神獣の森を貫く一本のけもの道を、傍から見れば少々危なっかしく、自転車が走っていた。バランスが危ういのは、運転者がオカモチを片手に下げているからか、肩に青い帽子の妖精を乗せているからか。クラスメイトPは、ふと自転車を止めて、一本の桜の大樹を見つめた。
「わぁ、あの桜、すっごくおっきいね! 夜なのにひかってるよー」
彼の肩に乗っているリャナが、可愛らしい声で無邪気にはしゃいだ。
「もっとそばに行きたーい。ねえねえ、行こうよぅ」
「うーん、ちょっと……それは……うん」
クラスメイトPは奥歯に物が挟まったような返答をし、桜の膝元に目をやるばかりだ。
「僕が行ったら、ろくなことが起きないし」
「それもそーだよね。……でも、へんなの。いっつも、たくさんたくさんあつまったら、みんな大さわぎするのに。なんか、しずかだね」
「……人が……いなくなっちゃったから。もう、会えない人がいるんだ。だから」
「ふーん」
数十人の市民が集まって、酒を酌み交わしている。しかしそこには、銀幕市のお祭りに不可欠の、喧騒がない。話し声すらなりを潜めている。
トカゲの尻尾を生やした青年――ソルファが、ある方向に顔を向けて、静かに盃を掲げていた。ソルファの視線の先には杵間山の麓がある。その麓には、あの忌まわしい『穴』が開いているのだ。
ソルファが盃の酒を飲み干すと、黙って、ひとりの侍が酌をした。岡田剣之進だ。彼は自分の盃を手酌で満たし、細いため息をついた。
「この街の『花』も、江戸の『花』と変わらぬようだ。これがまぼろしだとは、……とても思えぬ。今は、思いたくもない」
彼は振り返った。背後の、桜の下に敷かれたゴザやシートの上には、悪役会が用意したものの他に、差し入れが並べられていた。今や、差し入れのほうが比重が大きい。三月薺が持参した手作りの料理と、太助が差し入れた漬物は好評を博した。
無遠慮、と言うわけではないが、酒と料理を豪快に食べている偉丈夫に、ちらりちらりと視線が向けられては反らされる。どっしりと構え、余裕さえ感じられるその姿は、蘆屋道満のものだった。
重箱のひとつをきれいに平らげたあと、道満は甘酒の入った徳利をひとつ手にして立ち上がる。
「ゆうじん・うぉん殿がおった筈だが。何処に行かれたか御存知か」
辺りをうろうろしていた式純也に、道満は尋ねる。純也は静かな夜桜を楽しんでいたところを、たまたまこの静かな宴に出くわしただけで、自分はお呼びでない雰囲気に戸惑っていた矢先だ。突然大柄で古風な男に話しかけられて、目を白黒させた。
「あ……ああ。ウォンさんって、白いスーツの? ちょっと怖い感じの? 夜なのにサングラスかけた?」
「以前会うた時は黒づくめであったが、恐らくその御仁に相違ない」
「その人でしたら、中国人っぽい格好の人と、あっちに行きましたよ」
「かたじけない」
のしのしと道満は歩き去り、純也は頭をかきながら肩をすくめた。
「あぁ、ビックリした……」
そのとき、不意に、近くから、ヴァイオリンとトランペットのかすかな音色が上がって、純也をまた驚かせた。さらには、彼の前を、すすり泣きながら横切る褐色の肌の少女。これほど静かなところで、純也はさんざん驚かされ、すっかり挙動不審になっていた。
「ラクシュミ! ラクシュミ知らないか? まったく、いきなりいなくなるなよ」
こちらも褐色の肌の、しかしがっちりとした長身の女が、名前を呼びながら歩き回っている。探している沢渡ラクシュミが、つい数秒前に彼の前を通り過ぎていったことを知らず、大股で式純也の前をかすめていった。
「あー、やれやれ。あー疲れた。どっこらしょ、っと」
