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<ノベル>
光の中
蒼白い顔
そこにあるのはすばらしい日々とみみずばれ
やめる稲妻
光る光
は、どこにもない
すばらしい日々
わたしとぼくの光る日々
青空
くもり空
見ているのに見られている
それはわたしたち
終わりの日々
太陽と星の宙返り
目から流れるミルクの光
身体がだるい
ぼくらは二度と生まれない
ひとは死んでゆくのだ。
転がった鹿の夢といっしょに。
■第一章■
あの日から、銀幕市は変わってしまった。
もとから、日本の中では少し浮いたまちと言えたかもしれない。しかし、『変化』という言葉すらなまやさしいと言えるくらいに、銀幕市は変わってしまった。常識から外れた、フィクションとファンタジーの世界と化した。
不死身のヒーローと殺人鬼。恐竜や怪獣。モンスターと妖精。しゃべる動物、意思と感情を持ったアンドロイド、そして、神と本物の神。
彼らは1年と経たずに、銀幕市の中に溶け込んだ。いつしかこの状況を楽しむようにもなっていたし――終わりが来るのを恐れる者まで、現れていた。
銀幕市は、変わってしまったのだ。
しかし、栗栖那智の生活は、ほとんど何も変わっていない。那智自身はそう思っていた。
自分のところにバッキーがやってきたのが信じられないくらいだ。仕事が忙しくなると、存在を忘れてしまうことさえある。一応ランランと名前をつけてはいたが、常に一定の距離感があった。
その朝は、とてもとても日差しが強かった。
太陽がふたつあるせいだ。
那智は目を覚ますと、いの一番に眼鏡をかけて、ランランの姿を探した。しかし、探すまでもなく、彼のバッキーはベッドの枕元にいた。那智が今日、何をしようとしているか、すでに悟っているようだ。
「たまには一緒に行くか」
那智が言うと、ぴょこんとバッキーは跳躍して、彼の頭の上に乗った。那智は苦笑いしながらベッドを降りる。
「落ち着け。まだ顔も洗ってない」
那智がランランと一緒に行こうと思うくらい、今日は特別な日だ。
あの、ふたつめの太陽。勤務先ではなく、そこに行くつもりだ。
集合場所の市役所前には、約束の時間よりもかなり前から、リオネとタナトス兵団三将軍がいた。ルークレイル・ブラックが到着したときには、まだ彼らの姿しかなかった。
三柱の死の兵はいかめしい顔で空を見上げ、リオネは黄金のミダスのマントを掴んで、足元を見つめていた。
「やあ、早いじゃないか」
「きみもな」
ルークレイルの挨拶に、白銀のイカロスが皮肉っぽく答えて微笑する。青銅のタロスは腕組みをしていて、ちらとルークレイルに一瞥をくれたが、すぐにまた上空の『光』に視線を戻していた。ミダスが静かに、目を閉ざした顔をルークレイルに向ける。
『問いがあるようだな』
「察しがよくて助かるよ。あれについて、矛盾を感じたんでね」
ルークレイルは、タロスが睨みつけるものを指さした。
「……リオネの魔法が影響を及ぼせるのは、この銀幕市の中だけだ。でも、あのネガティヴゾーンは、地球全体からパワーを吸収しているそうじゃないか」
『この神子の魔法も、本来ならば、美原のぞみという人間の娘のみに作用するはずであった』
ミダスが答える。
『暴走だ。……世界のバランスについては以前にも話して聞かせた。記憶にあるか』
「バランスは世界の無意識だ、って話か? 世界は常に一定のパワーバランスを保とうとしている」
『バランスが正されるとき、その傾きが大きければ大きいほど、天秤の腕の動きは激しくなる。やむを得ないこととはいえ、汝らはあまりに重い分銅を、取り除けてしまった』
「……レヴィアタンとベヘモットを倒した副作用ってことか……マイナスの力を消しても……プラスの力である俺たちは、相変わらず存在し続けたから」
「ティターン神族の干渉も、『天秤』の動きに影響をおよぼしただろう。神の力は、本来、この世界にあってはならないもの。御するは困難だが、暴走させるのは容易い」
イカロスの言葉に、ルークレイルはとりあえず納得はしたが――何気なく視線を落とすと、リオネがばつの悪そうな顔で見つめ返してきていた。
「コラコラコラコラコラ! ボクの生徒をいぢめてるのはソコのキミたちかナァァ!?」
「うぉ、あぶ!」
ぶうん、とルークレイルの顔のすぐそばを金槌が飛んでいった。ルークレイルがかわしたため、それは先ほどから微動だにしないタロスの即頭部に命中した。ごづッ、と石と石がぶつかる音がして、タロスは一歩だけよろめいた。
「あ、せんせいだ。おはよーございまーす」
「ヤッホォおっはよーグッモーニン! なんだなんだ、まだひとりしか来てナイの? 遅刻はダメ絶対! ミンナおっしおきィ!」
ぶんぶんチェーンソーを振り回しながら、クレイジー・ティーチャーがやって来た。相変わらずではあるが、朝からたいへんなテンションの高さだ。リオネはきちんと挨拶したが、出かける前から殺されかけたルークレイルは言葉を失っていた。
「言っておくが、俺は遅刻などしていないぞ。そもそも約束の時間まで、あと13分もある」
いつの間に、そこにいたのか。ポケットに両手を入れた、ブラックスーツの男――ユージン・ウォンが、クレイジー・ティーチャーに冷静にツッコミを入れていた。クレイジー・ティーチャーに向かってちょっと笑っていたリオネだったが、ウォンを見上げたときには真顔になっていた。
「おまえも来るそうだな」
「うん」
「何故だ?」
「リオネ、行って、見なきゃいけないの。あれ、リオネがつくったのと、おんなじことだもん。リオネがやったんだよ。じぶんでやったこと、ちゃんと見て、たしかめなきゃ」
「『罰』と何か関係あるのか?」
イェータが尋ねると、リオネはこくんと頷いた。
