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<ノベル>
始闇.生け贄の旗
「おや」
彼は小さく呟き、眼下を見つめる。
ひどく内を向いて渦巻く空間の気配がしたのだ。
それの指し示すところは負と死だ。
千里万里を見通す彼の『眼』は、閉ざされた空間の中で、恐怖と絶望と生への渇望を抱いて右往左往する人々の姿を見出していたが、それ以上に目に入るのは、腐り爛れた姿で小さな集落を徘徊する異形たちだった。
『彼ら』に囚われ、とある一点に集められてゆく人間たちの慟哭と、時折束縛する糸が切れたかのような凶暴さをみせ、襲いかかる異形たちに貪られて息絶えてゆく人々の絶叫とが、そこには満ちていた。
彼は目を細め、それらを見つめる。
ひとつのやりとりも見逃さぬ、とでも言うように。
それらひとつひとつに込められた感情のすべてを知りたいのだ、とでも言うように。
「面白い」
内容は冷淡だったが、声には慈悲めいたものが滲む。
無論、その慈悲は、断じて死に行く人々へ向けたものではなかったが。
――彼は、今更、ヒトの生き死になどには頓着しない。
彼は己にすら執着してはいないのだ。
「死に瀕して、彼らはどう足掻く。何を望む。どうあろうとする。――それは、我々の求める結晶となり得るだろうか」
独白し、彼は立ち上がった。
折しも、視界の隅では、どこにでもいるような少年が、異形に追いすがられ、必死で逃げているところだった。
すでに異形たちに襲われているらしく、あちこちから血を流した少年は、行き過ぎた恐怖に顔の筋肉を凍りつかせたらこうなるだろう、という、奇妙に白茶けたような、それでいて見ているだけでぞっとするような表情で、死にたくない、と啜り泣きながら、よろめくように走り続けている。
「……彼の望みは、何かな」
そんなものはひとつしかないと判っていて呟く。
「尋ねてみるとしようか。――クロノス、君も来るだろう?」
ここにはいない、しかし常に意識の一部がつながった悪巧みの共犯者へ声をかけると、愉快そうな笑い声とともに頷きが返る。
彼もまた楽しげに笑い、眼下に繰り広げられる阿鼻叫喚を見つめる。
あそこでは、どうやら、彼の力は制限されてしまうらしい。
しかし、
「……何、私は、囁くだけだからね」
特別な問題も見出せず、彼はただ、目的地へ向かう。
1.餌場の羊
ふと気づくと、地獄と表現するのが相応しい、小さな集落での惨劇を、少し離れた木々の間から見ていた。
「……ここは……」
ラズライト・MSN057は眉をひそめて周囲を見渡し、どう考えても自分が先ほどまでいた街路から一足飛びに辿り着ける場所ではない、と結論付ける。
世話になっている電器屋の店主とその息子からも、こんな場所が銀幕市にあるとは聞いたことがない。
「ムービーハザードの中、ということですか」
血の匂いが漂って来る。
視線の向こう側で、今にも腐り落ちそうな死体たちが、絶叫を上げて逃げ惑う中年の男を追い詰め、手足や身体に喰らいつき、貪っているのが見えた。男は恐怖に目を見開き、全身を痙攣させていたが、死体に咽喉笛を食い破られるや否や、びくりと大きく震えてプレミアフィルムに戻った。
「何と、むごい……」
ラズライトは自分の故郷である世界の屍傀を思い出していた。
死してなお、この世に留まることを余儀なくされた命。
恐らく目の前で生きた肉を欲し、徘徊しているのはそれと同じような存在だ。
「……死が解放になると考えるのは自分のエゴなのでしょうか」
ラズライトはぽつりと呟いた。
懺悔の念が胸の中で頭をもたげる。
世界に滅びの因子をもたらすべく、無慈悲に人間を殺し続けていたころの自分が脳裏にフラッシュバックする。
「理を外れ、あるべき命を歪められてもなお、人は『生きたい』と願うものなのでしょうか……」
命とは大切なものだと、理不尽に喪わせてはならないものなのだと、ラズライトが敬愛する想い人は言っていたし、彼もまた、<宵の代行者>となったことで獸魔としての本能から解き放たれた今では、ラズライト自身が命を愛おしく思っている。
だから、在り方を歪められた人々を放ってはおけず、何かをしよう、何とかしなくては、そう思って蒼水晶を発動させようとしたが、巧く行かない。
蒼水晶そのものに何かが起きたというよりは、それを使う側であるラズライトの意識が、『蒼水晶を使うこと』に対して散漫なのだ。そのために意識を集中させることが巧く行かない。
――そういえば、いつもならばうるさいほどに自己主張をする<雷>の司属霊の姿が見えない。
はぐれたのか、それとも、存在を抑え付けられて出て来られないのか。
「ここは、そういう『場』なのですか」
疑念というよりは確信に近い。
恐らく、ここに迷い込んだものが他にいるとして、特殊能力を持つすべてのムービースターが、この閉ざされた『場』に満ちるマイナスのエネルギーを感じているだろう。
何にせよ、非常にハンデを負った状態であることは確かだった。
アハハハハハ、ハハ、ヒ、アハハハハハハハハハハハハハ!
誰かの狂ったような哄笑が聞こえた――……ような気がして、ラズライトが眉根を寄せた時、眼下の集落でゆらゆらと揺れていた生ける死者たちの集団の一角が、目に見えて崩れた。
「……?」
首を傾げて見遣ると、
「あれは……」
腐り爛れた異形たちに群がられながら、両手に持った鉈を振り回しては、次々とそれらを打ち倒して行く少年の姿がラズライトの目に入った。
否、振り回すという表現は適当ではないだろう。
彼は鉈の一撃で、ほぼすべての異形を屠っているのだから。
身体つきに似合わぬ怪力で、少年の鉈を喰らった異形の中には、軽々と吹き飛ぶものもいた。目深に被ったパーカーのフードのお陰で表情までは伺えないが、少年は妙に活き活きとしているように感じられる。
――少年の鉈を喰らった死者たちは、プレミアフィルムにはならず、ただぐずぐずと黒く溶けて地面にしみこんで行った。
それはつまり、この生ける死者たちがムービースターではないこと、つまり意志の疎通がほぼ不可能であるということを示していた。
しかし、そんな事実には一切頓着せず、少年は異形を屠り続ける。
彼は、半ば恍惚としているようだった。
ラズライトは鮮やかな手つきに思わず目を見張り、銀幕市というこの町の多彩さに驚くと同時に、少年の背後に別の集団が迫っているのを見て取るや、最近色々あって仕込んでおくようになったナイフを引き抜き、集落へと駆け下りていた。
「お手伝い、します」
少年は、無表情に近い顔ながら、その実かなり楽しげに、歩く死者たちを鏖殺し続けていたが、ラズライトが視界に入るや否や、そしてその声が届くや否や、灰色の双眸に昏い理性の光を点して彼を見遣った。
「……そうか」
ぼそり、とこぼされる声に覇気はない。
しかし、覇気がないからこそ、次の瞬間唸りをあげて異形へ襲いかかる鉈が恐ろしいのかもしれない。
とはいえ、ひとりでこの阿鼻叫喚の集落を彷徨うよりは、言葉の通じる誰かと一緒であった方が、共闘できる、補い合えるという肉体的な問題と同じく、精神的な意味でもましに決まっている。
ラズライトは少年と背中合わせで憐れな異形と対峙しながら名乗り、少年はぼそぼそとした声でジェイク・ダーナーと名乗った。
特に役割を分担するでもなく、かといって息がまったく合わないわけでもなく、ラズライトとジェイクは、次々と群がってくる生ける死者たちを薙ぎ倒して行く。
――Flesh and Soul!