シュウ・アルガはずり落ちかけた背中の幼女を負ぶいなおし、苦笑いで輪に加わる。彼に負ぶわれているベアトリクス・ルヴェンガルドは、ぐっすり眠りに落ちていた。シュウが負ぶいなおした軽い衝撃にも、少し身じろぎしただけで、目を覚ます気配は微塵もない。
「よう、司令、親分。ここでもやってるのか。いいねえ」
導次が手にしている盃を見て、シュウはにやりとした。
「一杯もらいたいトコだけど、『陛下』がいらっしゃるからなァ。残念だ」
「『陛下』は随分お疲れのようだな。温泉にいたのかね」
「まあ、あちこち回っててね。態度は陛下でも、やっぱまだ子供だよ。『穴』の調査の日も……」
シュウがそこで言葉を切った。背中の小さな女帝が、また身じろぎして、シュウの肩をしっかり掴み直したからだ。
「俺も行くつもりだったんだけどさ、こいつが熱出してグズってね。……こいつに、助けられたのかもな。こいつがいなかったら、俺――」
「ぅぅ」
ベアトリクスが、ぼんやりと緑の目を開いた。
「ちちうえ」
シュウの肩にしがみついて、彼女ははっきりしない言葉をこぼす。
「ちちうえ、どこにも、いかないで……。ビイといっしょに、いてよぅ……ちちうえ、ぇ……」
「なんだ、親父はお前なんか」
「ち、ちがうっつの。永遠の17歳に8歳のガキがいてたまるか」
シュウは苦笑いして、ベアトリクスをまた負ぶい直した。小さな女帝は、すでに目を閉じて、また深い眠りに落ちている。マルパスはその姿に、温かい視線を落としていた。
「さてと、帰るか、な……。……お? なんか、始まるのか……?」
そして。
誰が初めに、声を上げたのかはわからない。ただ、まるで、誰も桜の花が開く瞬間を知らないように――月がその姿を変える瞬間を知らないように――いつしか、音楽が流れていた。心のひび割れや隙間に、じわりと染み入るような、儚げな旋律。切ない高音と、聞こえないようで聞こえる低音。
邪悪を拭い去り、善なる魂を高みに導く。
それは、レクイエムと呼ばれるものである。
ディズと、彼が籍を置く楽団の演奏が、鎮魂歌の礎となっている。そこに、厳かなヴァイオリンの音色が加わって、主旋律を紡いでいた。ヴァイオリンを駆るのは、朝霞須美だ。まだ若いというのに、彼女の旋律には、確かな技量と熱意がこめられていた。
偶然にしては、都合がよすぎたかもしれない。音楽家として生きる来栖香介がこの場に携えてきたのも、ヴァイオリンだった。須美の音色を追いかけて、香介のヴァイオリンも静かに歌う。それは、輪唱というものだ。
「どうか、お二人が還られるまで、奏でていて」
翠色の衣の裾を引きずり、シャーレイが調べの中に現れて、そっと呟いた。
「お二人がもし、還るべき場所までの道のりを見失ってしまったら、悲しいから。でも、鎮魂の調べと舞で、私たちはきっと、道しるべになれる――」
ディズと須美と香介は、シャーレイの言葉を受け、目で相槌を打った。もっとも、彼らもすぐに演奏をやめるつもりなど、なかったが。
シャーレイは静かに、衣を霞のようになびかせながら、舞い始める。
ノアクティ・スパーニダが、杯を片手に、横合いで恋人の姿を見つめていた。ざああ、と吹いた森と月の風に目を細める。視界をかすめる花びらは、はねのけるつもりもない。
「ほんのちょっと、あんたの大事な人の隣を借りるぜ」
ノアクティの横を、刺青のある美丈夫が通り抜けた。ノアクティが見送った背中は、刀冴のもの。ノアクティは何も言わない。刀冴は剣を抜いていたが、シャーレイを含め、この場の誰かに危害を加えるつもりがないことは、彼の表情を見ればわかることだ。ノアクティに静かな会釈を残し、十狼が刀冴に続いて、レクイエムの輪の中に加わっていく。十狼は誰もが見慣れない、珍しい楽器を手にしていた。弦が張られているのはわかるが、音色の想像はつかない。腰を下ろした十狼の隣に、片山瑠意が座る。彼が手にしているのは、二胡だった。中国の弦楽器だ。