「……そうか。乗り越えねばならないと、わかっているようだな」
ウォンは大きく頷いた。リオネの返事は、彼が望んでいたものだった。
「やあ、みんな早いんだな」
「今日はよろしくお願いします」
取島カラスと、ランドルフ・トラウトが到着した。ランドルフはその巨躯で、今日は巨大な戦斧を携えてきたので、近づいてくるのがひと目でわかったし、周囲の注目も集めてしまっていた。
クレイジー・ティーチャーがお仕置きする必要はなくなった。メンバーはそれから続々と集まってきて、集合時間が来る頃には、全員が揃っていたから。最後に現れたのはイェータ・グラディウスだった。彼は通常は車載したりポッドで地面に据え置いたりするブローニングM2を軽々と担いで現れた――これのメンテナンスに少し手間をかけてきたのだ。
「よう、待たせたか? 遅れちゃいないはずなんだが、ドンジリに到着ってドキッとするじゃねえか」
「ぜんぜん遅れてないよ。……それ、すごい銃だなあ」
M2を見る津田俊介の目は点だ。彼はここに来た時点ですでに眼鏡をかけていなかった。今日は必要ないのだ――恐ろしい絶望の巣へ行かなければならないのだから。
「持ってみるか?」
「いや、俺はこいつで充分」
「お。タダモノじゃねえな、このナイフ」
俊介が示した黒いナイフは、イェータの見立てどおり、ただのナイフではなかった。ただのナイフにゴールデングローブをつける必要はない。
「みんなそろって……、じゅんびもいいなら、行こうよ」
大人たちの足元で、シオンティード・ティアードの細い声が上がった。石版を慎重に抱え直し、彼は静かに、ミダスたち三将軍を見上げる。
「のぞみはさらわれたんだよね。あの光の中に、いる?」
『強大な力の坩堝だ。無数の人の子らの心を感じる』
「要はわからないってことか」
「行ってみればわかるさ。さらわれた今でも、のぞみちゃんは眠ってるのかな……」
カラスの呟きを聞いて、ルークレイルは思い出す。
深い眠り。眠りをもたらす神。確かヒュプノスと言ったか。その神の剣は、ティターンがこの世にもたらし、今は目の前の死の将が預かっているはずだと。
「ヒュプノスの剣は使えないのか? 神のものだから、ディスペアーにも効くだろう。バッキーのエネルギーが効くぐらいだからな」
タナトス兵たちは顔を見合わせた。むっつりとかぶりを振り、口を開いたのはタロスだ。
「この人間の世では一度使うのが限界だ。見たところ、絶望の力の権化は一柱とは限らぬ様子。神の大いなる力を何度も振るえば、世界はその負荷に耐えられぬ」
「この世にあってはならぬ力だ。バランスの崩壊だけではすまないだろう」
イカロスはそう言って肩をすくめてから、薄く苦笑いして付け足した。
「それに刃こぼれなどしてしまったら、ヒュプノス神に返還する際に気まずいではないか」
「お前たちの事情などを考えている場合ではない」
白闇は憮然として言い放つ。
「……だが、あの世界にディスペアーが何匹いるかもわからん。一度しか使えないものに期待をかけすぎるのも問題だな。剣ならば、私も持っている……神の剣には劣るだろうが、使う回数などに気を使うよりはよほどいい」
「俺たちの手に余るか……。でも、いざというときは使わせてくれ。望みは持っていたいんだ」
カラスの頼みに、三柱はまた顔を見合わせた。二言三言何やら言葉を交わしたあと、ミダスが頷いた。
『必要とあらば、その時は汝らに渡そう。だが、我らは推奨しない』
「よっぽど危険な剣なんだな。まるで核兵器だ」
『あえて言おう。今はその時ではないのだ。このミダスはそう感じる』
「使うか否かの〈選択の時〉は、恐らくきみたちにもわかるはずだ」
〈死〉たちは、何か知っているのだろう。未来がわかるのかもしれないが、死に行く者に死期を教える死神はめったにいない。
神の力が傍らにあるのが『見える』のに、それはとてもとても、遠いところにあるのだった。人間と、人間の希望と夢が生み出した者たちには、到底手が届かないような――べつの世界に。
■第弐章■
イカロスが軽く両手を振り上げただけで、10人の身体はふわりと浮き上がった。奇妙だった。浮いているのに、ちゃんと地面を踏んでいるかのような感覚がある。バランスを崩したり、急にさかさまになったりする心配はなさそうだ。上へ、と願う――あるいはイメージするだけで、煙のように簡単に上がることができた。
「わぁ。そらとぶの、ひさしぶり」
リオネが束の間、無邪気に笑った。
光り輝くネガティヴゾーンが近づき、慣れ親しんだ銀幕市が足元へ遠のいていく。
地上のあちこちで火の手が上がっていた。破壊の音も聞こえてくる。鉄とコンクリートの塊が崩れ、火が息巻いている音だ。終末だった。誰もが、空の上から銀幕市のすべてを見渡せたとき、それを感じた。
巨大なキノコ怪獣、死の神の兵団の降臨、そして巨大なディスペアーの出現。いずれの際にも、市民は恐怖を感じた。だが、今日のような、圧倒的な絶望は抱かなかった――だからこそ、今日まで来れたのだ。
絶望。圧倒的な絶望。
そうだ、あの偽の太陽は、絶望で銀幕市を照らしている。
絶望によって温められた土から、不可視の絶望の煙が立ちこめているようだった。戦うすべを持たない市民の声は、上空までは届かないはずなのに……まるで、耳元で叫ばれているかのよう。
「なんてことだ」
ランドルフが、その巨体をわななかせた。
「ここはもう、ネガティヴゾーンも同然ですよ。空がネガティヴパワーでいっぱいです!」
腕輪の形状のゴールデングローブが、ランドルフの太い腕に巻きついて、痺れるほどに低い唸りを発していた。
「じゃ、あれがディスペアーのボスってことか? レヴィアタンとベヘモットに比べたら、ずいぶんシンプルなカッコじゃねえか」