誰かの、高圧的な声がどこかから聞こえて来たような気がした。
ジェイク・ダーナーは、いつもの午後をいつも通りに過ごそうとして事件に巻き込まれた。
午前授業で学校が終わり、家でいつものスタイルに着替え、DVDを借りに行く途中だった。そのはずだ。少なくともそのときはまだ昼間だったし、レンタルショップへ向かう道筋は明るくて、賑やかだった。
それが、気づいてみれば空は真っ暗で、辺りは静寂に満ちていた。
アメリカ人のジェイクには馴染みの薄い典型的な日本家屋が周囲に並び建ち、更には、明らかに自分を獲物としてみていると思しき無数のゾンビに取り囲まれている。
「前も……こんなパターンで、巻き込まれたような……気がする……」
思わず溜め息をついたのは、今日は、ずっと楽しみにしていたホラー映画のDVDレンタルがようやく開始される日だったからだ。
しかし、
「でも……これも、悪く……ない……」
彼は殺人鬼だ。
罪のない一般人を手にかけることはしないが、自分を襲ってくるものは別だ。それは、自分の身を守るためという免罪符にもなる。
ゾンビは出会った端から叩き殺した。
相手が女子供の姿をしていても、何か言いたげであっても叩き殺した。
凶器を出す能力は不調で、ああここはそういう力が制限されるのだとぼんやり納得したが、武器がないのは不便だし、楽しくなかったので、あちこちに潜り込んで心惹かれる凶器を探した。
石や棒きれも立派な武器だが、幸いここは農村だったので、家屋の傍らに立てられた納屋には、よく手入れのされた鉈や斧がたくさん置いてあった。その中で見つけた二本の鉈がしっくり手に馴染み、ジェイクはとても嬉しい気分になった。
「いいな……この感触……心が、うきうきする……」
鉈を振り上げ、振り下ろす。
彼の怪力は、時々不調だったが、時々好調だった。
人間は怪力やワープ能力などがなくとも、ヒトを殺せるのだ。
ジェイクはそれを熟知していたから、特に慌てなかったし――慌てる、という精神的な動きがそもそも彼には希薄だというのもあったが――、黙ってゾンビたちを叩き殺すのみだった。
「確か、このゾンビは……噛まれると、まずいんだ……」
色々な方面で世話になっている恩人が、たまには大きなスクリーンで観よう、と、友人と一緒に連れて行ってくれた映画館で観た『リビングデッド・パニック』のストーリーを思い起こしながら呟く。
その間にもジェイクの鉈は唸りを上げてゾンビを薙ぎ倒し、ぐずぐずと消滅させている。獣のような唸り声を上げてゾンビが突っ込んできたのをさらりとかわし、牙を避けて、その脳天に鉈を叩き込む。
ジェイクはあまり負傷や死を気にしない。
彼が殺人鬼だからなのか、それとも無気力なティーンエイジャーだからなのかは判らないが、自分の命などどうなっても構わないと思っている。
しかし、映画の中、故郷では出来なかった生き方をしようと決めて、それを楽しんでいる以上、明日も学校とアルバイトに行きたいし、借り損なったDVDは観たいし、銀幕広場にホットドッグを買いに行きたい。
それに、世話をしてくれている人やできたばかりの友人のことも何となく気になっている。
だからジェイクは、なるべくここからは脱出したいと思っていた。
――そこで出会ったのが、ラズライトだった。
多勢に無勢の、しかし無勢の方が圧倒的に一方的な殺戮を繰り広げている場面に、手伝いを申し出てくれた彼は、今、ジェイクの背後で、ゾンビを倒し続けている。
時々視界に入る彼が、悼みや同情の表情を浮かべている理由は、知識として理解は出来ても我が身に置き換えて感じることはジェイクには出来なかったが、やりやすくなったことも事実だ。
全部自分でやれないのはつまらない、と思ったのも事実だが。
「……こういうのを……縁、って言うんだった、か……」
外見からしてムービースター以外のなにものでもない青年と、いつの間にか背中合わせになって、いつの間にか百年来の戦友のように背中を預け、守ったり守られたり身の安全に貢献したり貢献されたりしている。
同じようなことをラズライトも感じているのか、時々ふっと視線が合うと、何ともいえない苦笑が返った。
「……しかし」
ジェイクが、もう何体目かも判らないゾンビを鉈の衝撃で力任せに地面へ引き倒していると、ラズライトが小さく呟くのが聴こえ、彼は耳だけそばだてる。多分ラズライトは、ジェイクがちゃんと聴いていることを知っているだろう。
「妙にちぐはぐな印象を受けるのですが、何が原因なのやら……」
首を傾げるラズライトの向こう側、二十メートルくらい離れた集落から、数体のゾンビに担がれて、泣き叫びながら若い女が運び出されていく。ゾンビたちは、彼女に群がることも、襲うこともなく、女はいっそ静粛ですらある雰囲気の中、どこかへ運ばれてゆく。
――おかしい。
ようやくそれに思い至ったのは、ジェイクがあまりにも殺戮を愉しんでいたからだ。
『リビングデッド・パニック』のゾンビのみならず、生ける死者たちは、普通、先ほどのように統制の取れた、目的のある行動は取らない。脳味噌が腐っているのだから当然だ。
「殺し続けてるだけじゃ、何の解決にもならないか……。それって、いいんだか悪いんだか……おれは、ずっとここで殺し続けてるのも……悪くないような気もするからさ。……それじゃまずいような……気も、するんだけどな……」
ジェイクがぼそりと呟くと、ラズライトが苦笑するのが見えた。
「ゾンビはおとなしく生肉喰ってりゃいいんだ……らしくないな、あんなゾンビ。……人のこと言えないけどな……」
では、恐らく、何かがあるのだ。
この閉じた空間を作り出す何かが。
特に声を掛け合うでもなく、その『何か』を探して自然と移動を始めたふたりは、案外、いいコンビなのかもしれなかった。
闇間1.蝕む恐怖
彼の心を、ありとあらゆる負の感情が満たしている。
怖い怖い怖い怖い怖い
痛い痛い痛い痛い痛い
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない
どうしてどうしてどうしてどうしてどうして
怖い怖い怖い苦しい怖い怖い
どれだけ走ったかもう判らない。
自分が何故ここにいるのかもう判らない。
自分が誰なのかも、もう忘れてしまいそうだ。
どれだけ叫んでも誰も助けてはくれなかった。
助けを求める人々を何人も見殺しにして逃げた。
初め、放っておけないと思った心は、我が身の危機の前には無力だった。
だが、それを恥じている余裕は彼にはなかった。
心臓が弾け飛びそうな恐怖と、身体を齧られた痛みと、奇妙な痒みを伴った疼き、死にたくない、かえりたいという渇望ばかりが彼を包んでいる。
――背後に迫る気味の悪い呻き声を、鋭敏になりすぎて痛いほどの聴覚が伝える。
流れ落ちる汗、黒い血の混じったそれを拭い、彼はまた足を引きずって走り出した。
それを、楽しげに見ている目があることには、気づかなかった。
2.ゆくりなく、ゆえもなく
近衛佳織(このえ・かおり)はお嬢様と慕う人物に命じられて買い物へ出ていた……はずだった。
それが、気づけば、古きよき日本を思わせる集落へ迷い込み、あまつさえゾンビたちに囲まれている。
腐り爛れていながら立ち上がり、ゆらゆらと揺れている死者たちは物悲しく、滑稽にも思えたが、グロテスクであることもまた事実で、佳織は一刻も早くこんな場所からは出て行こう、とタロットカードの一枚を取り出した。
ゾンビたちは初め、しばらくの間、虚ろな目でこちらを見ていたが、ややあって彼女が獲物であるということに思いが至ったのか、それとも本能がそう命じたのか――歩く死者に本能などというものがあるかどうかは判らないが――、寒々しい呻き声を上げながら佳織に殺到した。
「……醜い。醜すぎていっそ笑いが込み上げてくるほどだ」
この状況下にあって動じないのは、彼女が、半人前ではあれ武家の娘で魔女だからだが、ずっと見ていたいようなものでもなく、佳織はゾンビたちの手を掻い潜って距離を取り、タロットカードを媒介に魔力を練り上げる。
「魔術師マグレガーの末裔、ミラベルの娘、アイリーン・メイガスが命じる。我が呼び声に応えよ」
奇妙だ。
ゾンビたちを警戒しつつ呪文を詠唱しながら、佳織は眉をひそめていた。
ざわざわと肌が粟立つような感覚が、彼女の意識を散漫にする。
アハハ、ハは、ヒヒヒ、ヒャアアアアハハハハハハハハ!
