そっと茂みをかきわけると、小さな花が咲いていた。 日陰にだって、花は咲く。誰に顧みられることがなくとも、だ。 モリーオ・ノルドはまず、カメラで花の画像をおさえる。それから小型のノギスで花の直径や高さなどを細かく測っていった。 そこは0世界に広がる樹海である。 最近、モリーオは司書の仕事はずいぶん減らして、樹海に入るようになった。 当初、樹海には反図書館派の旧旅団勢力やはぐれワームが潜んでいる危険があったが、時とともにそうした危険は駆逐されていた。 すこし片脚に不自由のある彼だったが、補助具をつければ問題ないし、ゆっくり動けばいいのだから、と気にしていない。 この樹海は、世界樹がかつて吸収してきた世界群の情報が0世界の大地にあふれでて顕現したものだと考えられている。そうならば、この植物はかつてどこかの世界に存在したものたちであるはずだ。失われた世界の残滓――あるいはその追憶。そう考えると、こんな小さな花さえ、どこか愛おしい。 モリーオはひとつひとつの植物を記録し、博物誌にまとめるつもりである。 樹海の広さや植生の多様さを思えば、それは途方もない大事業だが、なに、時間はいつまでもあるのだから、とモリーオは笑う。 誰に見られることがなくとも、花は咲く。 誰もその存在を知らなくとも、そこに咲いている。 ロストナンバーは、数多の世界群で冒険し、歴史に名を残したものも少なくない。 このターミナルの変革に寄与したものもいれば、北極星号の旅に参加して凱旋したものもいる。 そんなかれらの名を、モリーオはもちろん忘れることはないけれど、一方で、さして名を知られることもなく、その旅を行き、過ぎていったものたちのことも、同じく記憶にとどめておきたいとモリーオは思う。 誰も名前を知らない、この花のように。======<ご案内>このシナリオは「ロストナンバーたちの後日談」を描くものです。プレイングでは、みなさんの「その後の様子」をおしらせ下さい。このシナリオは便宜上0世界が舞台として表示されていますが、どの世界の出来事でも構いません。例:・3年後、ヴォロスに帰属した。冒険者相手の酒場を経営している。・数年後、○○さんと結婚。今もターミナルで暮らしている。・冒険の旅に出た。新たな世界を発見し、探索を続けている。・10年後、故郷の世界に帰り、再帰属を果たす。○歳まで生きて天寿を全うした。※「○年後」という表現があれば、北極星号の帰還の年から数えます相手のある内容の場合(結婚等)、お相手の方も同じシナリオにご参加のうえ、互いのプレイングに明記をお願いします。帰属済みであるなどしてシナリオに参加できない場合、設定欄等に同意があることをわかる記述をお願いします(納品されるまでそのままにして下さい。ライターが確認したタイミングで書かれていなければ参照しません)。なお、このシナリオの結果として、帰属や死亡が描写された場合でも、ステイタス異常にはなりません。!重要な注意!このシナリオのノベルに関しては、どのような理由であっても、納品後の修正依頼は一切受け付けません。「故郷の世界」や、「新たな世界」を描写する場合、担当ライターにその設定も含めて一任していただくものとします。複数のエピローグシナリオへの参加について、制限はありません。ただし、ライターは別のライターが執筆するシナリオの内容については関知せず、両者の内容について整合性を保つ義務は負いません。シナリオに参加したことをもって、上記の点をすべてご了承いただいたものとします。======
「レディ・カリス!」 怜悧な横顔にはなにも変わっていなかった。だから、あまりの懐かしさに思わず大きな声を掛けてしまってから、ジュリエッタははっとして口を噤んだ。 ここは世界図書館。館長執務室の扉がある廊下である。急な大声は非礼であった。 「久しいですね。ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノ」 「わたくしの名を覚えていてくれたとは光栄」 「忘れなどしません。館長に何か?」 「久しぶりに来たのでのう……ご不在なのかの?」 「そのようね。それにしては」 ふたりして覗き込んだ部屋は無人だ。 しかしローテーブルにはお茶の支度がしてあるのが奇妙だった。 「大方お茶を飲もうとして……急になにかがあって飛び出して行ったのでしょう。すぐ戻るはずだから、待ちましょう」 レディ・カリスはつかつかと部屋に踏み入り、ジュリエッタを招いた。 「ポットのお湯は冷めてはいないけど……貴方用のお茶を淹れさせましょう」 「いや、それには及ばぬ。このお湯で、わたくしがお淹れしようぞ」 ジュリエッタはにこりと微笑んだ。 ふぅわり、と、紅茶の深い香りが広がる。 「お口に合うと良いのじゃが」 「いただくわ」 カップとソーサーを、優雅に手に取るカリス。 口をつけ、そして、ふふ、と唇をほころばせた。 「美味しいわ。……今日はミルクティーにしてくれたのね」 「やはり覚えておられたか」 「忘れなどしません」 ふたりは微笑い合った。 それは、もうずいぶん昔のことだ。 ロストナンバーとなったジュリエッタがターミナルに来たばかりの頃。 『赤の城』に迷い込んだジュリエッタは、そこでレディ・カリスと会った。相手が何者かも知らぬまま、試されるように紅茶を淹れた。いや、実際、試されたのだ。 「思い返せば、意地の悪いことでした。ごめんなさいね」 「レディ・カリス……いや、エヴァ殿とお呼びしても?」 「ええ」 「貴方は変わられた」 ロストナンバーであるがゆえ、その容姿に変わりなく、あの頃も今も、豪奢な大輪の薔薇のごとき美貌である。 だがあのとき、ジュリエッタに紅茶を淹れてみせよと言ったのは、赤の城の傲岸な女主人であり、『ファミリー』に君臨し、ターミナルを影から支配する権力者の顔をした女性であった。 今、ジュリエッタと差し向かい、ソファにやわらかく腰を下ろしているのは、髪は短く切りそろえ、服装もずっと軽くなった、黙っていればせいぜい壱番世界の企業の女性役員くらいに見える。有能そうな面差しはそのままでも、顔に険がない。 「そういう貴方はどうなの。この頃、ターミナルでは見かけなかったようだけど」 「そうなのじゃ。しばらく壱番世界におっての。イタリアのあちこちで、少しばかり修行をしてきたのじゃ」 ジュリエッタはロストナンバーとしての活動は休止し、かわりに料理の腕を磨いてきたのだと言った。しばし、ここ数年の出来事を語らう。 「それで一区切りついたので、そろそろこちらの旅も再開せなばと戻ってきたのじゃ。エヴァ殿、今後もよろしく頼むのじゃ。……しかしアリッサ殿はどこへいったかのう……」 「本当に。館長室を無人にするとは無用心にも程があります」 「……。エヴァ殿。今度の茶はしっかり淹れられておるかのう?」 訊ねたジュリエッタに、カリスは頷く。 「ええ、とても。あのときも言いましたね。物怖じせず、自分の信じるままにレモンティーを淹れてみせた貴方に、そのように自分を見失わないことが大切だと。貴方は実際、自分の旅をきちんと見定めている。それはとても立派なことですよ」 その後―― ジュリエッタがイタリアで自分の店を持つようになり、そのまた先には、0世界に戻ってロストメモリーになることを決意するのは、ずっとずっと先の話だ。 傍目にはさまざまな紆余曲折を経ているように見えるその旅路は、しかし、彼女が、心より自分のあるべき道を模索した結果であったのだろう。 * その日、司書室棟のモリーオ・ノルドの司書室には、宮ノ下杏子が訪れていた。 「すみません。アポもなく来たりしてっ。あの……噂のハーブティーをいただきたくて」 「どんな噂?」 モリーオが差し出すカップから、良い香りが立ち昇る。 「えっと……その人にいちばん合ったハーブをブレンドしてくれるって」 「そう? では飲んでみて」 「おいしい。それにいい香り。これ、カモミールですね」 「そうだね。カモミールベースに、いろいろと。心をほぐしてくれる香りだ。普段は言いにくいことも、口にできるようになるかもしれない」 杏子は目を見開いた。 「凄い。どうしてわかったんですか」 モリーオは笑った。 杏子を椅子に坐らせ、自身は窓を背にしたデスクの前に立って、デスクに体重を預けながら――生徒を前にした教授のように、モリーオは言った。 「『初歩的なことだよワトスンくん』」 くす、と杏子は笑顔を見せた。 「コールドリーディングというのは知ってる?」 「ええ。占い師が、いかにもそれらしいことを言うってやつですよね。……あっ」 「わたしは何もわかっちゃいないよ。きみが心に何も抱えていなければ、わたしの言ったことなんてスルーしてしまうんだから。それに、わざわざ私を訪ねてきて、『いちばん合ったハーブをブレンドして』欲しいなんて言い出すんだから、なにか話したいことがあるんだろうと考えるのは難しいことじゃない。親しい人にはかえって言いにくいようなことかな?」 「『告解室』に行くべきか迷ったんですけど、秘密にしたいってわけでもないし……モリーオさんは落ち着いて話を聞いてくれそうだったから。実は――最近、祖父が亡くなったらしいんです」 杏子の祖父は、とある事情で、某国の微妙な政治状況に巻き込まれ、かの国で長らく拘束され、出国がかなわないままになっていた。 外交ルートを通じて再三の働きかけが行われていたが、当該国内の軍事紛争は泥沼化の一途をたどり、第三国の介入やら、たびたびの政権交代やらがあって解決のめどが立たないままだったのだ。 杏子は祖父の身を案じてはいたけれど、彼のいない日常に慣れきってしまってもいた。 そんな日々は唐突に終わりを告げたのだ。 「詳しいことはいまだによくわからないんですけどね。でも自然死でした。おじいちゃんも歳でしたし……内戦をしてる国にいたのに、病院で安らかに逝ったんなら、むしろ幸福だったと思います」 杏子は自分に言い聞かせるように頷きながら話した。 「で、そういうわけで、壱番世界にいる理由がなくなっちゃったんですよ、あたし」 「なるほど」 「それで、とりあえず、ターミナルに家を買いました」 さらりと言った言葉に、モリーオは目を見開く。 いわく。杏子は冒険旅行の報酬をほとんど使わずに貯め込んでいた。 それを、ちょっとした勉強のつもりでナラゴニア通貨建てのファンドに投資してみたところ、昨今のナラゴニア好況のあおりを受けて高騰し、短期間にしてかなりの利益をあげたのだという。そこへ、まるで用意していたようにターミナルのはずれに値頃な物件が見つかり、即金で購入することにしたそうだ。 