イェータがM2を構え、銃口を巨大な〈太陽〉に向けた。
飛行機ではるか上空に行っても、太陽や月の大きさはさほど変わらないのに――唐突に銀幕市の上空に浮かんだ偽りの太陽は、500メートルほど上がっただけで、すでに視界の半分近くを埋めつくすほど大きくなっていた。近づけば近づくほど、それは「太陽ではない」という確信が強くなる。
得体の知れない、光り輝く球体。
まぶしいことはまぶしいが、長く見つめていても、不思議と目は痛まない。
そして、サングラスをかけているおかげで、ウォンは球体の表面を見ることができた。
「鼓動しているようだ……」
「え?」
「この球体そのものがディスペアーだという考え方も、あながち間違ってはいないかもしれんぞ。血管が走っているように見える。光も……明滅しているようだ」
「これが……いきてるの?」
シオンティードは静かに目を細めた。生き物はおろか――怪物にも見えない。クレイジー・ティーチャーが、大仰な動作でチェーンソーのエンジンを始動させた。
「ヒヒャハハハハ! 生きてるンなら、簡単じゃナイカ。殺せば終わりサ! 万事解決、ミンナみんなハッピーで終わるんダヨ!」
俊介は黙って漆黒のナイフを、白闇も美しい剣を、ルークレイルは拳銃を、それぞれ抜いた。
「待て。生きているなら、まだ、あまり刺激しないほうが……」
那智が一応注意したのは、クレイジー・ティーチャーだ。待てと言って待ってくれる殺人鬼などいないことだし、言っても無駄だということは充分わかっていたが、言わずにはいられない性分だ。
それに、まだ、様子を見ようと言った――それは、クレイジー・ティーチャーだけに向けた意見ではなかった。突撃するには少し距離があるが、これ以上近づけば何かが起こりそうな予感がする。こちら側は、相手の情報をほとんど持っていないのだ。
「なーに言ってんノ! どーせツッコむことになるンだからサァ、今ブチこんだって変わらナイでしょーが! ッハハハハハハハハHAHAァァア!」
やはり無駄だった。それどころか逆に闘争心のようなものに火をつけてしまったようだ。クレイジー・ティーチャーは奇声――いや裂帛の気合を放ち、チェーンソーを振りかざして、光の球体に向かって突進した。
ぐにゅり。
音はなかったが、確かに球体の表面が、ぐにゅりと動いたのだ。
「ひ、っ」
ランドルフのそばにいたリオネが息を呑んで、後ずさりをした。
神の目に何が見えたのか、人間とムービースターには見当もつかなかった――その時点では。
(みんなだいきらいよ)
(だいきらいだ)
(死ねばいいのに……)
(死んじまえばいいんだよ)
だってみんな、死ぬんだもの。
みんなみんな、ひとりぼっちで死んでいく。
すべてのものに意味はあっても、
すべてのものは必ず終わる。
残るものなんて、ただの塵。
それなら、死ぬまえに、わたしの役に立ってみな。
おれさえよければそれで充分なんだ。
灰の一粒に成り果てたとしても、おれはおまえが憎らしい。
その腐った匂いを嗅ぎ取れなくなっても、わたしはあなたが大嫌い。
(大嫌いなんだよ)
(殺してやる)
(殺してやる)
殺してやる。殺してやる。殺してやる。
太陽は、ぼふッ、と一瞬2倍ほどの大きさに膨らんだ。10人とリオネは、なすすべもなく光に包まれた。そして――プロミネンスのようにほつれた光が、いくつもの小さな光球となって太陽から離れ、金切り声を上げながら飛来してくるのだ……。
デジャ=ヴュ。
まるで同じ現象が、少し前にも起きた気がする。
「ジズだ!」
ルークレイルが叫ぶ。イェータはそれを聞く前にブローニングの引き金を引いていた。ポッドなりで固定しなければ、撃った者がひっくり返ってもおかしくないリコイルだが、イェータの身体はびくともしなかった。
偽の太陽から飛び出した光は、あっと言う間に、翼を持った光の怪物の姿を取った。数は……駄目だ。とても数え切れない。空と海の世界や、地下の腐った世界で市民を襲った、小型ディスペアーの群れを思い起こさせる。
ブローニングから放たれた12.7ミリの銃弾は、立て続けに光の怪物を蹴散らした。憎々しげな怒号にも似た叫び声を上げ、ジズは散る。血のかわりに、光の粒をばらまきながら。
耳障りな未知の金切り声を、オウガとチェーンソーの咆哮がかき消す。ランドルフは凄まじい形相で、巨大な両手斧をひと薙ぎした。クレイジー・ティーチャーはけたたましい哄笑を上げながら、めちゃくちゃにチェーンソーを振り回している。
狙いをつけなくとも、得物は振ればジズに当たった。幸いなのは、先に銀幕市各地を襲撃したジズよりもひとまわりは小さいということだ。そのぶん数は10倍以上ありそうだが。一撃で屠るのも難しくはなかった。
圧倒的な数の不利の中でも、10人は戦った。リオネは凍りついたようにその場に立ち尽くし、ただただ、見ていた。彼女の視界が、ふと、那智の姿によってふさがれる。
「もう少し、離れていたほうがいい」
「だ、だいじょうぶだよ。リオネ、ケガしないもん」
「お前が見届けようとしているならば、力を貸さねばなるまい」
那智だけではなく、白闇も――。白にも銀にも金にも見える、まばゆい剣を振るいながら、彼はリオネと那智のための壁になった。
ウォンはジズの群れの中でも、真っ向から光の球体を見つめていた。両の手に握った拳銃は何匹ものジズを撃ち落としていたが、そのうちウォンは撃つのをやめて、ただ、球体を見た。見つめ返した。視線を感じるような気がしたから。
――のぞみ。
ディスペアーたちの、嘴なのか爪なのかわからないものが、ウォンの服や皮膚を裂く。
――そこにいるのか? 眠りのうちに囚われているおまえだ……肉体などは、どこにあっても同じこと。私たちが探しているのはおまえの『心』だ、そこにいるのか?
