★ 月見で一杯/思い出に華 ★
<オープニング>

「今年も見ることになったな」
 見渡すかぎりの、桜色の海。マルパス・ダラィエルは、いつもの黒い軍服で身を固め、その波に呑まれている。歩いているつもりでも、泳いでいるような気分になる。下手をすると、息苦しささえ覚えてしまうかもしれない。桜色が、空気まで呑みこんでしまっているかのようだ。
 冬でも鬱蒼とした神獣の森の木々が、すべて桜であったというのか。歩いても歩いても、乱れ桜が途切れることはない。
 ある、ひとりのムービーキラーがもたらした災厄が、銀幕市に及ぼした影響はかなり大きい。この事件がなくとも、昨今は何の落ち度もなければ、バッキーも超能力も持たない一般市民が犠牲になることが目立つようになってきている。しかし恐らく、そんな犠牲は銀幕市に魔法がかけられた日からずっと出ていたのだ。魔法がもたらす非日常の熱に、人々は浮かされ、踊らされていた。その熱が、時間の経過とともに自然に冷めてきたのだろう。覆い隠されていたものが流れ出し、多くの人の目に止まるようになった。
 それでも。
 そんな昨今であっても、
 先日の事件は銀幕市民の心を揺るがした。
 いなくなってしまった者がいるのだ。
 失ったものがあまりに大きすぎた。
 神獣の森は、この桜たちは、まるでそれを悼んでいるかのようだと、誰かが言った。マルパスもそう思える。桜の花びらが地に落ちる音さえ聞こえてきそうな、絶対的な静寂の中を歩くと――考えたくなくても、考えてしまう。
 死は、恐らく無音であるから。
 マルパスがふと我に返ったとき、日はとっぷりと暮れていて、桜の隙間から見える空は深い藍色に染まっていた。しかし、神獣の森の桜は不可思議なもので、黄昏の中でもまったく色褪せない。公園の桜並木のように、ライトアップされているわけでもないというのに、桜色はじわりと視界で輝く。桜自体が、光を放っているのか……。
「おウ、司令」
「おや。きみか」
 幻想に満ちた桜の海。そのあいだを歩いていたマルパスに、低い声がかけられる。姿を見せた声の主は、竹川導次だ。桜花の香りに、紫煙の香りがかすかに混じった。
「ええ桜やな」
「うむ」
「目ェは大丈夫なんか。聞いたで」
「問題ない」
「なら、酒カッ食ろうても問題ないな」
「酒?」
 マルパスは導次の背後に目をやった。桜の合間で、黒い影が動いている。黒服の男たち――悪役会のメンバーだろう。導次が示唆したとおり、彼らは花見をしているようだった。夜桜を肴に、酒を飲み交わしている。よく見れば、悪役会には在籍していない市民も混じっているようだった。
 しかし彼らは飲めや歌えの馬鹿騒ぎに興じているわけではない。マルパスは昨年、銀幕市内の公園で執り行われた花見をもって、日本の花見と、花と酒の関係というものがどういったものか学んだつもりだったが――
「なにも花と酒ってェのは、乱痴気騒ぎするためだけのもんやない。逝ったモンに捧げるのも珍しくないはずや。……俺らはここで、今回失くしたモンを偲んどるとこでな」
「なるほど。そうだったか」
「なァ、司令も入っていけや。思い出話にも花が咲くんやで。……あァ、昔の日本じゃ、桜のこと『花』言うとった」
 導次は煙管をひと吸い、マルパスに背を向け、静かな宴の輪の中に戻っていく。
 ちらほらと、静かに漏れる笑い声もあるようだ――いい思い出を振り返っているのだろう。神妙な面持ちで、ひとり、桜の天井を見上げているだけのものも少なくない。
 そして、マルパスがこうして遠巻きから見つめている間にも、ふらりふらりと桜のあいだから、引き寄せられたかのように、故人を知る者や悼む者がやってくるのだった。