「リビングが吹き抜けになっていて……前の住人が魔道士さんかなんかだったそうで、壁一面がつくりつけの本棚なんです。これはあたしのための家だ、と思って」 「ははあ」 「これもおじいちゃんの導きかなあ、なんて。あの本棚をいっぱいにしたい、って思ってます。あたしは本が読みたいんです。もっともっと、何百冊でも何万冊でも。そう考えると、ここに勝る場所はないですよね」 「世界群の情報が集まるところだからね。報告書は今も増え続けている」 「ええ。でもそんなこと考えてたら、ふと、怖くなって」 「怖い?」 「今のあたし、チャイ=ブレと同じだ、って」 「ああ……」 「あたしはもっと知識が欲しい。でも『知識』とはいったい、何なのでしょう? 貪欲に吸収しつつければ、ひともいつか化物になるのでしょうか? ディラックが、そうだったように」 モリーオは腕を組んで、唸った。 しばらく考え込んでから、司書は口を開く。 「ルンくんのことを知ってる?」 「報告書でお名前は……。ほとんど面識はないです」 「この前ね――」 モリーオは語り始めた。 モリーオはかねてからの計画である、「樹海の植物の博物誌を作成する」という大事業に着手すべく、その日、樹海の様子を見に行ってみた。 そこで運悪くワームと遭ってしまったのだ。 「油断した。最近ははぐれワームの報告をほとんど聞かなかったからね」 モリーオはそう語った。 だが、そのワームは、ルンの狙っていた獲物でもあったのだ。 正確には、ルンのワーム狩りの最中に、モリーオが通りがかってしまった、ということだ。 「司書か!? 走って逃……無理か。暫く上に」 ルンはモリーオに気づくと、シャツの襟首を掴むや、そのまま跳躍した。 決して軽くはない男の体重を片手に掴んだまま梢まで跳びあがると、そこにモリーオを置いて、ルンは再びワームに向かって行った。 そして眼前で繰り広げられる狩人とワームの壮絶な戦い。 それもやがて、ルンが見事、獲物を仕留める形で決着となる。 「今日は、帰る、良い……ルン、送る」 ルンがターミナルまでモリーオを背負って送ってくれた。 「きみ、いつもこんなことを?」 モリーオは訊いた。 樹海のワームがどんどん減っているのは、ロストナンバーが地道に駆逐してくれているからだ。ルンもそのひとりであり――おそらく多くの貢献をしていたのだろう。 「司書と他の。数字がある、生きてる。年を取って、死ぬ。それが自然。数字がないは、死人。年取らない。それでは死なない」 ルンはそんなことを言った。続ける。 「戦って死ぬか……自分で死ぬか。選ばなければ、死なない。それが、死人の自然。ルンは選んだ。戦って、守って死ぬ」 「……。そうか」 「えっと、でも、ルンさんは自分がロストナンバーになったことを、死んだと思ってるんですよね? そんな報告書を読んだ気がします」 「そう。それで、今度は、死人としての死に方を考えたらしい。面白いだろう」 モリーオの言葉を、杏子は咀嚼しようとしている。 「彼女なりの、理解なんだろうな。矛盾はあるが、他人がとやかく言うことじゃない。それがロストナンバー。ロストナンバーは『真理』に覚醒したというけれど、そこには最初から、整合性なんてないんだ。いや、そうした矛盾そのものが、『真理』であるというべきか」 「つまり……あんまり悩まないほうがいいよ、ってことですか?」 杏子のまとめに、モリーオは声をたてて笑った。 「そうとも言うかな。それにしては回り道だったかもしれないけれど。……きみ、壱番世界で司書だったんだって?」 「ええ、正確には司書補です。世界司書とはだいぶ違う仕事です」 「0世界に住むなら、ここでの仕事がいる。よかったら、わたしを手伝ってくれるかい。さっきも言ったように樹海の博物誌をまとめたいんだ――」 ◆ ◆ ◆ いつのまにか眠ってしまっていたと気づき、相沢 優ははっと身を起こす。 クリスタルパレスの硝子の天井から、0世界の普遍の光が注いでいる。移り変わりがないはずなのに、なぜかそれが「朝の光」だと感じてしまうのは、むろん錯覚なのだが、人の感覚の強固さを思い知らされる。 とうとう、この日がきてしまったのだ、と優は思う。 それは別れの朝だった。 貸し切ったクリスタルパレスの、奥のボックス席に優はおり、傍らでは一一 一が寝息を立てている。誰かが毛布をかけてやったようだ。 その向こうには虎部隆が床のうえでいびきをかいていて……、別の席には腕を組み背もたれに翼をあずけて目を閉じているロック・ラカンの姿もある。 優はそっと席を立つと、背の高い観葉植物のあいだを歩く。入り口近くの離れた席に、鰍が一人かけていて、優に気づくとちょっとカップをあげてみせた。コーヒーの匂いがただよう。 「アリッサは、帰ったの?」 「どうしてもやっておかないといけない仕事があるらしい。出発のときにはホームまで来るってさ。……あと2時間、ってとこか」 と、鰍。 「鰍さん。あらためて――俺からもお礼をいいます。一の故郷を見つけてくれて」 ふっ、と鰍は頬をゆるめた。 北極星号でワールズエンドステーションに到達したときも、鰍はまっさきに彼女の世界を探した。それから根気良く、探し続けたのだ。 しらせを受けた一は、言葉もなく立ち尽くした。 だいぶあって、どうして、とだけ口にした。 鰍は言った。 「力になってやるって言ったろ?」 と――。 一は迷い、悩んだようだ。 もちろん帰還したい気持ちはあふれるようにあった。その一方で、6年の不在を超えて、自分が故郷に受け入れられるかという不安があった。なにより、今の暮らしと、鰍や優や隆たち――ロストナンバーの仲間たちとの別れが彼女を躊躇させたのだ。 「おまえには、故郷があるんだ。そうだろ?」 そんな彼女に、鰍は言った。 「でも……っ」 一は言葉を呑み込む。 人は忘れていく。忘れることによってこそ、生きていくものなのだから。 ルイス・エルトダウンもまた、忘却を憎んだ。 (わたしも、みんなに忘れられるのがこわい。ここにいちゃダメなの? ここで、ずっとこうして、いつまでも――) 「しっかりしろ、一!」 鰍が肩を掴んだ。 「一生の別れってわけじゃねえんだ、お前が会いたくなればいつでも行ってやるよ」 はっとした。 みんなに忘れられるのは嫌。でも、故郷の人に忘れられるのだって同じくらい嫌だ。 (私が……忘れなければいいんだ) ここで彼らと別れても、彼らとの記憶を自分は決して忘れない。それなら自分は決して一人ではない。 彼女が覚悟を決めてからは、早かった。 しらせを聞いた優は、一抹の寂しさは禁じえなかったが……彼女を笑顔を送り出すと決めた。 「よし、パーティーしようぜ、パーティー」 隆が当然のように言い出し、クリスタルパレスでのサプライズが企画されたというわけだ。 皆で会場を飾り付け、最後のバイトを終えた一を連れていく。 優の心づくしの料理がテーブルに並び、皆が口々に祝福をなげかけた。 優は花束とセクタンのぬいぐるみを贈った。 鰍は、一だけでなく、優と隆にも揃いの銀細工をつくってくれていた(自分を含めなかったのは照れくさかったかららしい)。鰍のつくった細工物は、真理数「0」を意匠化したもので、紐を通してチョーカーになっていた。 優に乞われて出席したロックからも、ちいさなオルゴールが渡された。 一は、もう最初から号泣しっぱなしで、隆は「泣き顔が信じられないほど不細工」だと言ってげらげら笑いどおしだった。 パーティーは(おもに隆が)店を壊さんばかりのどんちゃん騒ぎになり、夜半に、だいぶ遅れてやってきたアリッサさえ驚かせた。アリッサはどこで手に入れたのか、一の故郷の言葉に訳されたシェイクスピアの戯曲集をプレゼントしてくれた。帰還すると一は英語が読めなくなってしまうので、これが手元にあれば思い出のよすがになるだろう。 そして、楽しい時間は過ぎていった――。 コツコツ、と窓が叩かれた。 優は、そこにロバート・エルトダウンの姿を見てあっと声をあげた。 慌てて店を飛び出す。 「来てくれないものとばかり。でも最後だから、ダメもとで招待状を送ったんです」 「ダメもとなら送らないでくれるかい」 ロバートは笑った。 「いったい、私が日に何通のパーティの招待状を受けると思っているの。大半は壱番世界のものだから秘書にさばかせているけれど、0世界からくるやつは、メガリスがいなくなってからは自分で見ているんだからね。もう戻らないといけないんだ」 そう言って、ロバートは、優に小さな箱を握らせた。 「これを彼女に。幸運を祈っている、と」 箱の中には、金貨が一枚、輝いていた。 そして、ホームに鳴り響くベル。 一の肩を誰かが叩いた。振り向けば、隆のひとさし指がぎゅむ、と頬に食い込む。 「つまんなくなるなあ……。あのクソまずいレインボー料理も食えなくなると思うとさ。一やんが壱番世界人だったらよかったのに」 隆は言った。 「俺は一に会えて、良かったと思う」 と優。隆もうなずき、淡いピンクのかわいらしい花をそっと差し出す。 ローダンセ。その花言葉は『終わらない友情』――。 「お前は堅気の世界に戻って、幸せに暮らしな。俺は当分帰属しないからさ、一やんの世界がイグジストに食われそうになったら行くわ」 そう言って、隆は笑った。 一はまた涙があふれそうになるのを必死にこらえて、笑おうとしたので、ひどく不細工な表情になった。 列車のドアがしまった。 びたん、と張り付いたガラスの向こうで、隆が、優が、鰍が手を振る。 列車が走り出す。 ありがとう、ありがとう。そして、さよなら、ターミナル。 帰るんだ。 あのなつかしくて、平凡な街並みに。 何の変哲もない住宅街にある、わたしの家――ロングウェイマイホーム。 そっとチャイムを鳴らして。 きっと驚くだろうな。 そして一は言うのだ。ただいま、と――。 ◆ ◆ ◆ それは少し昔の話だ。 北極星号が出発する少し前のこと。 村山静夫とナウラは、ナラゴニアの一画にある居酒屋にいた。 差し向かいにいるのは蛇ノ目玄尉という男である。 「村山が乱暴をして悪かった」 ナウラは言った。そして、 「村山も謝れ。いつもの忌々しい余裕はどこへ行ってたんだ?」 と隣の男をつつくのだ。 「……あんときゃ……。よくよく事情を確かめもせず――」 「あんたたち」 翁の面のしたから、呆れたような声が漏れる。 「俺に謝ろうってのか。俺はあんたの記憶を奪った。そのせいであんたは」 「私も、あれを忘れたかった」 ナウラが言った。村山がぎょっとしたような顔を見せたが押し殺した。 「だが、奪われてみてわかったんだ。目を背けてはならないことだったって」 「そういうことを言ってるンじゃない」 「いいんだ。