球体がまばたきしたようだった。
――聞こえているのか? 見えているのか? 誰もがおまえの目覚めを待っている。……終わりにしなければならない。舞台もパーティーも、いつかは必ず終わるのだ。
(それなら今すぐ、終わりにしてやってもいいのよ)
(何もてめえらに望んじゃいないよ)
(目障り。早く消えて)
(わたしのために)
(いや、おれのために)
『たすけて!!』
「……!」
シオンティードが、目を見開いた。たった今、自分が魔法で八つ裂きにした、ジズの光の血を浴びながら。
聞こえたのだ。
それはカラスにも聞こえたし、俊介にも聞こえた。リオネと那智も、顔を上げる。ジズを相手取ることを優先していて、それどころではない者の耳には、届かなかった。助けを呼ぶ声に気づいたのは、この戦いに臨む前から、のぞみに伝えたい気持ちを持っていた者だけだ。
死ね!
何が、希望だ。
みんなみんな、いつかは必ずわたしを裏切る。
どんなに優しく振舞う人も、平気で人を殺す人も、結局みんな同じなんだ。
死ぬんだ、
死んで、それっきり。
人の生き様など、肉といっしょに風化する……。
あの教科書も、この古文書も、すべてを正しく記録していると思う?
嘘だ、ぜったい嘘だ。
何もかも結局いっしょなのよ。
わたしたちとおれたちは、この星の虫や草とおなじ。
死ね!
どのみち100年後には、必ず死んでいるおまえたち。
それなら、今すぐ死んでも、大して変わらないじゃない?
そうしてみんな、風の中に溶けていくのよ。
100年後には、線虫さえ、てめえらのことを覚えちゃいない。
死ね!
死なないなら、殺してやる!
すべてのジズが、突然攻撃の手をとめ、羽ばたく翼の動きさえとめて、虚空に浮かびながら、小刻みに震え始めた。
殺してやる。
■第3章■
全員が、見た。
上空で戦う10人とリオネだけではなく、銀幕市で、空を見上げていた者たち、すべてが……。
太陽よりも大きくなった球体に、ぴしりとひと筋の割れ目が入った。見るものが息を吸って吐く間に、割れ目はぴしりと4つに増えた。あたかも受精した卵子の細胞が、分裂を繰り返していくかのように。
球体の変化とともに、ジズも、球体そのものも、持っているかがやきの色が変わっていった。不安を誘うほどの白さから、灰色へ。そして紫色へ。藍色へ……赤色へ。法則の見られない、不穏な変化。空も怯えて、絶望のかがやきに色を合わせる。本物の太陽は、まだ、傾き始めたばかりだろう。ひどく曇った午後であるが、銀幕市はまだ明るかった。しかし、急速に、夜色にも似たとばりが広がり始めている。
をををををををを……ぁぁぁぁぁ。
あは。
あぁぁあは。
あは、あは、あは。
ぅぅををををををををををををを!
『たすけて! こわいゆめ、ばっかりなの!』
おまえもあなたも、みんないずれは死ぬんだよ。
『たすけて!』
だから、今死んでも、いいじゃない?
『おねがい、だれか! ゆめをかえて! たのしいゆめに!』
殺してやるよ。わたしのために。感謝しろ。
ジズは震え、青ざめ、そして、裏返る。
かがやきながら翼を広げる、球体に過ぎなかったその身体から、めしゃりめしゃりと音を立て、血を噴く内臓と筋肉が飛び出した。血管が浮いた、蝙蝠型の翼は、再びばたばたと羽ばたき始める。変化したジズたちは、どぅん、と一斉に波動を発した。
それは、ムービースターがロケーションエリアを展開する、あの不可思議な振動の波紋にも似ていた。無数のジズが広げたのは、ネガティヴゾーンだったが。
ムービースターが身につけているゴールデングローブが、ちりちりと激しく反応する。ネガティヴな力を中和するために、それに等しい魔法の力を作り出す。
ずっと無我夢中で戦斧を振り回していたランドルフだったが、急に息が切れた。体力はまだ限界を迎えたわけではない。ただ、斧が重くなった気がしたのだ。自分に訪れたゴールデングローブの副作用に、彼はいやがうえにもムービースターの仲間が心配になった。すばやく顔を上げて、仲間の姿を探す。ジズは攻撃の手を休めていたし、幸い、非常に目立つ仲間が彼のすぐそばにいた。
クレイジー・ティーチャー。
「HAHAHAHAHA! ネガティヴなパゥワァが何だってユーのサ! ボクには! チョー物理学以上の! 科学がついてるんだヨォォォオオッ!!」
安否を気遣うまでもなく、彼はいつもどおりだった。白衣の懐から怪しい色の液体が入った試験管を何本も取り出すと、いつもの奇声を上げて放り投げた。本当にいつもどおりなら、試験管はレーザーのごとき速さで飛んで行っただろう。今は充分目視できるほどの速さで飛んでいく。
運悪く弾道上にいたカラスとイェータは、すんでのところで試験管を避けた。
爆発。
怪しい液体は火をともなわない謎の爆発を起こし、翼持つ肉塊と化したジズを吹き飛ばす。無数のジズが――いや、この空間そのものが――怒りの咆哮を上げた。シオンティードは石版を、ルークレイルは拳銃を落としそうになった。ジズたちはネガティヴパワーの出力を上げ続けていた――その音は、まるで強烈な耳鳴りだ。耳鳴りに混じる咆哮は、ムービースターの聴覚に、ひどく不快な刺激を与えた。カラスと那智とイェータが気づけば、耳をふさいでいないのは彼らだけになっていた。
目をつぶれば、まぶたの裏側に広がるのは、赤い赤い、真っ赤一色の緋色の世界。
目を開けても、見えるのは、骨を持たない肉塊と翼の群れ。そして、藍色と鈍色と橙色が渦巻く空。ムンクとゴッホが描くうずまき、ゴヤとカラヴァッジオが注いだ血糊、壊れたルイス・ウェインの猫たちが、いちめんの空の中に溶けている。足元を見下ろせば、ベクシンスキーが愛した滅びの地が、ゆらゆらと揺らめいているのだった。
ぴギゃあ、と刺しこまれる真っ赤なヴィジョン。
鬼が若い男と女を喰っていた。
ぴギゃあ、と刺しこまれる真っ赤なヴィジョン。
痣だらけの子供が、はした金で売り飛ばされていく光景。
ぴギゃあ、と刺しこまれる真っ赤なヴィジョン。
動かない父親を担ぎ、石の山を登る少年。
ぴギゃあ、と刺しこまれる真っ赤なヴィジョン。
白衣の殺人鬼が殺されるところ。果たして二度目? 三度目? 四度目?
