~ターミナルに、桜咲く~ それは途方もない光景だった。 その日、駅前広場に降り立ったものは、あたりが一面の、桜並木になっていることに目を見開いたことだろう。表情を変えぬ0世界の空さえ、今日ばかりは花霞。 駅前広場だけではない。 屋外・屋内、はては一部のチェンバーの中にまで、ターミナルには至るところに桜の樹が出現していた。 聞けば、これは世界図書館が公式に主催する盛大なる花見の宴なのだという。 桜の樹はナレッジキューブを変成させて創造したもので、期間が過ぎれば消え失せるらしいが……。 とにかく、ターミナル全域を舞台とした大花見大会に、0世界は沸くことになったのだった。~審議会の決定~ そんな花見が開幕する少し前――。 世界図書館には、数年ぶりに「審議会」が招集されていた。世界図書館の運営の中枢であり、意思決定機関である理事会の人々が、実際に図書館に集まることは滅多にない。 日常業務は世界司書たちによって滞りなく運営されており、理事会を構成する『ファミリー』と呼ばれる面々は、おのれのチェンバーや、ターミナルあるいは壱番世界の自分の拠点から出ることさえ稀なのだという。 『赤の城』の住むレディ・カリスこと、エヴァ・ベイフルックもまた、最近まではロストナンバーたちの前に姿を見せることはなかった。 だが先日、アリッサと、『ホワイトタワー』に滞在していた館長とが壱番世界へ連れだされるという事件が起こり、レディ・カリスがトレインウォーを発動させた。その日、審議にかけられているのは、この事態の収拾について話し合いが行われているのだ。 館長たちが向かった先、壱番世界のイングランドでは、長らく行方不明だったアリッサの父、ヘンリーが「不自然な仮死状態」で発見されたし、アリッサの拉致に協力したとされるロストナンバーたちは、それ以来、『ホワイトタワー』に収監されている。 厚い扉の向こうで何が話されているのか、リベルたち世界司書は不安げな面持ちで、話し合いが終わるのを待つしかない。 ◆ ◆ ◆「決定を伝えます」 やがて、レディ・カリスがアリッサをともなってあらわれ、厳かに告げた。「ひとつ、エドマンド・エルトダウンの館長位は剥奪するものとする」「ええっ」 リベルでさえ、思わず声をあげてしまった。 しかしカリスは当然でしょう?と言わんばかりの目で、司書たちを見遣る。「エドマンドは長い間、館長の職務を事実上放棄し、理事会の招集にも応じませんでした。そのうえ、彼にはヘンリー・ベイフルック傷害の容疑もあります。このことは全会一致で決定しましたよ」「……それでは、今後、図書館の運営は」「ひとつ、エドマンドに代わる館長は、現館長代理アリッサ・ベイフルックとする――」「えーっ、アリッサが館長、うっそだーー」 エミリエが頓狂な声をあげたが、他の司書たちは黙りこんでいたので、エミリエは思わず両手で自分の口をおさえて、シドの陰に隠れるのだった。「……私も、そう思うよ」 アリッサが小さな声で言いながら、さみしげに微笑んだ。「エドマンド不在の間、館長の職務を代行してきたアリッサが、館長を引き継ぐのがもっとも妥当でしょう」「それも全会一致だったのですか」 リベルが訊ねた。「いえ、アリッサの資質を疑問視する声はありました。ですが、この私がアリッサの後見人となることで決まりとなったのです」「……」 意外といえば意外だが、しかし、よく考えてみれば、他に落としどころはないようにも思われる。「ひとつ質問しても?」 手を挙げたのはシドである。「エドマンド館長――いや、前館長?は、どうなる。館長でなくなるとしても、だ。また『ホワイトタワー』で暮らすことになるのか」「残念ながら、その点だけは結論が出ませんでしたので、一時休会となったのです。ですが、花見が終わる頃には、結論も出ることでしょう」「現在、『ホワイトタワー』に収監されている、館長代理の……拉致に携わったロストナンバーは?」「それは私から」 アリッサが口を開いた。「正式な館長としての、初めての命令を出します。該当するロストナンバーについては『館長からの恩赦』を与え、釈放するものとします」 人々は顔を見合わせた。 そしてレディ・カリスは告げるのだ。「それでは、予定通り、花見の宴を執り行いましょう。このたびの花見は、アリッサの新館長就任をお祝いするものでもあります。花見はターミナル全域で行いますが、《赤の城》ではアリッサ新館長を囲む会を、後見人である私の主催で催します。どうぞみなさま、ご参加なさって」~赤の城にて~「……ということがあったの」 赤の城に赴いたロストナンバーたちに、こっそり事情を教えてくれたのはエミリエであった。 こっそりと言っても、エミリエは恐るべき根気よさで、出会ったロストナンバー全員に最初から事情を説明することを繰り返し、繰り返し行っていたので、その場にいるほとんどが事の次第を飲み込んでいた。 レディ・カリスの居城である《赤の城》の中庭も、今日は桜が埋め尽くしており、その枝の下に用意されたテーブルには、あふれんばかりのお茶とお茶菓子、そして花見に合わせた料理や酒が準備されていた。木陰には楽団がいて、優雅な演奏を聞かせてくれる。「今日は『ファミリー』の人たちも何人か出席してるよ。今日、ここへ来ていない人は、審議会も委任状を出して欠席していたし、本当に世界図書館のことにも興味をなくしちゃった人たちなんだと思う。逆に言えば、今ここにいる人たちは、なにか考えがある人たちだね。アリッサが館長、レディ・カリスがその後見人になることを了承したけど、その裏で何か企みがあるかもしれないんだよ。でもそれはレディ・カリス自身もそうだけど……」 エミリエは、導きの書にクリップで止めたメモをのぞきこみながら、教えてくれる。 彼女が語った「エミリエの極秘情報★『ファミリー』の人たちのこと調べてみたヨ」は次の通りだ――◎リチャード・ベイフルック「あの、まん丸い体型の、白いお髭のおじいさんがそうだよ。サンタさんに似てるよね。みんなが丁重に扱ってるから、重要な人物なんだろうね。優しそうだけど、威厳のある王様って雰囲気。あの銀色の杖みたいなのが、トラベルギアなのかな? エミリエ情報によると、リチャードさんは『虹の妖精郷』っていう古くからある大きなチェンバーを所有していて、普段はそこで暮らしてるんだって。幼いうちに覚醒してしまった子どものロストナンバーがときどきリチャードさんに引き取られることがあるらしいよ?」◎ダイアナ・ベイフルック「優しそうな、小柄なお婆さんだね。丸いメガネをかけててニコニコしてる。リチャードさんの奥さんなんだって。……ね、ほら、彼女のまわりに、うっすら透き通った猫がたくさんいるでしょ。たぶん《妖精郷の猫たち》だろうって。彼女が人前に出てくるのはすっごく珍しいらしいよ」◎ヴァネッサ・ベイフルック「毛皮のショールの、派手なドレスのおばさん。すっごいアクセサリーだね。何重ものネックレスに、いくつもの指輪に、ブレスレット。たくさん宝石がついているよ。レディ・カリスの叔母さんだって聞いたよ。ってことは、アリッサから見たら……ううん、ややこしいからいいや。レディ・カリスとは仲良しみたいだね。楽しそうにお喋りしてるもの。彼女、『エメラルド・キャッスル』っていう超豪華なチェンバーに住んでるらしいよ。でも未亡人だから独り暮らしなんだって」◎エイドリアン・エルトダウン「品の良さそうなおじさんだね。ロマンスグレーっていうの? 50代くらいに見えるけど……ロストナンバーに歳なんか関係ないか。地味だけど、紳士って感じ。あのモノクルがかっこいいよね。でもちょっと気難しそうかなー。あまりこの会も楽しんでないみたい。あの人もあまり人前には出てこないらしくって、『ネモの湖畔』っていうチェンバーに奥さんと住んでるんだって。