おまえさんは決して悪人じゃないってことは、あの横丁の皆が言ってたぜ。だから署名も集まったんだ」 「……」 玄尉による、ターミナルの住人の記憶強奪の事件は、村山が彼の身柄を押さえたことで解決した。 だがその後、村山は彼の減刑を願い出たのだ。そのために署名を集めるまでした。 おりしも新ターミナル法の制定に向けて動いていた時期だ。本来なら図書館側に身柄が引き渡され、収監されてもやむをえないところだったが、結局、情状が汲まれて、ナラゴニア側での強制労働で落ち着いたのである。 モグラ獣人の店員が七厘を運んできた。 「まァなんだ、遠慮なくやってくれ。刑期明けのお祝いだ」 「おかしなヤツらだな」 玄尉は低く、笑い、じゃ遠慮なく、と冷酒を満たしたグラスを呷った。面をちょいとズラして、器用に呑む。 3人きりの、ささやかな酒宴が始まった。 「紙芝居――懐かしかった」 しばし、飲み食いしながらあまり弾まない会話を続け、ふいにナウラがそんなことを言い出した。 最初、ナウラは、玄尉にその能力を生かして「記憶を忘れたいと願う人を救う仕事」をしてはどうかと言ったが、玄尉は笑ってかぶりを振った。ナウラがそうだったように、記憶を奪われれば昏睡してしまう。 「紙芝居は好きだろ? これからも、子ども達を楽しませてほしい。……あ、そうだ。景品に、石細工はいらないか?」 「あんたらの世界にも、紙芝居屋がいたと言ったな」 「ああ。たぶん俺たちの世界はわりと近いみたいだな」 「ふうん」 玄尉が乞い、村山たちはかれらの世界を語った。 壱番世界の過去に似て、素朴だが、活気のある、早廻しの活動写真のような街。行き交う自動車。デパートとデパートを結ぶケーブルカー。街頭テレビから流れ出す音楽――。 「そうか。良いところだ。……俺のいたところは、もうすこし物騒だったよ。だから丸腰じゃ帰れねェと思ったのさ。俺たち仮面使いは蓄えた力の差で生死が決まるからな。けど、ここは俺のいた世界じゃない。なにも知らない連中の記憶を奪って力に変えるのはやりすぎた。こう見えて反省はしている」 「いいさ」 「それに思うんだ。もう無理してあの世界に帰ることもないと。……横丁の連中はこんな俺によくしてくれた。ならここで、紙芝居屋の親父を続けるのも悪くない」 「そうだ、それがいい!」 ナウラが明るく言った。 そんなことがあって、それからどれくらい経ったろう――。 村山とナウラを載せたロストレイルが、明和33年の空を翔ける。 ふたりが帰還する日がやってきたのだ。 「本当によかったのか」 「まだそんなことを愚痴愚痴と」 窓から街を見下ろしているナウラと、むっつりと腕組みしている村山。 あれ依頼、親しくしていた玄尉は0世界に残り、ふたりに餞別をくれもした。 村山は、ナウラの横顔を見つめた。 0世界でめぐりあったのは、なんと数奇な運命だったろう。しかし思えば、それが村山の正義を見直すきっかけともなった。ナウラ。おまえはいつもまっすぐだったな。0世界にあっても、本当の正義の味方だった。そしてここへ戻った今、これからもそうあり続けるのだろう。 窓から、黄昏の街並みを見遣る。 (さて) 煉獄博士がどうなったか知らぬ。だが、そうやたすくくたばる男ではないのだ。必ずこの街のどこかにいるだろう。そうであるならば……。 「ナウラ」 「うん?」 「やっぱりな、行くわ」 「え」 「信じてるぞ、追っかけて来いよ」 村山は、ナウラへ笑いかけた。 そして――、車窓をがらりと上げると、そこから一瞬で飛び出した! 「村――」 ナウラが乗り出したときには、すでにはるか眼下だ。 やられた!と地団太を踏んでももう襲い。ナウラは、窓の外へありったけの声で叫んだ。 「バカーッ! 絶対捕まえてやるからな!」 ◆ ◆ ◆ 「なにをしてるんだ、シュロ!」 大声をあげたのは0世界からきたロストナンバー。 シュロの世界にも、最近、世界図書館の調査が入るようになった。この世界の特徴である、ほかの世界にはない不思議な植物についての情報を集めるため、ロストナンバーが訪れるようになったのだ。 この世界の出身者であるシュロは――その娘がすでにインヤンガイに帰属していたこともあって――調査隊の手引きを任された。 それがここ数年のことだ。 世界司書と組んで、いくつもの冒険旅行を斡旋してきた。 まさか自分がそんな任に就くようになるとは想像だにしなかったが、それくらいの仕事はしてもいいだろう。世界図書館には、ずいぶんたくさんの、楽しい旅をさせてもらった。 「早くいけよ、子どもが生まれるんだろ」 「ああ、そうだったな」 のんきに応えた。 シュロの種族は多産であるし、父親は集落をめぐっては土地土地に違う妻を娶る。その意味で、「子どもが生まれる」といっても、ほかの世界の親とはすこし感覚が違う。それでも、あまたの旅を通して、父というものへの考え方は変わってきてはいたのだが。 「じゃ、そろそろ行くわ」 シュロは子どもが生まれようとしている妻の待つ集落へ向かった。 自然と、同じ妻が初めて産んだ娘のことを思い出す。 ちいさな、ちいさな娘だった。 あんなちいさな子は後にも先にもあの娘だった。 それに、たった一人で生まれるのも珍しい。 だから集落では蔑んだ目でみられ、あれの母はずいぶん傷ついたものだ。そしてそれは間接的に、あの子を追い詰めもしただろう。 そんなちいさな子が、やがてロストナンバーとなり、世界群を旅するようになった。 (あいつはなんにも悪くなかった) 母も、娘も。 彼女は旅人としても、必ずしも幸福ばかりではなかった。たくさんの辛い目にも遭ったようだ。 (ただ運が――悪かっただけなんだ) それでも…… (けれどあいつは、ちゃあんと自分の行く道を決めやがったんだ) 何度か様子を見に行ったインヤンガイで、娘は忙しく働いていた。 善意が決して報われることのないあの世界で、それでも一生懸命だ。 シュロの娘は孤児院を営んでいる。 インヤンガイにおいて、孤児など日々あぶくのように発生する。それはだから、海に砂糖をまくような行いだが、それでも彼女が救い、育む命は確かにあった。 やがて、集落が見えてくる。 娘が新たな世界を見つけたのを見届けた後、シュロは自分自身の旅を続けた。 およそ数十年。 あまたの世界群をめぐり、冒険につぐ冒険へ。 故郷の世界を探すことは頭にあったが、それよりも、いろいろな世界を見聞する楽しさと高揚感、好奇心のほうが勝った。 (いろんなことがあったよな) ガランガランの異変では、植物と意思疎通のできるシュロの力は大いに役立った。 シュミテンの戦争ではあわやと危ない局面もあった。 そうえいばアイスグラードのあの娘はどうしてるだろうか。 アビスパークの事件ではちょっとやりすぎたと反省している。 そして。 「おう、今帰っ――」 扉を開けたのと、産声が響き渡ったのとが、同時だった。 その声を聞くと、なにか熱いものがこみあげてくるような気がした。 子どもなんて何人もいる。 それでも、どの子も唯一無二の存在だ。代わりのない、命なのだから。 (安心しろ、俺達の娘は遠い場所で沢山の子どもを助けてるぜ) 再開した妻に、娘のことを語ったことで、彼女の心もだいぶ慰められたようだ。 そして長い間の不在を、シュロは彼なりに懸命に埋めていったのだ。 その結晶が、この子たちだ。 生まれたのは七つ子だった。 七つの元気な泣き声を、妻に寄り添い、その手を握りながら、心地よい音楽のように聞いた。 そのうちのひとり……なぜだか、ひとりだけちいさい娘を、シュロはとりあげる。 「はは……」 いちばんちいさいのに、ひときわ元気良く泣いているので、思わず笑いがこぼれた。 「おまえは……コケにしよう」 シュロは言った。 「遠い世界で生きてる、お前の姉ちゃんの名だ」 ◆ ◆ ◆ 立て続けに爆音が轟いた。 ノイズまじりの無線ががなりたてる。 『帝国軍の撤退を確認しました。市内に残留している部隊はすべて制圧完了です』 「よし、戦闘行為は停止。衛生部隊による救護を急げ」 アキ・ニエメラは無線へそう告げると、あらためて、街並みを見渡した。 空気に満ちる硝煙の匂い。上空を、自軍のヘリがとおりすぎてゆき、砂埃のまじる空気をかき混ぜた。 「ニエメラ特務大尉」 副官が感極まったように言った。 「ああ。奪還成功、だな」 アキが皓い歯を見せると、わっと部隊から歓声があがった。 「アキ!」 忽然と、虚空からあらわれたのはハルカ・ロータスだった。 アキが水筒をよこすと、ハルカは喉を鳴らして水を飲む。 「どうだ」 「俺は平気だ。右翼のほうで損傷が激しい。俺も救護を手伝ってくる」 「あ、おい」 止める間もなく、瞬間移動してしまう。 「やれやれだ」 アキが苦笑する。以前なら――戦い続け、力を発揮し続けたハルカは昏倒していてもおかしくない。それがまだ、戦場を文字通り跳びまわって活躍していられるのだから、ずいぶんと体力をつけたものだ。持久力さえ備われば、ハルカは敵なしと言えた。 「貴方もですよ、ニエメラ特務大尉」 副官が声をかけた。 「おふたりは本来、こんな前線にいるような方ではないのですから」 アキとハルカが、故郷である世界を発見し、再帰属してからどれくらい経ったろう。 ふたりは行動をはじめた。 帝国と連邦の対立構造が続く世界を変えるための行動だ。 まずは、かれらと同じ強化兵士の精神制御を解いていくことからはじめた。 「強化兵士が幸せになっちゃならねぇなんて法はどこにもない。俺たちは、誰もが自分の思うように生きる世界を目の当たりにしてきた」 「皆が泣かずに暮らせる世界を創りたい。それは不可能な夢じゃないって、俺は旅した先で見たんだ」 ふたりはそう何度も話し、その言葉は、かれらによって救われた兵士たちに徐々に染み渡っていった。 『雑草のふるさと』――そう名乗る集まりは、最初はちいさな抵抗勢力に過ぎず、帝国からも連邦からも、泡沫のテロ集団とみなされていた。どちらの陣営も、その気になればすぐに潰せると考えていたのだ。 それが数年も立つうちに、自由になった強化兵士たちがどんどん合流するだけでなく、下層の市民を中心にシンパが膨れ上がっていくにつれ、その存在は無視できないものになっていった。 ふたり率いられた集団は、両陣営の抗争が続く地域の市民に働きかけ、離反・独立を促した。それはもともと燻っていたふたつの支配層への不満と反抗心に火をつけ、反逆は燎原の火のように広がっていったのだった。 帝国と連邦の為政者たちが、かれらの地図から失われ、次々に自由独立市となっていく町を数えて焦りはじめたときには、『雑草のふるさと』の同盟地域はすでに帝国と連邦の支配地域を合わせたものを上回っていたのだ。 