 ざあああああ。

 桜と桜のあいだから、そっと月が顔を覗かせる。風が吹いたのだ。満開の花から花びらがちらちらと舞い、マルパスの背中をそっと押した。

種別名パーティシナリオ 管理番号485
クリエイター諸口正巳(wynx4380)
クリエイターコメント春にふさわしいイベントに乗っかりまして、お花見パーティーシナリオを書かせていただきます。
銀幕市では、あんなことが起こりました。
あんなことが起こって、桜が咲いても、とてもお花見という気分ではない方もいらっしゃるでしょう。このパーティーシナリオは、そんな方々のための、そして今回亡くなってしまった方を悼むためのものです。
桜の下で明るくパーッとやりたい方のためのシナリオは、他WR様にお任せします。このシナリオは、終始静かなものになる予定です。思い出の華に誘われた方をお待ちしております。
マルパスと導次に関しましては、絡むプレイングがないかぎり、基本的に描写いたしません。

【注】このパーティーシナリオは「ボツあり」です。参加人数、またプレイングによりましては、お名前だけの登場や、わずかな描写しかないPC様も出てくる可能性があります。できるかぎりの努力はしますが、ご了承の上ご参加ください。よろしくお願いいたします。

参加者
ユージン・ウォン(ctzx9881) ムービースター 男 43歳 黒社会組織の幹部
リゲイル・ジブリール(crxf2442) ムービーファン 女 15歳 お嬢様
デヴィッド・チャオ(cfbs9216) ムービースター 男 65歳 黒社会組織の香主
蘆屋 道満(cphm7486) ムービースター 男 43歳 陰陽師
白姫(crmz2203) ムービースター 女 12歳 ウィルスプログラム
取島 カラス(cvyd7512) ムービーファン 男 36歳 イラストレーター
太助(czyt9111) ムービースター 男 10歳 タヌキ少年
三月 薺(cuhu9939) ムービーファン 女 18歳 専門学校生
朝霞 須美(cnaf4048) ムービーファン 女 17歳 学生
藍玉(cdwy8209) ムービースター 女 14歳 清廉なる歌声の人魚
ノアクティ・スパーニダ(cnsd9908) ムービースター 男 27歳 全てを喪った逃亡者
シャーレイ(cpzz3202) ムービースター 女 10歳 竜人の末裔
クラスメイトP(ctdm8392) ムービースター 男 19歳 逃げ惑う人々
リャナ(cfpd6376) ムービースター 女 10歳 扉を開く妖精
ソルファ(cyhp6009) ムービースター 男 19歳 気まぐれな助っ人
ディズ(cpmy1142) ムービースター 男 28歳 トランペッター
沢渡 ラクシュミ(cuxe9258) ムービーファン 女 16歳 高校生
神凪 華(cuen3787) ムービーファン 女 27歳 秘書 兼 ボディガード
式 純也(caxv4999) エキストラ 男 40歳 ホラー映画の俳優?
秋津 戒斗(ctdu8925) ムービーファン 男 17歳 学生/俳優の卵
フェイファー(cvfh3567) ムービースター 男 28歳 天使
吾妻 宗主(cvsn1152) ムービーファン 男 28歳 美大生
刀冴(cscd9567) ムービースター 男 35歳 将軍、剣士
十狼(cemp1875) ムービースター 男 30歳 刀冴の守役、戦闘狂
流鏑馬 明日(cdyx1046) ムービーファン 女 19歳 刑事
片山 瑠意(cfzb9537) ムービーファン 男 26歳 歌手/俳優
真船 恭一(ccvr4312) ムービーファン 男 42歳 小学校教師
理月(cazh7597) ムービースター 男 32歳 傭兵
バロア・リィム(cbep6513) ムービースター 男 16歳 闇魔導師
シュウ・アルガ(cnzs4879) ムービースター 男 17歳 冒険者・ウィザード
ベアトリクス・ルヴェンガルド(cevb4027) ムービースター 女 8歳 女帝
来栖 香介(cvrz6094) ムービーファン 男 21歳 音楽家
Sora(czws2150) ムービースター 女 17歳 現代の歌姫
岡田 剣之進(cfec1229) ムービースター 男 31歳 浪人
<ノベル>