奥さんは今日は来てないみたい。実は作曲家だって誰かが言ってたかな?」◎ロバート・エルトダウン「あの金髪の男の人だよ。エドマンド館長の従兄弟って聞いたけど、若く見えるねー。すごく人目を引くタイプだけど、あの地味なエイドリアンおじさんの息子さんなんだって。社交的な人みたいだね。人の輪から人の輪へ上手に移って、会話に加わってる。こういう場に慣れてるみたい。あの人は《ロード・ペンタクル》とも呼ばれてるそうだよ。今でもほとんど壱番世界で暮らしていて、お仕事してるんだって。それと……手品が得意なのかな? あの金貨を指のあいだにくぐらせるやつ、すごいよね」 おもてむき、それは華やかな宴の席としか見えない。 そこにどのような思惑が渦巻いているか、まだ誰にもその全貌は見えていないのだ。~風のゆくえは~ リベルは、飲み物を手に、中庭を取り囲む回廊に用意された長椅子にそっと座った。 さりげなく、あたりに目を配るが、やはり、レディ・カリスの配下が、城の内部への出入りについては目を光らせている様子である。「気になるのか」 シドが話し掛けてきた。「この城のどこかに、館長と、ヘンリー氏はいるのです」「前館長だろ」「……レディ・カリスは最初からアリッサを館長位につける計画だったと思いますか」「それはないだろう。さっきまでホワイトタワーにいれられてた連中の計画にカリスは乗っかったんだ。アリッサが最初の予定通り前館長から秘密のすべてを聞かされていたら、アリッサがなにか事を起こしていたに違いない。その秘密の中身がわからないから、それ以上の予測は無理だが」「レディ・カリスを信頼してもいいのでしょうか」「わからんねえ。今すぐアリッサをどうこうしようとは思っちゃいないみたいだが……」 司書たちは語る。 少なくとも言えることは、今日のこの花見を境に、世界図書館の体制は大きく変化したのだということだ。そうとは思えないほど日は穏やかで、咲き誇る花は美しかったとしても。
~花宴の日~ 「うっわ~……0世界って、ファンタジーだ……」 日和坂 綾がそんな感想を漏らしたのも無理はない。 中世ヨーロッパを思わせる城の中庭には桜が咲き乱れ、その下に集うのはさまざまな姿の客たち。 花吹雪の下に用意されているのはビュッフェ形式の料理で、どれも王侯貴族の晩餐を思わせる豪華なものだった。 もともと「花見」は、壱番世界の日本の行事であるから、と、今日は特別に和食も並んでいる。 「如何ですか」 「あ、ありがとう」 給仕がさし出してくれたシャンパングラスを手に取る。 木陰で楽団が演奏をしているのを、うっとりと眺めた。 「凄い……凄い、凄い!」 「楽しんでるみたいね」 ホワイトガーデンがにこりと微笑んで話し掛けてきた。 「まるで絵本に出てくるお城のパーティみたい」 「お城のパーティには違いないわ」 「……あちらの方々が、ここの王族なのですか?」 ふたりの会話に加わってきたのは、ギー・ビアンネートルと名乗る青年であった。 なんでも、彼はごく最近、0世界に来たのだという。 「王族とは少し違うけど、似たようなものかしら」 ホワイトガーデンはやや微妙な表情を浮かべた。 「なにか複雑な事情がありそうですね」 「……」 「花見はいいものなのだー。人間の文化でも、好きな文化の一つなのだー」 みかんの皮で作った龍のような、奇妙な生き物が、テーブルのうえを走っていった。 みかんどらごんのガン・ミーである。 「食べる?」 綾がガン・ミーに花見団子を食べさせてやった。 その姿を微笑ましく見つめるホワイトガーデン。それらを横目に、ギーは、頷いた。 「素直に花見を楽しませて貰いますか」 そう――。 なにはともあれ、今日は花見の宴なのだ。 ~promotion:新館長アリッサ~ 「あなたのお父様は健在よ、そして、元館長が100%犯人だとは言えない別の人間の可能性があるわ」 流鏑馬 明日がそっと告げる。 アリッサが中庭へ足を踏み入れる前に、彼女の袖を引き、明日は、その時の状況を克明に語った。彼女はヘンリー発見時の状況を知るものの一人だ。 「……ありがとう、明日さん。レディ・カリスもおじさまが本当に犯人かどうか確証はないのだと思うわ。でも……そうね、とにかく、教えてくれてありがとう。私、行くね」 そう言いおいて、アリッサは歩き出す。 彼女が姿を見せると、場の視線がアリッサに集中し、大勢のロストナンバーが寄ってくる。 『世界図書館』新館長アリッサ――。 突然、その地位につき、父は目覚めぬ眠りのなかにいる。その後姿を、明日はじっと見つめた。 たくさんのロストナンバーが、順々に、アリッサに挨拶をし、館長就任の祝辞を述べてゆく。 「どもどもー。この度の館長就任の報、心よりお祝い申し上げます。ぶっちゃけ可愛い館長の方が、やる気出ます」 ハギノがそう言って、アリッサから笑みを引き出した。 「……なーんか浮かない顔だね?」 「そんなことないわよ」 「そう? まぁ、あれを見なよ。みんな花見が楽しそうじゃん? ああいう場所を作ったり守ったりが館長の仕事なわけですよ。……今までと、何か違う? 思う通りに、やりゃーいーのさ」 「そうね。努力するわ」 「ま、今まで館長代理って事でやって来たんだろ? それが正式に館長になっただけさ、あんまり気張んなって!」 ツヴァイが、コレット・ネロをともなってやってきた。 「それに館長になったらやりたい放題だぜ? ……前館長の釈放だってさ」 「うーん、それはちょっとどうかな……」 「あ、そうそう。コレットがサンドイッチ作ってきてくれたらしくてさ、アリッサもどうだ? 一緒に食おうぜ!」 「お口に合えばいいけど」 「わ、嬉しい。じゃあ、みんなでいただきましょう!」 会場の一角に、アリッサのためのテーブルが用意され、入れ替わり立ち代わりロストナンバーたちがやってくる。アリッサはかれらに飲み物・食べ物をすすめながら、それぞれの言葉を受け取っていった。 「新館長って、絶対大変だと思うの。パティ難しいことはあんまりわかんないけど、アリッサなら出来ると思うけど、でも絶対大変だと思うの。だから、今は遊ぼ、パティ、ううん、みんなと!」 「ありがとう。だいじょうぶ、充分、楽しんでるからね」 「なんかよく分かんねーけど、偉くなったんだよね? おめでとう。多分さ、みんなが応援してると思うんだ。だから、オレたちのこと、頼っていいんじゃない?」 「私も、無理はしすぎないようにと言いたいです。忙しくても、泣いたり笑ったり出来る場所や時間はちゃんと確保してくださいね。そうしたら、アリッサさんなら館長も大丈夫ですよ」 「うん、気をつける」 パティ・セラフィナクル、風峰 爽太、ローナの言葉に応える。 虎部 隆は寄せ書きの色紙を持ってきた。 色紙には、アリッサを応援するメッセージがびっしりと書きこまれ―― 「え~、なにこれ、ぜんぶ署名が虎部さんだよ?」 「バレたか! そうだ、全部、俺だ!」 ごていねいに、筆跡は変えてあったが一人で書いたようだ。 「俺からの『頑張れ』ってこと。でもチャンスだぜアリッサ! 分からんだらけの0世界、館長なら何でも調べられる。重責だろうけど俺がついてるぜ! これからも呼べば壁を伝ってでも行くからさ! 多分」 「心強いわ。……多分」 「俺も」 西 光太郎が言った。 「俺は今回の騒ぎにはかかわってなかったけど、何があっても俺たちはアリッサの味方だ。だからアリッサは思うようにやればいい」 その言葉に同調するものは多いようだった。 「開き直って頑張るしかないっスよ。アリッサさんなら、色んなことも乗り越えられると思うっス。こんなに、周りに仲間が居るんスから。不安があったら、遠慮なく喚き散らすといいんじゃないスか? もちろん、おれも聞きます」 と、マッティア・ルチェライ。 