――誰かが嗤っている。
魔力の収束が甘い。
彼女が今回選んだカードは『悪魔』。
「『堕落の凶星』――高きすべてを血の獄へ。低きすべてを反逆者の茨牢へと堕としめよ」
呪文は完成し、彼女を中心として激烈な衝撃波が発生する――……はずだった。
「……おかしい」
しかし、魔法は発動しなかった。
一瞬集まりかけていた魔力も、すぐに散らばってしまう。
組み付いてこようとしたゾンビの一体を、箒に仕込んだ刀で叩き切り、それがぐずぐずと溶けて行くのを確認したあと周囲を見渡す。
「そういう場所なのか、ここは」
他の魔法を試してみる気にはなれなかった。
魔法の発動に必要なコンセントレーションが、何者かに邪魔されている。
そんな確信があった。
だとすれば、呪文を唱えるだけ無駄だ。
長い詠唱は隙を生みやすいから、むざむざとピンチを演出してしまうことになる。
不便なことに、箒もまたその影響を受けていた。
普段箒にかかっている飛翔の魔法の効果がないのだ。
お陰で空を飛ぶことも出来ないし、刀も片手では辛いほど重い。おまけに、箒の鞘があるので両手で持つわけには行かない。
「タロットはただの紙くず、刀は枷、か……中々やってくれる」
重い箒を担いでダッシュし、追いすがるゾンビたちの腕をかわして建物の影に逃げ込む。ゾンビたちは大抵、呻き声や唸り声を上げているので、気配を探りつつ声を聞き分けて安全な場所を探すのはそれほど難しくはなかったが、面倒に巻き込まれたことに変わりはあるまい。
「……厄介だ」
気になることはもうひとつある。
ゾンビたちは明らかに映画から実体化した存在だ。
だが、佳織が切り捨てたゾンビはフィルムには戻らなかった。
「つまり、ゾンビ全体が、ムービーハザードということになる……か」
だとすれば、まったくもって厄介だ。
この重苦しい閉塞感といい、ぐるぐると渦を巻く悪意といい。
不意にゾクリと背筋が寒くなり、
「……ッ」
佳織は思わず我が身を抱いていた。
すぐに出て行ける、と、初めは軽く考えていた。
それが、徐々に恐ろしくなってきたのだ。
ゾンビが、ではない。
あれよりも恐ろしいものにならば、何度も出会っている。
「今の私は、無力だ、な」
力が一切使えないことが恐ろしかった。
無論、彼女は武家の娘でもある、物理的な戦闘能力にも秀でてはいるが、彼女はまだ成熟しきっていない少女だ。このまま戦い続けなくてはならないとして、脱出するまでスタミナが持つのか判らない。
それが怖かった。
ただ、彼女は、絶望はしていない。
「……このまま死ぬわけには、いかない」
もしも自分が死ぬのならば、『彼女』の腕の中でと決めている。
決めておきたい。
死など想像もしたくはないが、それが避けられぬものであるのなら、せめて。そう思う。
無論それを聴けば、『彼女』は私にそんな趣味はないと呆れるに違いないのだが。
――ゾンビたちの唸り声が、そう遠くない位置から聞こえてくる。
反対側に逃げようと思ったら、そちらは行き止まりだった。
佳織はぎゅっと唇を引き結び、鞘の部分である箒を集落の壁に立てかけると、刀を握り締めた。
戦わずに死ぬことだけは避けたいが、戦わずに回避できるものであれば回避したい。様々な能力がパワーダウンした状態で、無理などしないにこしたことはないのだ。
それでも無様な真似だけはするまいと、佳織が覚悟を決めた時、響いてきたのは、
「退いてください、邪魔をしないで!」
必死な男の声と、ぐしゃり、という肉が叩き潰される音、ゾンビたちの、悲痛ささえ感じさせるおうおうという唸り声。
時間にして五分ほどのものだった。
やがて静寂が訪れ、佳織がなおも緊張を解かぬままにいると、
「あの、すみません、そこにいらっしゃるのはどなたですか。驚かせてしまってすみません、私はゾンビではないので、よければ出て来ていただけないでしょうか」
非常に申し訳なさそうな声が、物陰の佳織を呼ぶ。
理性的な物言いから、彼がゾンビではなく、また敵ではないだろうことも判ったので、佳織は箒に刀を戻し、声のした方に歩み出た。
そして一言、
「……悪人顔だが、悪い人間ではなさそうだ」
身も蓋もないことを言う。
彼女の視線の先では、特注らしいサイズの、警備員の制服を身にまとった、二メートルを超えるスキンヘッドの大男、太くて長い鉄パイプを手にした彼が、窮屈そうに、居心地が悪そうに身を縮めていた。
顔は怖いが、人はよさそうだ。
悪意は微塵も感じ取れない。
「私は近衛佳織だ。お前は?」
「私はランドルフ、ランドルフ・トラウトです」
「お前も巻き込まれたのか、これに」
「はい、そのようです。確か、警備員のアルバイトから帰る途中だったはずだったのですが……仕事帰りに事件とは」
「ああ、それでその格好か。……よく似合っている」
「あ、そ、そうですか、ありがとうございます。あの、佳織さん、ここは一体……」
ランドルフがもっともな質問を口に仕掛けた時、ゴウゴウと風が唸った。
その音もまた、誰かの声に聴こえた。
アアアアアア――――…………ンンンンン、hhhhhhhhhh…………ァァアアアアァァアアァ――――…………ンンンンンttttttt…………
佳織は首をめぐらせて空を見上げる。
「どうかなさったんですか、佳織さん」
ランドルフが首をかしげている。
「……いや……」
風の響きに、強い強い呪力を感じたのだが、それはじきに暗い夜空に溶け、判らなくなってしまった。
「だが」
「はい、なんでしょう?」
「何かがいることは確かだ」
「何か……ですか」
「このゾンビたちは虚ろだ。魂はとうに旅立って、わずかにこびりついた感情の残滓と骸だけが『生かされて』いる」
「はい、それは何となく判ります」
「それはこのハザードの元になった映画でもそうだったのかも知れないが、そいつらを操って、何かしようとしている奴がいる」
「では、それを止めれば」
「恐らくは。……というより、そうしなければ、我々はここを出ては行けないだろうな。ここはひどく閉ざされているようだから」
佳織の言葉にランドルフが頷いた。
「佳織さんは、私などよりよほど色々なことをご存知のようです。私は、あまり考えることが得意ではありませんので、謎を解いたりは出来ませんが、あなたを守ることなら出来ます」
「……共同戦線ということか」
「はい。私は、生存者がいるのならその人たちを助けたいのです」
真っ直ぐに佳織を見つめて言うランドルフの眼差しは真摯だ。
佳織はわずかに考え込み、そして頷いた。
「いいだろう、私はこの空間をかたちづくる何かを見つけ、それを排除しよう。お前はそのサポートを頼む」
「判りました。……頼りにしています」
ランドルフの言葉に頷き、佳織は周囲を見渡す。
異質な、教会風の建物が目に付いた。
「……どう考えても怪しい、な」
目指すべき場所は決まったが、解くべき問題はまだ残っている。
佳織は空気を、気配を読みながら、今までに叩き込まれた知識をフル回転させて考え始めた。
闇間2.慟哭
捕まった。
引き倒された。
ぐずぐずに溶けた手が伸ばされ、彼を引き裂こうとする。
絶叫を上げてそれらを振り払い、地面を這いずって逃げる。
足首に誰かが噛み付いた。
鋭い痛み、どっと溢れ出す熱。
涙腺が壊れたのか、涙が止まらなくなっていた。
死ねば楽になれるのかと考えて、でも死にたくないと地面を転げ回る。
自由な方の脚で、必死で自分の足首に食らいつくゾンビを蹴り飛ばすと、めきょりと嫌な音がして、首がもげた。
足に食らいついたままの腐った首が、虚ろな目でじっと自分を見ていることに気づくと同時に吐き気が込み上げて、身を折って激しく嘔吐すると、吐いたものに血が混じっていたのか、口の中に鉄の味が満ちる。それにもまた吐き気を催し、胃の中にはもう何も残っていなくて、今度は胃液を吐いた。
痛い怖い痛い怖い怖い痛い痛い痛い苦しい死にたくない怖い
どうしてどうしてどうしてどうしてどうして
――どうして、俺だけが
苦しい苦しい怖い痛い痛い痛い死にたくない死にたくない死にたくない
助けて助けて助けて助けて助けて
――でも、一体、誰が
悲痛なメビウスが巡る。
泥で身体中を汚しながら、少年は必死にもがく。
何のためにもがいているのか、判らなくなりそうになりながらも。
3.腐毒
昇太郎(しょうたろう)は、集落から少し離れた雑多な茂みの中で、皇香月(すめらぎ・かづき)に怒られていた。
先ほど、ゾンビの小集団と行き会った際、ここでは再生能力が使えないと口を酸っぱくして言われたのにも関わらず、いつもの癖で、捨て身的な戦い方をして怪我をしたからだ。
「フェイファーさんがここは『閉じて』るから特殊能力は使えない、って言ってたの、忘れたんですか!? 本当に困った人なんですから……判ってます? 未知の空間で、何でそう猪突猛進なんですか、昇太郎さんは!」