ぴギゃあ、と刺しこまれる真っ赤なヴィジョン。
それは銃弾を受けても倒れない。戦場を屍で埋め尽くすまで、その獣は止まらない。
ぴギゃあ、と刺しこまれる真っ赤なヴィジョン。
少年が少年に服を引き剥がされているよ。
ぴギゃあ、と刺しこまれる真っ赤なヴィジョン。
あれは妾の子だ。おまけに、あの髪の色を見ろ!
ぴギゃあ、と刺しこまれる真っ赤なヴィジョン。
そこに確かに彼はいるのに、まわりの誰にも彼が見えていない。
ぴギゃあ、と刺しこまれる真っ赤なヴィジョン。
滅び殺めよ、亡国の宴。破壊の力と望みは無限に湧く、かの少年の胸のうちより。
ぴギゃあ、と刺しこまれる真っ赤なヴィジョン。
ほら見ろ、人外魔境魑魅魍魎が、いつでも殺しにやってくる。
ぴぎゃあ!
ぴぎゃあ!
ぴぎゃあ!
ぴぎゃあ!
殺されている。父親と母親が、小さな子供を。同じ格好をした兵士の群れが、大人を、子供を、先の短い老人を。ベッドに横たわる子供の顔に、枕を押しつける。女が着ている服を剥ぐ。子供が着ている服を剥ぐ。男が着ている服を剥ぐ。頭を割られて倒れた青年が持っていたのは、たったの12ドルだったそうだ。
約束? そんな約束、してたっけ?
愛してる? そんなこと、考えたこともなかった。やらせてくれたらいい女。誰にとってもいい女。
こんなところで何をしている。ここを通るな。ここに立つな。ここで息をするな。ここから出て行け。今すぐ出て行け。殴られたいか? ちょうどよかった、このゴルフクラブの殴り具合をためさせろ。
そのようなことは記憶にございません。そのようなことも記憶にございません。何を持ってそうお考えになっているのか、まったくもって理解しかねるところでございます。
約束? 約束って、なんのこと? あんたの約束に、どれくらいの価値があるの?
キモいからどっか行けよ。デブ。
キモいんだよ。死ねブス。
おまえは用済みだ。
邪魔。どっか行って。あんたのでかいケツでテレビ見えないの。
おれを疑うのか? いい加減にしろ。証拠も何もないくせに。
頭おかしいんじゃない? 何言ってンのかぜんッぜんわかんないんですけどぉ!
やめろ。見苦しい。どうせおまえなんか失敗するだけなんだよ。
どうしてこんなことも覚えられないの? あんた、バカなんじゃないの?
バカは生きていても世の中とわたしとおれの役には立たないんだよ。
おまえなんかいなくても、太陽は明日も空にある。地球は太陽の周りを回りつづける。そうよ、あなたなんか、いなくたって。
だから、死ね。
死んでちょうだい。
死んでくれ。
死なないなら、殺してあげるから。
カラカラカラカラカラ……。
カラカラカラカラカラカラカラ……。
嗚呼これは。
フィルムが回る音だ。プレイヤーの中でDVDが回る音。デッキの中で、ビデオテープが回る音……。
無数のカメラだ。カメラがこの光景を記憶している。
こぉん、こぉんとフィルムが転がる。死んでいった者たちが、その音だけを残して、いなくなる。まるいフィルムは、そこにいて、動いて、しゃべっていたかれらとは、まるで似ても似つかない、ただの物体だ。結晶だ。
記録された映像は早送りにされた。
見る見るうちにフィルムは色あせ、ひび割れ、崩れ去り、塵になって、宇宙の中に融けていく。
あとは、無。
何も聞こえない世界。
美しさも醜さも、そこにはないのだ。
それはすばらしい日々。
完璧な世界。
誰もそこにはいないからだ。悪意も憎悪も、死という概念や言葉すら、その世界には存在しない。
それこそが、完全の世界だった。
一切の絶望はなく、のぞみも、ない。
「こんなこわいの、いや」
少女は露骨に顔をしかめ、DVDをとめた。画面に映るのはいちめんの青。ドットであらわされた『停止』の文字。
「どうしよ。おとうさんがせっかく買ってきてくれたのに。でも、おかあさんが買ってきてくれたのも、こわそうだしなー。……こわいのでもへーき、なんて、言うんじゃなかったな。夏だからって」
ふむぅ、と少女はため息をつく。
両親や見舞い客が持ってきてくれたDVDとビデオは、全部観てしまった。
こうなってしまっては、仕方がない。お気に入りの作品を、好きな順に、適当な順に、もう一度観ていくしかないのだ。しかしそうすると、お気に入りをすべて観終えるまで気がすまなくなってしまう。彼女のちょっとしたわがままだ。
「……ま、いっか。時間はたっくさんあるんだし」
少女はこわいDVDをケースに収め、たのしいDVDを探して、ラックに向かい、手を伸ばす。
■第死章■
「ぅあっ!」
銃声がひっきりなしに続いている。凄まじい、耳をつんざく悲鳴も。シオンティードはその肩にまともにジズの爪を浴び、内臓でできた鞭でしたたかに殴られて、4メートルは吹っ飛んだ。彼のちいさな身体は、生温かい肉の塊にぶつかった。肉塊が柔らかかったおかげで、シオンティードは、その身体の骨を1本も折らずにすんだ。が。
「あ……、クレイジー・ティーチャー――」
肉塊は、両腕をもがれて、顔を叩き潰された、クレイジー・ティーチャーの姿だった。すっかり変わり果てていた。そばには、金槌を握りしめたままの右腕が落ちていた。人差し指がかろうじてひくひく動いているが、それだけだ。どうやら金槌を振り上げて振り下ろしたいらしいが、まるで力が入っていない。
「やめろ……来るな……来るな……来るな……やめ、やめろ」