「僕はアリッサじゃないから、アリッサがどう思ってるかまではわからないけど。声を掛けてくれたら、いつでも相談乗るよ、この前のイタズラ会議みたいにさ! だからこれからもよろしく、アリッサ――館長、って呼んだほうがいいかな? なんて、堅苦しい呼び方はまだ慣れないかにゃー?」 アルド・ヴェルクアベルが笑った。 「多くの人が貴方に多くを求めてくるだろう」 イェンス・カルヴィネンが語る。 「早く大人になるよう、館長として相応しくなるように、と。だが下手に焦ると裏目に出る場合があるだろう。貴方を助けてくれる人、周りの人の意見をよく聞いて、活かしていってくれたらと思う」 黒葛 一夜が頷く。 「貴女にはこんなにも沢山の助けてくれる人がいることを忘れないでくださいね」 「わかってる。……でも黒葛さん、なんかそわそわしてない?」 「あ、いえ。妹を残してきたものですから」 「?」 「……あの、すみませんが、妹が心配なので失礼。本日はご挨拶までということで」 そそくさと下がる一夜と入れ替わりに、やってきたアラクネがちいさなポプリをくれた。 「わあ、可愛い」 「作ってはみたが、男が持つにはかわいすぎるので」 「手作りなの? この桜の刺繍も? アラクネさん、すごいねー」 「……。俺からはひとつだけ」 アラクネは言った。 「この先どれだけ時間が過ぎて、今の仕事に自信が持てるようになっても“初心”だけは忘れるな」 「……。ええ」 「それは大事なことだ」 荷見 鷸が同意する。 「きみは悪戯が上手いだろう。それは仕掛け方を判断できる、見る目があるということだ。手を貸すものも多いのだろう。それはきみに魅力があるということだ。頼りになる友人もいるだろう? ……だから。突然、自分を変える必要はないのではないかね。ただまわりを良く見て、良く聞いて、良く考えることだ」 「覚えておきます」 「なに、大人ぶって言ったが、きみの方がずっと年上だ、私が言うのもおかしいのだろうが」 「そう――ですね」 アリッサは笑った。 新館長となっても、その笑顔には変わりがなかった。 フォッカーとティリクティアがやってきた。 ふたりは今回の「恩赦」により解放された身だ。 「館長殿、この度は寛大なる処置感謝いたします……なーんてにゃ」 かしこまって挨拶をしてから、フォッカーが笑った。 「おいらはどうも改まった話し方は下手だから、いつも通りで勘弁にゃ」 「もちろん。……ごめんね。みんなには迷惑をかけたわ」 ぴん、とフォッカーのひげが立った。 「そんなことないのにゃ。……おいらはさ、これからも思うようにすればいいと思うにゃよ。それが間違ってたらさ、カリスや皆で止めるしにゃ」 「今度みたいに? 正直、レディ・カリスには勝てないな~って思っちゃったかな」 「ね、アーカイヴで私が渡したお茶会のセット、あれは使った?」 ティリクティアが訊ねる。 「ごめんなさい。結局、あのままになっちゃったわ。そうだ、返さないとね」 「いいの。あれは、レディ・カリスとでも一緒に使って」 「……」 「よろしいですか」 オペラ=E・レアードがそっと加わってきた。 「お話、聞こえてしまったもので。カリス殿も貴方を案じておられる。……何故だかそう感じられるのです」 「……きっとそうね。私、レディ・カリス……いいえ、エヴァおばさまのこと、誤解していたのかもしれない」 「よろしければ、新館長の門出に、祝福の歌を」 「お願いするわ」 オペラが歌う。 荘厳な賛美歌を思わせる歌声だ。 「……あのとき、私の言ったこと、覚えてる?」 歌の邪魔をせぬよう、低い声で、ティリクティアは言った。 「ええ。希望はある――そうだったわね」 「未来は幾多の選択肢の先にあるの。だからどんなときでも希望はあるわ。今は信じて、進みましょう。皆と一緒に」 「ありがとう」 そんなアリッサにそっと近づく、ベルファルド・ロックテイラー。 「もし――もしもだよ、こんなのいやだ、って思ったら」 彼は言った。 「……逃げない? この前みたいに、さ♪」 「そうねえ。そうなったら、またレディ・カリスは大慌てね」 アリッサは笑ったが、やがてかぶりを振った。 「でも逃げない。大丈夫よ。私を助けてくれる人たちがたくさんいるから」 「そうか。……でも、その気になったなら協力するよ。共犯者Bとしてさ」 アリッサへの謁見の列は、まだ終わらないようだった。 接し方もさまざまだ。 ジャック・ハートはいつもの様子で、 「ヨッ。館長就任めでてェなァ、ギャハハハハ!」 「きゃっ」 乱暴にアリッサの頭をぐりぐりなでてみせた。 「ひどーい」 アリッサは言ったが、ジャックのふれた手から、彼の念話が流れ込んでくる。 (それでも、だ。館長になったおかげで、出来るこたァ増えたはずだゼ? 名目さえ立ちゃァトレインウォーも起こせる。泣かされた分はやり返せ。館長が笑えるようになるまで、何度だって付き合ってやっからよォ?) ~castling:レディ・カリスの眼差し~ アリッサのテーブルからすこし、離れて。 回廊の柱が落とす陰の中に、レディ・カリスは席をしつらえさせていた。 「見事だわ」 「ありがとうございます」 サシャ・エルガシャの淹れた紅茶を、カリスは褒めた。 「カリス様はヴィクトリア朝倫敦のご出身なんですか? では、あの、ひょっとして旦那様の事をご存じだったりしませんか?」 サシャは覚醒年代で言えば『ファミリー』たちと時期が近い。そして出自もだ。 サシャの告げた名を、カリスは記憶の中で探っていたようだが。 「心当たりがあるような、ないような……貴方も知っているでしょうけれど、貴族は大勢いたわ。それにベイフルック家は爵位もないから、さほど高貴な社交の場にかかわれていたわけではないのよ。力になれなくて申し訳ないけれど」 「いえ、そんな」 レディ・カリスと話をしたいと望むロストナンバーも多いようだった。 「御機嫌麗しゅう、イングランドのキャサリン王妃」 鰍はそんな呼びかけをする。 「私をそう呼ぶからには言いたいことがおありのようね」 「今も尚、王を愛していらっしゃいますか?」 「『キャサリン王妃』は、愛していたでしょうね」 「では、アン・ブーリンは」 「戯曲では、アン・ブーリンが王女エリザベスを産んだところで終わっている。でも史実ではその後のアン・ブーリンの生涯は悲惨だわ。戯曲の筋立てのほうが優しい……そうは思わなくて?」 「本日はアリッサ殿の館長就任をお祝い申し上げる」 「そしてこの度は、このように盛大な宴の席にお招き頂き、有り難く存じます」 ガルバリュート・ブロンデリング・フォン・ウォーロード、そしてオルグ・ラルヴァローグが相次いで、彼女に礼を尽くす。 業塵は、先のトレインウォー……いや、「お茶会」で出された薔薇のスイーツの礼を述べた。 「レディ・カリスが館長の後見として立つのならターミナルも安泰であろう。……0世界が揺らぐ事態だけは避けるよう努めて頂ければ」 「ええ、私もそのつもりよ」 「しかしなぜアリッサの後見人に?」 オルグが訊ねた。 「あら、おかしいかしら。館長代理が館長になったとはいえ、あの娘ひとりで負えるとは、理事会の誰も考えなかったのだもの」 「……それは優しさ? それとも……」 ぽつり、と、アルベルト・クレスターニがつぶやいたのを、カリスは聞き逃さなかった。 「私が何かを画策したと?」 「……失礼。今の言葉はお忘れ下さい」 アルベルトはいつになく神妙な顔つきだった。 彼も組織で相応の立場にいた男だ。「後見人」という名目で、表舞台に立たずして権力を握るということなど枚挙にいとまがないことは知っている。 「そもそも、であるが」 ガルバリュートが口を開く。 「館長が失踪した後、なぜ他の『ファミリー』が代理を務めず、そのように資質が疑問視されるアリッサが代理となっていたのですかな。カリス殿でもよかったはず。