ることができた。これで理比古も落ち着いてお仕事ができるだろう。そう思いきや。 「そうだ。ロバートさんと一緒に、インヤンガイにできたテーマパークに挑戦してみたら楽しいんじゃないかな?」 「………」 「楽しいんじゃないかな?」 「……………楽しいだろうな」 席をあたためるヒマもない。理比古に引きずられるように、虚空はロストレイルに飛び乗る羽目になった。 † † ――三人で『九龍城砦からの脱出』に行こうよ、参加者として。俺たちはこれから現地に向かいますよー。 (何だって!?) 理比古からノートで連絡を受けたロバートは、トレインジャックしかねない勢いで獅子座号に乗り込み、彼らよりも前に螺旋飯店に到着した。 息を切らしてレセプションのカウンターに突っ伏すロバートに、紅花が目を丸くする。 「どうしたんですか? そんなに急がなくても今日の開始時刻までには間がありますよ」 「蓮見沢さんからご予約いただきました。三名様でご参加だそうで」 クールに言う蒼に、ロバートは咳払いをひとつする。 「支配人に話があるのだが」 「何ごとです?」 呆れ顔の黄龍に、ロバートは手招きをした。 (ベンジャミンベンジャミン、いい子だからちょっとお兄ちゃんのお願いを聞いてくれないかな?) (何ですかいい年の弟にその身もフタもない言い様は) (恥も外聞もなく言うのだが、出題の難易度を低めに設定してほしい) (本当に恥も外聞もありませんね。参加者となるのを躊躇するのであれば断ればいいじゃないですか) (友人がわざわざ誘ってくれてるんだよ? 断れるわけないじゃないか) (…………、兄さんに相沢優くん以外のお友達がいたとは知りませんでした。構ってもらえてよかったですね) (頼む、ベンジャミン。手加減してくれないか。僕には『探偵』の素養がまったくないんだ) (知ってますよそんなことは、赤の王事件のときに。だいたい、兄さんにムジカの100分の1でもミステリへの親和性があったらあんな無様なことにはならなかったんですから。……今さらながら、思い出したら腹が立ってきました。一発殴っていいですか?) (かまわないが、後日にしてくれるとありがたい) 「いつまでご兄弟で内緒話してるんですか!」 しびれを切らした紅花がカウンターをばんと叩く。 「ご事情は何となく把握しました。そういうことでしたら、謎解き要素を簡易なものにして『罠』の出現に工夫を凝らした、王道の迷宮攻略にすればいいじゃないですか」 「頼もしいね紅花。具体的には?」 「基本に準じて、実際の『九龍城塞』の世界観で行きましょう。入り組んだ二百三十の通路のうち、龍津路の六つの道、龍津後街、龍津一巷、龍津二巷、龍津三巷、龍津尾巷、龍津橫巷を踏破できればクリア」 「とすると、参加者の行く手を阻む『罠』の演出に比重がかかることになるが」 「せっかくだから、ムジカさんとゆらりんにやってもらいましょ」 紅花は客室のほうを見る。彼らがゲームクリアしたのはつい昨日のことだ。一緒だった小夜は兄が心配するからと一足先に帰ったが、黄龍に引き止められたムジカは、蒼が担当する《青龍》の部屋に、由良は紅花が担当する《朱雀》の部屋に、それぞれ宿泊していたのだった。 黒天鵞絨の外套と、黒麒麟の仮面。どこまでが実体でどこまでが影なのかさえも判別しかねるヴィランズがふたり。 混沌の闇がふたつ、ヒトガタを成したかのような生ける罠(トラップ)に、理比古も虚空もロバートも翻弄された。真っ直ぐ進んでいたはずの順路はあらぬ方向へと撹乱され、簡易なはずの謎掛けは含みを持ったものとなり、からくり扉や落とし穴へと誘導される。 結局は、三人仲良く落とし穴に落っこちて、時間切れゲームオーバーと相成った。 虚空が下敷きになったため、理比古とロバートの被害は少なかったのが通常営業というかなんというか。 † † 「……非常に難易度の高いゲームになっていたような気がする。ムジカくんと由良くんに阻まれた路を突破できる参加者がいたらお目にかかりたいものだ」 「あっはっは。してやられたよな」 ぼやくロバートに、虚空は面白そうに笑う。 「アヤもロバートも偉大だ。俺にとっちゃかなり揺るぎない、安定感のある痛快さだった」 「すごく楽しかった。虚空もロバートさんも、付き合ってくれてありがとう」 理比古はにこにことエルトダウン兄弟を見比べる。 「……黄龍さん、やっぱりロバートさんに似てるな。そうしてると本当に兄弟だなって思うよ」 その素直な感想に、黄龍は目をしばたたかせる。 「蓮見沢さんは……」 「理比古でいいよ」 「では失礼して。もしかしたら理比古さんには、ご兄弟がいらっしゃいますか……?」 「うん。母親の違う兄さんがふたりいたんだ。いろいろあって先立たれちゃったけど、またいつか、どこかの世界で会えるって信じてる」 「お兄さんがたを、愛しておられる?」 「うん!」 (……兄さん) (何だねベンジャミン) (このひとと話していると、自分がひどくひねくれて性根の歪んだどうしようもない人間に思えてきていたたまれなくなって穴があったら入りたい気持ちになるのだが) (安心したまえ、僕もつねにそうだ。ところできみが理比古の100分の1でもこの異母兄を愛してくれているのなら、ひとつ、わがままを聞いてほしいのだがね) (さっさと身を固めて甥か姪の顔を見せろと言うんだろう?) (おや) (……考えておく) † † 螺旋飯店をあとにしての帰路、そぞろ歩きをしながら、理比古は虚空に言う。 「虚空。ずっと支えてくれてありがとう」 「ちょ、ま、なに、改まるなよ」 何かの前ふりかと虚空は慌てる。 「これからもよろしくね」 「お、おう!」 てらいのない謝意であることを感じて、虚空は胸を撫で下ろす。 「もうしばらくは旅人でいたいんだ。あの子のこともあるし、異世界に兄さんの生まれ変わりじゃないかってひともいる。それに俺自身、もう少し自由な旅を楽しんでいたいから」 「理比古らしい選択だね」 「ロバートさんは、壱番世界に帰属するの?」 「できれば、近いうちに」 ロバートは、きっぱりと言った。 「それに関して、理比古に甘えたいことがある」 「何?」 「自警団の活動資金を援助する役回りを、引き継いでほしい。善意での金銭的負担をお願いすることになるから、誰にでも頼めるというものではなくてね。蓮見沢コンツェルンのトップなら適任だと思う」 「うん。言われなくてもそうするつもりだったよ」 理比古はやわらかに微笑む。虚空は少々むっとしてみせた。 「おいロバート。俺にも甘えろ!」 「そうだね。虚空にもお願いがある」 もし、もしもだけれど。 この先、サラスヴァティがインヤンガイに帰属して、螺旋飯店支配人の夫人となる日がきたら。 そのときの模様を。 そして、今後の彼らの消息を。 ――どうか、知らせてくれないか。 EP.11■シャーロック・ホームズ・パブにて ――PROMISE――【相沢優】 夕暮れ時のテムズ河畔を、優はひとり歩いていた。カジュアルなスーツがよく似合う東洋の青年に、すれ違った金髪の女学生が振り返る。そろそろチャリング・クロス駅が近い。 駅の南側、三叉路の広場に面する場所に、一軒のパブがある。 ――「The Sherlock Holmes Public」 ここはシャーロック・ホームズ博物館からもさして遠くはない。日中、観光客が行列を作っていたベイカー街の人気博物館は、今は暮れなずむロンドンの街にひっそりと溶け込んでいる。 在りし日、サシャの案内で訪れた、依頼がらみの英国旅行のあれこれを、ふと懐かしく思い出す。あの依頼の結果、ジューンは双子の妖精を引き取ることになったのだった。 ビッグ・ベンの内部を見学したいと願ったシュマイトにロバートが便宜をはかったことも、優あてにプレゼントが届いたことも、遥か昔の出来事のように感じる。自分がひどく年を重ねたような気も、する。北極星号の帰還から、まだ数年程度しか経っていないというのに。 世界の階層のつらなりにも似た、さまざまな出会いと別れ。旅はひとを成長させるというけれど、おそらく自分は、ひとたび螺旋特急ロストレイルに乗り込んだ瞬間から、否応なしに無限の冒険と世界の真理とそれから――自分自身の人生に向かい合ってきたのだとも思う。 磨り硝子に描かれた、アーサー・コナン・ドイルとシャーロック・ホームズ、そしてドクター・ワトソン。フロアのそこここにディスプレイされた、ホームズの冒険譚にちなんだ小物や手紙。混み合う店内に飛び交うクイーンズ・イングリッシュ。いかにも英国のパブらしい賑わいに満ちている。 予約した旨を伝え、席に着く。 待ちびとは多忙であるらしく、まだ来ていない。 † † 思えば。 本当に、いろんなことがあった。 最初は、叱られたことが発端で、彼に憧れた。 けれど――裏切られた。あのトレインジャックのときに。五重螺旋の檻に閉じ込められたときに。 彼は失敗し、医務室で彼を殴ったその足で、ルルーの司書室を訪ねた。 「探偵とは何か」と、ルルーに問うた。 そして、赤の王との決戦が収束したのち、井の頭恩賜公園の弁財天宮で謝罪を受けた。 ――まだきみに、きちんと詫びていなかった。御礼も言っていなかった。 ……傷つけて、すまなかった。 やっと結ばれたはずの友情だった。 だがそれを、今度は自分が壊してしまった。 あれからずっと、この胸に在り続けた約束がある。 どうしても果たしたい約束だった。 もしかしたら、成就のかたちは違うのかもしれない。 それでも――今なら。 今の自分なら。今のロバートなら。向き合える気がする。 フィッシュ&チップスとギネスのエクストラコールドを注文し、優は待つ。 ほどなく待ちびとが現れた。 † † 「ロバート」 自然な所作で片手を上げる。 優のすがたを見つけられずにいたロバートは、そこにいたのか、と、微笑んだ。 「すっかり雰囲気に溶け込んでいるのでわからなかったよ。旅行者という感じがしないね」 「久しぶり」 「待たせてすまなかった。会議が長引いてしまって」 「忙しいの?」 「役員として忙しくなくなるための準備が忙しい、というところかな」 「……そうだよね。世界屈指のエネルギー会社の最高業務執行役員が引退するわけだから」 「誰か適切な人物を新役員に選定して、僕は単なる個人株主になる、というだけのことなんだけれども、なにぶん大きな組織なので、なかなかに面倒で」 ロバートは先日、壱番世界に帰属したばかりだ。 直前に、優にそのむねを連絡してきたのだった。 ――僕はもう名前を変えない。偽名を名乗らない。だから、アーサー・アレン・アクロイドの名前も立場も返上する。 彼はこの二百年、定期的に名前と立場を変えながら生きてきた。壱番世界の経済と金融資産のコントロールが可能な身でありながら、時代が移るたびに、彼の偽名は彼に関する記憶とともに消えていった。 ささやかな交流もほのかな恋も、一定の期間を経たならば、そのときの名前とともにリセットされる。 彼と交流のあった壱番世界のひとびとは、皆、彼のことを忘れていく。 ただ、ロバートの記憶の中にのみ、過ぎ去った情景や交わした言葉が蓄積されてきたのだ。 ――ひとびとの記憶に残りたいと思うようになったんだよ。ロバート・エルトダウンとしてね。 それが、彼が帰属を決意した大きな理由であるという。 