★ 第4部隊:レヴィアタン完殺部隊 ★
イラスト/クリーチャー:七片 藍


<ノベル>


 Freude schoner Gotterfunken,
 Tochter aus Elysium,
 Wir betreten feuertrunken,
 Himmlische dein Heiligtum!

 突然鳴り響く第九。『歓喜の歌』。それに重なっているのは人魚の麗しい歌声だ。『歓喜の歌』はルイス・キリングが担いでいるラジカセから流れていた。彼はなぜかすでにかなり疲れている様子だ。もっとも、誰もその事実にも理由にも気づかないふりをしているが。
「第3部隊がやった! 今度は俺たちの出番だぞー!」
 浦安映人が無線機に向かって叫んだ。
 レヴィアタンの巨体は杵間山上空を覆いつくし、絶望色の帳を下ろす。夕焼けが消えてしまった。藍玉の美しい希望の賛歌は、その大口が発するさけびによってかき消された。無論歓喜の歌も。しかし、人魚と楽聖の創り上げた歌は、力強く人々の心の中で響き続ける。
 古森凛が動いた。いや、動かなかった。レヴィアタンの瞳を見すえながら、ロケーションエリアを展開していた。杵間山に息づく植物たちの顔ぶれが変わる。大樹が、動物の意思を持つかのようにぞわぞわと枝を伸ばした。
 レヴィアタンは世にも凄まじい怒声を張り上げ、身をよじった。尾を見たつもりか。木がはじめに捕らえたのは、細長い尾だった。めきめきと木々は軋み、へし折られながらも、枝を伸ばしていく。ヒレが、長い胴が、植物の枝とツルに戒められていく。
『目標を拘束。小型ディスペアー放出兆候無し。ムービーボム設置班、作戦を開始して下さい』
 第4作戦参加者たちが身につけた無線機に、白姫の、抑揚のない声が届く。

 Freude schoner Gotterfunken,

「よォオし! 行くぞ!」
 刀冴の目が、ぎらりと白金色に光る。光に呼応するのは黒竜だった。リゲイル・ジブリールを乗せた黒竜だ。刀冴はひらりとリゲイルの後ろに飛び乗った。
 リゲイルは短くなった髪の乱れに目を細め、周囲を見回す。飛んでいる。木々が何メートルも下にある。エルヴィーネ・ブルグスミューラー、吸血鬼ならぬ鮮血鬼。自らの血で翼を作り出し、いっそ優雅に見えるような身のこなしで、彼女も飛んでいる。不可思議な色の光に包まれて飛んでいるものもいた。光を帯びてリゲイルのすぐそばを飛んでいるのは、梛織である。飛べないものに光と空を与えているのは、キュキュの飛行魔法だ。キュキュ自身も、飛んでいた。
「いーち、にーい、さーん、しー、ご!」
 フェイファーが、自前の白い翼で飛びながら、指さして飛んでいる者を数えていく。
「ろく!」
 そして、自分も右手を掲げた。
 数えていたのは、人数ではない。ムービーボムの数だ。全部で10。10の頼み。
「おい、あと4つ! 持ってるのは誰だっけ? 確認できねぇぞ!」
『津田俊介様、バロア・リィム様、蘆屋道満様、ジャスパー・ブルームフィールド様です。以上4名様は地上より設置予定です』
「サンキュー、白姫。それじゃ、こっちはさっさと取り付けちまってOKだな!」
 その声を聞き、邪神が天使の横をかすめて飛んでいった。
 ヒュプラディウス・レヴィネヴァルド。
 体長10メートルのその姿は、この世のものではない姿をしていた。翅を生やした怪物であった。しかし、レヴィアタンとは、何かが決定的に違うのだ――何かが。レヴィアタンは大顎を開き、閉じ、もがいて、樹木を引きちぎる。まるで糸のように。
 レヴィネヴァルドがその目の下をかすめた。ざしッ、と光と音が走って、彼の軌道を生傷が追う。黒とも赤ともつかない血飛沫が、煙のように噴き出した。レヴィアタンの怒号が、枝から葉を吹き飛ばす。
「……大きい。陛下よりも。なんて、大きいのでしょう……」
 キュキュは、ムービーボムを抱きしめて、ふと、そう呟いていた。