「おふたりは同盟の創始者なのですから、本当は中央で指揮を執るなり、しかるべき地位についていただいて――」 「そういうのは、もっと得意なやつがいるからな」 アキは笑った。 「俺たちはどこまでも兵士なんだよ。それに……まだ前線では戦いは続いている。そこで傷ついている仲間がいるのに、安全なところにいるってのはどうにも性に合わねぇんだ。特に――アイツはな」 「ロータス特務大尉ですか」 「あいつをおさえておくのはできっこない。それなら、一緒に跳びまわっていたいんだ」 「……おふたりは、旅をして見識を広められたと聞きました」 不思議そうに、副官は聞いた。 「それは比喩的な意味ででしょうか。一体、どのような旅だったのでしょう。なんだか、それはあまりに……」 「そうだな……」 アキは、なつかしそうに、遠くへ視線を投げた。 「陸地がなくて海のうえに町がある世界……かつてドラゴンがいて、その死骸をエネルギーにしている世界、雲の中にたくさんの島が浮いている世界……そんな世界があるって言ったら信じるか?」 「はい? それはどういう」 「おとぎ話さ」 にやり、と頬をゆるめた。 「く、くるな……!」 崩れたがれきの影に、帝国軍の敗残兵が固まっている。 泥と汗と血にまみれた顔には恐怖が浮かぶ。追い詰められた人間の目だ。 「大丈夫。命は保証する。だから武器を捨てて投降するんだ。帝国軍の本隊はもう撤退した」 「うるさい、誰が、テロリストどもに……っ! ち、畜生」 兵士は手榴弾のピンを噛んだ。 「帝国万歳!」 「っ!」 ハルカの姿が、残像だけを残して消えた。 数メートルの距離を瞬間移動して、兵士の手から手榴弾を奪いとる。 「万歳なんて言うな、失われて祝福される命なんて、ひとつもないんだ!」 そして、消えた。 はるか上空で、閃光が弾ける。 「あ……」 最後の武器を奪われ、呆然と、兵士は膝をつく。 再びその前にハルカがあらわれたとき、かれらはもはや抵抗を見せなかった。 「殺せよ……」 「いいや、殺さない。……さあ、立てる? きみたちは捕虜になるけど、すべての権利は保証されている」 「おまえたち……何のつもりなんだ。こんなことをして……」 「この市は帝国から独立したんだ。あらためて、帝国政府には停戦を申し込む。そうすれば、戦いは終わるよ」 「バカな。戦争が終わったりするもんか」 「俺もそう思っていたよ。昔はね。でも、戦争のない世界だっていくつもあるって知ったから」 ハルカは敗残兵を助け起こすと、ひっそりと笑ってみせた。 戦いは終結し、戦火の煙はゆっくりと霧散してゆく。 空は、どこまでも高く、青く澄んでいた。 ◆ ◆ ◆ 雀という名の男がいた。 世界図書館の旅客名簿に確かにその名はある。 剣客として知られているが、生来、人に気安くなじむ性ではなかったようだ。良く言えばストイック。日々のほとんどを鍛錬に費やしており、冒険旅行で伴になった仲間にも必要以上の口は聞かなかった。 戦いともなれば、鮮やかな剣を振るう姿が記憶されている。 鞘から抜き放つは、恐ろしく研ぎ澄まされた刀だ。 その鞘が彼のトラベルギアであって、中身のほうは、もといた世界からずっと携えていたものらしい。 その銘を『紅葛』といったが、それを知るものは、雀の名を知るものよりもわずかだったに違いない。 渇いた風が荒野の土を巻き上げ、咽び泣いている。 雀は静かに、そのものと向かい合っていた。 七尺はあろうかという偉丈夫である。漆黒の角をもち、その肌は赤銅色。艶やかな闇色の瞳が雀をねめつけている。周囲の空気は、目に見えるほどの殺気に満たされていた。 敵の手に握られた曲刀の刀身には、斬り殺されたものどもの怨念が無間地獄の叫びを映している。おまえもその中に加われと、怨嗟の声をあげているのだ。 まさしく、鬼神。 その眼に睨まれれば、生きるものは身を竦ませるよりない。そして刃に命を狩られるのである。 何故、雀がそのようなものと相対しているかを浩瀚に語っても詮ないことだ。 ただ雀は、相手にとって不足なし、と畏れてなどいなかった。 睨みあってどれほどか。 一瞬でも気を抜けば、鬼神はただちに雀を屠るだろう。 雀は間合いを測っている。そして何度も、頭の中で繰り返しているのだ。 どこまで踏み込むか。体重移動の割合は。そのとき相手はどう動く。息はいつ吸い、いつ吐くか。 太刀筋を思い描く。 おそらくそれと寸分たがわず、紅葛は彼奴を斬るだろう。 だが。 そのとき、相手の刃を避けることはできはしまい。 そういうことだ。 何度考えても、どう読み直しても、それ以外の筋はないようだった。 相手が仕掛けてこないのは、おそらく同じなのだろう。 いわば千日手。 この勝負、指すまでに詰んでいる。 敵は待っているのだ。雀が退くことを。生き残るにはそれしかない。だが、それはほんの少し生きる時間が延びるだけのことだ。敵の追撃を、今度こそかわしようがないのだから。それでも人は命を惜しむものだ。相手はそれを待っている。 (莫迦な) 見くびられたものだ、と雀は思う。 迷うまでもないことだ。何故ならば。 実に無造作に、雀は仕掛けた。 時間にして、一秒にも満たぬ。 須臾の間の、それは出来事だった。 紅葛の切っ先が描く一閃。銀色の三日月のような弧が、敵を――斬る。 ああ、これだ。何度も何度も繰り返し繰り返し味わってきたものだ。刃が相手の皮を切り、肉を断ち、骨さえ削いでゆくこの感覚。柄に伝わる感触を通して、その刹那、雀は刀身と一体化する。雀自身が刀となるのだ。 鮮血が、荒野に迸る。 鬼神の巨躯が斃れる音を背後に聞いたのと、どちらが先か。 紅葛は、雀の刀は、木っ端微塵に砕け散っていた。 細氷のように、その破片がきらきらと光を反射しながら、散ってゆく。 その中を、雀のおぼつかない足が、一歩、二歩――。 渇いた土のうえに、血が滴る。 カッ、と血を吐き、そのまま倒れた。 (綺麗――だ) 力を振り絞って、仰向けになると、降り注ぐ細氷の雨をその身に浴びながら、雀は思った。 それは初夜の花嫁を見た男のそれにひとしい目であった。 思えば、雀は、ずっとそうして、紅葛を見ていたのだ。 紅葛は、代々、忍びの里の当主が受け継ぐべき刀だった。 (なぜだ、なぜ……) 新たに、その刀を継ぐこととなった次代の当主は、雀に斬られて死んだ。 だくだくと、畳の上にあふれていく血。 ぬらぬらと、血と脂に濡れた紅葛を――彼が奪い、そのままあるじを斬り殺した手で柄を握り締め、その刀身を見た雀は、その美しさに魅入られたのだ。 否、そのはるか前からずっと。 先代を誰よりも敬い、仕えていた雀は、本当は彼のもつ紅葛に仕えていたのだ。それを懸想と呼ばず、なんであろう。 次代の当主は、刀を好まぬ男だった。 武よりも智謀や策を重んじ、人を殺すなら刀ではなく毒を用いる、そんな人物だったのだ。 このままでは紅葛は床の間に飾られるだけのものになりはてる。そう思ったときには、もう雀は動いていた。 当主を斬り、里を出奔し、それから…… それから、何年が経っただろう。 わかっていたのだ。 生きている限り人は成長し、物である刀は滅びてゆくしかない。 最初から、雀と紅葛はすれ違うことがさだめられていた。 今の瞬間、雀の剣のわざは極みに達し、すでに綻びへと頂点を下ろうとしていた紅葛がそれに耐えられるはずもなかった。 それはふたりがすれ違った、まさにその瞬間であり、はじめてふたりが、互いに見合うものとしてつりあった、最初で最後であったのだ。 雀という名の男がいた。 世界図書館の旅客名簿に確かにその名はある。 剣客として知られているが、生来、人に気安くなじむ性ではなかったようだ。良く言えばストイック。日々のほとんどを鍛錬に費やしており、冒険旅行で伴になった仲間にも必要以上の口は聞かなかった。 戦いともなれば、鮮やかな剣を振るう姿が記憶されている。 彼が、その後、どんな旅を経て、どこへたどりついたのか。 知っているものはいない。 ◆ ◆ ◆ 「弓兵、構え!」 雪・ウーヴェイル・サツキガハラのよく通る声が、戦場に響き渡った。 金色の瞳が遠い地平を見据える。そこに土煙の中から、禍々しい巨竜のシルエットが幾体も立ち上がる光景があった。 「畏れるな。大義も祝福も我らとともにある!」 騎士団を叱咤する。 これほど大規模な、魔族の襲撃は例がない。歴戦の騎士でさえ怖気づくは当然。しかし、こうしたときに奮い立たずして何のための騎士団かと雪は思う。 どろどろと地に響くは、魔軍の軍靴――大方、辺境の亜人を兵卒に仕立て上げたものの行軍であろう。だがそんなものは数合わせにすぎない。主力は鎌首をもたげ、爛々と輝く眼に人類への憎しみを燃やすあの邪竜たちだ。一匹でも町ひとつ焦土とするに容易い竜たちが、ざっと八匹はいる。ずいぶんな大盤振る舞いときた。雪は一瞬、頬をゆるめたが、すぐに真顔に戻ると、深く、呼吸を整える。 馬上のままに、抜いた剣を虚空にふるう。 (きたれ、天空を渡るもの) 一陣の風が、戦場を吹きゆく。 いつだって、雪の声に、それは応えてくれる。 「騎馬兵、用意!」 馬上の騎士たちが鐙に力を入れる。 「突撃!」 雷のような音とともに、騎馬兵が一斉に駆け出す。間髪いれず、雪は叫んだ。 「弓兵、放て――!」 内心では躊躇したものもいたかもしれない。 この位置からでは、矢は敵に届かないはずだ。単なる威嚇を雪は命じたのだろうか?……そうではないことは、次の瞬間、わかった。 かれらの背後に、巻きあがった風は、神々しい甲冑をまとった武人の姿となって、虚空に顕現した。 すさまじい風が、放たれた矢に対する追い風となって吹く。 矢の群れは、通常よりもはるかに遠く天を翔け、鋭い雨となって魔軍の先陣へと降り注いだのだ。 ありえない先制攻撃を受けて、敵の馬脚が乱れたとこへ、精鋭の騎馬兵団が突撃する。相手方の出鼻を挫くに十分だった。 風を呼ぶ武神が溶けるように消えてゆくのを尻目に、雪もまた、馬を走らせようとした、そのときだ。 「お待ちください、陛下ーーーっ! スウ、止めてくれーー!」 ジーンの声に、雪は振り向く。 彼が率いる近衛騎士団はずっと後陣、王城の護りを固めているはずだが? 「おー、やっているな!」 それは誰あろう、ロイヤルヘヴン王国国王エル=ギル陛下その人であった。愛馬に跨り、ぴかぴかに磨き上げられた鎧をまとって、王がたった一人で駆けてくる。 正確には、ジーンこと、近衛騎士団長ユーヴェルジーンと近衛騎士の面々がその後ろに付き従って――いや、追いかけてはきているのだが、早馬で王にかなうものがいないのだ。 