伸びやかで、聞く者の背筋を駆け上がるような弦の音が、ヴァイオリンの音色に重なる。誰が始めたのかもわからないレクイエムは、大きく、深く、広がっていった。桜色の海が、揺れている。
ざわわ、という海のため息。
その中から、透き通るソプラノが生まれてくる。
人魚藍玉。桜の下に浮かぶ、自ら編み出した水球に身をひたし、水を超越した歌声を旋律に乗せている。
今や舞っているのは、シャーレイだけではない。刀冴、そして誘われるがまま輪に加わった理月。理月は両の手それぞれに、見事な意匠の刀を提げている。三振りの刀は、シャーレイを護るかのように、しなやかに舞っていた。〈明緋星〉、〈白竜王〉、〈雪霞〉。三つの剣閃は、まばゆいほどの月を描く。
ああそれは、
奏でる者たちの想いのすべて。
(この曲は、誰のために。何のために、どこへ行くと思う?)
(それは……)
(あなたたちが迷わないように)
(あなたたちが還れるように)
(あなたたちに、罪はないから)
わたしたちはうたいましょう
(自分たちはまやかしであっても)
(自分たちがことわりを侵しているとしても)
この街は、とても、大切なものだから。
「すごい、音。なんて大きな……名が、弔われているのかしら」
音の中で目を閉じて、歌姫Soraが呆然と呟く。〈歌姫〉を冠しながら、彼女はレクイエムに加わらず、ただ、その音の流れに身を任せているだけだった。
「私たちには、お葬式なんて、ないと思っていたけれど。……ああ。こんなふうに、誰かが悼んでくれたら……」
そして、藍玉の歌や、ディズの礎や、須美のヴァイオリンよりも――来栖香介の音色が、Soraの意識を満たしていった。
小さなすすり泣きなどは、この歌が覆い隠してくれる。
慟哭は歌により合わされる。
ようやく、神凪華がラクシュミを見つけた。ラクシュミがレクイエムのそばで泣き崩れていたのだ。罵倒か非難かどうしようか、とりあえず「かなり必死で探した」ということは伝えようと、華は彼女に近づいたが――
「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……」
ラクシュミは誰かが備えたカニクリームコロッケとイチゴと花束に向かって、ひたすら、謝罪を繰り返しているのだった。
「ごめんなさい、あ、あたしが、ごめんなさい、あたしが、ごめんなさい」
「なに謝ってるんだよ、そんなに」
「だ、だって、だって。あたしが、『穴』を調べようなんて、言ったから。ごめんなさい。あたしがあんなこと……」
ラクシュミは振り返らない。質問を投げかけたのが華であることにも、気づいていない。
華は口をへの字に曲げた。
「ラクシュミ!」
声を荒げて華が叫ぶと、ラクシュミがようやく振り返った。華はすでに手を振り上げていた。ラクシュミが目を閉じて、身体をこわばらせる。華は手を振り上げながら、考えた。平手にするか、ツッコミにするか、ただのフリにするか。
結局、ゲンコツをラクシュミの頭に落としていた。
「痛い!」
「バクチで負けて泣くなんて、恥ずかしいだろ!」
「バクチ? なにがバクチなの」
「人生だよ。人が何かをしたり何かを言ったりすれば、絶対に何かが変わる。でも、どう変わるかなんてわかりゃしないんだ。バクチだろう。たまに、それが怖くて何もしないチキンがいる。……けど、私は、そんなビビリと一緒に暮らしたくない。おまえに、そんなやつになってほしくないんだよ!」