 Tochter aus Elysium,

 リゲイル・ジブリールも、ぎゅっとムービーボムとバッキーを抱きしめていた。そのわずかな不安を、刀冴は見なかった。彼は雄叫びを上げ、愛剣を抜き、黒竜の背を蹴っていたのだ。
 刀冴が向かう先は、レヴィアタンの背。
『レヴィアタン背部・側面部のネガティヴパワー変動』
『小型ディスペアーです。ご注意を!』
 白姫の冷静な声に、ルーファス・シュミットの警鐘が重なる。
「ふふ。タイミングってやつが、よくわかってるみたいじゃない」
「行こう。この世界に干渉するときだ」
 ルアはむしろ笑顔であり、アルは今日の朝からずっと真顔だった。
 鱗が盛り上がり、歪み、弾ける。黒い霧が、巨大な怪物の巨大な胴体から飛散した。胸が悪くなるような音と匂いだ。表裏一体の吸血鬼が、手を取り合った。確かにそのとき、世界は歪む。
 ねじ曲げられた空間が、火炎と雷によって爆発した。爆発に巻きこまれた翼たちは、幾百であったか!

 Wir betreten feuertrunken,

 レヴィアタンの首もとに到達していた梛織は、霧のように湧き出てくる翼の怪物を、ひょうひょうときれいにかわしていた。風を味方につけたかのような軽い動作だ。
「だァれ狙ってんだッ! ハエかおまえらッ! どけ! コイツに――用があるんだよ!」
 づどん、と。
 レヴィアタンが揺らぐ。
 梛織の蹴りがその喉もとにめりこむのと、誰かのロケーションエリアが展開されたのが、同時だったようだ。
 モノクロームになった世界。
『笑えるダンスだ。貴様が龍であるはずはない』
「ユージンさん――」
 ユージン・ウォン。リゲイルを思わず呟かせるその声、このロケーションエリア。
 梛織が削り取った肉、レヴィネヴァルドが裂いた傷は、血を滴らせるままに停滞した。
「俺が一番乗りか?」
 梛織はにやりと口元をゆるませ、ムービーボムを喉の傷口にねじこんだ。
 レヴィアタンはもがいている。ずっともがいている。体内に爆弾を押しこまれた痛みを、感じているのか。ムービーボムの大きさは、レヴィアタンの全長に比べるとはるかに小さい。銀幕市の市民たちと同じくらい、ちっぽけだ。
 ばあばあびゃあびゃあと、無限に生み出される翼のもの。役目を終えた梛織は地上に降りる。振り返って、黒い霧のように見える群れを見上げた。
 エルヴィーネが血の矢を投げ、血の刃を振るい、レヴィアタンの腹に近づこうとしている。だが――
「まったく。いくら好きでも、あまり執拗にまとわりつくと……大概振り払われるものよ」
 それもわからないなんて。
 目には苦笑を。
 しかし、口は引き結んでいる。
 囮を引き受けながらのボム設置は難儀だったか。
「おい! 手伝うぞ」
「大丈夫!?」
「私に構わないで。あと三分で突破するわ。そう――私を待たなくても、よろしくてよ」

 Himmlische dein Heiligtum!

 ぞスん。
 レヴィアタンの身体に、目にもはっきりと映るほどの衝撃。
 刀冴がその脳天に剣を突き立てていた。翼のものどもに身体のあちこちを引っかかれていたが、彼は相変わらず、どこか楽しげだ。
 しかし、その次の瞬間、彼は真顔になった。
「この近くにゃ、俺んちが……俺たちの家が、あるんだよ」
 剣を引き抜き、血の泉の中に、ボムを叩きこむ。
 あまりに大きい。頭蓋骨があるのだとすれば、恐らく分厚い。脳まで爆弾を押しこめるか。無理だろう。
 刀冴は振り向く。はるか彼方の背中に、リゲイルがちょこんと降り立って、バッキーを放すのが見えた。
「銀ちゃん、お願い」
 リゲイルのバッキーはほんの少しためらったが、レヴィアタンの鱗に噛みついた。固そうな鱗だったが、バッキーはさくさく食べていき――やがてヘンな声を上げて、尻餅をついた。腹はぽっこり膨らんでいるし、ぎゅるぎゅると不穏な音も発している。
「あっ……ご、ごめんね。おなか痛くなった……?」
『リゲイル。今はムービーボムだ』
「あ――」
 ウォンの声に後押しされて、リゲイルはレヴィアタンの広大な背中のほんの一点に、爆弾を仕掛けた。
 ヘンなゲップをしているバッキーを抱え、黒竜の背に戻る。地上で小さなディスペアーと応戦している部隊のもとへもどる最中、リゲイルは自分の手を見た。
 真っ黒に汚れた赤い血が、べだりべたりとまとわりついて、
 まだら模様が、できている。
 ふたりの名前を、彼女は心で反芻した。彼女の心は、まだら模様に彩られていった。