 神獣の森を貫く一本のけもの道を、傍から見れば少々危なっかしく、自転車が走っていた。バランスが危ういのは、運転者がオカモチを片手に下げているからか、肩に青い帽子の妖精を乗せているからか。クラスメイトPは、ふと自転車を止めて、一本の桜の大樹を見つめた。
「わぁ、あの桜、すっごくおっきいね! 夜なのにひかってるよー」
 彼の肩に乗っているリャナが、可愛らしい声で無邪気にはしゃいだ。
「もっとそばに行きたーい。ねえねえ、行こうよぅ」
「うーん、ちょっと……それは……うん」
 クラスメイトPは奥歯に物が挟まったような返答をし、桜の膝元に目をやるばかりだ。
「僕が行ったら、ろくなことが起きないし」
「それもそーだよね。……でも、へんなの。いっつも、たくさんたくさんあつまったら、みんな大さわぎするのに。なんか、しずかだね」
「……人が……いなくなっちゃったから。もう、会えない人がいるんだ。だから」
「ふーん」
 数十人の市民が集まって、酒を酌み交わしている。しかしそこには、銀幕市のお祭りに不可欠の、喧騒がない。話し声すらなりを潜めている。
 トカゲの尻尾を生やした青年――ソルファが、ある方向に顔を向けて、静かに盃を掲げていた。ソルファの視線の先には杵間山の麓がある。その麓には、あの忌まわしい『穴』が開いているのだ。
ソルファが盃の酒を飲み干すと、黙って、ひとりの侍が酌をした。岡田剣之進だ。彼は自分の盃を手酌で満たし、細いため息をついた。
「この街の『花』も、江戸の『花』と変わらぬようだ。これがまぼろしだとは、……とても思えぬ。今は、思いたくもない」
 彼は振り返った。背後の、桜の下に敷かれたゴザやシートの上には、悪役会が用意したものの他に、差し入れが並べられていた。今や、差し入れのほうが比重が大きい。三月薺が持参した手作りの料理と、太助が差し入れた漬物は好評を博した。
 無遠慮、と言うわけではないが、酒と料理を豪快に食べている偉丈夫に、ちらりちらりと視線が向けられては反らされる。どっしりと構え、余裕さえ感じられるその姿は、蘆屋道満のものだった。
 重箱のひとつをきれいに平らげたあと、道満は甘酒の入った徳利をひとつ手にして立ち上がる。
「ゆうじん・うぉん殿がおった筈だが。何処に行かれたか御存知か」
 辺りをうろうろしていた式純也に、道満は尋ねる。純也は静かな夜桜を楽しんでいたところを、たまたまこの静かな宴に出くわしただけで、自分はお呼びでない雰囲気に戸惑っていた矢先だ。突然大柄で古風な男に話しかけられて、目を白黒させた。
「あ……ああ。ウォンさんって、白いスーツの? ちょっと怖い感じの? 夜なのにサングラスかけた?」
「以前会うた時は黒づくめであったが、恐らくその御仁に相違ない」
「その人でしたら、中国人っぽい格好の人と、あっちに行きましたよ」
「かたじけない」
 のしのしと道満は歩き去り、純也は頭をかきながら肩をすくめた。
「あぁ、ビックリした……」
 そのとき、不意に、近くから、ヴァイオリンとトランペットのかすかな音色が上がって、純也をまた驚かせた。さらには、彼の前を、すすり泣きながら横切る褐色の肌の少女。これほど静かなところで、純也はさんざん驚かされ、すっかり挙動不審になっていた。
「ラクシュミ! ラクシュミ知らないか? まったく、いきなりいなくなるなよ」
 こちらも褐色の肌の、しかしがっちりとした長身の女が、名前を呼びながら歩き回っている。探している沢渡ラクシュミが、つい数秒前に彼の前を通り過ぎていったことを知らず、大股で式純也の前をかすめていった。
「あー、やれやれ。あー疲れた。どっこらしょ、っと」
 シュウ・アルガはずり落ちかけた背中の幼女を負ぶいなおし、苦笑いで輪に加わる。彼に負ぶわれているベアトリクス・ルヴェンガルドは、ぐっすり眠りに落ちていた。シュウが負ぶいなおした軽い衝撃にも、少し身じろぎしただけで、目を覚ます気配は微塵もない。
「よう、司令、親分。ここでもやってるのか。いいねえ」
 導次が手にしている盃を見て、シュウはにやりとした。
「一杯もらいたいトコだけど、『陛下』がいらっしゃるからなァ。残念だ」
「『陛下』は随分お疲れのようだな。温泉にいたのかね」
「まあ、あちこち回っててね。態度は陛下でも、やっぱまだ子供だよ。『穴』の調査の日も……」
 シュウがそこで言葉を切った。背中の小さな女帝が、また身じろぎして、シュウの肩をしっかり掴み直したからだ。
「俺も行くつもりだったんだけどさ、こいつが熱出してグズってね。……こいつに、助けられたのかもな。こいつがいなかったら、俺――」
「ぅぅ」
 ベアトリクスが、ぼんやりと緑の目を開いた。
「ちちうえ」
 シュウの肩にしがみついて、彼女ははっきりしない言葉をこぼす。
「ちちうえ、どこにも、いかないで……。ビイといっしょに、いてよぅ……ちちうえ、ぇ……」
「なんだ、親父はお前なんか」
「ち、ちがうっつの。永遠の17歳に8歳のガキがいてたまるか」
 シュウは苦笑いして、ベアトリクスをまた負ぶい直した。小さな女帝は、すでに目を閉じて、また深い眠りに落ちている。マルパスはその姿に、温かい視線を落としていた。
「さてと、帰るか、な……。……お? なんか、始まるのか……?」