華が鬼のような形相でまくしたてる間、ラクシュミは殴られた頭を抱えて、華を見上げていた。そのうち、呆気に取られてきた。
「ほら、次の賭けが始まるぞ。どっちに乗るんだ? このままここでグズグズ泣くか、きっぱり笑って酒呑むか」
「……華、あたし、未成年……」
「あ。そうだったっけ」
華が笑った。ラクシュミは涙を拭って微笑み、彼女と一緒に、宴の中に入っていく。まずラクシュミの目に入ったのは、泣いている仔ダヌキ。
太助はイグドラシルが咲かせた去年の桜を思い出していた。去年と同じように、腹を上に向けて、桜の天井を眺めながら、酒と料理の匂いに囲まれているはずなのに。
なのに、今年は悲しい桜だ。空っぽになった漬物のタッパー。転がっている空のビール瓶。ジュースのペットボトル。なのに、涙が止まらない。
いつしかしゃくり上げていた太助を、温かい手が抱き上げた。
「見て。リゲイルちゃんが、来た……」
太助は薺の腕の中。彼の耳元で、彼女がささやく。
太助は乱暴に涙を拭って、薺が見ている方向に目をやる。
こわばった表情。抱えたタッパー。燃えるような赤い髪。リゲイル・ジブリール。鎮魂歌は止まないが、人々の視線が、さわさわと彼女に集まる。
『桜と酒を、逝った者に捧げるのも珍しくない』
竹川導次の言葉が、リゲイルの耳をかすめたのだ。
「……でも、二人と、一緒に、見たかった、かな……」
震える手でふたつのタッパーを開ける。それぞれの中には、カニクリームコロッケとイチゴがぎっしり詰まっていた。
「そ、それ、そのコロッケ。まるぎん、のじゃねーか」
薺に抱きかかえられたまま、太助が鼻をすすってそう言った。
「お、おまけに、そのタッパー、俺がもってきたのと、いっしょじゃん」
リゲイルが太助に笑顔を見せた。ごわごわにこわばっていた。薺は思い切って、太助を抱く手に力をこめながら、リゲイルに言う。
「さっき……ウォンさんが、いたよ。ウォンさんも、来てるよ」
「え」
コロッケとイチゴを置いて、リゲイルは弾かれたように立ち上がり、桜色の中に視線をさまよわせた。どこにもいない。彼は神出鬼没だ。それはわかっていても、リゲイルは鎮魂歌の中を走り出していた。
「あ」
「あ、失敬!」
桜の根に足を取られたか、それとも、桜の下でたたずんでいる真船恭一に気づかなかったか。リゲイルはよろめき、恭一にぶつかった。
リゲイルが転ばずにすんだのは、恭一がすばやく支えたからだ。
「ごめんなさい」
「いや……」
微笑み返そうとして、恭一ははっとした。リゲイル・ジブリール。今回の事件で、ひどく打ちのめされたひとり。ジャーナルから、人々の噂話から、それを知っている。
何か言ったほうがいいのか。彼らの活躍を見聞きするたびに、感謝し、憧れ、心躍らせていたことを。今は、知らない鎮魂歌を胸に刻みながら、いなくなってしまった彼らを悼んでいることを。彼女を、心配しているということも。
「――木の根が多い。急ぐなら……気をつけたまえ」
「はい。ありがとうございます」
リゲイルが、微笑んだ。恭一は今度こそ、微笑み返すことができた。
レクイエムが聴こえる小高い丘。桜の海と、そこに浮かぶ月が一望できる丘。
そこで、吾妻宗主はキャンバスに向かっている。
「……ヴァイオリン、片方は……香介だな」
歌のある、桜の光景を。市街地の立ち並ぶビルを。ロスから送られた木々を、怪獣島を浮かべる海を、ちらちらと光る海岸線を。杵間山のふもとに開いた黒い穴を。舞う天使を。
すべてを余すことなく、宗主はキャンバスの中に収めていく。