あるいは前館長のご家族とか」 「エドマンドの両親はすでに他界しているし、兄弟はいないわ。そうね、従兄弟のロバートなら立派に館長を務めたでしょうけど、彼も忙しいから。あのときはこのようなことになるとは誰も気づかなかったというのが、本当のところでしょうね。私もあのときに手を打っておければよかったのだけど」 「恐れながら」 ヌマブチが直立の姿勢で訊ねた。 「今後はどのように世界図書館の運営に携われるのか。例えば館長と、貴方の意見が違うことも、理事会と意見が食い違うこともありましょう。上の意見が一致しない場合、被害を被るのは我ら枝葉末節。……お尋ねしたい。複数の意見が挙がった場合、世界図書館は何を指標とするのか」 「それは最終的には館長が決定権を持つわ。でも理事会が館長を罷免することもありうる。……けれど、私とアリッサはうまくやれるでしょう。アリッサもそのことは理解しているはず」 カリスの言葉は、ヌマブチの疑問に直接答えてはいないが、彼女は自信ありげに思えた。 「ところで、前館長についてです」 オルグが続ける。 「ターミナルに身柄があり続けるのなら、あの《狼》は不要かと存じますが」 「そうね。そのとおりだわ」 話題は、前館長エドマンドの処遇をどうすべきかということに移っていた。 「差し出がましいかもしれませんが……前館長もアリッサ館長の後見人ということでは。彼の持つ知識や教養、実務能力は、アリッサ様の手助けになると思うんです」 と、サシャ。 レディ・カリスは笑みを浮かべた。 「……皆はどう考えているのかしら」 それを受けて、ロストナンバーたちが次々に発言する。 「今、オルグの言った、彼の身の異変は治すことができるのか。それ次第だと思う」 とデュネイオリス。 「理事会が了承するならむろん可能よ」 「病が去らぬなら、あなたの城においておくと良い」 ジャン=ジャック・ワームウッドが言った。 「一度破られた白の塔より、あなたの下が安全だろう」 ジャンの肩のうえで、オウムのビアンカが大きな声で叫ぶ。 「そして新しい女王に三の三〇倍の歓迎を!」 ハクア・クロスフォードも、前館長は赤の城で監視下におくのが適当と提案した。 「ただ、あの《狼》は危険が及ぶ。呪いは解いたうえでのことだが。……ところで、貴方が一番護りたい者は何かな」 「そうね……私はいったい何を守ろうとしているのかしらね……」 ハクアはひそやかに、レディ・カリスに封筒を渡した。 「これにて失礼。見事な桜だった。貴方もゆっくりとご覧になるよう。誰にも邪魔されずに」 「……」 レディ・カリスはちらりと封筒の中身を確認する。 「……私に誰と話せと? まあ、いいでしょう。これはいずれ使わせてもらいます」 「お初にお目にかかる。麗しきレディ・カリス、私はアインス。以後お見知り置きを」 アインスがやってきて、優雅にひざまづくと、レディ・カリスの手の甲にくちづけた。 「前館長の処遇について意見を求めておられると聞いて」 「ええ。なにか考えが?」 「貴女は、前館長がもはや世界図書館の館長に値しないとしてその地位を剥奪された。私も同意見だ。ついては……彼に関しては、単なる一ロストナンバーとして釈放すれば良いのではないか?」 「釈放ですって」 カリスは笑った。 「彼にはヘンリーを刺した容疑がかかっているのに?」 「ヘンリーさんが犯人を名指しにした訳じゃないだろ」 坂上 健が発言した。 「たしかにそうね」 「だったら。エドマンド前館長の0世界内での一定の自由と安全を保障したっていいじゃないか。トラベルギアだけで言うなら、レディ・カリス、あんただって充分容疑者だ」 「あら、それは言い過ぎだわ。ヘンリーは密室で刺された。私はエドマンドのトラベルギアなら空間を飛び越えてヘンリーを刺すことができると指摘したまで。ええ、もちろん、密室をつくりだせるロストナンバーなら他にもいるでしょうけど、この200年、ベイフルック邸へ向かったロストレイルの乗車記録には該当者が見つからない」 「だからって凶器だけで決め付けるのは信憑性がないって言ってるんだよ……自白があっても」 「……あなたは素直な子ね」 ふいに、レディ・カリスは言った。 「まるでアリッサのよう。いいこと。犯人が本当に誰であるかより、大切なこともあるの」 「それは……」 「貴女の望むままにしてみては?」 ファーヴニールだった。 ずっと傍で機をうかがっていたように、彼の発した一言はいやに大きく、あたりに響いた。 ファーヴニールは、他の『ファミリー』たちが、それぞれの会話の輪にいながらも目ざとくカリスに意識を向けたことを察する。 カリスは真顔になった。 「……エドマンドは、ここにいるべきではないでしょうね」 やがて、吐き出すように出てきたのはそんな言葉だ。 「失礼、レディ」 ジョヴァンニ・コルレオーネだった。 「貴女はフェンシングの達人と伺った。ワシも腕に覚えがある。老いぼれの手慰みに付き合ってはくれんか」 「今日ここで?」 「左様。ワシが勝ったら……そうさのう、前館長に釈明の場を用意するというのはどうじゃ。容疑者の言い分も聞いてみたいしの」 「面白いけれど……あいにく、私はアリッサとは違って賭けはしないの。その提案は私に何の利もないことだわ」 「それは残念」 ジョヴァンニは肩をすくめた。 ~gambit:『ファミリー』たち~ 「素晴らしい宝石ですね」 ジュリアン・H・コラルヴェントは、その婦人にそっと話しかけた。 「ええ、本当に」 近くで同じ機会をうかがっていたらしいシレーナも同意する。 「すべてご自分で? 確かな目をお持ちだ」 「まあ。わたくしを褒めてどうしようと言うのかしら」 ジュリアンの言葉に、その婦人――ヴァネッサ・ベイフルックは笑った。 彼女は目も眩むような宝石類を身につけている。悪趣味ぎりぎりのところでとどまっているのは、ジュリアンの言うように感性の賜物だろうか。 「とてもお似合いです。ドレスも素敵。これだけのものを着こなせる人はそういないと思います」 シレーナが、普段の彼女よりずっと丁寧な口調で述べるのを、ヴァネッサは心地良く聞いているようだった。 「社交辞令でも嬉しいわ。今となっては宝石(いし)を集めるのがわたくしの唯一の慰めなのですもの。最近は異世界のものを集めるのに凝っているのよ。エヴァは、それはあまりやりすぎないほうがいいと言うんだけれど」 「エヴァ……様とは、レディ・カリスですね?」 思いもかけず、聞きたかった話の糸口が掴めそうで、ジュリアンの瞳に光が宿る。 「お恥ずかしながら、混乱気味で……失礼ですがレディ・カリスとはどういうご関係に?」 シレーナの傍に控えるように立っていたB・Bが訊ねた。 「ベイフルックとエルトダウンの家のことなら無理もないわ。複雑ですものね。エヴァはわたくしの兄の娘――姪ということになるわね」 「貴方はあの方と親しいようですが」 「わたくしの相手をしてくれるのはあの娘くらいだわね」 ジュリアンの言葉に、ヴァネッサは自嘲めいた表情を浮かべた。 「……レディ・カリスは、実際、どういう考えを持っているんです?」 「どういう、とは?」 「たとえば、今回の新館長就任のことですよ」 と、B・B。 ああ、そのこと、とヴァネッサはさして興味もなさそうに言った。 「エヴァは真面目な娘だからきちんとやりたいのでしょ。ああいうことはやりたいものに任せておけばいいの。アリッサはまだ子どもだけれど、エヴァが後見をするならいいのじゃないの、とわたくしは言ったのよ」 「前館長の処遇はどうすべきと?」 「難しいところねえ。お咎めなしというわけにはいかないでしょうし。それも含めて、わたくしはエヴァに任せておけばいいと思っているのよ」 ヴァネッサの言葉に嘘はないように思われ、また、彼女の態度は、面倒事にはかかわりたくないという気持ちを滲ませているようだった。 