 |: Deine Zauber binden wieder,

「あら、あらあら。……皆様、前方に集中していらっしゃるのかしら……」
 キュキュだけが、ひとり、レヴィアタンの後部にまわっている。
 尾の力は強いようだ。木々とツタの拘束も念入りだったが、それでも、ぶちぶちと引きちぎられている。キュキュがムービーボムを設置したのは、尾の付け根だった。触手が鱗を引き剥がし、傷口を広げ、だばだばと血が流れ落ちる中に押しこむ。しっかりと固定したそのとき、レヴィアタンが大きく身をよじって、尾の拘束が軒並み解けた。
「わ! わわわ!」
 キュキュは慌てて撤退する。新たなツタが――今までのツルとはまた違った雰囲気のものが、高速で伸びて、レヴィアタンの尾を捕まえた。
 キュキュが見下ろした地上で、白いスーツの青年が、ひらひらと花束を振っている。いい笑顔だ。
「やあ。危機一髪だったね」
「あ、ありがとうございます。ジャスパー様」
「ボムは設置したのデスネ? ではでは、そろそろ僕も」
 ジャスパーがさっと花束を振ると、鮮やかな翠色のツタが、風のような音を立てながら伸びていった。一本はムービーボムを抱え、一直線に。もう一本は螺旋を描きながら、あの、赤く光る目を目指していた。
 螺旋はツタではなかった。それは緑から茶に変じていく。木だ。木の幹が、ねじれながらレヴィアタンの目に迫って、そして、潰した。
 叫び声が杵間山を揺るがした。
 ボムを抱えたジャスパーのツタは、漆黒の眼窩の中に入りこむ。
「これで5個。あと半分!」

 Was die Mode streng geteilt;

 叫び声。大きく開いた口。
「しばらく――叫んでろ!」
 津田俊介は、仕事で使っていた自転車に別れを告げた。ハンドルから手を離しても、自転車は倒れず――亜光速で飛んでいった。カゴにムービーボムを乗せて。
 俊介の背後で、低い気合。
 自転車から遅れること一秒、針金を幾重にも巻きつけられたムービーボムが飛んでいく。操っているのは蘆屋道満。古風な外見ではあるが、彼が操るのは電磁力だ。開いた鉄扇が、レヴィアタンの暗黒の口を示していた。
 レヴィアタンが落とす巨大な影と、小さな魔道師の影がぞわりと動いたことに、誰が気づいたか。
「〈破滅の影、其は万物に踏みしだかれ、天を欲する意思、真の偏執〉!」
 詠唱が確実に反映される。
 ここは、絶望の都ではないのだ。銀幕市だ。バロア・リィムの力もまた、まともに働く。
 ここが、現実だ。
「――覚悟しな」
 影が持ち上げた爆弾が、レヴィアタンの身体のいずこかに張り付けられた。
『エルヴィーネ様、フェイファー様のムービーボム設置を確認。オール・クリア。状態良好。起爆可能です』
「よし!」
「よォし!」
「殺ッッッチマイナァァァアアアアアアア!!」
 ルイス・キリングの叫び声が、
 白姫の声なき命令が、

 Alle Menschen werden Bruder,

 閃光と爆音と衝撃を許可する。

 Wo dein sanfter Flugel weilt!!!