 そして。

 誰が初めに、声を上げたのかはわからない。ただ、まるで、誰も桜の花が開く瞬間を知らないように――月がその姿を変える瞬間を知らないように――いつしか、音楽が流れていた。心のひび割れや隙間に、じわりと染み入るような、儚げな旋律。切ない高音と、聞こえないようで聞こえる低音。
 邪悪を拭い去り、善なる魂を高みに導く。
 それは、レクイエムと呼ばれるものである。
 ディズと、彼が籍を置く楽団の演奏が、鎮魂歌の礎となっている。そこに、厳かなヴァイオリンの音色が加わって、主旋律を紡いでいた。ヴァイオリンを駆るのは、朝霞須美だ。まだ若いというのに、彼女の旋律には、確かな技量と熱意がこめられていた。
 偶然にしては、都合がよすぎたかもしれない。音楽家として生きる来栖香介がこの場に携えてきたのも、ヴァイオリンだった。須美の音色を追いかけて、香介のヴァイオリンも静かに歌う。それは、輪唱というものだ。
「どうか、お二人が還られるまで、奏でていて」
 翠色の衣の裾を引きずり、シャーレイが調べの中に現れて、そっと呟いた。
「お二人がもし、還るべき場所までの道のりを見失ってしまったら、悲しいから。でも、鎮魂の調べと舞で、私たちはきっと、道しるべになれる――」
 ディズと須美と香介は、シャーレイの言葉を受け、目で相槌を打った。もっとも、彼らもすぐに演奏をやめるつもりなど、なかったが。
 シャーレイは静かに、衣を霞のようになびかせながら、舞い始める。
 ノアクティ・スパーニダが、杯を片手に、横合いで恋人の姿を見つめていた。ざああ、と吹いた森と月の風に目を細める。視界をかすめる花びらは、はねのけるつもりもない。
「ほんのちょっと、あんたの大事な人の隣を借りるぜ」
 ノアクティの横を、刺青のある美丈夫が通り抜けた。ノアクティが見送った背中は、刀冴のもの。ノアクティは何も言わない。刀冴は剣を抜いていたが、シャーレイを含め、この場の誰かに危害を加えるつもりがないことは、彼の表情を見ればわかることだ。ノアクティに静かな会釈を残し、十狼が刀冴に続いて、レクイエムの輪の中に加わっていく。十狼は誰もが見慣れない、珍しい楽器を手にしていた。弦が張られているのはわかるが、音色の想像はつかない。腰を下ろした十狼の隣に、片山瑠意が座る。彼が手にしているのは、二胡だった。中国の弦楽器だ。
 伸びやかで、聞く者の背筋を駆け上がるような弦の音が、ヴァイオリンの音色に重なる。誰が始めたのかもわからないレクイエムは、大きく、深く、広がっていった。桜色の海が、揺れている。
 ざわわ、という海のため息。
 その中から、透き通るソプラノが生まれてくる。
 人魚藍玉。桜の下に浮かぶ、自ら編み出した水球に身をひたし、水を超越した歌声を旋律に乗せている。
 今や舞っているのは、シャーレイだけではない。刀冴、そして誘われるがまま輪に加わった理月。理月は両の手それぞれに、見事な意匠の刀を提げている。三振りの刀は、シャーレイを護るかのように、しなやかに舞っていた。〈明緋星〉、〈白竜王〉、〈雪霞〉。三つの剣閃は、まばゆいほどの月を描く。
 ああそれは、
 奏でる者たちの想いのすべて。