「……フィッシュ&チップスか。悪名高い英国料理でも、ここで出すものは美味しいだろう?」 優の手元の皿を見ながら、ロバートも席に腰をおろす。 「うん、丸ごと一匹分の魚が揚げられてくるなんて思わなかったから吃驚したけど。モルトビネガーで食べたらすごくさっぱりしてて」 「『スパイラル・キュイジーヌ』の経営者から見て、合格点かな?」 「こういうメニュー、うちの店にはまだないんだよね。少しアレンジして取り入れようかなって思う」 壱番世界での優は、とうに社会人だ。大学卒業後、著名なレストランの厨房で働いて早々にその料理センスを評価され、独立して店を始めることになったのだ。 厳選した素材を使用した本格的な料理を、肩肘張らずに食べられるそのレストランを、優は「スパイラル・キュイジーヌ」と名付けた。料理通から絶賛され、メディアでも取り上げられ、ここ数年の間に知名度と業績は順調に伸びた。今は国内に数店舗、最近はロンドンに海外一号店を出したばかりである。 「忙しさでは、きみのほうが上なんじゃないかな。ターミナルでの活動も続けているんだろう、隆らと一緒に。そうそう『虎組』だったね」 「壱番世界を護るまでは、って思ってて。ロバートは帰属してどう? まだそんなに経ってないけど」 「不思議なものだね。今までだって、そのほとんどを壱番世界で過ごしてきたから、生活の変化がさしてあるわけではないのに」 ただ、旅人ではなくなった。 もう、ロストレイルに乗ることはなくなった。 0世界へも、他の世界へも、永遠に行くことはない。 ただ、それだけのはずなのに。 静かに言って、しかしすぐに破顔する。 「まあ、きみが、世界の果てで天空を背負うアトラスでありつづける選択をしたのなら、僕はきみに護ってもらう選択をしたということになるのだろうね」 「……ロバート」 「ところで、恋愛相談に乗ってはもらえないか」 「………れ!?」 「実は、プロポースしたい女性がいてね」 「……ぷ!?」 いきなり前置きなしで爆弾発言をされて、優はビールにむせた。 「ごほっ」 「大丈夫かい?」 激しく咳き込む優の背中を、ロバートはさする。 「……な、んとか。ええと、俺に相談相手がつとまるかな?」 「数少ない友人をひとりひとり思い浮かべてみたのだが、そんな話が可能な相手はきみしかいなかった」 「ヘンリーさんとかエドマンドさんとか」 「彼らに相談するのは照れくさい」 「じゃあ虚空さんとかアヤさんとか」 「彼らであれば親身になって快く聞いてくれると思うが、あのふたりはそういった世俗的なことは超越している感があってね。うっかりすると壮大な人類愛にまで話が広がると思わないかい?」 「……どうだろう? でも、ロバートが好きな女性ってカリスさんだとばかり」 「エヴァ・ベイフルックには二百年前にふられているよ。だが『エヴァ』には違いない。エヴァ・ガーディナーといって、ずっとバミューダ諸島の事務所で現地秘書を務めてくれていて」 「そういえば一たちの報告書を読んだことがある。カリスさんが《赤の城》のクリスマスパーティーの招待状を出したときの」 優は思い出した。たしかエヴァ・ガーディナーは、バミューダ出身の父と英国人の母との間のハーフで、リベル・セヴァンを黒髪にしたような雰囲気の、褐色の肌を持つ美しい女性と聞く。どうしてもアーサー・アレン・アクロイドの秘書になりたくて必死に勉強した経歴を持っているらしい。 カリスの命を受け、《ロード・ペンタクル》がパーティーへ出席するべく暗躍したロストナンバーたちに、エヴァ・ガーディナーはこう言った。 ――アーサー様は、ご家族との折り合いが良くないのでしょう? でもクリスマスは、ご家族と過ごしたほうがいいと思って。だから私、クリスマスのスケジュールを空白にしたんです。 「あの当時は、彼女を幸せにするのは僕の役目ではないと思っていたし、彼女が好意を持っているのは『アーサー・アレン・アクロイド』なのだから、得体の知れない『ロバート・エルトダウン』をどう思うか、という懸念はあってね」 「全部正直に話して、普通にぶつかってみればいいんじゃないかな」 「それはそうなのだが、プロポーズなど二百年ぶりなものだから、エヴァ・ベイフルック姫に足蹴にされた過去のトラウマが蘇ってしまって」 「ちなみに、カリスさんには何て言ったの?」 「『きみのようなじゃじゃ馬は、ヘンリーでは乗りこなせない。僕で妥協しなさい』」 「……で?」 「無言で殴られた」 「俺がカリスさんでも殴るね」 「殴るかね」 「殴る。思い切り」 † † 「無事OKもらったら結婚式には呼んでね。披露宴はもしかして『クイーン・アリス号』とか?」 「どうしたものかね。今さら、七人の姫君の襲撃を受けることはないだろうけど」 「そのときは、また護りに行くよ」 ひとしきり笑ってから、ふたりは新しく飲み物をオーダーする。ここでしか飲めない、少し苦みの効いたビール「シャーロック・ホームズ」を。 「では、ロバートのプロポーズの成功を祈って」 「優の未来に」 ――乾杯。 EP.12■風媒花のそよぐ街【森間野・ロイ・コケ/ジョヴァンニ・コルレオーネ】 その街区は「華咲花園(ファシァオガーデン)」と呼ばれている。 美麗花園(メイライガーデン)の例を出すまでもなく、インヤンガイにおける街区名とその実情は必ずしも一致しない。かつての美麗花園が死の街であったように、華咲花園もまた、花の咲き乱れる楽園とはほど遠い場所である。 貧富の格差は激しい。マフィア同士の抗争に善良なひとびとは翻弄される。上層階に住むものたちは、地下都市のことなど顧みない。陰惨な犯罪、猟奇殺人や暴霊の跋扈などは日常的に発生する。インヤンガイでは標準的とさえいえる街だ。 ――それでも。 その街区の一角には、色とりどりの花に満ちた、小さな孤児院があった。 そこで暮らす子どもたちは、ほとんど全員が、といっていいほど、犯罪被害者の遺族であったり当事者であったりする。ひとりひとりが、凄まじい過去と心の傷を負っていた。 それを癒すには、どれだけの時間と、どれだけの愛情が必要かはわからない。やり切れない想いを抱え、ときには泣き叫ぶ子どもたちを、泣き止むまでひたすら抱きしめて頭を撫でる緑の髪の院長は、まだ若い女性だった。 コケがインヤンガイに帰属したのは、もう数年も前のことになる。 最初のきっかけは、無名の司書が発した、とある依頼だった。 (華咲花園にね、ちっちゃな孤児院があるの。老夫婦が良心的な経営を続けてきたんだけれど、ふたりとも長年の無理がたたって病気がちになって……。その建物、旧い時代のもので素敵なつくりなのね。で、マフィアに目をつけられてしまったの。マフィアは建物を子どもたちごと奪って、娼館に改装しようとしているの) 老夫婦はもともとは上流階級の出身だった。犯罪被害で娘を亡くしたのがきっかけで、下層階での寄るべなき子どもたちを保護する道を選んだようだ。当初、資金は相応にあったので建物と土地の購入は可能だったのだが、マフィアの嫌がらせもあって徐々に財政は逼迫し、当人たちの身体も弱っていったのだという。 ――このままでは、老夫婦が天寿をまっとうするまえに孤児院は犯罪組織の手に渡り、子どもたちは身を堕とし、食い物にされてしまう。 そのとき依頼に応じたのは、コケと、そしてジョヴァンニ・コルレオーネだった。 孤児院の窮状の聞き取りをしたジョヴァンニは、マフィアの風上にも置けぬ、と憤慨した。老夫婦の介護と子どもたちのケアをコケにまかせ、まず、そのマフィアの背景を調べた。ここが旧い時代の建物であることと、子どもたちを娼館に在籍させることに価値を見いだした点に引っかかるものを感じたのだ。 案の定、そのマフィアの黒幕は、上流階級の男で、老夫婦の知人でもあった。かつて彼らの娘を誘拐し、倒錯的な性癖で死に至らしめたのも彼だった。 単身、彼の住まう上層階に乗り込んだジョヴァンニはその証拠を叩きつけ、ただひとこと言った。 ――恥を知るが良い。 事態は収束した。 その後もコケは、交流を重ね、支援を続け、やがて孤児院の経営を引き継くことになったのだった。 † † 「元気にしとったかね、コケくん」 久方ぶりに訪ねた孤児院の、花が咲き乱れる庭を見て、ジョヴァンニは目を細める。 「……ジョヴァンニ! 久しぶり。来てくれてうれしい」 子どもたちと一緒に出迎えたコケの髪を、ぽふんと咲いた花が彩った。 コケの種族は本来、精神年齢に応じて外見が成長するらしい。帰属して数ヵ月後には二十歳くらいのすがたに成長していたようだった。 「あー、ジョヴァンニおじいちゃんだ」 「いらっしゃーい、ねぇねぇ、おみやげは?」 「それよりお話がいいな。今日はどんな国のお話をしてくれるの?」 「そんなに急かしちゃ駄目。ジョヴァンニは着いたばかりなんだから」 ジョヴァンニを取り囲んで口々に話しかける子どもたちを、コケはやさしくいさめる。 「コケくんはもう、立派にお母さんじゃの」 「ジョヴァンニは旅を続けているんだね」 「旅人であることをやめるのは、君の道行きを見届けてからと思っての。孫娘も同然のサシャ嬢が、君の事を大層気にかけておることでもあるし」 † † 「サシャは元気? なつかしいな」 簡素な装飾のきちんと片付いた応接間で、コケは花茶を出した。ジョヴァンニは、託された手紙と贈り物を並べる。 「くれぐれもよろしくとのことじゃった。これは子どもたちへ、彼女が丹精込めて仕立てた服じゃよ」 「素敵。子どもはすぐに大きくなるから、新しい晴れ着を用意したかったの」 上質な布の感触に、コケは思い出す。 帰属直前、サシャに見送られて旅立ったあの日を。 これからも、手紙や写真などで交流することは可能だ。けれど、生身で会える機会はもうほとんどない。 だから目一杯抱きしめた。 また会おうね、って約束をしながら。 またね。 またね。 ――元気でね。 涙ぐむコケに、ジョヴァンニは次の贈り物を渡す。 「こちらは彼女が焼いた菓子。沢山あるから皆で食べたまえ」 「サシャ……。こうして気にかけてくれて。……本当に大切な友達……」 コケはそっと目頭を押さえる。 「ありがとう。あとで、皆で焼いた美味しいパン、お土産に持っていってね」 † † コケに案内され、孤児院を見て回るジョヴァンニに、子どもたちは冒険譚をせがむ。 ジョヴァンニは若干の創作をまじえて、血沸き肉躍る体験談を語り聞かせた。 ブルーインブルー。ヴォロス。モフトピア。その他の世界。たとえ固有名詞は伏せても、子どもたちの目を輝かせ、想像力を掻き立てるには十分過ぎるほどの躍動的な物語を。 「子どもたちの表情が明るいのは院長の人徳じゃの」 「ジョヴァンニのお話が面白いからだよ」 「そういえば娘も孫も儂の昔話が大好きじゃった。幼き日の儂とジャンカルロも母のお伽話や父の武勇伝に聞き入ったものじゃ」 ――歳月は巡る、か。儂も年をとるはずじゃて。 ぽつりというジョヴァンニに、 「ジョヴァンニは、いつも見守ってくれていて安心する」 と、コケは微笑んだ。 † † ジョヴァンニの提案で、ふたりは少し街を散策することにした。淑女をエスコートするがごとくに、ジョヴァンニはコケを気遣う。 「いつだったか、君とこうして歩いたことが思い出される。