「今の矢の雨を見たぞ。あれは雪のしわざだな」 「御意」 「おお、魔竜の群れと聞いたが誠であったな。古文書の挿画でしか見たことがなかったが、どれ、ひいふうみい……八匹もいようとは。どうだ、雪、誰が何匹仕留めるか、賭けをしないか」 「お戯れもほどほどになさってください! 陛下は城へ……せめて後陣へお戻りを。ここより先は――」 「ジーンも加わるか? それともおまえは怖気づいたか」 王は笑った。 「な、なにを仰います」 「よしではいくぞ!」 「まったく話を聞いていない!!」 カッと白目を剥いたジーンの肩を、雪はぽむ、と叩いた。 「陛下は久々の戦に血が滾っておられるのだ。近衛騎士団長におかれては陛下のお気持ちを尊ばれよ」 「スウ、おまえはいつもそう言って!」 「俺には気持ちはわかるよ。戦を望むわけではないが、どうせ相争うならこういう戦いのほうがましだ」 「スウ」 そういわれては、ジーンに返す言葉はない。 ロイヤルヘヴンの宮廷をゆるがした、国王派と前王弟派の政争を背景に、冤罪を被って投獄された雪だ。 彼が再びこの世界に戻り、まずなしたことは、その争いの収拾であった。 「さあ、行こう。出遅れては賭けに負けてしまうぞ」 「なに、まさか本気で――」 不敵な微笑だけを残して、雪はもう走り出している。 (ああ、そうだ) さきほどから、なにを思い出す、と雪は思っていたのだ。 (これはまるで、ターミナルの喧騒だ) さまざまな世界から来たものたちがともに暮らし、ときに肩を並べて戦った。 あの日々が、とても遠く、懐かしいものに思えた。 その戦いは熾烈なものであった。 国王自ら、最前線に突撃するという前代未聞の状況は、両軍に混乱をもたらしたが、エル=ギル王の勇猛果敢さと獅子奮迅の戦いは比類なきものであった。 なにしろ一人で竜の首を4つ刎ねた。 雪は3匹をしとめ、ジーンは王を護るのに必死で、1匹をようやく倒したにとどまった。 「このようなことは……今回限りにしていただきます!」 返り血と汗と埃にどろどろになり、息を切らせながらジーンが言うのを聞いているのかいないのか、王は積み上げた竜の首を前に腕を組んでいる。 「どう見る、ススグ」 「八匹もの魔竜を御すのは、並みの術者では不可能です。それに、あの骸を。戦いに加わっておりました」 「ふむ。ダークエルフか」 「左様。おそらく《黒の森》より来たりしものかと。かのものたちは邪悪ですが、外の世界にむやみに攻め入ることは好みません」 そのときだ。伝令の早馬が駆けてきた。 「魔法院より伝令です。魔道羅盤に異変あり。南方にて凶兆とのことです」 「むう、やはりそうか。予言のとおりだ、これは《奈落を統べるもの》の目覚めに相違あるまい!」 「それは一大事。陛下、急ぎ、魔法院にて……」 「悠長に会議などしている場合か。とっとと魔神の封印をこしらえに行くぞ」 「……はい?」 「私とジーンとススグ。この3人がいれば怖いものなどあるものか。このまま出発だ!」 「へ、陛下ーーー!?」 これが3人の、魔神復活を退けるための壮大な冒険の旅――波乱万丈の一大叙事詩として後世に語り継がれる物語の、まさに始まりの一幕であった。 ◆ ◆ ◆ 廃病院の廊下は暗く、不快な腐敗臭で空気が淀んでいる。 那智・B・インゲルハイムはその中を足早に進んでゆく。曲がり角に達した。ひと呼吸の間を置いて、銃を構えて飛び出す。敵影なし――クリア。 次の瞬間! 朽ちかけた病室のドアが、内側から猛烈な勢いで吹き飛んだ。 ぬう、と姿を見せる巨大な影。その姿を認めると同時に、那智の銃が火を噴いていた。 無数の手術痕が走る青白い肌に銃創が穿たれるが、怯んだ様子はない。流れ出るのはどろりと粘性の高い、腐った血液だ。その肉体がすでに生きてはいないことを意味している。 咆哮とともに、点滴スタンドを振り回しながら襲い掛かってきた。 バックステップで曲がり角まで後退し、その間も打ち続ける。 呻くような声に振り向けば、もときた廊下の後方からも、死者の群れがわらわらと押し寄せてきて―― 「先生、いい加減にしてください」 「ちょ! な、なんてことを……!」 「ゲームは1日1時間。それにもうすぐ依頼人の方がお見えになる時間でしょう? ここも片付けないと」 無情なリセットボタンの押下とともに、黒葛 一夜はテーブルの上に出しっぱなしのカップだの雑誌だのを方続けてゆく。 那智はコントローラーを投げ出し、背もたれに体重を預けた。ぎしり、と軋む。 その背後――ブラインド越しに見える窓には、鏡文字で「探偵」とある。壱番世界某所、そこは那智が営む探偵事務所であった。 ここで開業してもう随分、たつ。 探偵と言っても、大半は地味な素行調査や猫探しといったものだ。現代の壱番世界で、探偵とはそういうものである。 しかも、そうした仕事の大半は、助手であるところの黒葛 一夜がやっているのであった。 今も、かいがいしく事務所を片付け、応接スペースを掃除して、依頼人を迎える準備をしている。今日のアポイントが正確には何時からだったか、どういう人物がどんな案件の相談にくるのか、那智は記憶していない。 すぐそこのホワイトボードに目を遣ればわかるはずだが、視線を動かすことさえ億劫だった。 やがて、依頼人がやってきた。 若い女性だったので、少しだけやる気が出たが、そのやる気は、なんとか那智に応接ソファーまで向かわせる程度にしか発揮されなかった。 「もうインゲルハイム先生しか、頼れる人がいないんです」 女性は言った。 地味な素行調査や猫探しが大半ではあるけれど、その合間合間に、まれに舞い込んできたり、巻き込まれたりする事件を解決しているうち、かれらの名も一部で広まっているようだった。 「連続通り魔カツラかぶせ事件」や「ブロッコリーとカリフラワーすりかえ事件」「ゴキブリ愛好家連続誘拐事件」など、いくつかの事件は今でも語り草だ。 「そう、あのときは――」 乞われて、那智は語った。 「警察からもわれわれが疑われてしまい、困難を極めました。それでも、あの断崖で犯人を追い詰め……そして、なんとか言葉を届けようとしました。『髪よりも、大切なものがある』と。結果、かれを自首させることができたのです」 「先生」 来客が辞した後、コーヒーカップを下げながら一夜が言った。 「断崖で説得したのは俺でしょう」 「そうだったかな」 わざとらしく顔の前に新聞を広げる那智。 一夜は頬をゆるめた。 那智は、控えめにいってもゲーム廃人で、ほとんど働かない。 しかし。 「覚えてますか、先生。吹雪の山荘の事件」 壁の一面に、かれらが解決してきた事件のファイルが並んでいる。 一夜は、そのひとつひとつの内容を、ファイルを開かずとも思い出すことができた。 「……忘れたよ」 「そうですか? あれこそ、先生のお手柄でしたよ」 コーヒーを淹れなおし、那智のデスクに置いた。 「あのとき、先生が助けにきてくれなければ危なかったです。あの地下室に閉じ込められたまま凍死していたかもしれないんですから」 「……助手がいないと困るからね」 「そうですね」 一夜は笑った。 「いろいろありましたけど、俺、先生と出会って、ロストナンバーになって良かったと思ってます」 「……」 那智は新聞をたたむと、コーヒーに口をつけた。那智が好む淹れ方を、一夜はすっかり心得ている。……自分は変わった、と那智は思う。まず第一に、人を殺していない。壱番世界の警察は優秀だ。ここで殺人を犯すのはあまりリスクが高すぎる。……だがそれは、自分に対するいい訳かもしれない、と思うのだ。 一夜に――その妹。ここでこうして、穏やかに、ときに賑やかに暮らしていく毎日。それが決して、那智は嫌いではないのだから。 「まあ、私もね」 いかにもそっけないふうに、那智は言った。 「君達のおかげでまともに暮らしていけているよ、ありがとう」 「えっ」 「それより、だ。さっきの依頼人の話だが」 那智は言った。 「気づいていたか。矛盾している。まず、彼女の言っていた、男の足取りを追うべきだ」 「……。はい、先生」 ◆ ◆ ◆ 「あれだ」 「ああ、聞いてたよりも大物だな」 理星と清闇は、ヴォロスにいた。 それはいつもと変わらぬ世界図書館がもたらす冒険旅行だ。これからも当分は、旅人たちはこうして異世界へ旅立つのだろう。 世界司書は、竜刻の回収を任務だと告げた。それは今、暴走寸前の力を発揮し、周囲の生物・無生物を問わず引き寄せてひとつの塊をなし、今もなお、成長を続けながら辺境の地を進んでいた。 この先遠からず、人の生息圏に達する、その前に、核である竜刻を抜き取ってこの現象を止めること――それがかれらに課せられた使命だ。 ふたりが到着したとき、すでにその全長は、山の頂よりも高くにあった。 「なぜこんなことが起きたのか、わかったような気がする」 理星が言った。 「竜刻って、竜の名残……そうだろ?」 「らしいな」 「あれは、『戻りたい』んだ。竜に。元は竜だった何かの苦しいって気持ちが伝わってくる」 「そうか。ならきっとそうなんだろうな」 「でも、住んでいる場所を蹴散らかされたら、ここで生きてるやつらも心底苦しむ。止めないと」 「ああ。そのために来たんだからな、俺たちは。竜のよしみで、片を付けてやるとするか」 顕現するのは、黒き巨竜――それは竜刻がつくったまがいものの、竜の姿をかたどっただけの岩や土の塊とは違う、艶やかな鱗の下に熱い血肉を備えた真なる竜だ。このヴォロスにおいては滅亡したはずの竜の姿を、もし見たものが入ればヴォロスの住人は腰を抜かしたことだろう。 『いくぞ、理星!』 言われるまでもなく、理星は跳躍し、清闇の首のあたりに乗った。 黒い翼が舞い上がる。岩石の擬似竜が鎌首をもたげ、くわっと威嚇するようにあぎとを開いた。 その喉笛を狙って急降下する清闇へ向けて、擬似竜の身体を構成する土砂岩石の一部が、礫となって襲い掛かった。清闇は回避しない。そんなもので止められる清闇ではない。ならばこのまま肉を切らせて骨を断つとばかりに、突っ込んでいって一気に仕留めるのが得策である。 予想に反して、しかし、礫は清闇を傷つけることはなかった。見えざる力の障壁に寸前で弾かれているのだ。 「気にせずいって。援護する」 背で理星が言った。 『無理はするなよ』 「ここにいるのがいちばん安全だろ」 『違いない』 (やれやれ。俺も大概、過保護になったもんだ) 清闇は内心で苦笑した。 かれらは今、壱番世界で暮らしていた。 そこに至るまでにはさまざまな経緯や挿話があるわけだが、要は、理星が夢でつながっていたかの人物と再会し、彼の住む地でともに暮らすことを決めた、ということだ。 (そうか。いいんじゃないか。あいつ、ずいぶんいい暮らしをしてるらしいじゃないか) 清闇に一も二もない。それが理星の幸福につながるなら良いと思う。 (それで、その……) 理星は言い淀んだ。 彼が、もしよければ清闇にも一緒に来てほしいと言い出すのに数日を要した。 異世界で暮らすのは、言うほど容易いことではない。その点、0世界は、ほかにも大勢ロストナンバーがいて、事情をわかっているからよいが、壱番世界ではそうもいかぬ。環境の激変で心細いのももっともだろうと、清闇は彼に着いて行くことを了承したのだった。 かくしえ、理星の半身たる人物の屋敷で、その一画を与えられて起居する日々が始まったのである。 暮らし始めてすぐ、理星は (幸せすぎて怖くなる) と言わんばかりの表情を見せるようになった。 今はまだその兆候は見えねど、いずれ理星は壱番世界に帰属する可能性が高い。穏やかで、愛ある人生――それは文字通り、理星から欠けて失われていたパズルのピースなのだと清闇は思っていた。 (おかしくないか?) 鏡の中で、理星が不安そうに訊ねる。問題ない、と清闇が答える。 清闇の協力で、理星は角や翼を隠せるようにした。 旅人の外套が効力を発揮しているうちはいいが、壱番世界に帰属することになれば、そのままでは拙い。馴れぬ様子の理星だが、こうして備えをしていることが、この世界にとどまる決心を、言葉にせずとも表明しているということなのだと気づいて、理星はじんわりと胸が温かくなったものだった。 格闘は森を薙ぎ、丘を穿ち、山を崩して、続いた。 2体の巨大な竜が、辺境の地でこのように激闘していると誰が知ろう。 決着は、黒竜が擬似竜の喉を食い破り、そのまま胸元を掘り返すように構成物を破壊して、その奥にあった竜刻――あやしい燐光に明滅する骨の欠片を奪い去ったことでついた。 「さあ、鎮まれ。眠るんだ。静かに、静かに――」 理星はその欠片を抱いて、諭すように語り掛けた。やがて、その明滅はゆっくりと消えていった。 「清闇。今、ノートで見たけど、この近くでもうひとつ別の依頼があるんだ。ついでにやってかないか?」 「ずいぶん頑張るな。無理はするもんじゃないぞ」 「でもまだいけるし。せっかくヴォロスまで来たんだし、稼げるときに稼いどこう。……イソーローってばっかじゃ申し訳ねぇから」 「……だなあ。よし、いくか。終わったら、ヴォロスの市場でなんか買っていってやろうな。こっちでしかない燻製肉とか野菜の干したやつとかさ」 清闇の言葉に、理星は笑って頷く。食材は虚空に料理してもらえば、きっと素晴らしいものになるだろう。それからターミナルでキューブを受け取ったら、クリスタルパレスのケーキを買っていくのはどうだろうか。彼は甘いものに目がないから、きっと喜んでくれるだろう。そうして、誰かが喜ぶことを想像して、それによって自分も嬉しくなってくると、不思議なあまやかさが、理星の胸を満たす。 それは実に他愛もないよしなしごとだ。 暮れてゆくヴォロスの夕日に、ふたりの影が長く伸びる。 竜とヒトでは寿命が違う。帰属したとして、いつまで、このような日々があるかはわからないが、そうしてともに時間の流れの中にあるのも、そうであるからこそ輝く、命というものの美しさであると、ふたりは思うのだった。 ◆ ◆ ◆ 「よーお。あれ、おやじは?」 小さな店だ。 カウンターの向こうには、今夜もおでんがよく煮えている。 その湯気越しに、おやじの弟子だった青年が、ティーロをみとめて、「あ」といった顔をした。 「……いらっしゃい。お久しぶりじゃないですか」 ティーロ・ベラドンナはカウンター席についた。 「そうだっけ? そうかもな。いろいろあってさ」 出されたおしぼりでごしごしと顔を拭いた。 さて今日はなにからいくか。久しぶりに嗅いだ匂いは、ターミナルで屋台として開業されていた頃と違いがない。 おやじはあのまま0世界で暮らすのかと思っていたら壱番世界に舞い戻って店を持つと聞いたときは驚いたが、壱番世界フリークのティーロとしてはこちらに楽しみがひとつ増えたということだから、歓迎すべきことだった。 店の場所が東京の中野というのがまたいい。 秋葉原と並んで、ティーロがよく立ち寄る町だ。 その日―― ティーロは久々に壱番世界にやってきていた。 東京は壱番世界の中でも変化の早い土地だが、中野ブロードウェイは相変わらずで、楽しいひとときを過ごした。 「おい、ジョニー! ジョニーじゃね!?」 今日は偶然の再会があった。 ティーロがジョニーと呼ぶこの男は、本名は石川幹夫と言って、ティーロがディアスポラ現象で壱番世界に放り出されたとき、助けてくれた――というか、いきがかりで厄介になった人物だった。 思えば、そのとき、漫画で埋め尽くされたジョニーの部屋にいたことが、ティーロが壱番世界のサブカルチャーののめりこむきっかけだったわけだ。 「このガイジンさん、だーれー?」 ジョニーの傍らにいた女性が言った。 「……」 「え? なに? なんだって? あいっかわらず声小せぇーなー……、げっ、うそ、マジ彼女!?」 「……」 「おまえに彼女ぉー!?」 ジョニーは照れているのか、ティーロと目を合わそうともしなかった。 「あら、ホントよ。ミッキーとあたし結婚すんの。ねー?」 女性がにっこり笑って、腕をからめると、ジョニーの顔がにやけた。 「おまえ、どうやって三次元の女を……!」 「あ、あのね。電車の中でねー、あたしがスカートの中盗撮されててぇー」 彼女はひとしきり、出会いから今までのエピソードを語って聞かせてくれた。 ティーロはいちいち驚いたり呆れたり喜んだりして、根掘り葉掘り聞き出し、彼女は終始嬉しそうにのろけ、ジョニーはときおり舌打ちをして早くティーロから解放されたがっていた。 (ジョニーが結婚ねえ) オタクでコミュ障の化身のような彼にそんなことが起こるのだから、世の中なにがあるかわからないものだ。 そんな思いを噛み締めながら、立ち寄ったのがおでん屋であった。 おやじにこの吃驚トピックを報告してやりたかったのに、いつまで経っても戻ってくる気配はなく、おやじが再帰属してからとった弟子の青年が、黙々とおでんを煮ているまま、時間が過ぎていった。 そして。 コトリ、とティーロの目のまえにお猪口が置かれた。 「?」 目を上げたが、青年は無言。 そして、日本酒を注いでくれた。置かれたボトルのラベルには『東風』とある。 頼んでいないが、なにか意図があるのだろう。とりあえず、ティーロはそれを口に運んだ。純米酒だ。冷えた酒は、きりりとした辛口である。 「うめぇじゃん。これ、どうしたの」 「おやじさんがね。作った酒なんすよ」 「へえ?」 「これ、東京で育てた山田錦から作ってるんです。親父さんが自分のおでんに一番合う酒を作りたいって言って田んぼ探しから始めて……今年やっと完成したんですよ」 「はあ、そりゃ、こだわりのおやじさんらしいや」 「ティーロさんが来たら、必ず呑ませてやってくれって」 「ああ、気に入った」 「……」 沈黙。 ティーロも馬鹿ではない。 事態が飲み込めてきた。まさか、そんなはずは、という思い。そうであったら聞きたくない。勘違いであってほしい。 「……でさ。おやじさんは……?」 「……亡くなりました」 息をついた。 先月のことだ。仕込みの最中に倒れた。脳溢血だったという。 おやじに家族はいない。 急逝だったわりに、諸々準備がしてあって、店は弟子の彼がすべて受け継ぐことができた。 「クソッ、ずるいじゃねえか、おやじ」 ティーロは言った。 「オレに別れを言わせねえなんてよ……」 「いろいろ手続に追われて……店を開けられたの、今週からなんですよ。そしたらティーロさんが見えて、驚きました。おやじさんが呼んでくれたんですかね」 「バカヤロウ。呼ぶならもっと前に……。ん、まて。それじゃ、今日のおでんは、おまえさんが?」 「はい、もちろん」 「そうかぁ。そいつぁ、すげえ。おやじさんのとまったく同じ味だぜ」 「ありがとうございます」 「ちくわぶくれよ」 「はい」 京風の、やさしい味。よかったな、おやじ。継いでくれるやつがいて。 おでんも、酒も最高だった。 うますぎて、涙が出るじゃねえか。 「じゃあな。頑張れよ」 「はい。また来てください」 看板まで、ちみりちみりと粘った。 ティーロはあいまいに微笑み、のれんをくぐる。 そうかぁ、と息をついた。 変わっていくんだな、世界ってのは。 街を、歩いた。 ここは楽しい世界だった。平和で、華やかで、きらきらとした文化の煌きがあった。中でも漫画は最高だし、甲乙つけがたいが、酒も最高だ。 「これが潮時かな」 と、つぶやく。 今は遠い、故郷を思う。 せんに、カンダータへと渡った友人夫妻を思う。 そのまえに虚無の空の彼方へ消えた少女の姿をしたものを思う。 ロストナンバーは旅人だ。 その身分は、かりそめのものに過ぎない。 いつかは必ずすれ違い、それぞれの路をゆく。 「まぁ、でも。楽しい旅だったよ」 ティーロは夜空を見上げた。 都会の灯りに負けて弱々しく光る星のなかに、自分のゆくすえを見定めようとするかのように、彼は目をこらした。 ◆ ◆ ◆ 「人生、何事も楽しんでやるのが一番だ」 それがくちぐせだった男が、いた。 フェリックス・ノイアルベールの、遠い記憶だ。 夢を、見ていた。 なんの夢だったかは、目覚めとともに指のあいだから零れ落ちてしまった。 ここがどこで、自分が何者かが、戻ってくる。 私はフェリックス・ノイアルベール。0世界、ターミナル警察・第一方面本部の長である。 ターミナル警察は、ターミナルをいくつかの区域に分け、担当をもって任務にあたる。第一方面は図書館関連の施設が集中するターミナルのいわば官庁街であるため、その責は重い。 手早く身支度をして、家を出た。 途中、パン屋に寄ってサンドイッチを買っていると、「親分~!」と耳慣れた声。ムクが、ぼよんぼよんと跳ねながら、フェリックスのまわりを回った。 「今日は早いダスな!」 「すこしやることがあってな。ムクこそ、どうしたんだ」 「親分に新作の味見をしてもらいたくて届けにきたんダス!」 ムクはフェリックスの使い魔だ。 今もそれは変わらないが、いろいろあって、最近は、それぞれ別の暮らしをしていると言ってもいい。ムクはターミナルで漬物屋を開いていた。 片手にサンドイッチの紙袋、もう一方の手にピクルスの瓶を持ち、ターミナル警察へ登庁する。 警察機構ができた《北極星の年》以降、フェリックスはこの組織の整備に力を尽くしてきた。 長らく、吟遊詩人であったフェリックスだが、思えばその前は一国の騎士であったのだ。