レクイエムもかすむほどに没頭していた彼だったが、ふと、視界の片隅の動く影に気づいて、手をとめた。
バロア・リィム。小さな魔導師は、桜の下の宴や、鎮魂歌の生まれる処から離れて、ぽつりとたたずんでいる。手には、たった1枚の花びら。
腰を上げ、近づいて、バロアに声をかけることもできた。彼が、この桜の渦の中、ほんの1枚だけの花びらを手にして、何を想うのか。誰を想うのか、悼むのか。聞かなくてもわかることがほとんどだが、それでも、気持ちを尋ねたら、その瞬間の想いを共有できるはずだ。
しかし宗主は再びキャンバスに目を落とし、木炭を細いものに持ち替えると、桜の洪水の中に、小さな魔道師の姿を描き加えた。
再び顔を上げると、今度は、秋津戒斗の姿が見えた。一瞬、女の長い髪が桜の間を横切ったようにも見えたが、その髪は見失ってしまった。誰のものだろう。ふと、流鏑馬明日の髪ではないだろうかと思い立つ。確信はできないが、宗主はたぶん彼女だろうと考えた。
秋津戒斗もまた、ひとり、離れたところで桜を見ている。夜の中に、彼のパステルオレンジの鮮やかなバッキーが映えていた。彼も、一体、何を想うのか。ふてくされたような、泣き出しそうな、沈痛な面持ちだ。宗主は戒斗の姿も描き加えた。
それでも、まだ足りない。
果たして、この、街よりもずっとちっぽけなキャンバスに、銀幕市のすべてを収められるのだろうか――宗主の心に一抹の不安の影が差した瞬間、木炭が、折れた。
思わず、桜が途切れた空を見る。
黒い髪の天使がそこにいた。
「……あの子じゃなくて、……あいつだったか?」
見失ってしまった黒髪は。
レクイエムが続いている。
神獣の森のどこにいても、この曲は聴こえてくるだろう。
人の気配を避けるように歩いていた流鏑馬明日や、秋津戒斗や、バロア・リィムの耳にも、レクイエムは透明な色をもって流れこんでくる。
壮絶な死闘で傷ついた身体を引きずるようにして、取島カラスも、そこにいた。
自分たちの、たったひとりの物思いも、鎮魂の調べに溶けていくようだった。
(映画なんて、映画のままだったほうが、いいのかもしれない。映画のままだったら、きっと、こんなに悲しくなんか……ならないだろ)
(心配していた。予感もあった。私には、とめられなかった。覚悟はしていたつもりなのに、……こんなに悲しいことだなんて)
(僕は堕ちたくないな。でも、堕ちるかもしれない。堕ちて、守りたいものも守れなくなるかも。ここに僕らがいられるのは、奇跡なのかな。もしかしたら悪夢でしかないかもしれない、なんて、……それは、悲しいことだよ)
「彼は、言った。『やっと、帰れた』と」
カラスは顔にかかる髪にも触れず、呆然と呟く。
トランペットのソロが聞こえる。瞳と意識を揺さぶるような、静かでありながら、どこまでも熱い音色。ディズのものだ。銀幕市に住む者なら、一度は彼のトランペットを聴いている。
「この音が聴こえないところに……帰ったんだろうか。……そうだとしたら……悲しいな。この音がない世界なんて……悲しい」
バッキーの黒羽を抱えて、カラスはゆっくり桜の根元に腰を下ろした。
いつしか眠りについてしまったカラスを見つけるのは、明日、戒斗、バロアだった。
「なんだよ。この人、入院したんじゃなかったか」
「そのはずよ。抜け出してきたのね。……気持ちはわかるけど」
「僕らで運ぼうか。ここで寝てちゃ、ケガ治すどころか風邪引くよ」
カラスをそっと担いで、3人は森を歩く。救急車を呼んだほうがいいのはわかっているが、ここは桜だらけの森の中だ。せめて、旅館〈迷泉楼〉には運ばなければ。