(この曲は、誰のために。何のために、どこへ行くと思う?)
(それは……)

(あなたたちが迷わないように)
(あなたたちが還れるように)
(あなたたちに、罪はないから)

                わたしたちはうたいましょう

(自分たちはまやかしであっても)
(自分たちがことわりを侵しているとしても)

                この街は、とても、大切なものだから。


「すごい、音。なんて大きな……名が、弔われているのかしら」
 音の中で目を閉じて、歌姫Soraが呆然と呟く。〈歌姫〉を冠しながら、彼女はレクイエムに加わらず、ただ、その音の流れに身を任せているだけだった。
「私たちには、お葬式なんて、ないと思っていたけれど。……ああ。こんなふうに、誰かが悼んでくれたら……」
 そして、藍玉の歌や、ディズの礎や、須美のヴァイオリンよりも――来栖香介の音色が、Soraの意識を満たしていった。
 小さなすすり泣きなどは、この歌が覆い隠してくれる。
 慟哭は歌により合わされる。
 ようやく、神凪華がラクシュミを見つけた。ラクシュミがレクイエムのそばで泣き崩れていたのだ。罵倒か非難かどうしようか、とりあえず「かなり必死で探した」ということは伝えようと、華は彼女に近づいたが――
「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……」
 ラクシュミは誰かが備えたカニクリームコロッケとイチゴと花束に向かって、ひたすら、謝罪を繰り返しているのだった。
「ごめんなさい、あ、あたしが、ごめんなさい、あたしが、ごめんなさい」
「なに謝ってるんだよ、そんなに」
「だ、だって、だって。あたしが、『穴』を調べようなんて、言ったから。ごめんなさい。あたしがあんなこと……」
 ラクシュミは振り返らない。質問を投げかけたのが華であることにも、気づいていない。
 華は口をへの字に曲げた。
「ラクシュミ!」
 声を荒げて華が叫ぶと、ラクシュミがようやく振り返った。華はすでに手を振り上げていた。ラクシュミが目を閉じて、身体をこわばらせる。華は手を振り上げながら、考えた。平手にするか、ツッコミにするか、ただのフリにするか。
 結局、ゲンコツをラクシュミの頭に落としていた。
「痛い!」
「バクチで負けて泣くなんて、恥ずかしいだろ!」
「バクチ? なにがバクチなの」
「人生だよ。人が何かをしたり何かを言ったりすれば、絶対に何かが変わる。でも、どう変わるかなんてわかりゃしないんだ。バクチだろう。たまに、それが怖くて何もしないチキンがいる。……けど、私は、そんなビビリと一緒に暮らしたくない。おまえに、そんなやつになってほしくないんだよ!」
 華が鬼のような形相でまくしたてる間、ラクシュミは殴られた頭を抱えて、華を見上げていた。そのうち、呆気に取られてきた。