呆れと怒りを半々で浮かべた香月に説教を喰らいつつ、昇太郎は、ゾンビの一体に食い千切られて、どろりとした血をあふれさせる右肩を、しかし特に感慨もない様子で確かめていた。
昇太郎の左肩に載っている金色の鳥は、自分の昇太郎への再生能力が使えないことを知って右往左往し、彼の傷口を心配そうに見ていたが、昇太郎にとって傷や痛みなどというものは『今更』に過ぎず、自分が受ける限りは、厭うつもりもない事象でしかない。
とはいえ、いつもとは勝手が違うからか、食い千切られた傷口が、じくじくと奇妙に疼き、自分の心音とは違った拍動を感じさせるのが、気懸かりといえば気懸かりだったが。
「昇太郎さん! 聴いてますか!」
「聴いとる、聴いとるけぇそない大きな声出さんと。せっかく隠れとるいうのに、また見つかってまうわ」
「それを聴いてないって言うんです、もう!」
香月があまりに怒るので、どうしたらいいか判らなくなって昇太郎が首をすくめていると、
「戻ったぜー」
茂みを静かにかきわけて、周囲の偵察に行っていた天使フェイファーが戻って来たので、昇太郎はわけもなくホッとする。
ずっと罵倒され、嘲られて生きてきたとは言っても、銀幕市という枷のない場所で、怒られ続けると言うのは正直辛い。――だったら怒られるようなマネをするな、と、彼を心配している人々は言うだろうが。
「どうでしたか、フェイファーさん」
「すげぇな、ゾンビってんだな、あいつら。俺の世界にゃいなかったから、びっくりしちまったぜー」
「そんなにたくさんいるんですか、やっぱり」
「ああ、最初俺たちが仕留めた連中の十倍はいるんじゃねぇか? あいつらとブチ当たらずに出て行くってのは、正直、難しいかもなー」
最初は、不可解に陰湿な、閉じた気を感じ、気になって、ちょうど行き逢ったフェイファーとともに周囲を調べていたのだが、わずかな浮遊感とともにここに取り込まれたあとは、夕飯の材料を買出しに来ていて巻き込まれたという香月と出会い、行動をともにしている。
「あれが、十倍以上……」
香月が眼差しを暗くする。
彼女は決して弱くはなく、むしろこの現代という枠組みに当てはめてみれば相当な猛者の類いに入ったが、何もかもが押し込められたこの場所で、無数のゾンビに取り囲まれて無事でいられるかと問われれば、不可能だと答えるしかないだろう。
彼女が操れる武器は一度に二本。
だが、襲いかかる死者たちは、無数なのだ。
「何や、肌寒いな」
ぽつりと呟き、昇太郎は耳を澄ませた。
あちこちから、ゾンビの上げる呻き声が聞こえてくる。
それを憐れだと思った。
――彼もまた、死ねずに、それを許されずに、永遠を歩き続けるものだったから。
「え、そうですか? 確かに少しひんやりとはしてますけど、別に肌寒いっていうほどじゃ――……昇太郎さん? どうしたんですか?」
不思議そうに言いかけた香月が眉をひそめていた。
昇太郎はそれに答えられなかった。
「顔、真っ青……」
不意に、ぞくぞくとした寒気が、背筋を這い上がる。
それなのに熱くて熱くて、焼け死んでしまうのではないかというほど熱くて、額にじっとりと汗が滲んだ。息を巧く吸えず、呼吸が乱れて、思わず口元を覆ったら、物凄い眩暈が襲ってきて、倒れそうになった。それを香月とフェイファーが支えてくれる。
金色の鳥が、昇太郎の肩の上で右往左往していた。
すさまじい熱におかされて、意識が朦朧となる。
「すごい熱。どうして……」
昇太郎の額に手を当てた香月が、ハッと息を飲む。
「噛み傷……!」
「どうした?」
「『リビングデッド・パニック』のゾンビに噛まれたり、爪で引っ掻かれたりすると、ウィルスが感染するんです! どうしよう、どうしてそれを忘れていたんだろう!」
感染。
その言葉に関して言えば、何のことなのかよく判らなかったが、
「感染したらどうなるんだ?」
「ゾンビになっちゃうんです! 生き物だったら何だって!」
「……どのくらいの時間で」
「判りません、でも、一日は持たなかったと思います」
「治療する手段はねーのかよ」
「事件の黒幕だった企業が解毒薬を開発してましたけど……それが一緒に実体化しているかどうかなんて、私、知りません……!」
このまま放っておくと、自分が、あの憐れな死者たちの仲間入りをしてしまうだろうということは、実感を伴って理解できた。
「ってことは」
フェイファーが考え込んでいた。
「ここから脱出して、俺の魔法で何とかしてやるしかねーってことだな」
「でも、どうやって! ここは閉じているんでしょう!」
「閉じてるんじゃねー、『誰かが閉ざして』るんだ。――そいつをブッ飛ばして外に出る。それしかねーだろ?」
香月が唇を噛んで頷く。
それが多大な困難を伴うことを理解していたから、昇太郎はいっそ、自分を置いてふたりだけで行けばいいと思った。
事実、そう言おうとした。
しかし。
――ぐずり。
噛まれた傷口が、あのわずかな時間で腐敗を始めているのが見えた。
まだ健全な細胞を無理やり殺される、身の毛もよだつような激痛が襲ってくる。
朦朧と意識が、更に白くなるような痛みに、
「――……ァ……!」
悲鳴は声にならない。
置いて行けと言おうとした意志は霧散し、自分の無力さばかりが咽喉元を込み上げ、ひどく歯痒い思いになる。
いつからか不死であることに甘えていたのではないか。
そんなことを、激しい悪寒に震えながら思う。
傷口を腐らせ、彼をヒトではない何かに変えようとしているおぞましい痛み。
その、治ることのない傷の痛みに、自分は『生きている』のだと痛感させられる。
生きるとは、畢竟痛みに耐えることなのか。
それとも、痛みを超えて何かを見出すことなのか。
唐突に、それを知りたいと思った。
だから、このハザードから出るまでは死ねない。
死にたくない。
そう強く思った自分に、昇太郎は驚いていた。
フェイファーは、ゾンビという存在に興味津々だった。
興味などと表現しては犠牲者たちに怒られるだろうが、死した肉体がなおもこの世に留まるその現象を不思議に思い、また、そうなってまでここに引き止められる死者たちを憐れにも思っていた。
今のフェイファーは天使としての力をほとんど封じられてしまっているが、彼は彼だし、その心に変わりはない。
救えるものならば救ってやりたい、と思う。
「声を聞いたぜ」
「……何の、ですか?」
「さあ、それはわかんねーけど。殺せとか呪ってやるとか、血肉と魂を集めて来いとか、ぶっそーなこと言ってる奴がいる」
「本当ですか? 私、そんなの全然気づかなかった……」
「風の中に紛れさせてあるんだ。それを、あのゾンビってやつらに刷り込んでるんだろう。なんてのかな、スピリチュアルな事象に対して鋭敏じゃねーと……ってか、そういうのに慣れてねーと気づけねーと思うんだ、あれは」
「ああ、それはちょっと私には無理ですね」
「おうよ、まぁ、気にすんな。俺は優秀な天使だからな、そういうのは得意なんだ」
言いながら、フェイファーは昇太郎を抱き上げた。
彼が意識を失って、もう三十分ほどになる。
あまりぐずぐずはしていられない、というのがフェイファーの心境だ。
額にびっしりと汗を浮かべて浅い息を吐く昇太郎を、金の鳥が心配そうに見つめている。
仮にも成人男性の身体だから、昇太郎は当然重かったし、どれほどの熱が彼の中を渦巻いているのか、皮膚は恐ろしく温度が高かったが、能力など使えずとも、フェイファーの肉体は頑健だ。このくらいは、何でもない。
香月が不思議そうに彼を見上げる。
視線だけでどこへ行くのかと問われ、視線を巡らせた。
「なんかよくねーもんがいる。そいつが人間の血肉と魂を集めてる。――おまえも見ただろ、若い男が捕まって連れてかれたのを」
「……はい。追いかけることも出来ませんでしたよね、あの時は」
「この村の真ん中らしい」
「え?」
「そいつがいんの、村の真ん中だ。風がそう言ってた」
「じゃあ……」
「コイツほっとけねーだろ、このまま。どっかに隠して、俺たちでそいつをブッ潰す。そんでコイツと、捕まったやつらと、ゾンビと、全部助けてやりてーんだ」
フェイファーが言うと、香月はキュッと唇を引き結び、立ち上がった。
手には得物の日本刀と脇差がある。
「私、家で待っている人間がいるので、死ねません」
「ああ」
「何がどこまで出来るか、判りませんけど、一緒に戦わせてください」
凛とした物言いに、フェイファーは笑う。
「もちろんだ、頼りにしてるぜ」
緊張した面持ちの香月とともに、ふたり分の卓越した感覚でゾンビの群を避けながら、集落の中央を目指す。
十分ほど静かにすすんだあたりで、自分たちの目指す場所が、教会風の建物であることにも気づいていた。
と、
Fffffffffffffffffffff!