今はすっかりレディになったがの」 「そう見えたらうれしいけど。自分じゃよくわからなくて」 「君は、身を引き裂かれるような辛い恋を経験した。だがそれは糧となり、こうして根付き、花開いたのじゃよ。……おや、こんなところにも花が」 大通りの外れの、崩壊寸前のビルにも、入口に小さな花壇が設けられている。 「子どもたちと一緒に、近所に花の種を配っているの。花なんて、っていうひとも多いんだけど、時々、植えてくれるひとも出て来て」 「それは素晴らしい。……コケくんは、伴侶を持つつもりはないのかの? 死者に操を立てるのも、新しい恋を見つけるも自由と思うがの」 「新しい伴侶……? うーん、……好きって言ってくれるひとが現れたら、かな」 コケは小首を傾げる。 「フェイは、もしかしたら、あの目を次の命にも持ち越すかもしれない。次こそ助けてあげたいの。今ならコケ……、いいえ私が、お母さんになってあげられる」 「……そうか」 「伴侶としてでなくても愛することは出来るって知ったから。だから、もう少し待ってみようかなって」 ふふ、私のところに来てくれたら、一番嬉しいんだけれど、と笑うコケは、ひととき、かつてのひたむきな少女の顔になった。 † † 「サシャ嬢に伝えたい言葉があれば承る。遠慮なく言い給え」 サシャへのお土産と手紙を預かり、ジョヴァンニは問う。 しかしコケは大人びた笑顔で、首を横に振った。 「ありがとう、ジョヴァンニ。けれど本当に伝えたい感謝の言葉は、いつか直接会えた時に言う」 「ふむ」 「また特別便が出るかどうかはわからないけど、寿命はそれなりに長いから……。きっと、いつか機会はあると思うの」 昔、サシャが仕立ててくれた服は、もうコケには小さくなってしまったけれど。 今は、子どもたちのひとりが、お祭りの日のお気に入りの服として大切に着ている。 そのことはすでに、手紙にしたためた。 「よくわかった。だが……、忘れないでくれたまえ。儂はどこにいても君の幸せを願っている。心の底から」 「うん。たくさん、ありがとう。ジョヴァンニは私の大好きなおじいちゃんだよ」 ぽふん、ぽふんと、緑の髪に花は咲いた。 EP.13■杖よ、伝説を語れ【ハロ・ミディオ】 荒野を紅く染め上げて、夕陽が地平に吸い込まれていく。初夏も近いとはいえ、山の頂上から吹く風は冷たい。 剣のかたちの翼を持つ鳥が一羽、茜いろの空をついと横切った。 標高の高いこの地域には峻厳な山脈がつらなり、頂上には万年雪が積もっている。雪は氷河となり山を削る。ゆえに植物が育たず、剥き出しの山肌がなだらかな丘となっても、荒涼とした風景が広がる。 だが、もう少し南へと下れば、緑ゆたかな高原や湖が見受けられる。山脈の谷間ごとに点在する肥沃な土地をぐるりと囲むようにひとびとは集まり、石造りの素朴な都市を形成している。国のささえであり、ひとびとの生活の糧となる穀物が青々とした葉を広げているのも南のほうだ。 この季節、切り立った崖のうえから荒野を臨めば、荒々しい岩が林立する遥か地平線に、みずみずしい若葉の海を見晴るかすことができる。 鉄を持たぬ石の都であるのに、ひとびとは知的で聡明で、その文明は驚くほどに発達していた。 崖のうえに、ひとりの女性が立っている。 滝のように流れる銀の髪には、美しい絵具で彩った牛の骨が宝冠のように乗り、精緻に織られた衣装はゆるやかに彼女の身体を纏う。 水の波紋のような模様を持つその瞳には深い叡智が宿る。その佇まいは近寄り難い神聖なオーラで包まれている。 手には、彼女の瞳と同じ紋様がほどこされた金の杖。 日の神の加護を受けた御子――神子であった。 彼女の名を、ハロ・ミディオという。 かつては異世界を移動する列車に乗って冒険をした、旅人であった。 あれから30年の月日が過ぎた今、当時の面影は静謐な表情の下に探すしかない。 † † 「ハロさまぁー! ハロさまぁ……」 心配げに彼女を呼ばわる青年の声が、山々に反響する。 神子であるハロは何人もの従者を持つことになっている。従者にはそれぞれの役割が与えられ、神子に不自由を感じさせぬよう、また神子を護るよう、身の回りのことや身辺警護などの任務に就いている。 彼はほんの小さな少年だったときに選抜されてからというもの、ずっとハロのそばに仕え、現在に至る。まだ若いが古参の従者で、真っ直ぐで素直な気性により、ハロの信頼も厚かった。 「ああっ、そんなところにいらしたのですか。動かないでください、動かないでくださいよ」 ハロを見つけた従者は全速力で駆けつけた。 「……ムスタファ。貴方こそそんなに勢いをつけると」 ゆっくりと振り返ったハロは、やわらかに杖を持ち上げる。 「崖のうえから落ちますよ」 「そんな粗相はしませんよ。何年お仕えしてると思ってるんですか。だいたい……」 ムスタファはいったん言葉を切った。息が切れたのだ。 「神殿、の、隅、から、隅、ま、で、お探し、した、のに、いらっしゃ、ら、ないから」 「もう少し息を整えてから話したほうが」 あくまでも冷静なハロに、しかしムスタファはぜえぜえと息を弾ませながらもいい募る。 「もしやと思って心当たりを片っ端から探しましたよ。おひとりで遠出なさるのはお控えくださいと、何度申し上げたらわかってくださるんですか」 地平線を染める夕陽を見て、ムスタファは不安げに顔を曇らせた。 「太陽がすがたを沈めつつある時間帯は、翼ある魔物が跋扈することも多いのですし」 「それは貴方の云うとおりです」 神子は穏やかに微笑みながら、足元を指さした。 そこには、剣のかたちの翼を持つ鳥――翼ある魔物が、焦げた物体と化していた。 「魔物はもう出現して……、私が来るまえに退治なさったのですね」 ほう、と、従者は胸を撫で下ろす。 安堵の表情を見せてはみたものの、しかし。 「神子さまのお力を疑ったことなどありませんし、そこらへんの魔物が神子さまの敵ではないことくらいはわかっております。そういう意味での心配はしておりません。ですけどね」 ムスタファは思い切りむくれた。 「私を放置してご自分だけで行かないで下さいよ。神子さまが危険なときは、おそばにいたいじゃないですか」 その顔を見たハロは一瞬目を見張り、次の瞬間、満面の笑顔を見せた。 親しいものにしか見せぬ、かつてのあどけない旅人の表情だった。 † † ――30年前。 彼女は自分の世界を見つけ、帰属を果たした。 戻って来た直後は大騒ぎだった。何があったのか、今までどこにいたのかと口々に問いつめられた。 やがて沈静化し、落ち着いたあとは、もとどおり神子の職へと復帰した。 神子としての勉強を重ね、いくつもの儀式をこなし、時々現れる魔物を退治することを繰り返しているうちに、子どもらしい落ち着きのなさは払拭されていった。 成長するにつれ、法術の威力や精度なども向上していく。 成人するころには、ひとびとに安心感を与える風格を得、先代の神子にも引けを取らぬ神子となったのだった。 ただ。 ときおり、子どものころの無邪気で自由気ままな顔が、ふっと出ることがある。 その度に、ハロはひとりでふらりといなくなる。 それを必死で探す羽目になるのが、彼女の従者、ムスタファなのだ。 ひとしきり笑い声をあげてから、ハロは遠くを見るような眼で空を見上げた。 「――帰りましょう」 神子がどこかへ旅だってしまいそうな気がして、従者は声をかける。 その横顔の見つめる先を、ムスタファは知るすべもない。 彼女はいなくなると、決まって見晴らしの良い場所で空を見上げているのだ。 まるで、何かを懐かしむかのように。 EP.14■あなたと恋をしよう【アクラブ・サリク/サイネリア】 【恋愛】 「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」 ――新明解国語辞典第5版より 恋をするのなら、相手はお前がいい。 それだけのことだと、サイネリアは笑う。 恋の始まりに時間などは関係ない……、と聞く。 共に旅をして30年。いや40年か。 だから、それが長いのか短いのかは、わからない。 † † きっかけは何だったろう。 その場所が、幻想的な蝶が飛び交う、蒼い森だったからか。 風もないのにさざ波が立ち、なないろの霧が揺らめく、世にも美しい湖を見たからか。 やさしい銀色の葉で包まれた、白い星に似た花が、湖畔を埋め尽くしていたからか。 甘やかなしとねのように、ふたりがそこに横たわることを誘っていたからか。 「アクラブとは長き時を共に過ごしてきたな。もう、今年でどれくらいになるだろうか」 それはある世界の旅の途中、ここでしばらく休憩しようと、湖畔に腰をおろしたときだった。サイネリアの唇から、そんな他愛のないことばが漏れたのは。 それは何かの始まりのように、とくり、と、胸をざわつかせる。 「ロストナンバーであり続けることには多くの制約がつきまとう。だが、こうしてお前と長く旅をし、人々の生活や宗教や生き方などを見てゆけるのはよい事だな」 ――そんなお前だからこそ、きっと聞いてくれるだろう。 サイネリアはそう言って微笑む。 その意図は、まだアクラブには掴めない。 「なあアクラブ、我にはやってみたいことが多い」 「知っている」 「星の数ほどある」 「そうだろうな」 「今日は、そのひとつをお前に叶えてほしい」 「……俺が?」 「ひとりでは到底出来ぬこと故な」 謎掛けのような言葉。アクラブは怪訝そうな顔をするしかない。 「何だそれは」 「我もお前となら出来る気がするのだ」 「だから何なんだそれは」 「……我が何をいいたいのか、わかるか?」 「まったくわからない」 正直に言う。その手を、サイネリアはそっと握った。 「我と恋愛をしないか、アクラブ」 白く柔らかく暖かい手の感触に、アクラブは絶句する。 「……!?」 「……む。何を呆けている」 「人間に興味を持っているお前にとっては、いつか通る道ではあっただろうし……」 「うむ。我は人と人の営みというものが気になる。他者と深く係わり合い、同じ時を生きる」 「お前がそう思うのも、わからなくはないが」 「その様を見ていたら、我もしてみたくなったのだ」 「しかし」 「しかし、何だ」 「俺を指定してくるとは予想外だった」 ――俺の様な朴念仁の、どこがいいのか? 思わずそう言ってしまいそうになるのを、ぐっと堪える。 † † 「だが、ひとつ問題があってだな」 「何だ?」 「どうやってすれば良いのだろうかと……。聞いたところによればこう」 サイネリアはぐいと手を引いて、アクラブを抱き寄せた。 「待て、いきなりそれは」 「こういうのもあると聞いた」 そのまま、半身を花の海に押し付ける。 「いったいどこでこんな知識を」 「ん? もちろん書物からに決まっているだろう。人間の恋人たちに直接訊くほど不躾ではないぞ!」 謎のどや顔をしながら、アクラブの服に手をかける。 「どんな本を読んだんだ……。スキンシップとしては激しすぎないか?」 「嫌がってるようにはみえない」 それは図星だった。だからこそ、アクラブは戸惑う。 サイネリアは美しい。容姿だけではなく、その心のありようも。 そして何よりもこんな自分のそばに居てくれる。 嫌なわけがない。 「お前が拒むなら、我も無理強いはしない」 「サイネリア……。