うわ言のように呟き続けながら、俊介が漆黒の魔剣を振り回している。どこか、「振り回されている」ようでもあった。剣は刃こぼれし、その黒い刀身に走る緋色のラインも、空を飛ぶ前に比べれば、ずいぶん色あせているようだ。剣はまるで怪物をとらえず、俊介は後ろからまともに殴り倒された。
「親玉はどこだ。親玉は。どんな船にも、船長はいる。船長のいない船なんて、ただの幽霊船だ。ただのまぼろし。そんなもの、現実にはありゃしない。どこだ、どこにいる」
ルークレイルは拳銃に必死に弾を込めていた。血まみれの指は震えてしまって、装填どころではなかった。手の甲を切り裂かれてしまった。4本の白い骨が見える。目がくらむ。手だけではなく、身体のどこからかも血が出ているらしいから。
銃声が途絶えた。イェータがM2の弾丸を撃ちつくし、ナイツSR16の弾丸も撃ちつくした。ハンドガンなどとっくに壊れた! しかし、それでも、彼は止まらない。牙をむいて襲いかかってきた目無しのジズの脳天に、ばぎりとナイフを柄まで埋めた。
ひどい匂いだ。悪臭だ。
銃声がやんだ理由は、もうひとつ。
ウォンの銃も、どういうわけか、弾切れだ。何千発撃っても弾が尽きない拳銃の、マガジンの中が空になった。どれだけ乱暴に扱っても弾が詰まらない銃が、ホールドオープンしたままびくともしない。
ひとりでに、ウォンは膝をついていた。自分は立って、戦い続けているつもりだった。
勝手に、口から血があふれ出した。動いてもいない心臓が、また破れてしまったかのよう。
「トゥナセラ? トゥナセラぁあ……?」
トゥナセラなど、どこにもいない。地面に這いつくばるカラスの呼び声は、むなしく響く。
「いないのか。そうだよな。だってここは、俺たち、人間の、世界だ。はは。俺たちの……。神のせいにしてばかりだ。俺のせいなのに。俺のせいなのに」
リオネはただ、見ていた。
彼女の身体にはひと筋のみみずばれさえできていないが、そのかわり、彼女は何もできなかった。ただ見るだけだ。涙を流しながら。
「リオネ」
那智は目を細め、ほとんど閉じているのと同じくらいに細めて、この世界の中で唯一かわいらしい、リオネに向かって手を伸ばした。足に力が入らなかった。ジズに咬みつかれた。食いちぎられる前に、バッキーのランランが食べてくれたが。ランランは那智の腕の中で、困った顔で腹をさすっている。
「リオネ……」
伸ばした那智の手を、リオネは震えながら握りしめた。
「私は、おまえを糾弾はしない。少なくとも私は、おまえに怒りは感じていない。本当だ。……そういうものだからだ。間違いを犯さない子供など……子供では、ない」
どざっ、とふたりのすぐ隣に、真っ二つになったジズの身体が落ちてきた。どうっ、と続いて落ちてきたのは、白闇の身体だった。彼は無言で、血みどろの剣にすがって立ち上がる。
だが、やっと立ち上がったところで、また倒れた。無残に引きちぎられたジズの身体が、どこからともなく吹っ飛んできて、まともに彼の身体にぶつかったのだ。
野太い、しかししわがれた咆哮。ランドルフは、叫びすぎて喉がかれていた。今の彼は、筋肉を盛り上がらせ、牙を血に染め、傷ついて怒り狂った灰色熊とそう大差なかった。ジズは次から次へと鬼にぶつかり、次から次へと引き裂かれて放り投げられた。その暴走も、力づくでねじ伏せられた。足に、腕に、首に、牙と爪を突き立てられて、ランドルフは振り払おうとしたが、勢いあまってバランスを崩した。そして倒れた。
子供たちの鼻歌と、大人たちの叫び声が、地面と空の間でうねっている。
リオネはそこに立ち尽くす。
彼女は、絶望を見た。
立っているのは自分だけだという、絶望の風景が広がっている。
「ごめんなさい」
リオネはしゃくり上げて泣いていたから、それだけ言うのもやっとだった。
「ごめんなさい。ぜんぶぜんぶ、リオネのせい」
『ぜつぼうした?』
「わかんない。でも、こわいよ。こわいの」
『ぜつぼうした?』
「リオネ、なんてわるいこと、したんだろ……」
『おまえ/あなたなんか、だいっきらい/だいっきらいだ』
「なんて、ひどいこと……」
『みんな、しね』
「ごめ
■第V章■
10人が10人、血まみれになって、空から落ちてきた。
まっさかさまに。
翼を失った囚人のように。
「これはいかんな」
イカロスがひゅっと軽く片手を振った。10人の落下の速度がゆるやかになり、やがて、ふわりとやさしく地面の上に横たえられた。
「神子がいないぞ」
『このミダスが』
「頼む」
ミダスは呪文も唱えず、また、身動き一つしなかった。ただ、マントの裾が揺れただけ。
きゅアッ、と不可思議な音が響き、大泣きしているリオネが、死の将たちの前に現れた。リオネは何も言わず、ただ泣きながら、ミダスのマントにしがみつく。
「見ろ」
タロスが腕組みを解き、上空の〈球体〉を指差した。
じ、ニぁ……。
ニ、にちゅっ、ぐぬっ、め、ぢぢぢぢぎぎぎぎぎぎ……。
それはもはや、球体ではなくなっていた。内部で何かが蠢き、顔や腕や翼を伸ばして、やわらかな卵膜を破ろうとしているのだった。顔。ヒトの顔に似た顔が、いくつもいくつも、現れては消え、現れては消える。
くぐもった叫び声。
「孵化のとき、か」
イカロスがあきれたように笑った。
『〈選択の時〉でもあるようだ。タロス』
「うむ」
すらあ、ッ!