木々がざわめき、高圧的な響きを届ける。
香月がハッとした表情で空を見上げた。
オオオ、ォオ、オオオオオオ…………mmmmmmm・ア・イ・イィイイイイィ…………rrrrrrrr…………ザ・ザザザザ・ザザザアアアアアアア…………rrrrrrrrエエエエエエエエェ……cccccccttttttt…………オオ・オ・オオオオオオオオオオオオオオンンンンンンン…………
風が何者かのオーダーを届ける。
うるせー、おまえの思惑通りになんかなってやんねー、と胸中に毒づいて、フェイファーは小走りに進む。
腕の中で昇太郎が身じろぎをする。
その熱、生きている証明を、このまま消えさせはしない、と、強く思った。
闇間3.病む狂乱
血を流しすぎた所為なのか、目が見えなくなった。
叫びすぎた所為なのか、声が出なくなった。
地面を掻き毟った所為で、爪はほとんど剥がれていた。
ただ、群がってくるゾンビたちの歯が、自分の身体に食い込んでくる感覚だけが鮮やかだった。
全身がぐずぐずと溶けて行きそうな疼きと痒みは、ゾンビたちに噛まれたからだ。
『リビングデッド・パニック』のゾンビに噛まれると、感染するのだ。
このまま放っておけば、自分もまたゾンビになってしまう。
だが、そんなことは、今の彼からは遠かった。
いやだいやだいやだいやだ
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない
生きたい生きたい生きたい生きたい帰りたい生きたい
どうしてどうしてどうしてどうしてどうして
どうして俺ばっかり
どうして俺が
どうしてあいつらじゃなく
どうしてどうしてどうしてどうしてどうして
怖い怖い怖い怖いコワイ怖い
もう、何が怖いのか、どうしてここにいるのか、判らない。
もう、自分が何をしなくてはいけなかったのか、自分が誰なのか、何故怖いのか、どこへ帰りたいのか、判らない。
助けてと心は叫ぶのに、誰に助けを求めたらいいのか、判らない。
――誰かが、頃合かな、と、嗤ったような、気がした。
4.罪なのか、糧なのか
萩堂天祢(しゅうどう・あまね)は、トラブルバスター(何でも屋、とは言われたくないらしい)の香玖耶(かぐや)・アリシエートと凄腕の傭兵ギル・バッカス、そして劫炎公ベルゼブルという異色の取り合わせとともに集落を走り抜けていた。
一体どこから湧いてくるのか、ゾンビたちはしつこく彼らに追いすがり、彼らを捕らえようとする。
「あああッ、イヤだって言ってるじゃない、こっちへ来ないで――ッ!」
悲鳴を上げた香玖耶の鞭がしなり、ゾンビの一体を打ち据える。
ゾンビはよろめき、隣にいたもう一体を巻き込んで倒れた。
それを踏み越えて、次々と別のゾンビが迫ってくる。
周囲はまるでゾンビの海だ。
香玖耶が恐怖と嫌悪感に顔を引き攣らせた。
「何、何コレどういうプレイ!? 私が怖がっている様を皆で指差して笑おうっていう羞恥プレイだったら受けて立つわよ、負けてなんてやらないんだからねーッ!?」
グロテスクなものやスプラッタ、ホラーが大の苦手という彼女は、腐乱死体のオンパレードにやや錯乱気味だ。
彼女自身、自分が何を口走っているのか判っていないかもしれない。
「ったく……面倒臭ぇとこに紛れ込んじまったもんだ」
それでも的確にゾンビを倒してゆく香玖耶を感心したように見つめたあと、ギルが顎の無精髭を撫でながら周囲を見遣る。
彼はひどく不便そうに大きな槍を抱えていた。
「魔法とか、大きすぎる身体能力が封じられちまうなんて……反則だぜ」
ギルの槍は、地面に落とすと地面が凹むくらい重い。
それを軽々と扱う膂力は、普通の世界ではあり得ず、よってそれは、この閉鎖空間に『特殊能力』と認識されてしまったようで、彼は今、槍を武器として扱うことが出来ずにいた。
何とか、体重をかけて踏ん張り、振り回すことで、ゾンビたちを弾き飛ばすことが出来るくらいだ。
「でも、それを持って移動出来るだけですごいと思いますよ、私は」
天祢が言うと、ギルは苦笑し、ありがとよ、と返した。
彼ら四人は、今、集落の中央を目指している。
そこにあるものが、教会風の建物であることも、そこに何かが潜んでいることも、そしてこのムービーハザードが幾つかの映画が重なって実体化した結果出来上がったものであることも調査済みだ。
「さて……何がいるんだろうな?」
精霊と交信する要領で、風に溶ける何者かの意志を読み取った香玖耶が、そこに連れ去られた人間たちが集められていること、彼らは生け贄であること、教会に巣食う『何か』がその血肉と魂とを欲しているのだということを探り当てたのだ。
閉じた空間から脱出するには、それを何とかしなくてはならず、よって一応非戦闘員である天祢も、無事現実に帰還するべく『何か』を倒す手伝いをすることになったのだった。
「しかし……市道を走っていただけだったのに、なんでこんなことに……」
天祢がここに巻き込まれたのは、彼が音楽活動のマネージメントをしている青年の、次のスケジュールを組むべく、自動車を運転してとあるライブハウスを訪れる途中でのことだった。
ちなみに自動車は村の入り口と思しき場所――勿論そこから外へ出て行くことは出来ない――に乗り捨ててある。
村が狭すぎて、自動車で走り回るのには適さないのだ。下手をすれば、ゾンビたちに群がられ、出口をなくしてしまう可能性すらある。
「……もう、いっそ、どこかの家に火でもつければいいんですよ。何もかもを燃やしてしまえばいいんです」
自棄気味に呟く。
次のアポイントメントは午後五時からだった。
ここに巻き込まれたのが確か午後一時前。
時計を見ても、針は不規則に回るばかりで今が何時なのかは判らないが、どうあってもその約束の時間には先方に辿り着きたい天祢には、ゾンビなどよりよほど時間の経過の方が怖かった。
ギルがかすかに笑う。
「今ちょっと物騒なことを聴いた気はするが……案外冷静じゃねぇか? 普通、もっと怖がってもいいと思うんだが」
「……怖いですよ」
「そうは見えねぇが」
「主に、仕事に穴を空けるのが」
「って、そっちかよ。肝据わってんなぁ」
「まぁ、仕事をしている相手が相手ですから」
苦笑しながらそう返すと、苦労してんだな、というしみじみした声でギルが言い、天祢はまた苦笑するしかない。
ともかく、ここから出るのが先決だった。
「風が……腐臭を孕んでる……」
どうにか追いすがるゾンビを駆逐した香玖耶がぽつりと呟き、周囲を見遣る。
綺麗な紫色の視線が、天祢に行き着いた。
「萩堂さんは、どう思う?」
「何がですか?」
「他人を犠牲にして、自分が復活しよう、っていう考え方」
「――……ああ」
我が復活のために。
風の中からその言葉を拾い出したのは天祢だ。
血肉と魂が、そのために集められていることは明白だったが、そういうのは僕に迷惑のかからないところでひとりでやってください、というのが天祢の偽らざる心境だった。
罪のない誰かが巻き込まれることに嫌悪を感じもするし、腐乱死体など見たくもないが、天祢にとって第一に選択すべきものは、面倒臭がりで人間としてどこか壊れたあの青年なのだ。
彼のためならば、天祢は、様々なものを軽々と振り捨てることが出来るし、とことんまで薄情になることも出来る。
「基本的には反対ですよ。犠牲にされる誰かにだって権利はあるし、思いはあるでしょうから。でも、」
「でも?」
「もしもそれが、復活を望む何者かが、私にとっての絶対なのだとしたら、私は、その何者かを責めることは出来ない……と思います」