俺も詳しくは知らないのだが、そのう、その台詞は男女逆のような」 「我が嫌いが?」 「お前が求めてくれるのならば、拒むことなどしない。ただ、俺はこういう色恋沙汰には縁がなかったからな。正直、どうすればいいのかわからない」 「それは我も同じだ。ともに学んでいこうぞ」 ――我に、他者を愛する事を教えてはくれないか? 頷いたアクラブの背に、サイネリアは腕を回す。ごく自然に、唇が重なった。 「我もまだわからぬ事が多い。だが、喜びの気持ちを表すのによい行動なのだろう? 故に、我は今……」 幸せということだ、と、サイネリアは微笑む。 アクラブは今までの人生で、優しい抱擁などされたことがなかった。 それがこんなにもあたたかなものだとは、思わなかった。 アクラブの故郷での愛情の表現は、額への口づけだ。 その様式に則って、サイネリアの白い額にキスをする。 つまりは、 「愛してる」 そういうことなのだ。 † † いつか、と、サイネリアの声が、霧に溶けていく。 「いつかお前が故郷に戻る時がきたら、共にゆこう」 隣は常に我のために空けておけ、アクラブよ。 その囁きは、蒼い森にt舞う蝶だけが聞いていた。 EP.15■太陽は沈まない【ホタル・カムイ】 「ねえねえアリオくーん。お願いがあるの」 北極星号が帰還してから、どれだけの年月が過ぎただろうか。 図書館ホールをうろうろしていた飛田アリオは、無名の司書にとっつかまった。この司書は何年何十年経過しようと常に通常営業だ。たぶん千年後も同じに違いない。 「今、ヒマよね?」 「え? いや、俺は壱番世界の依頼を探しに」 「ヒマよね。ちょっと見てきてほしい世界があるの」 有無を言わさず、司書はアリオにチケットを押し付けた。 「ホタルさんの故郷、『六属剣・始原の都』が50年前に見つかったのは知っているわよね」 「へぇ……。そうなんだ」 「そんで、ホタルさんがすぐに帰属したのは知ってるわよね」 「……いや?」 「覚えときなさい。全ターミナルの基礎教養よ。司書採用試験に出るわよ」 「俺、司書にはならないし!?」 ツッコミどころはそこじゃないぞ、と、通りすがりのロストナンバーが言うが、ふたりの耳には届かない。 「ということで、様子を見て来て。で、その後のことを報告書にして提出して」 「何のために!?」 「あたしが読みたいからに決まってるじゃない。じゃー、よろしくね。いってらっしゃーい」 というわけで。 アリオはロストレイル射手座号で、『六属剣・始原の都』に向かうことと相成った。 † † 列車から降りるなり、若々しくまぶしい太陽のひかりを感じた。 手をかざして見上げるアリオの耳元に、朗らかな声が語りかけてくる。 (ようこそ、旅の少年。がんばってるだろ、新しい太陽神は) 声のぬしがホタルであることはわかる。しかしそのすがたは見えない。 (ああ、私はもう役目を終えかけているんだよ。最後に旅のひとに逢えたのも何かの縁だ。少し話を聞いてくれないか。ええと……、アリ……、アリ……、アリスガワくん?) 「全然違う!」 まさか北極星帰還後50年を経て、異世界のもと太陽神にまで影の薄さを指摘されるとは思わなかった。 (ごめんごめんアリストテレスくん。私が帰属したのは北極星号が戻って来て10年後のことだったんだけどね。やー、最初は今の太陽神にめっちゃ泣かれたな。おかげで天候が1ヶ月間ずっと雨続きだったよ) アリオの名前を間違えたまま、ホタルはいきなし本題に入る。 アリオはもう訂正することを諦めた。アリストテレスだとちょっとかっこいい気もしたし。 「1ヶ月も?」 (まあね。でも、そのおかげで再生法が見つかったんだ。私が焼いた土地の、ね) ホタルの声が、ややしっとりと感慨を帯びた。 彼女は焼き払った土地のことを、ずっと悔いていたのだ。 世界はだいぶ復興したのだが、作物が豊かに育つ土地は狭く、都市同士の争いが絶えなかったからだ。 「再生って、どうやって」 (……、それが) 何故かホタルは、とたんに自信なさげになる。 (……何でも表面のガラス質を? 取り除いて? そのあと? 一定期間日照を? 遮って? 適度な水分を含ませて?) 「……?」 (ええと、それから、なんだっけ) 「よくわからないんだけど」 (うん私も理解できない。ヒジリがいたらすぐに理解してるんだろうな) まあ方法が見つかったんだからいいじゃないか、と、ホタルはおおらかに笑う。 (あ、それでそのとき、しばらく人手プリーズな依頼出してたんだよ。司書さんあてに電波で。ほら、この世界人口少ないしさ) 「その電波、たぶん届いてなかったんじゃないかな」 (リベルさんはキャッチしてくれて、何人もロストナンバーが来てくれたよ) 「そうだったんだ」 (それと、覚醒して転移した人を見つけたときは自分で保護するようにしてた。言葉はわからなくても、事情はわかるし) 「電波送るよりも、そのほうが早いかも知れないね」 † † ホタルの話を聞き取りながらメモし、書きとめたことがらをノートで転送する。 無名の司書には送らない。リベル宛のほうが確実だ。 † † ――そうそう。 私は『きょうだいのお話』を語り続けてきたよ。 時々やってくる吟遊詩人たちにも、ストーリーを提供したりしてた。 だからかな。 その甲斐あって、けっこう話は広まってるんだ。 そうして、私の役目も終わる。 土地の再生が終われば、『四幻神話』は終わるんだ。 終わらせなければ、いけない。 そろそろ、世界に還らないといけないと思う。 それにいつまでも『四幻ホタル』が神話占領してたらいけないだろ。 今の太陽神も、思いっきり泣いたあとにしっかりしたんだから。 (てことで、そろそろ私はいなくなる) † † ――おお、結構生きたな。 それがもと太陽神ホタル・カムイの、最後のことばだった。 EP.16■前略、銀幕市立中央病院のベッドより 〜夢は螺旋を描く〜【綾賀城流】 清潔なシーツの上で、流は目を覚ました。 気付いた時、視界は真っ白だった。 一拍置いて、周囲を見渡す。 今、流は、白いカーテンに包まれたベッドの上にいた。 シーツにくるまれた自分の体を見回す。 いったい、何が起きたのか。 軽い混乱を覚えて上体を起こした途端―― 激しい頭痛が、流を襲った。 「!?」 夢の中でクゥに会った。 銀幕市立中央病院に勤めていて、同じ医療職として面識のあったクゥ・レーヌ。 彼女はコロッセオの医務室……、そうだ、医務室にいつもいた。 だがクゥは、流のことをまったく覚えていなかった。 ロストメモリー、そう、ロストメモリーになったのだとクゥは言っていて。 あれから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。 † † 家族全員が、ベッドを取り囲んでいた。 気がついた流に、手を取り合って喜んでいる。 「兄さん……! 良かった、兄さん。気がついたんですね」 弟が、大きな瞳からぽろぽろと涙を流し、取りすがった。 「いったい俺はどうしたんだ……? ここはどこだ?」 「覚えてないんですね……。そうですよね、あんな大事故だったし。ずっと昏睡状態で……」 しゃくりあげながら、とぎれとぎれに話す弟から聞いた内容をまとめてみる。 どうやら流は、列車事故に巻き込まれたらしい。 線路の近くで大火事があり、流の乗っていた車両が脱線した。 重傷者も多く出た事故だったが、流には外傷はなかった。 しかし頭を強く打ったようで、すぐに中央病院に搬送され、治療を受けていた―― ニュースは連日その報道をし、火事の原因究明と、列車の緊急対応に問題はなかったのかなど、かまびすしいらしい。 「運が良かったわね。あんな事故に遭って大きな怪我もなかったなんて奇跡的だわ」 見覚えのある、銀幕署の女刑事が入ってきた。 警察も事情聴取に努めており、流が目覚めたと聞き、話を聞くためにやってきたのだ。 しかし、何かを問いかけようとした彼女は、流の表情を一瞥し、開きかけた手帳を閉じる。 「……今は何も聞ける状態ではないようね」 家族に目礼し、また来ます、とだけ言い残し、彼女は病室を出て行った。 † † 世界は多層構造である――それが、知られざる<真理>です。 † † (おかしい) 記憶が、飛んでいる……? † † プラス・マイナスの領域を分ける、ひとつの世界。 その世界だけは階層を動くことがありません。 ゆえに起点とされるこの世界を「0世界」と呼びます。 † † あの街で、自分は長いあいだ、過ごしてきたはずだ。 まさか。 あれは夢だったのだろうか。 ……いや。 枕元のテーブルには、クリスマスの百貨店ハローズで見つけたテディベアが3体、きちんと飾られている。 あの世界で得た【月光の水晶】など、綺麗な小物も置いてあるではないか。 夢じゃない。 夢であるはずがない。 † † 真理に覚醒した瞬間、そのものは自分が生まれた世界から放逐されてしまいます。 そして見も知らぬ別の世界へと転移してしまうのです。これをディアスポラ現象と呼びます。 † † ここは、夢の神の娘・リオネが魔法をかけた映画の街。 あのとき銀幕市は、映画の中の登場人物が実体化する世界となった。 それが収束して、7年後の世界。 流のよく知っている世界。 とすると。 おそらく自分は『異なる時空に存在する世界』へ転移して、『魔法が消えて7年後の銀幕市が存在する世界』に再帰属したということになりはしないか。 ――世界群はときおり、その位置を変えています。 図書館ホールで世界計を見ながら、リベル・セヴァンが言っていたことを思いだす。 † † 吹っ切れた表情で、流はベッドから降りる。 もうしばらく休んでいたほうがいいと、家族や弟は言うけれど。 怪我もないことだし、早々に復帰しようと思う。 今まで以上に精力的に働かなければ、とも思う。 でなければ。 ――私達は、どれほど絶望的な状況であっても生きている限り、死神に敗北を認めるわけにはいかない。 このコロッセオで、このターミナルで、この0世界で。例え世界すら異なる地にいようとも、助けを求めれば必ず駆けつける。 必ず手を差し伸べる。なりふり構わず死に抗わせてやる! 神でも悪魔でも誓約でもない。これは私達の意地の慟哭だ。助けを求めるものは絶対に死なせない。 ナラゴニア進軍のあの混乱の中で気概に燃えていた、クゥ・レーヌに申し訳ない。 彼女は今もあの医務室で、担ぎ込まれる旅人の治療をしているのだろうから。 EP17.■Bar「軍法会議」の一幕【ガルバリュート・ブロンデリング・フォン・ウォーロード/ヌマブチ】 ――正確には生死不明よ。遺体は見つからなかった。 ……あれがそう簡単に死ぬとも思えないからどこかで生きていると思っているわ。 姿を見せないのはおおかた、放置プレイかなにかと勘違いして―― ――惑星アルガニアの某王国の王女 彼ら以外に客はいない。 しずかな店内に、訥々としたヌマブチの声だけが粉雪のように降る。 ガルバリュートは、ただ相槌を打っている。 マスターは無言でグラスを拭く。ぴかぴかに磨きあげたグラスにビールを注ぎ、何も言わずに彼らの前に置く。 まるで点景であるかのように、彼らの話に聞き耳さえも立てない。口も挟まない。 この店に来る客たちは、ビールの美味さなどを特に語ったりはしない。