「ほら、次の賭けが始まるぞ。どっちに乗るんだ? このままここでグズグズ泣くか、きっぱり笑って酒呑むか」
「……華、あたし、未成年……」
「あ。そうだったっけ」
 華が笑った。ラクシュミは涙を拭って微笑み、彼女と一緒に、宴の中に入っていく。まずラクシュミの目に入ったのは、泣いている仔ダヌキ。
 太助はイグドラシルが咲かせた去年の桜を思い出していた。去年と同じように、腹を上に向けて、桜の天井を眺めながら、酒と料理の匂いに囲まれているはずなのに。
 なのに、今年は悲しい桜だ。空っぽになった漬物のタッパー。転がっている空のビール瓶。ジュースのペットボトル。なのに、涙が止まらない。
 いつしかしゃくり上げていた太助を、温かい手が抱き上げた。
「見て。リゲイルちゃんが、来た……」
 太助は薺の腕の中。彼の耳元で、彼女がささやく。
 太助は乱暴に涙を拭って、薺が見ている方向に目をやる。
 こわばった表情。抱えたタッパー。燃えるような赤い髪。リゲイル・ジブリール。鎮魂歌は止まないが、人々の視線が、さわさわと彼女に集まる。
『桜と酒を、逝った者に捧げるのも珍しくない』
 竹川導次の言葉が、リゲイルの耳をかすめたのだ。
「……でも、二人と、一緒に、見たかった、かな……」
 震える手でふたつのタッパーを開ける。それぞれの中には、カニクリームコロッケとイチゴがぎっしり詰まっていた。
「そ、それ、そのコロッケ。まるぎん、のじゃねーか」
 薺に抱きかかえられたまま、太助が鼻をすすってそう言った。
「お、おまけに、そのタッパー、俺がもってきたのと、いっしょじゃん」
 リゲイルが太助に笑顔を見せた。ごわごわにこわばっていた。薺は思い切って、太助を抱く手に力をこめながら、リゲイルに言う。
「さっき……ウォンさんが、いたよ。ウォンさんも、来てるよ」
「え」
 コロッケとイチゴを置いて、リゲイルは弾かれたように立ち上がり、桜色の中に視線をさまよわせた。どこにもいない。彼は神出鬼没だ。それはわかっていても、リゲイルは鎮魂歌の中を走り出していた。
「あ」
「あ、失敬!」
 桜の根に足を取られたか、それとも、桜の下でたたずんでいる真船恭一に気づかなかったか。リゲイルはよろめき、恭一にぶつかった。
 リゲイルが転ばずにすんだのは、恭一がすばやく支えたからだ。
「ごめんなさい」
「いや……」
 微笑み返そうとして、恭一ははっとした。リゲイル・ジブリール。今回の事件で、ひどく打ちのめされたひとり。ジャーナルから、人々の噂話から、それを知っている。
 何か言ったほうがいいのか。彼らの活躍を見聞きするたびに、感謝し、憧れ、心躍らせていたことを。今は、知らない鎮魂歌を胸に刻みながら、いなくなってしまった彼らを悼んでいることを。彼女を、心配しているということも。
「――木の根が多い。急ぐなら……気をつけたまえ」
「はい。ありがとうございます」
 リゲイルが、微笑んだ。恭一は今度こそ、微笑み返すことができた。