「……ああ。ギルさんは?」
「俺様か? そうだなぁ、俺様だって死にたかねぇから、否定は出来ねぇけどよ」
まばらな無精鬚を撫でながらギルが言う。
「でもまぁ、いっぺん死んで蘇る、っての、やったことねぇし判んねぇな。てめぇの最善を尽くした結果力及ばず死んだってんなら、何でわざわざ他人に負債を押し付けてまで蘇らなきゃなんねぇんだ、って思いもするしな。――そういう嬢ちゃんはどうなんだ?」
「えっ」
「そうやって訊くからにゃ、嬢ちゃんにも何か、思いがあるんだろ?」
「……ええ」
かすかな笑みを浮かべる香玖耶からは、様々なものを超越してなお失われぬ、ヒトへの愛情が覗く。
「今更になって、誰かを犠牲にしてまで蘇らせたい、だなんて思いはしないけど……もう一度会いたいっていう気持ちでそれをするのだとしたら、少し、判る気はする」
そう言ったあと、香玖耶は、でも、と付け足した。
「だからといって、ヒトの命を勝手に使っていいなんてことにはならないものね。早々に黒幕を見つけて、何とかして、ここから出たいわ。精霊に力を借りることが出来たらいいんだけど……」
「俺様の魔法も、ベルゼブルの魔法も、嬢ちゃんのも、どれも不発だったもんな。向こうさんはなかなか手強そうだぜ」
天祢と香玖耶とギルが顔を合わせたのは、ここへ巻き込まれてほぼ同時だった。
ゾンビに群がられ、半パニックに陥った香玖耶は火の精霊を呼んで周囲を焼き払おうとし、ギルは広範囲の魔法を紡ごうとして、双方失敗したのだ。
以降、常識を逸脱することの出来ない程度の物理攻撃のみでの行動を余儀なくされている。
bbbbbbbbbbrrrrrrrr…………イィ・イ……ンンンンンンgggggggg――――…………mmmmmmmm・イ・ィイイイイイィィイイイ――――flllllllll――――…………エエ・ェ・エエエエエエェ…………ッッshhhhhhhhhhh…………ア・アアアアアアア・ンンンンンン・sssssssss…………オオオ・オ・ウウウウウウウウウゥゥウゥ……lllllllll…………
「……また」
香玖耶が眉をひそめて空を見遣った。
強い強い力を含んだ高圧的な声が、はっきりと天祢にも聞こえていた。
日本家屋ばかりの集落にはちぐはぐな、教会風の建物が目に入る。
「急ぎましょう」
香玖耶が早足になり、ギルがそれを負う。
ふたりに倣おうとした天祢だったが、
「ああ、そういえば、ベルゼブルさん」
手に使い魔の黄金蛾を止まらせて、周囲の状況を確認している地獄の大公に言うべきことがあったので声を掛ける。
「どうした?」
「いえ……いつぞやは、うちのものがお世話になりまして」
「うちのもの?」
「ナイトメアの事件でご一緒させていただいたようで」
「……ああ、あいつか。面白い人間だったな」
ベルゼブルがくすりと笑う。
それは一体どんな面白さだったのかと気にはなったが、ベルゼブルの視線が、妙にあちこちを行き来するので、そちらの方に気を取られた。
「何を気にしておられるんですか、ベルゼブルさん?」
「いや……」
ベルゼブルの目が、また、周囲を一望する。
「お前たちと出会う前に別れた少年がいたんだが、彼は、他の誰かと合流できたのだろうかと」
やや心配げなそれを聴いた時、天祢の胸へ去来したのは言い知れぬ不吉だった。
直観、と言うべきなのだろうか。
「……きっと、大丈夫ですよ」
天祢はそう答えるしかなかったが、実際には、何かよくないことが起きるのではないか、という予兆を感じ、その重苦しさに顔をしかめていた。
闇間4.凶望燃え盛り
ああ、自分は食われている。
そう如実に判る感覚が身体のあちこちにあった。
肉を食い千切られる感覚、血を啜られる感覚、骨をしゃぶられる感覚。
寒々しい、死の足音を感じる。
涙が止まらない。
もう、痛みは判らなくなっていた。
ただ、我が身が貪られていることだけを、骨が軋む不快さとともに感じていた。
死にたくない、怖い、苦しい、帰りたい、どうして、悔しい、――憎い。
こんな死を迎えなくてはならないほど、自分は悪いことをしたのだろうか。
答えは否だった。
今自分が死んでいこうとする中、安穏と暮らしているほかの人間が憎いと思った。
自分の変わりにそいつらが死ねばいい、皆死んでしまえばいい、そんなことを思うと同時に、冷静に醒めた自分の一部分が、他者を憎みその不幸を望む己を、あまりにも利己的で滑稽だと溜め息をついている。
「君の望みは、何かね」
唐突に声が聞こえた。
大の字で地面に転がりながら見上げると、見えないはずの目に、黒衣の男の姿が映る。
「あんた、は……」
出ないはずの声が、言葉を紡ぐ。
男は穏やかな笑みを浮かべ、彼に手を差し伸べた。
「君は、何を欲する?」
呆然と男を見上げながら、彼は、自分の命を啜るゾンビたちの動きが止まっていることに気づいた。
助けなのか、それとも、死神なのか。
判らない。
けれど、望みは何か、何を欲するのかと問われ、出て来る答えは、ひとつだった。
「死にたく、ない……」
からからに渇いた咽喉から声が絞り出される。
男が目を細めた。
先ほどまで黒かったように思うのに、今は黄金の色をしていた。
「死にたくない、怖い、死にたくない」
何本か指の失われた手で、空を掻き毟る。
ごほっ、と咳き込んだら、口から血があふれた。
「ああ、そうだね」
男の声はどこまでも穏やかだ。
「君にその死を強いるものは、強大な力を得て復活しようとしている。君は無意味に、無様に、肉の塊となるしかないんだ。――悔しいだろう?」
だが、彼の言葉は、優しくはなかった。
「悔しい……悔しい、何で俺が。何で、何で……!」
突きつけられた事実に、涙が止まらなくなる。
男の金眼が慈悲を孕んだ。
涙で視界がかすみ、それもじきに判らなくなる。
「――……欲しいとは、思わないか」
唐突に落とされる、甘い囁き。
男の隣に、誰かが立った――……ような気がした。
その途端、激烈な勢いで、狂おしい渇望が湧き上がる。
「君を殺すその力を、いっそ手にしてみたいとは思わないか」
そんなことが出来るのか、という疑問はなかった。
ただ、欲しくて欲しくてたまらないという欲求ばかりが込み上げて、彼は身を震わせた。
欲しくてほしくて欲しくてたまらないのと同時に、どんな手を使ってでも手に入れなくてはならない、という脅迫的な思考が根ざし、彼はまた、指の欠けた手で空を掴もうともがく。
「欲しい――……欲しい、自分のものにしたい。何にも脅かされない、強い力が欲しい……!」
死にたくない、という渇望、恐怖も絶望も、その瞬間には消し飛んでいた。
男が、微笑んだのが、判る。
「では……君の望む通りに」
それが何を意味するのか、判らないまま、彼は笑った。
自分のためだけに、誰かから何かを奪うエゴ。
それがどうしたんだ、と、彼は嗤った。
5.一瞬の終焉
教会風の建物に辿り着くまでに、ゾンビの群に見つかった。
一体どこから湧いて出てくるのか、一向に減る気配のない生ける死者たちに追われ、近くで見てみれば教会と洋館の中間のようにも思えるそれの大きな扉の前で、ジェイク・ダーナーとラズライト・MSN057、近衛佳織とランドルフ・トラウト、萩堂天祢と香玖耶・アリシエートとギル・バッカス、そしてベルゼブルは合流した。
何となく見知った顔に、それどころではないのに苦笑が漏れる。
何故自分たちはこういう差し迫った場面で顔を合わせてばかりなのか、という類いの苦笑だ。