上質な酒を求めることが第一義ではない価値観のものが多いからともいえようか。かと言って酔えればいいというものでもなく、水のように空気のように、なくてはならぬ何かを求めていたりもするのだ。 ガルバリュートは、それこそ水を飲み干すように、あっという間にグラスを空にした。 お代わり、の言葉があるわけですらなかったが、マスターは黙々とサーバーから2杯目を注ぎ始める。 こだわりのない、いわばうるさがたの客ではないにも関わらず、マスターは徹底したプロフェッショナルの「3度注ぎ」の技を施していた。 グラスは傾けない。ビールがグラスの3、4割程度まで来たら止める。それが1度目。 2度回めはゆっくりゆっくり、ビールの泡がグラスから少し盛り上がる程度に注ぐ。 泡が消えるまで2、3分待ち、3回目を静かに注ぐ。そうすれば泡は壊れずに美しく、タワー状に立つのだ。 そして美しい泡を造るには、綺麗なグラスを使うことが条件である。指紋ひとつ付けてしまえば、泡立ちは大きく異なってくる。 だからマスターは、いつもグラスを磨いている。 ただ黙々と、ガルバリュートとヌマブチはグラスを重ねる。 彼らにしては静かな酒……、いや、それはどうだろう。 この筋骨逞しい騎士も、三白眼の軍人も、本来、にぎやかに飲んで騒ぐような男たちではないのだから。 だからこれは、如何にも彼ららしい酒席と言えるかも知れなかった。 ヌマブチは北極星号で見聞きした、ガルバリュートの故郷の話をしていた。 「嘗てバーで話題に上がった港から、宇宙船が発つ様を見て来たよ」 「フム」 「某にはやはり魔法の方が好ましいが、貴殿の言っていた趣深さというのも分からんでもない」 「フム」 「それと……、偶然にも、貴殿の主君たる姫君に会った」 「フム。姫は……?」 「生きていたよ。元気そうだった、人を鞭打つ余裕すらあったぞ」 「……フム」 「貴殿の生存と帰還を信じていたとの事だ」 「フム」 「良かったな。これで貴殿も騎士としての本懐とやらを――…」 ヌマブチは言葉を切る。 決して饒舌ではない彼であるのに、さきほどからひとりで話している気がしたからだ。 改めてガルバリュートを見て、気づく。 この騎士が――、動揺していることに。 驚き。 喜び。 感謝。 そして、戸惑いと不安。 そうした、複雑極まりない心境であることに。 ひたすら酒をあおっている彼が、どうしても酔うことができなくて困惑していることに。 「正直、感謝している。だが、拙者も多くの世界を知りすぎてしまった」 ――それでも、逃げることはできぬ。 2杯目をあおり、ガルバリュートは言った。 「アルガニアへ行かねばならぬ。拙者のこの気持ちを伝えねば」 「……それはまた」 ガルバリュートの言葉に、ヌマブチは素直に驚いた。 「……いや、失礼。あー、だが、ふむ、正直な事を言えば、意外だ」 「そうか?」 「貴殿は騎士の誇りとやらで即座に帰属するのだと思っていたし……何より、あー」 持ち上げかけたグラスを、テーブルに置く。 「君でも……迷う事が、あるのだなと」 † † ヌマブチは思う。 彼の逡巡を見て、内心安堵したのだと言ったら、この迷える友人は自分を非難するだろうか。 迷いや思案、煩悶。 彼はそういうものには縁がないと思っていた。 常ならば、ヌマブチはこう言って一蹴するだろう。 「判らん」 だが、今回ばかりはそうもいかない。 自分の今までの旅の過程で抱いてきた疑問との類似性を、認めない訳にはいかないからだ。 つまり。 簡単に言えば。 完璧ではないにせよ。 ……気持ちが判ってしまうのだ。 「……ま、精々悩んで、探すと良い。答えが出るまでの間、愚痴と酒に付き合うぐらいの事は、僕にも出来る」 † † そしてガルバリュートは、自身の真意を確かめるべくアルガニアに向かった。 以下は、後日ヌマブチが聞いた、そのときのあらましだ。 「おお……! おお……!! 姫様! ご機嫌麗しゅう!」 名乗りをあげ、姫を見る。 立派に成長した王女を。 涙が、溢れ出す。 サイボーグとなった我が身からは出るはずのない涙が、心を流れる。 現在のアルガニアは、旧王家の血を継ぐ第3王女の下にまとまっていた。 新王朝の嫡子達は惑星を追い出され、宇宙帝国の力を借りてアルガニアを征服しようと画策している。 だが王女の周囲には、良き家臣たちが集まっているようだ。 ……ならば、この国は安泰だ。 「麗しくないわよ! 今までどこほっつき歩いてたのよ! それでも騎士なの? お仕置きよ!」 鞭を振り上げた王女に、ガルバリュートは深々と頭を垂れる。 「……本当にご立派になられた。安堵いたしました。どうぞ、お暇を戴ければ有難き幸せ」 「……何ですって?」 雷に撃たれたような表情を、王女は見せる。よもや、この騎士がそんなことを言い出そうとは夢にも思わなかったのだろう。 「拙者のような死人が蘇っては、再び国が混乱するかも知れませぬ。それは拙者の本意にあらず」 「……何を、言ってるの……? 戻って、くるのよね……?」 「拙者は一度死に、世界から放逐された身。理由はどうあれ、世界と切れた拙者に舞い戻る資格などありませぬ」 「戻ってきなさい。命令です。ガルバリュート・ブロンデリング・フォン・ウォーロード!」 「拙者は既に死んだものとして忘れてくだされ。草葉の陰より、姫のご多幸をお祈りします故」 「駄目よ。駄目よそんなの。許さない。許さないんだから!」 ぴしっ! ぴしっ! ぴしっ! 涙ながらに何度も鞭が振るわれ、やがて―― 王女は鞭を投げ捨てて騎士に駆け寄り、抱擁した。 「お前が頑固で揺るぎない騎士であるのは、私が一番良く知っております」 「姫」 「さようなら。今までありがとう」 それが、この類い稀な騎士と姫君の、今生の別れだった。 † † 「今日は僕がおごるとしよう」 顛末を聞き終わり、ヌマブチはビールを注文する。 ガルバリュートは淋しげだが、どこか爽やかな表情でもある。 そしてヌマブチは、自分に共感というものが出来たという事に気づき―― 何やら妙に、気が楽になった気がしていた。 ビールをひとくち飲んで、ガルバリュートは言う。 「まずい」 ヌマブチも言う。 「まずいでありますな」 「FU〜。まずい」 「まずいであります」 ――まずいはずがない。 今日もグラスは綺麗に磨かれている。 マスターは3度注ぎの技で、かっちりした泡をグラスに盛り上げている。 自身の変化への驚きと感慨深さに、まずいまずいと狼狽える不器用な男たちを、マズターは無言で許す。 そんなBar「軍法会議」の一幕であった。 EP.18■鬼たちの乱【石川五右衛門】 「嬉やと 再び覚めて一眠り 浮世の夢は暁の空」 ――徳川家康・辞世の句 ぱちりぱちりと、炎が弾ける。紅い蛍のように火の粉が飛び交う。 天の川が地平線にまで流れるのがはっきりと見える。 凄まじいほどの、星空だった。 五右衛門も「黒鬼」も「キョウ」も、焚き火を囲みながら、ひとことも発しない。 小さな河原での、ささやかな野営である。 明日は決戦。 一番鶏が鳴く前に、魔道に堕ちた家康の居城「泉頭城」を急襲する。 10万もの《鬼兵》が取り囲む城を、たった3人で攻め落とすのだ。 † † 世に疫病や飢饉が相次いだのは、去る元和2年からのことだ。妖怪や魔物、魑魅魍魎といった《アヤカシ》どもが跋扈し、民を恐怖に陥れていたのも。 当時、病に伏していた徳川家康は、突如として年号を「応真(おうま)」と改元した。 応真13年、江戸のすべてを穢れた土地に変え、しかし家康は未だ死なない。 〈真理〉に覚醒した五右衛門は知っている。 別の世界の歴史では、家康は元和2年に病死していることを。 ――この歴史を変えなければ、《アヤカシ》は消滅せず、江戸は「穢土」のままだ。 † † 五右衛門はすでに再帰属をはたしている。 故郷を見つけてのち、彼の行動は迅速だった。 理比古と虚空への別れの挨拶さえ、どんな言葉を伝えたのかも覚えていない。 おそらくは彼らしい手短さで、あっけないほどだったような気はする。 ――じゃあオレ様は帰るわ。 ――お前らと出会えて楽しかったぜ。 ――元気でな。 『家族』がひとり減ることを、理比古は寂しそうにはしていた。だが、それが五右衛門の望む人生であることを、十分わかっているのも彼のはずだった。結局はにこやかに見送ってくれた。 虚空にいたっては五右衛門以上にあっさりしたもので、還る場所が見つかってよかったな、とだけ返してくれた。 五右衛門は、黒鬼とキョウの様子をうかがう。 黒鬼は先ほど、青葉と紫草で包んだ、少し固くなった握り飯をキョウと五右衛門に振る舞った。そして自身は欅の大木に纏った黒革の鎧ごと背中を預けて腕を組み、眼帯のないほうの目を閉じている。 この隻眼の青年は、自身の素性を語ろうとしない。ただの武士だ、としか云わない。本名を伊達藤次郎政宗と云うらしく、ならば陸奥仙台藩の初代藩主となるはずだが、そんな男が何を思い、何故五右衛門と行動をともにする仲間となったのかは謎のままだ。 キョウは大きく伸びをし、おおらかに首筋を掻いた。普通に江戸の街を闊歩するのが似合いそうな、少しも気負ったところのない青年である。 素性がわからぬのはキョウも同様、いや、それ以上かも知れない。彼の独特な価値観と見据えているものの大きさは、この世界で生まれ育った人間には醸成しえぬもののように思われるからだ。 (……家族。仲間) それは随分と、情緒に流れた関係のように思う。 黒鬼もキョウも、およそ『仲間』という存在とは無縁の生き方をしてきたはずで、それは五右衛門も同様だ。はからずも異世界で、蓮見沢理比古に『家族』として遇されたことはあったけれど、それは五右衛門にとっては非常に異例な状況といえた。 家康を倒せば、この関係は何ごともなかったかのように瓦解する。 だが、彼らと縁が切れ、二度と相まみえることはなくとも―― 決戦前夜のこの星空を、焚き火の紅を、川のせせらぎの音を、ふるまわれた握り飯の固さを、忘れることはないだろう。 † † 巨大な《軍馬》が、天空を駆け、容赦なく砲弾を放ち続ける。 それは、何という戦いであったろう。10万の軍勢に向かうのは、たった3人。 だが、その戦力は圧倒的だったのだ。 彼らの乗る、《軍馬》。 空飛ぶ鋼鉄の機械であるが、馬というのなら馬には違いない。 青海波(せいがいは)。太夫黒(たゆうぐろ)。薄墨(うすずみ)。 いずれ劣らぬ名馬の名前。それらは源義経の愛馬の名だ。 一ノ谷で、屋島で、壇ノ浦で、彼は軍功をあげたけれど、やがてその首は打ち取られ、美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められた。 しかしそれも過ぎ去りし歴史。 見よ。 今、打ち取られるのは、かつて源氏を名乗った家康の首だ。 † † やがて。 幕府が家康を東照大権現として祀り、その息子、秀忠が将軍の座についた。 ……世の怪異は治まった。 だが、それが時代の特異点となった。 歴史は変わり、この世界は変貌していく。さらなる異なる世界へと。 黒鬼は、秀忠に仕えることになった。 キョウは、彼の世界へと帰っていった。彼はもともと、この世界の人間ではなかったらしい。 海賊、石川五右衛門の消息はつかめていない。 