 レクイエムが聴こえる小高い丘。桜の海と、そこに浮かぶ月が一望できる丘。
 そこで、吾妻宗主はキャンバスに向かっている。
「……ヴァイオリン、片方は……香介だな」
 歌のある、桜の光景を。市街地の立ち並ぶビルを。ロスから送られた木々を、怪獣島を浮かべる海を、ちらちらと光る海岸線を。杵間山のふもとに開いた黒い穴を。舞う天使を。
 すべてを余すことなく、宗主はキャンバスの中に収めていく。
 レクイエムもかすむほどに没頭していた彼だったが、ふと、視界の片隅の動く影に気づいて、手をとめた。
 バロア・リィム。小さな魔導師は、桜の下の宴や、鎮魂歌の生まれる処から離れて、ぽつりとたたずんでいる。手には、たった1枚の花びら。
 腰を上げ、近づいて、バロアに声をかけることもできた。彼が、この桜の渦の中、ほんの1枚だけの花びらを手にして、何を想うのか。誰を想うのか、悼むのか。聞かなくてもわかることがほとんどだが、それでも、気持ちを尋ねたら、その瞬間の想いを共有できるはずだ。
しかし宗主は再びキャンバスに目を落とし、木炭を細いものに持ち替えると、桜の洪水の中に、小さな魔道師の姿を描き加えた。
 再び顔を上げると、今度は、秋津戒斗の姿が見えた。一瞬、女の長い髪が桜の間を横切ったようにも見えたが、その髪は見失ってしまった。誰のものだろう。ふと、流鏑馬明日の髪ではないだろうかと思い立つ。確信はできないが、宗主はたぶん彼女だろうと考えた。
秋津戒斗もまた、ひとり、離れたところで桜を見ている。夜の中に、彼のパステルオレンジの鮮やかなバッキーが映えていた。彼も、一体、何を想うのか。ふてくされたような、泣き出しそうな、沈痛な面持ちだ。宗主は戒斗の姿も描き加えた。
 それでも、まだ足りない。
 果たして、この、街よりもずっとちっぽけなキャンバスに、銀幕市のすべてを収められるのだろうか――宗主の心に一抹の不安の影が差した瞬間、木炭が、折れた。
 思わず、桜が途切れた空を見る。
 黒い髪の天使がそこにいた。
「……あの子じゃなくて、……あいつだったか?」
 見失ってしまった黒髪は。

 レクイエムが続いている。
 神獣の森のどこにいても、この曲は聴こえてくるだろう。
 人の気配を避けるように歩いていた流鏑馬明日や、秋津戒斗や、バロア・リィムの耳にも、レクイエムは透明な色をもって流れこんでくる。
 壮絶な死闘で傷ついた身体を引きずるようにして、取島カラスも、そこにいた。
 自分たちの、たったひとりの物思いも、鎮魂の調べに溶けていくようだった。

(映画なんて、映画のままだったほうが、いいのかもしれない。映画のままだったら、きっと、こんなに悲しくなんか……ならないだろ)
(心配していた。予感もあった。私には、とめられなかった。覚悟はしていたつもりなのに、……こんなに悲しいことだなんて)
(僕は堕ちたくないな。でも、堕ちるかもしれない。堕ちて、守りたいものも守れなくなるかも。ここに僕らがいられるのは、奇跡なのかな。もしかしたら悪夢でしかないかもしれない、なんて、……それは、悲しいことだよ)

「彼は、言った。『やっと、帰れた』と」
 カラスは顔にかかる髪にも触れず、呆然と呟く。
 トランペットのソロが聞こえる。瞳と意識を揺さぶるような、静かでありながら、どこまでも熱い音色。ディズのものだ。銀幕市に住む者なら、一度は彼のトランペットを聴いている。
「この音が聴こえないところに……帰ったんだろうか。……そうだとしたら……悲しいな。この音がない世界なんて……悲しい」
 バッキーの黒羽を抱えて、カラスはゆっくり桜の根元に腰を下ろした。
 いつしか眠りについてしまったカラスを見つけるのは、明日、戒斗、バロアだった。
「なんだよ。この人、入院したんじゃなかったか」
「そのはずよ。抜け出してきたのね。……気持ちはわかるけど」
「僕らで運ぼうか。ここで寝てちゃ、ケガ治すどころか風邪引くよ」
 カラスをそっと担いで、3人は森を歩く。救急車を呼んだほうがいいのはわかっているが、ここは桜だらけの森の中だ。せめて、旅館〈迷泉楼〉には運ばなければ。
 もともとひとりでいようと思っていた彼らだ。桜の下を歩いている間、そう、長い間、無言だった。旅館の厨房からのものか、醤油や味噌の匂いがかすかに空気に混じり始めたとき、戒斗が口を開いた。
「祭りでさ。俺、忍者の兄ちゃんから、簪買ったんだよ」
「ああ。彼にはそういう才能も、あったものね」
「おふくろにやったんだ。すげぇ喜んで、いつか会って礼したいって言ってたよ。……早く会わせときゃよかった」
「……」
「……あんな、穴。やっぱ、すぐ塞いじまったほうが、よかったんだ」
「でも、ムービースターがキラー化する可能性は、穴が開くずっと前からあったわ。……ドクターは――」
「どうにか、しないとね」
 バロアが呟く。一拍の間を置いて、続けた。
「どうにか、なるといいよね」