リオネの涙が、その音を聞いたとき、せきとめられた。ミダスのマントから、顔と手と身体を離す。
ミダスは、そのマントの中の闇から……タロスは、その厚い胸板の間から……冷たく光る、長剣を抜き放っていた。
リオネの不思議な色合いの瞳に、二振りの光が宿ったとき――。
空に浮かんだ卵が破れた。
『豁サ縺ュ豁サ縺ュ縺ソ繧薙↑豁サ縺ュェェエエエエア!!
縺ソ繧薙↑縺ソ繧薙↑縺?縺・″繧峨>ァァアアアアアアアア!!』
叫びと羽ばたきによって、突風が吹いた。雲は吹き飛ばされ、空は壊れた。紫、藍、赤、黒の光の壁が、銀幕市を駆け抜けていく。
産まれ出た怪物は、およそ形容しがたいものだった。いくつもの翼。いくつもの顔。そして、のたうつ触手。映画やゲームや漫画の中でなら、いくらでも存在する怪物だろうか。だが、ここは現実だ。現実の中にある銀幕市だ。その空の上で、怪物は羽ばたき、叫び続けた。
殺してやる。
いつまでも終わらない、憎悪と悪意の叫び。
殺してやる。
あまりにも巨大なその姿は、銀幕市のどこにいても――杵間山にいようと、海岸にいようと、家の中にいようと、誰でもいつでも、目にすることになってしまった。目にしたとたん、多くの人が、ぺたんと座りこんだ。
そして、絶望した。
「あれは、何だ……何だと言うのだ……」
市役所の中からそれを目の当たりにし、マルパス・ダライェルも呆然とする。柊はその横で椅子に座ったまま腰を抜かしていた。立ち上がり、マルパスのそばでそれを見つめたかったが、一歩も動けなかった。心臓さえ止まっているような気がした。
念のためゴールデングローブをつけていたが、それでも……マルパスの右目から、たらたらと血が流れ出していた。
みし、みしみしし、めきめきめき――
部屋中でかすかに起こり始めた音に、柊の金縛りが解けた。彼はあわただしく会議室を見回す。
色が、褪せていく。
まるで千年後までの時間を早送りしていくかのように。
市役所が……。
いや、市役所だけではない。
「マルパス、これは!」
「ネガティヴゾーンか――。恐れていたことが起きてしまった。レヴィアタンもベヘモットも、地下を根城にしているだけでもましだったのだ。あの巨大ディスペアーは、この地上で活動するために……ネガティヴパワーを集めていたのか。それとも……ネガティヴゾーンが、ディスペアーとして孵化するために? 意志があったというのか? あれは力そのものだぞ! 馬鹿な!」
「マルパス!」
「……柊君……、なんということだ……、この私までもが、たった今……」
マルパスは右目を押さえて膝をついた。ゴールデングローブが、唸りを発している。
マルパスを助け起こそうと、柊がしゃがみこんだとき、会議室の窓ガラスが割れた。というよりも、崩れ落ちた。さらさらと、ひどく細かな、砂に似た無数のかけらになって――。
「……だが、私たちは、きみたちの希望の結晶なのだ。どうか、そうだと言ってくれ。柊君……」
「――はい。そのとおりです。あのディスペアーがいるから、あなたたちも存在している。マルパス……、お願いがあります。いつものように……」
柊はマルパスの血から、窓の向こうの怪物に目を向けた。
「いつものように、あれに名前を。標的にするために、どうか、名前を」
――クソ。身体……、動かねェ。……久しぶりだな。まさかこの銀幕市で、こんな状態に……なるなんて。
イェータはすでに意識を取り戻していたが、身体が言うことを聞かなかった。自分のものではなくなっていた。いや、とっくに、作戦が始まった直後から、イェータは「べつの存在」に身体を明け渡していた。彼は人間ではなくなり、人を喰い殺す獣のようなものになっていたのだ。
痛みが……。
――認めねえ。
目を開くことさえままならない疲労感の中、イェータは手を伸ばした。何を掴もうとしたのか、彼自身にも、よくわからない。
――こんな終わり方は……認めねえ。
「リオネェェエ!? リオネェェエ、どォこ行ったノォ!? 先生ココだよー、先生ホラこのとおり元気ダッテばァ!」
誰もがもう一度気絶しそうになるくらい凄まじい大声で、狂った理科教師がリオネを呼んでいる。彼は確かに元気いっぱいだが、ぜんぜん元気そうには見えなかった。左腕はちぎれていたし、腹はごっそりとさばかれているので、内臓も肋骨も丸見えだ。おまけに顔がまだ半分潰れたままだった。
「そう大声を出すな。頭に響く。だいたいおまえは、なぜいつも、リオネの身を案ずるのだ? あれは傷つかないのだぞ」
ウォンは不機嫌だった。戦闘の最中か、それとも気絶して倒れたときか、お気に入りのサングラスを壊してしまったのだ。体調などはどうでもよかった。普段はありえないジャミングを起こした銃も直さなくてはならないし、身体もだるいし、空では何やらとてつもないものが我が物顔で浮いているし、不愉快なことばかりだ。
「あれ……67億人だ……」
俊介は浮かんでいるものを見上げ、呆然と呟く。
「67億人ぶんの心が……あの中にある」
『旦那ァ。ちょっと、そろそろあっしを抜いてくれませんかね』
「え、あ? 悪い、〈ニア・デス〉」
俊介が座りこむすぐそばの地面に、彼の魔剣がめりこんでいた。俊介は、抜くのが少し怖かった。ネガティヴゾーンで、ぼろぼろにさせてしまったから。