 レヴィアタンの喉で。左目で。口の中で。背で。脳天で。尾で。腹で。
 閃光と爆音と衝撃は起きる。
 虹のような光の爆発。
 飛び散る葉と枝、歯、鱗、肉肉肉、血血血血地地地、ヒレ。尾。
「ああ」
 ルーファスの、震える声。
 彼は杵間山の頂上で、遠眼鏡を使って状況を見守っていた。
「あれは――あれでは、よくない。爆発が……分散しすぎている」

 これで本当に、あの大きなものを倒せるのか。
 こんなにちっぽけなもので。
 見ろ。あんなに大きい。

 見ろ。

 やつは

  まだ


   生きている。


 尾は、胴体は、風船のように弾けた。
 フウセンウナギ! だってフウセンウナギだから!
 ぎゃはははははははフウセンウナギだもの!
 顔が頭がデカイんだ、とびっきりデカイんだ、黒い煙のように脳味噌が流れ出してるよ、喉の穴から片目から、ごっそり肉は吹き飛んで、あああの顎が! 顎が!
 ギぉぉおおおおおおおおンンンン!
 3ffffffffffffffffffffffffffff1!


 それは、おおよそ信じたくはない光景だった。
 爆発が、レヴィアタンの身体から頭を引きちぎった。尾を引きちぎった。背に穴を開けた。それだけだったのだ。半壊した頭が杵間山に落ち、黒い絶望の渦が、木々をねじ曲げ、飲みこんでいった。
 ――21.6%。
 麗火がそれを考えたのはほんの一瞬だった。
 裂帛の怒号を上げながら、焼けついた風の塊を、暗黒の肉塊めがけて放っていた。
 取島カラスも、なにごとか叫びながら、自らレヴィアタンの首の中へと突っ込んでいく。
 撃て!
 誰かが叫んだ。
 殺せ!
 誰かが叫んだ。
 とどめを!
 とどめを!
「――仕損じたな」
 ウォンは、がつがつと山や市民を喰らう顎に、走り寄っていく。
 リゲイル。
 彼女の姿が見えない。
「ヤバい。レヴィアタンの野郎、首だけでまだ生きてやがる! ――みんな、総攻撃だ、火力を集中してくれ!」
 映人の焦燥に駆られた叫びが、各自の無線機に飛び散った。
 黒い霧が、夕暮れを吹き飛ばしてしまった。まるで夜だ。核がもたらした永遠の夜だ。いや、違う、いや。この霧は、レヴィアタンの胴体と尾の残骸だ。奴は頭だけを残して生きようとしている!
「これ以上……、これ以上、命を消さないでくれ!」
 青褪めた顔で銀のボウガンを構える。目の前には、うごめく黒塊。だが、ボウガンの鋭い一撃を放つとき、ルカ・ヘウィトはそれに対して謝っていた。
 ごめんよ、と。
 ごおう、と風が吹いたが、闇はまるで粘液のように、空間に貼りついている。
 ごおおう、と先ほどよりも強い風が吹いた。
 ベアトリクス・ルヴェンガルドが、その風に吹き飛ばされて、地面に転がった。宙を舞っている最中、天狗の風轟が張り詰めた顔で風を起こしているのが見えた。ベアトリクスがついさっきまで立っていたところに、べちゃり、と黒い絶望の塊が落ちていた。
 助けられたのだ。
 風轟は木の梢から、風をまとって飛び立つ。
「た、た、大儀で……あった」
 なくなってしまった空を見上げ、天狗の姿を追う。小さな女帝の、唇が震えていた。
「こ、皇帝の。皇帝の誇りにかけて……この町を……守らねば……」
 がっ、とベアトリクスを抱えて走りだす男。
 シュウ・アルガ。杖を振り回し、水の龍を呼び、霧と翼を蹴散らしながら、彼は走る。
「離せ、シュウ、余は! 余は戦わねばならんのだぞ、シュウ!」
「落ち着け! 俺だって落ち着きたいし戦いたいんだ。集中砲火だ――今度こそ、集中砲火しなけりゃ!」
 シュウが向かう先では、ルアとアルが手を取り合い、火炎と雷撃を飛ばしている。小さな、不思議な色の爆発も起きている。風が、……相変わらず風が吹いていた。
 ごろごろぐるぐると、もはや魚の姿もしていない巨大なディスペアーが、焦った総攻撃を受けながら……笑っているのか、うめいているのか。
 その、蠢く暗黒の塊を真正面から睨みつけて、桜夜はぱんと扇子を広げた。
「これが、……絶望の姿か。汚らわしい。……我らは……希望じゃ。まだ、希望は、ある!」
 そして奴も生きている。その内部に、凄まじい絶望を抱えこんだまま。
 きょお、と甲高い音が生まれたかと思うと――
 桜夜が命じるまま、不可思議な色の爆発が起きる。
 きゅいーっ!
 桜夜の後ろから、イルカのような声を上げる竜が飛び出した。
 リヴァイアサンだ。レヴィアタンと同じ名を冠する竜だ。その姿も心も、眼前の絶望の怪物と似通っているところなど何ひとつなかった。いつもは可愛らしいかれの声が、悲痛な悲鳴のようであった。
 七つの首のリヴァイアサンが、七つの青白い炎を吐いた。
 きゅいいーっ!
 輝く蒼の炎とは逆の方向に、14の水滴が。
 海水と同じ味の雫が。
 ぽろぽろと吹き飛ばされていく。