騎士であった時期はわずかな期間だったはずだが、思うより、それは彼自身の基盤となっていたのだろう。警察の仕事は、フェリックスによく馴染んだ。 フェリックスのおもな功績は、ナラゴニアの技術者たちと共同で魔道具を開発したことだ。 それは警察にとって役立つ装備になったし、一部は、ロストナンバーたちが冒険旅行で用いる品として普及している。例えば、砕くことであらかじめ指定していた場所に転移できる石(かつてフェリックス自身が、樹海やチャイ=ブレ内部を探索した時に使用したことが報告書に残されている)などは、便利に使用されているようだ。 登庁すると、デスクのうえで、山のような書類がフェリックスを待ち受けていた。 事務仕事ばかりはさすがに億劫だが、これも慣れというものだ。黙々とこなしてゆく。そうしているうちにあっという間に午前中が過ぎる。各部の報告を受けながら慌しく昼食を摂り、味見したピクルスの感想をそっとエアメールでムクに送った。 昼からは、彼が監督する直属部隊の訓練へ。 フェリックス直属の部隊は、魔道具の試用試験も兼ね、道具のサポートを最大限に受け、それを駆使して任務にあたる部隊だ。 ロストナンバーは個々人の能力差が大きいが、魔道具によって、その底上げや均質化を図ることは、警察のような統制のとれた組織にとっては重要なことだった。 「もっと視野を広く! 地上じゃないんだ、立体的に考えろ!」 今日は、魔力によって飛行する人工の翼を使った、空中での訓練である。 すでに実用化されていて、これによって巡回の効率が飛躍的に向上したが、装置にはさらなる改良を試みているところだった。ナラゴニアの技術者が熱心に観察の目を向けるなか、フェリックスは空中で模擬戦に打ち込む隊員へ、助言や檄を飛ばし続けるのだった。 「本部長!」 ――と、声がかかった。 「『ホワイトタワー』から連絡が。至急、応援がほしいそうです」 「応援? 『ホワイトタワー』で? どういうことだ?」 デスクへ戻りながら、聞き返す。 「詳しいことはわからないのですが、中でなにか事件があったようで……チェンバー内の大捜索をしたいようです」 「わかった。飛行訓練は中断。支度をさせろ」 「了解」 自分でも詳しい状況を確かめようと、椅子に腰を下ろす。 ……と、ぎゅむっ、という感触に飛び上がった。 「ムク!?」 「親分~」 「なんだ、なにしにきたんだ! 感想ならメールで送ったろう!」 「そうダスけど、それを見てたら、親分に会いたくなって、店は閉めてきたんダスよ~。親分、最近忙しくてちっともワシを使い魔として使ってくれないダス」 「だからそれはだな……おまえこそ漬物屋が忙しい忙しいって言ってるじゃないか」 思わず言い合いになって……それから、ふたりで、ぷっと噴出した。 笑い声が響く。 「……なんだか、なつかしいな、こういうの」 「そうダスな。ごめんダス。お仕事の邪魔したダス?」 「いいや。……よし、今から出るから、おまえも来い」 「えっ?」 「特別に見学させてやろう。第一方面隊フェリックス隊の仕事ぶりをな」 「親分、なんダスか、そのどや顔は。楽しそうダスね。でも事件なんダス」 「ああ、そうだな。事件なのに楽しいといえば不謹慎だが……自分がこのターミナルのために働けるのは、とても嬉しいことなんだよ」 フェリックスは言った。 (人生、何事も楽しんでやるのが一番だ) それがくちぐせだった男が、いた。 フェリックス・ノイアルベールの、遠い記憶だ。 (そうだな) フェリックスは、心のうちで応える。 (ああ、今俺はこの上なく楽しんでいるよ……アレフ) 「本部長、出動準備完了しました!」 「よし。フェリックス隊、出動。急げ」 「了解!!」 号令一下、魔法の翼を装備した一隊が、ターミナルの空へと飛び出していった。 * 『ホワイトタワー』と呼ばれる建物がある。 正確には、その建物だけを収めたチェンバーがあり、そのチェンバー自体もそう呼ばれている。 かつて、ターミナルの街ができたころ、世界図書館の建物を挟んで、対になるようにふたつの城館があった。ひとつは『赤の城』。ベイフルック家の居所であり、もうひとつが『白の城』。エルトダウン家の居所であった。 だが、ルイス・エルトダウンの犯罪を機に、『白の城』はルイス卿ごと、チェンバーの中に封印された。城館は監獄としての機能を持つものに改築され、その際、ロンドン塔がモデルになったことから、それと同じく、『ホワイトタワー』と呼ばれるようになった。 その後、ルイス卿を皮切りに、ターミナルにとって都合の悪い人間を収監しておく場所として機能してきた『ホワイトタワー』は、世界樹旅団との戦いで崩壊。ルイス卿が脱獄したことからその存在意義を失い、長らく廃墟のままであった。 それがターミナル新法の施行とともに、再び、刑務所としての役割を得て再建されたのである。 『ホワイトタワー』の、城壁で囲まれた威容は、ミルクのように濃厚な霧の海に浮かんでいる。 その城門と、ターミナルの街との出入口であるポータルとの間は、石の橋梁で結ばれていた。 そこに、大勢の人々が集まっている。 石の橋の、ちょうど真ん中。 そこに、ひとつの遺骸が、忽然とあらわれ、生命なき目で宙を睨んでいたのだ――。 コツン、コツン、とムジカ・アンジェロの靴音が地下の廊下に響く。 いつの頃からだったか、ムジカは髪をやめたので、暗いランプに反射する彼の髪は白金色だった。 この通廊を何度通ったことだろう。 はじめて訪れたのは、ずっと昔――世界樹旅団との戦争よりも前のことだったから、厳密にはあれは再建前の旧・ホワイトタワーの頃だ。そのとき、この廊下の先にある「貴賓室」には、あの《鉄仮面の囚人》がいた。 そして今。 ムジカは、この廊下を、あの男――今の収監者が拘束服に包まれ、口枷を咬まされたまま、ふたりの屈強な看守が引くストレッチャーで運ばれていったことを覚えている。 「よう」 廊下のつきあたり、鉄格子へと声をかけた。いらえは、ない。 かまわず、傍らにいつも用意されている椅子へ腰を下ろした。 すると鉄格子には、背を向ける格好になる。 これは、彼の日課だった。決まった時刻に、毎日、ムジカはここへやってくる。そしてこの椅子に坐るのだ。 「今日、法廷の後、モリーオさんに会ったよ。……まだ此処へ通っているのか、訊かれたよ」 世間話のように、かろやかな口調で。 「おれは言った。『おれが行かなければあいつはずっと暇してるだろうから』って」 沈黙――。 地下だというのに、どこから迷い込んだのか、一匹の蛾が、天井付近を飛んでいるのを、ムジカは見つけた。 廊下に灯されたランプのまわりをふらふらしている。 「聞いたよ。大量の紙とペンを所望したらしいけれど、自叙伝でも書くことにしたのか」 がしゃん、と鉄格子が啼いた。 ぬう、とその向こうの闇の中から、収監者――由良久秀のおもてがあらわれ、鉄格子の隙間から、ムジカの耳の後ろに囁いた。 「自叙伝じゃない。……推理小説だ」 「へえ」 ムジカは顔をほころばせた。 「それは楽しみだ、今度読ませてくれ」 「絶対にごめんだ」 鰐が沼に身を沈めるように、由良は再び独房の闇へ消えた。 「今日は土産があるんだ」 ムジカは一度立ち上がると、椅子の向きを鉄格子に正対させ、坐りなおした。 闇の中に、ムジカを見返す一対の眼光がぎらつく。それへ向けて、彼は語った。 「一昨日のことだ。このホワイトタワーの中庭で、一人の女の死体が発見された」 「ここで?」 「女は囚人だ。しかし前の晩、房にいることは確認されている。それが朝には死体で発見された。死体は正座した姿勢のまま死後硬直し……、真っ赤な薔薇の花を敷き詰めたうえに坐らされていたんだ」 「……俺じゃないぞ」 ムジカは笑った。 「本当だ。俺はここから一歩も出ることを許されていない。俺に殺せるわけがないだろうが」 「忘れたのか。かつてこの部屋にいながらにして、ターミナルに悪意を撒き散らした人物がいたことを」 「おい」 「わかってるさ。話は途中だ。そして今日。ふたつめの死体があらわれた。今度は城と外を結ぶ橋の上。直前に通行した面会者がいたが何も見ていない。ターミナル側の歩哨が、出入りのないことは確認している。にもかかわらず、だ。男の死体で身元は確認中。馬車による轢死体のように見える」 「馬車だと?」 「死体は手の中に、金貨を握っていた」 くくく、と由良が喉を鳴らした。 「握らされていた、だろう?」 「久しぶりに見たよ、おまえのそういう顔」 ムジカが言うと、由良は能面に戻った。……が、それもムジカが写真を取り出すまでのこと。 「遺体の写真だ」 「見せろ!」 地獄の亡者もかくや、というような渇望のこもった声で、由良は鉄格子から手を伸ばした。 ムジカは写真を高くあげて遠ざける。 「よこせよ。……だいたいなんだ、あんたは判事だろう。まだ探偵に飽きないのか」 「そうだな……」 「……」 ムジカはもう一方の手で、ポケットから鍵束を取り出した。 ごくり、と由良の喉が鳴る。 「ターミナルには極刑がない。おまえの罪を思えば妥当な裁量だ。情状酌量の余地もない、終身刑。減刑は考えられない。だが――、司法取引なら別だ」 「あんた……」 「もう気づいているんだろう? 殺人はまた起こる。次の趣向はなんだ?」 「……『鍵穴』か、『オルゴール』。それとも……」 ムジカが微笑った。 「そうだ。この見立ては、おれたちへのメッセージだと、思わないか?」 「気に入らない。なにもかも気に入らないが……この事件の犯人は、いちばん気に入らないな」 由良は呪うように言った。 「そうだな。だが必ず追い詰めてやろう。おまえが居ればおれに解けない謎なんてないんだ」 と、ムジカ。 迷い蛾は、誤ってランプの火の中に落ちたようだ。ガラスの煉獄の中で、はばたきながら翅が燃えていった。 ◆ ◆ ◆ 「おや」 モリーオ・ノルドは、茂みを掻き分けた先に、すこし開けた場所があるのを知る。 モザイクのように異なる植生が混じり合っている樹海のこと、珍しいことではないが、彼が思わず声をあげたのは、そこには一面のヒマワリが咲いていたからだ。 それは、美しい光景だった。 そっと、踏み入り、地面の様子から、これが樹海が再現したものではなく、誰かが意図的に植えたものだと知る。 モリーオは、その“庭”を見渡せる、木の根元に腰を下ろすと、荷物から水筒を取り出した。しばし、休憩するつもりだ。 『ご機嫌ようなのです』 モリーオがそうするかのように、空から声が降ってきた。 「やあ、ゼロくん。いたのか」 『いつでもいるのですよ』 モリーオは0世界の空に目をこらす。 