しかし思い切って地面から引き抜いてみると、赤いラインはどこまでも赤くかがやき、黒い刃はどこまでもなめらかなカーブを描いていた。
「今回はずいぶん世話になったな。結局だめだったけど」
『まったくっす。ま、こっちはもの斬れるならそれでいいんすけどね。まだいるんでしょ? 斬らなきゃならん敵』
「……ああ」
「ヒュプノスの剣……」
俊介のそばで、カラスも空を見上げ、怪物を睨みつけていた。
「ミダスたちは、〈選択の時〉が来ると言ってた。今がそのときでなければ、いつだって言うんだ」
「だが、あの剣は対象を永遠に眠らせるだけだ」
ルークレイルがカラスの言葉を拾う。眼鏡のレンズが片方ヒビだらけだったが、それでも、彼はいつもの癖で、ブリッジを押し上げていた。
「眠らせただけだと、銀幕市はこの状態のままだということも考えられる。あんなデカくて気持ち悪いヤツの枕元で、永遠に暮らすのか? 夢見が悪いにもほどがある」
「じゃあ、どうすれば?」
「わからない。だが、ミダスたちなら何か方法を知っているかもな。今はきっと、連中にとっても好ましくない状況のはずだ」
「……人間には、何もできないのか……?」
「いや。それなら、〈選択〉という言葉はきっと使わない。〈審判〉だとか〈奇跡〉だとか、そういうごたいそうな言い方をするはずさ」
「……そうだ。人間は、選択できる」
那智がふたりのそばにやってきて、腰を下ろした。手にした箱から応急キットを取り出す。
「とりあえず応急手当だけでもしておこう。この様子では、病院もまともに機能しているかどうか」
「俺はあとでいいよ」
「生身の人間が、何言ってる」
那智はうっすらと苦笑いした。彼の背後では、ランドルフが巨躯を丸めるようにして、白闇に土下座を連発していた。
「すみませんでした。本当にすみませんでした。私が理性をなくしたばかりに、本当にすみませんでした。なんとお詫びしたらいいのか!」
「いや、もう、充分に詫びてる」
白闇が負傷したのは、ランドルフが千切っては投げ千切っては投げしたディスペアーの一部の直撃を受けたからだった。むろんランドルフに悪意などはなかったのだが、彼の性根をして謝らずにはいられない。
その光景を見て、シオンティードもばつの悪い思いをしていた。ランドルフが、白闇を始めとした仲間が怪我している理由も含めて、一体ネガティヴゾーンで何が起きたのか尋ねてきたので、見たままを正直に答えたのだ。白闇の傷の原因を聞くなり、ランドルフはまた暴走したのではないかと言うほどの大声を上げ、白闇に土下座を始めたのである。
「……でも、わかるよ。こわしたいきもちおさえるの、すごくたいへんだってこと……」
ぽつりと呟いたその言葉が、ランドルフに届くかどうかは問題ではなかった。
ぎゅう、と石版を抱きしめて、シオンティードは空を闊歩する怪物を見上げる。
「あれなら、こわしても、いいんだよね? ……こわしたい」
殺したい。
殺してやる。
シオンティードの心を、その衝動がじわりと侵したとき――恐らく、偶然だろうが――怪物が、めりめりと音を立てながら胸を張り、そして、咆哮した。
あの叫びの中を生き延びた10人は、耳をふさぐ。
聞きたくない。
こんな声は、もう、なるべく、聞きたくない。
叫びには、すべてのものに対する憎悪と殺意と悪意しかない。
その身体の色は、憎悪と殺意と悪意の色。
殺してやる。
今や銀幕市のすべてが、彼/彼女/たちの住みかだ。
殺してやる。
よりいっそう大きく叫ぶために、〈マスティマ〉は大きく息を吸い込み始めた。
〈続〉
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クリエイターコメント | 殺してやる。 殺してやる。 殺してやる。
この連呼を、また書くことになろうとは……。 しかし安心してください。フジミさんと銀幕の世界観はまったくつながっていません。〈宇宙の殺意〉は無関係です。〈宇宙の殺意〉なにそれおいしいのと思われた方は、どうかそのままで。気にしなくていいです。 わたくし諸口正巳の主義主張も混じってしまい、少々おこがましい内容となりましたが、これを最後の特別シナリオとさせていただきます。 けれど、銀幕★輪舞曲というひとつの物語が終わったわけではありません。ベタな言い方で言えば、終わりの始まりです。 なお、途中盛大に文字化けしていますが、演出ですので心配なさらないでください。うまくエンコードすると意味がわかるかも? そして冒頭の詩やネガティヴシーンは、わざとあとまわしにして、寝ないで迎えた朝7時に、半分寝ながら書きました。眠気がインスタント狂気をもたらしてくれるものと信じたからです(笑)。
というわけで、殺してください。 殺してください。 もう終わりです。 もうこれで、おしまいなのです。
まだずいぶん早いけれど、先に言っておいたほうがいいかな。 さようなら、皆さん。 |
公開日時 | 2009-04-27(月) 09:10 |
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