「桜の花はお好きではございませんか?」 細谷 博昭は、エイドリアン・エルトダウンという名の紳士に声をかける。 「これらはナレッジキューブで創られたものであり、厳密に言えば本物の桜ではございません。ですが、元いた世界を見失った私にとっては縁(よすが)となるものです。私は桜を見るたび思うのです。我が国の桜は何度咲き、散ったのか」 「……花は美しいと思いますよ」 エイドリアンは静かに応えた。 「ただ――」 「馬鹿騒ぎはお気に召さない、みたいね」 東野 楽園だった。 スカートの裾をそっと摘まんで挨拶。 「ごきげんよう」 「ごきげんよう、お嬢さん。左様。私は騒がしいところは苦手だ。この花にも似合わない」 「確かに、桜の花は静かに眺めたいものですな」 細谷は同意した。 「貴方は作曲家だと聞いたわ」 「耳が早いようですね、お嬢さん」 「そうなのですか。私がいた国では桜は古より親しまれ、桜にちなんだ楽曲も数多くございます。聞いていただきたいものですね。それに、あなたのお作りになった曲も」 「私も興味があるわ。ね、クラシックはお好き? 私は好き。父の影響でね……」 エイドリアンはすこし耳をそばだて、そして言った。 「今、あの楽団が奏でているのが私の曲ですよ。……レディ・カリスが気を利かせたようだ」 桜の枝の下の楽団を指した。 楽園はすこしその旋律に耳を傾けると、澄んだ声で歌い始めた。 むろん即興だが、舞い散る桜の花びらの下、歌う彼女の姿に、エイドリアンははっとしたようだった。 楽園の歌に、近くにいたロストナンバーたちも注目する。 その中に、三ツ屋 緑郎の姿もあった。 「エイドリアンさん……でしたよね」 「そうだが」 「ジェーンとエヴァの両親のことを知りたいんです。ご存知ですか?」 「ジェーンとエヴァの……? さて……かれらは今の『ファミリー』にはいないはずだ」 「そうなんですか。ファミリーになるには血筋と婚姻以外の何かが要るの?」 「そうではない。われわれが契約したとき、すでに他界していたということだ。ジェーンもそうだったはずだ。どんな人物だったかは……すまないが、私はベイフルックの家のことには詳しくなくてね」 「初対面で不躾な質問、謝罪します。僕は各世界で不穏な行動をする謎のロストナンバーが、抹消された元ファミリーではと考えています」 「……抹消? きみは何を言っているんだ?」 緑郎の、カマかけに、エイドリアンは何もかかってこないようだった。 そうこうしているうちに、曲が終わり、楽園は拍手に囲まれている。 優雅に一礼をし、そしてエイドリアンに微笑みかける。 「良い曲だわ。奥様は幸せものね。こんな素敵な贈り物が貰えるのだもの」 「妻のことを?」 エイドリアンは驚いて言った。 「いいえ? ただ、奥様がいらっしゃると聞いたから」 「ああ、そう……」 細谷は横目で表情をうかがう。この紳士は、いくぶん神経質なところがある。芸術家ゆえの感性というやつだろうか。 ととと、と、花の下を一匹の猫が駆けていく。 青みがかった銀の毛並み、猫の姿のハルシュタットだ。 「こんにちは! きみ達も、おれのお仲間なのかな」 元気よく挨拶する相手は、透き通った猫たちである。 かれらはハルシュタットに驚いたのか、あるものは、ふうっと唸り、あるものは飼い主である老婦人の陰に隠れる。ダイアナ・ベイフルックと呼ばれる婦人は、椅子にかけ、ニコニコとその様子を見守っていた。 「透明な、猫……触ってみたい。触っても、いい?」 「私も、いいですか?」 「わたしも!」 ディーナ・ティモネンと、春秋 冬夏、そして仁科 あかりが興味津々と言った様子で近づいてきた。 「ええ、どうぞ」 ダイアナの許しを得て、ディーナはそっと触れてみる。 「え……なにこれ、不思議」 透き通った猫には実体がないのかと思っていたが、触れることができた。感触は猫と同じ……と、思っていたら、ふいに、指がその毛並みをするりと通り抜けることがある。実体があったりなかったりするようだ。 「うみにゃーうにゃー、うにゃみーみー」 いつのまにか、シーアールシー ゼロが四つん這いになって猫と会話(?)していた。 「透き通った猫さんは、食物も透き通っているのでしょうか? ゼロみたいに何も要らないのでしょうか?」 真顔でダイアナに訊ねた。 「妖精郷の花や果物を食べるのですよ」 にこやかに、老婦人は答える。 この老婦人は、夫であるリチャード・ベイフルックとともに『虹の妖精郷』なるチェンバーに暮らしているという。 「へえ、どんなところなの?」 ハルシュタットは聞いた。 「森と湖と、お花畑のある、とてもきれいなところですよ」 「今度、行ってみてもいい?」 「……妖精郷には、いろいろ決まりがあるから、いつでもというわけにはいきませんけれどね」 「そうなの?」 「妖精郷には、リチャードさんが引き取った子どもたちも暮らしてるんでしょう?」 と冬夏。 「ダイアナさんもお世話を?」 「ええ。私たちは子どもたちと猫たちと暮らしているのですよ」 「……ダイアナさんは、前館長のことはどう思ってるんですか」 「エドマンド坊やね。あの子はちょっといたずらが過ぎましたねえ」 ダイアナは眼鏡の奥で目を細めた。 終始、彼女の顔からは笑みが消えることはない。 「決まりは守らないとね。いたずらをしたのだから、おしおきは受けることになるでしょうねえ」 「……おしおき……」 「ジェーンさんって人のことは? ロストナンバーだったの?」 ハルシュタットが訊ねた。 「ジェーンは残念ながら契約することなく亡くなってしまったわ。いい娘だったのだけど」 「あの……ちょっと気になることを聞いたんですけど」 と、仁科あかり。 「ずっとロストナンバーでいると自分の周りの事にしか関心がなくなるって噂――、本当ですか?」 「……ロストナンバーに限らず、人はそういうものではないのかしら?」 「え、でも……友達じゃないから『何してても別に良い』って感覚はちょっと寂しくないかなーって」 「そうではないのですよ。それが寂しいとさえ、もはや思わないのです」 「え……」 ダイアナはそれでもニコニコとしていた。 「その猫たちはどうしてそこにいるの?」 ふいに、新たな声が加わる。 アンティークドールのような黒いドレスの少女、オフィリア・アーレだった。 猫たちが何匹か、彼女とダイアナのあいだにさっと割り込んで、透き通った背中の毛を逆立てた。 「わたしは友だちに付いてきたのだけど……ひどいのよ。おいてどこかに行ってしまったわ。猫たちと貴女はお花見に来たの?」 そして、猫たちの探るような眼差しに気づき、 「……そう。守っているのね」 と、つぶやいた。 「リチャードさんは子ども好きな慈善家とうかがいました」 同じ頃、三日月 灰人はリチャード・ベイフルックに話しかけていた。 「慈善家というほど立派なものではないがね」 灰人は、自分も壱番世界で孤児院を営んでいたのだと話した。そしてここ0世界でも、ターミナルの孤児院の仕事を手伝っているのだと。 「……私は壱番世界に妻子を残したままです。私がエスポワール孤児院で働いているのは、その代償行為ではないかと……そう思うときがあります」 「それでもよいのではないかね」 恰幅のよい老人は、白髭をなでながら言った。 「どのような動機であれ、きみに救われている孤児がいるのであれば」 「そう――でしょうか」 「初めましてぇ!!」 ふたりの会話を割って、ぬううっと、それがあらわれた。 「貴方の死体でぇす」 「……」 「……」 モック・Q・エレイヴだ。 正確には、リチャードの姿形を真似たモック・Q・エレイヴである。 「……う、受けなかった!」 地味にショックを受けている(?)モックに、リチャードの視線は冷ややかであった。