風の噂では大陸に渡ったと伝えられている。 そして、その未来は狩納蒼月の時代へと繋がる。 だが、それはまた別の話だ。 EP.19■夢の街での再会【南雲マリア/瀬崎耀司】 ヴァイオリンを演奏するのは、久しぶりだ。 両親と友人から拍手を受け、マリアはゆるりと頭を下げる。 香ばしい珈琲のかおりが漂う店内に、ああ、帰ってきたのだな、と、思いながら。 † † 銀幕市におけるすべての魔法が解けた後で、マリアは生まれた。 この街に夢の神の娘が魔法をかけ、外界から切り離されていた時代を、マリアは知らない。 映画の登場人物が実体化し、《ムービースター》と呼ばれ、この街の住人となっていたころの空気感を知らない。 そのころ、今のマリアとほぼ同じ年ごろだったという母は、懐かしそうに愛おしげに、深い喪失感とともに語るのだ。親しくしていたある《ムービースター》との交流と、彼の壮絶な最期を。 壮大な万華鏡のなかで踊っているような楽しさと、深淵の《穴》の中へ逆さまに身を投げたくなる絶望と、単身、嵐の海へ小舟で繰り出すような決心と、絶望を希望に塗り替えて、《ムービースター》たちが銀幕市から永遠に去ってしまった切なさを、まるで昨日のことのように。 今は『カフェ・スキャンダル』の女性店長である常木梨奈が、当時は可愛らしいコスチュームでウエイトレスをしていたこと、銀幕市役所の総務課長職にある植村直紀が、「映画実体化問題対策課」の責任者として昼夜問わず激務に忙殺されていたこと、母のSAYURI以上の美貌を持ち、押しも押されもせぬハリウッド女優の柊のぞみが、銀幕市立中央病院でずっと眠っていたことを。 だけど、知らない。 わたしは、そんなことは知らない。 わたしが知っているのは、螺旋特急が走り抜けるディラックの空と、無数の世界群を巡る冒険旅行。さまざまな異世界のひとびとが集うターミナル。 わたしが知っているのは、あの列車に二度と乗れないという寂しさ。あのめくるめく異世界に二度と行けないという切なさ。 ――あのひとに二度と逢えないという、喪失感。 (……瀬崎さん) 恋人と離れ、再帰属したことに後悔があるわけではない。 両親や友人たちと再会できたことは、素直にうれしく思う。 それでも、どうしても、心の隙間が埋まらない。 † † この街は、相変わらず映画という名の魔法が席巻している。 そして、そこここに、未だにかつての痕跡が残ってはいる。 マリアはふと、銀幕ふれあい通りのスーパー「まるぎん」へ足を伸ばしてみた。 「マリアさん? マリアさんじゃありませんか」 「わん……?」 おだやかな雰囲気の男性が、老齢のグレーハウンドを散歩させている。 銀幕ベイサイドホテルの総料理長、本田流星だった。彼のことや、連れている犬の名が「ペス」であることは、マリアは母から聞いて知っている。少女時代の母は、ベイサイドホテルの最上階を定宿にしていたのだ。そのときから総料理長をつとめていた流星は驚異的な童顔であったらしい。 彼はその後、珊瑚姫を演じた女優、浦安まやと結婚し、母親似の娘をもうけている。彼の娘、本田あゆみは、マリアの友人でもあった。 「本田さん。ペスちゃん。お久しぶりです」 マリアはペスの頭を撫でる。グレーハウンドはおとなしくされるがままだった。 かつて《ムービースター》がこの街に存在したとき、「ペス様」と様つきで呼ばれ、仔ダヌキの隊長のもと、ヴァンパイアの使い魔や殺人教師が連れた人魂、凶悪顔のバッキーなどで構成されていた「小さいものクラブ」を震え上がらせ、「まるぎん」のタイムセールでは、あるムービースターとカニクリームコロッケを奪い合ったと聞くけれど、そんな往年の「銀幕市最強生物」の面影は今はない。 「お元気そうでよかった。お戻りになられたことは娘から聞いてはいたんですが」 「あゆみちゃんにも心配かけたみたいで、すみません」 「いいえ。ご無事なら何よりです」 「そういえばペスちゃん、病気だったんですよね。もう散歩しても大丈夫なんですか?」 「気候が良くなったので、とりあえずは。ただ、この子はグレーハウンドの平均寿命をずいぶん超えてましてね。ラッカーはとうに亡くなったので、せめてペスにはずっと長生きしてほしいですが、こればかりは何とも」 「わん、わん! わわん、わん!」 「ちょーっ! 待ってよラッカー!」 元気な鳴き声とともに、グレーハウンドの子犬が駆けてくる。そのあとを、華のある美少女が追いかけてきた。 「あゆみちゃん?」 「あー、マリア! お父さんも! ちょうどいいところに。その駄犬、つかまえてぇー!」 マリアは慌ててつかまえ、抱き上げる。子犬は、漆黒の毛並みをしていた。 「わん! わんわんっ!」 「……この子」 「先日生まれたばかりの、ペスの孫にあたる子犬です。祖父のラッカー(漆)とよく似ているので同じ名前をつけたんですが、何ともやんちゃで落ち着きがなくて、昔のペスにそっくりですよ」 「そうなのよ。小さい生き物を見るとやたら追いかけたがるし、まるぎんのタイムセールの音楽を聞くと無闇に張り切ってカニクリームコロッケを狙おうとするし」 「そうなんだ」 くすりと笑って、マリアは子犬を抱きしめる。 その様子を見て、あゆみは安堵したように微笑んだ。 「良かった」 「え?」 「少し、落ち着いたのかな? 帰ってきてから何だか元気がなかったみたいだったから」 「……。ごめんね」 「私、何にもできないし、恋の悩みとかはぜんぜんわかんないけど、話を聞くことくらいできるよ?」 「……うん。ありがとう」 「そうだ。ね、映画いかない? 『パニック・シネマ』に新作きてるよ?」 ロイ・スパークランド監督のファンタジー超大作「ドラゴン・ウォーズ」には、柊のぞみも出演しているらしい。マリアはあゆみに手を取られ、引っ張るように映画館へ連れていかれたのだった。 † † 帰属のためにロストレイルに乗ったマリアを見送ってから、ひと月が過ぎた。 瀬崎はあてどもなく、ターミナルを歩く。 (マリアはいつも、不安そうだった) 今さらながら、瀬崎は思う。 ふたりきりでリゾートに出かけたときでさえも。 ヴォロスの《仙薬の都ヴァイシャ》の《鏡の湖畔》のヴィラで、満天の星空を見上げていたときでさえも。 彼女はおそらく、故郷に帰りたいのだろう。 自分との関係は、かりそめのものなのだろう。 ずっと、そう思っていた。 いったん故郷に帰ったならば、自分のことなど忘れ、新しい恋を見つけるはずだ——とも。 気がついたときには、画廊街の外れにいた。目の前には、小さな映画館。 「ここは……」 そうだ、シネマ・ヴェリテ。ときおり、たったひとりのためのロードショウを行ってくれると聞く。 ふらりと入ってみる。 中には、誰もいない。映写技師も助手も、留守にしているようだ。 から、から――と。 無人の映画館に、映写機の回る音だけが響いている。 最初は白い光ばかりを映していた銀幕に、影が混じり始めた。スクリーンに色が現れる。 鮮やかに光がはじけた。無数の燈火が揺れるように、柔らかな色彩が乱舞する。 華やかに、優しく、映画の始まりが飾られていく。 銀幕から溢れる光は、無人の客席をも輝かせた。 シネマ・ヴェリテに光が充ちる。 赤、青、金――七色の鮮やかなノイズに彩られ、やがて、銀幕は映像を結び始める。 ――虹のフィルムは《無窮》。 魅入られたように、瀬崎は客席に腰をおろす。 やがて、スクリーンにタイトルが浮かび上がった。 『 銀幕★輪舞曲 Dance With Films 』 † † 映画館から出たその足で、瀬崎は図書館ホールに向かった。 司書をつかまえてチケットの発行をしてもらうなり、ホームへ急ぐ。 アナウンスが響いた。 「0世界<ターミナル>発、<銀幕市>行きの定時列車は、まもなくターミナル標準時16時に、3番ホームより発車します。チケットをお持ちの方は、お乗り遅れのないようにお願いします」 ――そして、 ほどなく恋人たちは、夢の街で再会することになる。 EP.20■百鬼夜行の花魁道中【霧花】 図書館ホールの壁に、無名の司書はぐったりと寄りかかっていた。 「う〜。何てことかしら二日酔いだわ。うっかり『軍法会議』に顔出しするんじゃなかった。まさかヌマブチさんとガルバさんに、あの店のビールサーバー空にするまで飲み比べ挑まれるとは思わなかったわ〜。何なのあのおっさんたち何か吹っ切れちゃって激つよくなってやんの。んもー、モリーオさんの司書室行ってミントのハーブティー淹れてもらわなきゃ」 そんな司書に、やわらかな声がおっとりと掛けられた。 「もし、そこな司書様。何ぞ、わっちひとりで行けるような依頼はありませぬかえ?」 「そだ、ミントティー飲んだらルルーさんとアドさんと灯緒さんとクロハナさんとカウベルさんとメルチェさんとクゥさんをもふりまくって気分転換しよー」 しかし司書は二日酔い解消法の模索に余念がなかった。このままではふわもこ司書陣ばかりか、メルチェさんとクゥさんまでもふられてしまう。逃げてー! あっ、カウベルさんはふわもこ枠ということで、はい。 「……もし? 司書様え?」 「ん? んんん?」 霧花から話しかけられていることにようやく気づき、司書はきょろきょろと辺りを見回す。まさか自分へのお声掛かりだとは思わなかったのだ。 「えっ、あたしご指名? 霧花さんが? ホントに?」 微笑んで頷く霧花に、それでもしつこく念を押す。はたして自分がこのように艶やかでしっとりした女性のお役に立てるだろうか。何かの間違いではないだろうか。 「ほんとーーーにあたしでいいんですか? リベルせんぱいじゃなくて?」 再度、霧花は頷く。 「モリーオさんとかルルーさんとかクロハナさんとか灯緒さんとかアドさんとかカウベルさんとかヒルガブさんとか予祝之命さんとかガラさんとかルティさんとか緋穂さんとか鳴海さんとかじゃなくていいの?」 やはり頷く。 「ガン・ミーさんリードゥさんグラウゼさん戸羽さんアインさん蘭陵さんにゃんこさんトツカさん湯木さんロズリーヌさんクサナギさん茶缶さん戸谷さん火城さんロイシュさんカトリーヌさんリルカさん飛鳥黎子たんボラン様エリザベスさん瑛嘉さんアマノさん深山撫子さんリューディスさん鹿取さんオリガさんジジさんツギメさんアドルフさんDJ E・Jさんエミリエたんシドさん」 ……こうして列挙してみれば、世界図書館はかなり人材豊富だ。 「待って、大事な司書さんが抜けてたわ。ホーチくん。ホーチくーーん」 司書は、マチコ巻きにした黒ショールで覆った自分の肩を見る。ショールのくぼみにすっぽり包まれて、コザクラインコ司書が爆睡していたのだ。どんなにもふっても寝返りを打つだけで起きようとしない。 「ホーチくんは0世界大祭の駅伝でバタンキューしてから眠りコザクラになってるのよねー」 「むにゃ……。一途に尽くしまっせ……。ぐぅー」 「ホーチくんが適任だと思ったんだけど、わかりましたっ! 頑張れあたしの『導きの書』! 霧花さんにふさわしい世界の依頼をカモンプリーズ〜〜!」 司書は『導きの書』を開き、ふんぬ、と、にらみつける。 恐れをなした『導きの書』は……、あ、いや、そのとき偶然にも、とある予言が浮かんで来た。 † † 来たキタきたー! きましたよー、と、叫んでから、司書ははたと我に返った。 