 どしん、ずしん。どどどん。どおんどおんどおん。
 遠くの震動と衝撃が、まるで映画館の音響のように、暗黒の中に響いている。
 焦げ臭い。
 これは、火事のあとの建物内か。
 彼らは、ゆっくりと身体を起こす。
「なんだ……ここは……」
「病院だ。病院、だよ……」
 レヴィネヴァルドのそばに、リゲイルがいた。刀冴もいる。エルヴィーネ、フェイファー、俊介、梛織もだ。カラスは、きょろきょろと辺りを見回している。
「ラジカセ、壊れちったぃ」
 ルイスが屈みこんで、沈黙したラジカセを小突いていた。
 他にも、味方の気配はする。彼らが覚えているのは、胴体から千切れ飛んだレヴィアタンの首が、頭上に落ちてきたところまでだ。病院に――こんな、焼け焦げた病院の中に飛び込んだつもりはない。
「れびあたん、あの大魚の腹の中か」
 ざしざしと湿った重い足音は、道満のものだった。
 病院。きっと病院なのだろう。誰も、こんな病院は見たことがなかったが。
 等間隔に蛍光灯が吊るされた大部屋だった。蛍光灯の真下には、等間隔に並んだベッド。ベッドと蛍光灯は、100以上もありそうだ。ベッドのシーツは煤けて、破れている。不意に、部屋のどこかで蛍光灯が落ちて、ベッドごと砕け散る音がした。
「何をしてるんだ、俺は。皆を助けに来るつもりが……」
 カラスは静かに自嘲した。
 その、かすかな笑い声に、べつのかすかな笑い声が重なる。
 誰もがぴくりと硬直した。……一瞬だけ。
 女の子の声だった。
 暗い、黒い、壊れた異形の病室の中――女の子は、ベッドに腰かけ、リモコンを持っている。
「あ……」
 カラスは、彼女のことを考えていた。この作戦では、女の子のことなど考えている場合ではないと思っていた。しかし、考えるまいとして考えていたということは、結局、考えていたことなのだ。病室の、いちばん片隅にいる彼女。カラスは女の子に向かって走りだす。カラスに、皆が続いた。
 女の子のもとには、辿り着けない。いくら走っても走っても、彼女の姿の大きさが変わらない。
「ねえ! ねえ、きみ!」

 カラスが声をかけても、女の子は振り向かない。
 だが、彼女は、誰かの問いに答えてくれた。
「わたしね。しあわせだよ。だって、神様が夢をかなえてくれるって、約束してくれたもん。うれしい。うれしいよ」
 女の子は、そっとリモコンを目の前に向けた。
 何もないのに。
 その先に、テレビもビデオもありはしないのに。