さらに灰人が、 「失礼ですよ」 と、追い打ちをかける。 「うううう」 バラバラとモックを構成するブロックが解体して崩れてゆく。 「初めまして、おじちゃん。私、リーリスって言うの」 その隙に、そっと近づいてきたのがリーリス・キャロンだった。 愛らしい微笑みを見せ、挨拶をする。 その紅い瞳のあやしいきらめきに、気づいたものがいたかどうか。 「おじちゃんのチェンバーには、子どもがたくさん居るって聞いたの。今度、遊びに行かせて貰ってもいいかなぁ――」 そのときだ。 「!」 「きゃ」 リーリスは悲鳴をあげた。あくまでも歳相応の、少女があげる悲鳴を、だ。 「……おやおや、これは失敬。お怪我はなかったかな?」 リチャードとリーリスの間に、一匹の猫がいて、リーリスをにらんで唸っていた。 半分、透き通った猫だ。 「……」 あとからあとから……猫たちはあらわれて、リチャードを守るように取り囲んだ。 「ボクも子ども好きだなー。友達になりたいから連れてってくんない? ……ねえ?」 モックが形を取り戻してリチャードにねだる。 「……ロストナンバーの諸君はイタズラが過ぎていかん」 リチャードはモックとリーリスを見比べて、言った。 「わが妖精郷は平穏な世界であってほしいのでね。……大人しくしているなら、いずれ機会はあるだろうて」 金髪の美丈夫、ロバート・エルトダウンを捕まえたのは相沢 優だ。 かれらが会話を始めると、やはりロバートと話す機会をうかがっていたロストナンバーたちが集まってくる。ロバートはいかにも社交的な人物然としてかれらを迎え入れた。 「《ロード・ペンタクル》と呼ばれているとうかがいました。その金貨が、ロバートさんのトラベルギアなのですか?」 「これ? ああ、いや、これは単なる手遊びの玩具」 金貨を手のひらに握りこみ、開いてみせれば消えている。それを、優の襟元から取り出してみせた。 「手品が得意なんだな。俺もイカサマじゃ負けねえぜ」 と、リエ・フー。 なにも持っていないことを見せてから、その指の間にサイコロを出現させる。 「ふたりともお見事ですわ。でもここは本職に譲ってくださる?」 バーバラ・さち子が、ぽん、と花束を取り出し、ロバートに捧げた。 しばし、なごやかな会話が続いた。 「ロバートさんは壱番世界でお仕事をされているとか。永く活動を続ける秘訣はありますか?」 仲津 トオルが訊ねた。 「僕は定期的に世間的には引退をして名を変えているよ。厄介だが仕方がない。それも含めて、計画的に事を運ぶことだね。きみもターミナルにひきこもりたくない口かい?」 ロバートが逆に訊ねる。ロストナンバーとなって長く経つと周囲と外見差ができてくるため、コンダクターであっても壱番世界を離れ、0世界に拠点を移すものが多い。ほかの『ファミリー』はそうであるのに対し、ロバートは今もほぼ壱番世界で暮らしているというのだ。 「壱番世界でできるだけ長くボクの商売を続けることがボクのベストですもの。……だから、その壱番世界が、滅びから逃れるにはどうしたらいいと思います? 裏切るまでした前館長の着想には興味なし?」 「わたしも気になりますわ。前館長のこと、どう思ってらっしゃるのか」 「僕こそエドマンドのいちばんの理解者ですよ。『ファミリー』の中で、壱番世界が今の形で存続しないことでもっとも打撃を被るのが僕なんですからね。その意味では、もっとエドマンドを支援してあげるべきだったと悔いています。けれど彼はどうにも秘密主義で人に協力を求めないものだから。もう少しうまいやり方がなかったのか……残念ですね」 ロバートはなめらかに言った。 心からそう思っているのか、用意した答えなのかは判別がつかなかった。 「『世界図書館』は何をなすべき組織だとお考えかしら」 と、バーバラ。 「よい質問ですね、ミズ。実際、ここまでの規模の集団になるとは、僕たちが契約した時点で想像がついていなかったもので。この機会に、そのあたりをはっきりすべきだと思いますね。僕はもっと自由でもいいと思うのだけれど。レディ・カリスはそう考えてはいないでしょう」 「ヘンリーさんはご存知ですか。彼の建てた館の不思議な力のことは」 優が聞いた。 「ヘンリーくんか。彼はベイフルックの呪いに巻き込まれた男だね」 「ベイフルック家の呪いって何なんです」 「魔女の血筋ということさ。ヘンリーは外から来た婿だから、いっそう、あの一族の抱える闇の深さに気づいたのだと思うよ。だから館を建てた。彼もエドマンドと同じことを考えたが……その時点ではエディと理解し合えなかった。だからエディが行動を起こしたのは、その罪滅ぼしのせいかもしれないな」 「前館長の、《人狼化》は治せないのでしょうか」 「治せるよ。あんなものは大した問題じゃない。もう不要だからそのうち剥がすだろ」 こともなげに、ロバートは言う。 次に口を開いたのは、リエ・フーだった。 「ところであんた、母親似か?」 「何」 瞬間、ロバートの瞳に炎が宿ったようだった。 リエ・フーが顎で指したほうには、エイドリアンの姿がある。 「……父と似ていないという意味かね。確かに。父も婿だしね。その意味で、僕こそ正統にエルトダウンの血を引いていることは誇らしいことだと思っている。……きみたちは僕らの家のことにずいぶん関心があるらしいから教えておいてあげるが、父が今ともに暮らしている女性は僕の母ではないからね。僕らの父母の世代は契約の前に大勢亡くなってしまったんだ。エドマンドの両親、エヴァの両親もだ。だからリチャード翁が実質、『ファミリー』を束ねている。……これが聞きたかったんだろう?」 ロバートは笑った。 「身内の問題ってな厄介だな。吹っ切ったつもりがしつこくついてまわる」 リエ・フーも笑って、会話の輪をすっと離れた。 「……おや」 残されたロバートはポケットを探って、怪訝な顔つきになり、そしてリエ・フーの去った方へ視線を投げた。 由良 久秀は、『ファミリー』の面々を中心に、花宴の様子をカメラに収めていた。 写真は時に、互いの関係性まで写しとることがある。 その日、彼が気づいたのは、ロバートは他のすべての『ファミリー』と会話したのに、父・エイドリアンにだけは話しかけなかったこと、エイドリアンに挨拶をしたのはレディ・カリスだけで、エイドリアンのほうからは誰にも話しかけなかったこと、リチャードには皆が恭しく接しているということだ。 あと、ダイアナの猫たちは写真には写らない。 小竹 卓也は、全員に接して館長の処遇についての考えなどを確認したいと考えていたが、大勢がごったがえす宴の中で、的を絞らずにあたるのは難しいことだった。 ~zugzwang:赤の城の奥で~ 「はい、本郷幸吉郎です。えー、ただいま私は、この度の台風の目とも言えるお方、レディ・カリス氏の住まい、『赤の城』内部におります。本日はお花見ということですが、外の花々と比較しても全く負けないこの壮麗な廊下! 素晴らしいですねぇ! 今回は私、滅多にお目にかけることのないこの赤の城の内部を、実況中継したいと思います! あっ、赤の城のメイドの方ですか? この度は――おぶっ」 一撃で、本郷幸吉郎はのされた。 「何? ここから先はダメ? ここは興味深い場所だから見せてもらいたかったんだけど。ヒトは入ってはダメなの?」 ヘータも、メイドたちにやんわりと、しかし有無をいわさず押し戻されている。 その日の花宴で、開放されているのはあくまでも中庭の会場だけだ。しかし、目を盗んで城の内部へ入り込もうとするロストナンバーは少なくなかった。なにせこの城のどこかに前館長と、意識不明のアリッサの父・ヘンリーがいるのである。 それぞれの思惑で動いているロストナンバーだったが、特に対策なく入り込んだものは、たちまち城のメイドや執事たちに見つかって追い出されている。 