「中に……三人、入ってる」
徐々に包囲網を縮めてくるゾンビたちを陰気な目で見つめながら、ぼそぼそと言ったのはジェイクだった。
「中の奴を……始末するのと、外のこいつらを……阻止するの、ふたつ、組がいる……な……?」
中に入ったのがフェイファーという天使と昇太郎という修羅、そして香月というムービーファンの少女だという説明をしたあと、ジェイクは、血と肉片にまみれた鉈を掲げてみせ、
「おれは……ここで、いい……」
恍惚とした笑みを浮かべた。
「では、私はジェイク様のお手伝いを」
ジェイクの鉈と同じような状態のナイフをコートの裾で拭いながら、こちらは凛とした静かな風情でラズライトが言うと、太くて長い鉄パイプを手にしたランドルフと、大槍を担いだギルとが顔を見合わせた。
「……どっちに行ったって、あんま変わんねぇだろうなぁ?」
「そうですね、ならば我々は、後顧の憂いをなくすべきかと。幸い私は、体格と体力には恵まれていますから」
「やれやれ……こいつをクソ重てぇヤツめ、って思ったのは生まれて初めてだっつーのに、その相棒と死線を潜らなきゃなんねぇってか。難しいミッションもあったもんだぜ」
ぼやきつつも、やるべきことを決めたようで、ランドルフとギルもまた、めいめいの得物を手に、じりじりと範囲を狭めてくるゾンビたちと向き合う。
しかし、『何か』の影響下にあるからか、ゾンビたちは、ゆらゆらと不気味に揺れながらも、一気に襲い掛かってくることはしなかった。時折、繰り手を離れたかのごとき二三体が、よろよろとにじり寄っては、ジェイクの鉈の餌食になるくらいのものだ。
「中に入ったところで何が出来るか判りませんので、私もこちらに残ります。スプレー缶とライター、それにちょっと大っぴらには使えないモデルガンを持ってきたのでね。……いざとなれば、建物の中に逃げ込ませてもらいますけど」
天祢が言い、ちょっと引きがちに、しかし大して怯えている風でもなく、ゾンビの群を見る。
残りが中に入ることに決まった時点で、ジェイクがぼそぼそと警告した。
「あいつらに……噛まれたり、引っ掻かれたりすると……感染するから、気をつけた方がいい……なんて、言ってる暇があるかどうかは、判らないけどな……」
「感染? 何か、嬉しくねぇ響きだが……なんだそりゃ?」
「……あいつらの……仲間になる、ってことだ……」
「ああ、そりゃ、遠慮してぇわ」
ギルが心の底からと言った声を漏らした。
外に残ることになった五人がゾンビたちを警戒している間に、中に入り込んだメンバーが、その辺りにごろごろしていたテーブルや本棚などを担ぎ出し、五人とゾンビたちの間に、それらを交互に並べてバリケードを作る。
迷路のように重ねられた家財道具は、足元の不確かなゾンビの動きを、多少なりと封じてくれることだろう。
「気休めかもしれないけど……」
「いや、まぁ、何とかするさ。それより嬢ちゃん、気をつけてな。なァんか、嫌な予感がしやがるんだ」
「……ええ、ありがとう、ギルさん」
かすかな笑みを残して、香玖耶たちが建物の中へ消えて行く。
すでに愉悦のあまり恍惚としているジェイクをはじめ、建物防衛組は息を殺して死者たちの様子を伺う。
「ああ、そういえば」
ぽつりと漏らしたのは、ラズライトだ。
「どうした、ボウズ?」
「いえ……可能ならば知りたかった、というだけのことなのですが」
「何をだ?」
「この事態を引き起こした主が、何故、何のためにこのようなことをなしたのかを」
彼がそう言うと同時に、包囲網の一角が崩れた。
――ゾンビたちの一部が、繰り糸よりも『本能』が勝ったとでもいうように、こちらめがけて突っ込んでくるのだ。
虚ろな目が、彼らを、獲物として映している。
「さあ、始めようか……」
鉈を握り直したジェイクが、ぞっとするほど陰気な、しかしあふれんばかりの歪んだ歓喜に彩られた表情で笑う。
皆がめいめいに得物を握り締め、迫り来るゾンビを睨み据えた。
建物は奥へ奥へと続いていて、最奥部の、『その場所』へ辿り着くまでにおよそ五分を要した。
「……!」
佳織に続いてその部屋――というよりはホールか儀式場だ――に入り込み、香玖耶は息を飲む。
部屋はずいぶん広かった。
日本という国で考えれば、普通の民家が十軒は入るだろう。
しかし、そこに、百近い人間が押し込められているとなれば話は別だ。
部屋は、囚われた人々の漏らす絶望と苦痛、そして恐怖の声で満ちていた。
香玖耶の視線は、自然と、祭壇と思しき台が設けられた、部屋の壁際へと向けられる。
『ああ、美味い、美味い。命のこもった血肉とは、何と美味なのだろう』
そこには、身体が半分ほど透き通り、眼ばかりがぎらぎらと赤く輝く何者かがいて、生け贄として集められた人々の血と肉を貪り、零れ落ちてゆく魂を飲み干しているのだった。
いやだ、いやだと泣き叫ぶ青年を、見えぬ腕が抱えあげ、それだけはくっきりと見える牙が咽喉に喰らいつく。
びくびくと痙攣し、血を吐いてもがく青年の血を啜り、腕や首筋や腹の肉を咀嚼したあと、いかな方法を使ってか彼の心臓を抜き取り、血を滴らせるそれに齧り付く。
絶望の表情で事切れた青年の骸を無造作に投げ捨て、ガタガタと震える少女に見えない手を伸ばす。
甲高い絶叫が上がった。
『食事』は速やかで、滞るということがない。
ひとり食べ終わると、更にひとり。
更にもうひとり。
無心に、心底幸せそうに。
ひとり喰らうごとに、『何か』の身体は少しずつはっきりしていく。
――復活するのだ、『何か』自身の言葉を借りれば。
犠牲者の血肉を無数に喰らって、実体のある何者かとして。
その時、どれほど取り返しのつかない猛威が揮われるのか、神ならぬ香玖耶には判らないが、楽観視は出来ないことを、『何か』の持つ重苦しい気配が伝える。
『こんな美味ならば、幾らでも喰らえる。もっともっと、集めて来させなくては』
もちろん、うっとりと言う『何か』、恐らく男性であろうそれを、香玖耶とて、そのまま放っておこうとしたわけではない。
囚われた人々がいる以上、彼らを助けることが最優先事項だ。
しかし、
『……愚かな』
香玖耶が揮った鞭は『彼』を素通りした。
復活が完全ではないからだ、そう思うより早く、凄まじい重力が上から圧し掛かり、香玖耶を――佳織を、ベルゼブルを、なすすべもなくその場に崩れ落ちさせた。
『奴らと同じか、貴様らも。……あとで喰らってやる、おとなしくしておけ』
赤い目がちらりと見遣った先に、美しい黒髪の美麗な青年と、日本刀を手にした少女と、紙のような顔色の青年とが倒れ伏しているのが判った。
恐らく、彼らが、ジェイクが言っていた、『先に入った』三人だろう。
フェイファーと、香月と、昇太郎だ。
意識の有無は判らないが、香玖耶たちと同じく、身動きを封じられているようだった。
「あなたは……一体、何……?」
気管を塞がれて咳き込みながら香玖耶が問うと、赤い目が細められた。
今や『何か』は、高貴な、しかし冷ややかな雰囲気を漂わせた、壮年の男の姿をぼんやりと浮かび上がらせるまでになっていた。
『知らぬ』
「え……っ?」
あっさりと断じ、言葉をなくす香玖耶を見て、『彼』は愉快そうに笑う。
『ここに目覚めた時、我はすでに『我』であった。何故ヒトの血肉を、魂を喰らわねばならぬのか、何故復活せねばならぬのか、何故すべてを滅ぼし、憎み、呪わねばならぬのか、我は知らぬ』
「だ、だったら……」
『我らを、この世のものたちはムービースターと呼ぶのだそうだな。ここに集めたのはすべてがそうだが、我らは作られたものであるらしい』