「はっ。この依頼はシリアスモードでお伝えしないと。ちょっと着替えてきますー」 いったん司書室に戻った無名の司書は、シリアス依頼専用スーツに衣替えして帰ってきた。ちなみにホーチくんは、司書がコスチュームチェンジした後も肩のうえで器用に眠ったままだ。 では改めて、と、咳払いをひとつ。 「日々、無数の新しい世界が発見されているのはご存知のとおりです。先日も、妖(あやかし)、物の怪(もののけ)、鬼、魔物、怪異、妖魅、妖霊、九十九神(つくもがみ)等が人間たちとごく近くで共存している世界が見つかり、『妖異列島・コノハナサクヤ』と名付けられました。お願いしたいのは、この世界での異常事態《逢魔刻現象》の鎮静と《涙石》の回収です」 コノハナサクヤでは、妖異は彼らの理の中でのみ行動し、ひとと密接に関わることはない。しかし、ときに、ひとが妖異を召還し、使役することがある。 昼と夜の様相が移り変わる端境の時刻を選び、行われる呪術、《逢魔刻参り》――。 それは、本来、帝(みかど)より正式な認可を受けた呪術者が、一定の召還術に則って召還し、使役後はすみやかに帰還させる、そういった儀式である。 だがまれに、自身の欲や情動のために、無許可で《逢魔刻参り》を行うものがいるのだ。 それは大概、呪術者となるちからを持たぬものの手による。そして往々にして失敗する。 召還した妖異は、使役されることを拒み、暴走する。通常はひとに災いをなさぬ妖異までもが、天変地異を引き起こし、甚大な被害を及ぼすことになる。いったん暴走を始めた妖異は、ちからある呪術者でさえも押さえることはできない。事態をおさめるには妖異を退治するしかなく、その過程さえなかなかに困難だ。 「されど、そうなると誰にも対応しかねるのでは?」 「それがですね、ある報告によれば、どうやら『封印のタグ』が有効なようなのです。ヴォロスで《竜刻》が暴走したときに使用するあれです」 「では、『封印のタグ』を妖異に転用すれば静められると……?」 「はい。どんなに暴走中の妖異でもこれを貼りさえすれば、たちどころにすがたを変え、美しい宝石状の無害な《涙石》となるのです。暴走がおさまった竜刻のようなものとお考えください。世界観に合わせ、『封印のタグ』のデザインと名称を微調整し『結界札』と呼称します」 † † 今回、非公式な《逢魔刻参り》を行ったのは、ある名高い花魁だという。 その動機は、帝への復讐。 お忍びで彼女のもとへ通い、情をかさね愛をささやき、早々に側室にとりたてると誓っておきながら。 身分の高い美しい娘を新しい側室にむかえることが決まったとたん、その約束を保古にしたのだ。 ……来や、妖異たちよ。 帝の住まう都を、滅ぼしてしまえ……! 召還そのものは、成功した。 何となれば、コノハナサクヤの妖異は『花魁』に惹かれる習性があるからだ。 問題は、成功しすぎたことだった。 百体もの妖異が、召還に応じたのだ。 妖異たちは『花魁』を好むあまり、まず彼女を食いつくした。 そして今、帝のしろしめす都は、妖異の巣窟となっている。 † † 「……それは、何ともあわれな……」 自身も花魁である霧花は、いたましげに目を伏せる。 「ええ。……でもね、こんな結果になったのは、彼女の力不足ともいえるの。術者としてももちろんだけど『花魁』としてのね」 「それは、どういうことですかえ?」 「本当に力のある『花魁』を、妖異は襲ったりしないのよ。ただ崇拝して憧れて、あとをついていくだけ」 だから、これは霧花さんにしかこなせない依頼なの。 ――そして霧花は、結界札を100枚、渡された。 † † 花魁道中を行えばいいのよ。 都のいちばん大きな通りに、結界札を全部、まえもって並べて置いておくの。 そのうえを歩かせるように、誘導すればいいのよ。 † † 世にも美しい花魁が、都大路を練り歩く。 髪を豪奢に結い上げ、金と銀の衣装に身を包み、三枚歯の高下駄を履き、独特の外八文字で。 木魅(こだま)。天狗(てんぐ)。幽谷響(やまびこ)。山姥(やまうば)。山童(やまわろ)。犬神(いぬがみ)。 白児(しらちご) 。猫叉(ねこまた)。河童(かっぱ)。垢嘗(あかなめ)。窮奇(かまいたち)。網剪(あみきり)。狐火(きつねび)。絡新婦(じょろうぐも)。鼬(てん)。叢原火(そうげんび)。釣瓶火(つるべび)。ふらり火。姥が火(うばがび)。火車(かしゃ)。鳴屋(やなり)。姑獲鳥(うぶめ)。海座頭(うみざとう)。野寺坊(のでらぼう)。高女(たかおんな)。手の目(てのめ)。鉄鼠(てっそ)。黒塚(くろづか)。飛頭蛮(ろくろくび)。逆柱(さかばしら)。反枕(まくらがえし)。雪女(ゆきおんな)。見越(みこし)。塗仏(ぬりぼとけ)。濡女(ぬれおんな)。興寺(がごぜ)。苧うに(おうに)。青坊主(あおぼうず)。赤舌(あかした)。牛鬼(うしおに)。ぬっぺふほふ。うわん。しょうけら。ひょうすべ。わいら。おとろし。ぬらりひょん…… 見よ、妖異たちを。 酔ったようにうっとりと、花魁のあとをついて行くではないか。 † † 百の《涙石》が、都大路を埋め尽くしている。 依頼は成功ということになるが、しかし。 「……困りましたえ」 司書は涙石を「回収」せよ、と云っていた。 ゆえに、霧花は、石は手のひらに乗るくらいの小さなものを想像していたのだ。 「まさか、等身大のすがたのままとは……」 これを、どう持ち帰れというのだろう。 とりあえず霧花は、紫水晶となったぬらりひょんから、運ぶことにした。 EP.21■オペラ・バスティーユの奇跡【ゲーヴィッツ】 オペラ・バスティーユ(L'Opéra de la Bastille)。 フランス革命200年を記念してバスティーユ広場の東側に建てられたその歌劇場は、現代建築の粋を集めている。設計コンペが行われた際には、なんと47ヶ国1700人の建築家が挑戦したという。 結果、採用されたのは、カナダ人の建築家カルロス・オットーのプラン。地上7階地下6階建、ガラス張りのモダニズム様式だ。座席数は2703。世界最大の9面舞台を持ち、舞台装置はコンピューター制御でコントロールされている。 こけら落しの初公演は、1990年、ベルリオーズのオペラ『トロイアの人々』。観客は幕間にシャンパンを飲みながらバスティーユ広場を眺めることができる。 今も、『トロイアの人々』は、ある突出した歌手を得て上演中だった。 第一部、「トロイアの陥落」を、彼は朗々と歌い上げる。 古代トロイアとカルタゴの情景が、観客の脳裏に生々しく浮かび上がる。その歌声は神の筆のように古代世界を描写する。 鍛えられた筋肉と大柄な体躯から繰り出される、圧倒的な声量。しかし、決して恵まれた声量だけに頼るのではない、素晴らしい表現力。 ときには迸る激情を、ときには細やかなやるせなさを、彼は鮮やかに声に乗せていく。 彼はある日突然に、華々しくデビューした。 何という奇跡だろうか、これほどの逸材が今までどこにいたのか、そのプロフィールや如何に、と、ひとびとは興奮しながらプログラムをめくる。ひそやかに、隣席のものに聞いてみたりもする。 だが、彼についてはいっさいが謎。 ゲーヴィッツ、とだけ記されたそのオペラ歌手の前身を、知る者はない。 † † ゲーウィッツは、今までに何度か壱番世界を訪れた。そして、この世界も悪くないな、と、思い始めた。 もとの世界に戻ってみたのは、その矢先のことだ。 大氷原の迷宮の守護者たる彼としては、迷宮に挑む冒険者たちのことが心配だったのである。 ……もっとも。 今までだって、冒険者たちの行く手を阻むと見せかけて、なーんかもの馴れない初心者には、さりげなくわかりやすい道へ誘導したり、あらかじめ魔物を倒しといてあげたり、ちょーっとこの子には迷宮攻略無理くね? という場合だと、最深層の、万能の病に効く泉があるところまで同行したげたり、途中で寒さに凍えて力尽きちゃった冒険者がいたりすると、毛布でくるんであげて、携帯食料を添えたげて、近くの村まで運んであげるとか、ずっとそーゆーことをしてきたのだった。ほんとーに親切な管理人さんである。 だが、今までそうやって冒険者たちの面倒を見てきたのが功を奏したようで。 (おい、ちゃんと装備を用意しとけよ。ゲーウィッツさんに迷惑だろ) (魔物を自力で倒す力がないうちは迷宮に入るなよ。ゲーウィッツさんだって忙しいんだから) (携帯カイロは持ったか? 食料は? あんまりゲーウィッツさんを心配させるなよ) と、冒険者の皆さんには、自立の気概が起こっていたらしい。 迷宮に自分がいなくても問題なさそうだ。 そう判断したゲーウッツは、晴れて壱番世界に帰属することにしたのだった。 † † 彼は努力の結果、なんとか普通の人間っぽいすがたに……、ゆってもやっぱり2メートルは余裕でオーバーな筋骨隆々の巨漢さんなわけだが、ま、壱番世界にいてもそんな不自然じゃないよね、なすがたに変身出来る能力を得た。 さて、何をしようか、と、考えたとき、まず思い浮かんだのは、以前、司書たちの旅行バスに同乗して東京のお台場を訪れた際に出会った、様々な路上パフォーマーのことだった。 ……人間の、芸術を作り出す力は素晴らしい。 改めてそう思い、いろんな道を模索してみた。 タフな肉体をフル活用し、普通人がなかなか立ち入ることの出来ない、極限の地を専門とした写真家。 氷像に特化した彫刻家。 この類い希なる肉体を生かしたモデル。 荒々しく、ひとの視線と心を惹きつける、圧倒的な動きのダンサー。 興味のおもむくままに試してみて、結局彼が落ち着いたのは、その身体から放たれる圧倒的な声量と、響きの良い低音声を生かしたオペラ歌手だったのである。 ゆえに。 今日も彼は美声を響かせる。 堂々たる肉体を、さまざまな舞台衣装やタキシードに包み、世界中の、彼の声を聞こうと詰めかけた観客で満席となった歌劇場で。 果てしなく広がる銀世界に浮かび、空を美しく染め上げるオーロラの歌。 心の奥に、おぼろげに浮かぶ美しい女性―― 名前すら思い出せないけれど、きっと大切な存在であろう彼女に捧げる歌を。 EP.22■さよならなんていわないのです【シーアールシーゼロ】 ゼロは、ゼロである。 ゼロであるがゆえに、求めた。 世界群の階層を、一気に押し上げることを。 世界の数はいくつあるのだろうか。 そんなことはわからない。 限りなく無限に近い有限であるということしか、わからない。 階層は「上層方向」と「下層方向」に分かれる。 「プラスの世界群」と「マイナスの世界群」に。 プラスの世界群は、光や秩序に恵まれて、慈愛が是とされるという。 そう。 たとえば。 モフトピアのように。 あれこそが楽園。あれこそが至高。あれこそが真理。 (全世界群はモフトピアのようになるべきなのです) これぞ、「まどろむもの」の野望。 誰がゼロを止められようか。 ……チャイ=ブレ? 否、あれは「生き物」に過ぎぬ。 貪欲に知識を求めては喰らい続けるさまは、空腹を訴えて泣き叫ぶ赤子と変わりはしない。 † † それを「全世界群モフトピア計画」と呼ぼう。 ゼロはその達成手段を、ワールドエンドステーションで求めた。 