「かんちょ(館長)、お留守番だろ? 一人だと寂しいから、お菓子あげたかったんだー」 アルウィン・ランズウィックの純粋な訴えも鉄面皮の執事たちには通じないようだ。 「ちょっと話をするくらい、なんだっていうんだい」 ベルダがにこやかに言っても、メイドたちはただ、 「ここより先の立ち入りはご遠慮願います」 と硬い声で繰り返すばかりだ。 「……聞こえることを祈るよ!」 押し戻されながら、ベルダは廊下の奥へ叫んだ。 「館長職も下ろされて、犯人にされ…それでも何を変えようとしているんだい? そろそろ、私も巻き込んでおくれよ?」 広大な城のどこかにいる館長に、どの声が届いただろうか? そのときだ、ベルダは頭上をすい、と飛んでゆく影をみとめた。 「……」 誰もが館長と話したがっている。 「なぜ、着いてきたんです」 「だって、わたしも館長と話したいんですもの。ふふっ、ここまでついてくれば、今更帰れなんて言えないわよね、先輩?」 クアール・ディクローズはハーミットの言葉にため息をつく。 そして、ふいに、身を翻すと、すばやく術を施した。 空中にまかれた粒子が光を屈折させ、ふたりの姿を隠したので、通りがかったメイドもふたりに気づかない。 そうして―― 赤の城のあちこちから、姿を隠したロストナンバーたちが城内を探り始めていた。 ツィーダは大胆にもレディ・カリスに姿を変えて部屋から部屋へ。 これはこれでいざとなったら騒動を呼んだかもしれないが、幸運にも誰にも出会わなかった。 ツィーダの目的は城内にある資料――それも機密にあたるものだったが、しかしこれはめぼしいものが見つからず、いささかツィーダを落胆させる。 やはり文書のようなものは、図書館のほうに所蔵されているのではないだろうか。 雪峰 時光は目立たない出入口から城内に入った。 あてどなく歩いているだけでは、しかし館長の居場所はわからない。 そうこうしているうちに、うっかりメイドと鉢合わせしてしまうが―― 響いてきた歌声に、メイドはくたくたと膝から崩れた。眠っている。 「……かたじけない」 あらわれた女性に、時光は礼を言う。 「館長を探しているのだろう。我もだ。我はカンタレラ。行こうか」 そのときだった。 どこかで、不穏な音が弾けるのを、かれらは聞いた。 銃声だ。 「絶対迷いましたよねコレ。見つかったら怒られますよねコレ」 一一 一は城内にいたが、意図して入り込んだわけではなかった。 純粋に、道に迷ってしまったのだ。 そのとき、彼女は前方の廊下に人を見かけた。 反射的に置いてあった大きな壷の影に隠れてしまう。 「……ってなんで隠れてるんだろ。あの人に道を聞こう……」 しかし、その人物は、ふいに扉を蹴破ると、その中にずかずかと入り込んでいくではないか。 なにやらあやしい雲行きだ。 「俺はいい加減、頭にきてんだ!」 男はファルファレロ・ロッソだ。 そして対峙するのは――前館長エドマンド・エルダウンその人である。 「他人の愁嘆場に巻き込まれるほど嫌いなことはないからな」 「……きみは何を言っているんだ」 「リリイのことだ。リリイはてめぇに惚れてる。違うか」 「そんなことを言いに、わざわざ?」 「他に言いたいことなんかあるか!」 ファルファレロの銃が火を吹き、部屋の花瓶を粉砕する。 (あわわわ……) ドアの外では、一が壁に張り付いて、なりゆきに固唾を飲んでいる。 「ああ、もうひとつあったけな」 ファルファレロは言った。 「『ファミリー』の中で一番危険なのは誰だ。……主観でいいぜ。個人的な興味って奴だ」 「危険とはどういう意味かにもよるが……敵に回したくないのはロバートだろう」 ばたばたと足音が近づいてくる。 メイドたちが銃声を聞きつけたのだろう。 「とにかくリリイのことはちゃんとしねぇと承知しねぇからな!」 ファルファレロは窓から飛び出していく。 ドアの外では一が慌てていた。 「ヤバッ! ど、どっか隠れる所……!」 そこへ、燃える翼の燕のような鳥が空を切って飛んでくる。 『こっちだ』 ファルファレロが蹴破った扉から館長を脱出させる。 「きみは……百田くんだな」 ホワイトタワーの脱出を手助けした百田十三の符術だと悟るエドマンド。 火燕に先導され、館長が廊下へ。 一もそれに続いた。 「あ、あの、館長さん――ですよね」 「前館長だ」 「館長殿!」 廊下の向こうから時光とカンタレラがやってきた。 そこへ、なにもない宙空からハーデ・ビラールが出現する。 「奥の広間だ。そこには誰もいない」 エドマンドは頷き、皆でそこへ駆け込む。 「おっと、館長さんかい。やっと会えたじゃねえか」 大柄な壮年の男がかれらを待ち構えていた。 ティーロ・ベラドンナと名乗った男は、わずかに空中に浮かんでいて絨毯に足跡を残していないし、物音も立てない。そうして、ここまでたどりついたようだ。 クアールとハーミットの姿もある。 百田十三――本人はいまだ花見の席にいる――の符術が皆を導いてくれたようだった。 「……今の館長は知ってのとおりアリッサだ。きみたちは私に何の用かね」 「何の用かはないでござろう」 時光が言った。 「このまま貴殿が口を閉ざせば、永遠に知る事の出来ない謎もあるでござろう。壱番世界の屋敷で話そうとしていた事を、もう一度話す場所を設けて貰いたいのでござる」 「何隠してるか知らねえが、何でみんなに言えねえの?」 ティーロが訊ねる。 「やれやれだな。私はそれに失敗したのだぞ」 「そうだ。なぜ怖気付いた!」 ハーデが詰め寄るように言った。 「お前自身の口でアリッサに語れる唯一の機会だったのに!」 「そうだな。その機会は失われてしまった」 「脱出の手助けなら――」 時光が言おうとするのを、エドマンドは制した。 「今となっては、レディ・カリスどころか他の『ファミリー』の注目もある。いいか、きみたちが気にかけるべきはもはや私ではないのだ。アリッサだ」 「そのアリッサを子ども扱いして今まで何も話してこなかったのに?」 と、ハーデ。 「そう。だが他に方法がなかった」 「本当に? たしかにお前から見ればアリッサは確かに何時まで経っても子どもだろう。だが二百年経ってもた だの純朴な存在で居るなどという幻想は捨てるべきだったな。お前たちが隠した真実に、アリッサも私たちもいずれ辿り着く。知らぬ幸福など、必要ない」 「……そうであることを願おう。私にとっての、それが唯一の希望だ」 「それは」 カンタレラが口を開いた。 「我らがもとの世界に変える手段に関係するのか?」 「直接的にはそうではないが……」 「『世界の危機』のことですか」 と、クアール。 「それについても、話せませんか?」 「……チャイ=ブレの望みをかなえることで、滅びは免れるというのが契約だった。だがそれは同時に、契約したものだけが生き残るという意味でもあった。ヘンリーはそれは間違っていると言った。今は……そうだな、私も今はそれは間違いだったと思っている。だから私はチャイ=ブレには頼らない滅びを回避する方法を探そうとした。『ファミリー』はそれをチャイ=ブレへの離反ととらえた。契約を反故にされるのを恐れ、かれらは私を糾弾した。……言えるのはここまでだ」 そこまで語ると、エドマンドは口を閉ざした。 それ以上は話すつもりがないようだ。 『これからどうする』 飛囀――十三の符術のひとつが、彼の声を届ける。 「どうも。私にはもはや自由は残されていないだろう」 『そうか。だが……場所が変わろうとも必ず巡り来るものはある……。それだけは伝えておこう』 「あの」 ハーミットが口を開いた。 「アリッサさんになにか伝えたいことがあれば、伝言します!」 「……」 深山馨は足を止めて振り返った。 