もともとひとりでいようと思っていた彼らだ。桜の下を歩いている間、そう、長い間、無言だった。旅館の厨房からのものか、醤油や味噌の匂いがかすかに空気に混じり始めたとき、戒斗が口を開いた。
「祭りでさ。俺、忍者の兄ちゃんから、簪買ったんだよ」
「ああ。彼にはそういう才能も、あったものね」
「おふくろにやったんだ。すげぇ喜んで、いつか会って礼したいって言ってたよ。……早く会わせときゃよかった」
「……」
「……あんな、穴。やっぱ、すぐ塞いじまったほうが、よかったんだ」
「でも、ムービースターがキラー化する可能性は、穴が開くずっと前からあったわ。……ドクターは――」
「どうにか、しないとね」
バロアが呟く。一拍の間を置いて、続けた。
「どうにか、なるといいよね」
人の目から離れたはずのユージン・ウォンとデヴィッド・チャオにも、美しい調べは届いているのだ。
いつもの日陰からウォンをこの場に連れ出したのはチャオだった。彼と、彼の恋人の心を撃ち砕くような事件が起きた、その翌日に、こうして神獣の森の桜がひと息に咲いたのは、絶対に偶然ではない――そう静かに諭すと、ウォンは黙ってチャオについてきた。しかし、チャオが見るところ、ウォンは上の空だった。桜の海原と、波をかき分けて姿を見せる満月を見ても、彼は何も感じていない。
「『花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは』……」
チャオは古ぶるしい一文を諳んじ、そっと、桜の奥に目を向けて、歩みを止めた。ウォンもすぐに、チャオが立ち止まった理由を知る。ざしざしとけもの道を踏みながら、正面から大柄な男が歩いてきているのだ。手には徳利。ぞろぞろと、仮面の忍者を5人ばかり従えている。
「ジーン。私は月を見てくるとしよう」
そう言い残して、チャオは白檀の扇子を広げ、ゆっくりとその場を離れた。
「――『世を背ける草の庵には、閑かに水石を翫びて、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや』……」
隠者の言葉を、諳んじながら。
その後ろで、蘆屋道満が、ユージン・ウォンに甘酒を渡す。それにウォンが一口、口をつけたところで――
赤い髪の少女が、レクイエムの中を駆け抜けていった。
(想うこと、ただひとりを求めること。それは、ここに在るすべての方ができること。貴方にも、きっと、わたくしにも)
ざりっ、と桜色の銀幕が揺れる。
人々は、失われたものの姿を見た気がした。
それが、白姫の力だと気づいた者が、どれくらいいるだろうか。
翼をもって森の上空にのぼり、桜色の絨毯を見下ろすフェイファーにも、それは見えた。
「あー。いい歌と空と幻だ。俺が何かしなくちゃなんねぇ必要、あんのかなァ?」
ぼやきながらも、彼はぱちんと指を鳴らす。そのとたんに、風が吹いた。レクイエムを含みながら、桜の花びらを舞い上げて、風が。
「うわぁ……、歌、きこえてくるよ。きれいな歌、やさしい歌だね――」
口を開けて身を乗り出していたリャナは、次の瞬間、「ひゃう!」と奇妙な悲鳴を上げて、クラスメイトPにしがみついていた。
彼が、いきなり自転車を走らせたから。それも、ものすごい勢いで。
「きゃあ、こわいっ、あぶなーい、どーしたの、ねえっ」
ぴしっ、とリャナの顔に温かい雫が飛んだ。
クラスメイトPは、まっすぐ前を見て、ひたすら自転車を漕いでいる。
「……ねえ、ないてるの? なんで……ないてるの? あぶないよ……」
それでも、ひたすらに前を見て。
彼らは、桜の風の中を駆け抜けていくのだ。
ああ、なんと美しい月。
桜色に染まって見える。
〈了〉