その答は――、 『手段はいくつか考えられる』 『だが人為的な階層移動は世界の滅びにつながる危険がある』 『よって非推奨』 ならば、いっそうその手段を探求しなければならない。 世界群の法則を安全に変更するための、手段を。 ゼロは目指した。 ただひたすら探求のために。 ディラックの空の、さらにその外を目指すために。 † † ゼロは探求した。 その結果、結論を得た。 イグシストを超越すべし。 トラベルギアの制限を自力のみで破るべし。 ならば、イグシストに頼らぬ存在保証が得られよう。 ディラックの空の移動も問題なく可能であろう。 † † ゼロは巨大化した。 ただひたすら鍛錬のために。 イグシストを超越するために。。 トラベルギアの制限を自力のみで破るために。 イグシストに頼らぬ存在保証を得るために。 ディラックの空の移動を問題なく可能とするために。 † † 鍛錬の結果、ゼロは、それらをすべて可能にした。 † † ゼロは鍛錬を終えた。 ディラックの空の、さらに外を目指す準備を整えた。 新ゼロ世界創造の準備を整えた。 † † ゼロは無名の司書にしばしのいとまを告げる。 「ゼロは必ずターミナルの皆さんと再会するのですー。だからさよならなんていわないのです」 † † ゼロは出発した。 それは250年より後のこと。 チャイ=ブレとの決戦を見届けた後のこと。 † † ゼロは何時か帰ってくる。 ゼロはイグシストをも無限に凌駕するのだから。 究極をもさらに超越するのだから。 † † 何もかもが時間の問題であるならば。 無限性のゼロにはそれも時間の問題。 ゼロは必ず、帰ってくるだろう。 EP.???■名も無き司書による観察記録【ニヒツ・エヒト・ゼーレトラオム】 今日もニヒツさんは、元気にターミナルの建物の隙間に挟まっています。 ギギギッギギー♪ ギギギー、ギーギー。 グリュリュー。ギギギー、ギッギッギッギ。 おや? どこかで誰かがうちわを仰いでいますよ? ぱたぱた。 ぱたぱた。 ぱたぱた。 大変! ニヒツさんの周囲に煙があがりました! 「ギー?」 いつの間にやら、ニヒツさんの体は段ボールに覆われているではありませんか。 左右には壁。 前後と上には段ボール。 下はぽっかり穴が開いてます。煙はそこから立ち上ってきます。 ……燻されているっぽいです。 でもそんなに苦しそうではありません。 ニヒツさんの体にまとわりつくのは濃密な金木犀の香りだったのでした。 あれは、いつからだったでしょう。 決まった時間になると何者かがニヒツさんの体を覆って、金木犀の香を焚きこめるのです。 やがて、ニヒツさんの毛皮には金木犀の香りが沈着し始めました。 「ギーギギー」 初めて金木犀で燻されてから数ヶ月後。 ニヒツさんの挟まった壁のそばを行き過ぎるたび、旅人たちが振り返るようになりました。 「今、なんかいい匂いがしなかったか?」 「そうか?」 そんな日々が続いています。 ただ、ひたすらに。 一年が経過しました。 通りがかったシェムレス・ビィたんがニヒツさんの隣に舞い降りました。 ビィたん、見つめます。 見つめます。 じーっと見つめます。 不審なものを発見した目つきでじーっとな。 ビィたん、やがて勇気を振り絞り、そっと近付き、おそるおそる手を伸ばして……、 触れるか触れないか、その1ミリを踏み出せずに引っ込めます。 引っ込めてからも、自分の勇気を奮い起こし、今度は人差し指を立てて、そーっと伸ばして。 とうとう。 ちょん、っと突っつきました。 ――触れた! やったね、ビィたん。 「ギー」 「喋ったー!!」 ビィたんは一目散に逃げ出しました。 ニヒツさんは、ちょっと淋しげに見送ったのです。 二年が経過しました。 たまたま通りがかったイェンさんがニヒツさんを発見しました。 「何やってんだ、こんなところで」 「ギー」 「挟まったのか? ……抜くか?」 「ギッギー」 「……取っていいのか? いいのか? い・い・ん・だ・な?」 漢らしく言ってから、渾身の力でニヒツさんを壁から引っこ抜こうとします。 「ギギー」 「む?」 「ギギー!」 「むむむ」 「ギギギギー」 「んむむむむっ!」 「ンギギギギギギィー!」 顔を真っ赤にして頑張ってもニヒツさんは抜けませんでした。 ついでにニヒツさんの声が痛そうに聞こえたので、優しいイェンさんはあきらめたのでした。 三年が過ぎる頃には、ニヒツさんが挟まった壁のある路地裏は、いい香りのする場所として評判になりました。 おそらくは近所のチェンバーに金木犀が咲いていて、その香りがターミナルに流れ出ているのだとも、いやいや金木犀の化身がこのあたりに越してきたのだとも、無責任な噂が垂れ流されています。 たまーに。 ニヒツさんに気付いて構ってくるのは、こんな路地裏をわざわざ探検しようという好奇心の持ち主、つまりは子供さんです。 マリィたんとホリィたんは、渾身の力でニヒツさんを撫で回したのでした。 もふ もふ もふ もふ もふもふもふ もふ もふ もふもふもふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふもふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふもふもふ もふ もふ もふもふもふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふ もふもふ もふ もふ もふ 「あったかーい!」 「もっと触らせてー!」 「Σギー!? ギギー!!!」 ニヒツさんの返事を肯定と受け取った双子さんは、ちょくちょくニヒツさんの毛皮をもふりに通うようになりました。 この毛玉を抱きしめてから帰ると服に金木犀の香りが移るため、まるで香水のようで、ちょっとオトナ気分になれるみたいでした。 五年が経過しました。 金木犀の香りにつられてやってきたのは、キュートな最終兵器、我らが世界司書のクロハナたんでした。 「わん、です」 「ギー」 「……わう」 「ギギーッギギー」 「わん」 「ギッギッギギギィィ」 「ウウゥ、ウワゥ!」 ……やがて。 クロハナたん、地面に寝そべりお腹を見せたではありませんか。 何ということでしょう。降参のポーズです。 クロハナたんは黒の毛玉に服従の姿勢を取ったのです。 「くぅん……」 けれどクロハナたんは、くふんと鼻を鳴らして、金木犀の香りを堪能するのでした。 六年が経過しました。 ニヒツさんに「金木犀の毛玉」という二つ名がつきました。 いい香りの漂う路地裏の壁は名物スポットとなりました。 そんなある日。 雑誌「月刊ターミナル」で特集が組まれる運びとなったのです。 何でも、路地裏にひそむキング・セクタンを探れ、というブラン探検隊の企画らしいです。 ……えっ? ブランさん、モフトピアに帰属したんじゃないかって? いいんですよこまけぇことは。こんなこともあろうかと、当局は時系列あいまいにしてるじゃないですか。 さて、企画の意図は、新種のセクタンであろうと目される未知の生物の取材を試みる、ということのようです。 で、ニヒツさんにスタッフがアポを取りに来たのでした。 (ギーとしか返事をしなかったので、取材承諾とみなされたようです) しかーし。 路地裏とはいえ、ターミナルの誰でもがその気になれば歩いてこれるその場所に、探検隊は何故か毒蛇や毒蜘蛛や謎の悪い魔術師の妨害を乗り越えてたどり着いたのですが―― そのあたりで取材時間の尺がなくなったのですた。 んで、謎の生物は謎のまま秘匿されることと相成りました。 なお、インタビューは「ギー」としか言わないので割愛された模様。 七年が経過しました。 この日、路地裏にやってきたのは『ターミナル大清掃』と書いたハチマキをきりりと締めたメルチェットたんでした。 彼女はニヒツさんには気づきません。つかつかつかと歩み寄り、ひたすら地面の牛乳瓶を回収しています。 この牛乳瓶、たまーにクロハナたんがお供え物として差し出していたものなのですが、長い年月をかけてずら〜っと増大したのです。メルチェたんがリサイクル回収に乗り出したほどに。 メルチェたん、ふと顔をあげました。 金木犀の香りがするではありませんか。 と同時に、大きな黒い毛玉が目に入りました。 「こんなに大きな埃のかたまりが……! メルチェは大人なので速やかに回収します!」 さあ、メルチェたんの獅子奮迅の活躍が始まりました。 ガムテープ、モップ、掃除機、吸引機、宇治喜撰。 ありとあらゆるものを総動員し、ゴミとして回収しようとするのですが、ニヒツさんは隙間から離れません。 「ギギー」 ガムテープがくっつくのはイヤンな感じです。ニヒツさんは僅かに身動ぎしました。 「こ、これはっ!」 黒いもの。もぞもぞ動くもの。 自称オトナのメルチェットたん、以前に図鑑で見たある特定生物を思い出していました。 「0世界にも、ごごご、ゴキブリが……! わああああ大変、大変! 新種です、珍種です、亜種です、希少種です!」 大人の殺虫スプレーを噴霧します。 ニヒツさん、ピーンチ! さすがに苦しいので暴れますが、隙間に挟まったまま動くことができません。 その動作を勘違いしたメルチェさん、 「毛玉ゴキブリが暴れてます、わああああん!」 と逃げ出していきました。 なお、メルチェたんは道順を覚えていないらしく、そのまま帰って来ませんでした。 めでたし……、かな? 八年を過ぎる頃、金木犀ではなく、もっと清涼感のある煙で燻され始めました。 この煙、ちょっと沁みるので、燻されている時だけは逃げようと試みたのですが、やはり隙間から抜け出すことはできませんでした。 やがて十年が経過しました。 この頃には、ニヒツさんの毛は完全に金木犀の匂い袋のようになっていました。 ほのかなミントの香りがアクセントです♪ 「ギギギッギギー♪ ギギギー、ギーギー。グリュリュー。ギギギー、ギッギッギッギ」 「何だ、お前こんなとこにはまって」 フェイ・ヌールさんです。 ゆっくり近づいて、ニヒツさんをじっと観察しはじめました。 「ギギ? グギュー。ギーギーギーギー」 「困ってんのか?」 「ギギギ、ギギギギギギギギギ! ギ、ギギギギー!ギギュギューギューググー」 「困ってないんだな。トラベルギアはどうしたんだよ。『人語舌』は?」 「ギギギギギギギギギ、ギギー。ギッギッギッギググギュー」 「話す気ないってやつか」 「ギギギギギギギギギ、ギギー」 話す気はたっぷりあります。 つか、お願いフェイさん。その人語舌を、自分のチェンバーから取ってきてほしいんですけど? しかしニヒツさんの言葉はギーギーとしか響きません。 「あーそれから一応言っとくけどな。ケツに○○ついてんぞ」 「ギギギ!? ギギー!!!???」 「頑張れよー」 さわやかに手をふってフェイさんは去っていきます。 はたして、ニヒツさんのお尻には何がついているのでしょうか。 ていうか、ニヒツさんのお尻はいったいどの部分なのでしょうか。 謎は謎を呼びながらも、ニヒツさんは今日も金木犀の香りをターミナルに届けています。 そう。あの日までは……。 ――To Be Continued……! (俺たちの冒険はこれからだ!)
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