空気遠近のフィルタを通して、今や0世界の風景の一部となった、シーアルシーゼロの姿――その一部が、ぼんやりと見えたようだ。 彼女は、際限なく巨大化を続けていた。 果てのない0世界の中で、無限倍に大きくなってゆく。 それがどういう事象なのか、正確に説明できるものは誰もいない。 通常の生物なら自重で崩壊するだろうし、そうでなくても、仮に壱番世界であれば、地盤のほうが耐え切れまい。0世界だからこそ、それは可能だ。 ゼロが、どうやって、地上にいるモリーオに話しかけているのかも、さだかではない。 巨大化するにつれて、器官も大きくなり、肺活量が増したとすれば、彼女の声や吐息はそれだけで破壊兵器になるはずだからだ。しかしモリーオは、なぜか、すぐ隣にいるかのように、ゼロと話すことができた。 数年をかけて、ゼロはこの巨大化を続けている。 なぜこんなことになっているのかは、話すと長くなるのだが、要約すると、遠大な未来へ向けての計画の一環としての、ゼロ自身の鍛錬であった。 当初は、あれはいいのか?と、十三人委員会でも問題になったのだが、ゼロの性質上、これによって迷惑を被る人がいないので、まあよしということになったようだ。 『そのヒマワリ畑を植えた人を知っているのです』 「そうなの?」 水筒に入れた水出しのミントティーで喉を潤しながら、モリーオは訊いた。 『ツィーダさんなのです』 青い羽毛の鳥人間を、モリーオは思い出す。 「ツィーダくん。いま、どうしているんだっけ?」 記憶を探るが、どこかへ帰属したという話は聞かないようだ。といって、あまり見かけないようだが。 『旅をつづけているのです。みんな旅人なのです』 「そうか。そうだね」 モリーオは頷く。 北極星号の旅の成果により、自身の世界を見つけて帰還するロストナンバーがいる一方、従来の、世界探しの使命は離れて、純粋に旅を楽しむロストナンバーたちも増えた。 かれらはそれぞれの目的のままに、さまざまな世界群への旅を独自に続けている。 なかには、数年、いや、数十年の単位でターミナルには戻らず旅を続けているものもいるようだ。 ツィーダも、そういった、文字通りのツーリストの一人となったのだろう。 「ヒマワリはどんな意味があるのだろう」 『それはわからないのです』 さやさやと、黄色い大輪の花が、笑うように揺れた。 ヒマワリの花言葉――“あなたを思い続ける”。 その頃、ツィーダは、因果律の外の路線を走るロストレイルの車内にいた。 次はどこを目指すか、まだ決めていない。 とりあえずワールズエンドステーションを経由して、新しく見つかった、なるべくまだあまり知られていないところへ旅したい。 ツィーダがもといた世界は、だいぶ以前にすでに発見されていた。 しかし、戻るつもりは、ツィーダにはなかった。 世界を拒むつもりはない。ただ……旅を続けることが、ツィーダの役割だと、そう思ったからだ。 かつて、ひとりの少女がいた。 彼女は病身だったが、類稀な技術をもち――想像した理想の自分をベースに、ひとつのAIを生み出し、ネットワークの海に放った。それがツィーダだ。 本人と違い、どこまでも自由に動き回れる存在。いつでも元気よく、楽しく、飛びまわり、興味をもったものはなんでも見聞きし、知りたがり、吸収してゆく。 (さあ、行って) そんな望みをうけて、ツィーダは飛び立った。 (私の代わりに、世界を旅して) だからそれは必然であり、また、奇跡でもあった。 AIがロストナンバーになる、などということがありえただろうか? だが現にツィーダは、もといた世界の電脳空間さえ飛び出して、あまたの世界群へとはばたいたのである。 だからツィーダはまだ旅をやめないつもりだ。 少しでも多くの経験をして、お土産話をためていく。それが製作者たる、ことりとの約束。もとの世界にさえ、生きた人間としての、肉体をそなえた彼女はもういない。でも……だからこそ。 (まっててね、ことり) いつか……ツィーダにも終わりがやってくる。 電子の海から生まれたその身が、0と1との還元されるときが。 AIに、魂があるか、という問いは哲学者に任せておこう。 ツィーダはただ、そのとき、電脳の彼岸でことりと再会するのだ。 (ことり! ごめんね、おまたせ!) (ううん。ここには時間はないから) (そっか。……えっとね、いっぱい。いっぱい、旅をしてきたよ) (うんうん) (いろんな世界があった。いろんな人たちがいた。すっごい冒険をたくさんしたんだから。どれから話したものかな。けっこう長い話になるけど……いいよね、時間なんてないんだもの。聞いてよ、ことり) 窓際の席で、傍目にはうたた寝でもしているように見えるツィーダを横目に、車掌が通り過ぎていった。 ガタンゴトンと、ロストレイルは走る。 その車窓の向こうを、ゆっくりと、流星めいたなにかが横切っていった。 * ここにもまた、旅を続けているツーリストがいる。 かれはゲーヴィッツだ。 北極星の年以降、ロストナンバーの中には驚くべき“進化”ともいうべき境地に至ったものたちがいたが、ゲーヴィッツもそのなかのひとりであった。 なにせ、彼はおのが身を氷で包み込むことで、単独でディラックの空を航行ことに成功したのである。 つまりロストレイルによらない世界間移動。 とはいえ、世界繭を飛び出す推進力を得るには至らないため、ロストレイルから飛び出すという方法に限られるが、これによりまだ路線の通じてない世界群へと彼は旅することができた。 しかしその方法はといえば、氷の中に包まれて、ただ慣性に任せてディラックの空を漂うというもの。 その間、ゲーヴィッツの肉体は冬眠状態にある。どこかの世界にたどりつくまで、何年を要するのか、そもそもどこかに着きうるのか、すべてが蓋然性のゆらぎに任されているというものだった。 ディラックの空をただよいながら、ゲーヴィッツは夢をみる。 彼は、自分の世界を見つけることができなかった。 といって、ほかに自分がいるべきと感じられる世界もなかった。 いつか、そんな世界にめぐり合えるだろうか。ぼんやりと考えながら、見つからないなら見つからないで、それは致し方のないことだ、とも思う。 ディラックの空をただよいながら、ゲーヴィッツは夢をみる。 誰かが自分を呼んだ気がした。 ときどき、ふとした瞬間、脳裏に浮かぶ面影がある。 あれは誰だったんだろうなあ。 綺麗な女のひとだ、と思う。そして、かすかに、胸の奥が軋むような、そんな感覚もある。 つめたく冷えた、分厚い胸板の奥に、ちろちろと青白い火がまだ燃えていて、そこに、ずっとずっと昔に忘れ去ったと思った記憶や、思いが、まだ残っているのではないか――そんなふうに思う。 もとの世界にたどりついたら、それを取り戻せるだろうか。 あのひとのことを思い出せるだろうか。 ディラックの空をただよいながら、ゲーヴィッツは夢をみる。 たくさんの世界を旅した。 心やさしい巨人は、ときに、危険な事象に巻き込まれもしたが、いつもせいいっぱいのことをしてきた。 ある世界では腕を見込まれて、しばらく村の用心棒をやった。 別の世界で窮屈なスーツに身を包み、ボディガードに雇われたこともある。 戦士として武器を持ち、戦場で獅子奮迅の活躍をしたこともあった。 女の子を怖がらせ、泣かせてしまって、おろおろしながら、花を渡したこともある。 翼竜の背にのって、大海原のうえを飛んだことも。 巨大タンポポの綿毛に掴まって滑空したことも。 ロボット兵団の研究所で危うくバラバラにされそうになったり。 いきがかりでドロボウ一味の仲間になって、夜の街を逃げ惑ったりもした。 どれも、過ぎてしまえば良い思い出だ。 ディラックの空をただよいながら、ゲーヴィッツは夢をみる。 だれかが名前を呼んでいる。 名前? 誰の名前? 俺の……自分の名前か? (俺の――名前) 青い炎が……今にも消えそうな、灯火が揺れる。 俺の名前、なんだっけ。 夢みる巨人を内包する氷の遊星が、今、新たな世界の引力にひかれて、ゆっくりとその世界繭の中に落下していった。 * 『それではちょっくら行ってくるのです』 「え? どこへ?」 空の向こうで、途方もなく大きななにかが揺れ動いたようだ。 ゼロの特性により、その身じろぎにより本来起こるような大震災が0世界を襲うことはない。 モリーオは目をこらすが、ゼロは巨大すぎて、見えているのがどの部分なのかもさだかではなかった。 『今、0世界の端に触れたのです』 「まさか!」 『なのでこのままちょいとディラックの空に踏み出してみるのです』 「そうか。気をつけて」 『はいなのです。問題なければ、これで準備完了なのです。そのときは、いよいよゼロも旅に出るときなのです』 ゼロもまた、超越的な存在となり、その身をディラックの空へと移す。 世界群を超えた、大プロジェクト。 かつて北極星号の旅で、彼女は全世界群をモフトピアのような楽園にする計画の達成手段を求めた。しかし現状の階層世界の原理からそれは難しいと知り、ならば、その世界群の法則さえ変更できる手段を、彼女は希求したのである。 「ゼロくん」 モリーオは呼びかける。 「このままいけば、いつかきみは、きみ自身、すべての世界群を超越するものになってしまう。存在さえ超える存在。それはもはや具象的なものをすべて失った、抽象存在だ。神、などという言葉さえぬるい、概念のようなものになってしまうんだよ。そうすれば、わたしたちはこうやって、きみとこうして対話することさえ、できなくなってしまうかもしれない」 『……んとね。ゼロは、たったひとりで、ゼロの世界でまどろんでいたのです。そのときと、特に変わらないのです』 構わないというのか。 絶対者の孤独のなかに、再び戻るとしても。 それでは、このターミナルで「シーアールシー ゼロ」となり、多くの人々と絆を結んだことはなんだったのか。 ……いや、それがあったからこそ、ゼロは、すべての世界群の安寧を願ったのではないか。 「そうか。……なら、行きなさい。ゼロくん。きみの旅へ。……考えてみれば、そんなことは最初からあきらかだったんだね」 かつて、世界図書館初代館長、エドマンド・エルトダウンは言った。 「答はすべて、旅の向こうにある」と。 『そうなのです。では、いってきます、なのです』 「ああ。……いってらっしゃい」 世界司書は、その旅立ちを、静かに見送る。 いってらっしゃい、良い旅を。 無限の空の彼方に、その挨拶が溶けていった。 bon voyage!
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