 人の目から離れたはずのユージン・ウォンとデヴィッド・チャオにも、美しい調べは届いているのだ。
いつもの日陰からウォンをこの場に連れ出したのはチャオだった。彼と、彼の恋人の心を撃ち砕くような事件が起きた、その翌日に、こうして神獣の森の桜がひと息に咲いたのは、絶対に偶然ではない――そう静かに諭すと、ウォンは黙ってチャオについてきた。しかし、チャオが見るところ、ウォンは上の空だった。桜の海原と、波をかき分けて姿を見せる満月を見ても、彼は何も感じていない。
「『花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは』……」
 チャオは古ぶるしい一文を諳んじ、そっと、桜の奥に目を向けて、歩みを止めた。ウォンもすぐに、チャオが立ち止まった理由を知る。ざしざしとけもの道を踏みながら、正面から大柄な男が歩いてきているのだ。手には徳利。ぞろぞろと、仮面の忍者を5人ばかり従えている。
「ジーン。私は月を見てくるとしよう」
 そう言い残して、チャオは白檀の扇子を広げ、ゆっくりとその場を離れた。
「――『世を背ける草の庵には、閑かに水石を翫びて、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや』……」
 隠者の言葉を、諳んじながら。
 その後ろで、蘆屋道満が、ユージン・ウォンに甘酒を渡す。それにウォンが一口、口をつけたところで――
 赤い髪の少女が、レクイエムの中を駆け抜けていった。

(想うこと、ただひとりを求めること。それは、ここに在るすべての方ができること。貴方にも、きっと、わたくしにも)

 ざりっ、と桜色の銀幕が揺れる。
 人々は、失われたものの姿を見た気がした。
 それが、白姫の力だと気づいた者が、どれくらいいるだろうか。
 翼をもって森の上空にのぼり、桜色の絨毯を見下ろすフェイファーにも、それは見えた。
「あー。いい歌と空と幻だ。俺が何かしなくちゃなんねぇ必要、あんのかなァ?」
 ぼやきながらも、彼はぱちんと指を鳴らす。そのとたんに、風が吹いた。レクイエムを含みながら、桜の花びらを舞い上げて、風が。
「うわぁ……、歌、きこえてくるよ。きれいな歌、やさしい歌だね――」
 口を開けて身を乗り出していたリャナは、次の瞬間、「ひゃう!」と奇妙な悲鳴を上げて、クラスメイトPにしがみついていた。
 彼が、いきなり自転車を走らせたから。それも、ものすごい勢いで。
「きゃあ、こわいっ、あぶなーい、どーしたの、ねえっ」
 ぴしっ、とリャナの顔に温かい雫が飛んだ。
 クラスメイトPは、まっすぐ前を見て、ひたすら自転車を漕いでいる。
「……ねえ、ないてるの? なんで……ないてるの? あぶないよ……」
 それでも、ひたすらに前を見て。
 彼らは、桜の風の中を駆け抜けていくのだ。


 ああ、なんと美しい月。
 桜色に染まって見える。




〈了〉

クリエイターコメントギリギリになりましたが、諸口正巳初めてのパーティーノベルをお届けします。
参加された皆さん全員を描写させていただきました。グループプレイングのおかげで、非常にドラマチックな展開にすることができ、音楽家と舞踏者の皆様には深く御礼申し上げます。
桜と月は、いかがでしたか。
公開日時2008-04-30(水) 20:00
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