「それが、いったい」
『身勝手に我を創っておきながら理由を与えぬ人間どもに、辛酸を舐めさせねば気が済まぬ。そのために、同胞の血肉を喰らって力をつけるのだ』
言われて香玖耶は周囲を見渡したが、事切れていながら、誰の骸もプレミアフィルムに戻ってはいなかった。
おかしい、そんなはずはないと香玖耶が眉をひそめると同時に、
「つながっているのか……貴様と、彼らの命とは」
佳織がそう言ったので、すべてに合点がいった。
『彼』が喰らうことで、犠牲者たちはその命を『彼』の中に取り込まれ、囚われ続けるのだ。『彼』がいる限りは死ぬことも出来ず、『彼』の中で、『彼』を生かす道具として存在し続けることを強いられるのだ。
ますます、放ってはおけなかった。
しかし、圧し掛かる力は大きく、身動きひとつ出来ない。
このまま『順番』を待つ以外に方法はないように思われた、その時。
「――……欲しい」
かすれた声が聞こえた。
ベルゼブルが顔を上げ、眉をひそめ、目を見張る。
「……悠太……?」
ベルゼブルの視線の方向を見遣って香玖耶は絶句した。
いつの間にか、『彼』の背後に、少年が立っている。
少年は、『彼』の手綱から逃れたゾンビに襲われたのだろう、指や片目を失い、身体のあちこちを食い千切られて、骨や臓物すら覗かせた、いつ死んでもおかしくないほどの傷を全身に負っていたが、その表情はいっそ穏やかなほどだった。
その穏やかさが、かえって不気味で、寒々しかった。
「あんたのその力が、欲しいんだ」
恍惚とした声が言う。
少年に気づいた『彼』が、訝しげに眉をひそめた。
もう、そんな表情すら確認できるほど、『彼』はくっきりとしていたのだ。
『貴様は、』
「――……くれるよな?」
少年が言ったのは、たったそれだけ。
彼がした動作は、伸ばした右手を――指が二本欠けてしまった手を――『彼』に触れさせた、それだけ。
それなのに、
『ガッ……!?』
『彼』は唐突に、今まさに齧り付こうとしていた少女の身体を投げ捨て、身を折った。
最早充分にヒトとして認識できるレヴェルまで鮮明になっていた『彼』の表情が、苦痛と驚愕に歪む。
『き、きさま、なに、を……!?』
『彼』がぶるぶる震えているのも判る。
少年は何かを握るような手つきで、牧歌的ですらある穏やかな表情を浮かべていた。
「ああ、すごいな、なんて気持ちがいいんだろう」
うっとりと呟く少年の、欠けていた指、中指と薬指が、欠けていたことが幻だったとでもように、するりと元に戻る。他の傷口も、指と同じく、あっという間に塞がり、または再生した。
少年の、血を失いすぎて紙を通り越した顔色も、すぐに、うっすらとピンクがかった健康的なものに戻る。
「一体、何なの……」
香玖耶は展開の速さについていけず、苦しむ『彼』と少年とを交互に見ているしかなかったが、しかし、
「ありがとう、とても嬉しい。――じゃあ、さよなら」
晴れやかに笑った少年が、現れたのと同じ唐突さで、暗闇に溶けるようにして掻き消えると同時に、自分を押さえつける力や、周囲を覆っていた結界のような膜、自分たちの力を封じてしまうそれが弱々しい身じろぎとともに消え失せたのを感じ取るや否や、飛び起きていた。
佳織とベルゼブルが飛び起きたのも同時、それと同じく起き上がった黒髪の青年の背に二対四枚の翼が広がったのと、日本刀を携えた少女が『彼』に切りかかったのも同時だった。
そして、
「魔術師マグレガーの末裔、ミラベルの娘、アイリーン・メイガスが命じる。我が呼び声に応えよ。『審判』のカード、『逃れ得ぬ変容』……鉄槌よ、いくたびも打ち据えよ、砕き平らかにせよ」
「火よ、浄化の火を司る精霊よ。召喚師、香玖耶・アリシエートの招きに応じ、我が声を施行せよ。あかく舞い、清き牙を剥け。邪なるものを芯より焼き尽くし、食い破り、白き花に変えよ」
「光よ渦巻いて刃となれ……シャイニングエッジ」
沈痛な面持ちのベルゼブルが、無言で周囲に被害が及ばぬようにする結界を張るや否や、佳織と香玖耶とフェイファーの詠唱が荘厳に響き渡った。
その頃には、香月の刃が半実体化した『彼』の胴を横薙ぎにし、
『ガアアッ!』
獣じみた叫びを『彼』に上げさせている。
血は出なかったが、『彼』の腹にはぱっくりと横一文字の傷が出来ていた。
「私、早く帰らなきゃいけないので、もう、終わりにしましょう?」
怜悧に笑った香月がその場を跳んで離れるのと、天上からの衝撃波と、薔薇を思わせる深紅の炎と、三日月のように輝く黄金の刃とが、前後左右から交互に襲い掛かり、『彼』を粉々に――……完膚なきまでに、打ち砕いたのとは、ほとんど、同時だった。
断末魔の絶叫が、建物を震わせる。
――十数秒後。
カラン、と音を立ててプレミアフィルムが転がったとき、空はすでに、明るい午後のそれへと変化を始めていた。
終闇.その、果て
「……」
誰もが無言だった。
無言で、『彼』のフィルムを見下ろしていた。
ゾンビたちは、『彼』がフィルムに戻り、繰り手を失うと同時に、まるで地面にしみこむように溶けて消えた。
農村だけは郊外の一角に残ったが、あの、教会風の建物は消えていた。
建物のあった辺りに、たくさんのプレミアフィルムと、何とか生き延びることが出来たムービースターたち、意識を失った彼らが、ごろごろと転がっていただけだ。
空には午後の太陽が輝いている。
時計を見ると、まだ、午後三時にもなっていない。
「一体、何がどうなっとる……?」
ゾンビが消滅した結果、その仲間入りを免れた昇太郎が、眉根を寄せて呟く。
「では、結局、『彼』とはなんだったんです……?」
天祢の不思議そうな問い。
無論、それらに答えられるものはいなかった。
方向性の見い出せぬ憎悪によってこの事件を起こした何者かと、それに操られた生ける死者と、それに喰らわれた農村の人々と、――そして、『彼』から、決定的な何かを奪って消えた、あの少年と。
様々な事象が幾重にも重なって出来上がった、この奇妙な終焉。
「何が起きたの。何が、起きているの……?」
香玖耶の呟きに返事をするものもまた、いなかった。
誰にも、明確な答えなど示せるはずもないのだ。
先ほど起きたすべてを目撃した人々ですら、我が目を疑っているほどなのだから。
そこから、何日経っただろうか。
――桜井悠太の消息は、ようとして知れない。
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クリエイターコメント | こんばんは。 ホラーとはやや言い難い雰囲気に仕上がったノベルのお届けに上がりました。いつも通りというべきなのかもしれませんが。
さておき、十人十色のプレイングをいただいたお陰で、様々な方向にストーリーが展開し、様々なシーンを描写することが出来ました。
が、色々と足りなかった部分があり、食い違った部分、すれ違った部分があって、結果、あのような結末を迎えることとなってしまいました。桜井悠太に関しては、今後、どこかで何か動きがある……かもしれません。
後味の悪さをお詫びしつつ、続編もしくはそれに連なる何かをお待ちいただければ幸いです。
ともあれ、楽しんでいただけるよう祈りつつ、また次なるシナリオでお目にかかれれば。 |
公開日時 | 2008-08-06(水) 10:00 |
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