「……っと見つかったかね」 深山と同年代に見える――ということは四十前後の――男だったが、対照的に派手な格好だ。 「恩赦にて呼ばれた『大道芸人』でござい」 「こんな城の奥でかね?」 「道に迷っちまいましてね。その言語、そっくりそのままお返しします」 「邪魔をするのでなければ、一緒に行こう。おそらくわれわれは同じ目的――おっと」 深山はここまで、トラベルギアの力を使い、影から影へ渡るようにしてきた。 だが大道芸人とうそぶいた男――ラウロと会話をしているところを、執事に見とがめられてしまったようだ。 「困ります、お客様。ここはレディ・カリスの命令により……」 「許可証ならあるわ」 ウサギのぬいぐるみを抱いた少女、エレナが、最初からそこにいたかのように深山の傍に立っていた。 「許可証……?」 差し出された書類に、たしかにカリスの印章を見て執事は怪訝な表情に。 「さあ、行きましょう、馨おじさま」 深山の手を引いてさっさと歩き出す。 ラウロがちゃっかりその後に付いてきた。 「……偽造(つく)ったのかね」 「最初、きちんとレディ・カリスにご挨拶したのよ。白薔薇をさし上げて、カリスに建築家としてのヘンリーとアリッサのパパとしての彼にひと目会いたいって」 「それは却下された」 「でも彼女は教えてくれたわ。『私の許可証がないと、礼拝堂へは通せませんよ』って」 「なるほど。では私も直に頼めばよかったかな。レディ・カリスは言うほど頭の固い人物ではないようだ」 そこは、城の奥の奥に位置する、静かな一角だった。 ステンドグラスからやわらかな光が差し込んでいる。 3人は、聖人の像が掲げられている祭壇に進み、そこに置かれたガラスの棺を目にする。 「まるで不朽体だ」 深山は興味深くのぞきこむ。 棺の中は薔薇に満たされ、その中に、ひとりの紳士がよこたわっている。 棺を埋めるのは白い薔薇。しかし彼の胸元にだけは真紅の薔薇。 紅い薔薇は胸の傷を隠す意味があるのかもしれないが、まるで白薔薇が彼の血を吸ったかのようでもあった。 ヘンリー・ベイフルックだった。 「この御仁は生きているんで?」 「そうとしか見えないが……」 「胸をひと突き。刺した人には殺意があった。でも彼を死なせない力が働いた。それだけの力なんでもすもの、癒すことだってできたんじゃないかしら。でもそうはしなかった」 「生きてもいないし、死んでもいない。その状態をもっとも望ましいとした《意思》が介在しているということか。……ふむ。それはいったいどういう感情か……。レディ・カリスは自分を主観的な女と呼んだが、さて。私は情のままに動く力こそ、人間の最も美しき部分だと思うけれどね」 ~花宴はつづく~ 「わあ……! すごいね先生。こんなに綺麗なところでお花見ができるなんて、招待してくれたカリスさんにお礼が言いたいね!」 「そうだね、小夜ちゃん」 那智・B・インゲルハイムはにこにこと、桜に目を奪われている黒葛 小夜を眺めている。 桜餅を差し出すと、喜んで頬張る少女にさらに目尻を下げた。 「お兄ちゃん遅いね。わたしたちだけでお花見しちゃって悪いかなあ」 「気にすることはないよ。一夜くんは新館長に謁見に行っているのだし。戻ってこなくたって別にいいんだから。あ、ほら、見てごらん」 「わあ、すごい!」 那智が指したほうでは藤枝 竜が落ちてくる花びらに火を吹いている。 花びらは燃えるながらはらはらと散り、燃え尽きて、ちょっとした大道芸である。 「こりゃ、こがァに美しい花の下じゃァ、火事と喧嘩は無粋なだけじゃろう」 通りがかった灰燕がゆるりと笑った。 火は危ないだろう、と言いたいらしい。 「えへへ、そうですよね。でも花びらが散るのがあんまりキレイだから。あ、アリッサさん、見て見てー!」 アリッサの姿をみとめ、散り積もった花びらをぱっと放り投げる。 桜吹雪だ。 「折角じゃ、お前の花舞も披露するとええ」 灰燕は鳥妖『白待歌(ハクタカ)』を舞わせる。 銀の炎がゆらゆらと、桜吹雪に混じる。その様子は不思議なまぼろしのようであった。 その様子に満足気に、灰燕は盃を干す。 「あの、それは何なのですか?」 シャニア・ライズンは、三雲 文乃に声をかける。 「これ? これはだし巻きというのよ。食べてみる?」 竜が直立したような姿を見れば、シャニアが異世界のツーリストとわかる。 様子からしてまだ0世界に慣れていない感じだ。 「おいしいわ。まだ日が浅くて、知り合いがあまりいないの」 「そう。ならこの場で見つけるといいわ。ちょうどよかったわね」 「ここでは、こういうことはよくあるの?」 「さあ……そうとも言えるし……でも――そうね……そのときどきの風景は、そのときにしか見られないわ。なにも変わらないように見えて、大きく変わるものもある世界ですもの。変わるとしてもなるようにしかならないけれど」 謎掛けのように言う文乃。ヴェールの下から、視線はアリッサたちを遠目に眺めているようだった。 テオ・カルカーデは、リベル・セヴァンと話している。 「新館長はこれまで館長代理でした。何か変わるんですか? 私は私の好奇心を満足させることができればそれでいいです。政治的なことにはあまり興味ありません。どちらかといえば足下の遺跡の方に興味があります」 「それはさほど間違った思いではないでしょう。ただ、アーカイヴ遺跡はみだりに立ち入ることは禁じられていることはお忘れなく」 「……チャイ=ブレってどんな姿をしているのか覚えてます?」 「ええ。数回しか、機会はありませんでしたが」 「私も記憶を捧げるって選択をすれば会えるのでしょうか」 「テオさん」 リベルは言った。 「好奇心は、外の世界群に向けられることをおすすめします。チャイ=ブレのことを詮索しても、得るものはないと思いますよ」 「そうですか? さて」 テオは、おもしろがるように言うのだった。 「赤の王様とアリス、夢を見ているのはどちらでしょう?」 「アリッサさん、形はどうあれ貴女は守られる側から守る側へとなりました。貴女の求める真実への鍵は貴女自身です。……成長と変化とは別である、それだけは忘れないでください」 「覚えておくわ」 アリッサは、アルティラスカの言葉を、文字通り女神の神託のように受け取る。 それだけ伝えると、アルティラスカはすっとその場を離れた。 花霞が覆う空へ、視線を投げる。 花宴はいよいよたけなわ。さまざまな姿形のものたちが談笑する姿を遠目に見ながら、アルティラスカはふとしたつぶやきを唇に乗せた。 「“此処”は多種多様な種族の坩堝、観察するには最高でしょうね……そう思いませんか、チャイ=ブレ」 「悪戯は失敗に終わったようだな、アリッサ嬢ちゃんよォ? いや、今はもう『館長』と呼んだ方がいいのかねェ」 マフ・タークスがアリッサと話していた。 「みんなにそう言われるわ。少しずつでも、慣れていかないとね」 「せいぜい連中の操り人形にならぬよう気をつけな」 真顔で、告げた。 「レディ・カリスのこと? そうね……でも私、彼女は信用してもいいんじゃないかって気もしてる。大丈夫よ、ちゃんと考えたうえで言ってるんだから」 「そうか。ならいいがね。……おっ」 マフがなにかに気づいたようだ。 「……前館長からの『伝言』だ」 「え!?」 それは城内のエドマンドの言葉を、ハーミットがマフに伝えたものだった。 ――アリッサ。旅を続けろ。 「……」 アリッサは、言葉をかみしめるように、しばし目を閉じた。 「……わかったわ。おじさまも、どうか――どうかお元気で」 そっと目尻をぬぐう。 それが別れの言葉だと、彼女は理解しているようだった。 赤の城の盛大な花宴。 それはひとつの旅の終わりの日であり、新しい、別な旅の始まりの日でもあったのだった。
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