 うふふふふふ。あははははは

 巨大な病室がたわみ、飲み込まれた者たちは一斉にバランスを崩した。カラスは女の子に向かって手を伸ばしたが、到底届かない。彼女は、ずっとずっと遠くにいる。とてもとても遠い。
 天井が黒く溶けて、どろりどろりと粘つく糸を垂らしていた。
 蛍光灯が落ち、ベッドも飴のように溶けて、ダリの名画のごとく、床の中へ引きずりこまれていく――。どろどろと滴る世界の雫は、ムービースターの身体に絡みついていった。そして、牙を立て、咬みついて、爛れと膿と血を呼び起こす。
 ルイスが舌打ちした。ロザリオを引きちぎるようにして外す。
「何が絶望だ! 何が! こんな夢も希望もない世界が、この世界にあるほうが、おかしいだろうがッ!」
 どん、
 ルイスを中心に広がった波紋が、ベッドの残骸を十字架に変えていく。
 しかし、そのとき、上を見上げた者は気づいたのだ。黒く爛れた天井で、びしびしばしびしと無数の眼がまぶたを開けたことに。
 眼は、一斉にルイスを見た。

 やあ またあったね あんた
 3yq あははは こんどこそ。
 あんた
                   喰う。

 絶望の世界が、ルイスに牙を向けた。
 どずりどづりと、黒い液体の拳が、十字架の中心のルイスを打ちすえ、
 ざくりどすりと、黒い液体の槍がルイスを貫いた。
 それでも彼の十字架は消えなかった。まったく消えなかった。眠くなるくらい真っ黒い世界の中で、すべての十字架は光り輝く。
 千切れて落ちるルイスの手が、親指を下に向けた。
 いや、ひょっとすると、それは、親指を立てた手が、ただ地面に落ちていっただけとも言えるかもしれないが。


 爆発。


 アルが、ルアから手を離した。
 桜夜と風轟は扇子を下ろし、シュウとベアトリクスは杖を下げ、麗火は手を下ろす。ジャスパーは何も言わなかった。キュキュはおろおろと、周囲を見回す。
 ウォンが倒れた。
『飲み込まれた方々が戻ってきたようです! 無事……とは言えませんが……生還です! 80メートル前方に固まっているはずです。すぐに救援を要請しなければ』
 ルーファスの声によって我に返った地上の者たちは、爆発の中心へと駆けていった。

 |: Seid umschlungen, Millionen
 Diesen Kuss der ganzen Welt! :|
 |: Bruder! Uber’m Sternenzelt
 Muss ein lieber Vater wohnen :|
 Ihr sturzt nieder, Millionen?
 Ahnest du den Schopfer, Welt?
 Such’ ihn uber’m Sternenzelt!
 |: Uber Sternen muss er wohnen. :|

「ルイス兄! ルイス兄ぃぃぃいいいいいいい!!」
 凄まじい悲鳴が上がった。ルカのものだった。その、涙の混じった叫び声は、聞いただけで人々の背筋と物思いを凍りつかせる。何があった。ルイス・キリングに何かあったのか。
 ……見上げると、空がある。
 確かに、絶望の黒は消えていた。消えているのだ。もう、跡形もない。誰かがきっと言うだろう。「終わりよければすべてよし」と。だが、それに誰かが反論するに違いない。怪我人が出てしまった。勇気ある者が理不尽に傷つけられた。
 理不尽?
 首だけが落ちたことは理不尽か? 
「あとになって考えても、仕方ないさ」
 バロアが唇をかんだ。



 それでも、銀幕市には、いつもの夜空がある。
 見ろ。
 月と、散らばる羽毛を。


(担当ライター/諸口正巳)






<作戦結果>

達成点:60点(+第3部隊のボーナス10点)
ムービーボムの全設置個所が作戦段階で確認し切れていないなど、作戦の趣旨に対して基幹的な不足がありました。役割の兼任などの無理、隊員間の行動の齟齬なども見られます。ここへ至るまでの善戦で稼いだサポートを受けての辛勝であったと言えるでしょう。(司令本部)






<登場人物>

ルイス・キリング  藍玉  古森凛  白姫  刀冴  リゲイル・ジブリール  エルヴィーネ・ブルグスミューラー  梛織  キュキュ  フェイファー  ルーファス・シュミット  ヒュプラディウス・レヴィネヴァルド  ルア  アル  ユージン・ウォン  ジャスパー・ブルームフィールド  津田俊介  蘆屋道満  バロア・リィム  麗火  取島カラス  ルカ・ヘウィト  ベアトリクス・ルヴェンガルド  風轟  シュウ・アルガ  桜夜  リヴァイアサン  (登場順)
※この部隊への参加者は45PCでした。





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